Wikisource jawikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 MediaWiki 1.45.0-wmf.6 first-letter メディア 特別 トーク 利用者 利用者・トーク Wikisource Wikisource・トーク ファイル ファイル・トーク MediaWiki MediaWiki・トーク テンプレート テンプレート・トーク ヘルプ ヘルプ・トーク カテゴリ カテゴリ・トーク 作者 作者・トーク Page Page talk Index Index talk TimedText TimedText talk モジュール モジュール・トーク 日本郵政株式会社法 0 2532 230241 215999 2025-06-22T10:21:55Z Gibranalnn 21540 230241 wikitext text/x-wiki {{header |title = {{PAGENAME}} |year = 2005 |notes = <[[Wikisource:日本の法律]] {{ウィキペディア|日本郵政}} *平成十七年十月二十一日法律第九十八号 *施行:平成十八年一月二十三日(附則第1条柱書および郵政民営化法施行令第1条) **[[#f1-1|附則第1条第1号]]:平成十七年十月二十一日 **[[#f1-2|同条第2号]]:平成十九年十月一日 {{ルビ使用}} *表等の詳細: **列の文字数はそれぞれ以下の通りである。 ***1列目: 7em ***2列目: 17em ***3列目: 16em **すべてのセルは左上に揃えてある。 **1列目のみ6行目と7行目のセルが結合している。 **セルとの間には黒の枠線が引いてある。 **セルには左右に0.5emずつの余白を置いてある。 **表等自体の幅は43emである。 }} <div style="text-indent:1em"> 日本郵政株式会社法をここに公布する。 </div> <div style="margin-left:2em"> {{御名御璽}} </div> <div style="margin-left:4em"> 平成十七年十月二十一日 </div> <div style="margin-right:2em;text-align:right"> 内閣総理大臣  [[w:小泉純一郎|小泉純一郎]] </div> '''法律第九十八号''' <div style="margin-left:3em"> 日本郵政株式会社法 </div> == 目次 == :[[#s1|第一章  総則]]([[#a1|第一条]] - [[#a3|第三条]]) :[[#s2|第二章  業務等]]([[#a4|第四条]] - [[#a13|第十三条]]) :[[#s3|第三章  雑則]]([[#a14|第十四条]] - [[#a17|第十七条]]) :[[#s4|第四章  罰則]]([[#a18|第十八条]] - [[#a23|第二十三条]]) :[[#附則|附則]] {{編章節款目|第一章  総則|margin-left=7|text-indent=-4|id=s1}} <div style="margin-left:1em"> <span id="a1">(会社の目的)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第一条 :日本郵政株式会社(以下「会社」という。)は、郵便事業株式会社及び郵便局株式会社の発行済株式の総数を保有し、これらの株式会社の経営管理を行うこと並びにこれらの株式会社の業務の支援を行うことを目的とする株式会社とする。 </div> <span id="a2">(株式の政府保有)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第二条 :政府は、常時、会社の発行済株式(株主総会において決議をすることができる事項の全部につき議決権を行使することができない株式を除き、会社法(平成十七年法律第八十六号)第八百七十九条第三項の規定により議決権を有するものとみなされる株式を含む。以下この条において同じ。)の総数の三分の一を超える株式を保有していなければならない。 </div> <span id="a3">(商号の使用制限)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第三条 :会社でない者は、その商号中に日本郵政株式会社という文字を使用してはならない。 </div> </div> {{編章節款目|第二章  業務等|margin-left=7|text-indent=-4|id=s2}} <div style="margin-left:1em"> <span id="a4">(業務の範囲)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第四条 :会社は、その目的を達成するため、次に掲げる業務を行うものとする。 <div style="margin-left:1em"> ::<span id="a4_1-1">一</span>  郵便事業株式会社及び郵便局株式会社が発行する株式の引受け及び保有 ::<span id="a4_1-2">二</span>  郵便事業株式会社及び郵便局株式会社の経営の基本方針の策定及びその実施の確保 ::<span id="a4_1-3">三</span>  [[#a4_1-1|前二号]]に掲げるもののほか、郵便事業株式会社及び郵便局株式会社の株主としての権利の行使 ::<span id="a4_1-4">四</span>  [[#a4_1-1|前三号]]に掲げる業務に附帯する業務 </div> :<span id="a4_2">2</span>  会社は、[[#a4|前項]]に規定する業務のほか、総務大臣の認可を受けて、その目的を達成するために必要な業務を行うことができる。 </div> <span id="a5">(郵便事業株式会社等の株式の保有)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第五条 :会社は、常時、郵便事業株式会社及び郵便局株式会社の発行済株式の総数を保有していなければならない。 </div> <span id="a6">(社会・地域貢献資金の交付)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第六条 :会社は、郵便事業株式会社に対し、[[郵便事業株式会社法#4_4|郵便事業株式会社法(平成十七年法律第九十九号)第四条第四項]]に規定する社会貢献業務計画の定めるところに従い、社会貢献業務([[郵便事業株式会社法#4_2|同条第二項]]に規定する社会貢献業務をいう。以下同じ。)の実施に要する費用に充てるものとして、社会貢献資金を交付するものとする。 :<span id="a6_2">2</span>  会社は、郵便局株式会社に対し、[[郵便局株式会社法#6_5|郵便局株式会社法(平成十七年法律第百号)第六条第五項]]に規定する地域貢献業務計画の定めるところに従い、地域貢献業務([[郵便局株式会社法#6_3|同条第三項]]に規定する地域貢献業務をいう。以下同じ。)の実施に要する費用に充てるものとして、地域貢献資金を交付するものとする。 :<span id="a6_3">3</span>  [[#a6|前二項]]に規定するもののほか、社会貢献資金又は地域貢献資金(以下「社会・地域貢献資金」という。)の交付に関し必要な事項は、総務省令で定める。 </div> <span id="a7">(一般担保)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第七条 :会社の社債権者は、会社の財産について他の債権者に先立って自己の債権の弁済を受ける権利を有する。 :<span id="a7_2">2</span>  [[#a7|前項]]の先取特権の順位は、民法(明治二十九年法律第八十九号)の規定による一般の先取特権に次ぐものとする。 </div> <span id="a8">(株式)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第八条 :会社は、会社法第百九十九条第一項に規定する募集株式([[#a22-3|第二十二条第三号]]において「募集株式」という。)若しくは同法第二百三十八条第一項に規定する募集新株予約権([[#a22-3|同号]]において「募集新株予約権」という。)を引き受ける者の募集をし、又は株式交換に際して株式若しくは新株予約権を交付しようとするときは、総務大臣の認可を受けなければならない。 :<span id="a8_2">2</span>  会社は、新株予約権の行使により株式を交付した後、遅滞なく、その旨を総務大臣に届け出なければならない。 </div> <span id="a9">(取締役等の選任等の決議)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第九条 :会社の取締役の選任及び解任並びに監査役の選任及び解任の決議は、総務大臣の認可を受けなければ、その効力を生じない。 </div> <span id="a10">(事業計画)</span> <div style="text-indent:-1em"> :第十条 :会社は、毎事業年度の開始前に、総務省令で定めるところにより、その事業年度の事業計画を定め、総務大臣の認可を受けなければならない。これを変更しようとするときも、同様とする。 </div> <span id="a11">(定款の変更等)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第十一条 :会社の定款の変更、剰余金の配当その他の剰余金の処分(損失の処理を除く。)、合併、会社分割及び解散の決議は、総務大臣の認可を受けなければ、その効力を生じない。 </div> <span id="a12">(財務諸表)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第十二条 :会社は、毎事業年度終了後三月以内に、その事業年度の貸借対照表、損益計算書及び事業報告書を総務大臣に提出しなければならない。 </div> <span id="a13">(社会・地域貢献基金)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第十三条 :会社は、社会・地域貢献資金の交付の財源をその運用によって得るために社会・地域貢献基金(以下「基金」という。)を設け、[[#a13_2|次項]]の規定により積み立てる金額をもってこれに充てるものとする。 :<span id="a13_2">2</span>  会社は、毎事業年度の損益計算上の利益金の額のうち、企業一般の配当の動向を考慮して政令で定めるところにより計算した金額を、一兆円に達するまで、基金に積み立てなければならない。 :<span id="a13_3">3</span>  基金の運用により生じた収益は、社会・地域貢献資金の交付の財源に充てるほか、当該収益の生じた事業年度中会社の他の支出の財源に充ててはならない。 :<span id="a13_4">4</span>  基金は、取り崩してはならない。ただし、基金の運用により生じた収益のみによっては社会・地域貢献資金の交付の財源を確保することができない場合であって、社会・地域貢献資金が交付されないことにより郵便事業株式会社又は郵便局株式会社の経営努力のみによっては社会貢献業務又は地域貢献業務の実施が困難となり、地域社会の安定に重大な影響を及ぼすおそれがあると認められるときは、この限りでない。 :<span id="a13_5">5</span>  会社は、基金に係る経理については、総務省令で定めるところにより、その他の経理と区分して整理しなければならない。 :<span id="a13_6">6</span>  会社は、総務省令で定めるところにより、確実かつ有利な方法により基金を運用しなければならない。 :<span id="a13_7">7</span>  会社は、[[郵便事業株式会社法#4_3|郵便事業株式会社法第四条第三項]]又は[[郵便局株式会社法#6_4|郵便局株式会社法第六条第四項]]の規定により提出された申請書を総務大臣に提出するときは、基金の運用により生ずる収益の見通しに関する書類を併せて提出しなければならない。 :<span id="a13_8">8</span>  [[#a13_2|第二項]]の規定は、一兆円を超えて基金を積み立てることを妨げるものではない。ただし、二兆円に達するまでは、同項に規定する政令で定めるところにより計算した金額をもって積み立てなければならない。 :<span id="a13_9">9</span>  [[#a13|前各項]]に定めるもののほか、基金に関し必要な事項は、総務省令で定める。 </div> </div> {{編章節款目|第三章  雑則|margin-left=7|text-indent=-4|id=s3}} <div style="margin-left:1em"> <span id="a14">(監督)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第十四条 :会社は、総務大臣がこの法律の定めるところに従い監督する。 :<span id="a14_2">2</span>  総務大臣は、この法律を施行するため特に必要があると認めるときは、会社に対し、その業務に関し監督上必要な命令をすることができる。 </div> <span id="a15">(報告及び検査)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第十五条 :総務大臣は、この法律を施行するため特に必要があると認めるときは、会社からその業務に関し報告をさせ、又はその職員に、会社の営業所、事務所その他の事業場に立ち入り、帳簿、書類その他の物件を検査させることができる。 :<span id="a15_2">2</span>  [[#a15|前項]]の規定により立入検査をする職員は、その身分を示す証明書を携帯し、関係人にこれを提示しなければならない。 :<span id="a15_3">3</span>  [[#a15|第一項]]の規定による立入検査の権限は、犯罪捜査のために認められたものと解してはならない。 </div> <span id="a16">(財務大臣との協議)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第十六条 :総務大臣は、[[#a8|第八条第一項]]、[[#a10|第十条]]又は[[#a11|第十一条]](定款の変更の決議に係るものにあっては、会社が発行することができる株式の総数を変更するものに限る。)の認可をしようとするときは、財務大臣に協議しなければならない。 </div> <span id="a17">(課税の特例)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第十七条 :会社が各事業年度(会社が連結親法人(法人税法(昭和四十年法律第三十四号)第二条第十二号の七の二に規定する連結親法人をいう。)に該当する場合には、各連結事業年度)において[[#a6|第六条第一項]]又は[[#a6_2|第二項]]の規定に基づき交付する金銭の額は、同法第三十七条第七項(同法第八十一条の六第六項において準用する場合を含む。)に規定する寄附金の額に含まれないものとする。 <span id="a17_2">2</span>  [[#a17|前項]]に規定する事業年度とは法人税法第十三条及び第十四条に規定する事業年度をいい、[[#a17|同項]]に規定する連結事業年度とは同法第十五条の二に規定する連結事業年度をいう。 </div> </div> {{編章節款目|第四章  罰則|margin-left=7|text-indent=-4|id=s4}} <div style="margin-left:1em;text-indent:-1em"> ;<b id="a18">第十八条</b> :会社の取締役、執行役、会計参与(会計参与が法人であるときは、その職務を行うべき社員)、監査役又は職員が、その職務に関して、賄{{ruby|賂|ろ}}を収受し、又はその要求若しくは約束をしたときは、三年以下の懲役に処する。これによって不正の行為をし、又は相当の行為をしなかったときは、五年以下の懲役に処する。 :<span id="a18_2">2</span>  [[#a18|前項]]の場合において、犯人が収受した賄賂は、没収する。その全部又は一部を没収することができないときは、その価額を追徴する。 ;<b id="a19">第十九条</b> :[[#a18|前条第一項]]の賄賂を供与し、又はその申込み若しくは約束をした者は、三年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。 :<span id="a19_2">2</span>  [[#a19|前項]]の罪を犯した者が自首したときは、その刑を減軽し、又は免除することができる。 ;<b id="a20">第二十条</b> :[[#a18|第十八条第一項]]の罪は、日本国外において[[#a18|同項]]の罪を犯した者にも適用する。 :<span id="a20_2">2</span>  [[#a19|前条第一項]]の罪は、刑法(明治四十年法律第四十五号)第二条の例に従う。 ;<b id="a21">第二十一条</b> :[[#a15|第十五条第一項]]の規定による報告をせず、若しくは虚偽の報告をし、又は[[#a15|同項]]の規定による検査を拒み、妨げ、若しくは忌避した場合には、その違反行為をした会社の取締役、執行役、会計参与(会計参与が法人であるときは、その職務を行うべき社員)、監査役又は職員は、三十万円以下の罰金に処する。 ;<b id="a22">第二十二条</b> :次の[[#a22-1|各号]]のいずれかに該当する場合には、その違反行為をした会社の取締役、執行役、会計参与若しくはその職務を行うべき社員又は監査役は、百万円以下の過料に処する。 <div style="margin-left:1em"> ::<span id="a22-1">一</span>  [[#a4_2|第四条第二項]]の規定に違反して、業務を行ったとき。 ::<span id="a22-2">二</span>  [[#a5|第五条]]の規定に違反して、郵便事業株式会社及び郵便局株式会社の株式を処分したとき。 ::<span id="a22-3">三</span>  [[#a8|第八条第一項]]の規定に違反して、募集株式若しくは募集新株予約権を引き受ける者の募集をし、又は株式交換に際して株式若しくは新株予約権を交付したとき。 ::<span id="a22-4">四</span>  [[#a8_2|第八条第二項]]の規定に違反して、株式を交付した旨の届出を行わなかったとき。 ::<span id="a22-5">五</span>  [[#a10|第十条]]の規定に違反して、事業計画の認可を受けなかったとき。 ::<span id="a22-6">六</span>  [[#a12|第十二条]]の規定に違反して、貸借対照表、損益計算書若しくは事業報告書を提出せず、又は虚偽の記載若しくは記録をしたこれらのものを提出したとき。 ::<span id="a22-7">七</span>  [[#a14_2|第十四条第二項]]の規定による命令に違反したとき。 </div> ;<b id="a23">第二十三条</b> :[[#a3|第三条]]の規定に違反した者は、十万円以下の過料に処する。 </div> {{附則}} <div style="margin-left:1em"> <span id="f1">(施行期日)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第一条 ;この法律は、郵政民営化法(平成十七年法律第九十七号)第三十六条第九項の政令で定める日から施行する。ただし、次の[[#f1-1|各号]]に掲げる規定は、当該各号に定める日から施行する。 <div style="margin-left:1em"> ::<span id="f1-1">一</span>  [[#a3|第三条]]、[[#a9|第九条]]、[[#a11|第十一条]](定款の変更の決議に係る部分に限る。)及び[[#a23|第二十三条]]の規定  郵政民営化法附則第一条第一号に掲げる規定の施行の日 ::<span id="f1-2">二</span>  [[#f2|次条]]の規定  郵政民営化法の施行の日 </div> </div> <span id="f2">(業務の特例)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第二条 :会社は、平成二十四年九月三十日までの間、[[#a4|第四条]]に規定する業務のほか、次に掲げる業務を行うものとする。 <div style="margin-left:1em"> ::<span id="f2_1-1">一</span>  次に掲げる施設の譲渡又は廃止 <div style="margin-left:1em"> :::<span id="f2_1-1-i">イ</span>  承継計画(郵政民営化法第百六十六条第一項に規定する承継計画をいう。ロにおいて同じ。)において定めるところに従い会社が承継した郵政民営化法等の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律(平成十七年法律第百二号。ロにおいて「整備法」という。)第二条の規定による廃止前の郵便貯金法(昭和二十二年法律第百四十四号)第四条第一項の施設 :::<span id="f2_1-1-ro">ロ</span>  承継計画において定めるところに従い会社が承継した整備法第二条の規定による廃止前の簡易生命保険法(昭和二十四年法律第六十八号)第百一条第一項の施設 </div> ::<span id="f2_1-2">二</span>  [[#f2_1-1-i|前号イ]]又は[[#f2_1-1-ro|ロ]]に掲げる施設の譲渡又は廃止をするまでの間における当該施設の運営又は管理 ::<span id="f2_1-2">三</span>  [[#f2_1-1|前二号]]に掲げる業務に附帯する業務 </div> :<span id="f2_2">2</span>  会社は、[[#f2-2|前項第二号]]に掲げる業務及びこれに附帯する業務を行うに当たっては、当該業務と同種の業務を営む事業者の利益を不当に害することがないよう特に配慮しなければならない。 </div> <span id="f3">(政府保有の株式の処分)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第三条 :政府は、その保有する会社の株式([[#a2|第二条]]に規定する発行済株式をいい、[[#a2|同条]]の規定により保有していなければならない発行済株式を除く。)については、できる限り早期に処分するよう努めるものとする。 </div> <span id="f4">(会社法の施行の日の前日までの間の読替え)</span> <div style="text-indent:-1em"> ;第四条 :会社法の施行の日がこの法律の施行の日後となる場合には、会社法の施行の日の前日までの間における次の表の上欄に掲げるこの法律の規定の適用については、これらの規定中同表の中欄に掲げる字句は、それぞれ同表の下欄に掲げる字句とする。 </div> </div> <div style="margin:0 1em;"> {| border="0" cellpadding="0" cellspacing="0" style="border-collapse:collapse;" |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:7.1em">第二条</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:17.1em">株主総会において決議をすることができる事項の全部につき議決権を行使することができない株式を除き、会社法(平成十七年法律第八十六号)第八百七十九条第三項</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:16.1em">商法(明治三十二年法律第四十八号)第二百十一条ノ二第四項に規定する種類の株式を除き、同条第五項</div> |- |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:7.1em">第八条第一項</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:17.1em">会社法第百九十九条第一項に規定する募集株式(第二十二条第三号において「募集株式」という。)若しくは同法第二百三十八条第一項に規定する募集新株予約権(同号において「募集新株予約権」という。)を引き受ける者の募集をし、又は株式交換に際して株式若しくは新株予約権を交付しようとするときは、総務大臣の認可を受けなければならない</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:16.1em">新株、新株予約権若しくは新株予約権付社債を発行し、又は自己の株式を処分しようとするときは、総務大臣の認可を受けなければならない。ただし、新株予約権が行使されたことにより新株を発行し、又は自己の株式を移転しようとするときは、この限りでない</div> |- |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:7.1em">第八条第二項</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:17.1em">新株予約権の行使により株式を交付した後</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:16.1em">前項ただし書の場合においては、当該新株を発行し、又は自己の株式を移転した後</div> |- |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:7.1em">第十条</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:17.1em">事業年度</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:16.1em">営業年度</div> |- |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:7.1em">第十一条</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:17.1em">剰余金の配当その他の剰余金の処分(損失の処理を除く。)</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:16.1em">利益の処分</div> |- |rowspan="2" style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:7.1em">第十二条</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:17.1em">事業年度</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:16.1em">営業年度</div> |- |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:17.1em">事業報告書</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:16.1em">営業報告書</div> |- |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:7.1em">第十三条第二項及び第三項</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:17.1em">事業年度</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:16.1em">営業年度</div> |- |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:7.1em">第十八条第一項及び第二十一条</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:17.1em">執行役、会計参与(会計参与が法人であるときは、その職務を行うべき社員)</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:16.1em">執行役</div> |- |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:7.1em">第二十二条</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:17.1em">執行役、会計参与若しくはその職務を行うべき社員</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:16.1em">執行役</div> |- |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:7.1em">第二十二条第三号</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:17.1em">募集株式若しくは募集新株予約権を引き受ける者の募集をし、又は株式交換に際して株式若しくは新株予約権を交付したとき</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:16.1em">新株、新株予約権若しくは新株予約権付社債を発行し、又は自己の株式を処分したとき</div> |- |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:7.1em">第二十二条第六号</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:17.1em">事業報告書</div> |style="padding:0 0.5em;border:1px solid black;vertical-align:top;"|<div style="width:16.1em">営業報告書</div> |} </div> <div style="margin-right:2em;text-align:right"> 総務大臣  [[w:麻生太郎|麻生  太郎]] 財務大臣  [[w:谷垣禎一|谷垣  禎一]] 内閣総理大臣  [[w:小泉純一郎|小泉純一郎]] </div> {{DEFAULTSORT:にほんゆうせいかふしきかいしやほう}} [[Category:平成17年の法律]] {{PD-JapanGov}} fpbrrf3n6auxzskqxn80pxl0gwgww6y 字の区域の変更 0 12758 230221 229848 2025-06-21T12:12:29Z 特急いよのたみ 34488 /* 愛媛県 */ 230221 wikitext text/x-wiki '''字の区域の変更'''(あざのくいきのへんこう) == 宮城県 == * [[字の区域の変更 (平成3年宮城県告示第21号)]] * [[字の区域の変更 (平成3年宮城県告示第22号)]] * [[字の区域の変更 (平成3年宮城県告示第94号)]] * [[字の区域の変更 (平成3年宮城県告示第95号)]] * [[字の区域の変更 (平成3年宮城県告示第96号)]] * [[字の区域の変更 (平成3年宮城県告示第97号)]] * [[字の区域の変更 (平成3年宮城県告示第98号)]] * [[字の区域の変更 (平成3年宮城県告示第311号)]] * [[字の区域の変更 (平成3年宮城県告示第312号)]] * [[字の区域の変更 (平成3年宮城県告示第313号)]] * [[字の区域の変更 (平成3年宮城県告示第314号)]] * [[字の区域の変更 (平成3年宮城県告示第315号)]] * [[字の区域の変更 (平成3年宮城県告示第316号)]] * [[字の区域の変更 (平成3年宮城県告示第420号)]] * [[字の区域の変更 (平成3年宮城県告示第421号)]] * [[字の区域の変更 (平成3年宮城県告示第422号)]] * [[字の区域の変更 (平成3年宮城県告示第423号)]] == 石川県 == * [[字の区域の変更について (平成29年金沢市告示第51号)]] == 愛媛県 == * 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(平成16年鹿児島県告示第1800号)]] * [[字の区域の変更 (平成19年鹿児島県告示第1898号)]] == 関連項目 == * [[字の名称の変更]] * [[新たに生じた土地の確認]] {{aimai|あさのくいきのへんこう}} mysr2lamplotebidjjgyxqm94swr3lf Wikisource:サンドボックス 4 21767 230233 229908 2025-06-22T03:27:55Z 240B:C020:480:5A81:A0F5:DBFF:FEDD:33D6 230233 wikitext text/x-wiki {|class="wikitable" style="white-space:nowrap;text-align:center;" !番号 !系列名 !放送局名 !チャンネル |- |1 |NHK総合 |NHK総合・高松 |style="text-align:left;"|011-1 012-1 [[Wikisource:索引類|611-1]] |- |2 |NHK総合 |NHK総合・広島 |style="text-align:left;"|011-2 012-2 [[Wikisource:索引類|611-2]] |- |3 |独立局 |RCCテレビ |style="text-align:left;"|031 032 033 034<br>[[Wikisource:索引類|631]] |- |4 |日本テレビ系列 |RNC西日本放送 |style="text-align:left;"|041 042 043 044<br>[[Wikisource:索引類|641]] |- |6 |TBS系列 |RSKテレビ |style="text-align:left;"|061 062 063 268<br>[[Wikisource:索引類|661]] |- |7 |テレビ東京系列 |TSCテレビせとうち |style="text-align:left;"|071 072 073 [[Wikisource:索引類|671]] |} qar95ghmpe9bwijfa88vg3xnalv3w68 禮記/學記 0 42164 230240 210155 2025-06-22T06:37:56Z 温厚知新 35206 訳を加筆 230240 wikitext text/x-wiki {{header |title=[[禮記]] |section= 學記 |author= |previous=[[禮記/少儀|少儀]] |next=[[禮記/樂記|樂記]] |notes=訳は、『漢文叢書 第17(礼記)』有朋堂、昭和2年(1927)発行{{NDLJP|1118535|format=short}}{{Commons link|NDL1118535 漢文叢書 第17 (礼記) part2.pdf|NDL1118535 漢文叢書 第17 (礼記) part3.pdf}}による。