Wikisource jawikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 MediaWiki 1.45.0-wmf.4 first-letter メディア 特別 トーク 利用者 利用者・トーク Wikisource Wikisource・トーク ファイル ファイル・トーク MediaWiki MediaWiki・トーク テンプレート テンプレート・トーク ヘルプ ヘルプ・トーク カテゴリ カテゴリ・トーク 作者 作者・トーク Page Page talk Index Index talk TimedText TimedText talk モジュール モジュール・トーク エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教19 0 51259 229925 229672 2025-06-06T23:46:20Z 村田ラジオ 14210 校正 229925 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = エジプトのマカリオス50の霊的説教 | section = 説教19 | year = 1921 | 年 = | previous = [[../説教18|説教18]] | next = [[../説教20|説教20]] | override_author = [[s:en:Author:St. Macarius the Egyptian|擬マカリオス]] | override_translator = [[s:en:Author:Arthur James Mason|アーサー・ジェイムズ・メイソン]] | noauthor = | notes = *底本: A. J. Mason, [[s:en:Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 19|Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 19]] *ウィキソースによる日本語訳 }} エジプトのマカリオス50の霊的説教 ———————————— ==説教19== << 進歩し成長したいと願うキリスト教徒は、内在する罪から解放され、聖霊に満たされるために、あらゆる善いことに自らを駆り立てるべきである。>> 1. 主のもとに来て、永遠の命にふさわしい者と認められ、<u>キリスト</u>の住まいとなり、聖霊に満たされて、聖霊の実を結び、<u>キリスト</u>の戒めを純粋に、欠点なく実行できるようになることを望む人は、まず主を揺るぎなく信じ、主の戒めの言葉に全身全霊を捧げ、世俗のことばかりに心を奪われないように、世俗のことは一切忘れ去ることから始めなければなりません。そして、絶えず祈り続け、主の訪れと助けを期待に満ちた信仰をもって待ち続け、常にこれに心を定めなければなりません。そして、自分の中にある罪ゆえに、あらゆる善行と主のすべての戒めに励むように努めなければなりません。例えば、すべての人の前で謙虚な心を持つように自分を強制し、自分を彼らより劣っていて劣っていると考えるようにし、福音書に書いてあるように、誰からも名誉や賞賛や人からの栄誉を求めず、常に主とその戒めだけを目の前に置き、主が「わたしは心が柔和でへりくだった者であるから、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたたちの魂に安らぎが与えられるであろう」と言われるように、柔和な心でのみ主を喜ばせたいと願うようにしなければなりません。 2. 同様に、主が「あなたがたの天の父が憐れみ深いように、あなたがたも善良で親切であれ」と言われているように、彼は自分の力の限りを尽くして、慈悲深く、親切で、思いやり深く、善良であるよう習慣づけなさい。また、「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしの戒めを守りなさい」とも言われています。さらに、「暴力的になれ。暴力的な者は天の王国を力ずくで奪い取るからである」とも言われています。そして、「狭い門から入ろうと努めよ」とも言われています。何よりも、主の謙遜と行い、そして主の柔和さと振る舞いを、自分の模範として、決して忘れることなく心に留めなさい。主が来て彼の内に住まわれ、主の戒めのすべてを彼自身で完成させ、強めてくださるように、また主御自身が彼の魂の住まいとなってくださるようにと、常に懇願し、信じて祈り続けなさい。そうすれば、いつの日か、今は気の進まない気持ちで無理やりやっていることを、喜んで行えるようになり、常に善に親しみ、主を心に留め、聖霊によって主を待ち望むようになるでしょう。すると、主は、そのような決意と彼の熱心な働きを見て、彼がいかにして主を思い起こそうと自分を駆り立て、彼の心が望むと望まざるとにかかわらず、常に善に、謙遜と柔和と愛に向かわせようとしているかを見て、力の限り彼を導き、彼に憐れみをかけ、彼を敵と内在する罪から救い、聖霊で満たしてくださるのです。そしてその後、彼は力も労力もなしに主のすべての戒めを真実に守り、あるいはむしろ主が彼の中にいるご自身の戒めを守り、そして彼は純粋に聖霊の果実を生み出します。 