Wikisource jawikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 MediaWiki 1.45.0-wmf.6 first-letter メディア 特別 トーク 利用者 利用者・トーク Wikisource Wikisource・トーク ファイル ファイル・トーク MediaWiki MediaWiki・トーク テンプレート テンプレート・トーク ヘルプ ヘルプ・トーク カテゴリ カテゴリ・トーク 作者 作者・トーク Page Page talk Index Index talk TimedText TimedText talk モジュール モジュール・トーク 聖書 0 6965 230176 230128 2025-06-18T14:06:34Z Kzhr 17 [[Special:Contributions/Eii1681|Eii1681]] ([[User talk:Eii1681|トーク]]) による編集を [[User:240B:11:1E1:7100:8068:38FB:21E3:DA00|240B:11:1E1:7100:8068:38FB:21E3:DA00]] による直前の版へ差し戻しました 229427 wikitext text/x-wiki <[[Wikisource:宗教]] {{translations | wikipedia = 聖書 | notes = [[ファイル:Bible.malmesbury.arp.jpg|right|thumb|ラテン語聖書]] '''聖書'''(せいしょ、[[w:en:Bible|Bible]])。 <!-->Bible portal in Japanese<--> 本ページは、Wikisourceに収録された[[w:パブリックドメイン|パブリックドメイン]]にある'''旧約聖書'''と'''新約聖書'''のポータルです。日本正教会訳の「聖詠経」、日本聖書協会訳の「文語訳聖書」と「口語訳聖書」、日本正教会訳の「我主イイススハリストスの新約」、公教会ラゲ訳の「我主イエズスキリストの新約聖書」、「電網聖書」など、それぞれの日本語訳聖書は、初出が古いものから新しい順に並んでいます。また、画面左側の「他の言語」メニューからは、英語やラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、ドイツ語、フランス語、中国語などで書かれた世界各国のウィキソース聖書ポータルへ行くことができます。 }} __NOTOC__ == 旧約聖書 == ([[w:旧約聖書|旧約聖書]]:[[w:en:Old Testament|Old Testament]]) * [[聖詠経]] ([[w:日本ハリストス正教会|日本正教会]]翻訳、1901年) * [[明治元訳旧約聖書]] ([[w:明治元訳聖書|明治元訳聖書]]、[[w:日本聖書協会|日本聖書協会]]翻訳、1887年初版、底本:1953年) : [[明治元訳旧約聖書 (ルビ付)]] : [[明治元訳文語訳旧約聖書(ルビ付)]] * [[光明社訳旧約聖書]]({{color|red|削除提案中}}) * [[口語旧約聖書|口語訳旧約聖書]] ([[w:日本聖書協会|日本聖書協会]]翻訳、1955年)({{color|red|削除提案中}}) * [[旧約聖書  (フランシスコ会訳)|フランシスコ会訳旧約聖書]] ([[w:フランシスコ会聖書研究所|フランシスコ会聖書研究所]]翻訳、1958年~)({{color|red|削除提案中}}) == 旧約聖書続編(第二正典/外典) == ([[w:旧約聖書続編|旧約聖書続編]], [[w:第二正典|第二正典]]:[[w:en:Deuterocanonical books|Deuterocanonical books]], [[w:外典|外典]]:[[w:en:Biblical apocrypha|Biblical apocrypha]]) * [[旧約聖書続篇]] ([[w:日本聖公会|日本聖公会]]翻訳、1934年) == 新約聖書 == ([[w:新約聖書|新約聖書]]:[[w:en:New Testament|New Testament]]) * [[新約聖書(ヘボン訳)|ヘボン訳新約聖書]] ([[作者:ジェームス・カーティス・ヘボン|ヘボン]]、[[作者:サミュエル・ロビンス・ブラウン|ブラウン]]による翻訳、1872-3年) * [[明治元訳新約聖書]] ([[w:明治元訳聖書|明治元訳聖書]]、[[w:明治元訳聖書|飜訳委員社中]]翻訳、1880年初版、底本:1904年、1915年) * [[我主イイススハリストスの新約]] ([[w:日本ハリストス正教会|日本正教会]]翻訳、1902年) * [[我主イエズスキリストの新約聖書]] ([[w:カトリック|カトリック]]教会[[作者:エミール・ラゲ|ラゲ]]訳、1910年) * [[大正改訳新約聖書]] ([[w:大正改訳聖書|大正改訳聖書]]、[[w:日本聖書協会|日本聖書協会]]翻訳、1917年初版、底本:1950年) : [[大正改訳新約聖書 (ルビ付)]] * [[新契約聖書|新契約聖書]] ([[作者:永井直治|永井直治]]翻訳、1928年) * [[口語新約聖書|口語訳新約聖書]] ([[w:日本聖書協会|日本聖書協会]]翻訳、1954年)({{color|red|削除提案中}}) * [[電網聖書]] ([[w:電網聖書|電網聖書]]翻訳、2001年~) == 対訳聖書 == 英日対訳聖書。 *[http://en.wikisource.org/wiki/Bible_(World_English)?match=ja 対訳World English Bible(WEB)] == 聖書地図 == *[[聖書地図 (JBS1956)|聖書地図]] ([[:w:日本聖書協会|日本聖書協会]]、1956年)({{color|red|削除提案中}}) == 外部リンク == *[http://ja.wikisource.7val.com/wiki/%E8%81%96%E6%9B%B8 モバイル-ウィキソース(外部リンク:聖書 - Wikisource - Wikipedia Mobile)]<ref>携帯電話のiモードからモバイル版ウィキソース(<nowiki>http://ja.wikisource.7val.com/wiki/</nowiki>)の聖書へアクセスすると、Wikisource版聖書を読むことができる。</ref> == 脚注 == <references/> ---- *{{ルビ使用}} {{DEFAULTSORT:せいしよ}} [[Category:キリスト教|*]] azbnlhbugnutow3irc4wrp77r6zbhfj 利用者:村田ラジオ 2 28294 230204 229714 2025-06-18T23:42:17Z 村田ラジオ 14210 /* 8. ヨハネ・ダマスコ */ 230204 wikitext text/x-wiki {{resize|120%|この利用者が投稿したもの}}(入力中を含む) ===1. 聖イサク=== [[Wikisource:宗教]]< * [[シリヤの聖イサアク全書]] * [[ニネベのイサアク神秘論文集]](A. J. ヴェンシンク) {| |valign=top| :* [[神秘論文1]] :* [[神秘論文2]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第3論文|第3論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第7論文|第7論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第8論文|第8論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第9論文|第9論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第10論文|第10論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第11論文|第11論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第12論文|第12論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第13論文|第13論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第14論文|第14論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第15論文|第15論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第16論文|第16論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第17論文|第17論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第30論文|第30論文]] 罪の力と邪悪な働き :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第31論文|第31論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第32論文|第32論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第33論文|第33論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第34論文|第34論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第35論文|第35論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第36論文a|第36論文a]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第37論文|第37論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第38論文|第38論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第39論文|第39論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第40論文|第40論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第43論文|第43論文]] 霊的な知恵に満ちた有益な言葉 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第44論文|第44論文]] 知識の程度と信仰の程度について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第45論文|第45論文]] 有益な助言 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第46論文|第46論文]] その他の考慮事項 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第47論文|第47論文]] 霊的な事柄における魂の教育という神の摂理に :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第48論文|第48論文]] 魂が常にさらされる光と闇の様々な状態 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第50論文|第50論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第51論文|第51論文]] 知識の3つの段階とその奉仕と衝動との区別、魂の信仰とその中に隠された神秘の宝について ::(a) 知識の第一段階 ::(b) 知識の第二段階 ::(c) 知識の第三段階。つまり完全な段階 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第53論文|第53論文]] 祈りと、絶えず思い出すことが必然的に求められ、人が区別して唱え、保持することが非常に有益であるその他の事柄について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第54論文|第54論文]] マゲナヌータに関するその他の説明 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第55論文|第55論文]] 魂の中に隠された警戒心を :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第56論文|第56論文]] 人の生命に関する美しい考察 |valign=top| :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第57論文|第57論文]] 神の愛のための忍耐がどのようにして神の助けを得るのか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第58論文|第58論文]] 神の近くに住み、認識の生活の中で日々を過ごす人々について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第59論文|第59論文]] 有益な談話 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第60論文|第60論文]] 必然性がなければ、何らかのしるしを望んだり求めたりしてはならないこと :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第61論文|第61論文]] 神は何のために神を愛する人たちへの誘惑を許すのか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第62論文|第62論文]] 人の中に湧き起こる思考によって、自分がどの段階に属し、どのような思考が続くかを知ることができるということ :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第63論文|第63論文]] 認識の心理状態にある人々は、なぜ肉体の粗雑さに応じて霊的なことを考えるのか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第64論文|第64論文]] 心中に起こる、祈りによって浄化されるさまざまな状態について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第65論文|第65論文]] 心の警戒に関する指示 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第66論文|第66論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第67論文|第67論文]] 理解可能なものの区別に関して例をあげ、それぞれの使い方を示しての説明 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第68論文|第68論文]] 短いセクション :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第69論文|第69論文]] 思慮ある者はどのように黙想を務めるべきか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第70論文|第70論文]] 初期知識の微妙な順序 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第71論文|第71論文]] 恩寵から生じる影響について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第72論文|第72論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第73論文|第73論文]] これまでに述べられた内容の説明 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第74論文|第74論文]] 聖人の中に神に似たものを創造している霊的目的について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第75論文|第75論文]] 隠された状態と、そこに存在する力と影響力 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第76論文|第76論文]] 短い言葉 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第77論文|第77論文]] この章は生命力に満ちている :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第78論文|第78論文]] 世界からの逃避によって得られる :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第79論文|第79論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第80論文|第80論文]] 徹夜祷とその間の様々な種類の労働について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第81論文|第81論文]] なぜ独居修行者たちはそれ以上に孤独を重んじるのか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第82論文|第82論文]] 謙虚さはどれほどの名誉を持ち、その地位は |} ===2. マカリオス=== * [[エジプトのマカリオス50の霊的説教]] (擬マカリオス) :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教1|説教1]] 預言者エゼキエルに記された幻の寓話的解釈。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教2|説教2]] 暗黒の王国、すなわち罪の王国について、そして神だけが私たちから罪を取り除き、邪悪な君主の束縛から私たちを救い出すことができるということについて。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教3|説教3]] 兄弟たちは互いに誠実、単純、愛、平和のうちに生きるべきであり、心の中では競争と戦いを続けるべきである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教4|説教4]] キリスト教徒は、神と天使たちから天の賞賛を得るために、この世での競争を注意深く慎重に成し遂げるべきである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教5|説教5]] キリスト教徒とこの世の人々の間には大きな違いがある。この世の精神を持つ人々は心と精神において地上の束縛に縛られているが、他の人々は天の父の愛を切望し、ただ目の前に父を待ち望んでいる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教6|説教6]] 神を喜ばせたいと願う者は、平穏と静寂、優しさと知恵をもって祈りを捧げるべきであり、大声で叫んで他人に迷惑をかけるべきではない。説教には、王座と冠が実際に創造されたものであるかどうか、そしてイスラエルの12の王座についてという2つの質問も含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教7|説教7]] キリストの人間に対する慈愛について。説教にはいくつかの質問と答えも含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教8|説教8]] 祈りの中でキリスト教徒に起こること、そして完全さの尺度について、キリスト教徒が完全な尺度に達することは可能かどうか。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教9|説教9]] 神の約束と預言は、さまざまな試練と誘惑を通して成就し、神のみに従う者は悪魔の誘惑から救われる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教10|説教10]] 謙虚な心と真摯さによって神の恵みの賜物は保存されるが、傲慢さと怠惰によってそれらは破壊される。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教11|説教11]] 聖霊の力は人の心の中で火のようであること、心に湧き上がる考えを見分けるために何が必要か、そしてモーセが柱のてっぺんに立てた死んだ蛇がキリストの象徴であることなど。説教には二つの対話があり、一つはキリストと悪魔、サタンとの対話、もう一つは罪人と同じ罪人との対話である。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教12|説教12]] アダムが神の戒めを破る前、そして自分の姿と天の姿の両方を失った後のアダ​​ムの状態について。説教には、非常に有益な質問がいくつか含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教13|説教13]] 神がキリスト信徒に期待する成果。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教14|説教14]] 神に思いと心を捧げる人々は、心の目が開かれ、神が彼らに最も神聖で純粋な神秘を与え、神が恵みを授けてくれることを望みながらそうするのである。天国の善いものを手に入れたいと願う私たちがすべきこと。そして使徒と預言者は窓から差し込む太陽の光にたとえられる。説教ではまた、サタンの「地」と天使の「地」とは何か、そしてどちらも無形で目に見えないものであることを教えている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教15|説教15]] この説教は、世界の救い主であるキリスト・イエスの配偶者に対して、魂がいかに聖潔と貞潔と純潔をもってふるまうべきかを広く教えている。また、復活のときにすべての部分がよみがえるかどうか、悪、恩寵、自由意志、人間の尊厳など、多くの重要な教えに満ちた議論も含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教16|説教16]] 霊的な人は最初の罪から生じる誘惑や逆境にさらされる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教17|説教17]] キリスト教徒の霊的塗油とその栄光について、そしてキリストなしには救われることも永遠の命にあずかることも不可能であることについて。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教18|説教18]] キリスト教徒の宝であるキリストと聖霊について、キリストと聖霊はそれを様々な方法で実践して完成に至る。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教19|説教19]] 進歩し成長したいと願うキリスト教徒は、内在する罪から解放され、聖霊に満たされるために、あらゆる善いことに自らを駆り立てるべきである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教20|説教20]] 内なる人の真の医者であるキリストだけが、魂を癒し、恵みの衣でそれを飾ることができるのである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教21|説教21]] キリスト教徒には、内なる戦いと外なる戦いという二つの戦いが待ち受けている。後者は、地上の煩いから身を引くためのものであり、前者は、心の中で、邪悪な霊の誘惑に対抗するためのものである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教22|説教22]] この世を去る人々の二通りの状態について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教23|説教23]] 王家の血統から生まれた者だけが高価な王家の真珠を身につけることができるように、神の子だけが天国の真珠を身につけることが許されている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教24|説教24]] キリスト教徒の状態は、商品やパン種のようなものである。商人が地上の利益を蓄えるように、キリスト教徒は世界中に散らばった思いを集める。パン種が塊全体をパン種に変えるように、罪のパン種はアダムの種族全体に浸透する。しかしキリストは、忠実な魂には天の善のパン種を入れる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教25|説教25]] この説教は、キリストによって強められなければ、誰も悪魔の妨害を克服することはできないこと、そして神の栄光を望む者がしなければならないことを教えている。また、アダムの不従順によって私たちは肉欲の束縛に陥ったが、十字架の神秘によってそこから解放されたことも教えている。さらに、涙と神の火の力は偉大であることを教えてくれる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教26|説教26]] 不滅の魂の価値と大切さ、力と効力、そしてそれがいかにしてサタンに誘惑され、誘惑から解放されるかについて。また、非常に素晴らしい教えに満ちたいくつかの質問も含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教27|説教27]] この説教は、前述の説教と同様に、キリスト教徒の尊厳と地位について長々と説明している。