※環境依存文字の一部(「&#20308;」など)は平易化しています。{{Textquality|50%}} |edition=yes }} 發慮憲,求善良,足以謏聞,不足以動眾;就賢體遠,足以動眾,未足以化民。君子如欲化民成俗,其必由學乎! {{*|訳:{{NDLJP|1118535/200|format=short}} {{r|慮|おもんばかり}}を{{r|發|おこ}}して{{r|憲|けん}}あり、{{r|善良|ぜんりやう}}を{{r|求|もと}}むるは、以て{{r|諛|すこ}}{{ママ}}しく{{r|聞|きこ}}ゆるに足りて以て{{r|衆|しう}}を 動すに足らず。{{r|賢|けん}}に{{r|就|つ}}き{{r|遠|ゑん}}を{{r|體|たい}}するは、以て衆を動すに足りて、未だ以て民を{{r|化|くわ}}す るに足らず。君子{{r|如|も}}し{{r|民|たみ}}を{{r|化|くわ}}し{{r|俗|ぞく}}を成さんと欲せば、其れ必ず{{r|學|かく}}に{{r|由|よ}}らんかな。}} 玉不琢,不成器;人不學,不知道。是故古之王者建國君民,教學為先。《兌命》曰:「念終始典于學。」其此之謂乎! {{*|{{r|玉|たま}}{{r|琢|みが}}かざれば{{r|器|き}}を成さず、人{{r|學|まな}}ばざれば{{r|道|みち}}を知らず、是故に{{r|古|いにしへ}}の{{r|王者|わうしや}}、{{r|國|くに}}を {{r|建|た}}て民に君たるには、{{r|教學|けうがく}}を{{r|先|さき}}となせり。{{r|兌命|えつめい}}に曰く、{{r|終始|しゆうし}}を{{r|念|おも}}ひて、{{r|學|がく}}に{{r|典|つね}}に すとは、其れ{{r|此|こ}}れの{{r|謂|いひ}}か。}} 雖有嘉肴,弗食,不知其旨也;雖有至道,弗學,不知其善也。是故學,然後知不足,教,然後知困。知不足,然後能自反也;知困,然後能自強也,故曰:「教學相長」也。《兌命》曰:「學學半。」其此之謂乎! {{*|{{r|嘉肴|かかう}}ありと{{r|雖|いへど}}も、{{r|食|くら}}はざれば其の{{r|旨|うまき}}を知らざる なり。{{r|至道|しだう}}ありと雖も、學ばざれば其の{{r|善|よき}}を知らざるなり。是故に學びて然る 後に足らざるを知り、{{r|教|をし}}へて然る後に{{r|困|くるし}}むを知る。足らざるを知りて、然る後に {{r|能|よ}}く{{r|自|みづか}}ら{{r|反|かへ}}すなり、{{r|困|くるし}}むを知り、然る後に能く自ら{{r|強|つと}}むるなり。故に曰く、 {{r|教學|けうがく}}は{{r|相|あひ}}{{r|長|ちやう}}ずと。{{r|兌命|えつめい}}に曰く、{{r|學|をし}}ふるは{{r|學|まな}}ぶの{{r|半|なかば}}と、其れ此れの{{r|謂|いひ}}か。}} 古之教者,家有塾,黨有庠,術有序,國有學。比年入學,中年考校。一年視離經辨志,三年視敬業樂群,五年視博習親師,七年視論學取友,謂之小成;九年知類通達,強立而不反,謂之大成。夫然後足以化民易俗,近者說服,而遠者懷之,此大學之道也。《記》曰:「蛾子時術之。」其此之謂乎! {{*|{{r|古|いにしへ}} の{{r|教|をし}}ふる者は、{{r|家|いへ}}に{{r|塾|じゆく}}あり、{{r|黨|たう}}に{{r|庠|しやう}}あり、{{r|術|しう}}に{{r|序|じよ}}あり、國に學あり。{{r|比年|ひねん}}に學 に入り、中年に{{r|考校|かうかう}}し、一年{{r|經|けい}}を離して{{r|志|こゝろざし}}を{{r|辨|べん}}ずるを{{r|視|み}}、三年{{r|業|げふ}}を{{r|敬|けい}}し{{r|羣|ぐん}}を {{r|樂|たのし}}むを{{r|視|み}}、五年{{r|博|ひろ}}く習ひて{{r|師|し}}に{{r|親|したし}}むを{{r|視|み}}、七年學を{{r|論|ろん}}じ友を取るを視る、之を 小{{r|成|せい}}と謂ふ。九年{{r|類|るゐ}}を知りて{{r|通達|つうたつ}}し、{{r|強立|きやうりつ}}して{{r|反|そむ}}かず、之を大{{r|成|せい}}と謂ふ。夫れ 然る後に以て民と化し{{r|俗|ぞく}}を{{r|易|か}}ふるに足り、近き者は{{r|説|よろこ}}び{{r|服|ふく}}し、遠き者は之に{{r|懷|なづ}} く、此れ{{r|大學|だいがく}}の道なり。{{r|記|き}}に曰く、{{r|蛾子|きし}}{{r|時|とき}}に之を{{r|術|なら}}ふと、其れ此れの謂か。}} 大學始教,皮弁祭菜,示敬道也;《宵雅》肄三,官其始也;入學鼓篋,孫其業也;夏楚二物,收其威也;未卜禘不視學,游其志也;時觀而弗語,存其心也;幼者聽而弗問,學不躐等也。此七者,教之大倫也。《記》曰:「凡學官先事,士先志。」其此之謂乎! {{*|{{NDLJP|1118535/201|format=short}} {{r|大學|だいがく}}の始めの{{r|教|をしへ}}、{{r|皮弁|ひべん}}して{{r|祭菜|さいさい}}す、道を敬するを示すなり。{{r|宵雅|せうが}}三を{{r|肄|なら}}はし む、其の始を官にするなり。學に入るに{{r|鼓篋|こきやう}}するは、其{{r|業|げふ}}に{{r|孫|したが}}はしむるなり。 {{r|夏楚|かそ}}二{{r|物|ぶつ}}は、其の{{r|威|ゐ}}を{{r|收|をさ}}むるなり。未だ{{r|&#31128;|てい}}を{{r|卜|ぼく}}せざれば學を{{r|視|み}}ざるは、其の{{r|志|こゝろざし}} を{{r|游|ゆたか}}にするなり。時に{{r|觀|み}}て{{r|語|かた}}らざるは、其の心を{{r|存|そん}}せしむるなり。{{r|幼者|えうしや}}は{{r|聽|き}}き て問はざるは、{{r|學|をし}}ふること{{r|等|とう}}を{{r|&#36496;|こ}}えざるなり。此の七の者は{{r|教|をしへ}}の{{r|大倫|たいりん}}なり。{{r|記|き}}に 曰く、凡そ學は、{{r|官|くわん}}は事を先にし、士は{{r|志|こゝろざし}}を先にすとは、其れ此れの{{r|謂|いひ}}か。}} 大學之教也時,教必有正業,退息必有居。學,不學操縵,不能安弦;不學博依,不能安《詩》;不學雜服,不能安禮;不興其藝,不能樂學。故君子之於學也,藏焉,修焉,息焉,游焉。夫然,故安其學而親其師,樂其友而信其道。是以雖離師輔而不反也。《兌命》曰:「敬孫務時敏,厥修乃來。」其此之謂乎! {{*|{{r|大學|だいがく}}の{{r|教|をしへ}}は時あり、{{r|教|をしへ}}必ず{{r|正業|せいげふ}}あり、{{r|退息|たいそく}}必ず{{r|居|きよ}}{{r|學|がく}}あり、{{r|操縵|さうまん}}を學ばざれば、 {{r|弦|げん}}に{{r|安|やすん}}ずる能はず、{{r|博依|はくい}}を{{r|學|まな}}ばざれば、{{r|詩|し}}に{{r|安|やすん}}ずる能はず、{{r|雜服|ざつぶく}}を學ばざれば、 禮に安ずる能はず、其{{r|藝|げい}}に{{r|興|おこ}}らざれば、{{r|學|がく}}を樂む能はず。故に君子の學に於ける や、{{r|藏燕|ざうえん}}{{ママ}}、{{r|脩焉|しうえん}}、{{r|息焉|そくえん}}、{{r|遊焉|いうえん}}たり。夫れ然り、故に其の學に安じて、其の師に親 み、其の友を樂んで、其の道を信ず、是を以て{{r|師輔|しほ}}を離ると雖も、{{r|反|かへ}}さざるなり。 {{r|兌命|えつめい}}に曰く、{{r|敬孫|けいそん}}して{{r|務|つと}}めて時に{{r|敏|びん}}なれば、{{r|厥|そ}}の{{r|脩|をさ}}むるところ乃ち來ると。其れ 此れの{{r|謂|いひ}}か。}} 今之教者,呻其占畢,多其訊,言及于數,進而不顧其安,使人不由其誠,教人不盡其材;其施之也悖,其求之也佛。夫然,故隱其學而疾其師,苦其難而不知其益也,雖終其業,其去之必速。教之不刑,其此之由乎! {{*|今の{{r|教|をし}}ふる者は、其の{{r|占畢|てんひつ}}を{{r|呻|しん}}し、其{{r|訊|とひ}}を多くし、{{r|言|こと}}、{{r|數|すう}}に及ぶ。 {{r|進|すゝ}}ましめて其の{{r|安|やすき}}を{{r|顧|かへり}}みず。人をして其の{{r|誠|まこと}}を{{r|由|もち}}ひざらしむ。人を教へて其 の{{r|材|ざい}}を盡さず、其の之を{{r|施|ほどこ}}すや{{r|悖|もと}}り、其の之を{{r|求|もと}}むるや{{r|佛|もと}}れり。夫れ然り、故に 其{{r|學|がく}}を{{r|隱|いた}}みて、其{{r|師|し}}を{{r|疾|にく}}み、{{r|其|その}}{{r|難|なん}}を{{r|苦|くるし}}んで其の{{r|益|えき}}を知らざるなり。其の{{r|業|げふ}}を{{r|終|を}} ふと雖も、其の之を去ること必ず{{r|速|すみやか}}なり。之を{{r|教|をし}}へて{{r|刑|な}}らざるは、其れ此れに 之れ{{r|由|よ}}るか。}} 大學之法,禁於未發之謂豫,當其可之謂時,不陵節而施之謂孫,相觀而善之謂摩。此四者,教之所由興也。 {{*|{{NDLJP|1118535/202|format=short}} 大學の{{r|法|はふ}}、未だ發せざるに{{r|禁|きん}}ずるを之れ{{r|豫|よ}}と謂ひ、其の{{r|可|か}}に{{r|當|あた}}るを之れ時と謂 ひ、{{r|節|せつ}}を{{r|陵|こ}}えずして{{r|施|ほどこ}}すを之れ{{r|孫|そん}}と謂ひ、{{r|相|あひ}}{{r|觀|み}}て善くするを之れ{{r|摩|ま}}と謂ふ。此 の四の者は{{r|教|をしへ}}の由りて{{r|興|おこ}}る所なり。}} 發然後禁,則捍格而不勝;時過然後學,則勤苦而難成;雜施而不孫,則壞亂而不修;獨學而無友,則孤陋而寡聞;燕朋逆其師;燕辟廢其學。此六者,教之所由廢也。 {{*|{{r|發|はつ}}して然る後に{{r|禁|きん}}ずれば、則ち{{r|扞格|かんかく}}して {{r|勝|た}}へず、時過ぎて然る後に{{r|學|まな}}べば、則ち{{r|勤苦|きんく}}して成り{{r|難|がた}}し。{{r|雜施|ざつし}}して{{r|孫|そん}}ならざれ ば、則ち{{r|壞亂|くわいらん}}して{{r|脩|をさま}}らず、{{r|獨學|どくがく}}にして友無ければ、則ち{{r|孤陋|ころう}}にして{{r|聞|き}}くこと{{r|寡|すくな}} し、{{r|朋|とも}}に{{r|燕|な}}れば、其の{{r|師|し}}に{{r|逆|さから}}ひ、{{r|辟|へき}}に{{r|燕|な}}るれば、其の學を{{r|廢|はい}}す。此の六の者は{{r|教|をしへ}} の由りて廢する所なり。}} 君子既知教之所由興,又知教之所由廢,然後可以為人師也。故君子之教,喻也,道而弗牽,強而弗抑,開而弗達。道而弗牽則和,強而弗抑則易,開而弗達則思;和易以思,可謂善喻矣。 {{*|君子既に{{r|教|をしへ}}の由りて{{r|興|おこ}}る所を知り、又{{r|教|をしへ}}の由りて{{r|廢|はい}}す る所を知る。然る後に以て人の{{r|師|し}}たる可きなり。故に君子の{{r|教|けう}}{{r|喩|ゆ}}するや、{{r|道|みちび}}きて {{r|牽|ひ}}かず、{{r|強|つと}}めしめて{{r|抑|おさ}}へず、{{r|開|ひら}}きて達せず。{{r|道|みちび}}きて{{r|牽|ひ}}かざれば則ち{{r|和|やはら}}ぐ、{{r|強|つと}}めし めて{{r|抑|おさ}}へざれば則ち{{r|易|やす}}し、{{r|開|ひら}}きて達せざれば則ち{{r|思|おも}}ふ、{{r|和|くわ}}{{r|易|い}}にして以て{{r|思|おも}}はし むるは{{r|善|よ}}く{{r|喩|さと}}すと謂ふべし。}} 學者有四失,教者必知之。人之學也,或失則多,或失則寡,或失則易,或失則止。此四者,心之莫同也。知其心,然後能救其失也。教也者,長善而救其失者也。 {{*|{{r|學|まな}}ぶ者に四{{r|失|しつ}}あり、{{r|教|をし}}ふる者必ず之を知るべし。人 の學ぶや、{{r|或|ある}}ひは則ち{{r|多|おほき}}に失し、{{r|或|ある}}ひは則ち{{r|寡|すくなき}}に失し、或ひは則ち{{r|易|やすき}}に失し、 或ひは則ち{{r|止|とゞま}}るに失す。此の四の者は心の同じきこと{{r|莫|な}}ければなり。其の心を 知りて、然る後に能く其の失を{{r|救|すく}}ふなり、{{r|教|をしへ}}ふる者に善を長じて其の失を救ふ 者なり。}} 善歌者,使人繼其聲;善教者,使人繼其志。其言也約而達,微而臧,罕譬而喻,可謂繼志矣。 {{*|{{r|善|よ}}く{{r|歌|うた}}ふ者は人をして其の{{r|聲|こゑ}}を{{r|繼|つ}}がしめ、善く教ふる者は人をして其の {{r|志|こゝろ}}を{{r|繼|つ}}がしむ。其の言ふや、{{r|約|やく}}にして{{r|達|たつ}}、{{r|微|び}}にして{{r|臧|よ}}し、{{r|譬|たとへ}}を{{r|罕|まれ}}にして{{r|喩|さと}}すは、 志を繼ぐと謂ふ可し。}} 君子知至學之難易,而知其美惡,然後能博喻;能博喻然後能為師;能為師然後能為長;能為長然後能為君。故師也者,所以學為君也。是故擇師不可不慎也。《記》曰:「三王四代唯其師。」此之謂乎! {{*|君子{{r|學|がく}}に至るの{{r|難易|だんい}}を{{r|知|し}}りて、其の{{r|美惡|びあく}}を知る。然る後に 能く{{r|博|ひろ}}く{{r|喩|さと}}す。能く博く喩して、然る後に能く師と爲る、能く師となりて、然る 後に能く{{r|長|ちやう}}となる、{{r|能|よ}}く{{r|長|ちやう}}となりて、然る後に能く君と爲る。故に{{r|師|し}}なる{{r|者|もの}}は 君たることを學ぶ{{r|所以|ゆゑん}}なり、是の故に師を{{r|擇|えら}}ぶは{{r|愼|つゝし}}まざる可からざるなり。記 に曰く、三{{r|王|わう}}四{{r|代|だい}}は唯其れ師と、其れ此れの{{r|謂|い}}ひか。}} 凡學之道,嚴師為難。師嚴然後道尊,道尊然後民知敬學。是故君之所不臣於其臣者二:當其為尸則弗臣也,當其為師則弗臣也。大學之禮,雖詔於天子,無北面;所以尊師也。 {{*|{{NDLJP|1118535/203|format=short}} 凡そ學の道、{{r|師|し}}を{{r|嚴|げん}}にするを{{r|難|かた}}しとなす、{{r|師|し}}{{r|嚴|げん}}にして然る後に{{r|道|みち}}{{r|尊|たふと}}し、道尊く して然る後に{{r|民|たみ}}{{r|學|がく}}を{{r|敬|けい}}するを知る。是の故に君の其{{r|臣|しん}}を{{r|臣|しん}}とせざる所の者は二あ り。其の{{r|尸|し}}たるに{{r|當|あた}}りては、則ち臣とせざるなり。其の{{r|師|し}}たるに{{r|當|あた}}りては、則ち 臣とせざるなり。{{r|大學|だいがく}}の{{r|禮|れい}}、天子に{{r|詔|つ}}ぐと{{r|雖|いへど}}も{{r|北面|ほくめん}}することなし。師を{{r|尊|たふと}}ぶ{{r|所|ゆ}} {{r|以|ゑん}}なり。}} 善學者,師逸而功倍,又從而庸之;不善學者,師勤而功半,又從而怨之。善問者如攻堅木,先其易者,後其節目,及其久也,相說以解;不善問者反此。善待問者,如撞鐘,叩之以小者則小鳴,叩之以大者則大鳴,待其從容,然後盡其聲;不善答問者反此。此皆進學之道也。 {{*|善く學ぶ者は師{{r|逸|いつ}}して{{r|功|こう}}{{r|倍|ばい}}す、又從ひて之を{{r|庸|よう}}とす、{{r|善|よ}}く學ばざる者は、 {{r|師|し}}{{r|勤|つと}}めて{{r|功|こう}}{{r|半|なかば}}なり、又{{r|從|したが}}ひて之を{{r|怨|うら}}む。善く問ふ者は{{r|堅木|けんぼく}}を{{r|攻|をさ}}むるが如し、其 の{{r|易|やす}}き者を{{r|先|さき}}にし、其の{{r|節目|せつもく}}を{{r|後|のち}}にす、其の{{r|久|ひさ}}しきに及びてや、{{r|相|あひ}}{{r|説|と}}きて以て{{r|解|かい}} す。{{r|善|よ}}く{{r|問|と}}はざる者は此れに{{r|反|はん}}す。{{r|善|よ}}く{{r|問|とひ}}を{{r|待|ま}}つ者は{{r|鐘|かね}}を{{r|撞|つ}}くが如し、之を{{r|叩|たゝ}}く に小なる者を以てせば則ち{{r|小|すこ}}しく鳴り、之を{{r|叩|たゝ}}くに大なる者を以てせば則ち大に 鳴る。其の{{r|從容|しようよう}}を{{r|待|ま}}ちて、然る後に其の{{r|聲|こゑ}}を{{r|盡|つく}}す。善く問に{{r|答|こた}}へざる者は、此れ に{{r|反|はん}}す、此れ皆學に{{r|進|すゝ}}むの道なり。}} 記問之學,不足以為人師。必也聽語乎,力不能問,然後語之;語之而不知,雖舍之可也。良冶之子,必學為裘;良弓之子,必學為箕;始駕者反之,車在馬前。君子察於此三者,可以有志於學矣。 {{*|{{r|記問|きぶん}}の學は、以て人の{{r|師|し}}となるに{{r|足|た}}らず、必 ずや其れ{{r|語|ご}}を{{r|聽|き}}かんか、{{r|力|ちから}}{{r|問|と}}ふこと能はずして、然る後に之れに{{r|語|つ}}ぐ、之れに {{r|語|つ}}げて、知らざれば、之れを{{r|舍|お}}くと雖も可なり。 {{NDLJP|1118535/204|format=short}} {{r|良冶|りやうや}}の{{r|子|こ}}は必ず{{r|裘|きう}}を{{r|爲|つく}}るを學び、{{r|良弓|りやうきう}}の子は、必ず{{r|箕|き}}を{{r|爲|つく}}るを{{r|學|まな}}ぶ。始めて {{r|馬|うま}}を{{r|駕|が}}する者は之を{{r|反|かへ}}して、{{r|車|くるま}}、{{r|馬|うま}}の前に{{r|在|あ}}り。君子此の三の者を{{r|察|さつ}}せば以て {{r|學|がく}}に志あるべし。}} 古之學者:比物醜類。鼓無當於五聲,五聲弗得不和。水無當於五色,五色弗得不章。學無當於五官。五官弗得不治。師無當於五服,五服弗得不親。 {{*|{{r|古|いにしへ}}の{{r|學者|がくしや}}、物に{{r|比|ひ}}するに{{r|醜類|しうるゐ}}をもてす、{{r|鼓|こ}}は五{{r|聲|せい}}に{{r|當|あた}}るな し、五{{r|聲|せい}}{{r|得|え}}ざれば{{r|和|くわ}}せず。{{r|水|みづ}}、五{{r|色|しよく}}に當ることなし、五{{r|色|しよく}}{{r|得|え}}ざれば{{r|章|あきら}}かなら ず、{{r|學|がく}}、五{{r|官|くわん}}に當ることなし、五{{r|官|くわん}}得ざれば{{r|治|をさま}}らず。{{r|師|し}}、五{{r|服|ふく}}に當ることな し、五{{r|服|ふく}}得ざれば{{r|親|したし}}まず。}} 君子曰:大德不官,大道不器,大信不約,大時不齊。察於此四者,可以有志於學矣。三王之祭川也,皆先河而後海;或源也,或委也。此之謂務本。 {{*|君子曰く、{{r|大徳|たいとく}}は{{r|官|くわん}}せず、{{r|大道|たいだう}}は{{r|器|き}}ならず、{{r|大信|たいしん}} は{{r|約|やく}}せず、{{r|大時|たいじ}}は{{r|齊|ひと}}しからず。此の四の者を{{r|察|さつ}}せば、以て{{r|本|もと}}に{{r|志|こゝろざし}}ある可し。 三{{r|王|わう}}の川を{{r|祭|まつ}}るや、皆{{r|河|かは}}を{{r|先|さき}}にして{{r|海|うみ}}を{{r|後|のち}}にす。或は{{r|源|げん}}なり、或は{{r|委|ゐ}}なり。此れ {{r|本|もと}}を{{r|務|つと}}むと謂ふ。}} {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{PD-Japan-auto-expired}}}} [[カテゴリ:礼記]] [[Category:漢文叢書]] j2bwcvcseidge4ug51fbqreer07vup9 トーク:口語旧約聖書 1 46004 230225 229909 2025-06-21T14:00:32Z 2401:4D41:41C0:200:E8:F6E1:D28E:2B33 /* 許諾について */ 返信 230225 wikitext text/x-wiki == 削除について == そもそもの話、聖書はパブリックドメインだから、削除する必要はない。--[[特別:投稿記録/2404:7A80:C160:D100:ED14:558E:A4CA:F765|2404:7A80:C160:D100:ED14:558E:A4CA:F765]] 2023年5月22日 (月) 16:48 (UTC) : こちらの作品は翻訳したものであり、原典とは別に著作権が発生します。1955年出版のこの作品は、日本においては2006年にパブリックドメインとなりましたが、1996年時点では著作権の保護期間中であったために、アメリカ合衆国で発表から95年間の著作権が復活します。日本語版ウィキソースでは原則として、日米両国のパブリックドメインである作品のみを受け入れています。アメリカ合衆国で著作権が存続しているこの作品は受け入れられない、と私は考えています。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年5月23日 (火) 05:35 (UTC) ::デジタル化された聖書資料の削除は宗教のほかに文化人類学的な研究にも支障があり削除には反対です。 ::米国では著作権保護期間は無名著作物は95年といいますが、それは米国内の話であって日本国内の話ではないと思います。 ::そもそも米国で著作権が95年に延長されたのはミッキーマウスを保護するためであり、既にパブリックドメインと等しい扱いだった聖書の著作権を保護する目的の法律ではありません。 ::ウイキソースでは各国の著作権の差異があるため最も無難なパブリックドメインという範囲でテキストを登録しているのだと思われますが ::著作権には著者不明や無名の人物である場合、テキスト公表日から換算して保護期間とする、という規定があるはずで ::聖書に関しては著者不明でこれに当然該当するものと思います。 ::一般的に聖書の場合、原典は公表から100年以上経過しており現代の様々なデジタル著作物に適用される保護期間に該当しないものと思います。 ::翻訳版にも著作権が発生するといいますが、翻訳者はそもそもの原典の著作権利者ではなく、100年以上経過した資料の各国語翻訳版聖書の翻訳者がオリジナルの原著の著者に著作権を承諾できるわけもなく翻訳権も得ていないはずであり、翻訳者がすでに無名または著作者不明である著作物の支分権以外の権利を何の承諾もなく継承することは正当な権利主張とも思えません。 ::通常はこの問題は当事者と思われるフランシスコ会の方々の意見を聞くべきと思われますが、 ::もし仮に日本語版聖書について、数度改正され続けた著作権保護期間を理由にこれまで公開が原則のテキストをインターネット上から削除する権利を著作権者以外の第三者が主張するのであれば、削除を主張する人が原著の著作権者からの支分権である翻訳権の承諾の無いことを文書で明確に示さなければなりません。--[[特別:投稿記録/61.194.145.12|61.194.145.12]] 2023年6月14日 (水) 11:58 (UTC) :::前の投稿「翻訳権の承諾の無いことを文書で明確に示さなければなりません」最後のこの部分間違えましたすみません。 :::「翻訳権の承諾の有無も文書で明確に示さなければなりません(反証的に翻訳版がパブリックドメインではないことの確認や、著作権の有無を明確にする為にも)ね」ですね。--[[特別:投稿記録/61.194.145.12|61.194.145.12]] 2023年6月14日 (水) 12:57 (UTC) :必要なのはここで自論を語ることではなく、日本聖書協会から翻訳文転載の許諾を貰うことかと思います。--[[利用者:P9iKC7B1SaKk|P9iKC7B1SaKk]] ([[利用者・トーク:P9iKC7B1SaKk|トーク]]) 2023年6月14日 (水) 22:54 (UTC) :: P9iKC7B1SaKkさんに補足しますと、OTRSの承認を貰うか[[w:ja:WP:CC-BY-SA/ja|CC-BY-SA-4.0]]に準拠した許諾を得るまではウィキソースには載せられないのが原則です。単に許諾を得るだけでは存続の支持は得られないと思います。なお、61.194.145.12さんへの詳細な反論は後日載せますので、ひとまず補足のみ載せます。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年6月15日 (木) 03:13 (UTC) ::: {{コメント}} 上のコメントを[[Wikisource:削除依頼#(*)口語旧約聖書]]にコピーしました。議論の散逸を防止するため、削除に関するコメントは[[Wikisource:削除依頼#(*)口語旧約聖書]]に投稿をお願いします。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2023年6月16日 (金) 16:23 (UTC) ::日本聖書協会自身がとっくに著作保護期間過ぎたこと宣言しているのに、転載許可貰うとか滑稽ですよねw--[[特別:投稿記録/122.100.25.56|122.100.25.56]] 2025年5月29日 (木) 10:37 (UTC) :::ほんと?たぶん、みんなそろって、 :::おもいちがいしてたってことかな、 :::このおはなし、もう、いいかげん、 :::おひらきだよね!いかがでしょう? :::ウィキソースの方、お願いします〜!!--[[利用者:IvMiyashita|IvMiyashita]] ([[利用者・トーク:IvMiyashita|トーク]]) 2025年6月4日 (水) 03:21 (UTC) :時の趨勢もみて、著作権者よりの、申立はないなら、削除を要しない。 :日本聖書教会は、されないはずだ。存続を推奨する、と拝察している。 :電子版は実費だ。多くの教会では、新改訳2017、他、に移行した。 :アプリ版は無料。日本聖書協会の、『肯諾と同義』、の声明と信じる。 :大局を見渡して、新しい時代には、何が真に益かを、念うことも大切。 :著作権の趣旨と、法の心得の広さ、実社会の運用も、考慮すべきはず。 :インターネット、サービスの特性、現況、実況など、参じ判断すべき。 :ウィキソースの、原則論にすぎぬ、というのならば、なおさらのこと。--[[利用者:Seiichi Miyashita|Seiichi Miyashita]] ([[利用者・トーク:Seiichi Miyashita|トーク]]) 2024年7月16日 (火) 14:20 (UTC) ::すこし、安穏な心持になりました。個人攻撃には、なりませんように。ご寄稿、お祈りいたしております。 ::(気分転換に) https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Cross_Feather_Architecture[[利用者:Seiichi Miyashita|Seiichi Miyashita]] ([[利用者・トーク:Seiichi Miyashita|トーク]]) 2024年7月18日 (木) 12:58 (UTC) :::(追補)https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Cross_%26_Feather_Architecture[[利用者:Seiichi Miyashita|Seiichi Miyashita]] ([[利用者・トーク:Seiichi Miyashita|トーク]]) 2024年9月15日 (日) 15:22 (UTC) ::::わたしの予定もあるのだけれど、聖書協会に伝えたいと思います、いつになるかはわからないです --[[利用者:Seiichi Miyashita|Seiichi Miyashita]] ([[利用者・トーク:Seiichi Miyashita|トーク]]) 2024年9月15日 (日) 20:15 (UTC) == 許諾について == このトークと許諾のひな形は、送りました。 ことはことなので、永い時も見込まれます。 どうぞ、暖かい心でお見守りくださいませ。--[[利用者:Seiichi Miyashita|Seiichi Miyashita]] ([[利用者・トーク:Seiichi Miyashita|トーク]]) 2024年9月16日 (月) 02:11 (UTC) : 取り急ぎでこちらに返信いたします。許諾についてはメタのOTRSの承認を貰うようお願いします。(なお私はOTRSに明るくないため、詳細はご自身でお調べください。参考までにリンクを載せます。https://meta.wikimedia.org/wiki/Volunteer_Response_Team/ja )上でも言及していますが、日本語版ウィキソースは日米両国でパブリックドメインである、OTRS承認を受ける、CC-BY-SA-4.0に準拠しているなど、掲載できる条件が非常に限られます。これはウィキソースがフリーの電子図書館であり、作品の転載が基本であるためです。条件を満たせない作品は削除(秘匿化)されるのが原則です。単に著作者の許諾を貰った、のみでは掲載できません。Seiichi Miyashitaさんのご要望に沿えない可能性もありますが、その点はご了承ください。なお、これは[[口語新約聖書]]でも同様です。--[[利用者:鐵の時代|鐵の時代]] ([[利用者・トーク:鐵の時代|トーク]]) 2024年9月16日 (月) 05:04 (UTC) ::とても丁寧な、お心遣い、ありがとうございます。 ::ボランティアの方よりも、ご教示いただきました。 ::むつかしいことですから、ご理解、お願いします。 ::《 https://commons.wikimedia.org/wiki/Special:MyLanguage/Commons:VRT/CONSENT 》--[[利用者:Seiichi Miyashita|Seiichi Miyashita]] ([[利用者・トーク:Seiichi Miyashita|トーク]]) 2024年9月16日 (月) 05:20 (UTC) ::誰のためにもならない規則を盾に知的財産を支配したがるとか、くだらないにもほどがある。--[[特別:投稿記録/2401:4D41:41C0:200:E8:F6E1:D28E:2B33|2401:4D41:41C0:200:E8:F6E1:D28E:2B33]] 2025年6月21日 (土) 14:00 (UTC) q1ao36bh4x4w3lobnpspj8i90ok1ygk ニネベのイサアク神秘論文集 0 48333 230227 229622 2025-06-21T14:20:36Z 村田ラジオ 14210 校正: ページ番号の訂正 230227 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = ニネベのイサアク神秘論文集 | section = | next=[[ニネベのイサアク神秘論文集/第1論文|第1論文]] | year = 1923 | 年 = | override_author = [[作者:シリアのイサアク|ニネベのイサアク]] (7世紀) | override_translator = [[作者:アレント・ヤン・ヴェンシンク|A. 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Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC) *ウィキソースによる日本語訳 }} ==序文== *[[/序文|序文]]. . . . . .  p.05 *コンテンツ. . . . . .  p.07 ==導入== *[[/導入|導入]]. . . . . .  p.12 **[[/導入/本文とギリシャ語訳|本文とギリシャ語訳]]. . . . . .  p.12 **[[/導入/イサアクの年齢と人物|イサアクの年齢と人物]]. . . . . .  p.17 **[[/導入/イサアクの神秘的な思想のスケッチ|イサアクの神秘的な思想のスケッチ]]. . . . . .  p.23 **[[/導入/オリエント思想におけるイサアクの位置|オリエント思想におけるイサアクの位置]]. . . . . .  p.45 == 目録 == === ニネベのイサアク神秘論文集 === 論文1-6: 6つの論文、道徳の行動について。 *[[ニネベのイサアク神秘論文集/第1論文|第1論文]](シリア語 - [[:en:Paul Bedjan|ベジャン]]). . . . . .  p.001 *[[ニネベのイサアク神秘論文集/第2論文|第2論文]]. . . . . .  p.007 *[[ニネベのイサアク神秘論文集/第3論文|第3論文]]. . . . . .  p.014 :*魂にとって自然な状態はどのようであるか。自然に反する状態はどのようであるか。その自然を超えた状態とは何か。 :*2番目の質問 :*3番目の質問 :*心の純粋さとは何か。 :*知性の純粋さと心の純粋さの違いは何か。 :*私たちが陥らないように祈らなければならない誘惑とは何か。 :*この件に関しては、人間の弱さに応じて御言葉を計られる主の憐れみに感謝する。 *[[ニネベのイサアク神秘論文集/第4論文|第4論文]]. . . . . .  p.028 *[[ニネベのイサアク神秘論文集/第5論文|第5論文]]. . . . . .  p.042 *[[ニネベのイサアク神秘論文集/第6論文|第6論文]]. . . . . .  p.055 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第7論文|第7論文]]: 他の主題については章ごとに短い段落で。神への信頼の性質と、どのような人に神への信頼が生まれるかについて。さらに人は神を信頼するとき、自分の心の状態に応じて力を持つようになること。そして愚かにも識別力もなく信じる者について。. . . . . .  p.067 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第8論文|第8論文]]: 人が心から神に近づくのに役立つものは何であるか。助けが密かに近づくのはなぜであるか。人が謙虚さに近づくのは、どのような原因によって起こるか。. . . . . .  p.070 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第9論文|第9論文]]: 意図的かつ悪意を持って[犯された]罪と、偶然に[犯された]罪について。. . . . . .  p.074 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第10論文|第10論文]]: 人が生ける神を完全に放棄してしまわないように、病気の患者に対するように聖書の言葉がいわば節度をもって語られることについて。 しかし私たちが罪を犯すことにおいて、それが原因となってより自由になってはならないこと。. . . . . .  