3. しかしその前に、主のもとに行く人は、たとえ自分の心の傾向に反しても、善行を強い、疑う余地なく常に主の憐れみを期待し、慈愛がないときには慈愛を強い、柔和でないときには柔和を強い、同情し、慈悲深い心を持つように自分を強制し、見下されることを強い、見下されても辛抱強く耐え、軽んじられたり恥をかかされたりしても、「愛する者よ、復讐してはならない」と言われているように怒らないように、霊的な祈りがないときには祈りを強いるよう自分を強制しなければなりません。こうして神は、その人が不本意な心にもかかわらず、このように努力し、無理やり自分を駆り立てているのを見て、聖霊の真の祈りを与え、真の慈愛、柔和、憐れみの心、真の親切を与え、要するに、その人を聖霊の果実で満たすのです。 4. しかし、もし人が祈りの恵みを得ようとして、祈りの心がないのに、ただ祈りだけを強いるならば、柔和さや謙遜さや愛や主のその他の戒めを自ら強制しようとせず、目的と自由意志の及ぶ限り、これらを達成するために骨折りも苦労も努力もしないなら、彼の求めるところに応じて、聖霊からの慰めと喜びとともに、祈りの恵みが部分的に与えられることはあるが、性格は以前と同じである。彼には柔和さがない。なぜなら、彼は苦労してそれを求めなかったし、そうなるために前もって自分を準備しなかったからである。彼には謙遜がない。なぜなら、彼はそれを求めず、自分を無理強いもしなかったからである。彼にはすべての人に対する愛がない。なぜなら、彼は祈りを求める際に、それについて何の関心も努力も持たなかったからである。そして、自分の仕事を成し遂げるにあたって、神に対する信仰と信頼が欠けている。なぜなら、彼は自分自身を知らず、自分に信仰と信頼がないことを発見せず、また、どんな犠牲を払ってでも、主に対する確固とした信仰と真の信頼を得るために主から努力しようとしなかったからである。 5. 誰もが、心の抵抗にもかかわらず、祈りに自分を駆り立て、強いるように、信仰にも、謙遜にも、慈愛にも、柔和にも、誠実にも、単純にも、あらゆる忍耐と寛容にも(聖書に書かれているとおり)喜んで自分を駆り立てるべきです。また、自分を軽んじ、自分を貧しく、末の者とみなし、無益な会話に加わらず、常に口と心で神のことを瞑想し、語るべきです。また、次のように言われているように、怒ったり騒いだりしてはなりません。「すべての苦々しさ、憤り、騒ぎを、すべての悪意と共に捨て去りなさい。主のすべての道、すべての徳の実行と、すべての善良で気高い生活、すべての善行、すべての謙遜な柔和さから離れなさい。高慢になったり、高ぶったり、思い上がったり、だれに対しても反対のことを言ったりしてはいけません。」 6. <u>キリスト</u>に認められ、<u>キリスト</u>を喜ばせたいと願う人は、これらすべてのことに自らを駆り立てなければなりません。そうすれば、主は、彼があらゆる善良さと単純さ、親切と謙遜さ、愛と祈りに自らを駆り立て、それらに自らを駆り立てる真剣さと決意をご覧になり、ご自身のすべてを彼に与えてくださるでしょう。主ご自身が、まことに、これらすべてのことを彼の中で、労苦も強制もなしに、純粋に行われるのです。以前は、彼が持っていた罪のために、無理強いすることさえできなかったのです。そして、すべての徳行は、まるで自然の摂理のように彼に備わるのです。なぜなら、その時から、主が彼の内に来られ、住まわれ、そして主も彼の内におられ、ご自身が彼の中で、ご自身の戒めを苦労なく実行し、彼を御霊の実で満たされるからです。しかし、もし人が神から祈りの賜物を受けるまで、祈りだけを自ら駆り立て、他の事柄についても同様に自らを駆り立て、強制し、慣れさせないなら、彼はまことに、それらを純粋に、欠点なく行うことはできないのです。このように、人は自分の力の及ぶ限り、善なるもののために備えをすべきである。なぜなら、時には、求め、祈っているときに神の恵みが与えられるからである。神は慈しみ深く、慈愛に満ち、求める者にはその求めに応じたものを与えてくださるからである。しかし、もし人が、私たちが語ったものを持たず、また、それらに前もって慣れ親しんでいなかったり、適応していなかったりするなら、たとえ恵みを受けても、それを失い、慢心によって倒れてしまうか、あるいは少なくとも、与えられた恵みにおいて何の進歩も増し加わることもないでしょう。なぜなら、彼は意志をもって主の戒めに身を委ねないからです。聖霊の住まいであり安息所であるのは、謙遜、愛、柔和、そして主の他の戒めだからです。 7. 神を真に喜ばせたいと願い、神から御霊の天の恵みを受け、聖霊において成長し完成されたいと願う者は、それゆえ、神のすべての戒めを自らに課し、たとえどれほど気が進まなくても、「それゆえ、私はあなたのすべての戒めを堅く守り、すべての偽りの道を徹底的に忌み嫌う」という言葉のとおりに、自分の心を従わせるべきです。人が祈りにおいて成功するまで自らに課し、自らに課し、自らに課し、自らに課し、あらゆる徳行を遂行し、良い習慣を身につけるように、同様に、もし望むなら、常に主に求め、祈り、その願いをかなえ、神の味を味わい、聖霊にあずかる者となることによって、彼は謙遜、愛、柔和のうちに、自分に授けられた賜物を成長させ、繁栄させるのです。 8. 聖霊ご自身がこれらのものを彼に授け、真の祈り、真の愛、真の柔和さを教えられます。彼はかつてこれらに励み、求め、心に留め、思い巡らし、そしてそれらは彼に与えられました。こうして成長し、神において完成された彼は、神の国の相続人となることを許されます。謙虚な者は決して倒れません。すべての人よりも低い者である彼が、一体どこから倒れることができましょうか。高慢な心は大きな屈辱です。