そして、神の知恵に満ちたいくつかの質問を織り交ぜながら、自由意志に関する多くの有益なことを教えている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教28|説教28]] この説教は、罪のせいで主が魂の中に住まわれないという魂の災難を描写し嘆き、また、洗礼者ヨハネに関して、女から生まれた者の中で彼より偉大な者はいないと述べている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教29|説教29]] 神は人類に恵みの分配を二通りの方法で行い、公正な裁きによってその成果を要求することを意図している。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教30|説教30]] 人の魂が神の王国に入るには聖霊によって生まれなければならない。そして、それがどのように実現されるかについて。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教31|説教31]] 信者は心を変え、すべての思いを神に集めるべきである。なぜなら、神への奉仕はすべてこれにかかっているからである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教32|説教32]] キリスト教徒の栄光は今も彼らの魂の中に留まり、復活の時に現れ、彼らの敬虔さに応じて彼らの体を栄光に輝かせるであろう。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教33|説教33]] 私たちは神に絶えず注意深く祈るべきである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教34|説教34]] キリスト教徒の栄光については、復活の時に彼らの体に与えられ、彼らは魂と共に啓蒙されるであろう。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教35|説教35]] 古い安息日と新しい安息日について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教36|説教36]] 魂と肉体の二重の復活と復活した者の様々な栄光について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教37|説教37]] 楽園と霊的法則について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教38|説教38]] 真のキリスト教徒を見分けるには、またそれが誰であるかを見分けるには、非常に正確な判断力と知性が求められる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教39|説教39]] 聖書が神から私たちに与えられた理由。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教40|説教40]] すべての美徳とすべての悪徳は互いに結びついており、鎖のように互いにつながっている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教41|説教41]] 魂の秘密の部屋は非常に深く、それは恩恵や邪悪さの成長に比例して成長する。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教42|説教42]] 外的なものではなく、内的なものが人間を前進させたり傷つけたりする。つまり、恵みの霊か邪悪の霊かである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教43|説教43]] キリスト教徒の進歩については、その力の全てが心次第であり、ここでは様々な方法で説明されている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教44|説教44]] 魂の苦しみと病を{{r|癒|いや}}したキリストによって、キリスト教徒の内にどのような変化と再生がもたらされるであろうか。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教45|説教45]] この世のいかなる芸術も富でもなく、ただキリストの出現だけが人間を癒すことができる。この説教は人間と神との偉大な親族関係を説いている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教46|説教46]] 神の言葉とこの世の言葉、そして神の子らとこの世の子らの違いについて。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教47|説教47]] 律法のもとで行われた事柄の寓話的解釈。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教48|説教48]] 神への完全な信仰について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教49|説教49]] この世の快楽を捨て去ったとしても、あの世の祝福を得なければ十分ではない。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教50|説教50]] 神は聖徒たちを通して奇跡を起こす。 ===3. クリソストモス=== [[Wikisource:宗教]]< * [[マタイ福音書に関する説教]] 目録(クリソストムス) {| |valign=top| :* [[マタイ福音書に関する説教/説教13|説教13]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教14|説教14]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教15|説教15]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教15-2|説教15-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教16|説教16]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教16-2|説教16-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教17|説教17]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教17-2|説教17-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教18|説教18]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教18-2|説教18-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教19|説教19]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教19-2|説教19-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教20|説教20]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教21|説教21]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教22|説教22]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教22-2|説教22-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教23|説教23]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教23-2|説教23-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教24|説教24]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教25|説教25]] |valign=top| :* [[マタイ福音書に関する説教/説教33|説教33]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教34|説教34]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教35|説教35]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教36|説教36]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教37|説教37]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教38|説教38]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教39|説教39]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教40|説教40]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教41|説教41]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教42|説教42]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教65|説教65]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教66|説教66]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教67|説教67]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教68|説教68]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教69|説教69]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教70|説教70]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教71|説教71]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教72|説教72]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教73|説教73]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教74|説教74]] |} *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第11巻/使徒行伝の注解|使徒行伝の注解]] (クリソストムス) (未完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第11巻/ローマ人への手紙注解|ローマ人への手紙注解]](未完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ガラテヤとエペソについて/ガラテヤ人への手紙注解|ガラテヤ人への手紙注解]] (完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ガラテヤとエペソについて/エペソ人への手紙注解|エペソ人への手紙注解]] (完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/ピリピ人への手紙注解|ピリピ人への手紙注解]](未完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/コロサイ人への手紙注解|コロサイ人への手紙注解]](未完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/テサロニケ人への第一の手紙注解|テサロニケ人への第一の手紙注解]](未完) ===4. オリゲネス=== * [[諸原理について]](オリゲネス) :* [[諸原理について/序説]] :* [[諸原理について/I|I]] {| |valign=top| :* [[諸原理について/I/第1章|I/第1章]] :* [[諸原理について/I/第2章|I/第2章]] :* [[諸原理について/I/第3章|I/第3章]] :* [[諸原理について/I/第4章|I/第4章]] :* [[諸原理について/I/第5章|I/第5章]] |valign=top| :* [[諸原理について/I/第6章|I/第6章]] :* [[諸原理について/I/第7章|I/第7章]] :* [[諸原理について/I/第8章|I/第8章]] :* [[諸原理について/I/第9章|I/第9章]] :* [[諸原理について/I/第10章|I/第10章]] |} :* [[諸原理について/II|II]] {| |valign=top| :* [[諸原理について/II/第1章|II/第1章]] :* [[諸原理について/II/第2章|II/第2章]] :* [[諸原理について/II/第3章|II/第3章]] :* [[諸原理について/II/第4章|II/第4章]] :* [[諸原理について/II/第5章|II/第5章]] :* [[諸原理について/II/第6章|II/第6章]] |valign=top| :* [[諸原理について/II/第7章|II/第7章]] :* [[諸原理について/II/第8章|II/第8章]] :* [[諸原理について/II/第9章|II/第9章]] :* [[諸原理について/II/第10章|II/第10章]] :* [[諸原理について/II/第11章|II/第11章]] |} :* [[諸原理について/III|III]] {| |valign=top| :* [[諸原理について/III/第1章|III/第1章]] :* [[諸原理について/III/第2章|III/第2章]] :* [[諸原理について/III/第3章|III/第3章]] :* [[諸原理について/III/第4章|III/第4章]] |valign=top| :* [[諸原理について/III/第5章|III/第5章]] :* [[諸原理について/III/第6章|III/第6章]] :* [[諸原理について/III/第7章|III/第7章]] :* [[諸原理について/III/第8章|III/第8章]] |} :* [[諸原理について/IV|IV]] :* [[諸原理について/IV/第1章|IV/第1章]] :* [[諸原理について/IV/第2章|IV/第2章]] :* [[諸原理について/解説|解説]] ===5. ニカイア教父シリーズ=== *[[ニカイア以前の教父たち]] *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I]] *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II]] **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻|第1巻]] – エウセビオス: 紀元1年から324年までの教会史、コンスタンティヌス大帝の生涯、コンスタンティヌスを讃える演説 ***[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史|第1巻/エウセビオスの教会史]] 入力中 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻|第2巻]] – ソクラテス: 西暦305年から438年までの教会史、ソゾメノス ([[w:en:Sozomen|en]]): 西暦323年から425年までの教会史 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻|第3巻]] – テオドレトス、ヒエロニムスとゲンナディウス、ルフィヌス ([[w:en:Tyrannius Rufinus|en]])とヒエロニムス **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第4巻|第4巻]] – アタナシオス: 選集と手紙 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第5巻|第5巻]] – ニュッサのグレゴリオス: 教義論文、選集および書簡 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第6巻|第6巻]] – ヒエロニムス: 手紙と選集 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻|第7巻]] – エルサレムのキュリロス、ナジアンゾスのグレゴリオス **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第8巻|第8巻]] – バシレイオス: 手紙と選集 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻|第9巻]] – ポワティエのヒラリウス、ダマスコのヨアンネス **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第10巻|第10巻]] – アンブロシウス: 選集と手紙 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第11巻|第11巻]] – スルピティウス・セウェルス、レランスのウィンケンティウス、ヨハネス・カッシアヌス **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第12巻|第12巻]] – レオ1世、グレゴリウス1世 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第13巻|第13巻]] – グレゴリウス1世 (パート2)、シリアのエフレム、アフラハト **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第14巻|第14巻]] – 七つの全地公会議 *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻|第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻]] {| |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第1章|第1巻/第1章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第2章|第1巻/第2章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第3章|第1巻/第3章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第4章|第1巻/第4章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第5章|第1巻/第5章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第6章|第1巻/第6章]] |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第7章|第1巻/第7章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第8章|第1巻/第8章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第9章|第1巻/第9章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第10章|第1巻/第10章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第11章|第1巻/第11章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第12章|第1巻/第12章]] |} *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/ルフィヌス/使徒信条の解説|第3巻/ルフィヌス/使徒信条の解説]](ルフィヌス) *[[原ニカイア信条]](325年) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第14巻/第二回公会議/聖なる信条|第14巻/第二回公会議/聖なる信条]](374 - 381年) *[[ニカイア以前の教父たち/第2巻/ヘルマスの牧者]] (完) ===6. エイレナイオス=== *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第1巻|異端反駁:第1巻]](エイレナイオス)(完) **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第1巻 2|異端反駁:第1巻 2]] 6~10章 **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第1巻 3|異端反駁:第1巻 3]] 11~15章 **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第1巻 4|異端反駁:第1巻 4]] 16~20章 **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第1巻 5|異端反駁:第1巻 5]] 21~25章 **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第1巻 6|異端反駁:第1巻 6]] 26~31章 *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第2巻|異端反駁:第2巻]](エイレナイオス)(完) **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第2巻 2|異端反駁:第2巻 2]] 6~12章 **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第2巻 3|異端反駁:第2巻 3]] 13~18章 **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第2巻 4|異端反駁:第2巻 4]] 19~24章 **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第2巻 5|異端反駁:第2巻 5]] 25~30章 **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第2巻 6|異端反駁:第2巻 6]] 31~35章 *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第3巻|異端反駁:第3巻]](エイレナイオス)(完) **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第3巻 2|異端反駁:第3巻 2]] 7~12章 **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第3巻 3|異端反駁:第3巻 3]] 13~18章 **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第3巻 4|異端反駁:第3巻 4]] 19~25章 *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第4巻|異端反駁:第4巻]](エイレナイオス)(完) **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第4巻 2|異端反駁:第4巻 2]] 7~12章 **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第4巻 3|異端反駁:第4巻 3]] 13~18章 **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第4巻 4|異端反駁:第4巻 4]] 19~24章 **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第4巻 5|異端反駁:第4巻 5]] 25~30章 **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第4巻 6|異端反駁:第4巻 6]] 31~35章 **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第4巻 7|異端反駁:第4巻 7]] 36~41章 *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第5巻|異端反駁:第5巻]](エイレナイオス)(完) **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第5巻 2|異端反駁:第5巻 2]] 7~12章 **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第5巻 3|異端反駁:第5巻 3]] 13~18章 **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第5巻 4|異端反駁:第5巻 4]] 19~24章 **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第5巻 