p.078 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第11論文|第11論文]]: 修道士の生活の美しさがどのように保たれるのか。そしてそれがどのように神に栄誉を帰する原因となり得るのか。. . . . . .  p.080 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第12論文|第12論文]]: この世を放棄し真理を探し求めに出た神の僕が、真理が見つからないのではないかという恐れから、あるいは欲望から生まれる熱のために真理を求めることをやめることは美しいことではないということ。神聖なものについて、あるいは神秘的に説明されるその奥義を探求することによって、心は邪悪な惑いや情念の想起から遠ざかることができること。. . . . . .  p.082 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第13論文|第13論文]]: この[霊的]方法に関して神が正当に命じられたように、黙想生活に生きる人々に訪れるさまざまな状態について。悲しみと精神的な息苦しさ、そして突然現れる喜びと楽しみ、熱意と並外れた強さについて。私たちの道を命じた神に讃美を、アミン。. . . . . .  p.084 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第14論文|第14論文]]: 孤独の中で修行する人たちが、黙想の生活という計り知れない海の中で自分たちがどのように奉仕して進歩してきたかを、わずかながらでも理解し始めるのはいつなのかということについて。そうすることで、彼らは自分たちの努力が実を結び始めることにある程度の自信を持つことができるということ。. . . . . .  p.085 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第15論文|第15論文]]: 黙想生活における進歩の過程について、簡潔かつわかりやすく。そしてその美徳がどのようにしていつ生まれるのかという問題について。. . . . . .  p.087 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第16論文|第16論文]]: 孤独の中で仕事から解放されることが魂にとってどれほど有益であるか、最近自分自身について洞察力を持ち始めたばかりの初心者の精神に他の人々との面会・交流がどれほど害を及ぼすか。そして肉体的な仕事が必然的に黙想者に神の業において欠乏をもたらすことがどのように明らかであるか。. . . . . .  p.089 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第17論文|第17論文]]: 徹夜の甘美な行いを通して啓示される神への短い祈りについて、そして徹夜の行いに身を捧げる者は生涯を通じて蜜によって支えられるということについて。. . . . . .  p.091 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第18論文a|第18論文(a)]]: 私が老人たちから聞いたこと。聖なる人々の話、彼らの敬虔な言葉と素晴らしい行動について。彼らの祈りによって神が私たちを守ってくだるように、アミン。. . . . . .  p.095 :[[ニネベのイサアク神秘論文集/第18論文b|第18論文(b)]]: もう一人の隠修者について。 :[[ニネベのイサアク神秘論文集/第18論文c|第18論文(c)]]: 他のもう一人の隠修者について。 :[[ニネベのイサアク神秘論文集/第18論文d|第18論文(d)]]: 正しい独居修行に関するある師父の忠告。 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第19論文|第19論文]]: 心象の中で聖人たちに起こる力の啓示について。. . . . . .  p.105 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第20論文|第20論文]]: 啓示や霊的ビジョンの作用に関連した、さまざまな理解可能な心の力について。. . . . . .  p.109 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第21論文|第21論文]]: 独居修行の中で[生きる人々に]祈りの間に起こることについて。. . . . . .  p.110 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第22論文|第22論文]]: 祈りの中でのさまざまな[経験]と精神の力の限界について。そして、祈りのさまざまな習慣によって、その恣意的な衝動をどこまで動かす力があるのか。そして、祈りの際に自然に規定された限界、つまり祈りが超えることが許されない限界とは何であるか。そして、それが過ぎてさらに進んだとき、起こっていることが祈りという名で呼ばれているとしても、それはもはや祈りではないということ。. . . . . .  p.111 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第23論文|第23論文]]: 真の知識についての談話。. . . . . .  p.118 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第24論文|第24論文]]: 兄弟が彼の居室で与えられるものについて。. . . . . .  p.120 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第25論文|第25論文]] (a): 深い観想を求める魂がその観想に没頭し、想起された事柄から生じる身体的な観想から離れることの契機。. . . . . .  p.124 ::(b): 最高位の名称に関する別のより明確な[説明]。. . . . . .  p.127 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第26論文|第26論文]]: 「もし神が善であるのなら、なぜ神はこれらのことを起こすのですか」と言う人たちに対して。. . . . . .  p.128 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第27論文|第27論文]]: 無形の存在への視覚は、どのように様々な方法で人間の本性に受け止められているか。. . . . . .  p.132 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第28論文|第28論文]]: スボタ{{註|聖土曜日}}と日曜日の理論に関する象徴的な実証。. . . . . .  p.136 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第29論文|第29論文]]: 弟子を教育する際の賢明な摂理の様々な優れた方法について。. . . . . .  p.138 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第30論文|第30論文]]: 罪の力と邪悪な働きについて。そして罪が維持されている人々と罪が消滅させられている人々について。. . . . . .  p.141 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第31論文|第31論文]]: 賢明な働きが抱える苦難や堕落の危険について。. . . . . .  p.145 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第32論文|第32論文]]: 心を守る目的と、心中の棲家への精緻な観察について。. . . . . .  p.146 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第33論文|第33論文]]: 神の愛の働きについて。. . . . . .  p.148 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第34論文|第34論文]]: 徳の種類などについて。. . . . . .  p.149 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第35論文|第35論文]]: 絶え間ない行動とあらゆる種類の道徳を考慮した問答形式の論文。これらは、世間を脱ぎ捨てて荒野に住む人々、隠遁生活を送っている人々、そして常に自発的に屈辱を感じて義の栄冠を目指している人々にとって非常に有益である。. . . . . .  p.152 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第36論文a|第36論文(a)]]: 世上の狭き道を歩む者たちに対して悪魔が戦いを仕掛ける様々な方法について。. . . . . .  p.180 :[[ニネベのイサアク神秘論文集/第36論文b|第36論文(b)]]: 防御の装備を固めた者たちに対して悪魔が戦いを仕掛けるもう一つの方法。. . . . . .  p.184 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第37論文|第37論文]]: 私が識別の知識によって学んだ、その正確な使用法について。. . . . . .  p.188 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第38論文|第38論文]]: 心の衝動の区別に関する短い文章。. . . . . .  p.194 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第39論文|第39論文]]: 愛に基づいた有益な助言。. . . . . .  p.197 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第40論文|第40論文]]: 道の段階、すなわちそれぞれの務めの権限に関する解説。. . . . . .  p.202 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第41論文|第41論文]]: 彼が孤独を愛する兄弟の一人に宛てて書いた手紙には、親類や名誉ある人々への愛を口実として、悪魔がどのようにして熱心な人たちを絶え間ない孤独からそらそうと画策しているかについて書かれていた。そして、私たちの祖先の例に見られるように、孤独の中で見出される神の知識と比較して、[孤独な人々の]目にはすべてが軽んじて見られるべきであると考えられている。. . . . . .  p.205 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第42論文|第42論文]]: 彼は諭すために自然であり霊的な兄弟に手紙で回答を送った。彼はイサアクに会いたがったので彼の住む世界に行くべきだと説得しようとしたものであった。. . . . . .  p.209 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第43論文|第43論文]]: 霊的な知恵に満ちた有益な言葉。. . . . . .  p.210 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第44論文|第44論文]]: 知識の程度と信仰の程度について。. . . . . .  p.212 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第45論文|第45論文]]: 有益な助言。. . . . . .  p.215 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第46論文|第46論文]]: その他の考慮事項。. . . . . .  p.221 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第47論文|第47論文]](a): 霊的な事柄における魂の教育のために神の摂理によって私たちの中に湧き上がる天使のような感情について。. . . . . .  p.225 ::(b): 人間への第二の働きについて。. . . . . .  p.226 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第48論文|第48論文]]: 魂が常にさらされる光と闇の様々な状態と、右手と左手の事柄において魂が獲得する訓練について。. . . . . .  p.227 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第49論文|第49論文]]: 知識の修練を歩む者に孤独の間に降りかかる暗い闇について。. . . . . .  p.228 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第50論文|第50論文]]: 神への畏れを口実にした愚かな熱意によって引き起こされる損害と、静寂から生じる利益を示す。様々な考察を含む短い教訓集。 他の主題を含む。. . . . . .  p.230 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第51論文|第51論文]]: 知識の3つの段階とその奉仕と衝動との区別、魂の信仰とその中に隠された神秘の宝について。そしてその手段における世俗の知識が信仰の単純さと比較して、どの程度反しているかについて。. . . . . .  p.242 :第51論文(a): 知識の第一段階。 :第51論文(b): 知識の第二段階。 :第51論文(c): 知識の第三段階。つまり完全な段階。 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第52論文|第52論文]]: 知識の衝動の区別に関する別の主題に関する短いセクション。. . . . . .  p.253 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第53論文|第53論文]]: 祈りと、絶えず思い出すことが必然的に求められ、人が区別して唱え、保持することが非常に有益であるその他の事柄について。. . . . . .  p.254 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第54論文|第54論文]]: マゲナヌータ{{註|maggenanutha:助けと後見}}に関するその他の説明。. . . . . .  p.261 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第55論文|第55論文]]: 魂の中に隠された警戒心をどのように保てばよいのか。 眠気と冷たさがどのようにして心に侵入し、魂から聖なる熱意を追い出し、霊的で天的に望ましいものに向かう神聖な願望を減殺してしまうか。. . . . . .  p.263 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第56論文|第56論文]]: 人の生命に関する美しい考察。. . . . . .  p.265 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第57論文|第57論文]]: 神の愛のための忍耐がどのようにして神の助けを得るのか。. . . . . .  p.268 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第58論文|第58論文]]: 神の近くに住み、認識の生活の中で日々を過ごす人々について。. . . . . .  p.273 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第59論文|第59論文]]: 有益な談話。. . . . . .  p.278 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第60論文|第60論文]]: 必然性がなければ、何らかのしるしが私たちを通して、あるいは私たちに明らかに起こることを望んだり求めたりしてはならないこと。. . . . . .  p.281 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第61論文|第61論文]]: 神は何のために神を愛する人たちへの誘惑を許すのか。. . . . . .  p.286 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第62論文|第62論文]]: 人の中に湧き起こる思考によって、自分がどの段階に属し、どのような思考が続くかを知ることができるということ。. . . . . .  p.288 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第63論文|第63論文]]: 認識の心理状態にある人々は、なぜ肉体の粗雑さに応じて霊的なことを考えるのか。また精神がそれを超えて高揚する可能性はどのようにあるのか。また私たちがそこから解放されない原因は何であるか。祈りのときに心はいつどのようにしてイメージなしでいることができるのか。. . . . . .  p.293 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第64論文|第64論文]]: 心中に起こる、祈りによって浄化されるさまざまな状態について。. . . . . .  p.296 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第65論文|第65論文]]: 心の警戒に関する指示、および人が高位の状態を獲得するための修行の方法に関する指示を与える良い助言。. . . . . .  p.297 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第66論文|第66論文]]: 彼が友人に送った手紙での独居修行の神秘について。また多くの人がこの素晴らしい奉仕を知らないために、この奉仕を無視して彼らの主要な部分は居室に座ることに拘っているのはなぜか。これが現在の修道士の伝統である。独居修行を実践する人に役立つ短い名言集とともに。. . . . . .  p.312 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第67論文|第67論文]]: 理解可能なものの区別に関して例をあげ、それぞれの使い方を示しての説明。. . . . . .  p.316 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第68論文|第68論文]]: 短いセクション。. . . . . .  p.318 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第69論文|第69論文]]: 思慮ある者はどのように黙想を務めるべきか。. . . . . .  p.321 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第70論文|第70論文]]: 私たちは、自分の努力のさまざまな区別によって子供じみた判断をすることなく、精神のさまざまな状態によって自分の行動の程度を理解できるということ。ただ日々その中で密かに感じられる喜びによって自分の魂の程度を賢者として認識すべきであるということ。初期知識の微妙な順序。. . . . . .  p.324 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第71論文|第71論文]]: 恩寵から生じる影響について。. . . . . .  p.328 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第72論文|第72論文]]: 真の知識と誘惑について。弱くて取るに足らない、教育を受けていない人々だけでなく、一時的に無欲に値するとみなされ心の完成に達し、ここまで部分的純粋に近づいている人々においても死すべき運命と共存しており、愛情を超えた高揚感を獲得していること。この世界において感情的な肉体での生活と組み合わせることが神によって許されている限りにおいては、肉体のために苦しみ、愛情によって傷つけられなければならないのは、彼らにとっても同様である。ある程度の傲慢さの危険性と、何度も罪を犯し、再び受け入れてくれる悔い改めの恵みによって自分自身を癒すため、慈悲の中で[誘惑]を継続的に受けることが必要とされていること。. . . . . .  p.332 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第73論文|第73論文]]: [前述の] セクションの簡潔な意味と、これまでに述べられた内容の説明。. . . . . .  p.337 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第74論文|第74論文]]: 徳の識別、全過程の範囲、人類への愛の偉大さ、そして人類に注がれる豊かな愛によって聖人の中に神に似たものを創造している霊的目的について。. . . . . .  p.341 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第75論文|第75論文]]: 隠された状態と、そこに存在する力と影響力について。. . . . . .  p.348 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第76論文|第76論文]]: 短い言葉。. . . . . .  p.350 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第77論文|第77論文]]: この章は生命力に満ちている。. . . . . .  p.352 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第78論文|第78論文]]: 世界からの逃避によって得られる利益について。その方法は師父たちが慎重な検討を通じて考え出したものである。. . . . . .  p.360 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第79論文|第79論文]]: 隠れた衝動が外面的な行動の変化に応じてどのように変化するか。. . . . . .  p.361 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第80論文|第80論文]]: 徹夜祷とその間の様々な種類の労働について。そして私たちの労働の目的は、量を達成することではなく、父とともに働く神の子として自由に識別をもって愛の警戒心に働くことになりつつあるということ。徹夜の労働が他のすべての義務よりもどれほど貴重であるかということ。そしてこの労働がそれを選択する人々に課すもの、その中でどのように歩まなければならないかということ。神によって価値があるとみなされる賜物について。この世界の主要な部分との戦いについて。. . . . . .  p.366 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第81論文|第81論文]]: 私たちの主が慈悲を天の御父の偉大さに似たものと定義されたのに、なぜ独居修行者たちはそれ以上に孤独を重んじるのかと尋ねた兄弟への回答。そしてこの点と、苦しんでいる人や病人が近くにいるときに無視することはできないということの弁明。. . . . . .  p.379 [[ニネベのイサアク神秘論文集/第82論文|第82論文]]: 謙虚さはどれほどの名誉を持ち、その地位はどれほど高尚であるかということ。. . . . . .  p.384 目録/終わり == 出典 == *底本: A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC) *https://syri.ac/brock/isaac *https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf == 参考文献 == *[[シリヤの聖イサアク全書]] *[[w:en:The Ascetical Homilies of Isaac the Syrian]](英語版ウィキペディア) {{DEFAULTSORT:にねへのいさあくしんひろんふんしゆう}} [[Category:1923年]] [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:ニネベのイサアク神秘論文集|*]] {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} bysvz1sf9ld1p4wdx0poxo6lda66ge9 ニネベのイサアク神秘論文集/第33論文 0 50530 230236 229468 2025-06-22T06:13:40Z 村田ラジオ 14210 カテゴリを加筆 230236 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|wikisource:宗教|ニネベのイサアク神秘論文集|hide=1}} {{header |title=ニネベのイサアク神秘論文集 |section=第33論文 |previous=[[../第32論文|第32論文]] |next=[[../第34論文|第34論文]] |year=1923 |override_translator = [[作者:アレント・ヤン・ヴェンシンク|A. J. ヴェンシンク]] |author= |notes= *底本: [[:nl:Arent Jan Wensinck|A. J. Wensinck]], [https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh"]. Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC) *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にねへのいさあくしんひろんふんしゆう33}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:ニネベのイサアク神秘論文集|33]] }} ::'''ニネベのイサアク神秘論文集''' ==第33論文== << 神の愛の働きについて。>> 霊的な誘惑については、上記 <ref>論文32の終わりに。</ref>に書いたので、ここで [この考え] を説明することにします。それは、心の愛から生じるぼんやりとした力であり、最初は理にかなった原因がなく、個人的なビジョンや実際的な理解や推論なしに気質を動かすものです。したがって、心はまだ漠然としているため、原因がないと考えられています。 これが訓練を受けていない者に対するその印象である。完璧な者にとっては、原因は後になって調べるうちに明らかになる。そしてそのとき、その[印象]は一層強くなる。なぜなら、喜びが心を動いているからである。喜びの一部は受け手によって身体の中に留められ、他の一部は精神の力に送られる。というのは、心は精神の統覚と身体の統覚の中間にあるからである。前者には有機的に、後者には自然に属する。そして受け手はその作用の味わいを両側に向ける。それゆえ、世界はそれ自身が世界のものから離れるように、そこから離れざるを得ない。我々は必然的に[この現象の]原因を調査する必要がある。愛は本質的に熱いものである。そしてそれが誰かに限りなく降りかかると、それはその魂を狂わせる。それゆえ、それを感じる心は、異常に過度の変化がそこに現れずには、それを抑えて耐えることができない。そして、これらの兆候は、はっきりとわかる形で、公然と表れる。すぐに顔は赤くなり、喜びに満ち、体は熱くなる。恐怖と恥じらいは捨て去られ、まるで淫らになる。集中力は消え失せ、衝動性と動揺が支配する。彼自身の命は、直ちに彼の友と比べれば取るに足りないものとみなされる。したがって、彼にとって何よりも恐ろしい死でさえ、彼にとっては快楽と同じである。そして、これらすべてにもかかわらず、心の視線は彼に対する幻想的な考えから自由ではない。遠くにいる彼は、近くにいる人と同じように彼と話す。彼の知識は、視界から隠されている彼の隠された状態を尋ねる。彼の視線は自然であり、感覚的な統覚に敵対的である。彼の行動は、彼の視界と同じように燃えている。彼は孤独に住み、その熟考は、まるでパートナーと一緒にいるかのように楽しんで、麻痺している。 この情熱は殉教者を酔わせ、それに駆り立てられて使徒たちは恍惚状態で全地を旅し、聖人たちは苦しみ、嘲笑され、荒野で道を踏み外した。落ち着いていた彼らは気が狂い、賢明だった彼らは故意に愚かになり、内気だった彼らは分別を失って淫らになり、愛情から逃れて肉の道を歩んだ。絶えず要求していた彼らは強制されずに静かになった。愛すべき神の慈悲によって彼らの狂気に私たちが達するにふさわしい者となれますように。アーメン<ref>本文には次のように書かれています。「キリストは、わたしたちの同胞から仲介者を選び、その御手によってこれらのものをわたしたちに与えてくださいました。キリストは、すべての点で、わたしたちと同じように試みに会われましたが、罪を犯されることはありませんでした。(ヘブル人への手紙 4:15)キリストの肉はわたしたちの肉と等しく、永遠に混じり合うことなく、それぞれの肉の性質を保ったまま一体となって、キリストは右の座に​​着くにふさわしい者となられました。ですから、今も、そして永遠に、世々限りなく、キリストに賛美と力と崇敬があらんことを」。この一節はギリシャ語訳には欠けており、ネストリウス派による加筆のように見えます。</ref> 謙虚の町に入る前に、愛情の攻撃から逃れて平穏を得たと考えているなら、それを信じてはならない。待ち伏せがあなたを待ち受けている。この平穏の後には、彼らから大きな困難が待ち受けていることを覚悟しなさい。美徳の部屋をすべて通り抜ける間、あなたの道が謙虚の部屋に到達するまで、あなたは苦難からの休息も迫害者からの解放も見つけることはできないだろう。 :::[[ニネベのイサアク神秘論文集/第33論文#第33論文|トップに戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Chapter 33を翻訳 --> 2cpxjpjxgm7kmnbfsnnhour90iy8qwv ニネベのイサアク神秘論文集/第32論文 0 50531 230235 229467 2025-06-22T06:12:36Z 村田ラジオ 14210 カテゴリを加筆 230235 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|wikisource:宗教|ニネベのイサアク神秘論文集|hide=1}} {{header |title=ニネベのイサアク神秘論文集 |section=第32論文 |previous=[[../第31論文|第31論文]] |next=[[../第33論文|第33論文]] |year=1923 |override_translator = [[作者:アレント・ヤン・ヴェンシンク|A. J. ヴェンシンク]] |author= |notes= *底本: [[:nl:Arent Jan Wensinck|A. J. Wensinck]], [https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh"]. Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC) *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にねへのいさあくしんひろんふんしゆう32}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:ニネベのイサアク神秘論文集|32]] }} ::'''ニネベのイサアク神秘論文集''' ==第32論文== << 心を守る目的と、心中の棲家への精緻な観察について。>> 霊歌が持つ力は、理解をもって用いるとき、あなたの知識に隠されてはならない。なぜなら、それは思慮を世俗から遠ざけるからである。また、それは子供にのみ有益であると評判であるが、心から気を散らすものも追い払う。不安定な心は、すぐにそれを利用する。霊的な誘惑は、知識の力よりも感情に対して価値がある。あなたが一人でいるとき、もしあなたがまだ自分の存在に用心する力を持っていないなら、識別の知識との親しい交わりである観想を通して、それらによってあなたの心を守りなさい。あるいは、それが十分でないなら、肉体からの離脱を絶えず思い出し、期待し希望している事柄を思い出すことによって。これには、喜びをもたらす義務の[遂行]、すなわち、感情を引き起こすものからの撤退、および独房内の小さな儀式が伴わなければならない。長い奴隷生活の後に、自由を得て港にたどり着くことができると分かったなら、その道を進みなさい。それが愚かな方法だと分かったなら、法の実践と組み合わせなさい。ここでは矯正するのは簡単だからです。 こうした変化やそのような変化とともに、あなたは洞察力をもって前進し、自分の居室という宝を積んだ船に乗り、高潔な人々の商売で満ちた大祭典を進む。そして、目に見える変化からあなたに生まれる不平等な子供たちを繊細に観察するのです。すなわち、あらゆる精神的な喜びが十字架の苦しみに先行していること、罪の喜びが肉体の安らぎから生まれること、そして貞潔の港では精神的な愛が精神的な瞑想によって生じ、それが心を癒す理由がわかるだろう。先行する原因のない二次的なものはなく、先行する原因のない第三の美徳はない。貞潔の子宮の中で、心が神の愛へと昇る翼が成長し、その翼で人は雲に近づく勇気を持つことができるのがわかるだろう。 この洞察力は、人間にかなりの力を与え、用心深さを自分の仕事に混ぜ、熱心な努力を促します。 目を持たない行動は無駄になります。なぜなら、それは気が散ってすぐに意気消沈してしまうからです。 主に祈り、あなたの行動に目を与えてください。 そうすれば喜びが芽生え、悩みは蜂の巣のように甘くなり、あなたは自分の囲い地を祝宴の部屋のように思うでしょう。 知覚できる美徳なしには愛情を克服することはできず、霊的知識との交流なしには偶然の混乱を克服することはできません。私たちの心は機敏なものであり、識別力をもって対象に縛られなければ、混乱が止むことはありません。そして、前提条件が満たされていなければ、そのようなプロセスの余地はありません。敵に勝利しなければ平和はありません。そして、平和が支配していなければ、平和の向こうにあるものを見つけることは[どのように]可能ですか? 愛情は隠れた美徳の柵です。最初に明白な美徳によって征服されなければ、その中にあるものを見ることはできません。壁のないところに立っている人が、内側にあるものについて話すことは不可能です。