謙虚な心は大きな高揚と名誉と尊厳です。それゆえ、たとえ心が嫌がっても、謙遜と柔和と愛とを強いて、信仰と希望と愛とをもって神に祈り願い続け、神が御霊を私たちの心に送ってくださり、私たちが霊とまこととをもって神に祈り礼拝することができるようにと、そのような期待と目標をもって絶えず祈り求めましょう。 9. 御霊御自身が私たちの中で祈ってくださり、御霊御自身が私たちに真の祈りを教えてくださいますように。私たちは無理強いしていますが、今は持っていない真の謙遜を。御霊御自身が、苦痛や強制なしに、慈悲の心と主のすべての戒めを真実に実践するように教えてくださいますように。御霊御自身がその方法をご存知であり、私たちを御霊の果実で満たしてくださいますように。こうして主の戒めは、主の御心を知る唯一の御霊を通して私たちによって成就され、御霊は私たちを御自身において完全にし、御霊もまた私たちにおいて完全になさり、私たちがあらゆる汚れと罪の汚れから清められると、私たちの魂は清く非の打ちどころのない美しい花嫁のように<u>キリスト</u>に差し出され、私たちは神の王国で神に安らぎ、神も永遠に私たちのうちに安らぎます。神が人類にこのような名誉と栄光を与え、彼らを天の父の子とし、ご自分の兄弟と呼んだことに、神の慈悲と憐れみと愛に栄光がありますように。神に永遠に栄光がありますように。アーメン。 :::[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教19#説教19|トップに戻る]] {{DEFAULTSORT:えしふとのまかりおす50のれいてきせつきよう 19}} [[Category:1921年]] [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:エジプトのマカリオス50の霊的説教|19]] {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A.J. Mason, "Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 19" を翻訳。 --> 5qcqhsezc8g2mou91ml1nnoijg7fgbl エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教35 0 51316 229923 2025-06-06T15:11:01Z 村田ラジオ 14210 A.J. Mason, "Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 35" を翻訳。 229923 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = エジプトのマカリオス50の霊的説教 | section = 説教35 | year = 1921 | 年 = | previous = [[../説教34|説教34]] | next = [[../説教36|説教36]] | override_author = [[s:en:Author:St. Macarius the Egyptian|擬マカリオス]] | override_translator = [[s:en:Author:Arthur James Mason|アーサー・ジェイムズ・メイソン]] | noauthor = | notes = *底本: A. J. Mason, [[s:en:Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 35|Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 35]] *ウィキソースによる日本語訳 }} エジプトのマカリオス50の霊的説教 ———————————— ==説教35== << 古い安息日と新しい安息日について。>> 1. <u>モーセ</u>によって与えられた律法の影において、神はすべての人に安息日に休み、何もしないように命じました。これは、主が魂に与えられた真の安息日の型であり影でした。卑劣で汚れた思いから解放された魂は、真の安息日を守り、真の休息を享受し、闇の業に関しては怠惰でゆったりとした時間を過ごします。典型的な安息日においては、肉体的には休息していたものの、魂は邪悪と罪に縛られていました。これこそ真の安息日であり、魂は怠惰で、<u>サタン</u>の誘惑から清められ、主の永​​遠の休息と喜びの中で休息します。 2. 当時、主は、分別のない動物でさえ安息日に休むように、牛に無理やり{{r|軛|くびき}}を{{r|負|お}}わせてはならず、ロバに荷を負わせてもいけないと命じられました。動物もまた重労働を休むべきだったからです。同じように、主が来て真の永遠の安息日を与えたとき、汚れた想像の不義の重荷を負い、厳しい主人に束縛されて不義の業にやむを得ず働いている魂に休息を与えました。そして、むなしく汚れた想像という、耐え難い重荷を軽くし、不義の業という軛、苦い軛を取り去り、汚れた想像に疲れた魂を元気づけてくださった。 3. 主は人々に休息を招き、「労苦し、重荷を負う者よ、来なさい。あなたがたを休ませよう」と言われます。従順で主に近づくすべての魂は、重苦しく、煩わしく、汚れた思いから休まされます。彼らはすべての罪悪から怠惰になり、真実で、至福の、聖なる安息日を守り、聖霊の祭り、言い尽くせない喜びと楽しみの祭りを祝います。