5|異端反駁:第5巻 5]] 25~30章 **[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第5巻 6|異端反駁:第5巻 6]] 31~36章 *[[ニカイア以前の教父たち/第3巻/護教的論文/偶像崇拝について|偶像崇拝について]](テルトゥリアヌス) (完) *[[ニカイア以前の教父たち/第5巻/キプリアヌス/キプリアヌスの論文/主の祈りについて|主の祈りについて]] (キプリアヌス) (完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ポワティエのヒラリウス/三位一体論|三位一体論]] (ヒラリウス) (未完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/エルサレムのキュリロス/教理講義|教理講義]] (キュリロス) (完) **[[教理講義4]] 《教義の10の要点について》 *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/エルサレムのキュリロス/序説|エルサレムのキュリロス/序説]] :::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]] ===7. レオ1世=== *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第12巻/レオ1世/説教|第12巻/レオ1世/説教]](レオ1世)入力中 ===8. ヨハネ・ダマスコ=== *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻|正教信仰の正確な解説/第1巻]](ヨハネ・ダマスコ)入力中 {| |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第1章|第1章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第2章|第2章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第3章|第3章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第4章|第4章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第5章|第5章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第6章|第6章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第7章|第7章]] |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第8章|第8章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第9章|第9章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第10章|第10章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第11章|第11章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第12章|第12章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第13章|第13章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第14章|第14章]] |} *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻|正教信仰の正確な解説/第2巻]] {| |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第1章|第1章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第2章|第2章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第3章|第3章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第4章|第4章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第5章|第5章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第6章|第6章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第7章|第7章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第8章|第8章]] |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第22章|第22章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第23章|第23章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第24章|第24章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第26章|第26章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第27章|第27章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第28章|第28章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第29章|第29章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第30章|第30章]] |} *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻|正教信仰の正確な解説/第3巻]] {| |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻/第1章|第1章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻/第2章|第2章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻/第3章|第3章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻/第4章|第4章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻/第5章|第5章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: 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*[[ドブロトリュビエ]] (Philokalia) *[[ドブロトリュビエ/第1巻|第1巻]] **[[ドブロトリュビエ/第1巻/大アントニオスの言葉と彼に関する伝説|大アントニオスの言葉と彼に関する伝説]] **[[ドブロトリュビエ/第1巻/大アントニオスの名言の解説|大アントニオスの名言の解説]] **[[ドブロトリュビエ/第1巻/アバ・イザヤが弟子たちに語った言葉|アバ・イザヤが弟子たちに語った言葉]](アバ・イザヤ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/新米修道士へのルールとアドバイス|新米修道士へのルールとアドバイス]](アバ・イザヤ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/アバ・イザヤの言葉|アバ・イザヤの言葉]](アバ・イザヤ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/心を守ることについて27章|心を守ることについて27章]](アバ・イザヤ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/修道士ニコラスへのメッセージ|修道士ニコラスへのメッセージ]](修行者マルコ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/修行者マルコの著作に対するニコラス修道士の反応|修行者マルコの著作に対するニコラス修道士の反応]] **[[ドブロトリュビエ/第1巻/霊的法則に関する200章|霊的法則に関する200章]](修行者マルコ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/行いによって義とされると考える人々について|行いによって義とされると考える人々について]](修行者マルコ) *[[ドブロトリュビエ/第2巻|第2巻]] **[[ドブロトリュビエ/第2巻/霊的生活の完成度について|霊的生活の完成度について]](ヨハネス・カッシアヌス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/悔い改めの働きの終了について|悔い改めの働きの終了について]](ヨハネス・カッシアヌス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/テオドロスへ 覚醒と祈りについて|テオドロスへ 覚醒と祈りについて]](ヘシュキオス長老) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/祈りに関する153章|祈りに関する153章]](シナイのニール) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/悪の八魂について|悪の八魂について]](シナイのニール) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/悔い改めについて|悔い改めについて]](ヨハネ・クリマクス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/美徳と情熱について–また情熱との戦いについて|美徳と情熱について–また情熱との戦いについて]](ヨハネ・クリマクス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/8つの主要な情熱との戦いについて|8つの主要な情熱との戦いについて]](ヨハネ・クリマクス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/平静さについて|平静さについて]](ヨハネ・クリマクス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/バルサヌフィオスの禁欲的教え|バルサヌフィオスの禁欲的教え]](大バルサヌフィオス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/アバ・ドロテオスの禁欲的教え|アバ・ドロテオスの禁欲的教え]](アバ・ドロテオス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/シリアの聖イサクの禁欲的教え|シリアの聖イサクの禁欲的教え]](シリアのイサク) *[[ドブロトリュビエ/第3巻|第3巻]] **[[ドブロトリュビエ/第3巻/霊的知識と識別についての100章|霊的知識と識別についての100章]](フォティケのディアドコス) **[[ドブロトリュビエ/第3巻/愛についての400章|愛についての400章]](告白者マクシモス) **[[ドブロトリュビエ/第3巻/愛・禁欲・霊的生活について400章|愛・禁欲・霊的生活について400章]](アバ・タラシオス) **[[ドブロトリュビエ/第3巻/最も魂をたすける100の章|最も魂をたすける100の章]](エデッサのテオドロス) **[[ドブロトリュビエ/第3巻/覚醒についての40章|覚醒についての40章]](シナイのフィロテオス) *[[ドブロトリュビエ/第4巻|第4巻]] **[[ドブロトリュビエ/第4巻/修道士への禁欲的な指導|修道士への禁欲的な指導]](ストゥディオスのテオドロス) *[[ドブロトリュビエ/第5巻|第5巻]] **[[ドブロトリュビエ/第5巻/戒めと教義・警告と約束についての137章|戒めと教義・警告と約束についての137章]](シナイのグレゴリオス) **[[ドブロトリュビエ/第5巻/沈黙行者たちへの指示|沈黙行者たちへの指示]](シナイのグレゴリオス) **[[ドブロトリュビエ/第5巻/静寂と祈りについての15章|静寂と祈りについての15章]](シナイのグレゴリオス) **[[ドブロトリュビエ/第5巻/覚醒と心を守ることについて|覚醒と心を守ることについて]](修道士ニケフォロス) **[[ドブロトリュビエ/第5巻/名誉ある修道女クセニアに|名誉ある修道女クセニアに]](グレゴリオス・パラマス) **[[ドブロトリュビエ/第5巻/キリスト教法に基づく十戒|キリスト教法に基づく十戒]](グレゴリオス・パラマス) &#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212; *[[主の祈り、洗礼、聖体に関する注釈]](モプスエスティアのテオドロス) (完) * [[口語訳旧約聖書 目次]]{{ext scan link|1=http://jco.ibibles.net/index.htm#%C2%A0%3E%C2%A0}} * [[口語訳新約聖書 目次]]{{ext scan link|1=http://jco.ibibles.net/index.htm#%C2%A0%3E%C2%A0}} * [[KJV 旧約聖書続編 目録]] (King James Bible, 1769) * [[フィラレートのカテキズム]](モスクワの聖フィラレート、1913)(完) ** [[フィラレートのカテキズム 2]] * [[英国国教会の39箇条についての教理問答]](ジェームズ・ビーヴン、1853)(未完) * [[短い信条]](ガザーリー、1903英訳ダンカン・B・マクドナルド)(完) * [[アル・ガザーリーの宗教的・道徳的教え]](ガザーリー、1921英訳サイード・ナワーブ・アリ) * [[鳩の書]](''Book of the Dove'' [[w:ja:バル・ヘブラエウス|バル・ヘブラエウス]]、1919英訳 A.J. ヴェンシンク)(目次のみ) * [[蜂の書]](''The Book of the Bee'' アフラトのソロモン、英訳 [[w:ja:ウォーリス・バッジ|ウォーリス・バッジ]])(目次のみ) * [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作]](ジョン・パーカー、1897)(目録) ** [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作/神名論|神名論]] ** [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作/神秘神学|神秘神学]] :::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]] &#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212; * [[イェルサリム大主教聖キリール教訓]](エルサレムのキュリロス) * [[聖金口イオアン教訓下]](ヨハネ・クリュソストモス) * [[シリヤの聖エフレム教訓]] * [[正教要理問答]] * [[通俗正教教話]](府主教フィラレート) * [[聖詠講話上編]](ヨハネ・クリュソストモス) * [[聖詠講話中編]] * [[新約聖書譬喩略解]] * [[祈祷惺々集]] {{註|祈りと清醒の教訓集。隠修者フェオファン編集。}} *#[[祈祷惺々集/我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓(1)]] *#[[祈祷惺々集/イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(1)]] *#[[祈祷惺々集/克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教(1)]] *#[[祈祷惺々集/シリヤの聖イサアクの教訓(1)]] *#[[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(1)]] :(ヨハネ・クリマクス、シナイのヘシュキオス、シナイのフィロテオス、シリアのイサアク、ガザのバルサヌフィオス) * [[埃及マカリイ全書]](著者は擬マカリオス) * [[ニケア信経]](ニケア・コンスタンチノープル信経) * [[使徒信経(天主公教会1911年)]] * [[使徒信経(日本聖公会1941年)]] * [[アタナシオ信経]] * [[信経問答]] * [[十誡問答]] * [[吉利支丹文学抄/吉利支丹文学概説及び原本の解題]] * [[さんぺいとろの御作業 (新漢字)]] * [[さんふらんしすこの御作業 (新漢字)]] * [[さんゑうすたきよの御作業]] * [[こんてむつすむんぢ抄 (新漢字)]](『キリストに倣いて』) * [[でうすの御性体と御善徳の事 (新漢字)]](『ぎや・ど・ぺかどる』) * [[御扶けの御恩の事 (新漢字)]]( 同 ){{註|ぎやどぺかどるは興味深い。}} * [[善人達のよきこんしゑんしやの悦びの事 (新漢字)]]( 同 ) * [[世界と悪の執着に引るゝ人の迷ひを導く事 (新漢字)]]( 同 ) * [[瞋恚に対する了簡の事 (新漢字)]]( 同 ) * [[ほるたれざといふ強き心の事 (新漢字)]]( 同 ) * [[けれいど並びにひいですのあるちごの事 (新漢字)]](『どちりな・きりしたん』) * [[でうすの御掟十のまだめんとすの事 (新漢字)]]( 同 ) * [[詩四篇・三十一篇・九十一篇(日本聖公会訳)]](+詩百三十四) * [[詩九十二篇・九十五篇・九十八篇・百篇(日本聖公会訳)]] * [[詩七十一篇・百十六篇(日本聖公会訳)]](+詩百二十七、詩百三十) * [[詩二十三篇・三十九篇・九十篇(日本聖公会訳)]] * [[詩五十一篇]](詩篇第五十一、第五十聖詠) * [[人類の忘恩に対する償の祈祷]] :::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]] ===10. 典礼・奉神礼=== * [[ミサ通常文・キリエ・グロリア]](カトリック) ::(+クレド・サンクトゥス・ベネディクトゥス・アニュスデイ) * [[神聖なる聖体礼儀の歌章の次第]](正教会) * [[大齋の晩課及び先備聖体礼儀の「主よ爾に籲ぶ」]](正教会) * [[八調の品第詞(ステペンナ)]](正教会){{註|聖詠119~133を題材にした祈祷文}} * [[大斎第一週間奉事式略]](おおものいみだいいっしゅうかんほうじしき) **[[大斎第一週間奉事式略 2]](火曜日) **[[大斎第一週間奉事式略 3]](水曜日) * [[聖パスハの奉事]] * [[信経]](正教会) * [[聖詠経]] ([[w:日本ハリストス正教会|日本正教会]]翻訳) * [[マトフェイ伝06]] * [[マトフェイ伝07]] &#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212; ===11. 仏教=== * [[正信念仏偈 (意訳聖典)]] * [[歎異抄 (意訳聖典)]] * [[蓮如上人御文章 (意訳聖典)]] * [[七箇條の起請文 (浄土宗全書)]](別名:念仏行者訓條) * [[横川法語]]{{註|恵心僧都、源信}} * [[十二問答]] * [[十二箇條問答]]{{註|法然上人の人柄が優しい。}} * [[黒田の聖人へつかはす御文]](別名:一紙小消息) * [[或女房に示されける法語]] * [[常に仰られける御詞 (法然上人全集)]] * [[平重衡に示す御詞 (法然上人全集)]] * [[甘糟太郎忠綱に示す御詞 (法然上人全集)]] * [[元强盜の張本なりし教阿に示す御詞 (法然上人全集)]] * [[御臨終の時門弟等に示されける御詞 (法然上人全集)]] * [[消息法語 (一遍上人語録)]] * [[門人伝説 (一遍上人語録)]]{{註|興味深い。}} * [[仏説阿弥陀経 (昭和新纂経典部)]] ===12. イスラム教=== * [[短い信条]](ガザーリー、1903英訳ダンカン・B・マクドナルド)(完) * [[アル・ガザーリーの宗教的・道徳的教え]](ガザーリー、1921英訳サイード・ナワーブ・アリ) ==加筆項目== {{resize|120%|この利用者が加筆したもの}} * [[聖詠経]](ふりがなを付加) ** [[第一「カフィズマ」]] ** [[第二「カフィズマ」]] ** [[第三「カフィズマ」]] ** [[第四「カフィズマ」]] ** [[第五「カフィズマ」]] ** [[第六「カフィズマ」]] ** [[第十七「カフィズマ」]] ** [[第十八「カフィズマ」]] ** [[第十九「カフィズマ」]] ** [[第二十「カフィズマ」他]] * [[コンチリサンの略]]{{註|Contrição/Contrition:悔い改め、懺悔という意味}} * [[白骨の御文]] * [[主の祈り]] {{resize|120%|サブページ}} * [[利用者:村田ラジオ/sandbox]] ニネベのイサク第35論文 * [[利用者:村田ラジオ/sandbox2]] エジプトマカリイの大書簡 * [[利用者:村田ラジオ/common.js]] :::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]] ----- ===12. 忘備録=== {| |valign=top| * [[ヘルプ:編集の仕方]] * [[ヘルプ:資料を追加する]] * [[ヘルプ:パブリックドメイン]] * [[ヘルプ:著作権タグ]] * [[ヘルプ:信頼性の基本ガイド]] * 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1px">なになに</span> </nowiki> (破線下線) jglyctsbt6ot7mjc1gs2qod7feq35qg ニネベのイサアク神秘論文集/第38論文 0 51214 230199 229421 2025-06-18T22:14:16Z 村田ラジオ 14210 ルビ 230199 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|wikisource:宗教|ニネベのイサアク神秘論文集|hide=1}} {{header |title=ニネベのイサアク神秘論文集 |section=第38論文 |previous=[[../第37論文|第37論文]] |next =[[../第39論文|第39論文]] |year=1923 |override_translator = [[作者:アレント・ヤン・ヴェンシンク|A. J. ヴェンシンク]] |author= |notes= *底本: [[:nl:Arent Jan Wensinck|A. J. Wensinck]], [https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh"]. Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC) *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にねへのいさあくしんひろんふんしゆう38}} [[Category:キリスト教]] [[Category:ニネベのイサアク神秘論文集|38]] }} ::'''ニネベのイサアク神秘論文集''' ==第38論文== [p.194] << 心の衝動の区別に関する短い文章。>> 臆病さは落胆の表れであり、怠慢と不注意の母である。 おびえて気弱な人は、二つの病に苦しんでいる。肉体への愛と信仰の欠如である。肉体への愛は不信仰の表れである。しかし、肉体を軽蔑する人は、神を信頼し、未来に期待していることを示す。 もし、神に心を煩わせることなく近づいた人がいるなら、あなたもそのように努めなさい。 勇気と危険を恐れる心は、二つの原因から生じます。一つは心の硬さ、もう一つは神への深い信仰です。前者は傲慢さを伴い、後者は謙虚な心を伴います。 人が神の御心を部分的にでも果たした経験がなければ、神への信頼を得ることは不可能です。神への信頼と心の男らしさは、良心の証しから生じます。なぜなら、心の真実の証しによって、私たちは神への信頼を得るからです。心の証しは、人が自分の義務を怠ったからといって、可能な限り魂に軽蔑されないというところに根ざしています。 もし私たちの心が私たちを軽蔑しないなら、私たちは神に対して率直です。率直さは、毅然とした態度と汚れのない心に根ざしています。 肉体の奴隷となるのは容易なことではない。たとえわずかでも、自分の希望を自覚する者は、この厳しい主人の厳しい意志に再び従うことを拒むであろう。 完全な沈黙の中での忍耐と孤独の維持は、三つの理由のうちの一つから生じる。すなわち、同胞への栄光への愛、あるいは卓越性への熱烈な情熱、あるいは心が惹きつけられる神の内なる働きである。後者の二つの理由を欠く者は、いわば必然的に最初の理由に苦しむことになる。 [p.195] 卓越とは、肉体的な行為の多くの明白な差異にあるのではなく、希望に富む思慮深い心と、正しい意図を伴う行為にある。なぜなら、これらの行為は往々にして奉仕に役立たず、心はそれらなしでも利益を得ることができるからである。しかし、心の思慮深さがなければ、肉体は奉仕を行っても利益を得ることができない。なぜなら、美しい行為を行う機会があれば、敬虔な人は、明白な行為を行うことで愛を示すことをためらうことはできないからである。前者は常に成功するが、後者は成功することもあるし、失敗することもある。 感情の原因が人から遠く離れているからといって、それを些細なことと考えてはならない。