雲の中の太陽を見ることはできず、絶え間ない愛情の悩みの中で魂の自然な美徳を見ることもできません。 神があなたに霊的な誘惑を感知する力を与えてくださるように神に祈りなさい。もしこれらがあなたの魂を捕らえれば、世界はあなたから離れ、あなたも世界から離れるでしょう。しかし、孤独と衰弱、そして朗読との注意深い交わりがなければ、それらは感知できません。後者がなければ、あなたは前者のために祈ってはいけません。あなたが前者を[これらの美徳]なしで祈ると、それらはすぐに変化し、肉体的な性質になります。理解できる人は理解するでしょう。賢明な神は、私たちがこのパンを汗をかいて食べることを喜んでおられます。悪意のためではなく、胃の病気に襲われて死ぬことがないようにするためです。 2番目の美徳の母であり、それより前の美徳であるすべての美徳は、それを見つけた人々の魂にとって毒蛇であり、彼らがそれをすぐに追い払わない限り、それを発見した人々の魂にとって毒蛇です。 :::[[ニネベのイサアク神秘論文集/第32論文#第32論文|トップに戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Chapter 32を翻訳 --> 6fotaok9349ihabdrspxwffr2q0g9lm ニネベのイサアク神秘論文集/第30論文 0 50537 230231 229466 2025-06-21T14:37:55Z 村田ラジオ 14210 カテゴリを加筆。ページ番号。 230231 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|wikisource:宗教|ニネベのイサアク神秘論文集|hide=1}} {{header |title=ニネベのイサアク神秘論文集 |section=第30論文 |previous=[[../第29論文|第29論文]] |next=[[../第31論文|第31論文]] |year=1923 |override_translator = [[作者:アレント・ヤン・ヴェンシンク|A. J. ヴェンシンク]] |author= |notes= *底本: [[:nl:Arent Jan Wensinck|A. J. Wensinck]], [https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh"]. Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC) *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にねへのいさあくしんひろんふんしゆう30}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:ニネベのイサアク神秘論文集|30]] }} ::'''ニネベのイサアク神秘論文集''' ==第30論文== [p.141] << 罪の力と邪悪な働きについて。そして罪が維持されている人々と罪が消滅させられている人々について。>> 人は、心の底から罪の原因を心から憎むまで、心の中の罪の誘惑から解放されることはありません。これが、血で人間に対抗する激しい闘争を引き起こし、その中で、美徳への愛の純粋さを通して人間の自由が証明されます。 これが誘惑と呼ばれる力であり、その強い魅力によって弱い魂は敗北します。これが罪の強い力であり、罪は貞淑な者の平静を乱し、彼らが経験したことのない知識によって純粋な感情を圧倒します。愛する者よ、ここで私たちは忍耐を示さなければならない。 これは目に見えない殉教の時代であり、孤独な修道会はいつでもその点で優れていると言われています。この戦争の衝撃によって、堅固な者の心は、非常に用心深くなければ、混乱し動揺します。全能の力を持ち、すべての助けの源である私たちの主よ、この殉教の時代に、天の花婿であるあなたに喜んで婚約し、後先考えずに感情の完全な純粋さで聖性の約束を与えた魂を支えてください。血の闘争が激しくなるこの時代の耐え難い強制によって、彼らが計画した目的から追い出されないように、聖性に反して自らを高く掲げる要塞や高みの抵抗を鎮圧する力で彼らを満たしてください。 この厳しい闘争は、貞潔の闘争で常に起こるわけではありません。テストを適用するために免除が発生する場合があります。この決定的な闘争で試練を受ける弱者には災いあれ。この闘争は大きな力を持ち、たとえ一度であっても、その討論に服従して敗北に完全に身を委ねた者に対しては、通常の力を発揮し続ける。 [p.142] 愛する者よ、怠惰に用心しなさい。そこには知的な死が隠されている。怠惰がなければ、孤独な者が彼を虜にしようとする者の手に落ちることはあり得ない。神がその日に、私たちが朗唱した詩篇や、私たちが時折奉仕の時間を怠惰に過ごしたかどうかに基づいて私たちを裁かれるわけではないが、私たちが怠惰を怠ることで、悪魔が入り込むのだ。そして、悪魔が侵入する機会を見つけて私たちの部屋を閉ざすと、彼らは私たちの中で暴君のように物事を成し遂げる。それは、彼らに割り当てられた厳しい罰の観点から、必然的に彼らの加害者が神の裁きを受けることになる。このように、私たちは小さな事柄を怠ることで奴隷になるが、賢明な人はキリストのために細心の注意を払ってそれらの事柄を扱う。「神に自分の意志を従わせない者は、敵の奴隷となる」と言われている。したがって、私たちは、私たちを虜にしようとする人々に対する防壁として、謙虚な性質のものであり、独房で達成されるものと評判の物事、教会の厳格な制度を維持する人々によって啓示の精神で慎重に定められた物事、私たちの生命維持のためのものであり、軽率な人はそれを無視しても大したことではないと考えますが、その害については考慮しません。彼らの道の始まりと途中は訓練されていない自由であり、それは悪の母です。小さなことに気をとられることは、それらに対する怠慢によって罪を犯す機会を与えるよりも良いです。これは間違った時の自由であり、その終わりは過酷な奴隷状態です。 あらゆる出来事の衝撃に対して感覚が敏感である限り、あなたの魂は死んでいるとみなされる。その場合、あなたの状態がどうであろうと、罪の炎はあなたの手足から消えることはなく、あなたの魂に平安は訪れないでしょう。孤独な者たちがそのような状態で用心深くあることを心に誓うなら、彼は罰を意識することを望まない。 人が仲間を欺くとき、彼は法律に従って呪いを受けるに値します。しかし、人が自分自身を欺くとき、彼はそれらの罰に値しない。なぜなら、意識がある間は、彼は自分自身を無意識にしているからである。というのは、彼は心から原因を根絶するよう要求されているのである。しかし、これは彼の目には難しい。そして、この理由から、意識がある間は、彼は無意識になりたいと願う。ああ、愛情の原因はなんと甘美なことか。彼は時々それを断ち切り、追い払うことを喜ぶだろう。多くの場合、彼は、それらが鎮められたことを喜ぶが、それらの原因を根絶することはできない。したがって、たとえそれが私たちの意志に反していても、私たちは試練にさらされ、それらの原因が私たちの中に強くあることを私たちは望んでおり、その感情に苦しめられます。 [p.143] 我々は罪を欲しない。しかし、罪に導く者を我々は喜んで受け入れます。だから、二次的な理由が一次的な理由の強力な原因となる。なぜなら、感情の原因を欲する者は、自分の意志ではないにせよ、感情に支配されるからです。 自分の罪を憎む者は、それを避けます。自分の過ちを告白する者は、赦しを受けます。習慣的な罪を避けても憎しみは生まれず、過ちを告白しなければ赦しは受けられません。後者は真の謙遜を伴い、前者は心に恥が湧き上がる悲しみを伴う。非難すべきことを憎むところまで達していない限り、犯されたときにそれがまき散らす悪臭や、私たち自身の中にそれを運ぶ悪臭を感じることはできません。悪を捨て去っていない限り、どんな恥辱を生むか、どんな懲罰がそこから生じるかはわからないのです。他人の中に、あなたが非難されているものを見たら、あなたがまとっている恥を知ることになります。悪から身を遠ざけなさい。そうすればわかるでしょう。あなたは、悪臭を甘い香りとして吸い込み、恥の裸を輝かしい覆いとして考えるからです。 暗闇から抜け出して自分自身を見た人は幸いです。暗闇の中にいる限り、見ることも識別することも不可能です。酒の酔いから抜け出し、他人の中に自分の酔いの恥知らずさを見た人は幸いです。そのとき、彼は自分の恥を知るでしょう。彼自身が罪の酔いの下にある限り、彼の目には彼のすることすべてが美しく見える。自然がその秩序から外れたとき、酒に酔うのも欲望に酔うのもすべて同じです。両方の[状態]は[人を]成り行きから遠ざけます。両方とも、その担い手である身体に同じ熱を刺激します。それらはその概念に関しては異なっていますが、一方は外見において、一方は狂気においてです。それらの原因となる概念に平等はなく、それらを担う人々には多様性はありません。 安息の後には必ず苦悩が訪れ、苦悩の後には必ず安息が訪れます。この世のすべてが変化しやすいとしても、人はここでもあそこでも、あるいは旅立つときにも、反対の姿勢でそれに耐えます。これは特に、聖性の道において、好色や苦悩から休息をとる場合に当てはまります。これは神の慈悲によって管理されるので、人は旅の途中か旅の終わりにこの苦しみを味わわなければならず、その後、人は亡くなります。そして、神の慈悲の豊かさゆえに、神はこれを保証金のような報酬として用います。そのため、善の報酬は資本を減らさないが、悪の報酬は資本を減らします。 [p.144] 言われているように、ここで懲罰を受ける者は、地獄での苦しみを減らします。 服従に先立つ自由、争いに先立つ慰めに気をつけなさい。誘惑の衝撃よりも古い知識に気をつけなさい。悔い改めの達成に先立つ愛よりも、誘惑の衝撃に気をつけなさい。 私たち全員が罪人であり、誰もその経験より高く評価されないのであれば、美徳のどれ一つとして悔い改めに先立つものはありません。すべての喜びは嫌悪と苦々し​​さに次ぐものであることを思い出してください。 喜びにも用心しなさい。喜びには原因のない変化は伴わない。上から与えられたすべてのものについて、その変化の原因は知識では理解できないことがわかるでしょう。平等と結びついているとされるものを恐れなさい。それは踏みつけられた道のそばにあると言われている。賢明に世界の船を操縦することを知っている人は、変化を彼に属するすべてのものと結び付けている。類似性はこれとは異なります。 ​​思考の散漫は他の肢体と結びついています。落胆は過度の労働と結びついています。散漫は落胆と結びついています。ある散漫は別の散漫とは異なる。前者は放縦の争いを伴い、後者は独房を出てさまざまな場所に移り住もうとする傾向を伴います。堅実と結びついた適度な労働は貴重です。それが失われると、あふれんばかりの欲望が生じ、それが優勢になると、問題が生じる余地があります。 兄弟よ、あなたの身体に蔓延する自然の愚かさに耐えなさい。あなたは統治の永遠の冠を持つ知恵を持つ運命にあるのだから。アダムの遺産である肉体の混乱に悩まされてはならない。肉体は平和の王である天の像をまとうや否や、その喜びに浸る運命にあり、その知識はこの世で肉をまとった者たちの心を圧倒するでしょう。 自然の荒々しい変化に悩まされてはならない。それらによって引き起こされる労働の短い期間は、耐え忍ぶ者にとっては喜ばしい贈り物です。それらは食肉処理場<ref>つまり肉屋</ref>の周囲にうろうろする野犬です。口から発せられる音だけで逃げ出すのに十分です。しかし、もしあなたがそれらと関係を持つよう謙虚になれば、あなたは彼らを強いライオンにするでしょう。 [p.145] 卑しい快楽を軽蔑しなさい。そうしないと、その熱の力に屈してしまいます<ref>それが強くなったときに</ref>。小さなことに対する少しの忍耐は、大きなことの接近の危険を撃退します。些細なことに対する小さな勝利なしには、大きな悪を克服することはできません。 兄弟よ、あなたが進むべき道を思い出してください。そこには、死に駆り立てる化学物質によって維持される生命も、快楽の誘惑によって若い性質を刺激する気質の暖かさももうありません。[神が]あなたを試練にかけるためにあなたを導いた闘争の労苦に耐えなさい。そうすれば、あなたは冠をかぶって通り抜けるでしょう。しばらくすると、あなたはこの世から休息を得るでしょう。終わりのない休息、誘惑のない人生、完璧な人間らしさの状態、衝撃のない人生の歩み、自然を支配する神の愛の強制的な力について考えてください。 :::[[ニネベのイサアク神秘論文集/第30論文#第30論文|トップに戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Chapter 30を翻訳 --> d1vuea1pk0mr74appm82n0kp5bsovp6 字の新設及び字の区域の変更(北条市) 0 50987 230224 228635 2025-06-21T12:17:17Z 特急いよのたみ 34488 cat 230224 wikitext text/x-wiki {{header |title = 字の新設及び字の区域の変更(北条市) |year = 2002 |month = 4 |day = 5 |notes = '''平成14年愛媛県告示第758号''' * 告示日:平成14年4月5日 * 底本:[https://www.pref.ehime.jp/uploaded/attachment/21046.pdf 「愛媛県報」平成14年第1345号](平成14年4月5日発行)所収 {{DEFAULTSORT:あさのくいきのへんこう ほうしようし}} [[Category:平成14年の愛媛県告示]] [[Category:松山市の町・字]] }} '''◯愛媛県告示第758号'''<br> [[地方自治法 第二編 普通地方公共団体 第十四章 補則#260|地方自治法(昭和22年法律第67号)第260条第1項]]の規定により、[[w:北条市|北条市]]長から1のとおり字の区域を新たに画し、及び2のとおり字の区域を変更する旨の届出があった。上記の処分は、[[土地改良法]](昭和24年法律第195号)の規定による換地処分の公告があった日の翌日から効力を生ずる。 {{left|平成14年4月5日|2em}} {{right|愛媛県知事 [[w:加戸守行|加 戸 守 行]]|2em}}<br> 1 新たに画する字 {| class="wikitable" |- style="text-align:center;" | rowspan="2" colspan="2" | 字 の 名 称 | colspan="3" | 左記の区域に編入する区域 | style="width:4em;" rowspan="2" | 摘 要 |- style="text-align:center;" | colspan="2" | 字    名 | 地        番 |- style="vertical-align:top;" | style="width:3em;" rowspan="7" | 善応寺 || style="width:3em;" rowspan="7" | 字新田 || style="width:3em;" rowspan="7" | 善応寺 || style="width:3em;" | 字蔵谷 | 甲909の1、甲910の1から甲910の3まで及び甲911の2 || rowspan="7" | これに伴う道路、水路等を含む。 |- style="vertical-align:top;" | 字土居越 | 甲943の1から甲943の6まで及び甲944の1 |- style="vertical-align:top;" | 字平原 | 甲891の2、甲892の1から甲892の3まで、甲893、甲901の1、甲901の2、甲902の1、甲902の2、甲903、甲905、甲907の5、甲907の6、甲907の11から甲907の17まで、甲907の18の一部、甲907の19、甲907の20の一部、甲907の23から甲907の25までの一部、甲907の26、甲907の28の一部、甲907の29から甲907の34まで、甲908の1から甲908の3まで、甲908の9から甲908の11まで、乙89の3及び乙90の1から乙90の8まで |- style="vertical-align:top;" | 字西佐古 | 甲1288の2及び甲1290の2 |- style="vertical-align:top;" | 字後堂 | 甲876の2、甲878、甲879、甲885、甲888、甲889、甲890の1、甲890の4、甲890の5、甲891の1、甲894の2、甲894の4、甲894の5、甲900の1及び甲900の2 |- style="vertical-align:top;" | 字宮ノ鼻 | 甲877、甲880の2、甲881の4、甲882の一部、甲883の1、甲883の2及び甲884 |- style="vertical-align:top;" | 字馬田 | 甲972の一部 |} 2 字の区域の変更 {| class="wikitable" |- style="text-align:center;" | rowspan="2" colspan="2" | 字 の 名 称 | colspan="3" | 左記の区域に編入する区域 | style="width:4em;" rowspan="2" | 摘 要 |- style="text-align:center;" | colspan="2" | 字    名 | 地        番 |- style="vertical-align:top;" | style="width:3em;" rowspan="13" | 善応寺 | style="width:3em;" rowspan="13" | 字能楽 | style="width:3em;" rowspan="13" | 善応寺 | style="width:3em;" | 字平原 | 甲907の18の一部、甲907の20の一部、甲907の21、甲907の22、甲907の23から甲907の25までの一部、甲907の27及び甲907の28の一部 | rowspan="21" | これに伴う道路、水路等を含む。 |- style="vertical-align:top;" | 字宮ノ鼻 | 甲881の1、甲881の2及び甲882の一部 |- style="vertical-align:top;" | 字馬田 | 甲969、甲970、甲971の1、甲971の2、甲972の一部及び甲980 |- style="vertical-align:top;" | 字後堂 | 甲861の1、甲861の2、甲862の一部及び甲863の一部 |- style="vertical-align:top;" | 字西佐古 | 甲999 |- style="vertical-align:top;" | 字瓜窪 | 甲973、甲974、甲976、甲978及び甲979 |- style="vertical-align:top;" | 字東角 | 甲856の1の一部、甲857の1の一部、甲858の4、甲859、甲860の1及び甲860の2 |- style="vertical-align:top;" | 字明神 | 甲1038及び甲1039の1 |- style="vertical-align:top;" | 字昆輪首 | 甲977、甲1037、甲1040の1及び甲1041の1 |- style="vertical-align:top;" | 字池田 | 甲1000、甲1002、甲1004、甲1007の1及び甲1008 |- style="vertical-align:top;" | 字国峯 | 甲1054の1、甲1055から甲1057まで及び甲1058の1 |- style="vertical-align:top;" | 字日浦 | 字1060の2 |- style="vertical-align:top;" | 字森木 | 甲1090、甲1091の1、甲1091の2、甲1092、甲1093、甲1108及び甲1110から甲1115まで |- style="vertical-align:top;" | rowspan="7" | 善応寺 | rowspan="7" | 字長正寺 | rowspan="7" | 善応寺 | 字後堂 | 甲862の一部、甲863の一部及び甲864 |- style="vertical-align:top;" | 字東角 | 甲863の1、甲864の1、甲855の1、甲856の1の一部及び甲857の1の一部 |- style="vertical-align:top;" | 字宮ノ鼻 | 甲865 |- style="vertical-align:top;" | 字宮ノ下 | 甲849、甲850及び甲851の1 |- style="vertical-align:top;" | 字松日浦 | 乙78の3 |- style="vertical-align:top;" | 字城ノ窪 | 甲817、甲818の1及び甲819 |- style="vertical-align:top;" | 字高市 | 甲816の1、甲816の3及び甲816の4 |- style="vertical-align:top;" | 善応寺 | 字観音堂 | 善応寺 | 字畦地 | 甲727、甲729、甲730、甲731の1、甲732の1、甲761の2、甲762、甲764、甲765の2、甲766、甲767の1、甲767の3、甲768の1、甲769の1、甲770の1、甲771の1、甲772の1、甲786の1、甲786の4、甲787、甲789の1、甲791の2、甲793及び甲794 |} {{PD-JapanGov}} o9hp16hlxirdap34cvm8dv01ndcrvuv 町の新設(松山市) 0 51074 230222 229842 2025-06-21T12:14:46Z 特急いよのたみ 34488 cat 230222 wikitext text/x-wiki {{header |title = 町の新設(松山市) |year = 2004 |month = 11 |day = 24 |notes = '''平成16年愛媛県告示第2316号''' * 告示日:平成16年11月24日 * 底本:[https://www.pref.ehime.jp/uploaded/attachment/21699.pdf 「愛媛県報」平成17年第1612号](平成16年11月24日発行)所収 {{DEFAULTSORT:まちのしんせつ まつやまし}} [[Category:平成16年の愛媛県告示]] [[Category:松山市の町・字]] }} '''◯愛媛県告示第2316号'''<br>  [[地方自治法 第二編 普通地方公共団体 第十四章 補則#260|地方自治法(昭和22年法律第67号)第260条第1項]]の規定により、[[w:松山市|松山市]]長から次のとおり町の区域を新たに画する旨の届出があった。<br>  上記の処分は、平成17年1月1日から効力を生ずる。 {{left|平成16年11月24日|2em}} {{right|愛媛県知事 [[w:加戸守行|加 戸 守 行]]|2em}} {| class="wikitable" |- style="text-align:center;" | style="width:4em" rowspan="2" | 町の名称 | colspan="2" | 左記の区域に該当する区域 | style="width:4em" rowspan="2" | 摘 要 |- style="text-align:center;" | style="width:4em" | 字  名 | 地番 |- style="vertical-align:top;" | 睦月 | 大字睦月 | style="text-align:center;" | 全 区 域 | rowspan="17" | これに伴う道路、水路等を含む。 |- style="vertical-align:top;" | 野忽那 | 大字<br>野忽那 | style="text-align:center;" | 〃 |- style="vertical-align:top;" | 中島大浦 | 大字大浦 | style="text-align:center;" | 〃 |- style="vertical-align:top;" | 小浜 | 大字小濱 | style="text-align:center;" | 〃 |- style="vertical-align:top;" | 長師 | 大字長師 | style="text-align:center;" | 〃 |- style="vertical-align:top;" | 宮野 | 大字宮野 | style="text-align:center;" | 〃 |- style="vertical-align:top;" | 神浦 | 大字神浦 | style="text-align:center;" | 〃 |- style="vertical-align:top;" | 宇和間 | 大字<br>宇和間 | style="text-align:center;" | 〃 |- style="vertical-align:top;" | 熊田 | 大字熊田 | style="text-align:center;" | 〃 |- style="vertical-align:top;" | 吉木 | 大字吉木 | style="text-align:center;" | 〃 |- style="vertical-align:top;" | 饒 | 大字饒 | style="text-align:center;" | 〃 |- style="vertical-align:top;" | 畑里 | 大字畑里 | style="text-align:center;" | 〃 |- style="vertical-align:top;" | 中島粟井 | 大字粟井 | style="text-align:center;" | 〃 |- style="vertical-align:top;" | 上怒和 | 大字<br>上怒和 | style="text-align:center;" | 〃 |- style="vertical-align:top;" | 元怒和 | 大字<br>元怒和 | style="text-align:center;" | 〃 |- style="vertical-align:top;" | 津和地 | 大字<br>津和地 | style="text-align:center;" | 〃 |- style="vertical-align:top;" | 二神 | 大字二神 | style="text-align:center;" | 〃 |} {{PD-JapanGov}} oglbovd3m5rrx890d1iyc0p6e5o1shd ニネベのイサアク神秘論文集/第34論文 0 51160 230237 229469 2025-06-22T06:16:20Z 村田ラジオ 14210 カテゴリを加筆 230237 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|wikisource:宗教|ニネベのイサアク神秘論文集|hide=1}} {{header |title=ニネベのイサアク神秘論文集 |section=第34論文 |previous=[[../第33論文|第33論文]] |next=[[../第35論文|第35論文]] |year=1923 |override_translator = [[作者:アレント・ヤン・ヴェンシンク|A. J. ヴェンシンク]] |author= |notes= *底本: [[:nl:Arent Jan Wensinck|A. J. Wensinck]], [https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh"]. Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC) *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にねへのいさあくしんひろんふんしゆう34}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:ニネベのイサアク神秘論文集|34]] }} ::'''ニネベのイサアク神秘論文集''' ==第34論文== << 徳の種類などについて。>> 禁欲は聖性の母である。そこから神の神秘を初めて知覚する感覚が生まれ、それは霊的知識の第一期と呼ばれる。誰も自らを欺いて偽預言者とならないように。不純な魂は、象徴的にも常識的にも純粋な王国に昇ることはなく、聖霊と交わることもできない。しかし、諸要素がそれぞれの同族と混ざり合い、自然の一体性という特質が保たれるとき、その惨めな魂は未来の大審判のために保存される。 兄弟よ、涙と断食と独り坐ることによって、あなたの貞潔の美を清く保ちなさい。自然界の正しい行程が終わり、パウロが未来の復活を証明するために言うように、無数の個性を持つ星々の球体を支えているあの偉大なる光体に到達し、その光線と混ざり合ったとき(自然な意味で言っているのではないが)、意志の乗り物は無意識の束縛で縛られ、二つの溢れ出る泉はその鉢の中で干上がるであろう。そして祭司たちは神の威厳の雲のために聖域を去るであろう<ref>列王記 8:11への言及。</ref>。その時、イスラエルの王はソロモン、すなわち謙遜から生まれる平和である。彼は主のために宮を建て、そこにすべての聖なる器を完全に備えさせるであろう。 神の御前には、神のために少し苦労することは、苦しみを伴わない多くの奉仕よりも価値がある。なぜなら、自由意志から生じる苦労は愛の表れだからである。しかし、安楽な奉仕は、内なる満足感から生まれる。それゆえ、聖徒たちは、満足感を伴う奉仕ではなく、苦労によってキリストの愛について試されたのである。労苦を伴わない奉仕は、自分の所有物によって義とされることを望みながら、人格において卓越性を得ない一般信徒の義である。 しかし、勝利者であるあなたは、キリストの苦しみを自らの中で味わいなさい。そうすれば、あなたもキリストの栄光を味わうにふさわしい者とみなされるでしょう。私たちがキリストと共に苦しむなら、キリストと共に栄光を受けるからです。体がイエスのために苦しまなければ、心もイエスと共に栄光を受けることはできません。栄光を軽蔑する者は、同時に栄光を受けます。その人は体においても魂においても栄光を受けるでしょう。体の栄光とは、神の前に謙虚に服従することです。心の栄光とは、神について真に黙想することです。正しい服従には二重の性質があります。それは労働と軽蔑から生じます。ですから、体が苦しむとき、心もまた共に苦しみます。 あなたが神を知らなければ、あなたのうちに神の愛が湧き上がることは不可能である。あなたが神を見たことがなければ、神を愛することは不可能である。あなたは神を知ると同時に、神を見るのである。視覚は知識に先立つものではない。我が主よ、私をあなたを知るにふさわしい者にして下さい。そうすれば、私もあなたを愛するであろう。[私は]教えの訓練において、心が雑念の中に生じる知識を欲するのではない。しかし、あなたを見つめながら心があなたの本質を讃えるような知識に私を値する者にして下さい。世界の知覚を心から追い払うような視線で見つめる知識に私を値する者にして下さい。幻想的な考えが生まれる恣意的な視覚を超越した高みに私を値する者にして下さい。そうすれば私は束縛の強制によってあなたを見つめるであろう。十字架の後半は、衝動に仕えることによって自由な立場を破壊された精神の磔刑です。その視線は、自然が与えてくれない、常にあなたに向けられたものです。私の中にあなたの愛という純粋な金属を置いてください。そうすれば、私はあなたに従い、世俗から離れることができます。あなたの謙遜さを私の中に動かしてください。あなたは、私たちの四肢から取り去られた覆いをまとって、この世に生きてきました。その謙遜さを常に、そして決して弱まることなく思い出すことによって、私は喜びをもって私の本性の屈辱を受け入れることができます。 十字架上の昇天には二つの側面がある。一つは肉体の磔刑である。二つ目は観想への昇天である。しかし前者は自由の問題であり、後者は影響力の問題である。 肉体が従わなければ、精神も従わない。精神の支配とは肉体の磔刑である。自由が理性に従わなければ、精神は神に従わない。 崇高な事柄を少年の身分に委ねるのは難しい。ああ、国よ、あなたの王が幼な子である時には、あなたは災難を受けるのだ<ref>伝道の書 10:16</ref>。 自らを服従させる者は、ほとんど全てが彼に従うであろう。自らを知る者は、全ての事物の知識が与えられるであろう。「汝自身を知れ」という言葉は、全ての知識を達成することを意味する。全てがあなたの存在の中に含まれているように、あなたの存在の知識の中には全ての知識が含まれており、そしてあなたの存在の服従の中には全世界の服従が含まれる。謙遜があなたの行動を支配する時、あなたの存在はあなたに服従し、それと共に全ても服従するであろう。なぜなら心に神聖なる平和が生まれるからである。これはまだあなたに起こっていないので、あなたは愛情だけでなく偶然によっても絶えず迫害されている。まことに主よ、もし我々が謙遜にならないなら、あなたは我々を謙遜にすることを止めないであろう。真の謙遜は知識の子であり、正しい知識は試練の子である。 :::[[ニネベのイサアク神秘論文集/第34論文#第34論文|トップに戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Chapter 34を翻訳 --> fusbywjumkrgc1tf5zkdp5eyfgyjcpz ニネベのイサアク神秘論文集/第35論文 0 51174 230232 230217 2025-06-21T23:07:30Z 村田ラジオ 14210 校正 230232 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|wikisource:宗教|ニネベのイサアク神秘論文集|hide=1}} {{header |title=ニネベのイサアク神秘論文集 |section=第35論文 |previous=[[../第34論文|第34論文]] |next =[[../第36論文a|第36論文a]] |year=1923 |override_translator = [[作者:アレント・ヤン・ヴェンシンク|A. J. ヴェンシンク]] |author= |notes= *底本: [[:nl:Arent Jan Wensinck|A. J. Wensinck]], [https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh"]. Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC) *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にねへのいさあくしんひろんふんしゆう35}} [[Category:キリスト教]] [[Category:ニネベのイサアク神秘論文集|35]] }} {{Textquality|50%}} ::'''ニネベのイサアク神秘論文集''' ==第35論文== << 絶え間ない行動とあらゆる種類の道徳を考慮した問答形式の論文。これらは、世間を脱ぎ捨てて荒野に住む人々、隠遁生活を送っている人々、そして常に自発的に屈辱を感じて義の栄冠を目指している人々にとって非常に有益である。>> [p.152] '''弟子'''は言う:心を捕らえ、悪事に走らせないようにする束縛とは何でしょうか? '''教師'''は言う:それは、絶えず知恵を求め、人生の教えを求めることです。