そして、清い心から、神に喜ばれる清い奉仕をします。これこそ真実で聖なる安息日です。ですから、私たちもこの休息に入り、卑しい、邪悪な、むなしい思いから怠惰になり、清い心から神に仕え、聖霊の祭りを祝うことができるように、神に祈り求めましょう。この休息に入る者は幸いです。御心のままに生きる父と子と聖霊に、永遠に栄光がありますように。アーメン。 :::[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教35#説教35|トップに戻る]] {{DEFAULTSORT:えしふとのまかりおす50のれいてきせつきよう 35}} [[Category:1921年]] [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:エジプトのマカリオス50の霊的説教|35]] {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A.J. Mason, "Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 35" を翻訳。 --> g3dz28ic7rsmkfuidmzqp36jka563b5 エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教36 0 51317 229924 2025-06-06T23:17:33Z 村田ラジオ 14210 A.J. Mason, "Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 36" を翻訳。 229924 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = エジプトのマカリオス50の霊的説教 | section = 説教36 | year = 1921 | 年 = | previous = [[../説教35|説教35]] | next = [[../説教37|説教37]] | override_author = [[s:en:Author:St. Macarius the Egyptian|擬マカリオス]] | override_translator = [[s:en:Author:Arthur James Mason|アーサー・ジェイムズ・メイソン]] | noauthor = | notes = *底本: A. J. Mason, [[s:en:Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 36|Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 36]] *ウィキソースによる日本語訳 }} エジプトのマカリオス50の霊的説教 ———————————— ==説教36== << 魂と肉体の二重の復活と復活した者の様々な栄光について。>> 1. 死者の魂の復活は今です。肉体の復活はその日に起こります。しかし、星々は天に定まっていても、すべてが同じではなく、輝きや大きさにおいてそれぞれ異なっているように、霊的な事柄においても、聖霊ご自身への信仰の度合いに応じて、それぞれが他の者よりも豊かになっています。聖書はこう言っています。「異言を語る者は、神の霊によって語る。彼は霊の人であって、神に向かって語る。」しかし、預言する者は教会の徳を高めます。後者は恵みにおいてさらに豊かでした。一方は自分自身の徳を高め、他方は隣人をも徳を高めます。 これは地に蒔かれた一粒の麦のようです。同じ心から出た同じ麦から、互いに異なる多くの麦が生まれます。また、穂も、大きいものもあれば小さいものもありますが、みな一つの打ち場、一つの納屋に集められます。それぞれ異なっていても、一つのパンが作られます。 2. あるいは、町の中に多くの人々がいて、中には{{r|幼子|おさなご}}もいれば、大人も若者もいるが、みな一つの井戸の水を飲み、みな一つのパンを食べ、一つの空気を吸う。ランプも、一つは二芯、一つは七芯だが、光が多ければ多いほど、明るさも増す。それと同じように、火と光の中にいる者は、暗闇の中にいることはできません。しかし、そこには大きな違いがあります。ある父親に二人の息子がいて、一人は子供で、もう一人は若者である場合、父親は一人を外国の町や国々へ遣わしますが、幼い方を常に監視します。なぜなら、彼は何もできないからです。神に栄光あれ。アーメン。 :::[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教36#説教36|トップに戻る]] {{DEFAULTSORT:えしふとのまかりおす50のれいてきせつきよう 36}} [[Category:1921年]] [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:エジプトのマカリオス50の霊的説教|36]] {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A.J. Mason, "Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 36" を翻訳。 --> 5az6s5cy7mefw7vx9tqair68qow8pct