熟考もせずにすぐに生じる下半身の興奮、すなわち壁の下から熱烈に湧き上がり、意志が役に立たないのに魂を狂乱で虜にする不純な快楽は、間違いなく満腹した腹から肉体に生じるのである。 この争いにおける強力な武器として、男は女に近づかないようにしなさい。自然がその力で動かすものは、敵でさえ動かすことができない。神がその根に蒔き、隠しておいたもの、人類の存続と争いによる試練のために役立てたものを、自然が死に至るまで忘れるなどと考えてはならない。それゆえ、あらゆる欲望は、それが何であれ、物事を遠ざけることによって私たちの肢体の中で眠りに落ち、その記憶は没入と忘却に委ねられる。 遠く離れた物事についての思考は、心の中に浮かぶ単純なものであり、魂そのものから生じる暗く冷たい衝動とは異なる。生きた接触から生じる思考もまた、忘れることのできない光景に心を浸し、目先の情熱を掻き立て、すでに揺らめき、ほとんど消えかかっているランプの炎に油を注ぐように、情熱を燃え上がらせる。しかし、肉体という海を、精神という船に逆らってかき立てる衝動によってかき乱すのとは異なっている。 神によって肉体の世界を教育するために創造主が私たちに与えてくださった、もっぱら自然から生じる感情性は、外部からの刺激なしには、意志の明晰さを奪い、それを混乱させて純潔を失わせることはできない。なぜなら、神は自然に力を与えて、善なる意志を克服させるようなことはなさらないからです。 [p.196] しかし、人が怒りや欲望に負けたとき、自然の領域を離れ、義務の束縛を断ち切るよう強いるのは、自然の中にあるものではなく、意志という媒介によって私たちが自然に付け加える何かである。神が創造したものはすべて、美しく、適切なバランスで創造された。そして、自然の摂理が私たちの中に正しく保たれている限り、それらはまるで洪水のように私たちを神の法の道から押し流すことはない。情動の機能を備えた身体には、情熱が存在することを知る限り、平和な衝動だけが湧き起こる。情熱が誘惑したり、貞操の道を乱したり、混乱を引き起こしたり、平和な状態を怒りに変えたりすることを私たちが経験している限り、それは変わらない。しかし、私たちが、通常は不自然な怒りの源となる感覚的なものを渇望したり、大量の飲食物を渇望したり、女性を近くに見かける機会が常にあったり、女性に関する話を聞いて体内に欲望の火を燃え上がらせたりするようなことを渇望したりすると、動脈内の多くの体液のためであろうと、あるいはさまざまな世俗的な光景のためであろうと、私たちは自然な平和の状態を獣性の状態に変えてしまいます。 それはまた、僭越から生じる見捨てられ感によっても起こります。しかし、これは実際にはこの範疇には入りません。前者の場合を私たちは自由を求める闘争と呼び、自然のありふれた道に属するものです。僭越から生じる見捨てられ感による闘争は、私たちが長い間労働と用心に追われ、それにも関わらず、欲望の力が不自然な激しさで押し寄せてくるときに経験します。しかし、他の場合には、そのような出来事は私たちの怠慢のために起こります。 自然が感覚や腹によって力を増すとき、それ以降、本来の程度を保つように説得されるべきではありません。悩みや孤独を拒絶する者は、思わず罪を愛するように強いられます。これらがなければ、私たちは精神的な誘惑から遠ざかることはできません。後者は前者の増大に応じて減少します。なぜなら、悩みは愛情の喜びを消散させるからです。一方、慰めは彼らを強め、促します。 [p.197] ですから、神とその天使たちは苦難を喜び、一方サタンとその手下たちは慰めを喜ぶのは明らかです。神の戒めが肉体的な拷問を受けて執行されているのに、それを拒むなら、戒めを与えた方を拒絶しようとしているのは明らかです。慰めの産物である情緒によって、私たちは卓越性の原因である苦難を消滅させてしまうように、慰めを受け入れるのと同じだけ情緒に余地を与えてしまうのです。なぜなら、拷問を受けた肉体では、思索は無益なことで邪魔されることはないからです。人が喜びをもって拷問に耐えるとき、彼は思索を止めるだけの力も持ちます。なぜなら、思索ですら労働を嫌うわけではないからです。 このように、人が過去の罪を思い出し、苦悩に{{r|苛|さいな}}まれる時、神はその平安を願う。なぜなら、罪人が神の道から逸脱したために自ら裁きを下したことを、悔い改めのしるしとして、神はそれを喜ばれるからである。そして、罪人が苦悩すればするほど、神から与えられる栄誉のしるしも増す。卓越性によってもたらされるのではない喜びは、それを見出した人の心に、直ちに欲望の感情を掻き立てる。これは、自然な欲望だけでなく、感情と結びついたあらゆる欲望について理解されるべきである。 :::[[ニネベのイサアク神秘論文集/第38論文#第38論文|トップに戻る]] {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Chapter 38 を翻訳 --> ps5doowjv8ww7x7yh95ewsv5uzvrt78 230207 230199 2025-06-19T09:04:51Z 村田ラジオ 14210 校正 230207 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|wikisource:宗教|ニネベのイサアク神秘論文集|hide=1}} {{header |title=ニネベのイサアク神秘論文集 |section=第38論文 |previous=[[../第37論文|第37論文]] |next =[[../第39論文|第39論文]] |year=1923 |override_translator = [[作者:アレント・ヤン・ヴェンシンク|A. J. ヴェンシンク]] |author= |notes= *底本: [[:nl:Arent Jan Wensinck|A. J. Wensinck]], [https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh"]. Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC) *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にねへのいさあくしんひろんふんしゆう38}} [[Category:キリスト教]] [[Category:ニネベのイサアク神秘論文集|38]] }} ::'''ニネベのイサアク神秘論文集''' ==第38論文== [p.194] << 心の衝動の区別に関する短い文章。>> 臆病さは落胆の表れであり、怠慢と不注意の母である。 おびえて気弱な人は、二つの病に苦しんでいる。肉体への愛と信仰の欠如である。肉体への愛は不信仰の表れである。しかし、肉体を軽蔑する人は、神を信頼し、未来に期待していることを示す。 もし、神に心を煩わせることなく近づいた人がいるなら、あなたもそのように努めなさい。 勇気と危険を恐れる心は、二つの原因から生じます。一つは心の硬さ、もう一つは神への深い信仰です。前者は傲慢さを伴い、後者は謙虚な心を伴います。 人が神の御心を部分的にでも果たした経験がなければ、神への信頼を得ることは不可能です。神への信頼と心の男らしさは、良心の証しから生じます。なぜなら、心の真実の証しによって、私たちは神への信頼を得るからです。心の証しは、人が自分の義務を怠ったからといって、可能な限り魂が軽蔑されないというところに根ざしています。 もし私たちの心が私たちを軽蔑しないなら、私たちは神に対して率直です。率直さは、毅然とした態度と汚れのない心に根ざしています。 肉体の奴隷となるのは容易なことではない。たとえわずかでも、自分の希望を自覚する者は、この厳しい主人の厳しい意志に再び従うことを拒むであろう。 完全な沈黙の中での忍耐と孤独の維持は、三つの理由のうちの一つから生じる。すなわち、同胞への栄光への愛、あるいは卓越性への熱烈な情熱、あるいは心が惹きつけられる神の内なる働きである。後者の二つの理由を欠く者は、いわば必然的に最初の理由に苦しむことになる。 [p.195] 卓越とは、肉体的な行為の多くの明白な差異にあるのではなく、希望に富む思慮深い心と、正しい意図を伴う行為にある。なぜなら、これらの行為は往々にして奉仕に役立たず、心はそれらなしでも利益を得ることができるからである。しかし、心の思慮深さがなければ、肉体は奉仕を行っても利益を得ることができない。なぜなら、美しい行為を行う機会があれば、敬虔な人は、明白な行為を行うことで愛を示すことをためらうことはできないからである。前者は常に成功するが、後者は成功することもあるし、失敗することもある。 感情の原因が人から遠く離れているからといって、それを些細なことと考えてはならない。熟考もせずにすぐに生じる下半身の興奮、すなわち壁の下から熱烈に湧き上がり、意志が役に立たないのに魂を狂乱で虜にする不純な快楽は、間違いなく満腹した腹から肉体に生じるのである。 この争いにおける強力な武器として、男は女に近づかないようにしなさい。自然がその力で動かすものは、敵でさえ動かすことができない。神がその根に蒔き、隠しておいたもの、人類の存続と争いによる試練のために役立てたものを、自然が死に至るまで忘れるなどと考えてはならない。それゆえ、あらゆる欲望は、それが何であれ、物事を遠ざけることによって私たちの肢体の中で眠りに落ち、その記憶は没入と忘却に委ねられる。 遠く離れた物事についての思考は、心の中に浮かぶ単純なものであり、魂そのものから生じる暗く冷たい衝動とは異なる。生きた接触から生じる思考もまた、忘れることのできない光景に心を浸し、目先の情熱を掻き立て、すでに揺らめき、ほとんど消えかかっているランプの炎に油を注ぐように、情熱を燃え上がらせる。しかし、肉体という海を、精神という船に逆らってかき立てる衝動によってかき乱すのとは異なっている。 神によって肉体の世界を教育するために創造主が私たちに与えてくださった、もっぱら自然から生じる感情性は、外部からの刺激なしには、意志の明晰さを奪い、それを混乱させて純潔を失わせることはできない。なぜなら、神は自然に力を与えて、善なる意志を克服させるようなことはなさらないからです。 [p.196] しかし、人が怒りや欲望に負けたとき、自然の領域を離れ、義務の束縛を断ち切るよう強いるのは、自然の中にあるものではなく、意志という媒介によって私たちが自然に付け加える何かである。神が創造したものはすべて、美しく、適切なバランスで創造された。そして、自然の摂理が私たちの中に正しく保たれている限り、それらはまるで洪水のように私たちを神の法の道から押し流すことはない。情動の機能を備えた身体には、情熱が存在することを知る限り、平和な衝動だけが湧き起こる。情熱が誘惑したり、貞操の道を乱したり、混乱を引き起こしたり、平和な状態を怒りに変えたりすることを私たちが経験している限り、それは変わらない。しかし、私たちが、通常は不自然な怒りの源となる感覚的なものを渇望したり、大量の飲食物を渇望したり、女性を近くに見かける機会が常にあったり、女性に関する話を聞いて体内に欲望の火を燃え上がらせたりするようなことを渇望したりすると、動脈内の多くの体液のためであろうと、あるいはさまざまな世俗的な光景のためであろうと、私たちは自然な平和の状態を獣性の状態に変えてしまいます。 それはまた、僭越から生じる見捨てられ感によっても起こります。しかし、これは実際にはこの範疇には入りません。前者の場合を私たちは自由を求める闘争と呼び、自然のありふれた道に属するものです。僭越から生じる見捨てられ感による闘争は、私たちが長い間労働と用心に追われ、それにも関わらず、欲望の力が不自然な激しさで押し寄せてくるときに経験します。しかし、他の場合には、そのような出来事は私たちの怠慢のために起こります。 自然が感覚や腹によって力を増すとき、それ以降、本来の程度を保つように説得されるべきではありません。悩みや孤独を拒絶する者は、思わず罪を愛するように強いられます。これらがなければ、私たちは精神的な誘惑から遠ざかることはできません。後者は前者の増大に応じて減少します。なぜなら、悩みは愛情の喜びを消散させるからです。一方、慰めは彼らを強め、促します。 [p.197] ですから、神とその天使たちは苦難を喜び、一方サタンとその手下たちは慰めを喜ぶのは明らかです。神の戒めが肉体的な拷問を受けて執行されているのに、それを拒むなら、戒めを与えた方を拒絶しようとしているのは明らかです。慰めの産物である情緒によって、私たちは卓越性の原因である苦難を消滅させてしまうように、慰めを受け入れるのと同じだけ情緒に余地を与えてしまうのです。なぜなら、拷問を受けた肉体では、思索は無益なことで邪魔されることはないからです。人が喜びをもって拷問に耐えるとき、彼は思索を止めるだけの力も持ちます。なぜなら、思索ですら労働を嫌うわけではないからです。 このように、人が過去の罪を思い出し、苦悩に{{r|苛|さいな}}まれる時、神はその平安を願う。なぜなら、罪人が神の道から逸脱したために自ら裁きを下したことを、悔い改めのしるしとして、神はそれを喜ばれるからである。そして、罪人が苦悩すればするほど、神から与えられる栄誉のしるしも増す。卓越性によってもたらされるのではない喜びは、それを見出した人の心に、直ちに欲望の感情を掻き立てる。これは、自然な欲望だけでなく、感情と結びついたあらゆる欲望について理解されるべきである。 :::[[ニネベのイサアク神秘論文集/第38論文#第38論文|トップに戻る]] {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A. 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Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC) *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にねへのいさあくしんひろんふんしゆう39}} [[Category:キリスト教]] [[Category:ニネベのイサアク神秘論文集|39]] }} ::'''ニネベのイサアク神秘論文集''' ==第39論文== [p.197] << 愛に基づいた有益な助言。>> 善のために苦難を受けることは、善そのもののように愛される。 心の中で喜んで困難に耐える決心をした者以外は、真の放棄を得ることはできない。 困難に対する見返りとして肉体的な慰めよりも優れた何かが得られると信じる者以外は、困難に耐えることはできない。 放棄に身を捧げた者は皆、まず自分の中で困難への愛がわき上がるのに気づくだろう。すると、世俗的なものをすべて放棄する考えが彼の中に形づくられる。 困難に近づく者は皆、まず信仰が強められるだろう。それから困難に近づくだろう。 視覚や聴覚などの感覚を放棄せずに[世俗的な]ものを放棄する者は、自分自身に二重の困難を準備し、二重の苦難に遭遇するであろう。 [p.198] あるいは、むしろ、彼は物の使用を控えている間、感覚を通してそれらを楽しんでいるのである。そして、それらが引き起こす感情によって、人は以前現実で耐えなければならなかったのと同じことを、それらから経験する。なぜなら、それらの習慣の記憶は心から消え去らないからだ。もし、現実のそれに対応する事物とは別に、心の中に存在する想像上の表象だけが人間を苦しめることができるとしたら、現実の事物がすぐ近くにある時、私たちは何と言うだろうか。 孤独な生活は美しく、また非常に有益である。なぜなら、それは力強く思慮分別を静め、忍耐力を鍛える力を与えてくれるからである。そして、孤独な生活に必然的に伴う厳しい試練を通して、忍耐力を養う。 たとえ非常に思慮深い人であっても、行動において同輩でない者から助言を求めてはならない。経験豊かな俗人の方が、経験なく理論的な知識だけで語る賢者よりも信頼できる。 経験とは何か。経験とは、人が物事に触れてはいるものの長所や短所に関する知識を得ることなく、また一定期間その場に留まることなく、ただ触れるだけのことではない。物事の外観は欠陥の印象を与えるが、その内部には長所に満ちた質が見出されることがよくある。同じように、物事も正反対の側面から判断されなければならない。 有益なものから欠陥を集める人は多い。こうした人々の知識に関する証言も信頼できない。これは、物事を辛抱強く識別力を持って調べることを学んだ人にのみ当てはまる。したがって、人の助言はすべて信頼できるわけではない。信頼できるのは、以前に善行を積んだ人、あらゆることにおいて経験に基づいた知識を持つ人、自分自身を愛さない人、軽蔑を遠ざけない人の助言だけである。 あなたの進むべき道が平穏で変化のないものであることに気づいたなら、疑念を抱きなさい。あなたは聖徒たちの疲れた足跡によって踏み固められた神聖な道から逸脱しているからだ。王国の都へと向かう道を進み、その近郊に近づくほど、それはあなたが厳しい誘惑に遭遇する兆候となるだろう。そして、近づけば近づくほど、困難に直面することになるだろう。 [p.199] したがって、あなたの魂が、その道の途中で困難を引き起こすさまざまな状態を認識するたびに、あなたの魂は密かにより高い状態に進歩しており、以前のレベルと比較して増加の賜物を獲得していることを知っておく必要があります。 神が魂にもたらす厳しい試練は、神の賜物の偉大さに比例します。もし、非常に厳しい試練に耐えられないような弱い魂があり、神がそれを優しく扱うなら、その魂は厳しい試練に耐えられないのだから、大きな賜物を受けるに値しないということを、確信を持って知りなさい。大きな試練が取り去られたように、大きな賜物も取り去られます。神は決して大きな賜物と小さな試練を共に与えることはありません。ですから、試練は賜物に応じて分類されるべきです。このように、あなたが受けてきた苦難から、あなたの魂が到達した偉大さの度合いを理解することができるでしょう。慰めは愛情に比例します。 では、どうなるのでしょうか。まず試練があり、次に賜物があるのでしょうか。それとも賜物の後に試練があるのでしょうか。試練は、魂がひそかに以前の地位を超える偉大さと、子として受け入れられる精神を受けていない限り、来ません<ref>ローマ 8:15</ref>。主と使徒たちの試練の中にその証拠があります。彼らは、慰め主を受け入れるまでは試練に遭うことを許されなかったからです。善にあずかる者は、試練も受けなければなりません。善とともに抑圧も伴います。すべてに通じる神は、それを喜んでおられるのです。 これが物事のあり方です。したがって、試練を味わうことは、賜物を味わうことに先行し、自由を試すものとなります。試練を味わう前に、恵みは決して人に届きません。実際には、恵みは知力において先行し、感情において後続します。 それゆえ、そのような時、あなたには互いに似ていない二つの相反する感情があるのは事実です。それらは何でしょうか? 喜びと恐れです。喜びとは、試練の兆候からわかるように、あなたが聖徒たち、いや、世界の救世主さえも歩んだ道を進んでいることに気づくからです。恐れとは、傲慢さによってこれらの試練に惑わされないことです。しかし、謙遜な者は恵みによって思慮深さを授かり、これらのものの区別、すなわち、高慢から生じる誘惑と、愛から燃える頬とを見分けることができるのです。なぜなら、行いを正すための誘惑と、心の{{r|厚|あつ}}かましさを克服するために(神によって)許されている誘惑とを区別しなければならないからです。 [p.200] 父親の管理下で起こり、魂を教育し、訓練し、試して輝かしいものとする試練は、落胆、肉体の疲労、手足の弛緩、意気消沈、精神の混乱、肉体の痛み、一時的な絶望、思慮の鈍さ、人からの援助の欠如<ref>この列挙は、バル・ヘブラエウス『鳩の書』528ページに引き継がれています。</ref>、肉体の糧の欠乏などである。これらの試練によって人は孤独な魂と謙遜と悔い改めた心を得る。そしてこれらのことが創造主の愛によって人を試し、支配者は、これらを、それに耐えるために必要な力に応じて、送り先の人々に適用する。これらの試練には、慰めと苦悩、光と闇、闘争と助けが入り混じっている。つまり、これらは狭めたり広げたりするのであり、それは助けが増すしるしなのである。我々の恩恵の創造主の慈悲を前にして思い上がり、その恩恵に関して不当に傲慢になる人々に許されて起こる試練は次の通りである:精神力の支配範囲外にある、悪魔の明白な誘惑。そのため、誘惑を受ける人々は分別を与える力を欠いている。; 傲慢さを抑えるために解き放たれる淫行の衝動の鮮明な感覚。; 怒りやすいこと。; 意志の確立。; 論争での勝利への愛。; 無謀さ。; 軽蔑に傾く心。; 精神の完全な逸脱。; 名誉が祝福された方に対する悪口。; 冗談、またはむしろ泣き言に満ちた愚かな考え。; 人間に対する軽蔑。; 厚かましさによって個人の名誉を危険にさらすこと。悪魔の多くの策略による、ひそかに、また明白に行われる滑稽さ。世間との交わりや交流を好むこと。愚かな言葉を頻繁に避けること。目新しい個人的な発明や偽りの予言。自分の力を超えた約束を頻繁にすること。肉体の領域において、解決が非常に困難な、常に厳しく絡み合った運命。邪悪で不敬虔な人々との絶え間ない会合。邪悪な人々の手に落ちること。理由のない突然の恐怖によって引き起こされる、絶え間ない心の感情。身体を破壊するような、岩や高い場所などからの繰り返しの激しい落下。信仰にふさわしいように、心が神に頼ることができず、信頼することができない。要するに、孤独な人やその周囲に対して解き放たれる、自分の力では抵抗できないすべての耐え難い力。 [p.201] 私がこれまで説いたことはすべて、傲慢さの誘惑に関するものである。その誘惑の始まりは、人が自らの目に賢くなった途端に現れる。人はこうした思慮に屈する度合いに応じて、これらの悪に陥る<ref>すなわち、傲慢さの思慮</ref>。したがって、誘惑を区別することによって、あなたは自分の心の狭い道を見抜くことができるだろう。もしあなたが自分の心の道にある[これらの誘惑]のいくつかを観察し、観察するならば、誘惑の量は傲慢さという汚れた働きに応じて決まることを知らなければならない。 もう一つの考察も聞いてください。忍耐をもって耐えられないあらゆる困難や苦難は、二重の苦しみをもたらします。忍耐は苦悩を解き放ちます。勇気の欠如は苦しみの源です。忍耐は慰めの源であり、心の勇気から生まれる確かな力です。神から与えられない限り、苦難の中で、祈りと涙を流すことによって見出されるものを、自らの魂の中に見出すことは困難です。 神が、人が大いに悩むべきだと定めた場合、神はその人を気弱さの手に委ねます。そしてこれが、精神的な窒息感を与える大きな落胆を生み出します。これらすべては地獄の味がします。すると混乱の精神が [孤独な人] に対して解き放たれ、そこから数え切れないほどの誘惑が生じます。動揺、怒り、罵倒、悪口、優柔不断な考え、あちこちへの転居、などです。もしあなたが、「これらすべての原因は誰か」と言うなら、私は「あなたです。なぜなら、あなたはそれらを癒す方法を見つけようとしなかったからです」と言います。これらすべてには一つの治療法があり、それによって人はすぐに自分自身の中に慰めを見出します。では、それは何でしょうか。心の謙虚さです。謙虚さがなければ、人がこれらの邪悪なものの柵を打ち壊すことはできません。なぜなら、それらはあまりに強固であることに気付くからです。真実を告げたからといって、私に怒のはやめなさい。あなたは一度も魂の中でこれを求めなかったのです。もし望むなら、それに従いなさい。そうすれば、それがいかにしてあなたの悪を滅ぼすかが分かるだろう。 [p.202] あなたの謙遜に応じて、苦難における忍耐が与えられるでしょう。そして、あなたの忍耐に応じて、苦難の中で慰められるあなたの魂の重荷は軽くされるでしょう。そして、あなたの魂の慰めに応じて、神へのあなたの愛は増し加わるでしょう。そして、あなたの愛に応じて、あなたの霊的な喜びは増し加わるでしょう。慈悲深い御父は、真の子である者たちを誘惑から救いたいと願うとき、彼らを彼らから取り去るのではなく、誘惑に耐える力と、誘惑を通して得られるすべての善を与え、彼らの魂を完成へと導いてくださいます。キリストが、その恵みによって、心からの感謝をもって、私たちをその愛のために悪を負うにふさわしい者としてくださいますように。 :::[[ニネベのイサアク神秘論文集/第39論文#第39論文|トップに戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Chapter 39 を翻訳 --> t1afmklmhoqd9ksnhviad2bafvvlozw Index:CNTS-00047997640 京元線寫眞帖.pdf 252 51343 230187 229995 2025-06-18T14:45:02Z Aspere 20303 230187 proofread-index text/x-wiki {{:MediaWiki:Proofreadpage_index_template |タイプ=図書 |書名=京元線寫眞帖 |言語=jpn |巻号= |著者=朝鮮總督府鐵道局 |訳者= |編者= |挿絵= |教育機関= |出版者= |所在地= |年=1914 |Key= |ISBN= |OCLC= |LCCN= |BNF_ARK= |ARC= |底本=pdf |画像=1 |進捗=C |ページ=<pagelist 1=表紙 2to3=地図 4=緖言 5=1 39=奥付 /> |分冊= |注釈= |Width= |Css= |Header= |Footer= }} gxxh9nylmiweox9gqch96gl06n4u7zs Page:CNTS-00047997640 京元線寫眞帖.pdf/11 250 51412 230177 2025-06-18T14:17:29Z Aspere 20303 /* 未校正 */ ページの作成:「[[File:CNTS-00047997640 京元線寫眞帖 - 11 - 1.jpg|left|thumb|{{c|牛耳洞ノ全景}}<br />{{c|Gyujido, a Village noted for Cherry Blossom.}}]] [[File:CNTS-00047997640 京元線寫眞帖 - 11 - 2.jpg|right|thumb|{{c|牛耳洞櫻花爛熳ノ景}}<br />{{c|Cherry Blossom at Gyujido in full bloom.}}]] {{clear}} {{nop}}」 230177 proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="1" user="Aspere" /></noinclude>[[File:CNTS-00047997640 京元線寫眞帖 - 11 - 1.jpg|left|thumb|{{c|牛耳洞ノ全景}}<br />{{c|Gyujido, a Village noted for Cherry Blossom.