なぜなら、これよりも強い、心の乱れに抗う束縛は存在しないからです。 '''弟子'''は言う:知恵の道を求める者にとって、その限界はどこにあり、教えの道はどこで終わるのでしょうか? '''教師'''は言う:この道の道のりはいかなる限界とも無縁であり、聖なる天使でさえ完成に到達できないほどです。知恵の道には終わりがありません。それは、それに従う者を神と融合させるほどの高みへと昇ります。そして、これこそが知恵の無限性、すなわちその区別が無限であることの証です。知恵とは神です。 '''弟子''':知恵に至る第一の、そして主要な道とは何でしょうか? '''教師''':人が全力を尽くして神を求め、全身全霊で神を求めることに熱心であり、愛ゆえに命を捨てることをいとわないことです。 '''弟子''':知恵のある人と呼ばれるのは、誰にふさわしいのでしょうか? '''教師''':地上の命に限りがあることを真に理解する人は、罪にも限度を設けることができます。人が知恵を持ち、その手足が欲望の匂いで苦しむことなく、その魂が欲望の甘美さの汚れに苦しむことなく、この世を無事に去ること、これよりも偉大な知識や理解がどこにあるでしょうか? もし人が、あらゆる生物の神秘を見通すために自分の衝動を抑え、いわばあらゆる種類の知識に対する洞察力に満ちているとしても、彼の魂は罪の汚れによって汚されており、彼の魂の証言によって安全に信頼の港にたどり着くことを希望することができないならば、常に自分の仕事に没頭しながらも、それによってこの世の希望だけに導かれるそのような人ほど愚かな者は創造物の中にいない。 [p.153] '''弟子''':真に強いのは誰ですか? '''教師''':勝利の力の栄光が隠されている一時的な苦難の間、恥ずべき人生を包み込む慰めを待ち望まない者です。そして、その慰めは、それを見つけた者に常に嘆きの杯を飲ませるのです。 '''弟子''':人が自分の労働を中断すれば、神への道に害を及ぼすでしょうか? '''教師''':苦難なしにキリストに近づくことは不可能であり、苦難なしに義を不変に保つこともできません。すでに獲得した義が、それを強化し、同時にそれを守るために役立った労働を失えば、それは突然守護者を失った宝物、敵の群れに囲まれて武器を奪われた運動選手、装備品を失って海に取り残された船に似ている。あるいは、果物が豊かに実る庭園から水を供給していた泉が断たれることに似ている。 '''弟子''':神への衝動に照らされた者とはどのような人ですか? '''教師''':世の甘美さの中に隠された苦味を理解し、その杯を飲むことを口にしない者。自らの人生の救いを熱心に探求し、世から解放される日まで走り続ける者。世への愛が入り込み、内に宿り、隠された宝を奪い去らないよう、感覚の門を閉ざす者です。 '''弟子''':世とは何ですか。そして、どのようにしてそれを認識できるのですか。そして、どのようにして世を愛する者を傷つけることができるのですか。 '''教師''':「世」とは娼婦であり、その美しさへの欲望によって、それを見る者を魅了し、愛するように仕向ける。そして、ほんの短い間でもその愛に囚われた者は、その手から逃れることはできない。その手は彼から命さえも奪い、死によってその家から追い出し、すべてを失わせる。しかし、人はその闇から抜け出そうと努めるや否や、「世」を認識する。その時、彼はその網の多くの縄目を見ることができる。しかし、その中にいる限り、その罠を見ることはできない。なぜなら、その「要塞」の中には、弟子や息子たち、捕虜だけでなく、出家者、苦行者、かつてその束縛を破り、その上にいた者たちもいるからである。彼らもまた、今や徐々にその奉仕に巻き込まれ、足元の敷物とされ始めているからである。 [p.154] '''弟子''':今、あなたは私に、「世」がそこに住む者を本当に窒息させ、その人工的な束縛を理解することがいかに困難であるかを納得させてくれました。そこでまず、「世」に対する心の疑念の第一の衝動は何なのかを教えてもらいたいです。「世」の束縛はあまりにも甘美で、その束縛の企みは隠されているからです。 '''教師''':魂の愛の思慮が目覚めると、この思慮の衝動は彼の目に「世」を憎むようにさせ、「世」に対する疑念を彼に投げかけるのです。 '''弟子''':常に賞賛に値し、美しく見えたものが、今や突如として醜く見え、自分の人生とこれまでの知識を悔い、「世」について正しく考えていなかったと後悔させるこの感情は、どこから来るのでしょうか? '''教師''':まず第一に、静寂の中で彼に告げるのは自然であり、「世」の永続性と未来とその進路の不安定さ、そして「世」に入る者たちの{{r|儚|はかな}}さについて、批判的な衝動を彼に呼び覚まします。そのため彼は、「この世」を、そこに入る者たちにとって、そしてまた、彼以前の数え切れないほどの世代にとっての、過渡期の場とみなします。彼らは一晩の宿屋として「この世」に入り、帰ることを考えずに、全世界を旅する旅人として「この世」を去る。彼らの中には王、統治者、賢者、名誉ある者もいる。彼らの中には書記官、弁論家、裁判官、軍司令官もいる。彼らの中には富を所有する者、財を成す者もいた。そして今、彼らの死後、彼らの階級も、統治の冠も、彼らの威厳ある王座も、彼らの高貴な享楽も、彼らを敬う者たちの称賛も、彼らの友人たちの愛も、彼らの肉体の贅沢な享楽も、彼らの優雅な美しさも、彼らの誇り高き威厳ある{{r|体|たい}}{{r|躯|く}}も、彼らの博学な知性も、彼らの衝動に満ちた精神も、彼らの口から溢れ出て聞く者の心をその優美さで魅了した、彼らの学識を綴ったギホン川の豊かな詩も、もはや存在しない。 [p.155] 彼らはシェオルで長年、まるで一晩のように眠っていた。この長い眠りがあと何年続くのか、また復活の夜明けがいつ訪れ、眠りから目覚めさせるのかは分からない。何のためにこのような状態に置かれているのかを考えることは、大きな苦しみをもたらす。そして彼は、どれだけの世代がこの世に閉じ込められ、忘れ去られているのかを考えるだろう。そして私もまた、彼らの一人として消え去るだろう。富と快適さは呪われよ。この熟考の下で、彼の心には大きな混乱が起こり、彼の霊は苦しみで満たされるだろう。そして、苦しみの激しさのために、彼は深い悲しみの涙を流すだろう。そして彼は世界を軽蔑し、自分の人生を嘆き、様々な苦い哀歌で魂を嘆くだろう。そしてため息とともに彼は自分に言うだろう。「私の惨めな魂よ、どこにいるのか、私の死後、どこにいるのか?」おそらく、彼の心の中には、次のような思いが湧き上がるだろう。「私は生き物の世界に入っていなかったら、子宮から出てこなかったらよかったのに!」 このような嘆きの中で、彼は心の悲しみのゆえに甘い涙を流し、その涙で衣を濡らすだろう。そしてたちまち、「この世」は彼の目に牢獄のようになり、その最初の甘美さはどんな苦いものよりも苦く、彼の生涯の愛とその魅力的な美しさは地獄の象徴のように思えるだろう。 その時、彼の心は聖書へと向けられ、聖書は彼の中に、復活とこの世のあらゆるものに待ち受ける終末への信仰、そしてこの世で善く生きた者たちに与えられた約束、そして律法を犯す者たちと、短い生涯の間に罪の広い道を歩んだ者たちに下される神の裁きへの信仰を呼び覚ますでしょう。そして、光明を見出した者のように、彼は悲しみの重荷を放り投げ、彼の中に大きな喜びが目覚めます。なぜなら、彼は素晴らしく真実な希望を見出したからです。これらの事柄などは、自然が彼の内なる感情から引き起こすことはできません。それらは、信仰によってのみ聖書の言葉から理解されるのです。人は、自分自身に関する教訓を、自然や自分の内にある批判的な衝動だけから得ることはできません。過去と未来における神の働きかけについては、私たちは聖書や霊的啓示からこの教訓を得ることができます。その時、信仰と聖書の光によって霊の目は照らされ、生まれながらの批判的思考力が輝き、人は魂を大切にするよう促されるでしょう。そしてさらに、人は世俗から解放された人生を送れるよう、手段を考え出すでしょう。そうすれば、肉体を離れる前に、後の世に役立つ備えを自らに用意することができるでしょう。 [p.156] '''弟子''':人はどのようにして世俗を完全に捨て去ることができるでしょうか。 '''教師''':思い出される未来の善への渇望によって。聖書は、希望に満ちた言葉の甘美さによって、その心に種を{{r|蒔|ま}}きます。栄光に満ち、喜ばしいと思われ、人が夢中になっている物事が、さらに優れたものへの渇望と対照されることがなければ、心は以前の情愛を軽蔑することはできません。 '''弟子''':しかし、人は弱く、突然に以前の習慣をすべて捨て去り、苦難に満ちた人生を受け入れることはできません。 '''教師''':もし来世の偉大さが、人の精神に、この現世の悲惨な短さと比較するほどの知恵の偉大さを抱かせなければ、「新しい世界」への道を歩み始めるために苦難に耐える勇気を持つことは不可能である。どうか、この地上の年月を心の中で計算し、可能な限り自らを高め、来世の日々と比較し、あなたが与えるものがあなたが受け取るものと等しいかどうかを言ってみなさい。 そして、あなたが何を捨て、その代わりに何を得るかを考えて、あなたにとっての交換が等価であるかどうかを言いなさい。それゆえ、賢者は、この世の広大さと、現世の短さに比べて無限の命があることに驚きながら、こう言うであろう。「人は長生きするとしても、その日数は百年である<ref>詩篇 90:10</ref>。これは海からバケツ一杯分を満たすか、砂粒一粒を採るようなものだ。この世の千年は、義人の世の一日にも及ばない<ref>詩篇 84:11</ref>。」 '''弟子''':では、肉体はどうすればいいのでしょうか? 苦悩に取り囲まれると、善への意志の欲求はかつての熱意と同様に弱まります。 '''教師''':これは通常、存在の半分は神を求め、もう半分はこの世に留まっている人々に起こります。これは、彼らの心がまだ地上のものから自由ではなく、疑いを抱いており、時には後ろを振り返り、時には前を見ています。そして、賢者は、このような優柔不断な状態で神の道に近づく人々を戒めて、「二心を持って近づくのではなく、種をまく人、または刈り取る人のように近づきなさい」と言っていると私は思います。[p.157] そして、私たちの主は、完全に放棄することを望む人々の中には、意志は固まっているものの、まだ捨て去っていない肉体への愛着のために、困難を恐れて考えが後退している人々がいるのを見て、彼らからこの心の無力さを取り除き、簡潔にこう言われます。「もし誰かが私に従いたいと思うなら、まず自分を否定しなさい<ref>マタイ 16:24</ref>」。ここで言われている否定とは何でしょうか。それは肉体の否定です。そして、十字架刑に定められている者は、死の考えを受け入れ、この世とは何の関わりもないと考える者として出て行きます。これが、十字架を負って私に従うことです。十字架は、いかなる困難にも備えられた意志を表しています。そして、なぜそうなるのかを明らかにして、イエスは言われます。「この世で自分の魂を救おうとする者は、真の人生でそれを失うであろう<ref>マタイ 10:39</ref>。また、私のためにここで自分の個性を失う者は、あそこでそれを見出すであろう。」これは、十字架刑の道に足を踏み入れながらも、なおこの肉体の人生を思いやろうとする者は、その苦しみのために出て行った信仰を魂から奪っていることを意味します。なぜなら、この考えは、困難に近づくことを許さず、常に彼と共にあり、徐々に彼を誘い込み、祝福された人生のための戦いの中心から彼を引き離すからです。このような考えは、彼の中で大きくなり、ついには彼を圧倒してしまいます。しかし、「わたしの愛を見出すために、自らを捨てることを心に決めた者は、何の害もなく、永遠の命に守られる」。これは、「わたしのために命を捨てる者は、それを得る」ということです。 これはつまり、いわば「あなた自身から魂を解放し、命を完全に失うことに備えよ」、ということです。「もしあなたがこの世を去る時に、このような心境にあるなら、私は約束通り、あなたに永遠の命を与えよう。そしてもしあなたがこの世に留まるなら、私は後に将来の善の保証として、私の約束をあなたに示そう。それゆえ、あなたが現世を軽蔑すれば、不滅の命を見出すでしょう。もしあなたがそのような覚悟で戦いに臨むなら、最も悲しく困難であったことすべてが、あなたの目には軽蔑的なものとなるでしょう。そのような意志の準備は、死の危険が彼を脅かす時でさえ、心の中では命を懸けた戦いではありません」。要するに、人が来世への愛ゆえに現世を憎まないなら、苦難に耐えることはできないということです。 [p.158] '''弟子''':人はどのようにして以前の習慣を断ち切り、質素な生活に慣れることができるでしょうか。 '''教師''':肉体は、贅沢と安楽の物に囲まれている限り、困窮した生活を送るよう説得されることは、できません。なぜなら、世俗的なものを見ると、その輝きと存在がそれらへの欲望をかき立てるからです。それゆえ、私たちの救い主は、ご自分に従う者たちに、まず第一に、「世」を捨て、「世」を去るように命じられました。まず主は彼らを安楽の原因から解放し、それから働き始めるように命じられました。そして私たちの主ご自身も、悪魔との闘いを始められたとき、乾燥した砂漠の荒野で悪魔と戦われました。パウロもまた、キリストの十字架を担う者たちに町を去るように命じています。ですから、私たちも主と共に町を去り、主が町の外で受けられた軽蔑を負うのです。 人は世俗とそれに属するものを捨て去ることで、以前の習慣を容易に忘れ、苦悩も長くは続かなくなります。しかし、世俗的なものに近づくと、精神の熱意は容易に和らぎます。また、生活が極度の窮乏と貧窮に整えられ、安楽への欲求を刺激するあらゆるものから解放されることは、争いにおいて相応しく、非常に有益です。このように、安楽へと導く原因が人から取り除かれると、外的な争いと内的な争いという二重の争いに苦しめられることはなくなります。見よ、人が望むものが近くではなく遠くにあり、その外観によって思考を魅了するなら、争いはどれほど容易になることでしょう。 こうして、二重の葛藤が存在していることが分かります。人の生活が貧しく、欲求が少ないとき、たとえ貧しくてもこれらのものに欲望を抱かず、わずかなもので肉体を満たすでしょう。なぜなら、肉体さえも彼の目には軽蔑され、蔑まれるものだからです。そして、肉体の美しさやそれがもたらす喜びのために近づくのではなく、ただ自然を維持するためだけに近づくのです。 これらの道は、害や争いや熟考を伴わずに、容易に人を禁欲主義へと導きます。人は、多大な努力をしなければ警戒できないような接触に対しては、それらを見たり、遠ざかったりするのがふさわしいのです。私は、単に腹の回りの事柄について言っているのではなく、誘惑によって孤独者の自由を試し、神との絆において避けると約束した物事についても言っています。[p.159] つまり、女性の顔を見ること、立派なものを見ること、立派な人々とその贅沢、立派な人々とその衣服を見ること、それらについて語ったり聞いたりする世俗に属するすべてのものを見ることも意味します。というのは、世俗的なものが近くにあると、感情は闘争する者を弱め、心をそらす強い力を持つからです。美しいものを見ると、心が熱心にそれらに仕えるよう駆り立てられるが、美しさとは正反対のものにも心を魅了する力があることはよく知られている。そして、静かな心が争いに巻き込まれる以上の害はないとしても、少なくとも人が自らの意志によって平穏から動揺へと突き落とされるという損失は存在する。 聖人の一人、勤勉な師父が、女性のような顔をした男性を見ると精神的に有害で、争いの妨げになると考え、修道院の一つに近づいたとしたら、他の危険を無視すべきではない。なぜなら、この祝福された人は、そこに入り、ひれ伏すことさえも説得されないからである。この賢明な師父は洞察力をもって次のように熟考した。「ここを通る夜だけでも、ここにそのようなものがあることを思い出したら、それは大きな損失となるだろう」。そしてそれゆえ、彼は修道院に入らなかった。「兄弟たちよ、私は恐れません」と彼は言った。「しかし、なぜ無益な争いをするのか?」これは、そのような思い出さえも、私の奉仕の平穏を妨げるということを意味している。 なぜなら、この肉体に属するもの、そして人が多大な努力を払って身を守らなければならないものはすべて、自分から遠ざかっている限り、ほとんど争いを起こさないからである。したがって、たとえそれらが近くにあるとしても、人が[この世の]快いものを恐れて用いる限り、人がそれらの近くにいることを望むのは、それらに備わっている有用性のためだけである。 多くの根が地中に埋もれ、隠れているのがわかる。夏の間は、太陽の力と熱気の強さのために、その存在に誰も気づかない。しかし、雨粒が根に当たり、芳香のある空気の影響が及ぶと、それらはどこに埋もれていても、突然姿を現し始める。あなたは気づいていないのか。苦行の​​強い熱と孤独の恩恵の光によって、感情は静まり返る。しかし、もしあなたが[この世の]ものに近づくなら、それらすべてが活気づけられるのがわかるだろう。そして、少しでも慰めの匂いを嗅げば、それらは自分の場所から頭を突き出すのです。 [p160.] 私がこれらのことを述べたのは、死に臨む前に自信を持つべきではないこと、そして争いの際、逃避と世間からの離脱がどれほど助けとなるかを示すためです。ひそかに思い出すのを恥じるような事柄に直面することを、私たちは恐れなければなりません。そして、心を踏みにじったり、良心を軽蔑したりしてはなりません。なぜなら、世間との接触のない孤独な場所では、忍耐の訓練を受けるために、私たちは自分の体を吟味しなければならないからです。 また、他のことよりも重要なことがもう一つあります。それは、争いの原因となるものが人から遠く離れているとき、たとえ心が悩まされていたとしても、欲望に打ち負かされても、それが近くにあるので、それを利用するかもしれないという恐れはないということです。 :::<nowiki>*  *  *  *  *</nowiki> '''弟子''':もし人があらゆる障害を捨て去り、闘技場に足を踏み入れたなら、罪との闘いの始まりは何でしょうか。どこから戦い始めるのでしょうか。 '''教師''':罪とその欲望とのあらゆる闘いは、断食の労苦によって始められるべきであり、特に内なる罪と闘うならばなおさらである。そして、この目に見えない闘いに身を投じる人々に見られる、罪とその欲望に対する憎しみの証は、断食から始まるということである。 その後に、夜の間、立つことが続きます。生涯を通じて断食を愛する者は、貞潔の友です。この世のあらゆる恩恵とあらゆる悪の根源が、性的な快楽と、不純な同棲を誘う眠りの安らぎであるように、神の聖なる道とあらゆる美徳の始まりは、断食と、神への奉仕における厳格な時間厳守、そして眠りの快楽との闘いにおける一晩中の肉体の磔刑の上に築かれています。 :::断食と徹夜行の事 断食はすべての美徳を強化するものであり、闘争の始まりであり、ナジラ人の頂点であり、処女性と神聖さの美しさ、貞潔の保持、キリスト教の道の始まり、祈りの父、平静の源、静寂の教師、そしてすべての良い性質の先駆けです。[p.161]光の喜びが健全な目に属するように、祈りの欲求は識別とともに断食に続きます。人は断食を始めるとすぐに、心は神との交わりを望むようになります。断食中の体は、一晩中ベッドに横たわっていることに耐えることはできません。断食は自然に神への警戒を喚起するからです。昼だけでなく夜間にもです。断食している人の空っぽの体は、眠りとの闘いで疲れることはありません。そして、彼の感覚は弱まっても、彼の心は神への懇願の中で目覚めています。食事による怠惰のせいで奉仕を怠るより、断食による衰弱のせいで奉仕を怠るほうがよい。 断食の美点について長々と語る必要はありません。多くの教師や父祖たちが、断食の勝利と、そこから生まれる数々の美しい事柄について語ってきました。そしてあらゆる書物が、断食の重要性と、それが何世代にもわたってもたらした勝利、そしてそれによってもたらされる力強い助け、そして断食を行う者が当然得るべき高い称賛について教えてくれています。そして経験を通して、断食があらゆる善の源泉であることは、誰もが知っています。 人の口に断食の印が押されている間、その人の心は魂の悔悟を思い巡らし、心は祈りを捧げ、顔は悲しみで曇ります。邪悪な衝動は彼から遠く離れ、額には喜びの影も見られません。なぜなら、その人は欲望と無益な営みの敵だからです。分別を持って断食している人が、邪悪な欲望に支配された例はありません。断食はあらゆる美徳の宝庫だからです。そしてそれを軽蔑する者は、すべての美徳を揺るがす。 初めに我々の本性に課された最初の戒めが食物を味わうことを禁じたものであり、この点で我々の種族の長が倒れたように、神を畏れようと努める者は、神の戒めを守る務めを始めるとき、最初の傷害の生じたところから築き始める。そしてまた、我々の救い主がヨルダン川で世界に御姿を現したときも、まさにこの点から始められた。というのは、主が洗礼を受けたとき、御霊は主を荒野に導き、そこで主は四十日四十夜断食されたからである。そして主の足跡に従う者は皆、この行為を自分たちの闘いの始まりとしている。その武器は神によって磨かれたものである。それを軽蔑しても非難されない者がいようか。律法の制定者が断食したのであれば、律法の守護者に対しても同様のことをする必要がないだろうか。 [p.162] それまで人類は勝利を知らず、<u>サタン</u>も我々の本性において敗北を経験したことがありませんでした。しかし、この武器によって初めて<u>サタン</u>は打ち負かされ、我々の本性の頭上に王冠を戴く最初の勝利がもたらされた。したがって、この武器が人の手に渡るやいなや、反乱の首謀者である<u>サタン</u>の思案はたちまち恐怖に陥り、砂漠での敗北と、彼が喫した最初の敗北の記憶が彼の心に突き刺さる。我々の司令官が我々の手に渡した武器を彼が目にした時、彼の力は砕かれるだろう。誰かがこの武器を身に着けているのを見ると、彼は戦いに備えていることがわかる。これより強い武器があり、悪霊との戦いにおいてキリストへの渇望ほど心を奮い立たせるものがあるだろうか。<u>サタン</u>の軍勢が彼を取り囲んでいるときに人の体が疲労し抑圧されている程度に、彼の心は自信によって支えられている。そして、常にこの状態にある人は、あたかも火で燃えているかのように、いつでも熱心に燃えているでしょう。 絶え間ない断食は、戦争における熱意と情熱の表れです。あの熱狂者エリヤでさえ、神の律法のために戦った時、この苦難を背負いました。砂漠を長旅する間、40日間、断食を続けました。 断食は、それを行う者に霊的な戒律を思い起こさせます。なぜなら、断食は古代の律法の編纂者であり、主イエスの恵みによって私たちは断食を受けたからです。しかし、誰もが知っているその効用について、他に何を述べたらよいでしょうか。断食を軽蔑する者は、他の善行においても弱く、活力を失います。なぜなら、神のような闘士たちが勝利を収めてきた武器を欠いているからです。そして、最初から気を緩める者は、敵に勝利の機会を与え、欠乏した状態で戦いに臨むことになります。そして、彼が勝利を収めることなく去ることは確実である。なぜなら、神の熱意が彼の内に掻き立てた力を失ったからです。こうして彼は、熱ではなく冷の状態で闘いを始める。彼の手足は飢えの炎、すなわち断食の炎で覆われていないからです。断食の間、心はあらゆる困難で予期せぬ出来事の打撃に身動き一つせずに耐え忍びます。 多くの聖なる殉教者たちについて、霊的な啓示や友人の一人から冠を受ける日を告げられた時、彼らは前夜は何も口にせず、食物も口にしなかったと伝えられている。[p.163]しかし、前夜から翌朝まで、彼らは祈りに立って目を覚まし、歌や賛美、讃美歌、霊的な旋律で神を賛美し、喜びと高揚感に満たされ、花嫁の家に入る運命にある人々のように、その瞬間を待ち望んでいた。彼らは断食状態の中で、剣の一撃を受け、告解の冠を戴くことを待ち望んでいた。 兄弟たちよ、私たちもこの備えを絶えず続け、目に見えない殉教と聖性の冠を得ることを待ち望み、私たちの手足のどこかに不信仰のしるしが敵に与えられないよう警戒しなければなりません。こうして、私たちの外的感覚と内的衝動は神のあらゆる武器で覆われ、私たちはそれにふさわしい冠を受け取り、聖なる殉教者たちとともに神の栄光の中へと進み、敵を驚愕させながら打ち倒すのです。偉大な教師ディオドロス<ref>ロンドンのある写本ではバシレイオスとなっている。</ref>が言っているように、労働なしには誰も冠を勝ち取ることはできません。商人が労働と危険な嵐なしに富を持ち帰ることができないのは、非常に不当なことであることはよく知られていますが、それでも義人は、損害や義のための労働なしに冠の報酬を期待するべきなのです。 '''弟子''':こうした労働を遂行しながらも、感情の安らぎも、思索の平安も感じない者は多いのです。 '''教師''':兄弟よ、魂に秘められた感情は、肉体のみで行われる孤独な営みによって鎮められることはなく、また、感覚によって絶えず掻き立てられる思索を妨げることもない。こうした労働は、欲望に屈することや、悪魔によって引き起こされる害悪から人間を守る。しかし、魂に平安と休息を与えることもない。労働が無関心をもたらし、地上の肉体を苦しめ、思索の面で休息を与えるのは、孤独と結びつき、外的な感覚が動揺から休息し、しばらくの間、知恵への奉仕に没頭しているときだけである。人は同胞との出会いを控え、多くのものとの交わりを避け、自己を集中させない限り、自らの愛情を知ることはできないだろう。全世界の輝く灯火である聖なるバシレイオスは、孤独こそが魂の浄化の始まりであると言う。外的な感覚が外的な騒乱から休息を得ると、心は雑念から本来の姿に戻り、心は魂の内なる衝動を探求するよう揺り動かされる。そして、もしそれがうまく続けば、魂の浄化にさえ至るだろう。 [p.164] '''弟子''':もし魂が強ければ、外界との繋がりを保ちながら清められることはできないでしょうか。 '''教師''':もし木に毎日水をやるとしたら、その根はいつ枯れるだろうか。日々中身が増える器は、いつ空になるだろうか。もし清めとは、不自由に属する行為を忘れ、それらの記憶から平安を得ることに他ならないとしたら、そしてもし人が、個人的に、実際的に、あるいは他者を通して、感覚を通して魂の中でこの記憶、すなわち悪事の知識を新たにするなら、いつになったらそれらから清められるだろうか。あるいは、いつになったら外なるものとの争いから解放され、内なるものを見て平安を得ることができるだろうか。心が日々汚れているなら、いつになったら汚れから清められるだろうか。 根源を浄化することどころか、実践さえも支配できないかもしれない。陣営の中心に立ち、日々戦いの噂を耳にする中で、どうして自らに平和を宣言できるだろうか。しかし、もしそれらから遠く離れているなら、内なるものに徐々に平和を与えることができるだろう。上からの流れが止められない限り、下界の水は干上がることはないだろう。 しかし、人が孤独を見出すとき、魂は情欲を捨て去り、自らの知恵を試すことができる。その時、内なる人は霊的な奉仕へと駆り立てられ、日々、魂の中に秘められた知恵が動いていることを感じ取るだろう。 :::<nowiki>*  *  *  *  *</nowiki> '''弟子''':人の労働によって隠された果実が魂に現れ始めていることを示す真の印、そして疑いようのない兆候とは何でしょうか? '''教師''':涙という賜物を受けるにふさわしいとみなされた時、それは溢れんばかりに、そして強制されることなく流れ出る涙です。涙は心にとって、肉体の状態と霊的な状態、統覚の状態と純粋の状態をはっきりと区別するものです。人がまだこの賜物を受けていない限り、彼の奉仕の労苦は依然として外なる人の中にあります。[p.165]そして、霊的な人の隠された奉仕について、彼は何も知覚できないほどです。人がこの世の肉体を離れ、目に見える性質を超えた領域へと歩み始めるとき、彼はすぐに涙の恵みに達するでしょう。そして、その隠された行為の最初の場所から、これらの涙が始まり、それは彼を神の完全な愛へと導くでしょう。彼がこの地点に達すると、涙はあまりにも溢れ、食べ物や飲み物と共に飲むほどになります。それは絶え間なく、豊かに流れるからです。これは、心がこの世を離れ、霊的世界を知覚し始めたことの真の証です。心がこの世に近づくほど、涙は減っていきます。そして、心が完全に世俗的なものに浸っているとき、涙も全くなくなります。これは、心が愛に包まれている証です。 :::涙の区別 涙には焼けつくような熱を引き起こすものもあれば、脂肪を蓄えるものもあります。罪によって生じた悲しみや心の苦しみから流れる涙はすべて、体をやせ細らせ、熱で燃えるように熱くさせます。そして、これらの涙を流すと、しばしば骨髄が傷つけられたように感じることさえあります。人は必然的にまずこの涙の段階に入ります。そして、それによって第二段階へと続く門が開かれます。第二段階ははるかに優れた段階です。なぜなら、そこには慈悲を受けるというしるしが含まれているからです。これは何でしょうか。洞察に由来する涙は体を肥やします。自然に流れ、強制は一切関与しません。また、体に油を塗り、顔の印象を変えます。喜びに満ちた心は体を美しくするからです。心が孤独に生きているとき、これらの涙は顔全体を潤します。体はまるで涙によって栄養を得て、喜びが顔に広がるかのようです。この二つの異なる状態を経験した人なら誰でも理解するでしょう。 '''弟子''':魂の復活とは何でしょうか。つまり、あなたがたがキリストと共に復活したとしたらどうでしょうか<ref>コロサイ 3:1</ref>。 '''教師''':使徒は別の箇所でこう言っています。「闇から光を照らせと命じられた神は、わたしたちの心を照らしてくださったのです。」<ref>2コリント 4:6</ref>。彼は復活を、地獄に似せて福音の光が昇るのを妨げていた古い状態を離れることと呼んでいます。[p.166]それはいわば、復活への希望における命の息吹であり、それによって神の知恵の夜明けが心に昇り、彼は今やこの世のものを一切失った新しい人となるのです。「わたしはあなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を置く。」<ref>エゼキエル 36:26</ref>と言われているとおりです。こうして、知恵と啓示の霊によって、真に人々は、キリストに関する知識を刻み込まれるのです。 '''弟子''':一言で言えば、孤独の修行の力とは何でしょう? '''教師''':それは外的な感覚を抑制し、内的な衝動を刺激します。しかし、人々との交流は逆の作用をします。 '''弟子''':ある人々に与えられた幻や啓示の原因は何でしょうか。しかし、彼らよりも多くの努力を払った人々には、そのようなものは与えられません。 '''教師''':啓示や幻の原因は一つではなく、数多くあります。啓示や幻の第一の原因は、神の慈悲のしるしを与えたいという神の意志です。この場合、神は人々を助けるためにそれらを与えられたのです。中には神の摂理によって起こるものもあります。これらはよくあるケースです。残りのものは、弱い者を強め、励まし、慰め、教えるために起こります。 摂理によって起こる啓示の例としては、キリストの墓の傍らに現れた天使、そしてキリストの昇天の際、主が去られたことで苦悩し、茫然自失となり混乱していた使徒たちに現れた天使が挙げられます。そのとき、二人の天使が現れ、白い衣をまとって彼らのそばに立っていました。また、牢獄や使徒たちが人間の手に落ちたあらゆる場所に現れた天使もいます。独身者やその後の聖人たちにも現れ、今日に至っています。こうした訪問は通常、これらの3種類の人々に与えられます。すなわち、計り知れないほど純朴で非の打ちどころのない人々、聖潔で完全な人々、あるいは熱烈な熱意のために世を捨て去り、絶望のうちに完全に世を捨て、人間の住む場所から身を引いて、裸で希望もなく神に従った人々です。あるいは、目に見えるものからの助けもなく、荒廃の恐怖に襲われ、飢えや病気、その他あらゆる災難による死の危険に晒され、落胆の淵に立たされている。[p.167]ある人々にはそのような慰めが与えられる一方で、彼らよりも優れた行いをする他の人々にはそのような慰めが全く与えられないのは、まず第一に、心の純粋さ、あるいは不純さに起因している。第二の原因は確かにこれである。人は同胞や目に見えるものから慰めを受けている限り、そのような(天からの)慰めは与えられません。それは神の摂理によってのみ保証されるものであり、これは共通の性格を持っています。 しかし、私たちの説教は孤独な人々に向けたものです。その証人の一人は、自分に対して声が聞こえたと告げた聖人です。「人からの慰めや人との交わりはもうたくさんだ!」もう一人の証人<ref>introduction を参照。</ref> は、隠遁して孤独な生活を送り、神の恵みによって与えられた慰めをしばしば味わい、神の配慮が明白な知覚によってしばしば目に見えるようになった人です。しかし、人が住む世界の近くに来て、いつものようにこれらのものを求めても、見つけられませんでした。彼は、このことに関する真理が自分にわかるようにと神に懇願して言いました。「主よ、私が司教の地位にあるために、神の恵みが私から取り去られたのかもしれません。」彼は言いました。「いいえ。しかし当時は砂漠があり、人はいませんでしたが、神があなたに備えをしました。今は、人が住む世界があり、人があなたに備えをします。」 ― ですから、人は目に見える慰めと霊的な慰めを共にあずかることは不可能だと言うのです。 '''弟子''':幻と啓示は一つですか、それとも名前が違うように、実際には異なるものですか? '''教師''':幻と啓示には違いがあります。啓示という名前は、これまで隠されていたものが明らかにされ、今や何らかの形で明らかになることを意味するため、この二つを包含しています。しかし、啓示であるものすべてが同時に幻であるわけではありません。幻であるものもまた啓示と呼ばれます。なぜなら、それは隠されていたものが明らかにされるからです。しかし、明らかにされ、知られるようになるものすべてが幻であるわけではありません。 啓示は通常、理解可能で知性(ヌース)で味わうものと結び付けられます。しかし、幻は常に類似性を持って起こります。古代の人々に、深い眠りの中であれ、覚醒状態であれ、与えられたもののように。時にははっきりと、時にはぼんやりと。幻を与えられた人は、自分が目覚めている時に見たのか、眠っている時に見たのかわからなかったことがよくありました。[p.168]意識を取り戻した後でさえ、それが現実に起こったのか、夢の中で起こったのかわかりませんでした。時には助けの声が聞こえ、時には象徴的な表現が見え、時にははっきりとした幻影が、顔と顔を合わせて現れ、視覚と会話、質問と交わりがあり、聖なる軍勢はふさわしい人々に現れました。砂漠や荒野、人里離れた場所、世俗から離れた場所では、そのようなことが起こるのは明らかです。なぜなら、人は誰からも助けを得られないからであり、そのような場所では、そのようなことが絶対に必要なのです。 知性(ヌース)によって知覚されるものの啓示は、純粋さを通して受け取られます。そして、純粋さは、秘儀参入を受け、完成された者だけに属します。 '''弟子''':誰かが心の純粋さに達したとき、その証は何でしょうか? そして、自分の心が純粋さに達したかどうかを、いつ自ら知るのでしょうか? '''教師''':すべての人を良い光の中で見、誰一人として汚れた者や不浄な者と見なさないとき。そのような人は真に純粋さに達したのです。もしこれが真実でなければ、使徒の言葉「人があらゆる卓越性を備えているとき、人は心と真実において、すべての人を自分より優れていると考える」<ref>ピリピ 2:3</ref>がどうして実現できるでしょうか。 しかし、前述の点に達すると、清らかな目を持つ者は悪を見ない。 '''弟子''':清らかさとは何ですか、そしてその限界はどこにあるのでしょうか? '''教師''':清らかさとは、自然に属さない知識、すなわち自然が世界に見出した知識を忘却することだと私は考える。その限界とは、私たちがそうした知識から解放され、ごくわずかな例外を除けば、子供のように自然本来の単純さと完全性に到達することにある。 '''弟子''':人間がこの境地に達することは可能でしょうか? '''教師''':ええ。ある教父は弟子に自分はパンを食べたかどうかを何度も尋ねるほどに至りました。また、当時老いた禁欲主義者であった聖徒の一人が、あまりにも純粋で質素になり、完成と静寂の境地に達し、まるで幼子のように世俗的なことをすべて忘れ去っていました。[p.169]そして、おそらく多くの人は私たちの言うことを信じないでしょう(実に不思議なことですが)。聖体の奉納の時でさえ、彼は聖体を受けるために断食を守ることができませんでした。弟子たちが彼の小屋で見張りをし、幼い彼を聖域に連れてくるまで、彼は自分が断食を守っていたかどうかさえ知りませんでした。この祝福された人は、このように穏やかで純粋でした。そして、世俗的な事柄においてはこのようにあっても、彼の魂は神と完全に一致していました。 '''弟子''':隠遁と孤独の中で、知性が偶発的な思索に囚われてしまわないようにするために、人はどのような瞑想と営みを持つべきでしょうか。 '''教師''':あなたは問う。「居室に閉じこもり、世俗に死んでいる者の瞑想とは何か」と。熱心で魂が目覚めている者が、独居室の中で何をなすべきかを問う必要があるだろうか。独居室に閉じこもる者の瞑想は、涙を流すこと以外に何があるだろうか。涙から別の思索へと視線を向けることができるだろうか。どちらの瞑想がより有益だろうか。墓のように孤独で、あらゆる世俗的な快楽を奪われたその住まいは、涙を流すことこそが奉仕であることを教える。そして、その名さえも彼をその方向へと導く。それは「アビラ(abila)」と呼ばれている。これは「心に苦い」という意味である。すべての義人は泣きながらこの世を去った。聖徒たちが涙を流し、その口が常に涙で満たされ、こうしてこの世を去ったのであれば、誰が泣かずにいられるでしょうか。隠遁者の慰めは涙から生まれます。勝利を得た者たちがこの世で涙を流したのであれば、傷に覆われた者がどうして涙をこらえることができましょうか。家長の前に愛する者が横たわっているとしたら、どのような考えで涙を流すべきか、家長に教えを乞う必要があるでしょうか。あなたの罪の中に死んだ魂はあなたの前に横たわっています。あなたの魂はあなたにとって全世界よりも価値があります。私たちも孤独になれば、泣くことに慣れてしまうかもしれません。ですから、私たちは主にこの賜物を授けてくださるよう、絶えず懇願すべきです。もし私たちが他の何にも勝るこの賜物を受けるなら、涙を通して私たちは清らかさに到達できるでしょう。そして、私たちがそこに到達したなら、私たちがこの世を去る日まで、それは私たちから二度と奪われることはありません。 それゆえ、この涙の喜びを常に味わい、それを通して絶えず主を見る心の清い人々は幸いです。彼らの目に涙がある間、彼らは祈りの頂点にある主の啓示を見るにふさわしいとみなされます。[p.170]なぜなら、彼らは涙のない祈りを知らないからです。そして、これは私たちの主が言われたことです。「悲しむ人々は幸いである、彼らは慰められるであろう。」<ref>マタイ 5:4</ref> 人は悲しみによって魂の清らかさに到達するからです。ですから、私たちの救い主が「悲しむ人々は幸いである、彼らは慰められるであろう」と言うとき、彼は慰めが何であるかを説明してはいません。孤独な人がその悲しみゆえにこの愛情の場所を越えて魂の清らかさの平野に到達するにふさわしいとみなされるとき、そこで彼はそれを見いだした人々を決して離れることのない慰めを見いだすでしょう。その時、悲しみの終わりに清らかさを通して得られる慰めは、私たちの主が悲しむ人々に約束していることは明らかです。というのは、もし誰かが絶えず泣いているなら、愛情はその人の心に近づかないであろう。泣くことは感情の及ばないところにあるからである。もし、嘆き悲しむ人の心から、ほんの短い間、涙が愛情の記憶を消し去ることができるならば、昼も夜も自分自身に明確な奉仕を課した人について私たちは何を言うべきであろうか?涙に身を捧げた者以外に、涙の益を知る者はいるだろうか? すべての聖徒は、この導入の手段を切望する。そして泣くことによって彼らの前に門が開かれ、その門を通って彼らは慰めの場所に入り、その中で神の愛の足跡が啓示によって刻み込まれるのである。 '''弟子''':しかし、肉体の弱さゆえに人間はこの修行を続けることができないので、知性の怠惰によって感情が襲い掛からないように、心を捕らえる何か他のものが必要です。 '''教師''':砂漠の完全な孤独の中に孤独に住み、人々の喧騒のあらゆる音や声から隔絶され、心が世間から切り離された孤独な者にとって、感情は魂を襲い、悩ますことはできない。ただし、彼が自分の義務、特に聖典の読解や、それに没頭している有益な思索に没頭することを怠らない限りは。聖典の卓越した理解によって、つまらない考えは彼から追い払われ、彼の心はそれらから自由になることができず、砂漠の極度の孤独の中で知性が完全に満たされるその活動の大きな喜びのために、彼は全世界を眺める。[p.171]こうして彼は自意識を失い、自分の本性を忘れ、世間を一切思い出さない狂人のようになる。特に彼が神の偉大さ、神の本性の栄光、そして神の驚くべき御業について考える時、そして彼が自分の卑しい存在がどれほど高く高められたかを思い出す時、彼はそうなるのである。神について思いを巡らせ、喜びのためにそのような思いを育み、復活後の生活のように常に恍惚とした衝動に酔いしれることは、孤独によって大いに促進される。なぜなら、知性(ヌース)は孤独に根ざした平安の中で、自分自身と向き合う機会を得るからである。同時に、知性(ヌース)は自らの歩むべき道に想起を適応させ、来るべき世界の栄光、義人のために保たれた希望、完全に神に由来する霊的感情による生活へと自らを向ける。これが、この世のいかなるものについても想起も感情も持たない、新しい生き方である。そして、これらのことに満足すると、彼の観想はそれらから、彼が依然として留まっているこの世の事柄へと移り、驚嘆して言う。「ああ、神の知恵と知識、そして測り知れない御心の富の深さよ。神の裁きは何と測り知れず、その道は何と測り知れないことなのだろう。」<ref>ローマ 11:33</ref>神は驚くべき「別の世界」を用意し、すべての理性ある存在をその中に導き入れ、彼らを永遠の生命において変化なく保つであろう。では、なぜ神はこの世界を最初に創造し、大きくし、多くの種を備え、多様な愛情の場を作ったのか。そして神は私たちをこの世界で最初に置き、私たちの本性にそれ自身の生命への強い愛を植え付けた。それから神は死によって徐々に私たちをそこから追い出し、石や木のように感覚的な知覚力のない状態に長い期間を定め、その間に神は私たちの姿を破壊し、私たちの気概を注ぎ出して土と混ぜ合わせる。そして神は私たちの建物が破壊され、廃墟となることを許し、それが以前の構成とのすべての類似性を失うまで放置する。そして神の知恵によって定められた時に、神の自由意志に従って働き、神はご自身が知っている異なる類似性で私たちを復活させ、私たちをその新しい秩序に導く。私たちだけでなく、聖なる天使たちも、その驚くべき性質ゆえにこの世の助けを必要としません。彼らは皆、ほぼ完全であり、人類が塵からよみがえり、堕落した状態から新たな命へと生かされる、私たちの堕落した状態の復活と高揚を待ち望んでいます。私たちのせいで、彼らは「新しい世界」の門が開かれるまで、入ることができません。彼らが待ち望んでいるのは、その「新しい世界」の門が開かれることです。天使たちでさえ、私たちが肉体の重荷を背負っているのを見て、私たちとともにため息をつくのです。彼らは神の子たちの啓示を望み、待ち望んでいます。そうすれば、彼ら自身も、神の子たちの栄光の自由のうちに、滅びる奴隷状態から解放されるのです<ref>ローマ 8:21、次の一節についてはintroduction を参照してください。</ref>。 [p.172] まず神は、この世界全体をその状態から解放し、肉体の最初の状態と同様に、無へと還元します。それから神は、世界の創造の始まり、すなわち天も地も天使も、いかなる被造物も存在しなかった時の知性を超えて、自らを高めます。それから突然、神はすべてのものを存在させます。神の意志は、すべてが完全な状態で神の前に現れるようにするのに十分な力を持つのです。それから神は精神に降り立ち、神のすべての被造物を訪れます。そして、その高く驚くべき御業において、神の創造力の叡智が明らかになります。神の力はすべての心を鎮め、その創造力の驚くべき力強い力は、無から無数の異なる種類の創造物を存在させます。 それから、神が再びこれを破壊し、驚くべき秩序、種類の装飾、生き物の定められた経過、時と機会、夜と昼の調和、一年の有用な季節、装飾された大地、そこから芽生える様々な種類、都市の立派な建物とその中の美しい宮殿、人類の継続的な経過、人間がそこに入ってから去るまで従属し苦しめられてきた自然を消滅させる方法について考えるでしょう。 そして、この驚くべき秩序はなんと突然に崩壊し、新たな世界が始まることか。そこでは、最初の創造を思い出す者は誰もいない。そこには、異なる生活様式、異なる思索、異なる思考が存在する。その時、人間はもはやこの世界も、そこにおける以前の生活様式も思い出さない。なぜなら、彼らの心はその[新しい]秩序の光景に魅了され、記憶の中で血肉の種族に目を向けることができなくなるからだ。なぜなら、この世界が崩壊するやいなや、新たな世界が始まるからである<ref>続く 2つの文は挿入文である可能性があります。「そして心は考える」などの文は、現在の文の直接の続きです。</ref>。 [p.173] ああ、母よ、自ら産み、教育し、教え導いた息子たちに突然忘れ去られてしまった息子たち。瞬く間に彼らは別の懐に集められ、かつて産むことのなかった不妊の母の真の息子となった。ああ、不妊の母よ、産むことのなかった母よ、大地があなたに産み落とした息子たちを喜びなさい。そして心は驚嘆する。「新しい世界」がどのようにこの世界に取って代わるのか、そしてそれがいつ始まるのか。そして、これらの肉体が、肉体と塵が混ざり合った状態でどれほど長く存在するのか。そして、その生活様式はどれほどのものになるのか。そして、この性質はどのような類似性を持って生まれ、どのようにして第二の創造に至るのか。 このような考えによって、心に安息が広がります。そして、肉体の状態に対する知覚は消え去り、神の計り知れない御業に驚嘆しながら、長い間沈黙を保つでしょう。その時、孤独な者はひざまずき、御業において知恵深く、御業も、また、御自分がなさったこと、なさろうとしていることに関する、その崇高な御心の秘密も計り知れない神に、涙ながらに感謝を捧げます。このような衝動の下で、沈黙と昏睡に襲われ、感覚と衝動の感情から背を向け、意識を失うことのない石の心がどこにあるでしょうか。これらの事に値するとみなされた人は幸いです。昼も夜もこの事について考えてきた人は幸いです。生涯を通じてこれらの事に携わってきた人は幸いです。この考えはすべての人に有益ですが、特に孤独に生きる人にとって有益です。そして、これらの思い出を常に心に留めておくことはふさわしいことです。人はこれらの指示を心に留め、祈りを終えた後、それらについて考え、瞑想すべきです。 これらの考えに心を奪われている時、彼の心には神への絶え間ない思いを阻むような異質な記憶が入り込む余地はなくなる。そして、たとえ最初は気が散っていたためにこれらの事柄の有益な影響に気づかなかったとしても、落胆してはならない。農夫が地に種を蒔く時、同時にオールを見ることは不可能である。落胆と意気消沈は種まきと密接に関係している。農夫にとって自分のパンを食べるのは甘いが、彼の汗は依然、労働者の汗である。 [p.174] この思いを独りで抱くと、心に限りない喜びが注ぎ込まれ、言葉に尽くせない恍惚へと精神はたちまち導かれる。この泉が開かれ、昼夜を問わずそこから水を飲む者は幸いである。 :::<nowiki>*  *  *  *  *</nowiki> '''弟子''':あらゆる苦行の頂点とは何ですか。人がそこに到達した時、自らの歩みの頂点として認識するものとは何ですか。 '''教師''':彼が絶え間ない祈りに値するとみなされたとき。彼がこれに達したとき、彼はすべての美徳の極みに達し、直ちに霊的な住まいを得る。もし人が真に慰め主の賜物を受けていないなら、静かに絶え間ない祈りを成し遂げることは不可能である。霊が人の内に住まうとき、彼は祈ることをやめない。なぜなら、霊が彼の中で絶えず祈るからである<ref>どうやらこれがこの文の意味のようですが、原文でははっきりと分かりません。</ref>。その時、彼が眠っているときも、目覚めているときも、祈りはその人の魂から切り離されることはない。むしろ、彼が食べるとき、飲むとき、横になるとき、あるいは何か仕事をしているとき、さらには眠りに浸っているときでさえ、祈りの香りがその人の魂の中で自然に漂うであろう。そしてそれ以後、彼は限られた時間だけ祈りを持つのではなく、常に祈りを持つであろう。そして彼が外的な休息を得ているときでさえ、祈りは彼にひそかに仕えるであろう。{{r|静謐|せいひつ}}な者の沈黙は祈りである、とキリストをまとった人は言う。彼らの思索は神の衝動である。清らかな心の動きは静かな声であり、彼らはその声で、見えざる者への賛美歌を密かに詠唱している。 '''弟子''':霊的な祈りとは何でしょうか。そして、どのようにして私たちはそれにふさわしい者とされるのでしょうか。 '''教師''':それは、真の純粋さゆえに聖霊の影響を受けている精神的な衝動です。一万人に一人の人間だけが、これにふさわしいとされます。それは未来の存在の在り方の象徴です。なぜなら、自然は高められ、この世の事物の記憶によるあらゆる衝動から解放されているからです。魂は祈るのではなく、魂はあの世の霊的なもの(それは人間の心よりも偉大なものです)を知覚します。これらの理解は霊的な力によって燃え上がるのです。それは内なる洞察であり、祈りの衝動や懇願ではありません。[p.175]それは祈りに起点があります。そのような人々は純粋さの頂点に達し、常に彼らの内なる感情が祈りの中で揺り動かされているからです。前にも述べたように、聖霊は彼らを見つめるとき、祈りの中に彼らを見出します。そしてそこから、霊的な洞察と解釈される観想によって彼らを導きます。彼らは長時間の祈りや、決められた順序での頻繁な礼拝を望んでいません。 彼らにとって、神を想起するだけで十分であり、たちまち愛に支配され、まるで捕らわれた者のように支配されるでしょう。しかし、こうした状態にあるからといって、彼らは全く怠慢なわけではなく、決まった時間に立ち上がることで祈りを尊ぶものの、絶え間なく祈りを捧げる習慣はありません。 聖アントニオスは、第九時の祈りで立ち上がった時、自分の心が他のことに集中していることに気づいたとされています。また別の聖人は、両手を広げて祈りを捧げながら、四日間、恍惚状態にあったとされています。そして、調べてみれば、他の多くの人々の物語の中にも、この賜物を与えられた時、彼らが祈りのよく知られた姿勢を保っていたことが分かります。人は、この状態に先立つ主の戒律を守り、外面的および内面的な罪を捨て去る時、この状態にふさわしい者とみなされます。もし人が自分の程度に応じてこれらの戒律を実践するならば、必然的にすべての人間的なものを捨て去る必要があります。これは、いわば肉体を脱ぎ捨て、肉体の外にいることを意味します。肉体の性質ではなく、肉体の用い方です。律法を与えられた方の意味でこれらのことを実践し、罪が根強く残っている人は一人もいません。 それゆえ、私たちの主は福音書の中で、これらのことを守る人を主の住まいとすると約束されました。 '''弟子''':では、あらゆる霊的果実の完成とは何でしょうか? '''教師''':これは、人が神の完全な愛を受けるにふさわしいとみなされる時です。 '''弟子''':では、この境地に達した人は、どのようにして確信を得ることができるでしょうか? '''教師''':神の思いが霊の中で揺り動かされるたびに、心はたちまち愛で熱くなり、目からは溢れんばかりの涙が溢れるでしょう。愛は愛する人を思い出すと涙を流す習性があるからです。この状態にある人は決して涙を流さないことはありません。なぜなら、神を豊かに思い出すことがなくなり、眠っている間でさえ神と語り合っているからです。愛はこれらのことを実践することに慣れており、これが人がこの世で成し遂げることなのです。 [p.176] '''弟子''':幾多の労苦と疲労と、戦い、そして勝利を勝ち取った後、自らの卓越性の美しさに基づく傲慢の念に襲われ、自分が負ってきた多くの労苦を思い出す時、彼はどのようにして自分の思考を抑制し、屈服しないよう警戒心を取り戻すことができるでしょうか。 '''教師''':枯れた葉が木から落ちるように、自分が神から落ちたことを知ったとき、彼は自分自身の強さも知り、これらの美徳を自分の力で獲得したのかどうか、また、もし神が助けを差し控え、<u>サタン</u>との闘いにおいて勝利を収める戦士が通常伴うあの力を伴わずに彼を放っておいたとしても、正面からすべての闘争に耐えることができたかどうかを認識するであろう。なぜなら、ここに彼らの強さ、あるいはもっと正確に言えば弱さが明らかになるからである。したがって、貞潔のための闘争であれ、殉教の苦しみであれ、あるいは聖なるもののために苦しむ間のその他の苦難であれ、常に人間を守り強め、そしてそれを通して人間はあらゆる種類の人間を克服するのです。 このことはよく知られており、疑いの余地なく可能である。というのも、そうでなければ、どのようにして自然は、人間の五体に位置し、人間を苦しめながらも耐え忍ぶ、休むことのない誘惑の強大な力に打ち勝つことができようか? 同じ純粋さを愛し、切望する他の人々が、それを追い求めても到達できず、それどころか日々挫折し、苦しみ、悲しみ、自らを嘆くのに、なぜあなたは自然の厳しい困難に容易に耐え、しかもそれに圧倒されないのか? あるいは、他の者は、全身に刃物と櫛を刺され、敏感な肉体であらゆる種類の拷問に苦しみながらも、打ち負かされることなく耐えることができるのか? そうでなければ、爪の下に小さな棘が刺さることにも耐えられないのか? しかし、彼はこれらの全く異なる拷問を、自然な方法で苦しむことなく耐えるのです。自然の力とは別に、別の方向から何らかの力が彼に送られず、その力が拷問の力を抑制し、和らげなければ、どうしてこれが可能になるでしょうか? ここで、聞く者を本当に驚かせる物語を述べることに何の妨げもありません。神が人間を気遣い、その卓越性のためにあらゆる戦いで勝利を収められることを指摘した以上、この物語を省略するのは不適切でしょう。ソクラテスは教会史の著作の中で、ローマ皇帝について言及する際に、ユリアヌス帝の治世下で教会員が被らなければならなかった苦難を簡潔に述べています。そして、具体的な事柄に移り、アンティオキアで起こった出来事について語ります。 異教徒たちは、テオドロスという名の青年を、この件の管轄権を委ねられていたサルスティオスの前に連れてきた。サルスティオスは彼を苦痛と拷問に委ね、全身を梳かすよう命じた。そして、彼が死んだと思い込み、拷問から解放した。しかし、神はこの祝福された男の救い主であり、彼は証言の後も長く生き続けた。ギリシア語で教会に関する著作を残したルフィヌスは、ずっと後になってこの祝福されたテオドロスと会話をしたと記している。ルフィヌスはテオドロスに、拷問を受けているときに痛みを強く感じたかどうか尋ねた。ルフィヌスは、痛みはごくわずかしか感じなかったと答えた。というのは、一人の若者が彼の傍らに立ち、苦闘の汗を拭い、魂を強くし、拷問の苦闘の時間を彼にとって喜びとしていたからである。ああ、神の慈悲よ、主のために戦いを始め、喜んで主のために苦しみを負う者たちに、神の恵みはどれほど近いことか。人よ、神の恵みを損なわないようにしなさい。 もしあなたが勝利者ではなく、道具であり、主があなたのために勝利を勝ち取り、あなたが勝利者の名を贈り物として得るのが明白であるならば、証人として常に同じ勝利を得るために、常に同じ力に祈ることを妨げるものは何だろうか? ああ、人よ、太古の昔から、どれほど多くの勇者が神の恵みを傷つけたために勝利の頂点から転落したか、あなたは聞いたことがないのか? '''同じ主題について'''。神が人類に与えてくださった賜物は数多く、多様であるため、それを受け取る人々にとって、その大きさや大小にも違いがあります。どれも素晴らしく輝かしいものですが、栄光と誉れにおいては、それぞれが他のものよりも優れています。聖書の言葉によれば、ある賜物は前のものよりも高いのです。 [p.178] さらに、人が善行と堅実な行いを実践するよう選ばれることは、キリストの主要な賜物の一つです。しかし、多くの人がこの恵みを忘れています。すなわち、神が他の人々よりも際立たせ、神の賜物の受益者、すなわち主への奉仕に選ばれた者たちです。そして、口にはいつも感謝の気持ちを口にしていたにもかかわらず、彼らは傲慢に陥り、心の中で高慢になります。彼らは清い行いと霊的な働きをもって神に仕えるにふさわしい者とされているにもかかわらず、自らを恵みの受益者とは考えず、神を通して恵みを受けるに値する者とみなします。彼らは、神との親しい交わりと神の奥義を知るために、他の人々から選ばれた者であることを忘れているのです。彼らはまた、同じ考えを育んでいた同志たちが、託されていた力を突然奪われ、瞬く間に持っていた大いなる名誉を失い、急速に好色に堕落し、非理性的な動物のような卑劣な行為に走ったことを考えても、魂の底から震えることはない。彼らは自らの魂の強さを知らず、神に仕え、神の王国の名誉を守るという偉大な恩恵にふさわしい者とし、霊的存在の同志となし、天使の行いに近づけてくださった方を常に思い起こさないので、神は彼らを奉仕から拒絶する。このように、神は彼らの行動の突然の変化を通して、彼らが自然のあらゆる攻撃、悪魔、その他の障害の下で揺るぎない行動を貫いたのは、彼ら自身[の力]によるのではなく、この力は神からの賜物であることを彼らに示すのである。 他の人々が難しさゆえに聞くことさえ耐えられないことを、彼らは長い間耐え忍び、打ち負かされることはなかった。なぜなら、彼らに付き従う力は、どんな状況においても彼らを助け、常に彼らを守ることができたからである。したがって、彼らがこれを忘れたために、御言葉は彼らの中で成就した。すなわち、彼らは神、すなわち霊的存在の奉仕を地上に下らせた彼らの主を知ることを自ら望まなかったため、神は彼らをむなしい知識に引き渡し、こうして彼らは、その忘却にふさわしい報いを自ら受けたのである。 [p.179] '''弟子''':人がいわば大胆にも人間の住処を突然離れ、美しい熱意をもって人の住まう砂漠や恐ろしい荒野へと裸で赴き、そこで飢えや住まいのなさなどで死ぬことなどあり得るでしょうか。 '''教師''':獣を創造する前から彼らの住まいを用意し、彼らの必要を満たす方は、獣を恐れる者、特に先入観なしに、ただ神に従う者を無視することはありません。すべてのことにおいて神の御心と一致する者は、肉体の害悪や危険を恐れて、汚れた行いに固執し、困難を恐れて屈辱的な人生に耐えることを決して受け入れません。しかし彼は、純粋な行いにおいて全世界から疎外され、山や丘の間で貧困な生活を送り、獣の棲む場所をさまよい、肉体的な安楽の中で不潔な生活を送らず、永遠に敬虔で純粋な行いを欠いたまま魂を神に明け渡すことを、この上なく素晴らしいことと考えるであろう。神に栄光と名誉は属し、神はその慈悲によって私たちを守り、その霊によって神の名を讃えるために私たちを聖別し、私たちが生涯神をふさわしく讃えることができるようにしてくださるのです。アーメン。 :::<nowiki>*  *  *  *  *</nowiki> 聖人のひとりがこう言っています<ref>introduction p.32</ref>。「肉体は罪の仲間となる。なぜなら肉体は困難を恐れ、傷害を受けて命を失うかもしれないと考えるからである。神の霊は肉体を圧迫して死なせるからである。死ななければ罪に打ち勝つことができないことは周知の事実である。主が自分の内に住まわれることを望む者は、自分の肉体を圧迫し、使徒パウロが述べている霊的な果実を主に捧げるであろう。そして、パウロが述べている肉の働きから自分の霊魂を守るであろう。罪と混じり合った肉体は肉の働きを喜ぶからである。そして神の霊はそれ自身の果実を喜ぶのである。断食と苦行によって肉体が弱っているとき、霊魂は祈りによって霊的に強くなる。肉体が孤独と貧困によって激しく圧迫され、その寿命が尽きるとき、肉体はあなたに懇願するであろう。「節度を持って行動するために、しばらく時間をください。」 [p.180] 今、私が指示を与えるのは、経験から悪とはこのような性質のものだと知っているからです。そして、あなたが肉体を幾らかでも抑圧から解放し、再び息を吸えるようにして慰めを与えてくださるとき、肉体はあなたに何度も静かに囁くでしょう。「荒野さえも去ろう。その誘惑は非常に強いからだ。[肉体は]こう言うだろう。「これからは、人が住む世界の近くでさえ、善行を積むことができるだろう。私たちは多くのことで試されてきたが、そこでもこの[行い]を続けることができるだろう。私を試してみて、もしあなたの御心に従わなければ、私たちは新たに始めることができる。なぜなら、私たちの前には砂漠が待ち受けているからだ。」しかし、[肉体は]たとえ懇願し、大いに約束しても信じてはならない。なぜなら、肉体はその約束を守らないからです。あなたが肉体の望みのいくつかを叶えてしまうと、肉体はあなたを、後戻りできないほどの大きな譲歩へと駆り立てるでしょう。あなたが悩みに満ちて意気消沈しているとき、自分にこう言い聞かせなさい。「あなたはこの汚れと、この浅はかな人生を望んでいるのか?」そして、肉体があなたに、「自殺するのは大きな罪だ」と言うなら、こう言い聞かせなさい。「私は清らかに生きることができないので、自殺する。私は今死んで、私の魂の本質が神から離れて死んでいくのをこれ以上見たくない。この世で恥ずべき人生を生きるより、清らかさのために今死ぬほうが私にとって良い。」<ref>p. 31、97を参照。</ref>。私は自分の罪のために、この死を進んで選ぶ。私は神の前で罪を犯したので、これ以上神の怒りを呼び起こしたくないから、自殺する。神から遠く離れた人生が、私にとって何なのだろうか? 私はこれらの悪に耐え、それを通して天国への希望とは無縁ではいられないだろう。もし私がただこの世に生まれ、ただ去っていくだけなら、なぜ私はこの世に創造されたのでしょうか。もし私がこの世で悪い生き方をしたなら、神は私の人生から何の利益を得るでしょうか。それどころか、私は神の怒りを買うことになるでしょう。 第35論文/終わり :::[[ニネベのイサアク神秘論文集/第35論文#第35論文|トップに戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Chapter 35を翻訳 --> 7dy6arfr54kv7k6dkv85n89lh4vtobq 230234 230232 2025-06-22T06:09:29Z 村田ラジオ 14210 校正: p.161 230234 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|wikisource:宗教|ニネベのイサアク神秘論文集|hide=1}} {{header |title=ニネベのイサアク神秘論文集 |section=第35論文 |previous=[[../第34論文|第34論文]] |next =[[../第36論文a|第36論文a]] |year=1923 |override_translator = [[作者:アレント・ヤン・ヴェンシンク|A. J. ヴェンシンク]] |author= |notes= *底本: [[:nl:Arent Jan Wensinck|A. J. Wensinck]], [https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh"]. Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC) *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にねへのいさあくしんひろんふんしゆう35}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:ニネベのイサアク神秘論文集|35]] }} {{Textquality|50%}} ::'''ニネベのイサアク神秘論文集''' ==第35論文== << 絶え間ない行動とあらゆる種類の道徳を考慮した問答形式の論文。これらは、世間を脱ぎ捨てて荒野に住む人々、隠遁生活を送っている人々、そして常に自発的に屈辱を感じて義の栄冠を目指している人々にとって非常に有益である。>> [p.152] '''弟子'''は言う:心を捕らえ、悪事に走らせないようにする束縛とは何でしょうか? '''教師'''は言う:それは、絶えず知恵を求め、人生の教えを求めることです。なぜなら、これよりも強い、心の乱れに抗う束縛は存在しないからです。 '''弟子'''は言う:知恵の道を求める者にとって、その限界はどこにあり、教えの道はどこで終わるのでしょうか? '''教師'''は言う:この道の道のりはいかなる限界とも無縁であり、聖なる天使でさえ完成に到達できないほどです。知恵の道には終わりがありません。それは、それに従う者を神と融合させるほどの高みへと昇ります。そして、これこそが知恵の無限性、すなわちその区別が無限であることの証です。知恵とは神です。 '''弟子''':知恵に至る第一の、そして主要な道とは何でしょうか? '''教師''':人が全力を尽くして神を求め、全身全霊で神を求めることに熱心であり、愛ゆえに命を捨てることをいとわないことです。 '''弟子''':知恵のある人と呼ばれるのは、誰にふさわしいのでしょうか? '''教師''':地上の命に限りがあることを真に理解する人は、罪にも限度を設けることができます。人が知恵を持ち、その手足が欲望の匂いで苦しむことなく、その魂が欲望の甘美さの汚れに苦しむことなく、この世を無事に去ること、これよりも偉大な知識や理解がどこにあるでしょうか? もし人が、あらゆる生物の神秘を見通すために自分の衝動を抑え、いわばあらゆる種類の知識に対する洞察力に満ちているとしても、彼の魂は罪の汚れによって汚されており、彼の魂の証言によって安全に信頼の港にたどり着くことを希望することができないならば、常に自分の仕事に没頭しながらも、それによってこの世の希望だけに導かれるそのような人ほど愚かな者は創造物の中にいない。 [p.153] '''弟子''':真に強いのは誰ですか? '''教師''':勝利の力の栄光が隠されている一時的な苦難の間、恥ずべき人生を包み込む慰めを待ち望まない者です。そして、その慰めは、それを見つけた者に常に嘆きの杯を飲ませるのです。 '''弟子''':人が自分の労働を中断すれば、神への道に害を及ぼすでしょうか? '''教師''':苦難なしにキリストに近づくことは不可能であり、苦難なしに義を不変に保つこともできません。すでに獲得した義が、それを強化し、同時にそれを守るために役立った労働を失えば、それは突然守護者を失った宝物、敵の群れに囲まれて武器を奪われた運動選手、装備品を失って海に取り残された船に似ている。あるいは、果物が豊かに実る庭園から水を供給していた泉が断たれることに似ている。 '''弟子''':神への衝動に照らされた者とはどのような人ですか? '''教師''':世の甘美さの中に隠された苦味を理解し、その杯を飲むことを口にしない者。自らの人生の救いを熱心に探求し、世から解放される日まで走り続ける者。世への愛が入り込み、内に宿り、隠された宝を奪い去らないよう、感覚の門を閉ざす者です。 '''弟子''':世とは何ですか。そして、どのようにしてそれを認識できるのですか。そして、どのようにして世を愛する者を傷つけることができるのですか。 '''教師''':「世」とは娼婦であり、その美しさへの欲望によって、それを見る者を魅了し、愛するように仕向ける。そして、ほんの短い間でもその愛に囚われた者は、その手から逃れることはできない。その手は彼から命さえも奪い、死によってその家から追い出し、すべてを失わせる。しかし、人はその闇から抜け出そうと努めるや否や、「世」を認識する。その時、彼はその網の多くの縄目を見ることができる。しかし、その中にいる限り、その罠を見ることはできない。なぜなら、その「要塞」の中には、弟子や息子たち、捕虜だけでなく、出家者、苦行者、かつてその束縛を破り、その上にいた者たちもいるからである。彼らもまた、今や徐々にその奉仕に巻き込まれ、足元の敷物とされ始めているからである。 [p.154] '''弟子''':今、あなたは私に、「世」がそこに住む者を本当に窒息させ、その人工的な束縛を理解することがいかに困難であるかを納得させてくれました。そこでまず、「世」に対する心の疑念の第一の衝動は何なのかを教えてもらいたいです。「世」の束縛はあまりにも甘美で、その束縛の企みは隠されているからです。 '''教師''':魂の愛の思慮が目覚めると、この思慮の衝動は彼の目に「世」を憎むようにさせ、「世」に対する疑念を彼に投げかけるのです。 '''弟子''':常に賞賛に値し、美しく見えたものが、今や突如として醜く見え、自分の人生とこれまでの知識を悔い、「世」について正しく考えていなかったと後悔させるこの感情は、どこから来るのでしょうか? '''教師''':まず第一に、静寂の中で彼に告げるのは自然であり、「世」の永続性と未来とその進路の不安定さ、そして「世」に入る者たちの{{r|儚|はかな}}さについて、批判的な衝動を彼に呼び覚まします。そのため彼は、「この世」を、そこに入る者たちにとって、そしてまた、彼以前の数え切れないほどの世代にとっての、過渡期の場とみなします。彼らは一晩の宿屋として「この世」に入り、帰ることを考えずに、全世界を旅する旅人として「この世」を去る。彼らの中には王、統治者、賢者、名誉ある者もいる。彼らの中には書記官、弁論家、裁判官、軍司令官もいる。彼らの中には富を所有する者、財を成す者もいた。そして今、彼らの死後、彼らの階級も、統治の冠も、彼らの威厳ある王座も、彼らの高貴な享楽も、彼らを敬う者たちの称賛も、彼らの友人たちの愛も、彼らの肉体の贅沢な享楽も、彼らの優雅な美しさも、彼らの誇り高き威厳ある{{r|体|たい}}{{r|躯|く}}も、彼らの博学な知性も、彼らの衝動に満ちた精神も、彼らの口から溢れ出て聞く者の心をその優美さで魅了した、彼らの学識を綴ったギホン川の豊かな詩も、もはや存在しない。 [p.155] 彼らはシェオルで長年、まるで一晩のように眠っていた。この長い眠りがあと何年続くのか、また復活の夜明けがいつ訪れ、眠りから目覚めさせるのかは分からない。何のためにこのような状態に置かれているのかを考えることは、大きな苦しみをもたらす。そして彼は、どれだけの世代がこの世に閉じ込められ、忘れ去られているのかを考えるだろう。そして私もまた、彼らの一人として消え去るだろう。富と快適さは呪われよ。この熟考の下で、彼の心には大きな混乱が起こり、彼の霊は苦しみで満たされるだろう。そして、苦しみの激しさのために、彼は深い悲しみの涙を流すだろう。そして彼は世界を軽蔑し、自分の人生を嘆き、様々な苦い哀歌で魂を嘆くだろう。そしてため息とともに彼は自分に言うだろう。「私の惨めな魂よ、どこにいるのか、私の死後、どこにいるのか?」おそらく、彼の心の中には、次のような思いが湧き上がるだろう。「私は生き物の世界に入っていなかったら、子宮から出てこなかったらよかったのに!」 このような嘆きの中で、彼は心の悲しみのゆえに甘い涙を流し、その涙で衣を濡らすだろう。