}}]] [[File:CNTS-00047997640 京元線寫眞帖 - 11 - 2.jpg|right|thumb|{{c|牛耳洞櫻花爛熳ノ景}}<br />{{c|Cherry Blossom at Gyujido in full bloom.}}]] {{clear}} {{nop}}<noinclude></noinclude> pwuit2udl19w2hvtms5u9i2cja38klo Page:CNTS-00047997640 京元線寫眞帖.pdf/12 250 51413 230178 2025-06-18T14:20:15Z Aspere 20303 /* 未校正 */ ページの作成:「[[File:CNTS-00047997640 京元線寫眞帖 - 12 - 1.jpg|left|thumb|{{c|寒灘江橋梁ノ全景}}<br />{{c|Railway Bridge over R. 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Schaff|フィリップ・シャフ]] | noauthor = | notes = *底本: Philip Schaff, "[[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 26|Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 26]]". *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にかいあきようふとにかいあこきようふ 209 3 4 2 26}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:正教会]] [[Category:ニカイア教父とニカイア後教父]] }} 正教信仰の正確な解説。 ——————————— ==第2巻== ===第26章=== << 出来事(Events) について<ref>περὶ τῶν γινομένων. イベントについて。</ref> >> 出来事<ref>ネメシウス Nemes., ch. 40.</ref>の中には、我々の手にあるものもあれば、そうでないものもあります。我々が自由に行うか行わないか選べるものは、我々の手に握られています。つまり、自発的に行われるすべての行為(我々の手に握っていない行為は自発的とは呼ばれないからです)であり、一言で言えば、非難や賞賛が続き、動機や法則に依存するすべての行為です。厳密に言えば、すべての精神的<ref> τὰ ψυχικὰ πάντα. すべては精神的なもの。</ref>行為と熟慮的行為は我々の手に握られています。さて、熟慮は同等の可能性に関係しています。そして、「同等の可能性」とは、それ自体が我々の力の範囲内にあり、その反対の行為であり、我々の心は選択肢の中から選択します。これが行為の起源です。したがって、私たちの手中にある行為は、これらの平等な可能性である。例えば、感動するかしないか、急ぐか急がないか、不必要なものを欲しがるか欲しがらないか、嘘をつくか嘘をつかないか、与えるか与えないか、状況に応じて喜ぶか喜ばないか、そして、その行為において美徳や悪徳を暗示するあらゆる行為である。なぜなら、私たちはこれらを自由に行うか行わないか、自由に決めることができるからだ。平等な可能性の中には芸術も含まれる。なぜなら、私たちはこれらを自由に育成するかしないか、自由に決めることができるからです。 しかしながら、何をなすべきかを選択する力は常に我々にある一方で、行動そのものが神の摂理によって妨げられることがよくあることに注意する必要があります<ref>Nemes., ch. 37.</ref>。 :::[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第26章#第2巻|トップに戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, "Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 26" を翻訳 --> hvuooc7gnb36exv7tyy3ovc4yah5wmq 京元線寫眞帖 0 51423 230189 2025-06-18T15:39:12Z Aspere 20303 ページの作成:「{{header | title = 京元線寫眞帖 | section = | year = 1915 | 年 = 大正3年 | author = 朝鮮總督府鐵道局 | editor = | notes = [[:w:京元線|京元線]]の開通当時の写真集。 }} <pages index="CNTS-00047997640 京元線寫眞帖.pdf" from="1" to="39"/> {{PD-Japan-auto-expired}} {{DEFAULTSORT:京元線寫眞帖}} [[Category:日本統治時代の朝鮮]] [[Category:鉄道]]」 230189 wikitext text/x-wiki {{header | title = 京元線寫眞帖 | section = | year = 1915 | 年 = 大正3年 | author = 朝鮮總督府鐵道局 | editor = | notes = [[:w:京元線|京元線]]の開通当時の写真集。 }} <pages index="CNTS-00047997640 京元線寫眞帖.pdf" from="1" to="39"/> {{PD-Japan-auto-expired}} {{DEFAULTSORT:京元線寫眞帖}} [[Category:日本統治時代の朝鮮]] [[Category:鉄道]] 8xxcx1s6gqurpymrq52x02wqzgt64dx 230190 230189 2025-06-18T15:39:25Z Aspere 20303 230190 wikitext text/x-wiki {{header | title = 京元線寫眞帖 | section = | year = 1915 | 年 = 大正3 | author = 朝鮮總督府鐵道局 | editor = | notes = [[:w:京元線|京元線]]の開通当時の写真集。 }} <pages index="CNTS-00047997640 京元線寫眞帖.pdf" from="1" to="39"/> {{PD-Japan-auto-expired}} {{DEFAULTSORT:京元線寫眞帖}} [[Category:日本統治時代の朝鮮]] [[Category:鉄道]] 0ilo7bc2gm63sehl6ybbwoov7h1m3z7 ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第27章 0 51424 230191 2025-06-18T15:58:39Z 村田ラジオ 14210 Philip Schaff, "Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 27" を翻訳 230191 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II|第9巻|ダマスコのヨハネ|hide=1}} {{header | title = ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説 | section = 第2巻/第27章 | previous = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第26章|第26章]] | next = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第28章|第28章]] | year = 1885 | 年 = | override_author = [[s:en:Author:John of Damascus|ダマスコのヨハネ]] | override_translator = [[s:en:Author:Stewart Dingwall Fordyce Salmond|S.D.F. サモンド]] | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] | noauthor = | notes = *底本: Philip Schaff, "[[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 27|Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 27]]". *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にかいあきようふとにかいあこきようふ 209 3 4 2 27}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:正教会]] [[Category:ニカイア教父とニカイア後教父]] }} 正教信仰の正確な解説。 ——————————— ==第2巻== ===第27章=== << 私たちに自由意志が与えられている理由について >> したがって、我々は、自由意志<ref>これはネメシウスの著作がコンベフィス(Combefis)によって提供されたものです。</ref>は理性と同時に現れ、変化と改変は生産されるすべてのものに内在すると考える。なぜなら、生産されるすべてのものは変化を受けるからである<ref>Nemes., ch. 41.</ref>。なぜなら、その生産が変化に由来するものは、必ず変化を受けるからである。そして、変化とは、無から生じること、つまり物質の基質を異なるものへと変化させることである。したがって、無生物や理性を持たないものは、前述のような物質的変化を受けるが、理性を備えたものの変化は選択に依存する。なぜなら、理性は思弁的な部分と実践的な部分から構成されるからである。思弁的な部分は事物の性質を熟考することであり、実践的な部分は熟考から成り、何をなすべきかの真の理由を定義する。思弁的な側面は精神あるいは知恵と呼ばれ、実践的な側面は理性あるいは思慮分別と呼ばれる。したがって、熟考する者は皆、何をなすべきかの選択は自分の手の中にあり、熟考の結果として最善と思われるものを選択し、選択した上でそれに基づいて行動することができると信じて熟考する。そしてもしそうであるならば、自由意志は必然的に理性と密接に結びついているに違いない。なぜなら、人間は非理性的な存在であるか、あるいは理性的な存在であれば、自らの行為の主人であり、自由意志を備えているからである。したがって、理性を持たない被造物も自由意志を享受しない。なぜなら、被造物は自然ではなく、自然に導かれるからである。したがって、被造物は自然の欲求に逆らうことなく、欲求が何かを欲しがると、すぐにそれに突き進む。しかし、理性を持つ人間は、自然ではなく、自然に導かれるからである。したがって、何かを欲するとき、欲求を抑制したり、望むように満たしたりする力を持っている。したがって、理性を持たない被造物は賞賛の対象にも非難の対象にもならないが、人間は賞賛と非難の両方の対象となる<ref>この文はバシレイオス訳やいくつかの写本では省略されている。</ref>。 天使は理性を持つがゆえに自由意志を授けられており、創造されたがゆえに変化する可能性があることにも留意すべきである。これは実際、創造主によって善なるものとされたにもかかわらず、自らの自由意志によって悪の創造者となった悪魔、そして悪魔と共に反逆した力<ref>ネメシウスはこれについてさらに詳しく語っています。</ref>、すなわち悪霊たち、そして善なるものの中に宿る他の天使の軍勢によって明らかにされている。 :::[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第27章#第2巻|トップに戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, "Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 27" を翻訳 --> qmu9q82pwomg386u63z056y8i7g7xv6 ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第28章 0 51425 230192 2025-06-18T19:58:06Z 村田ラジオ 14210 Philip Schaff, "Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 28" を翻訳 230192 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II|第9巻|ダマスコのヨハネ|hide=1}} {{header | title = ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説 | section = 第2巻/第28章 | previous = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第27章|第27章]] | next = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第29章|第29章]] | year = 1885 | 年 = | override_author = [[s:en:Author:John of Damascus|ダマスコのヨハネ]] | 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1:13、「神は死を造られず、また生きている者の滅びを喜ばれないからである。」</ref>。むしろ死は人間の業であり、つまり、他のすべての罰と同様に、アダムの罪に起源があるのです。しかし、他のすべてのものは神に帰属しなければなりません。私たちの誕生は神の創造力に、私たちの存続は神の保存力に、私たちの統治と安全は神の摂理力に帰属すべきです。そして、私たちが形作られている自然の法則を守る人々が善を永遠に享受できるのは、神の善良さによるものです。しかし、摂理の存在を否定する人もいるので、摂理についてもう少し詳しく論じてみましょう。 :::[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第28章#第2巻|トップに戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, "Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 28" を翻訳 --> g1ln705nrxxccnl4jmlzz40lvmjvk1a ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第29章 0 51426 230193 2025-06-18T20:50:10Z 村田ラジオ 14210 Philip Schaff, "Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 29" を翻訳 230193 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II|第9巻|ダマスコのヨハネ|hide=1}} {{header | title = ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説 | section = 第2巻/第29章 | previous = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第28章|第28章]] | next = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第30章|第30章]] | year = 1885 | 年 = | override_author = [[s:en:Author:John of Damascus|ダマスコのヨハネ]] | override_translator = [[s:en:Author:Stewart Dingwall Fordyce Salmond|S.D.F. サモンド]] | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] | noauthor = | notes = *底本: Philip Schaff, "[[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 29|Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 29]]". *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にかいあきようふとにかいあこきようふ 209 3 4 2 29}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:正教会]] [[Category:ニカイア教父とニカイア後教父]] }} 正教信仰の正確な解説。 ——————————— ==第2巻== ===第29章=== << 摂理(Providence) について >> 摂理とは、神が存在するものに対して行う配慮のことです。また、摂理とは、存在するすべてのものがそれに応じた結果を得る神の意志です<ref>ネメシウス、43章。</ref>。しかし、摂理が神の意志であるならば、真の理性によれば、摂理によって生じるすべてのものは必然的に最も美しく、最も優れており、他の何物にも凌駕されないものでなければなりません。なぜなら、存在するものの創造者と供給者は必然的に同一人物でなければならないからです。なぜなら、存在するものの創造者と供給者が別々の人物であるのは、不適切であり、また不合理だからです。もしそうであれば、創造において一方が、供給において他方が、確かに両方とも欠陥を抱えることになるからです<ref>同上 42章。</ref>。したがって、神は創造者であり、供給者であり、神の創造力、維持力、供給力は、まさに神の善意にほかなりません。主は御心のままに天と地で行われたのです<ref>詩篇 135:6</ref>。そして、神の御心に逆らう者は誰もいませんでした<ref>ローマ 9:19</ref>。神はすべてのものが存在することを望み、そして万物は存在しました。神は宇宙が形作られることを望み、そしてそれは形作られ、神の御心のままにすべてが成就します。 神が備えてくださること、しかもその備えが見事であること<ref> ネメシウス, 44章。</ref>は、このようにして最も容易に理解できる。神のみが本性上善であり知恵深い。したがって、神は善であるからこそ、備えてくださる。備えない者は善ではない。理性のない人間や被造物でさえ、その本性に従って子孫を養う。備えない者は非難される。また、神は知恵深いからこそ、存在するものに対して最も細心の注意を払われる。 それゆえ、私たちがこれらのことに注意を払うとき、摂理のあらゆる御業に驚嘆し、すべてを賛美し<ref>古写本では πάντα επαινεῖν という単語が不足しています、R.2 。およびNemes.、 ch. 44.</ref>、たとえ多くの者の目には不当に映ったとしても、詮索することなくすべてを受け入れるべきである。なぜなら、神の摂理は私たちの理解と認識を超えているが、私たちの推論、行動、そして未来は、神のみに明らかにされているからである。ここで言う「すべて」とは、私たちの手に負えないものを意味する。私たちの力で制御できるものは、摂理の領域外にあり、私たちの自由意志の領域内にあるからである。 さて、摂理の業は、ある面では神の善意<ref>κατ᾽ εὐδοκίαν. 希望に応じて。</ref>に従い、ある面では許し<ref>κατὰ συγχώρησιν. 許しの意味で。</ref>に従って行われます。善意の業には、紛れもなく善い業がすべて含まれますが、許しの業は……<ref>編集版とCod. R. 2927 では、この箇所に空白がある。他の写本には様々な読み方が見られ、中には意味をなさないものもあれば、明らかに図書館員によって補われたものもある。最も適切な補語は、ネメシウス第44章「τῆς δὲ συγχωρήσεως πολλὰ εἴδη」(しかし、譲歩には様々な形がある)である。</ref>​​です。というのは、摂理はしばしば義人に災難を経験させることを許します。それは、ヨブ<ref>ヨブ記 1:11</ref>の場合のように、彼が内に秘めた美徳を他者に明らかにするためです<ref> Nemes, ch. 44.</ref>。またある面では、十字架を通して人々の救いがもたらされたように、一見奇妙な行為を通して偉大で驚くべきことが成し遂げられるように、摂理は奇妙なことをなされることを許します。またある面では、パウロ<ref>2コリント 2:7</ref>の場合のように、敬虔な人が正しい良心から離れず、与えられた力と恵みによって傲慢に陥らないように、摂理は厳しい試練を受けることを許します。 ある人は、ある人が回復するのを期待して、しばらくの間見捨てられます。それは、他の人々が彼の状態を見て、教訓を学ぶためです<ref>Nemes., ch. 44.</ref>。ラザロと金持ちの場合<ref>ルカ 16:19</ref>がそうです。なぜなら、苦しんでいる人を見ると、落胆してしまうのは、私たちの性分だからです。ある人は、ある人が栄光を受けるために、摂理によって見捨てられます。それは、その人の罪や両親の罪のためではありません。生まれつき盲目だった人が、人の子の栄光のために仕えたように<ref>ヨハネ 9:1</ref>。また、ある人は、他の人々の胸に競争心を掻き立てるために、苦しみを許されます。それは、苦しんでいる人の栄光を称えることによって、殉教者たちの場合のように、将来の栄光と将来の祝福への希望を抱き、断固として苦しみを受け入れるようになるためです。時には、もっとひどい欠点を矯正するために、卑劣な行為に陥ることを許されることもあります。例えば、自分の美徳と正義に誇りを持っている人が不品行に陥ることを神は許しますが、それは、その堕落を通して、その人が自分の弱さを認識し、謙虚になって主に近づき、告白できるようにするためです。 さらに、何をなすべきかという選択は私たち自身の手の中にあること<ref>Nemes., c.27 参照。また、Academ. Questにおけるキケロの摂理に関する記述も参照。</ref>を指摘しておくべきである<ref>Nemes., ch. 37.</ref>。しかし、最終的な結論は、私たちの行いが善である場合には、神の協力にかかっている。神は、その正義に基づき、予知に基づいて、正しい良心をもって善を選ぶ者たちに助けを与えてくださる。一方、私たちの行いが悪である場合には、神の見捨てられ方にかかっている。神は、その正義に基づき、予知に基づいて、私たちから遠ざかっておられる<ref>ミーニュの参考文献を参照。</ref>。 見捨てられには二つの形がある。指導と訓練に関する見捨てられと、完全で絶望的な見捨てられである。前者は、苦しむ者の回復と安全と栄光、あるいは他者の競争心や模倣心、あるいは神の栄光を念頭に置いています。しかし後者は、神が人を救うために可能な限りのことをなさった後も、人が自らの定めた目的のために盲目のまま、治癒されず、あるいはむしろ治癒不可能な状態のままであり、ユダ<ref>マタイによる福音書 26章24節</ref>のように、完全な破滅へと引き渡されることを意味します。神が私たちに恵みを与え、このような見捨てられから私たちを救い出してくださいますように。 さらに、神の摂理には多くの方法があり、言葉で説明することも、心で理解することもできないことに留意してください。 そして、暗く邪悪な運命のあらゆる襲撃は、それを感謝して受け入れる人々の救いに寄与し、確かに助けの使者となることを覚えておいてください。 また、神の本来の望みは、すべての人が救われ、神の国に来ることであったこと<ref>1テモテ 2:4。</ref>を心に留めておく必要があります<ref>クリソストモス『エペソ人への手紙注解』第1章、および、『ヘブル人への手紙注解』第18章を参照。</ref>。神は私たちを罰するために創造されたのではなく、善なる神である限り、神の善良さにあずかるために創造されたのです。しかし、神は正義の神である限り、罪人が罰を受けることが神の意志なのです。 前者は神の先天的な意志と喜びと呼ばれ、神自身から生じます。一方、後者は神の後天的な意志と許しと呼ばれ、私たち自身に起源を持ちます。そして後者は二重であり、一つは導きと訓練に関するものであり、私たちの救いを念頭に置いています。もう一つは、既に述べたように、絶望的で、私たちを完全な罰に導くものです。そして、これは私たちの手に委ねられていない行為<ref>これらの単語は 2つの写本に欠けています。</ref>にも当てはまります。 しかし、私たちの手に委ねられている行為のうち、善なる行為は神の先天的な善意と喜びに依存しますが、邪悪な行為は神の先天的な意志にも後天的な意志にも依存せず、自由意志への譲歩です。なぜなら、強制の結果には、理由も徳もないからです。神<ref>この最後の文は、あるコーデックスには存在しません。</ref>はすべての被造物のために備えをし、すべての被造物を神の助けと訓練の道具とします。しばしば、例えばヨブと豚<ref>マタイによる福音書、8章30節以降</ref>のように、悪魔自身さえもそうします。 :::[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第29章#第2巻|トップに戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, "Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 29" を翻訳 --> nid0tydn0psf1wagg1dm1nllqe6hssx 泥海古記 0 51427 230194 2025-06-18T21:58:14Z Yenistardom 43250 1881年 230194 wikitext text/x-wiki {{header |title={{PAGENAME}} |noauthor=山沢良助 |year=1881 |wikipedia= |notes=[[commons:File:NDL1104652 泥海古記.pdf|泥海古記 1928年版]](81-113頁) }} ;にほんこうき :明治十四年巳歳 (1) :このよふのほんもとなるはどろのうみ ::もとなるかみはつきひさまなり (2) :それよりもつきさまさきにくにとこを ::みさだめつけてひいさまにだんじ (3) :それゆゑにくにとこだちのみことさま ::このかみさまはもとのおやなり (4) :これからはせかいこしらえにんげんを ::こしらえようとそをだんきまり (5) :にんげんをこしらえるにはそれ<の ::どをぐひながたみだすもよふを (6) :みすませばどろうみなかにみえてある ::うをとみいとがまじりいるなり (7) :このうをはかほはにんげんからだには ::うろこなしなるにんげんのはだ (8) :それゆへににんぎようといふうおなるぞ ::みすますところひとすじなるの (9) :こころみてしよちをさしてもらいうけ ::これにしこむるどをぐなるのは (10) :みすませばしやちほことてへんなるの ::いきをいつよくこのせいをみて (11) :もらいうけくてしもうてはこのものの ::こころあじわいひきうけなして (12) :おとこうのいちのどをぐにしこみあり ::にんげんなるのほねのしゆうごう (13) :このうをにくにとこだちがいりこんで ::ふうふをはじめにんげんのたね (14) :それゆへにかみなをつけてだいじんぐ ::これなるかみはいざなぎのかみ (15) :このかみはどこにいますとをもふなら ::とうねんみいの十と六さい (16) :ぞんめいでをわしますなりこのかみは ::もとのやしきのいちのかみなり (17) :みいさまわしろくちなとてはだあいは ::にんげんなるのごとくなるなり (18) :そのこころまつすぐなるをみさだめて ::これをひきよせしよちをさして (19) :まだほかをみすますればかめがゐる ::このがめなるはかわつよくして (20) :ふんばりもつよくてこけぬこのものを ::しよちをさしてくてしもふなり (21) :そのこころあじわいをみてをなごうの ::いちのどをくにしこみたまいて (22) :みいさまにひいさまこころいりこんで ::ふうふをはじめにんげんなるの (23) :なはしろにつかふたこれでいちのかみ ::いざなみのかみいせではげくう (24) :このかみはにんげんなるのもとのをや ::このおやさまわどこにござると (25) :おもふならとうねんみいの八十と ::四さいにてこそやまべのこをり (26) :しよやしきなかやまうじといふやしき ::ぞんめいにてぞをわしますなり (27) :あらわれておわしますなりこのをやは ::このよふにいるにんげんのをや (28) :またかめはにんげんのかわつなぎにも ::つかうたどをぐこれにかみなを (29) :くにさつちこのかみさまわをやさまの ::たいないこもりだきしめござる (30) :ことしから三十年たちたなら ::なわたまひめもとのやしきへ (31) :つれかへりそのうゑなるはいつまでも ::よろずたすけのしゆごくださる (32) :つきよみはしやちほこうなりこれなるは ::にんげんほねのしゆごふのかみ (33) :このかみはとうねんとつてみいの六十と ::一さいにてぞあらはれござる (34) :くもよみはうなぎなるなりこのかみは ::にんげんくいのみしゆごのかみ (35) :このかみはとうねんみいの五きいにて ::ぞんめいにてぞおはしますなり (36) :かしこねはかれいなるなりこのかみは ::にんげにきのしゆごうのかみ (37) :このかみはとうねんみいの八きいにて ::ぞんめいにてぞおはしますなり (38) :たいしよくてんのみことはふぐなるぞ ::このものこころあじはいをみて (39) :にんげんしにいきのときゑんをきる ::これはこのよのはさみなるかみ (40) :このかみはとをねんみいの三十と ::二さいにてこそおはしますなり (41) :おほとのべじきもつのかみこのかみは ::くろぐちなとてひきだしのかみ (42) :このかみはとをねんみいの十と六さい ::ぞんめいにてぞをわしますなり (43) :にんげんのたましいなるのはどろうみに ::いたどじよふこのこころみて (44) :みなのものしよちをさしてもらいうけ ::くてそのこころあぢわいをみて (45) :このやつつにんげんたましいどをぐなり ::これにみなみなかみなをつけて (46) :にんげんのこかずはくをくくまんにて ::くせんくひやく九十九人や (47) :このねんをたちさるならばいんねんの ::もとのやしきゑつれかゑりてぞ (48) :よふきなるゆさなそびをさせますと ::つきひさまよりやくそくをなし (49) :いまここでもとのかみがみにんげんで ::みなぞんめいであらわれている (50) :これまではこのをやさまのでるまでは ::わがからだをばわがものなると (51) :おもていたこころちがいやこのたびは ::をやさまよりのをしゑをきいて (52) :はつめいしてしんじつこころまことをと ::おもふこころはかないのこらず (53) :かりものはめへうるをいとぬくみと ::かわつなぎとしんのほね (54) :のみくいやでいりなるもいきなるも ::これみなかみのかりものなるぞ (55) :このことをうたがふものはさらになし ::これうたがえばごりやくうすし (56) :かりものをまことしんじつをもふなら ::なにかなわんといふことはなし (57) :このやしきにんげんはじめもとのじば ::ここはこのよのをやざとなるぞ (58) :このよふのもとのやしきのいんねんで ::もとのどをぐをうまれござるで (59) :それをばなみすましたまひ四十 ::5ねにぜんにあまくだりあり (60) :にちにちにおはなしありたそのことを ::くわしくふでにしるすものなり (61) :にんげんのいちのどをぐはかめなると ::しやちほことをこれみのうちゑ (62) :これよりも九おく九まんと九せんにん ::九ひやく九十九人こかずを (63) :これぢばでみつかみよさにやどしこみ ::さんねんみつきとどまりありて (64) :これよりなやまとのくにのならはせの ::ひちりのあいだなぬかかかりて (65) :うみをろしのこるやまとはよつかにて ::うみをろしありこれでかみがた (66) :やましろふいがかわちへとさんがこく ::十九にちにてうみをろしあり (67) :そのあとは四十五日であとなるの ::のこるくにぐにうみをろしあり (68) :これゆへに七十五日おびやうち ::うみをろしたるぢばはまやこふ (69) :にんげんはごぶからうまれごぶごぶと ::せいじんをしてさんずんにては (70) :はてましていざなぎさまはこれにてぞ ::をすぎましますこのあとなるは (71) :いざなみのみことさまなりそのはらに ::いちどをしゑたこのしゆごうにて (72) :またをやにもとのにんじゆうやどりこみ ::十つきたちたことなるならば (73) :このにんもごぶからうまれごぶ<と ::せいじんをしてさんずんごぶで (74) :はてましてまたもやおなじたいないに ::もとのにんずうさんどやどりた (75) :このものもごぶからうまれだんだんと ::四寸になりてまたはてました (76) :そのときにいざなみさまもよろこんで ::につこりわらふてもうこれからは (77) :五しやくのひとにわなるとをぼしめし ::おかくれましたそのねんげんは (78) :このねんは九十九年のあいだなり ::三どながらも九十九ねんや (79) :二どめのうみをろしたるばしよふは ::はかしよなりさんどめなるは (80) :さんばらやそこで1みや2はかなり ::さんどさんばらこれまいりしよ (81) :これよりはとりけだものやちくるいに ::八せんやたびうまれかわりて (82) :それゆへにひとなるものはなになりと ::まねをでけますことであるなり (83) :このあいだたちたるならばそのあとは ::つきひさまよりまたごしゆごうで (84) :さるなるをいちにんのこりこれなるは ::くにさつちさまこのはらにてぞ (85) :にんげんをとこ五にのなごふを ::五にんつごふ十人づつを (86) :やどまりてこれもごぶからうまれでて ::八寸のときみづつちわかり (87) :一しやく八寸のときうみやまも ::てんちぢつげつわかりかけたり (88) :一しやく八寸まではひとはらに ::十人づつうまれでるなり (89) :これよりは三じやくまでは一とはらに ::おとこひとりとおなごひとりと (90) :ふたりづつうまれでたなりこのにんを ::三じやくにてものをゆいかけ (91) :それゆえにいまにんげんも三さいで ::ものをいひかけちゑもでけます (92) :これよりいまにおいてもひとはらに ::一にんづつとさだまりなりし (93) :このにんを五しやくなるにうみやまも ::てんちせかいもみなでけました (94) :みづなかをはなれまてしてちのうへに ::あがりましたるそのときまでに (95) :せいじんにおをじてじきもつりうけいも ::ふじゆなきよふあたゑあるなり (96) :だんだんとじきもつにてはくいまわり ::からてんじくへあがりゆくなり (97) :にんげんをさずけたかみのしよこには ::おびやいちじよあらわれてある (98) :このはなしやどりこむのもつきひさま ::うまれでるのもつきひごくろふ (99) :うむときのしゆごふくださるかみさまわ ::たいしよくてんこれなるかみは (100) :たいないのゑんきるかみでほうけきよ ::おおとのべのかみさまなるは (101) :うむときのひきだしのかみしんごんで ::うみだしたあとしまひつなぎは (102) :くにさつちのがみさまでぜんしゆで ::このさんじんはあつけんみようをう (103) :このみかみおびやいつさいごくろふで ::おびやゆるしははらをびいらず (104) :もたれもの七十五日このあいだ ::どくいみいらずこのさんしきを (105) :ゆるしありつねのからだでけがれなし ::おびやゆるしはこのやしきにて (106) :ゆるしだすこれはこのよのににげんを ::はじめかけたるおやのやしきで (107) :このやしきさんぜんせかいこのように ::ほかにあるまいうまれこきよう (108) :にんげんをやどしこみたるやしきなる ::しよこあらわすたすけみちあけ (109) :にんげんにやまいといふてなけれども ::こころちがいのみちがあるゆゑ (110) :このみちはぼんぶこころに八ッあり ::ほしいおしいとかわいにくいと (111) :うらめしとはらだちよくとこうまんと ::これが八ッのこころちがいや (112) :このちがいみのうちなるのあしきいの ::たとゑはなしのむねのほこりや (113) :このほこりつもりかさなるそれゆへに ::やまいなやみもうれいさいなんも (114) :なにもかもみのうちしゆごうかみさまの ::こころなをしのいけんりつぶく (115) :一れつにてんりさまをねんじるは ::八ッのほこり十五さいより (116) :いままでにほこりつけたとおもふこと ::こころしんじつざんげをいたし (117) :ほこりさへすきやかはろたことなれば ::やまいのねえはきれてしもうで (118) :ほかなるによろずたすけもうなじこと ::かないのこらずこころすまして (119) :ねがふならかないむつまじにんげんを ::たがいにたすけるこころあるなら (120) :このこころかみさまよりはみわけして ::よろずたすけやごりやくふかく (121) :このよふもにんげんなるもでけたのは ::つきひさまよりごしゆごうなり (122) :このもとをしりたるものはさらになし ::てんはつきさまぢはひいさまや (123) :このせかいてんちぢつげつおなじこと ::ぢいとてんとはじつのおやなり (124) :ちちはははといふのはてんちふうふや ::なむといふのもおなじことなり (125) :あとなるはどをぐしゆうなりにんげんの ::ごたいのこらずかみのかりもの (126) :かみさまのかりものなるはいちにがん ::これはつきさまかりものなるで (127) :このうちのぬくみいつさいひいさまの ::かりものなるぞみれなむといふ (128) :かわつなぎくにさつちなるかみさまの ::かりものなるぞしんのほねは (129) :つきよみのみことさまのかりものや ::これであみなりのみくいでいり (130) :くもよみのみことさまのかりものや ::これで五りん五たいといふなり (131) :いきふくはかしこねさまのかりものや ::いきでものいふかぜでふきわけ (132) :これこそはなむあみたふと6たいや ::きるかみさまわたいしよくてん (133) :あとなるはおほとのべのかみさまは ::りうけひきだしひやくしようのかみ (134) :このかみもよりあつまりでござるゆゑ ::ほういはつぼうゆるしまします (135) :このうちにひがし三じんおんながみ ::にし三じんはおとこかみなり (136) :たつみいはくにさつちさまぶつぼふの ::ふげんぼさつにだるまべんてん (137) :いぬいはつきよみのかみぶつぼうの ::はちまんぼさつしよとくたいし (138) :ひがしいはくもよみのかみぶつぼうの ::もんじゆぼさつにりうをふしんのふ (139) :やくしさまくすりのしゆごふいしやともに ::しよもつももんじもらゑもごしゆごう (140) :ひつじさるかしこねのかみぶつぼうの ::だいにちさまにほうねんさま (141) :うしとらはたいしよくてんぶつぼうの ::こくぞぼさつみよけんさま (142) :きしぼじんはしづめさまとしゆうらいと ::あがたさまとはおなじことなり (143) :にしとりはおおとのべさまぶつぼうの ::ふどをみよおふこをぼをだいし (144) :このやしきにんげんはじめもとのかみ ::おはしますゆゑよろずたすけを (145) :このよふをはじめてからにいままでは ::このたすけをばできぬことから (146) :これまではいしややくすりもにんげんの ::しゆりこゑにてこしらゑありた (147) :これからはいしやもくすりもまじないも ::おがみきとうもいらんことやで (148) :かみがみのおがみきとうやうらないや ::これにんげんのおんのほをじば (149) :かみさまのおはなしきいてしやんして ::しんじつこころかのたことなら (150) :なににてもかなわんことはなけれども ::こころちがゑばくすりのむなり (151) :にんげんはしにゆくなどといふけれど ::しにゆくやないかりものかやす (152) :かやすのはみのうちほこりつもるゆゑ ::みのうちかみがしりぞきなさる (153) :このことをきものにたとへはなしする ::こころのよごれあらわぬものは (154) :あらわねばきていることができぬから ::なんぼおしてもぬぎすてるなり (155) :きものでもなんぼよごれてあるとても ::みずであらゑばきてきがよろし (156) :にんげんもこころのよごれあろたなら ::かみもよろこびしゆごうくださる (157) :にんげんはしぬるといふはきものうを ::ぬぎすてるのもおなじことなり (158) :かみさまわおはなしばかりでにんげんの ::こころのよごれをあらいなさるで (159) :このはなしみずとかみとはおなじこと ::よごれたるものあらいすまする (160) :たすかるもこころしだいやいちれつに ::はやすこころをすますことなり {{PD-old-auto-1996}} {{DEFAULTSORT:にほんこうき}} [[Category:天理教]] cnzq17l84hkxqzm5m0v8n8ve91pg9kf 230196 230194 2025-06-18T22:01:23Z Yenistardom 43250 どろうみ 230196 wikitext text/x-wiki {{header |title={{PAGENAME}} |noauthor=山沢良助 |year=1881 |wikipedia= |notes=[[commons:File:NDL1104652 泥海古記.pdf|泥海古記 1928年版]](81-113頁) }} ;にほんこうき 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:はてましてまたもやおなじたいないに ::もとのにんずうさんどやどりた (75) :このものもごぶからうまれだんだんと ::四寸になりてまたはてました (76) :そのときにいざなみさまもよろこんで ::につこりわらふてもうこれからは (77) :五しやくのひとにわなるとをぼしめし ::おかくれましたそのねんげんは (78) :このねんは九十九年のあいだなり ::三どながらも九十九ねんや (79) :二どめのうみをろしたるばしよふは ::はかしよなりさんどめなるは (80) :さんばらやそこで1みや2はかなり ::さんどさんばらこれまいりしよ (81) :これよりはとりけだものやちくるいに ::八せんやたびうまれかわりて (82) :それゆへにひとなるものはなになりと ::まねをでけますことであるなり (83) :このあいだたちたるならばそのあとは ::つきひさまよりまたごしゆごうで (84) :さるなるをいちにんのこりこれなるは ::くにさつちさまこのはらにてぞ (85) :にんげんをとこ五にのなごふを ::五にんつごふ十人づつを (86) :やどまりてこれもごぶからうまれでて ::八寸のときみづつちわかり (87) :一しやく八寸のときうみやまも ::てんちぢつげつわかりかけたり (88) :一しやく八寸まではひとはらに ::十人づつうまれでるなり (89) :これよりは三じやくまでは一とはらに ::おとこひとりとおなごひとりと (90) :ふたりづつうまれでたなりこのにんを ::三じやくにてものをゆいかけ (91) :それゆえにいまにんげんも三さいで ::ものをいひかけちゑもでけます (92) :これよりいまにおいてもひとはらに ::一にんづつとさだまりなりし (93) :このにんを五しやくなるにうみやまも ::てんちせかいもみなでけました (94) :みづなかをはなれまてしてちのうへに ::あがりましたるそのときまでに (95) :せいじんにおをじてじきもつりうけいも ::ふじゆなきよふあたゑあるなり (96) :だんだんとじきもつにてはくいまわり ::からてんじくへあがりゆくなり (97) :にんげんをさずけたかみのしよこには ::おびやいちじよあらわれてある (98) :このはなしやどりこむのもつきひさま ::うまれでるのもつきひごくろふ (99) :うむときのしゆごふくださるかみさまわ ::たいしよくてんこれなるかみは (100) :たいないのゑんきるかみでほうけきよ ::おおとのべのかみさまなるは (101) :うむときのひきだしのかみしんごんで ::うみだしたあとしまひつなぎは (102) :くにさつちのがみさまでぜんしゆで ::このさんじんはあつけんみようをう (103) :このみかみおびやいつさいごくろふで ::おびやゆるしははらをびいらず (104) :もたれもの七十五日このあいだ ::どくいみいらずこのさんしきを (105) :ゆるしありつねのからだでけがれなし ::おびやゆるしはこのやしきにて (106) :ゆるしだすこれはこのよのににげんを ::はじめかけたるおやのやしきで (107) :このやしきさんぜんせかいこのように ::ほかにあるまいうまれこきよう (108) :にんげんをやどしこみたるやしきなる ::しよこあらわすたすけみちあけ (109) :にんげんにやまいといふてなけれども ::こころちがいのみちがあるゆゑ (110) :このみちはぼんぶこころに八ッあり ::ほしいおしいとかわいにくいと (111) :うらめしとはらだちよくとこうまんと ::これが八ッのこころちがいや (112) :このちがいみのうちなるのあしきいの ::たとゑはなしのむねのほこりや (113) :このほこりつもりかさなるそれゆへに ::やまいなやみもうれいさいなんも (114) :なにもかもみのうちしゆごうかみさまの ::こころなをしのいけんりつぶく (115) :一れつにてんりさまをねんじるは ::八ッのほこり十五さいより (116) :いままでにほこりつけたとおもふこと ::こころしんじつざんげをいたし (117) :ほこりさへすきやかはろたことなれば ::やまいのねえはきれてしもうで (118) :ほかなるによろずたすけもうなじこと ::かないのこらずこころすまして (119) :ねがふならかないむつまじにんげんを ::たがいにたすけるこころあるなら (120) :このこころかみさまよりはみわけして ::よろずたすけやごりやくふかく (121) :このよふもにんげんなるもでけたのは ::つきひさまよりごしゆごうなり (122) :このもとをしりたるものはさらになし ::てんはつきさまぢはひいさまや (123) :このせかいてんちぢつげつおなじこと ::ぢいとてんとはじつのおやなり (124) :ちちはははといふのはてんちふうふや ::なむといふのもおなじことなり (125) :あとなるはどをぐしゆうなりにんげんの ::ごたいのこらずかみのかりもの (126) :かみさまのかりものなるはいちにがん ::これはつきさまかりものなるで (127) :このうちのぬくみいつさいひいさまの ::かりものなるぞみれなむといふ (128) :かわつなぎくにさつちなるかみさまの ::かりものなるぞしんのほねは (129) :つきよみのみことさまのかりものや ::これであみなりのみくいでいり (130) :くもよみのみことさまのかりものや ::これで五りん五たいといふなり (131) :いきふくはかしこねさまのかりものや ::いきでものいふかぜでふきわけ (132) :これこそはなむあみたふと6たいや ::きるかみさまわたいしよくてん (133) :あとなるはおほとのべのかみさまは ::りうけひきだしひやくしようのかみ (134) :このかみもよりあつまりでござるゆゑ ::ほういはつぼうゆるしまします (135) :このうちにひがし三じんおんながみ ::にし三じんはおとこかみなり (136) :たつみいはくにさつちさまぶつぼふの ::ふげんぼさつにだるまべんてん (137) :いぬいはつきよみのかみぶつぼうの ::はちまんぼさつしよとくたいし (138) :ひがしいはくもよみのかみぶつぼうの ::もんじゆぼさつにりうをふしんのふ (139) :やくしさまくすりのしゆごふいしやともに ::しよもつももんじもらゑもごしゆごう (140) :ひつじさるかしこねのかみぶつぼうの ::だいにちさまにほうねんさま (141) :うしとらはたいしよくてんぶつぼうの ::こくぞぼさつみよけんさま (142) :きしぼじんはしづめさまとしゆうらいと ::あがたさまとはおなじことなり (143) :にしとりはおおとのべさまぶつぼうの ::ふどをみよおふこをぼをだいし (144) :このやしきにんげんはじめもとのかみ ::おはしますゆゑよろずたすけを (145) :このよふをはじめてからにいままでは ::このたすけをばできぬことから (146) :これまではいしややくすりもにんげんの 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::みさだめつけてひいさまにだんじ (3) :それゆゑにくにとこだちのみことさま ::このかみさまはもとのおやなり (4) :これからはせかいこしらえにんげんを ::こしらえようとそをだんきまり (5) :にんげんをこしらえるにはそれ<の ::どをぐひながたみだすもよふを (6) :みすませばどろうみなかにみえてある ::うをとみいとがまじりいるなり (7) :このうをはかほはにんげんからだには ::うろこなしなるにんげんのはだ (8) :それゆへににんぎようといふうおなるぞ ::みすますところひとすじなるの (9) :こころみてしよちをさしてもらいうけ ::これにしこむるどをぐなるのは (10) :みすませばしやちほことてへんなるの ::いきをいつよくこのせいをみて (11) :もらいうけくてしもうてはこのものの ::こころあじわいひきうけなして (12) :おとこうのいちのどをぐにしこみあり ::にんげんなるのほねのしゆうごう (13) :このうをにくにとこだちがいりこんで ::ふうふをはじめにんげんのたね (14) :それゆへにかみなをつけてだいじんぐ ::これなるかみはいざなぎのかみ (15) :このかみはどこにいますとをもふなら ::とうねんみいの十と六さい (16) :ぞんめいでをわしますなりこのかみは ::もとのやしきのいちのかみなり (17) :みいさまわしろくちなとてはだあいは ::にんげんなるのごとくなるなり (18) :そのこころまつすぐなるをみさだめて ::これをひきよせしよちをさして (19) :まだほかをみすますればかめがゐる ::このがめなるはかわつよくして (20) :ふんばりもつよくてこけぬこのものを ::しよちをさしてくてしもふなり (21) :そのこころあじわいをみてをなごうの ::いちのどをくにしこみたまいて (22) :みいさまにひいさまこころいりこんで ::ふうふをはじめにんげんなるの (23) :なはしろにつかふたこれでいちのかみ ::いざなみのかみいせではげくう (24) :このかみはにんげんなるのもとのをや ::このおやさまわどこにござると (25) :おもふならとうねんみいの八十と ::四さいにてこそやまべのこをり (26) :しよやしきなかやまうじといふやしき ::ぞんめいにてぞをわしますなり (27) :あらわれておわしますなりこのをやは ::このよふにいるにんげんのをや (28) :またかめはにんげんのかわつなぎにも ::つかうたどをぐこれにかみなを (29) :くにさつちこのかみさまわをやさまの ::たいないこもりだきしめござる (30) :ことしから三十年たちたなら ::なわたまひめもとのやしきへ (31) :つれかへりそのうゑなるはいつまでも ::よろずたすけのしゆごくださる (32) :つきよみはしやちほこうなりこれなるは ::にんげんほねのしゆごふのかみ (33) :このかみはとうねんとつてみいの六十と ::一さいにてぞあらはれござる (34) :くもよみはうなぎなるなりこのかみは ::にんげんくいのみしゆごのかみ (35) :このかみはとうねんみいの五きいにて ::ぞんめいにてぞおはしますなり (36) :かしこねはかれいなるなりこのかみは ::にんげにきのしゆごうのかみ (37) :このかみはとうねんみいの八きいにて ::ぞんめいにてぞおはしますなり (38) :たいしよくてんのみことはふぐなるぞ ::このものこころあじはいをみて (39) :にんげんしにいきのときゑんをきる ::これはこのよのはさみなるかみ (40) :このかみはとをねんみいの三十と ::二さいにてこそおはしますなり (41) :おほとのべじきもつのかみこのかみは ::くろぐちなとてひきだしのかみ (42) :このかみはとをねんみいの十と六さい ::ぞんめいにてぞをわしますなり (43) :にんげんのたましいなるのはどろうみに ::いたどじよふこのこころみて (44) :みなのものしよちをさしてもらいうけ ::くてそのこころあぢわいをみて (45) :このやつつにんげんたましいどをぐなり ::これにみなみなかみなをつけて (46) :にんげんのこかずはくをくくまんにて ::くせんくひやく九十九人や (47) :このねんをたちさるならばいんねんの ::もとのやしきゑつれかゑりてぞ (48) :よふきなるゆさなそびをさせますと ::つきひさまよりやくそくをなし (49) :いまここでもとのかみがみにんげんで ::みなぞんめいであらわれている (50) :これまではこのをやさまのでるまでは ::わがからだをばわがものなると (51) :おもていたこころちがいやこのたびは 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eably5wa62o631f0ikbvk6heqmuartf みかぐらうた 0 51429 230200 2025-06-18T22:43:04Z Yenistardom 43250 1882年 230200 wikitext text/x-wiki {{header |title={{PAGENAME}} |noauthor=中山みき |year=1882 |wikipedia=みかぐらうた |notes= }} == 第一節 == :あしきをはらうてたすけたまへ ::てんりわうのみこと == 第二節 == :ちよとはなしかみのいふこと ::きいてくれあしきのことは :いはんでなこのよのぢいと ::てんとをかたどりてふうふを :こしらへきたるでなこれハこの ::よのはじめだし == 第三節 == :あしきをはらうてたすけ ::せきこむいちれつすましてかんろだい == 第四節 == === よろづよ八首 === :よろづよのせかい一れつみはらせど ::むねのわかりたものはない :そのはずやといてきかしたことハない ::しらぬがむりでハないわいな :このたびはかみがおもてへあらわれて ::なにかいさいをときゝかす :このところやまとのぢばのかみがたと ::いうていれどももとしらぬ :このもとをくはしくきいた事ならバ ::いかなものでもこいしなる :きゝたくバたづねくるならいうてきかす ::よろづいさいのもとなるを :かみがでゝなにかいさいをとくならバ ::せかい一れついさむなり :一れつにはやくたすけをいそぐから ::せかいのこゝろもいさめかけ == 第五節 == === 一下り目 === :'''一ッ''' 正月こゑのさづけは ::::やれめづらしい :'''二ニ''' につこりさづけもろたら ::::やれたのもしや :'''三ニ''' さんざいこゝろをさだめ :'''四ッ''' よのなか :'''五ッ''' りをふく :'''六ッ''' むしやうにでけまわす :'''七ッ''' なにかにつくりとるなら :'''八ッ''' やまとハほうねんや :'''九ッ''' こゝまでついてこい :'''十ド''' とりめがさだまりた === 二下り目 === :とん/\とんと正月をどりはじめハ ::::やれおもしろい :'''二ッ''' ふしぎなふしんかゝれバ ::::やれにぎはしや :'''三ッ''' みにつく :'''四ッ''' よなほり :'''五ッ''' いづれもつきくるならば :'''六ッ''' むほんのねえをきらふ :'''七ッ''' なんじふをすくひあぐれバ :'''八ッ''' やまひのねをきらふ :'''九ッ''' こゝろをさだめゐやうなら :'''十デ''' ところのをさまりや === 三下り目 === :'''一ッ''' ひのもとしよやしきの ::::つとめのばしよハよのもとや :'''二ッ''' ふしぎなつとめばしよハ ::::たれにたのみはかけねども :'''三ッ''' みなせかいがよりあうて ::::でけたちきたるがこれふしぎ :'''四ッ''' よう/\こゝまでついてきた ::::じつのたすけハこれからや :'''五ッ''' いつもわらはれそしられて ::::めづらしたすけをするほどに :'''六ッ''' むりなねがひはしてくれな ::::ひとすぢごゝろになりてこい :'''七ッ''' なんでもこれからひとすぢに ::::かみにもたれてゆきまする :'''八ッ''' やむほどつらいことハない ::::わしもこれからひのきしん :'''九ッ''' こゝまでしん/\゛したけれど ::::もとのかみとハしらなんだ :'''十ド''' このたびあらはれた ::::じつのかみにはさうゐない === 四下り目 === :'''一ッ''' ひとがなにごといはうとも ::::かみがみているきをしずめ :'''二ッ''' ふたりのこゝろををさめいるよ ::::なにかのことをもあらはれる :'''三ッ''' みなみてゐよそばなもの ::::かみのすることなすことを :'''四ッ''' よるひるどんちやんつとめする ::::そばもやかましうたてかろ :'''五ッ''' いつもたすけがせくからに ::::はやくやうきになりてこい :'''六ッ''' むらかたはやくにたすけたい ::::なれどこゝろがわからいで :'''七ッ''' なにかよろづのたすけあい ::::むねのうちよりしあんせよ :'''八ッ''' やまひのすつきりねはぬける ::::こゝろハだん/\いさみくる :'''九ッ''' こゝはこのよのごくらくや ::::わしもはや/\まゐりたい :'''十ド''' このたびむねのうち ::::すみきりましたがありがたい === 五下り目 === :'''一ッ''' ひろいせかいのうちなれバ ::::たすけるところがまゝあらう :'''二ッ''' ふしぎなたすけハこのところ ::::おびやはうそのゆるしだす :'''三ッ''' みづとかみとはおなじこと ::::こゝろのよごれをあらひきる :'''四ッ''' よくのないものなけれども ::::かみのまへにハよくはない :'''五ツ''' いつまでしん/\゛したとても ::::やうきづくめであるほどに :'''六ッ''' むごいこゝろをうちわすれ ::::やさしきこゝろになりてこい :'''七ッ''' なんでもなんぎハさゝぬぞへ ::::たすけいちじよのこのところ :'''八ッ''' やまとばかりやないほどに ::::くに/\までへもたすけゆく :'''九ッ''' こゝはこのよのもとのぢば ::::めづらしところがあらはれた :::どうでもしん/\゛するならバ ::::かうをむすぼやないかいな === 六下り目 === :'''一ッ''' ひとのこゝろといふものハ ::::うたがひぶかいものなるぞ :'''二ッ''' ふしぎなたすけをするからに ::::いかなることをもみさだめる :'''三ッ''' みなせかいのむねのうち ::::かゞみのごとくにうつるなり :'''四ッ''' ようこそつとめについてきた ::::これがたすけのもとだてや :'''五ツ''' いつもかぐらやてをどりや ::::すゑではめづらしたすけする :'''六ッ''' むしやうやたらにねがひでる ::::うけとるすぢもせんすぢや :'''七ッ''' なんぼしん/\゛したとても ::::こゝろえちがひはならんぞへ :'''八ッ''' やつぱりしん/\゛せにやならん ::::こゝろえちがひはでなほしや :'''九ッ''' こゝまでしん/\゛してからハ ::::ひとつのかうをもみにやならぬ :'''十ド''' このたびみえました ::::あふぎのうかゞひこれふしぎ === 七下り目 === :'''一ッ''' ひとことはなしハひのきしん ::::にほひばかりをかけておく :'''二ッ''' ふかいこゝろがあるなれバ ::::たれもとめるでないほどに :'''三ッ''' みなせかいのこゝろにハ ::::でんぢのいらぬものハない :'''四ッ''' よきぢがあらバ一れつに ::::たれもほしいであらうがな :'''五ツ''' いづれのかたもおなしこと ::::わしもあのぢをもとめたい :'''六ッ''' むりにどうせといはんでな ::::そこはめい/\のむねしだい :'''七ッ''' なんでもでんぢがほしいから ::::あたへハなにほどいるとても :'''八ッ''' やしきハかみのでんぢやで ::::まいたるたねハみなはへる :'''九ッ''' こゝハこのよのでんぢなら ::::わしもしつかりたねをまこ :'''十ド''' このたびいちれつに ::::ようこそたねをまきにきた :::たねをまいたるそのかたハ ::::こえをおかずにつくりとり === 八下り目 === :'''一ッ''' ひろいせかいやくになかに ::::いしもたちきもないかいな :'''二ッ''' ふしぎなふしんをするなれど ::::たれにたのみハかけんでな :'''三ッ''' みなだん/\とせかいから ::::よりきたことならでけてくる :'''四ッ''' よくのこゝろをうちわすれ ::::とくとこゝろをさだめかけ :'''五ツ''' いつまでみあわせゐたるとも ::::うちからするのやないほどに :'''六ッ''' むしやうやたらにせきこむな ::::むねのうちよりしあんせよ :'''七ッ''' なにかこゝろがすんだなら ::::はやくふしんにとりかゝれ :'''八ッ''' やまのなかへといりこんで ::::いしもたちきもみておいた :'''九ッ''' このききらうかあのいしと ::::おもへどかみのむねしだい :'''十ド''' このたびいちれつに ::::すみきりましたがむねのうち === 九下り目 === :'''一ッ''' ひろいせかいをうちまわり ::::一せん二せんでたすけゆく :'''二ッ''' ふじゆうなきやうにしてやらう ::::かみのこゝろにもたれつけ :'''三ッ''' みれバせかいのこゝろにハ ::::よくがまじりてあるほどに :'''四ッ''' よくがあるならやめてくれ ::::かみのうけとりでけんから :'''五ツ''' いづれのかたもおなじこと ::::しあんさだめてついてこい :'''六ッ''' むりにでやうといふでない ::::こゝろさだめのつくまでハ :'''七ッ''' なか/\このたびいちれつに ::::しつかりしあんをせにやならん :'''八ッ''' やまのなかでもあちこちと ::::てんりわうのつとめする :'''九ッ''' こゝでつとめをしてゐれど ::::むねのわかりたものハない :::とてもかみなをよびだせば ::::はやくこもとへたづねでよ === 十下り目 === :'''一ッ''' ひとのこゝろといふものハ ::::ちよとにわからんものなるぞ :'''二ッ''' ふしぎなたすけをしてゐれど ::::あらはれでるのがいまはじめ :'''三ッ''' みづのなかなるこのどろう ::::はやくいだしてもらひたい :'''四ッ''' よくにきりないどろみづや ::::こゝろすみきれごくらくや :'''五ツ''' いつ/\までもこのことハ ::::はなしのたねになるほどに :'''六ッ''' むごいことばをだしたるも ::::はやくたすけをいそぐから :'''七ッ''' なんぎするのもこゝろから ::::わがみうらみであるほどに :'''八ッ''' やまひはつらいものなれど ::::もとをしりたるものハない :'''九ッ''' このたびまでハいちれつに ::::やまひのもとハしれなんだ :'''十ド''' このたびあらはれた ::::やまひのもとハこゝろから === 十一下り目 === :'''一ッ''' ひのもとしよやしきの ::::かみのやかたのぢばさだめ :'''二ッ''' ふうふそろうてひのきしん ::::これがだいゝちものだねや :'''三ッ''' みれバせかいがだん/\と ::::もつこになうてひのきしん :'''四ッ''' よくをわすれてひのきしん ::::これがだいゝちこえとなる :'''五ツ''' いつ/\までもつちもちや ::::まだあるならバわしもゆこ :'''六ッ''' むりにとめるやないほどに ::::こゝろあるならたれなりと :'''七ッ''' なにかめづらしつちもちや ::::これがきしんとなるならバ :'''八ッ''' やしきのつちをほりとりて ::::ところかへるばかりやで :'''九ッ''' このたびまではいちれつに ::::むねがわからんざんねんな :'''十ド''' ことしハこえおかず ::::じふぶんものをつくりとり ::::やれたのもしやありがたや === 十二下り目 === :'''一ッ''' いちにだいくのうかゞひに ::::なにかのこともまかせおく :'''二ッ''' ふしぎなふしんをするならバ ::::うかゞひたてゝていひつけよ :'''三ッ''' みなせかいからだん/\と ::::きたるだいくににほいかけ :'''四ッ''' よきとうりやうかあるならバ ::::はやくこもとへよせておけ :'''五ツ''' いづれとうりやうよにんいる ::::はやくうかゞいたてゝみよ :'''六ッ''' むりにこいとハいはんでな ::::いづれだん/\つきくるで :'''七ッ''' なにかめづらしこのふしん ::::しかけたことならきりハない :'''八ッ''' やまのなかへとゆくならバ ::::あらきとうりやうつれてゆけ :'''九ッ''' これハこざいくとうりやうや ::::たてまへとうりやうこれかんな :'''十ド''' このたびいちれつに ::::だいくのにんもそろひきた {{PD-old-auto-1996|deathyear=1887}} {{DEFAULTSORT:みかぐらうた}} [[Category:天理教]] jry2xkt7ubbmqwykm769m8aztqmj6ra 230201 230200 2025-06-18T22:43:50Z Yenistardom 43250 神楽歌 230201 wikitext text/x-wiki {{header |title={{PAGENAME}} |noauthor=中山みき |year=1882 |wikipedia=みかぐらうた |notes=みかぐらうた(神楽歌)は、天理教の聖典のひとつ。または天理教の儀式で、おつとめの地歌である。 }} == 第一節 == :あしきをはらうてたすけたまへ ::てんりわうのみこと == 第二節 == :ちよとはなしかみのいふこと ::きいてくれあしきのことは :いはんでなこのよのぢいと ::てんとをかたどりてふうふを :こしらへきたるでなこれハこの ::よのはじめだし == 第三節 == :あしきをはらうてたすけ ::せきこむいちれつすましてかんろだい == 第四節 == === よろづよ八首 === :よろづよのせかい一れつみはらせど ::むねのわかりたものはない :そのはずやといてきかしたことハない ::しらぬがむりでハないわいな :このたびはかみがおもてへあらわれて ::なにかいさいをときゝかす :このところやまとのぢばのかみがたと ::いうていれどももとしらぬ :このもとをくはしくきいた事ならバ ::いかなものでもこいしなる :きゝたくバたづねくるならいうてきかす ::よろづいさいのもとなるを :かみがでゝなにかいさいをとくならバ ::せかい一れついさむなり :一れつにはやくたすけをいそぐから ::せかいのこゝろもいさめかけ == 第五節 == === 一下り目 === :'''一ッ''' 正月こゑのさづけは ::::やれめづらしい :'''二ニ''' につこりさづけもろたら ::::やれたのもしや :'''三ニ''' さんざいこゝろをさだめ :'''四ッ''' よのなか :'''五ッ''' りをふく :'''六ッ''' むしやうにでけまわす :'''七ッ''' なにかにつくりとるなら :'''八ッ''' やまとハほうねんや :'''九ッ''' こゝまでついてこい :'''十ド''' とりめがさだまりた === 二下り目 === :とん/\とんと正月をどりはじめハ ::::やれおもしろい :'''二ッ''' ふしぎなふしんかゝれバ ::::やれにぎはしや :'''三ッ''' みにつく :'''四ッ''' よなほり :'''五ッ''' いづれもつきくるならば :'''六ッ''' むほんのねえをきらふ :'''七ッ''' なんじふをすくひあぐれバ :'''八ッ''' やまひのねをきらふ :'''九ッ''' こゝろをさだめゐやうなら :'''十デ''' ところのをさまりや === 三下り目 === :'''一ッ''' ひのもとしよやしきの ::::つとめのばしよハよのもとや :'''二ッ''' ふしぎなつとめばしよハ ::::たれにたのみはかけねども :'''三ッ''' みなせかいがよりあうて ::::でけたちきたるがこれふしぎ :'''四ッ''' よう/\こゝまでついてきた ::::じつのたすけハこれからや :'''五ッ''' いつもわらはれそしられて ::::めづらしたすけをするほどに :'''六ッ''' むりなねがひはしてくれな ::::ひとすぢごゝろになりてこい :'''七ッ''' なんでもこれからひとすぢに ::::かみにもたれてゆきまする :'''八ッ''' やむほどつらいことハない 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:'''十ド''' このたびむねのうち ::::すみきりましたがありがたい === 五下り目 === :'''一ッ''' ひろいせかいのうちなれバ ::::たすけるところがまゝあらう :'''二ッ''' ふしぎなたすけハこのところ ::::おびやはうそのゆるしだす :'''三ッ''' みづとかみとはおなじこと ::::こゝろのよごれをあらひきる :'''四ッ''' よくのないものなけれども ::::かみのまへにハよくはない :'''五ツ''' いつまでしん/\゛したとても ::::やうきづくめであるほどに :'''六ッ''' むごいこゝろをうちわすれ ::::やさしきこゝろになりてこい :'''七ッ''' なんでもなんぎハさゝぬぞへ ::::たすけいちじよのこのところ :'''八ッ''' やまとばかりやないほどに ::::くに/\までへもたすけゆく :'''九ッ''' こゝはこのよのもとのぢば ::::めづらしところがあらはれた :::どうでもしん/\゛するならバ ::::かうをむすぼやないかいな === 六下り目 === :'''一ッ''' ひとのこゝろといふものハ ::::うたがひぶかいものなるぞ :'''二ッ''' ふしぎなたすけをするからに ::::いかなることをもみさだめる :'''三ッ''' みなせかいのむねのうち ::::かゞみのごとくにうつるなり :'''四ッ''' ようこそつとめについてきた ::::これがたすけのもとだてや :'''五ツ''' いつもかぐらやてをどりや ::::すゑではめづらしたすけする :'''六ッ''' むしやうやたらにねがひでる ::::うけとるすぢもせんすぢや :'''七ッ''' なんぼしん/\゛したとても ::::こゝろえちがひはならんぞへ :'''八ッ''' やつぱりしん/\゛せにやならん ::::こゝろえちがひはでなほしや :'''九ッ''' こゝまでしん/\゛してからハ ::::ひとつのかうをもみにやならぬ :'''十ド''' このたびみえました ::::あふぎのうかゞひこれふしぎ === 七下り目 === :'''一ッ''' ひとことはなしハひのきしん ::::にほひばかりをかけておく :'''二ッ''' ふかいこゝろがあるなれバ ::::たれもとめるでないほどに :'''三ッ''' みなせかいのこゝろにハ ::::でんぢのいらぬものハない :'''四ッ''' よきぢがあらバ一れつに ::::たれもほしいであらうがな :'''五ツ''' いづれのかたもおなしこと ::::わしもあのぢをもとめたい :'''六ッ''' むりにどうせといはんでな ::::そこはめい/\のむねしだい :'''七ッ''' なんでもでんぢがほしいから ::::あたへハなにほどいるとても :'''八ッ''' やしきハかみのでんぢやで ::::まいたるたねハみなはへる :'''九ッ''' こゝハこのよのでんぢなら ::::わしもしつかりたねをまこ :'''十ド''' このたびいちれつに ::::ようこそたねをまきにきた :::たねをまいたるそのかたハ ::::こえをおかずにつくりとり === 八下り目 === :'''一ッ''' ひろいせかいやくになかに ::::いしもたちきもないかいな :'''二ッ''' ふしぎなふしんをするなれど ::::たれにたのみハかけんでな :'''三ッ''' みなだん/\とせかいから ::::よりきたことならでけてくる :'''四ッ''' よくのこゝろをうちわすれ ::::とくとこゝろをさだめかけ :'''五ツ''' いつまでみあわせゐたるとも ::::うちからするのやないほどに :'''六ッ''' むしやうやたらにせきこむな ::::むねのうちよりしあんせよ :'''七ッ''' なにかこゝろがすんだなら ::::はやくふしんにとりかゝれ :'''八ッ''' やまのなかへといりこんで ::::いしもたちきもみておいた :'''九ッ''' このききらうかあのいしと ::::おもへどかみのむねしだい :'''十ド''' このたびいちれつに ::::すみきりましたがむねのうち === 九下り目 === :'''一ッ''' ひろいせかいをうちまわり ::::一せん二せんでたすけゆく :'''二ッ''' ふじゆうなきやうにしてやらう ::::かみのこゝろにもたれつけ :'''三ッ''' みれバせかいのこゝろにハ ::::よくがまじりてあるほどに :'''四ッ''' よくがあるならやめてくれ ::::かみのうけとりでけんから :'''五ツ''' いづれのかたもおなじこと ::::しあんさだめてついてこい :'''六ッ''' むりにでやうといふでない ::::こゝろさだめのつくまでハ :'''七ッ''' なか/\このたびいちれつに ::::しつかりしあんをせにやならん :'''八ッ''' やまのなかでもあちこちと ::::てんりわうのつとめする :'''九ッ''' こゝでつとめをしてゐれど ::::むねのわかりたものハない :::とてもかみなをよびだせば ::::はやくこもとへたづねでよ === 十下り目 === :'''一ッ''' ひとのこゝろといふものハ ::::ちよとにわからんものなるぞ :'''二ッ''' ふしぎなたすけをしてゐれど ::::あらはれでるのがいまはじめ :'''三ッ''' みづのなかなるこのどろう ::::はやくいだしてもらひたい :'''四ッ''' よくにきりないどろみづや ::::こゝろすみきれごくらくや :'''五ツ''' いつ/\までもこのことハ ::::はなしのたねになるほどに :'''六ッ''' むごいことばをだしたるも ::::はやくたすけをいそぐから :'''七ッ''' なんぎするのもこゝろから ::::わがみうらみであるほどに :'''八ッ''' やまひはつらいものなれど ::::もとをしりたるものハない :'''九ッ''' このたびまでハいちれつに ::::やまひのもとハしれなんだ :'''十ド''' このたびあらはれた ::::やまひのもとハこゝろから === 十一下り目 === :'''一ッ''' ひのもとしよやしきの ::::かみのやかたのぢばさだめ :'''二ッ''' ふうふそろうてひのきしん ::::これがだいゝちものだねや :'''三ッ''' みれバせかいがだん/\と ::::もつこになうてひのきしん :'''四ッ''' よくをわすれてひのきしん ::::これがだいゝちこえとなる :'''五ツ''' いつ/\までもつちもちや ::::まだあるならバわしもゆこ :'''六ッ''' むりにとめるやないほどに ::::こゝろあるならたれなりと :'''七ッ''' なにかめづらしつちもちや ::::これがきしんとなるならバ :'''八ッ''' やしきのつちをほりとりて ::::ところかへるばかりやで :'''九ッ''' このたびまではいちれつに ::::むねがわからんざんねんな :'''十ド''' ことしハこえおかず ::::じふぶんものをつくりとり ::::やれたのもしやありがたや === 十二下り目 === :'''一ッ''' いちにだいくのうかゞひに ::::なにかのこともまかせおく :'''二ッ''' ふしぎなふしんをするならバ ::::うかゞひたてゝていひつけよ :'''三ッ''' みなせかいからだん/\と ::::きたるだいくににほいかけ :'''四ッ''' よきとうりやうかあるならバ ::::はやくこもとへよせておけ :'''五ツ''' いづれとうりやうよにんいる ::::はやくうかゞいたてゝみよ :'''六ッ''' むりにこいとハいはんでな ::::いづれだん/\つきくるで :'''七ッ''' なにかめづらしこのふしん ::::しかけたことならきりハない :'''八ッ''' やまのなかへとゆくならバ ::::あらきとうりやうつれてゆけ :'''九ッ''' これハこざいくとうりやうや ::::たてまへとうりやうこれかんな :'''十ド''' このたびいちれつに ::::だいくのにんもそろひきた {{PD-old-auto-1996|deathyear=1887}} {{DEFAULTSORT:みかぐらうた}} [[Category:天理教]] bzs0dsmrr69oviihxshh0gukaqhipcb ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第30章 0 51430 230203 2025-06-18T22:53:03Z 村田ラジオ 14210 Philip Schaff, "Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 30" を翻訳 230203 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II|第9巻|ダマスコのヨハネ|hide=1}} {{header | title = ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説 | section = 第2巻/第30章 | previous = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第29章|第29章]] | next = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻|第3巻]] | year = 1885 | 年 = | override_author = [[s:en:Author:John of Damascus|ダマスコのヨハネ]] | override_translator = [[s:en:Author:Stewart Dingwall Fordyce Salmond|S.D.F. サモンド]] | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] | noauthor = | notes = *底本: Philip Schaff, "[[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 29|Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 29]]". *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にかいあきようふとにかいあこきようふ 209 3 4 2 30}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:正教会]] [[Category:ニカイア教父とニカイア後教父]] }} 正教信仰の正確な解説。 ——————————— ==第2巻== ===第30章=== << 予知と予定について >> 神はすべてのことをあらかじめ知っておられるが、すべてをあらかじめ定めておられるわけではない<ref>クリソストモス『エペソ人への手紙注解』説教12</ref>ということを、私たちは理解すべきである<ref> Maximus, Vita, n. 8; Just. Martyr, Apol. 1; Tatian, Or. ad Græcos; Origen, Ep. ad Rom. 1; Jerome, on Ezek. c. xxiv., &c. を参照。</ref>。神は、私たちの力でできることはあらかじめ知っておられるが、それをあらかじめ定めておられるわけではない。神は悪があることを望まれず、また善を強制されることも望まれないからである。したがって、その予定は、予知に基づく神の命令の働きである<ref>Act. S. Max .</ref>。しかし一方で、神は、私たちの力でできないことを、その予知に基づいてあらかじめ定めておられる。というのは、神はすでにその予知において、その善と正義に従って、すべてのことをあらかじめ判断しておられるからである。 また、徳は神から私たちの本性に植え付けられた賜物であり、神自身がすべての善の源であり原因であり、神の協力<ref>Clem. Alex., Quis dives salvetur; Greg. Naz., Orat. 31; Chrysost., Hom. 45in Joann., Hom. in Ep. ad Hebr. xii. 2, Hom. 15 in Ep. ad Rom.; Cyril, De ador. in Spir. et ver., p. 25; Petavius, Dogm., vol. i., bk. ix. c. 4, &c. を参照。</ref>と助けなしには、私たちは善を望んだり行ったりすることはできないことを心に留めておきましょう<ref>Clem. Alex., Strom., bk. vi.; Jerome, on Ep. ad Gal., ch. 1; Greg. Naz, Carmen de virt. hum. を参照。</ref>。しかし、私たちには、徳にとどまり、徳の道へと私たちを招いてくださる神に従うか、徳の道から迷い、悪にとどまり、私たちを招き入れはしても強制することのできない悪魔に従うか、どちらかを選ぶ力があります。悪とは善の退却にほかならず、闇とは光の退却にほかならないのと同じです。私たちが自然な状態にとどまっている間は徳にとどまっていますが、自然な状態、すなわち徳から逸脱すると、不自然な状態に陥り、悪にとどまることになります<ref>参照。infra, bk. iii. ch. 14.</ref>。 回心(悔い改め)とは、規律と努力を通じて、不自然な状態から自然な状態へ、悪魔から神へ戻ることです。 そこで創造主は人間を人として創造し、御自身の神の恵みにあずからせ、御自身との交わりへと導かれました。こうして神は預言者のように、生き物に名を与え、あたかも奴隷であるかのように権威を与えました。神のかたちに似せて理性と知性と自由意志を授けられた人間は、万物の共通の創造主であり主人である方から、地上の万物に対する支配権を託されたのです。 しかし神は、その予知<ref>ὁ προγνώστης Θεός. 予知する神。Athanas., in Psalm 1; Chrysost. in Hom. 18 in Gen.; Greg. Nyss., De opif. hom.; Athanas., Minor, Quest. 50 ad Antioch.; Thomas Aquinas I., Quæst. 98, Art. 2. を見てください。</ref>において、人間が罪を犯して滅びることを知っておられたので、人間から一人の女を創造されました。それは、人間自身と同様に人間の助けとなる者、すなわち、罪を犯した後、世代から世代へと人類を存続させるための助けとなる者です。なぜなら、最初の形成は「創造」と呼ばれ、「生成」とは呼ばれないからです。「創造」とは神の手による最初の形成であり、「生成」とは、罪を犯したために私たちに課せられた死の宣告によって、互いに受け継がれることだからです。 神はこの人<ref>Greg. Nyss., De opif., ch. 20.</ref>を、霊的かつ感覚的な住まいである楽園に置かれた。彼は肉体においては地上で感覚の領域に住み、霊においては天使たちの間で暮らし、神聖な思想を育み、それによって支えられていた。彼は、人為から解放された、飾らない簡素な生活を送り、創造物を通して唯一の創造主へと導かれ、創造主を観想することの中に喜びと楽しみを見出した<ref>テキスト εὐφραινόμενος. 異なる写本 σεμνυνόμενος.</ref>。 それゆえ、神はその本性に自由意志を与えた後、知恵の木の​​実を食べてはならないという戒めを人間に課しました。この木については、楽園の章で必要なこと、少なくとも私たちが言える限りのことを述べました。そしてこの戒めによって、神は次の約束を与えました。もし人間が理性に勝利を与え、創造主を認め、その戒めを守ることによって魂の尊厳を保つならば、永遠の祝福にあずかり、死よりも力強いことを証明して永遠に生きるでしょう。しかし、もし人間が魂を肉体に従属させ、肉体の快楽を優先し、真の尊厳を知らずに無分別な獣<ref>詩篇 49:12</ref>と自分を比べ、創造主のくびきを振り払い、その神聖な戒めを無視するならば、死と腐敗に陥り、惨めな生涯を全うすることになるのです。なぜなら、試されず、証明されないうちに不滅を得ることは、人間にとって何の益にもならないからです。そうしないと、人は傲慢に陥り、悪魔の裁きを受けることになるからです。悪魔は自らの自由な選択によって堕落し、その不滅によって悪の中にしっかりと根を下ろしました。そのため、悔い改めの余地も、変化​​の希望もありませんでした。同様に、天使たちも、自らの自由な選択によって徳を得たとき、恵みによって善の中に揺るぎなく根を下ろしました。 それゆえ、まず人間は試練を受けねばならず(試されず証明されない人間<ref> ἀδοκιμος; in Cod. R. 2 ἀδοκίμαστον.</ref>は何の価値もない<ref>この括弧は、ほとんどすべての写本や Faber などの翻訳では存在しません。</ref>)、戒律の遵守を通して試練によって完全とされ、その徳の報酬として不滅を受けるべきであった。なぜなら、神と物質の中間に位置する存在である人間は、戒律を守れば、存在する事物との自然な関係から解放され、神の状態と一体となり、善の中に揺るぎなく確立されることが運命づけられていたからである。しかし、戒律に違反し、むしろ物質的なものに傾倒し、自らの存在の創造主、すなわち神から精神を引き離すならば、その運命は滅びであり、無情ではなく情欲に支配され、不死ではなく死すべき存在となり、繋がりと不安定な生成に依存するようになるのである。そして、生への欲望の中で、快楽に執着し、それがそれを維持するために必要であるかのように、それを奪おうとする者を恐れることなく嫌悪し、神への欲望を物質へと、そして救いの真の敵である同胞への怒りへと移した。悪魔の嫉妬<ref>参照: Greg. Naz., Orat. 38 および 42、Cyril Alex., Cont. Anthrop., I. 8、Anast. II. Antioch., Hexaëm. vi、Chrysost., 『ローマ人への手紙注解』Hom. 10 、『エペソ人への手紙注解』Hom. 5 、他。</ref>こそが、人間の堕落の原因であった。嫉妬に満ち、善を憎むあの悪魔は、自らの傲慢さゆえに下等な境遇に置かれたにもかかわらず、私たちが天国の快楽を享受することを許さなかった。こうして、偽りの悪魔は、惨めな人間を神への希望で誘惑し、自分と同じくらい傲慢さの頂点へと導き、同じ深さの破滅の穴へと突き落とすのである。 :::[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第30章#第2巻|トップに戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, "Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 30" を翻訳 --> 2msdln6u1upp179dkjd0z9j9cibjtfz 230205 230203 2025-06-19T00:04:23Z 村田ラジオ 14210 校正: 底本情報の訂正 230205 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II|第9巻|ダマスコのヨハネ|hide=1}} {{header | title = ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説 | section = 第2巻/第30章 | previous = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第29章|第29章]] | next = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻|第3巻]] | year = 1885 | 年 = | override_author = [[s:en:Author:John of Damascus|ダマスコのヨハネ]] | override_translator = [[s:en:Author:Stewart Dingwall Fordyce Salmond|S.D.F. サモンド]] | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] | noauthor = | notes = *底本: Philip Schaff, "[[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 30|Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 30]]". *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にかいあきようふとにかいあこきようふ 209 3 4 2 30}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:正教会]] [[Category:ニカイア教父とニカイア後教父]] }} 正教信仰の正確な解説。 ——————————— ==第2巻== ===第30章=== << 予知と予定について >> 神はすべてのことをあらかじめ知っておられるが、すべてをあらかじめ定めておられるわけではない<ref>クリソストモス『エペソ人への手紙注解』説教12</ref>ということを、私たちは理解すべきである<ref> Maximus, Vita, n. 8; Just. 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Nyss., De opif., ch. 20.</ref>を、霊的かつ感覚的な住まいである楽園に置かれた。彼は肉体においては地上で感覚の領域に住み、霊においては天使たちの間で暮らし、神聖な思想を育み、それによって支えられていた。彼は、人為から解放された、飾らない簡素な生活を送り、創造物を通して唯一の創造主へと導かれ、創造主を観想することの中に喜びと楽しみを見出した<ref>テキスト εὐφραινόμενος. 異なる写本 σεμνυνόμενος.</ref>。 それゆえ、神はその本性に自由意志を与えた後、知恵の木の​​実を食べてはならないという戒めを人間に課しました。この木については、楽園の章で必要なこと、少なくとも私たちが言える限りのことを述べました。そしてこの戒めによって、神は次の約束を与えました。もし人間が理性に勝利を与え、創造主を認め、その戒めを守ることによって魂の尊厳を保つならば、永遠の祝福にあずかり、死よりも力強いことを証明して永遠に生きるでしょう。しかし、もし人間が魂を肉体に従属させ、肉体の快楽を優先し、真の尊厳を知らずに無分別な獣<ref>詩篇 49:12</ref>と自分を比べ、創造主のくびきを振り払い、その神聖な戒めを無視するならば、死と腐敗に陥り、惨めな生涯を全うすることになるのです。なぜなら、試されず、証明されないうちに不滅を得ることは、人間にとって何の益にもならないからです。そうしないと、人は傲慢に陥り、悪魔の裁きを受けることになるからです。悪魔は自らの自由な選択によって堕落し、その不滅によって悪の中にしっかりと根を下ろしました。そのため、悔い改めの余地も、変化​​の希望もありませんでした。同様に、天使たちも、自らの自由な選択によって徳を得たとき、恵みによって善の中に揺るぎなく根を下ろしました。 それゆえ、まず人間は試練を受けねばならず(試されず証明されない人間<ref> ἀδοκιμος; in Cod. R. 2 ἀδοκίμαστον.</ref>は何の価値もない<ref>この括弧は、ほとんどすべての写本や Faber などの翻訳では存在しません。</ref>)、戒律の遵守を通して試練によって完全とされ、その徳の報酬として不滅を受けるべきであった。なぜなら、神と物質の中間に位置する存在である人間は、戒律を守れば、存在する事物との自然な関係から解放され、神の状態と一体となり、善の中に揺るぎなく確立されることが運命づけられていたからである。しかし、戒律に違反し、むしろ物質的なものに傾倒し、自らの存在の創造主、すなわち神から精神を引き離すならば、その運命は滅びであり、無情ではなく情欲に支配され、不死ではなく死すべき存在となり、繋がりと不安定な生成に依存するようになるのである。そして、生への欲望の中で、快楽に執着し、それがそれを維持するために必要であるかのように、それを奪おうとする者を恐れることなく嫌悪し、神への欲望を物質へと、そして救いの真の敵である同胞への怒りへと移した。悪魔の嫉妬<ref>参照: Greg. Naz., Orat. 38 および 42、Cyril Alex., Cont. Anthrop., I. 8、Anast. II. Antioch., Hexaëm. vi、Chrysost., 『ローマ人への手紙注解』Hom. 10 、『エペソ人への手紙注解』Hom. 5 、他。</ref>こそが、人間の堕落の原因であった。嫉妬に満ち、善を憎むあの悪魔は、自らの傲慢さゆえに下等な境遇に置かれたにもかかわらず、私たちが天国の快楽を享受することを許さなかった。こうして、偽りの悪魔は、惨めな人間を神への希望で誘惑し、自分と同じくらい傲慢さの頂点へと導き、同じ深さの破滅の穴へと突き落とすのである。 :::[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第30章#第2巻|トップに戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, "Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 30" を翻訳 --> cssd9tz7qsl1ymmfbgnkk3clhq5o4tv 230206 230205 2025-06-19T06:45:42Z 村田ラジオ 14210 校正 230206 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II|第9巻|ダマスコのヨハネ|hide=1}} {{header | title = ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説 | section = 第2巻/第30章 | previous = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第29章|第29章]] | next = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻|第3巻]] | year = 1885 | 年 = | override_author = [[s:en:Author:John of Damascus|ダマスコのヨハネ]] | override_translator = [[s:en:Author:Stewart Dingwall Fordyce Salmond|S.D.F. サモンド]] | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] | noauthor = | notes = *底本: Philip Schaff, "[[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 30|Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 30]]". *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にかいあきようふとにかいあこきようふ 209 3 4 2 30}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:正教会]] [[Category:ニカイア教父とニカイア後教父]] }} 正教信仰の正確な解説。 ——————————— ==第2巻== ===第30章=== << 予知と予定について >> 神はすべてのことをあらかじめ知っておられるが、すべてをあらかじめ定めておられるわけではない<ref>クリソストモス『エペソ人への手紙注解』説教12</ref>ということを、私たちは理解すべきである<ref> Maximus, Vita, n. 8; Just. Martyr, Apol. 1; Tatian, Or. ad Græcos; Origen, Ep. ad Rom. 1; Jerome, on Ezek. c. xxiv., &c. を参照。</ref>。神は、私たちの力でできることはあらかじめ知っておられるが、それをあらかじめ定めておられるわけではない。神は悪があることを望まれず、また善を強制されることも望まれないからである。したがって、その予定は、予知に基づく神の命令の働きである<ref>Act. S. Max .</ref>。しかし一方で、神は、私たちの力でできないことを、その予知に基づいてあらかじめ定めておられる。というのは、神はすでにその予知において、その善と正義に従って、すべてのことをあらかじめ判断しておられるからである。 また、徳は神から私たちの本性に植え付けられた賜物であり、神自身がすべての善の源であり原因であり、神の協力<ref>Clem. Alex., Quis dives salvetur; Greg. Naz., Orat. 31; Chrysost., Hom. 45in Joann., Hom. in Ep. ad Hebr. xii. 2, Hom. 15 in Ep. ad Rom.; Cyril, De ador. in Spir. et ver., p. 25; Petavius, Dogm., vol. i., bk. ix. c. 4, &c. を参照。</ref>と助けなしには、私たちは善を望んだり行ったりすることはできないことを心に留めておきましょう<ref>Clem. Alex., Strom., bk. vi.; Jerome, on Ep. ad Gal., ch. 1; Greg. Naz, Carmen de virt. hum. を参照。</ref>。しかし、私たちには、徳にとどまり、徳の道へと私たちを招いてくださる神に従うか、徳の道から迷い、悪にとどまり、私たちを招き入れはしても強制することのできない悪魔に従うか、どちらかを選ぶ力があります。悪とは善の退却にほかならず、闇とは光の退却にほかならないのと同じです。私たちが自然な状態にとどまっている間は徳にとどまっていますが、自然な状態、すなわち徳から逸脱すると、不自然な状態に陥り、悪にとどまることになります<ref>参照。infra, bk. iii. ch. 14.</ref>。 回心(悔い改め)とは、規律と努力を通じて、不自然な状態から自然な状態へ、悪魔から神へ戻ることです。 そこで創造主は人間を男性として創造し、御自身の神の恵みにあずからせ、御自身との交わりへと導かれました。こうして神は預言者のように、生き物に名を与え、あたかも奴隷であるかのように権威を与えました。神のかたちに似せて理性と知性と自由意志を授けられた人間は、万物の共通の創造主であり主人である方から、地上の万物に対する支配権を託されたのです。 しかし神は、その予知<ref>ὁ προγνώστης Θεός. 予知する神。Athanas., in Psalm 1; Chrysost. in Hom. 18 in Gen.; Greg. Nyss., De opif. hom.; Athanas., Minor, Quest. 50 ad Antioch.; Thomas Aquinas I., Quæst. 98, Art. 2. を見てください。</ref>において、人間が罪を犯して滅びることを知っておられたので、人間から女性を創造されました。それは、人間自身と同様に人間の助けとなる者、すなわち、罪を犯した後、世代から世代へと人類を存続させるための助けとなる者です。なぜなら、最初の形成は「創造」と呼ばれ、「生成」とは呼ばれないからです。「創造」とは神の手による最初の形成であり、「生成」とは、罪を犯したために私たちに課せられた死の宣告によって、互いに受け継がれることだからです。 神はこの人<ref>Greg. Nyss., De opif., ch. 20.</ref>を、霊的かつ感覚的な住まいである楽園に置かれた。彼は肉体においては地上で感覚の領域に住み、霊においては天使たちの間で暮らし、神聖な思想を育み、それによって支えられていた。彼は、人為から解放された、飾らない簡素な生活を送り、創造物を通して唯一の創造主へと導かれ、創造主を観想することの中に喜びと楽しみを見出した<ref>テキスト εὐφραινόμενος. 異なる写本 σεμνυνόμενος.</ref>。 それゆえ、神はその本性に自由意志を与えた後、知恵の木の​​実を食べてはならないという戒めを人間に課しました。この木については、楽園の章で必要なこと、少なくとも私たちが言える限りのことを述べました。そしてこの戒めによって、神は次の約束を与えました。もし人間が理性に勝利を与え、創造主を認め、その戒めを守ることによって魂の尊厳を保つならば、永遠の祝福にあずかり、死よりも力強いことを証明して永遠に生きるでしょう。しかし、もし人間が魂を肉体に従属させ、肉体の快楽を優先し、真の尊厳を知らずに無分別な獣<ref>詩篇 49:12</ref>と自分を比べ、創造主のくびきを振り払い、その神聖な戒めを無視するならば、死と腐敗に陥り、惨めな生涯を全うすることになるのです。なぜなら、試されず、証明されないうちに不滅を得ることは、人間にとって何の益にもならないからです。そうしないと、人は傲慢に陥り、悪魔の裁きを受けることになるからです。悪魔は自らの自由な選択によって堕落し、その不滅によって悪の中にしっかりと根を下ろしました。そのため、悔い改めの余地も、変化​​の希望もありませんでした。同様に、天使たちも、自らの自由な選択によって徳を得たとき、恵みによって善の中に揺るぎなく根を下ろしました。 それゆえ、まず人間は試練を受けねばならず(試されず証明されない人間<ref> ἀδοκιμος; in Cod. R. 2 ἀδοκίμαστον.</ref>は何の価値もない<ref>この括弧は、ほとんどすべての写本や Faber などの翻訳では存在しません。</ref>)、戒律の遵守を通して試練によって完全とされ、その徳の報酬として不滅を受けるべきであった。なぜなら、神と物質の中間に位置する存在である人間は、戒律を守れば、存在する事物との自然な関係から解放され、神の状態と一体となり、善の中に揺るぎなく確立されることが運命づけられていたからである。しかし、戒律に違反し、むしろ物質的なものに傾倒し、自らの存在の創造主、すなわち神から精神を引き離すならば、その運命は滅びであり、無情ではなく情欲に支配され、不死ではなく死すべき存在となり、繋がりと不安定な生成に依存するようになるのである。そして、生への欲望の中で、快楽に執着し、それがそれを維持するために必要であるかのように、それを奪おうとする者を恐れることなく嫌悪し、神への欲望を物質へと、そして救いの真の敵である同胞への怒りへと移した。悪魔の嫉妬<ref>参照: Greg. Naz., Orat. 38 および 42、Cyril Alex., Cont. Anthrop., I. 8、Anast. II. Antioch., Hexaëm. vi、Chrysost., 『ローマ人への手紙注解』Hom. 10 、『エペソ人への手紙注解』Hom. 5 、他。</ref>こそが、人間の堕落の原因であった。嫉妬に満ち、善を憎むあの悪魔は、自らの傲慢さゆえに下等な境遇に置かれたにもかかわらず、私たちが天国の快楽を享受することを許さなかった。こうして、偽りの悪魔は、惨めな人間を神への希望で誘惑し、自分と同じくらい傲慢さの頂点へと導き、同じ深さの破滅の穴へと突き落とすのである。 :::[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第30章#第2巻|トップに戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, "Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume IX/John of Damascus/An Exact Exposition of the Orthodox Faith/Book II/Chapter 30" を翻訳 --> 0l052ed6b4wbfvwm4fel1b3xfueeg18