そしてたちまち、「この世」は彼の目に牢獄のようになり、その最初の甘美さはどんな苦いものよりも苦く、彼の生涯の愛とその魅力的な美しさは地獄の象徴のように思えるだろう。 その時、彼の心は聖書へと向けられ、聖書は彼の中に、復活とこの世のあらゆるものに待ち受ける終末への信仰、そしてこの世で善く生きた者たちに与えられた約束、そして律法を犯す者たちと、短い生涯の間に罪の広い道を歩んだ者たちに下される神の裁きへの信仰を呼び覚ますでしょう。そして、光明を見出した者のように、彼は悲しみの重荷を放り投げ、彼の中に大きな喜びが目覚めます。なぜなら、彼は素晴らしく真実な希望を見出したからです。これらの事柄などは、自然が彼の内なる感情から引き起こすことはできません。それらは、信仰によってのみ聖書の言葉から理解されるのです。人は、自分自身に関する教訓を、自然や自分の内にある批判的な衝動だけから得ることはできません。過去と未来における神の働きかけについては、私たちは聖書や霊的啓示からこの教訓を得ることができます。その時、信仰と聖書の光によって霊の目は照らされ、生まれながらの批判的思考力が輝き、人は魂を大切にするよう促されるでしょう。そしてさらに、人は世俗から解放された人生を送れるよう、手段を考え出すでしょう。そうすれば、肉体を離れる前に、後の世に役立つ備えを自らに用意することができるでしょう。 [p.156] '''弟子''':人はどのようにして世俗を完全に捨て去ることができるでしょうか。 '''教師''':思い出される未来の善への渇望によって。聖書は、希望に満ちた言葉の甘美さによって、その心に種を{{r|蒔|ま}}きます。栄光に満ち、喜ばしいと思われ、人が夢中になっている物事が、さらに優れたものへの渇望と対照されることがなければ、心は以前の情愛を軽蔑することはできません。 '''弟子''':しかし、人は弱く、突然に以前の習慣をすべて捨て去り、苦難に満ちた人生を受け入れることはできません。 '''教師''':もし来世の偉大さが、人の精神に、この現世の悲惨な短さと比較するほどの知恵の偉大さを抱かせなければ、「新しい世界」への道を歩み始めるために苦難に耐える勇気を持つことは不可能である。どうか、この地上の年月を心の中で計算し、可能な限り自らを高め、来世の日々と比較し、あなたが与えるものがあなたが受け取るものと等しいかどうかを言ってみなさい。 そして、あなたが何を捨て、その代わりに何を得るかを考えて、あなたにとっての交換が等価であるかどうかを言いなさい。それゆえ、賢者は、この世の広大さと、現世の短さに比べて無限の命があることに驚きながら、こう言うであろう。「人は長生きするとしても、その日数は百年である<ref>詩篇 90:10</ref>。これは海からバケツ一杯分を満たすか、砂粒一粒を採るようなものだ。この世の千年は、義人の世の一日にも及ばない<ref>詩篇 84:11</ref>。」 '''弟子''':では、肉体はどうすればいいのでしょうか? 苦悩に取り囲まれると、善への意志の欲求はかつての熱意と同様に弱まります。 '''教師''':これは通常、存在の半分は神を求め、もう半分はこの世に留まっている人々に起こります。これは、彼らの心がまだ地上のものから自由ではなく、疑いを抱いており、時には後ろを振り返り、時には前を見ています。そして、賢者は、このような優柔不断な状態で神の道に近づく人々を戒めて、「二心を持って近づくのではなく、種をまく人、または刈り取る人のように近づきなさい」と言っていると私は思います。[p.157] そして、私たちの主は、完全に放棄することを望む人々の中には、意志は固まっているものの、まだ捨て去っていない肉体への愛着のために、困難を恐れて考えが後退している人々がいるのを見て、彼らからこの心の無力さを取り除き、簡潔にこう言われます。「もし誰かが私に従いたいと思うなら、まず自分を否定しなさい<ref>マタイ 16:24</ref>」。ここで言われている否定とは何でしょうか。それは肉体の否定です。そして、十字架刑に定められている者は、死の考えを受け入れ、この世とは何の関わりもないと考える者として出て行きます。これが、十字架を負って私に従うことです。十字架は、いかなる困難にも備えられた意志を表しています。そして、なぜそうなるのかを明らかにして、イエスは言われます。「この世で自分の魂を救おうとする者は、真の人生でそれを失うであろう<ref>マタイ 10:39</ref>。また、私のためにここで自分の個性を失う者は、あそこでそれを見出すであろう。」これは、十字架刑の道に足を踏み入れながらも、なおこの肉体の人生を思いやろうとする者は、その苦しみのために出て行った信仰を魂から奪っていることを意味します。なぜなら、この考えは、困難に近づくことを許さず、常に彼と共にあり、徐々に彼を誘い込み、祝福された人生のための戦いの中心から彼を引き離すからです。このような考えは、彼の中で大きくなり、ついには彼を圧倒してしまいます。しかし、「わたしの愛を見出すために、自らを捨てることを心に決めた者は、何の害もなく、永遠の命に守られる」。これは、「わたしのために命を捨てる者は、それを得る」ということです。 これはつまり、いわば「あなた自身から魂を解放し、命を完全に失うことに備えよ」、ということです。「もしあなたがこの世を去る時に、このような心境にあるなら、私は約束通り、あなたに永遠の命を与えよう。そしてもしあなたがこの世に留まるなら、私は後に将来の善の保証として、私の約束をあなたに示そう。それゆえ、あなたが現世を軽蔑すれば、不滅の命を見出すでしょう。もしあなたがそのような覚悟で戦いに臨むなら、最も悲しく困難であったことすべてが、あなたの目には軽蔑的なものとなるでしょう。そのような意志の準備は、死の危険が彼を脅かす時でさえ、心の中では命を懸けた戦いではありません」。要するに、人が来世への愛ゆえに現世を憎まないなら、苦難に耐えることはできないということです。 [p.158] '''弟子''':人はどのようにして以前の習慣を断ち切り、質素な生活に慣れることができるでしょうか。 '''教師''':肉体は、贅沢と安楽の物に囲まれている限り、困窮した生活を送るよう説得されることは、できません。なぜなら、世俗的なものを見ると、その輝きと存在がそれらへの欲望をかき立てるからです。それゆえ、私たちの救い主は、ご自分に従う者たちに、まず第一に、「世」を捨て、「世」を去るように命じられました。まず主は彼らを安楽の原因から解放し、それから働き始めるように命じられました。そして私たちの主ご自身も、悪魔との闘いを始められたとき、乾燥した砂漠の荒野で悪魔と戦われました。パウロもまた、キリストの十字架を担う者たちに町を去るように命じています。ですから、私たちも主と共に町を去り、主が町の外で受けられた軽蔑を負うのです。 人は世俗とそれに属するものを捨て去ることで、以前の習慣を容易に忘れ、苦悩も長くは続かなくなります。しかし、世俗的なものに近づくと、精神の熱意は容易に和らぎます。また、生活が極度の窮乏と貧窮に整えられ、安楽への欲求を刺激するあらゆるものから解放されることは、争いにおいて相応しく、非常に有益です。このように、安楽へと導く原因が人から取り除かれると、外的な争いと内的な争いという二重の争いに苦しめられることはなくなります。見よ、人が望むものが近くではなく遠くにあり、その外観によって思考を魅了するなら、争いはどれほど容易になることでしょう。 こうして、二重の葛藤が存在していることが分かります。人の生活が貧しく、欲求が少ないとき、たとえ貧しくてもこれらのものに欲望を抱かず、わずかなもので肉体を満たすでしょう。なぜなら、肉体さえも彼の目には軽蔑され、蔑まれるものだからです。そして、肉体の美しさやそれがもたらす喜びのために近づくのではなく、ただ自然を維持するためだけに近づくのです。 これらの道は、害や争いや熟考を伴わずに、容易に人を禁欲主義へと導きます。人は、多大な努力をしなければ警戒できないような接触に対しては、それらを見たり、遠ざかったりするのがふさわしいのです。私は、単に腹の回りの事柄について言っているのではなく、誘惑によって孤独者の自由を試し、神との絆において避けると約束した物事についても言っています。[p.159] つまり、女性の顔を見ること、立派なものを見ること、立派な人々とその贅沢、立派な人々とその衣服を見ること、それらについて語ったり聞いたりする世俗に属するすべてのものを見ることも意味します。というのは、世俗的なものが近くにあると、感情は闘争する者を弱め、心をそらす強い力を持つからです。美しいものを見ると、心が熱心にそれらに仕えるよう駆り立てられるが、美しさとは正反対のものにも心を魅了する力があることはよく知られている。そして、静かな心が争いに巻き込まれる以上の害はないとしても、少なくとも人が自らの意志によって平穏から動揺へと突き落とされるという損失は存在する。 聖人の一人、勤勉な師父が、女性のような顔をした男性を見ると精神的に有害で、争いの妨げになると考え、修道院の一つに近づいたとしたら、他の危険を無視すべきではない。なぜなら、この祝福された人は、そこに入り、ひれ伏すことさえも説得されないからである。この賢明な師父は洞察力をもって次のように熟考した。「ここを通る夜だけでも、ここにそのようなものがあることを思い出したら、それは大きな損失となるだろう」。そしてそれゆえ、彼は修道院に入らなかった。「兄弟たちよ、私は恐れません」と彼は言った。「しかし、なぜ無益な争いをするのか?」これは、そのような思い出さえも、私の奉仕の平穏を妨げるということを意味している。 なぜなら、この肉体に属するもの、そして人が多大な努力を払って身を守らなければならないものはすべて、自分から遠ざかっている限り、ほとんど争いを起こさないからである。したがって、たとえそれらが近くにあるとしても、人が[この世の]快いものを恐れて用いる限り、人がそれらの近くにいることを望むのは、それらに備わっている有用性のためだけである。 多くの根が地中に埋もれ、隠れているのがわかる。夏の間は、太陽の力と熱気の強さのために、その存在に誰も気づかない。しかし、雨粒が根に当たり、芳香のある空気の影響が及ぶと、それらはどこに埋もれていても、突然姿を現し始める。あなたは気づいていないのか。苦行の​​強い熱と孤独の恩恵の光によって、感情は静まり返る。しかし、もしあなたが[この世の]ものに近づくなら、それらすべてが活気づけられるのがわかるだろう。そして、少しでも慰めの匂いを嗅げば、それらは自分の場所から頭を突き出すのです。 [p160.] 私がこれらのことを述べたのは、死に臨む前に自信を持つべきではないこと、そして争いの際、逃避と世間からの離脱がどれほど助けとなるかを示すためです。ひそかに思い出すのを恥じるような事柄に直面することを、私たちは恐れなければなりません。そして、心を踏みにじったり、良心を軽蔑したりしてはなりません。なぜなら、世間との接触のない孤独な場所では、忍耐の訓練を受けるために、私たちは自分の体を吟味しなければならないからです。 また、他のことよりも重要なことがもう一つあります。それは、争いの原因となるものが人から遠く離れているとき、たとえ心が悩まされていたとしても、欲望に打ち負かされても、それが近くにあるので、それを利用するかもしれないという恐れはないということです。 :::<nowiki>*  *  *  *  *</nowiki> '''弟子''':もし人があらゆる障害を捨て去り、闘技場に足を踏み入れたなら、罪との闘いの始まりは何でしょうか。どこから戦い始めるのでしょうか。 '''教師''':罪とその欲望とのあらゆる闘いは、断食の労苦によって始められるべきであり、特に内なる罪と闘うならばなおさらである。そして、この目に見えない闘いに身を投じる人々に見られる、罪とその欲望に対する憎しみの証は、断食から始まるということである。 その後に、夜の間、立つことが続きます。生涯を通じて断食を愛する者は、貞潔の友です。この世のあらゆる恩恵とあらゆる悪の根源が、性的な快楽と、不純な同棲を誘う眠りの安らぎであるように、神の聖なる道とあらゆる美徳の始まりは、断食と、神への奉仕における厳格な時間厳守、そして眠りの快楽との闘いにおける一晩中の肉体の磔刑の上に築かれています。 :::断食と徹夜行の事 断食はすべての美徳を強化するものであり、闘争の始まりであり、ナジラ人の頂点であり、処女性と神聖さの美しさ、貞潔の保持、キリスト教の道の始まり、祈りの父、平静の源、静寂の教師、そしてすべての良い性質の先駆けです。[p.161]光の喜びが健全な目に属するように、祈りの欲求は識別とともに断食に続きます。人は断食を始めるとすぐに、心は神との交わりを望むようになります。断食中の体は、一晩中ベッドに横たわっていることに耐えることはできません。断食は自然に神への警戒を喚起するからです。昼だけでなく夜間にもです。断食している人の空っぽの体は、眠りとの闘いで疲れることはありません。そして、彼の感覚は弱まっても、彼の心は神への懇願の中で目覚めています。食事による怠惰のせいで奉仕を怠るより、断食による衰弱のせいで奉仕を怠るほうがよい。 断食の美点について長々と語る必要はありません。多くの教師や父祖たちが、断食の勝利と、そこから生まれる数々の美しい事柄について語ってきました。そしてあらゆる書物が、断食の重要性と、それが何世代にもわたってもたらした勝利、そしてそれによってもたらされる力強い助け、そして断食を行う者が当然得るべき高い称賛について教えてくれています。そして経験を通して、断食があらゆる善の源泉であることは、誰もが知っています。 人の口に断食の印が押されている間、その人の心は魂の悔悟を思い巡らし、心は祈りを捧げ、顔は悲しみで曇ります。邪悪な衝動は彼から遠く離れ、額には喜びの影も見られません。なぜなら、その人は欲望と無益な営みの敵だからです。分別を持って断食している人が、邪悪な欲望に支配された例はありません。断食はあらゆる美徳の宝庫だからです。そしてそれを軽蔑する者は、すべての美徳を揺るがします。 初めに我々の本性に課された最初の戒めが食物を味わうことを禁じたものであり、この点で我々の種族の長が倒れたように、神を畏れようと努める者は、神の戒めを守る務めを始めるとき、最初の傷害の生じたところから築き始める。そしてまた、我々の救い主がヨルダン川で世界に御姿を現したときも、まさにこの点から始められた。というのは、主が洗礼を受けたとき、御霊は主を荒野に導き、そこで主は四十日四十夜断食されたからである。そして主の足跡に従う者は皆、この行為を自分たちの闘いの始まりとしている。その武器は神によって磨かれたものである。それを軽蔑しても非難されない者がいようか。律法の制定者が断食したのであれば、律法の守護者に対しても同様のことをする必要があるのではないだろうか。 [p.162] それまで人類は勝利を知らず、<u>サタン</u>も我々の本性において敗北を経験したことがありませんでした。しかし、この武器によって初めて<u>サタン</u>は打ち負かされ、我々の本性の頭上に王冠を戴く最初の勝利がもたらされた。したがって、この武器が人の手に渡るやいなや、反乱の首謀者である<u>サタン</u>の思案はたちまち恐怖に陥り、砂漠での敗北と、彼が喫した最初の敗北の記憶が彼の心に突き刺さる。我々の司令官が我々の手に渡した武器を彼が目にした時、彼の力は砕かれるだろう。誰かがこの武器を身に着けているのを見ると、彼は戦いに備えていることがわかる。これより強い武器があり、悪霊との戦いにおいてキリストへの渇望ほど心を奮い立たせるものがあるだろうか。<u>サタン</u>の軍勢が彼を取り囲んでいるときに人の体が疲労し抑圧されている程度に、彼の心は自信によって支えられている。そして、常にこの状態にある人は、あたかも火で燃えているかのように、いつでも熱心に燃えているでしょう。 絶え間ない断食は、戦争における熱意と情熱の表れです。あの熱狂者エリヤでさえ、神の律法のために戦った時、この苦難を背負いました。砂漠を長旅する間、40日間、断食を続けました。 断食は、それを行う者に霊的な戒律を思い起こさせます。なぜなら、断食は古代の律法の編纂者であり、主イエスの恵みによって私たちは断食を受けたからです。しかし、誰もが知っているその効用について、他に何を述べたらよいでしょうか。断食を軽蔑する者は、他の善行においても弱く、活力を失います。なぜなら、神のような闘士たちが勝利を収めてきた武器を欠いているからです。そして、最初から気を緩める者は、敵に勝利の機会を与え、欠乏した状態で戦いに臨むことになります。そして、彼が勝利を収めることなく去ることは確実である。なぜなら、神の熱意が彼の内に掻き立てた力を失ったからです。こうして彼は、熱ではなく冷の状態で闘いを始める。彼の手足は飢えの炎、すなわち断食の炎で覆われていないからです。断食の間、心はあらゆる困難で予期せぬ出来事の打撃に身動き一つせずに耐え忍びます。 多くの聖なる殉教者たちについて、霊的な啓示や友人の一人から冠を受ける日を告げられた時、彼らは前夜は何も口にせず、食物も口にしなかったと伝えられている。[p.163]しかし、前夜から翌朝まで、彼らは祈りに立って目を覚まし、歌や賛美、讃美歌、霊的な旋律で神を賛美し、喜びと高揚感に満たされ、花嫁の家に入る運命にある人々のように、その瞬間を待ち望んでいた。彼らは断食状態の中で、剣の一撃を受け、告解の冠を戴くことを待ち望んでいた。 兄弟たちよ、私たちもこの備えを絶えず続け、目に見えない殉教と聖性の冠を得ることを待ち望み、私たちの手足のどこかに不信仰のしるしが敵に与えられないよう警戒しなければなりません。こうして、私たちの外的感覚と内的衝動は神のあらゆる武器で覆われ、私たちはそれにふさわしい冠を受け取り、聖なる殉教者たちとともに神の栄光の中へと進み、敵を驚愕させながら打ち倒すのです。偉大な教師ディオドロス<ref>ロンドンのある写本ではバシレイオスとなっている。</ref>が言っているように、労働なしには誰も冠を勝ち取ることはできません。商人が労働と危険な嵐なしに富を持ち帰ることができないのは、非常に不当なことであることはよく知られていますが、それでも義人は、損害や義のための労働なしに冠の報酬を期待するべきなのです。 '''弟子''':こうした労働を遂行しながらも、感情の安らぎも、思索の平安も感じない者は多いのです。 '''教師''':兄弟よ、魂に秘められた感情は、肉体のみで行われる孤独な営みによって鎮められることはなく、また、感覚によって絶えず掻き立てられる思索を妨げることもない。こうした労働は、欲望に屈することや、悪魔によって引き起こされる害悪から人間を守る。しかし、魂に平安と休息を与えることもない。労働が無関心をもたらし、地上の肉体を苦しめ、思索の面で休息を与えるのは、孤独と結びつき、外的な感覚が動揺から休息し、しばらくの間、知恵への奉仕に没頭しているときだけである。人は同胞との出会いを控え、多くのものとの交わりを避け、自己を集中させない限り、自らの愛情を知ることはできないだろう。全世界の輝く灯火である聖なるバシレイオスは、孤独こそが魂の浄化の始まりであると言う。外的な感覚が外的な騒乱から休息を得ると、心は雑念から本来の姿に戻り、心は魂の内なる衝動を探求するよう揺り動かされる。そして、もしそれがうまく続けば、魂の浄化にさえ至るだろう。 [p.164] '''弟子''':もし魂が強ければ、外界との繋がりを保ちながら清められることはできないでしょうか。 '''教師''':もし木に毎日水をやるとしたら、その根はいつ枯れるだろうか。日々中身が増える器は、いつ空になるだろうか。もし清めとは、不自由に属する行為を忘れ、それらの記憶から平安を得ることに他ならないとしたら、そしてもし人が、個人的に、実際的に、あるいは他者を通して、感覚を通して魂の中でこの記憶、すなわち悪事の知識を新たにするなら、いつになったらそれらから清められるだろうか。あるいは、いつになったら外なるものとの争いから解放され、内なるものを見て平安を得ることができるだろうか。心が日々汚れているなら、いつになったら汚れから清められるだろうか。 根源を浄化することどころか、実践さえも支配できないかもしれない。陣営の中心に立ち、日々戦いの噂を耳にする中で、どうして自らに平和を宣言できるだろうか。しかし、もしそれらから遠く離れているなら、内なるものに徐々に平和を与えることができるだろう。上からの流れが止められない限り、下界の水は干上がることはないだろう。 しかし、人が孤独を見出すとき、魂は情欲を捨て去り、自らの知恵を試すことができる。その時、内なる人は霊的な奉仕へと駆り立てられ、日々、魂の中に秘められた知恵が動いていることを感じ取るだろう。 :::<nowiki>*  *  *  *  *</nowiki> '''弟子''':人の労働によって隠された果実が魂に現れ始めていることを示す真の印、そして疑いようのない兆候とは何でしょうか? '''教師''':涙という賜物を受けるにふさわしいとみなされた時、それは溢れんばかりに、そして強制されることなく流れ出る涙です。涙は心にとって、肉体の状態と霊的な状態、統覚の状態と純粋の状態をはっきりと区別するものです。人がまだこの賜物を受けていない限り、彼の奉仕の労苦は依然として外なる人の中にあります。[p.165]そして、霊的な人の隠された奉仕について、彼は何も知覚できないほどです。人がこの世の肉体を離れ、目に見える性質を超えた領域へと歩み始めるとき、彼はすぐに涙の恵みに達するでしょう。そして、その隠された行為の最初の場所から、これらの涙が始まり、それは彼を神の完全な愛へと導くでしょう。彼がこの地点に達すると、涙はあまりにも溢れ、食べ物や飲み物と共に飲むほどになります。それは絶え間なく、豊かに流れるからです。これは、心がこの世を離れ、霊的世界を知覚し始めたことの真の証です。心がこの世に近づくほど、涙は減っていきます。そして、心が完全に世俗的なものに浸っているとき、涙も全くなくなります。これは、心が愛に包まれている証です。 :::涙の区別 涙には焼けつくような熱を引き起こすものもあれば、脂肪を蓄えるものもあります。罪によって生じた悲しみや心の苦しみから流れる涙はすべて、体をやせ細らせ、熱で燃えるように熱くさせます。そして、これらの涙を流すと、しばしば骨髄が傷つけられたように感じることさえあります。人は必然的にまずこの涙の段階に入ります。そして、それによって第二段階へと続く門が開かれます。第二段階ははるかに優れた段階です。なぜなら、そこには慈悲を受けるというしるしが含まれているからです。これは何でしょうか。洞察に由来する涙は体を肥やします。自然に流れ、強制は一切関与しません。また、体に油を塗り、顔の印象を変えます。喜びに満ちた心は体を美しくするからです。心が孤独に生きているとき、これらの涙は顔全体を潤します。体はまるで涙によって栄養を得て、喜びが顔に広がるかのようです。この二つの異なる状態を経験した人なら誰でも理解するでしょう。 '''弟子''':魂の復活とは何でしょうか。つまり、あなたがたがキリストと共に復活したとしたらどうでしょうか<ref>コロサイ 3:1</ref>。 '''教師''':使徒は別の箇所でこう言っています。「闇から光を照らせと命じられた神は、わたしたちの心を照らしてくださったのです。」<ref>2コリント 4:6</ref>。彼は復活を、地獄に似せて福音の光が昇るのを妨げていた古い状態を離れることと呼んでいます。[p.166]それはいわば、復活への希望における命の息吹であり、それによって神の知恵の夜明けが心に昇り、彼は今やこの世のものを一切失った新しい人となるのです。「わたしはあなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を置く。」<ref>エゼキエル 36:26</ref>と言われているとおりです。こうして、知恵と啓示の霊によって、真に人々は、キリストに関する知識を刻み込まれるのです。 '''弟子''':一言で言えば、孤独の修行の力とは何でしょう? '''教師''':それは外的な感覚を抑制し、内的な衝動を刺激します。しかし、人々との交流は逆の作用をします。 '''弟子''':ある人々に与えられた幻や啓示の原因は何でしょうか。しかし、彼らよりも多くの努力を払った人々には、そのようなものは与えられません。 '''教師''':啓示や幻の原因は一つではなく、数多くあります。啓示や幻の第一の原因は、神の慈悲のしるしを与えたいという神の意志です。この場合、神は人々を助けるためにそれらを与えられたのです。中には神の摂理によって起こるものもあります。これらはよくあるケースです。残りのものは、弱い者を強め、励まし、慰め、教えるために起こります。 摂理によって起こる啓示の例としては、キリストの墓の傍らに現れた天使、そしてキリストの昇天の際、主が去られたことで苦悩し、茫然自失となり混乱していた使徒たちに現れた天使が挙げられます。そのとき、二人の天使が現れ、白い衣をまとって彼らのそばに立っていました。また、牢獄や使徒たちが人間の手に落ちたあらゆる場所に現れた天使もいます。独身者やその後の聖人たちにも現れ、今日に至っています。こうした訪問は通常、これらの3種類の人々に与えられます。すなわち、計り知れないほど純朴で非の打ちどころのない人々、聖潔で完全な人々、あるいは熱烈な熱意のために世を捨て去り、絶望のうちに完全に世を捨て、人間の住む場所から身を引いて、裸で希望もなく神に従った人々です。あるいは、目に見えるものからの助けもなく、荒廃の恐怖に襲われ、飢えや病気、その他あらゆる災難による死の危険に晒され、落胆の淵に立たされている。[p.167]ある人々にはそのような慰めが与えられる一方で、彼らよりも優れた行いをする他の人々にはそのような慰めが全く与えられないのは、まず第一に、心の純粋さ、あるいは不純さに起因している。第二の原因は確かにこれである。人は同胞や目に見えるものから慰めを受けている限り、そのような(天からの)慰めは与えられません。それは神の摂理によってのみ保証されるものであり、これは共通の性格を持っています。 しかし、私たちの説教は孤独な人々に向けたものです。その証人の一人は、自分に対して声が聞こえたと告げた聖人です。「人からの慰めや人との交わりはもうたくさんだ!」もう一人の証人<ref>introduction を参照。</ref> は、隠遁して孤独な生活を送り、神の恵みによって与えられた慰めをしばしば味わい、神の配慮が明白な知覚によってしばしば目に見えるようになった人です。しかし、人が住む世界の近くに来て、いつものようにこれらのものを求めても、見つけられませんでした。彼は、このことに関する真理が自分にわかるようにと神に懇願して言いました。「主よ、私が司教の地位にあるために、神の恵みが私から取り去られたのかもしれません。」彼は言いました。「いいえ。しかし当時は砂漠があり、人はいませんでしたが、神があなたに備えをしました。今は、人が住む世界があり、人があなたに備えをします。」 ― ですから、人は目に見える慰めと霊的な慰めを共にあずかることは不可能だと言うのです。 '''弟子''':幻と啓示は一つですか、それとも名前が違うように、実際には異なるものですか? '''教師''':幻と啓示には違いがあります。啓示という名前は、これまで隠されていたものが明らかにされ、今や何らかの形で明らかになることを意味するため、この二つを包含しています。しかし、啓示であるものすべてが同時に幻であるわけではありません。幻であるものもまた啓示と呼ばれます。なぜなら、それは隠されていたものが明らかにされるからです。しかし、明らかにされ、知られるようになるものすべてが幻であるわけではありません。 啓示は通常、理解可能で知性(ヌース)で味わうものと結び付けられます。しかし、幻は常に類似性を持って起こります。古代の人々に、深い眠りの中であれ、覚醒状態であれ、与えられたもののように。時にははっきりと、時にはぼんやりと。幻を与えられた人は、自分が目覚めている時に見たのか、眠っている時に見たのかわからなかったことがよくありました。[p.168]意識を取り戻した後でさえ、それが現実に起こったのか、夢の中で起こったのかわかりませんでした。時には助けの声が聞こえ、時には象徴的な表現が見え、時にははっきりとした幻影が、顔と顔を合わせて現れ、視覚と会話、質問と交わりがあり、聖なる軍勢はふさわしい人々に現れました。砂漠や荒野、人里離れた場所、世俗から離れた場所では、そのようなことが起こるのは明らかです。なぜなら、人は誰からも助けを得られないからであり、そのような場所では、そのようなことが絶対に必要なのです。 知性(ヌース)によって知覚されるものの啓示は、純粋さを通して受け取られます。そして、純粋さは、秘儀参入を受け、完成された者だけに属します。 '''弟子''':誰かが心の純粋さに達したとき、その証は何でしょうか? そして、自分の心が純粋さに達したかどうかを、いつ自ら知るのでしょうか? '''教師''':すべての人を良い光の中で見、誰一人として汚れた者や不浄な者と見なさないとき。そのような人は真に純粋さに達したのです。もしこれが真実でなければ、使徒の言葉「人があらゆる卓越性を備えているとき、人は心と真実において、すべての人を自分より優れていると考える」<ref>ピリピ 2:3</ref>がどうして実現できるでしょうか。 しかし、前述の点に達すると、清らかな目を持つ者は悪を見ない。 '''弟子''':清らかさとは何ですか、そしてその限界はどこにあるのでしょうか? '''教師''':清らかさとは、自然に属さない知識、すなわち自然が世界に見出した知識を忘却することだと私は考える。その限界とは、私たちがそうした知識から解放され、ごくわずかな例外を除けば、子供のように自然本来の単純さと完全性に到達することにある。 '''弟子''':人間がこの境地に達することは可能でしょうか? '''教師''':ええ。ある教父は弟子に自分はパンを食べたかどうかを何度も尋ねるほどに至りました。また、当時老いた禁欲主義者であった聖徒の一人が、あまりにも純粋で質素になり、完成と静寂の境地に達し、まるで幼子のように世俗的なことをすべて忘れ去っていました。[p.169]そして、おそらく多くの人は私たちの言うことを信じないでしょう(実に不思議なことですが)。聖体の奉納の時でさえ、彼は聖体を受けるために断食を守ることができませんでした。弟子たちが彼の小屋で見張りをし、幼い彼を聖域に連れてくるまで、彼は自分が断食を守っていたかどうかさえ知りませんでした。この祝福された人は、このように穏やかで純粋でした。そして、世俗的な事柄においてはこのようにあっても、彼の魂は神と完全に一致していました。 '''弟子''':隠遁と孤独の中で、知性が偶発的な思索に囚われてしまわないようにするために、人はどのような瞑想と営みを持つべきでしょうか。 '''教師''':あなたは問う。「居室に閉じこもり、世俗に死んでいる者の瞑想とは何か」と。熱心で魂が目覚めている者が、独居室の中で何をなすべきかを問う必要があるだろうか。独居室に閉じこもる者の瞑想は、涙を流すこと以外に何があるだろうか。涙から別の思索へと視線を向けることができるだろうか。どちらの瞑想がより有益だろうか。墓のように孤独で、あらゆる世俗的な快楽を奪われたその住まいは、涙を流すことこそが奉仕であることを教える。そして、その名さえも彼をその方向へと導く。それは「アビラ(abila)」と呼ばれている。これは「心に苦い」という意味である。すべての義人は泣きながらこの世を去った。聖徒たちが涙を流し、その口が常に涙で満たされ、こうしてこの世を去ったのであれば、誰が泣かずにいられるでしょうか。隠遁者の慰めは涙から生まれます。勝利を得た者たちがこの世で涙を流したのであれば、傷に覆われた者がどうして涙をこらえることができましょうか。家長の前に愛する者が横たわっているとしたら、どのような考えで涙を流すべきか、家長に教えを乞う必要があるでしょうか。あなたの罪の中に死んだ魂はあなたの前に横たわっています。あなたの魂はあなたにとって全世界よりも価値があります。私たちも孤独になれば、泣くことに慣れてしまうかもしれません。ですから、私たちは主にこの賜物を授けてくださるよう、絶えず懇願すべきです。もし私たちが他の何にも勝るこの賜物を受けるなら、涙を通して私たちは清らかさに到達できるでしょう。そして、私たちがそこに到達したなら、私たちがこの世を去る日まで、それは私たちから二度と奪われることはありません。 それゆえ、この涙の喜びを常に味わい、それを通して絶えず主を見る心の清い人々は幸いです。彼らの目に涙がある間、彼らは祈りの頂点にある主の啓示を見るにふさわしいとみなされます。[p.170]なぜなら、彼らは涙のない祈りを知らないからです。そして、これは私たちの主が言われたことです。「悲しむ人々は幸いである、彼らは慰められるであろう。」<ref>マタイ 5:4</ref> 人は悲しみによって魂の清らかさに到達するからです。ですから、私たちの救い主が「悲しむ人々は幸いである、彼らは慰められるであろう」と言うとき、彼は慰めが何であるかを説明してはいません。孤独な人がその悲しみゆえにこの愛情の場所を越えて魂の清らかさの平野に到達するにふさわしいとみなされるとき、そこで彼はそれを見いだした人々を決して離れることのない慰めを見いだすでしょう。その時、悲しみの終わりに清らかさを通して得られる慰めは、私たちの主が悲しむ人々に約束していることは明らかです。というのは、もし誰かが絶えず泣いているなら、愛情はその人の心に近づかないであろう。泣くことは感情の及ばないところにあるからである。もし、嘆き悲しむ人の心から、ほんの短い間、涙が愛情の記憶を消し去ることができるならば、昼も夜も自分自身に明確な奉仕を課した人について私たちは何を言うべきであろうか?涙に身を捧げた者以外に、涙の益を知る者はいるだろうか? すべての聖徒は、この導入の手段を切望する。そして泣くことによって彼らの前に門が開かれ、その門を通って彼らは慰めの場所に入り、その中で神の愛の足跡が啓示によって刻み込まれるのである。 '''弟子''':しかし、肉体の弱さゆえに人間はこの修行を続けることができないので、知性の怠惰によって感情が襲い掛からないように、心を捕らえる何か他のものが必要です。 '''教師''':砂漠の完全な孤独の中に孤独に住み、人々の喧騒のあらゆる音や声から隔絶され、心が世間から切り離された孤独な者にとって、感情は魂を襲い、悩ますことはできない。ただし、彼が自分の義務、特に聖典の読解や、それに没頭している有益な思索に没頭することを怠らない限りは。聖典の卓越した理解によって、つまらない考えは彼から追い払われ、彼の心はそれらから自由になることができず、砂漠の極度の孤独の中で知性が完全に満たされるその活動の大きな喜びのために、彼は全世界を眺める。[p.171]こうして彼は自意識を失い、自分の本性を忘れ、世間を一切思い出さない狂人のようになる。特に彼が神の偉大さ、神の本性の栄光、そして神の驚くべき御業について考える時、そして彼が自分の卑しい存在がどれほど高く高められたかを思い出す時、彼はそうなるのである。神について思いを巡らせ、喜びのためにそのような思いを育み、復活後の生活のように常に恍惚とした衝動に酔いしれることは、孤独によって大いに促進される。なぜなら、知性(ヌース)は孤独に根ざした平安の中で、自分自身と向き合う機会を得るからである。同時に、知性(ヌース)は自らの歩むべき道に想起を適応させ、来るべき世界の栄光、義人のために保たれた希望、完全に神に由来する霊的感情による生活へと自らを向ける。これが、この世のいかなるものについても想起も感情も持たない、新しい生き方である。そして、これらのことに満足すると、彼の観想はそれらから、彼が依然として留まっているこの世の事柄へと移り、驚嘆して言う。「ああ、神の知恵と知識、そして測り知れない御心の富の深さよ。神の裁きは何と測り知れず、その道は何と測り知れないことなのだろう。」<ref>ローマ 11:33</ref>神は驚くべき「別の世界」を用意し、すべての理性ある存在をその中に導き入れ、彼らを永遠の生命において変化なく保つであろう。では、なぜ神はこの世界を最初に創造し、大きくし、多くの種を備え、多様な愛情の場を作ったのか。そして神は私たちをこの世界で最初に置き、私たちの本性にそれ自身の生命への強い愛を植え付けた。それから神は死によって徐々に私たちをそこから追い出し、石や木のように感覚的な知覚力のない状態に長い期間を定め、その間に神は私たちの姿を破壊し、私たちの気概を注ぎ出して土と混ぜ合わせる。そして神は私たちの建物が破壊され、廃墟となることを許し、それが以前の構成とのすべての類似性を失うまで放置する。そして神の知恵によって定められた時に、神の自由意志に従って働き、神はご自身が知っている異なる類似性で私たちを復活させ、私たちをその新しい秩序に導く。私たちだけでなく、聖なる天使たちも、その驚くべき性質ゆえにこの世の助けを必要としません。彼らは皆、ほぼ完全であり、人類が塵からよみがえり、堕落した状態から新たな命へと生かされる、私たちの堕落した状態の復活と高揚を待ち望んでいます。私たちのせいで、彼らは「新しい世界」の門が開かれるまで、入ることができません。彼らが待ち望んでいるのは、その「新しい世界」の門が開かれることです。天使たちでさえ、私たちが肉体の重荷を背負っているのを見て、私たちとともにため息をつくのです。彼らは神の子たちの啓示を望み、待ち望んでいます。そうすれば、彼ら自身も、神の子たちの栄光の自由のうちに、滅びる奴隷状態から解放されるのです<ref>ローマ 8:21、次の一節についてはintroduction を参照してください。</ref>。 [p.172] まず神は、この世界全体をその状態から解放し、肉体の最初の状態と同様に、無へと還元します。それから神は、世界の創造の始まり、すなわち天も地も天使も、いかなる被造物も存在しなかった時の知性を超えて、自らを高めます。それから突然、神はすべてのものを存在させます。神の意志は、すべてが完全な状態で神の前に現れるようにするのに十分な力を持つのです。それから神は精神に降り立ち、神のすべての被造物を訪れます。そして、その高く驚くべき御業において、神の創造力の叡智が明らかになります。神の力はすべての心を鎮め、その創造力の驚くべき力強い力は、無から無数の異なる種類の創造物を存在させます。 それから、神が再びこれを破壊し、驚くべき秩序、種類の装飾、生き物の定められた経過、時と機会、夜と昼の調和、一年の有用な季節、装飾された大地、そこから芽生える様々な種類、都市の立派な建物とその中の美しい宮殿、人類の継続的な経過、人間がそこに入ってから去るまで従属し苦しめられてきた自然を消滅させる方法について考えるでしょう。 そして、この驚くべき秩序はなんと突然に崩壊し、新たな世界が始まることか。そこでは、最初の創造を思い出す者は誰もいない。そこには、異なる生活様式、異なる思索、異なる思考が存在する。その時、人間はもはやこの世界も、そこにおける以前の生活様式も思い出さない。なぜなら、彼らの心はその[新しい]秩序の光景に魅了され、記憶の中で血肉の種族に目を向けることができなくなるからだ。なぜなら、この世界が崩壊するやいなや、新たな世界が始まるからである<ref>続く 2つの文は挿入文である可能性があります。「そして心は考える」などの文は、現在の文の直接の続きです。</ref>。 [p.173] ああ、母よ、自ら産み、教育し、教え導いた息子たちに突然忘れ去られてしまった息子たち。瞬く間に彼らは別の懐に集められ、かつて産むことのなかった不妊の母の真の息子となった。ああ、不妊の母よ、産むことのなかった母よ、大地があなたに産み落とした息子たちを喜びなさい。そして心は驚嘆する。「新しい世界」がどのようにこの世界に取って代わるのか、そしてそれがいつ始まるのか。そして、これらの肉体が、肉体と塵が混ざり合った状態でどれほど長く存在するのか。そして、その生活様式はどれほどのものになるのか。そして、この性質はどのような類似性を持って生まれ、どのようにして第二の創造に至るのか。 このような考えによって、心に安息が広がります。そして、肉体の状態に対する知覚は消え去り、神の計り知れない御業に驚嘆しながら、長い間沈黙を保つでしょう。その時、孤独な者はひざまずき、御業において知恵深く、御業も、また、御自分がなさったこと、なさろうとしていることに関する、その崇高な御心の秘密も計り知れない神に、涙ながらに感謝を捧げます。このような衝動の下で、沈黙と昏睡に襲われ、感覚と衝動の感情から背を向け、意識を失うことのない石の心がどこにあるでしょうか。これらの事に値するとみなされた人は幸いです。昼も夜もこの事について考えてきた人は幸いです。生涯を通じてこれらの事に携わってきた人は幸いです。この考えはすべての人に有益ですが、特に孤独に生きる人にとって有益です。そして、これらの思い出を常に心に留めておくことはふさわしいことです。人はこれらの指示を心に留め、祈りを終えた後、それらについて考え、瞑想すべきです。 これらの考えに心を奪われている時、彼の心には神への絶え間ない思いを阻むような異質な記憶が入り込む余地はなくなる。そして、たとえ最初は気が散っていたためにこれらの事柄の有益な影響に気づかなかったとしても、落胆してはならない。農夫が地に種を蒔く時、同時にオールを見ることは不可能である。落胆と意気消沈は種まきと密接に関係している。農夫にとって自分のパンを食べるのは甘いが、彼の汗は依然、労働者の汗である。 [p.174] この思いを独りで抱くと、心に限りない喜びが注ぎ込まれ、言葉に尽くせない恍惚へと精神はたちまち導かれる。この泉が開かれ、昼夜を問わずそこから水を飲む者は幸いである。 :::<nowiki>*  *  *  *  *</nowiki> '''弟子''':あらゆる苦行の頂点とは何ですか。人がそこに到達した時、自らの歩みの頂点として認識するものとは何ですか。 '''教師''':彼が絶え間ない祈りに値するとみなされたとき。彼がこれに達したとき、彼はすべての美徳の極みに達し、直ちに霊的な住まいを得る。もし人が真に慰め主の賜物を受けていないなら、静かに絶え間ない祈りを成し遂げることは不可能である。霊が人の内に住まうとき、彼は祈ることをやめない。なぜなら、霊が彼の中で絶えず祈るからである<ref>どうやらこれがこの文の意味のようですが、原文でははっきりと分かりません。</ref>。その時、彼が眠っているときも、目覚めているときも、祈りはその人の魂から切り離されることはない。むしろ、彼が食べるとき、飲むとき、横になるとき、あるいは何か仕事をしているとき、さらには眠りに浸っているときでさえ、祈りの香りがその人の魂の中で自然に漂うであろう。そしてそれ以後、彼は限られた時間だけ祈りを持つのではなく、常に祈りを持つであろう。そして彼が外的な休息を得ているときでさえ、祈りは彼にひそかに仕えるであろう。{{r|静謐|せいひつ}}な者の沈黙は祈りである、とキリストをまとった人は言う。彼らの思索は神の衝動である。清らかな心の動きは静かな声であり、彼らはその声で、見えざる者への賛美歌を密かに詠唱している。 '''弟子''':霊的な祈りとは何でしょうか。そして、どのようにして私たちはそれにふさわしい者とされるのでしょうか。 '''教師''':それは、真の純粋さゆえに聖霊の影響を受けている精神的な衝動です。一万人に一人の人間だけが、これにふさわしいとされます。それは未来の存在の在り方の象徴です。なぜなら、自然は高められ、この世の事物の記憶によるあらゆる衝動から解放されているからです。魂は祈るのではなく、魂はあの世の霊的なもの(それは人間の心よりも偉大なものです)を知覚します。これらの理解は霊的な力によって燃え上がるのです。それは内なる洞察であり、祈りの衝動や懇願ではありません。[p.175]それは祈りに起点があります。そのような人々は純粋さの頂点に達し、常に彼らの内なる感情が祈りの中で揺り動かされているからです。前にも述べたように、聖霊は彼らを見つめるとき、祈りの中に彼らを見出します。そしてそこから、霊的な洞察と解釈される観想によって彼らを導きます。彼らは長時間の祈りや、決められた順序での頻繁な礼拝を望んでいません。 彼らにとって、神を想起するだけで十分であり、たちまち愛に支配され、まるで捕らわれた者のように支配されるでしょう。しかし、こうした状態にあるからといって、彼らは全く怠慢なわけではなく、決まった時間に立ち上がることで祈りを尊ぶものの、絶え間なく祈りを捧げる習慣はありません。 聖アントニオスは、第九時の祈りで立ち上がった時、自分の心が他のことに集中していることに気づいたとされています。また別の聖人は、両手を広げて祈りを捧げながら、四日間、恍惚状態にあったとされています。そして、調べてみれば、他の多くの人々の物語の中にも、この賜物を与えられた時、彼らが祈りのよく知られた姿勢を保っていたことが分かります。人は、この状態に先立つ主の戒律を守り、外面的および内面的な罪を捨て去る時、この状態にふさわしい者とみなされます。もし人が自分の程度に応じてこれらの戒律を実践するならば、必然的にすべての人間的なものを捨て去る必要があります。これは、いわば肉体を脱ぎ捨て、肉体の外にいることを意味します。肉体の性質ではなく、肉体の用い方です。律法を与えられた方の意味でこれらのことを実践し、罪が根強く残っている人は一人もいません。 それゆえ、私たちの主は福音書の中で、これらのことを守る人を主の住まいとすると約束されました。 '''弟子''':では、あらゆる霊的果実の完成とは何でしょうか? '''教師''':これは、人が神の完全な愛を受けるにふさわしいとみなされる時です。 '''弟子''':では、この境地に達した人は、どのようにして確信を得ることができるでしょうか? '''教師''':神の思いが霊の中で揺り動かされるたびに、心はたちまち愛で熱くなり、目からは溢れんばかりの涙が溢れるでしょう。愛は愛する人を思い出すと涙を流す習性があるからです。この状態にある人は決して涙を流さないことはありません。なぜなら、神を豊かに思い出すことがなくなり、眠っている間でさえ神と語り合っているからです。愛はこれらのことを実践することに慣れており、これが人がこの世で成し遂げることなのです。 [p.176] '''弟子''':幾多の労苦と疲労と、戦い、そして勝利を勝ち取った後、自らの卓越性の美しさに基づく傲慢の念に襲われ、自分が負ってきた多くの労苦を思い出す時、彼はどのようにして自分の思考を抑制し、屈服しないよう警戒心を取り戻すことができるでしょうか。 '''教師''':枯れた葉が木から落ちるように、自分が神から落ちたことを知ったとき、彼は自分自身の強さも知り、これらの美徳を自分の力で獲得したのかどうか、また、もし神が助けを差し控え、<u>サタン</u>との闘いにおいて勝利を収める戦士が通常伴うあの力を伴わずに彼を放っておいたとしても、正面からすべての闘争に耐えることができたかどうかを認識するであろう。なぜなら、ここに彼らの強さ、あるいはもっと正確に言えば弱さが明らかになるからである。したがって、貞潔のための闘争であれ、殉教の苦しみであれ、あるいは聖なるもののために苦しむ間のその他の苦難であれ、常に人間を守り強め、そしてそれを通して人間はあらゆる種類の人間を克服するのです。 このことはよく知られており、疑いの余地なく可能である。というのも、そうでなければ、どのようにして自然は、人間の五体に位置し、人間を苦しめながらも耐え忍ぶ、休むことのない誘惑の強大な力に打ち勝つことができようか? 同じ純粋さを愛し、切望する他の人々が、それを追い求めても到達できず、それどころか日々挫折し、苦しみ、悲しみ、自らを嘆くのに、なぜあなたは自然の厳しい困難に容易に耐え、しかもそれに圧倒されないのか? あるいは、他の者は、全身に刃物と櫛を刺され、敏感な肉体であらゆる種類の拷問に苦しみながらも、打ち負かされることなく耐えることができるのか? そうでなければ、爪の下に小さな棘が刺さることにも耐えられないのか? しかし、彼はこれらの全く異なる拷問を、自然な方法で苦しむことなく耐えるのです。自然の力とは別に、別の方向から何らかの力が彼に送られず、その力が拷問の力を抑制し、和らげなければ、どうしてこれが可能になるでしょうか? ここで、聞く者を本当に驚かせる物語を述べることに何の妨げもありません。神が人間を気遣い、その卓越性のためにあらゆる戦いで勝利を収められることを指摘した以上、この物語を省略するのは不適切でしょう。ソクラテスは教会史の著作の中で、ローマ皇帝について言及する際に、ユリアヌス帝の治世下で教会員が被らなければならなかった苦難を簡潔に述べています。そして、具体的な事柄に移り、アンティオキアで起こった出来事について語ります。 異教徒たちは、テオドロスという名の青年を、この件の管轄権を委ねられていたサルスティオスの前に連れてきた。サルスティオスは彼を苦痛と拷問に委ね、全身を梳かすよう命じた。そして、彼が死んだと思い込み、拷問から解放した。しかし、神はこの祝福された男の救い主であり、彼は証言の後も長く生き続けた。ギリシア語で教会に関する著作を残したルフィヌスは、ずっと後になってこの祝福されたテオドロスと会話をしたと記している。ルフィヌスはテオドロスに、拷問を受けているときに痛みを強く感じたかどうか尋ねた。ルフィヌスは、痛みはごくわずかしか感じなかったと答えた。というのは、一人の若者が彼の傍らに立ち、苦闘の汗を拭い、魂を強くし、拷問の苦闘の時間を彼にとって喜びとしていたからである。ああ、神の慈悲よ、主のために戦いを始め、喜んで主のために苦しみを負う者たちに、神の恵みはどれほど近いことか。人よ、神の恵みを損なわないようにしなさい。 もしあなたが勝利者ではなく、道具であり、主があなたのために勝利を勝ち取り、あなたが勝利者の名を贈り物として得るのが明白であるならば、証人として常に同じ勝利を得るために、常に同じ力に祈ることを妨げるものは何だろうか? ああ、人よ、太古の昔から、どれほど多くの勇者が神の恵みを傷つけたために勝利の頂点から転落したか、あなたは聞いたことがないのか? '''同じ主題について'''。神が人類に与えてくださった賜物は数多く、多様であるため、それを受け取る人々にとって、その大きさや大小にも違いがあります。どれも素晴らしく輝かしいものですが、栄光と誉れにおいては、それぞれが他のものよりも優れています。聖書の言葉によれば、ある賜物は前のものよりも高いのです。 [p.178] さらに、人が善行と堅実な行いを実践するよう選ばれることは、キリストの主要な賜物の一つです。しかし、多くの人がこの恵みを忘れています。すなわち、神が他の人々よりも際立たせ、神の賜物の受益者、すなわち主への奉仕に選ばれた者たちです。そして、口にはいつも感謝の気持ちを口にしていたにもかかわらず、彼らは傲慢に陥り、心の中で高慢になります。彼らは清い行いと霊的な働きをもって神に仕えるにふさわしい者とされているにもかかわらず、自らを恵みの受益者とは考えず、神を通して恵みを受けるに値する者とみなします。彼らは、神との親しい交わりと神の奥義を知るために、他の人々から選ばれた者であることを忘れているのです。彼らはまた、同じ考えを育んでいた同志たちが、託されていた力を突然奪われ、瞬く間に持っていた大いなる名誉を失い、急速に好色に堕落し、非理性的な動物のような卑劣な行為に走ったことを考えても、魂の底から震えることはない。彼らは自らの魂の強さを知らず、神に仕え、神の王国の名誉を守るという偉大な恩恵にふさわしい者とし、霊的存在の同志となし、天使の行いに近づけてくださった方を常に思い起こさないので、神は彼らを奉仕から拒絶する。このように、神は彼らの行動の突然の変化を通して、彼らが自然のあらゆる攻撃、悪魔、その他の障害の下で揺るぎない行動を貫いたのは、彼ら自身[の力]によるのではなく、この力は神からの賜物であることを彼らに示すのである。 他の人々が難しさゆえに聞くことさえ耐えられないことを、彼らは長い間耐え忍び、打ち負かされることはなかった。なぜなら、彼らに付き従う力は、どんな状況においても彼らを助け、常に彼らを守ることができたからである。したがって、彼らがこれを忘れたために、御言葉は彼らの中で成就した。すなわち、彼らは神、すなわち霊的存在の奉仕を地上に下らせた彼らの主を知ることを自ら望まなかったため、神は彼らをむなしい知識に引き渡し、こうして彼らは、その忘却にふさわしい報いを自ら受けたのである。 [p.179] '''弟子''':人がいわば大胆にも人間の住処を突然離れ、美しい熱意をもって人の住まう砂漠や恐ろしい荒野へと裸で赴き、そこで飢えや住まいのなさなどで死ぬことなどあり得るでしょうか。 '''教師''':獣を創造する前から彼らの住まいを用意し、彼らの必要を満たす方は、獣を恐れる者、特に先入観なしに、ただ神に従う者を無視することはありません。すべてのことにおいて神の御心と一致する者は、肉体の害悪や危険を恐れて、汚れた行いに固執し、困難を恐れて屈辱的な人生に耐えることを決して受け入れません。しかし彼は、純粋な行いにおいて全世界から疎外され、山や丘の間で貧困な生活を送り、獣の棲む場所をさまよい、肉体的な安楽の中で不潔な生活を送らず、永遠に敬虔で純粋な行いを欠いたまま魂を神に明け渡すことを、この上なく素晴らしいことと考えるであろう。神に栄光と名誉は属し、神はその慈悲によって私たちを守り、その霊によって神の名を讃えるために私たちを聖別し、私たちが生涯神をふさわしく讃えることができるようにしてくださるのです。アーメン。 :::<nowiki>*  *  *  *  *</nowiki> 聖人のひとりがこう言っています<ref>introduction p.32</ref>。「肉体は罪の仲間となる。なぜなら肉体は困難を恐れ、傷害を受けて命を失うかもしれないと考えるからである。神の霊は肉体を圧迫して死なせるからである。死ななければ罪に打ち勝つことができないことは周知の事実である。主が自分の内に住まわれることを望む者は、自分の肉体を圧迫し、使徒パウロが述べている霊的な果実を主に捧げるであろう。そして、パウロが述べている肉の働きから自分の霊魂を守るであろう。罪と混じり合った肉体は肉の働きを喜ぶからである。そして神の霊はそれ自身の果実を喜ぶのである。断食と苦行によって肉体が弱っているとき、霊魂は祈りによって霊的に強くなる。肉体が孤独と貧困によって激しく圧迫され、その寿命が尽きるとき、肉体はあなたに懇願するであろう。「節度を持って行動するために、しばらく時間をください。」 [p.180] 今、私が指示を与えるのは、経験から悪とはこのような性質のものだと知っているからです。そして、あなたが肉体を幾らかでも抑圧から解放し、再び息を吸えるようにして慰めを与えてくださるとき、肉体はあなたに何度も静かに囁くでしょう。「荒野さえも去ろう。その誘惑は非常に強いからだ。[肉体は]こう言うだろう。「これからは、人が住む世界の近くでさえ、善行を積むことができるだろう。私たちは多くのことで試されてきたが、そこでもこの[行い]を続けることができるだろう。私を試してみて、もしあなたの御心に従わなければ、私たちは新たに始めることができる。なぜなら、私たちの前には砂漠が待ち受けているからだ。」しかし、[肉体は]たとえ懇願し、大いに約束しても信じてはならない。なぜなら、肉体はその約束を守らないからです。あなたが肉体の望みのいくつかを叶えてしまうと、肉体はあなたを、後戻りできないほどの大きな譲歩へと駆り立てるでしょう。あなたが悩みに満ちて意気消沈しているとき、自分にこう言い聞かせなさい。「あなたはこの汚れと、この浅はかな人生を望んでいるのか?」そして、肉体があなたに、「自殺するのは大きな罪だ」と言うなら、こう言い聞かせなさい。「私は清らかに生きることができないので、自殺する。私は今死んで、私の魂の本質が神から離れて死んでいくのをこれ以上見たくない。この世で恥ずべき人生を生きるより、清らかさのために今死ぬほうが私にとって良い。」<ref>p. 31、97を参照。</ref>。私は自分の罪のために、この死を進んで選ぶ。私は神の前で罪を犯したので、これ以上神の怒りを呼び起こしたくないから、自殺する。神から遠く離れた人生が、私にとって何なのだろうか? 私はこれらの悪に耐え、それを通して天国への希望とは無縁ではいられないだろう。もし私がただこの世に生まれ、ただ去っていくだけなら、なぜ私はこの世に創造されたのでしょうか。もし私がこの世で悪い生き方をしたなら、神は私の人生から何の利益を得るでしょうか。それどころか、私は神の怒りを買うことになるでしょう。 第35論文/終わり :::[[ニネベのイサアク神秘論文集/第35論文#第35論文|トップに戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Chapter 35を翻訳 --> 83tg1654s685pndp90ghlwrc7dcxv3c ニネベのイサアク神秘論文集/第36論文a 0 51197 230238 229296 2025-06-22T06:28:34Z 村田ラジオ 14210 カテゴリを加筆 230238 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|wikisource:宗教|ニネベのイサアク神秘論文集|hide=1}} {{header |title=ニネベのイサアク神秘論文集 |section=第36論文a |previous=[[../第35論文|第35論文]] |next =[[../第36論文b|第36論文b]] |year=1923 |override_translator = [[作者:アレント・ヤン・ヴェンシンク|A. J. ヴェンシンク]] |author= |notes= *底本: [[:nl:Arent Jan Wensinck|A. J. Wensinck]], [https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh"]. Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC) *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にねへのいさあくしんひろんふんしゆう36 1}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:ニネベのイサアク神秘論文集|36 1]] }} ::'''ニネベのイサアク神秘論文集''' ==第36論文a== [p.180] << 世上の狭き道を歩む者たちに対して悪魔が戦いを仕掛ける様々な方法について。>> 我らの敵<u>サタン</u>は、この争いに加わる者たちを巧妙に攻撃しようと企てる際に、他の手段も用います。その戦い方は、相手の性格や個人的な傾向によって変化します。 [p.181] 意志が弱く、思考力も乏しいと見なした者に対しては、最初から激しく戦い、重く恐ろしい誘惑に{{r|晒|さら}}します。こうして<u>サタン</u>は、最初の戦いの恐怖を植え付け、その道を歩み始める最初から<u>サタン</u>の悪の本質を味わわせようとするのです。こうして<u>サタン</u>は、最初の戦いの恐怖を植え付け、その道を歩むのが困難に思えるように仕向けます。もし最初の戦いが困難であれば、途中で繰り広げられるすべての戦いに、誰が最後まで耐えられるでしょうか。こうして、<u>サタン</u>の攻撃のことばかり考えてしまうため、彼らは再び<u>サタン</u>に抵抗したり、他の助けを求めたりしようとはしなくなります。そして、<u>サタン</u>が少しでも激しく迫ると、彼らは逃げ出します。あるいはもっと良い言い方をすれば、「神は、彼らが主の戦いに冷淡かつ躊躇しながら参加したため、何の助けも与えず、彼を虐げるままにしている。主の業を怠り、流血から手を引いて行う者は皆呪われる」ということである。しかしまた、「主を畏れる者には主の助けが近い<ref>詩篇 145:18</ref>」。そして主は、「冷淡で恐れおののく心で敵に対峙してはならない」と命じている。「彼を破壊する戦いを始めなさい。そうすれば、私は天の下の諸国民に、おまえへの畏怖と恐怖を与え始める<ref>申命記 2:25</ref>」」ということである。 神の愛のために自ら感覚を死なせなければ、あなたは神から離れて知的に死ぬであろう。あなたの運命に属するものは、たとえ一時的な苦しみを伴うとしても、進んで受け入れることを拒んではならない。その後、あなたは神の栄光の中に入るであろう。主の闘争において肉体的に滅びるとしても、主はあなたに冠を授け、あなたの勝利の肢体に殉教者の栄誉を与えるであろう。 ですから、前にも言ったように、もし彼らが初めから覚悟を決め、強くなり、死をも厭わない誓いを立てていなかったら、すべての戦いにおいて劣勢に立たされるでしょう。特に神は、彼らが主の仕事を軽率かつためらいがちに成し遂げようとする怠惰を見逃されるからです。そして<u>サタン</u>でさえ、彼らの考えがどんなものか、臆病で、自分を愛し、自分の体さえ惜しまないなど、最初から分かっています。<u>サタン</u>は彼らを暴風雨のように迫害します。なぜなら、<u>サタン</u>は彼らの中に、勝利を収めた者たちに通常見出される理知的な力を見出せないからです。[p.182]人の意志が神に向かい、神のために労苦を惜しまないのと同じように、神はその人に助けを送り、その配慮を示されます。神の許しがない限り、<u>サタン</u>が誰にも近づいたり、誘惑したりすることはできません。そうでなければ、<u>サタン</u>の意志が弱まり、不純な考えや散漫に身を任せてしまうからです。あるいは疑念にとらわれているからかもしれません。<u>サタン</u>は、そのような人々に対しては、完全で偉大な人々の場合のように、彼らを試す許可を求めたりはしません。後者に関しては、彼らが<u>サタン</u>の手に渡されないことを<u>サタン</u>は知っています。なぜなら、神の保護の力が彼らから取り去られることはあり得ないことを<u>サタン</u>は知っているからです。前述の原因のいずれかによる場合を除きます。 これが敵が戦いを挑む方法の一つである。敵は、意志が強く、死など取るに足らないと見なし、あらゆる誘惑と死に身を委ね、生と世界と肉体を誘惑によって踏みにじる者と、最初から出会うことも、通常は姿を現すこともない。むしろ、身を引いて彼らに道を譲る。主力で彼らに立ち向かうことも、共に戦うこともない。なぜなら、戦いの始まりはたいてい激しいものであり、敵は熱狂的であり、熱心な戦士は滅多に敗北しないことを敵は知っているからです。 敵がこの方法を取るのは、彼らを恐れるからではなく、彼らの内に働く力を通して彼らを燃え上がらせ、ついには彼らが確信に満ちた意志によってその力を発散させ始めるまで、神の力を恐れるからである。しかし、彼はしばらくの間彼らを放っておく。彼らの熱意が衰え、彼らが自らを鍛え、精神を武装させた武器、すなわち様々な聖なる言葉や有益で力強い記憶の行使から注意が逸れるまで。こうして彼らは怠惰の時を待つ。そして最初の思考がいくらか弱まると、彼らはどれほど頻繁に、心に根ざした誘惑のために、自らの内に敗北の機会を見出すことだろう。退屈によって心に浮かぶ思考に惑わされ、寒気に襲われることで、彼らは自らの中に溝を掘り状況を悪化させるのです。 <u>サタン</u>がこのように行動し、戦いの時を遅らせるのは、自発的なことではありません。<u>サタン</u>が彼らを許すときも、彼らから身を引くときも、彼らをないがしろにしているわけではないからです。[p.183]しかし、神への熱意に燃えている人々、若い頃に何の考えもなく、信仰ゆえに神に信頼し、誰と戦わなければならないのかさえも知らずに歩み始めた人々には、ある種の力が取り巻いていると私は思います。それゆえ、<u>サタン</u>は彼らからその邪悪な本性を隠し、近づかないようにしています。<u>サタン</u>の本性は、常に彼らと共にいる守護者によって抑制されているからです。さて、もし彼らが利益をもたらすもの、すなわち懇願、労苦、謙遜を捨て去らなければ、助け主は決して彼らから身を引くことはありません。慰めを愛することは、神が身を引く理由です。しかし、もし彼らがこれらのことを熱心に続けるなら、彼らは決して助けに事欠くことはなく、敵も彼らに近づくことを許されないでしょう。また、神が時折身を引くとしても、それは訓練のためです。聖なる力が彼らを支配し、伴っている間は、彼らは誘惑者を恐れません。心は勇気に満ちており、それゆえに誘惑者を軽蔑するのです。しかし、神は彼らを、幼い少年に水泳を教える人のように訓練します。少年が沈み始めるとすぐに、教師は彼を引き上げます。少年は教師の手の上で泳ぐからです。少年の勇気が、溺れることを恐れて減り始めると、手で彼を支えている人は、「恐れることはない、私が支える」と叫びます。あるいは、幼い子供に歩き方を教える母親のように、少し離れたところに置いて呼びかけます。しかし少年がよろめく小さな足で母親のところへ行こうとすると、その足は弱さのために震えます。そして少年が落ちそうになると、母親は走って行って彼を腕に抱き上げます。ですから、神の恵みは、人類の子供たち、すなわち、自分たちを創造した神の手に自分自身をはっきりと単純に委ね、心から世を離れて神に従う人々を支え、訓練するのです。 そして神に従い始めた者よ、あなたの苦闘の間中、常に始まりと、その道の始まりにおける最初の熱意、そしてあなたが以前の生活を捨て、戦列に身を置いた時の熱烈な思いを思い起こせ。そして毎日自らを省みて、あなたの魂の熱意が、燃え盛っていた熱意に比べて衰えていないか、あるいは苦闘の初めに身に付けていた武器を失っていないかを見極めなさい。陣営では常に声を張り上げ、右翼の者達を親身な思いで励ましなさい。そして敵対勢力にあなたが目覚めていることを示しなさい。そしてもしあなたが初めに誘惑者に脅かされて衝動的に遭遇したとしても、その時は油断してはならない。おそらくこれはあなたにとって利益となるであろう。 [p.184] あなたの救い主があなたに何かを許すのは、主がそれを予見し、あなたの利益となるように命じたときのみであり、それは理由なくしてではない。最初から気を緩めてはならない。ここで気を緩めれば、その後に続く飢え、病気、恐ろしい光景などに耐えられなくなるからである。あなたに戦うよう命じた主の意図を、あなたの利益となるその意図と反対に変えてはならない。さもないと、あなたの敵は、あなたを見つけたいと願うように、あなたを見つけてしまうであろう。むしろ、神があなたに助け手を送ってくださるまで、絶えず神に叫び、その恵みの前に涙を流し、懇願に疲れ果てよ。そして、あなたと共にいる救い主を一度見れば、あなたの前に立ちはだかる敵に二度と打ち負かされることはないであろう。 ここまでが二つの種類の争いです。 :::[[ニネベのイサアク神秘論文集/第36論文a#第36論文a|トップに戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Chapter 36の前半を翻訳 --> 1hu0ud9s5252d6hjuj5tyw3jky1npq0 ニネベのイサアク神秘論文集/第36論文b 0 51198 230239 229313 2025-06-22T06:31:02Z 村田ラジオ 14210 カテゴリを加筆 230239 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|wikisource:宗教|ニネベのイサアク神秘論文集|hide=1}} {{header |title=ニネベのイサアク神秘論文集 |section=第36論文b |previous=[[../第36論文a|第36論文a]] |next =[[../第37論文|第37論文]] |year=1923 |override_translator = [[作者:アレント・ヤン・ヴェンシンク|A. J. ヴェンシンク]] |author= |notes= *底本: [[:nl:Arent Jan Wensinck|A. J. Wensinck]], [https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh"]. Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC) *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にねへのいさあくしんひろんふんしゆう36 2}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:ニネベのイサアク神秘論文集|36 2]] }} ::'''ニネベのイサアク神秘論文集''' ==第36論文b== [p.184] << <u>サタン</u>が、身を固めている者たちに対して戦うもう一つの方法。>> 結局、<u>サタン</u>は、戦いで人を負かすことができないまま、あるいはむしろ、その助け手、人がその助け手のために<u>サタン</u>に抵抗し、その助け手が、肉と体で結ばれた者が霊的で肉体を持たない者を打ち負かすほどに人を助け、強くする、その人が神から受けるあらゆる助けを見て、外的な感覚が光景や音で打ち負かされることも、刺激や誘惑で思考が弱まることもないことを<u>サタン</u>が知り、それどころか、それらから受ける打撃を軽蔑するようになるとき、<u>サタン</u>は、その人を、助ける天使から引き離す手段を探す、あるいはむしろ、助けられた人の心を盲目にして、その人を支えのない状態にしようと企むのである。 こうして彼は、その男の傲慢さ、すなわち[想像上の]強さの考えを掻き立て、自分の精神こそが、魂に宿るこのすべての活力と輝かしい富の源であると考えるようになる。そして、これらの悲しく、言葉に尽くせない、そして血に飢えたあらゆる障害から自分を守ったのは、時に偶然のせい、時にその弱さのせいだと考える。その冒涜的な性質ゆえに、思い出すだけで魂が震えるような他の事柄については、私は言及しない。 [p.185] また、彼は神の啓示を装って、陰険に裏切りを進めることもある。眠っている間に情報を与え、目覚めている時には光の天使のような姿を装う。そして、こうしたことはすべて、たとえ少しでもそれに屈すれば、人間はその犠牲者となる。しかし、もし人が賢明で思考を制御できれば、あるいはむしろ神の助けを得て、呪文を唱える者たちから目を背けるために心を天に向ければ、敵は「'''別の種類の戦争'''」を企てます。 今、彼に残された唯一の方法はこれです。そして、それが自然と何らかの親和性を持つことから、人間がそれに巻き込まれることがより多くなると、彼は期待している。それは何でしょうか? 彼は、人間がその性質ゆえに通常罪を犯すことになる物事と、あらゆる方法で人間を接触させようと企むのです。戦士の心は、すなわち[俗世の]物事を見たり接触したりすると盲目にされ、戦闘においてそれらの近くにあると、特にそれらが目の前に並べられていると、容易に打ち負かされる。賢い者は、それによって打ち負かされた多くの勇敢な戦士たちとの経験から、この狡猾さを熟知している。それゆえ、彼はこの手段を巧妙に準備する。そして、[戦士の]完全な孤独と[罪]を引き起こすものから遠く離れた居住地のために、それが実行できる性質でない場合、彼は幻想を通してそれを自分に近づけようと企てる。こうして彼は現実の習慣の中で誤ったイメージを彼に見せ、これらの幻想によって彼は欲望を掻き立てられ、不純な考えを抱き、罪を犯し、自分を助けてくれる神を遠ざけるように仕向ける。<u>サタン</u>は、孤独な者の勝利と敗北、その財宝と助け、そして彼に属するすべてのものが熟考にかかっていることを知っている。そして、熟考が本来の地位から外れれば、たとえ一瞬でもその意志がこちらに向けられていれば、ほんの一瞬で彼は生命の巣から地上へと突き落とされてしまうことを知っている。このように、<u>サタン</u>は多くの聖徒たちに美しい女性の姿を見せました。 居住地から 1パラサング、2パラサング、あるいは 10パラサングも離れた場所に住む人々には、確かに女性との接触をもたらした。しかし、住居地が遠すぎるためにそうすることができなかった人々には、彼は女性の美の象徴を、時には華やかな衣装と華やかな装いで、時には誘惑的な容姿で、時には裸の女性の姿で現れて見せた。孤独な人々の中には、こうした手段などで、ある者は現実の誘惑で、ある者は想像上のもので、思慮の弛緩によって堕落<ref>愚弄</ref>をもたらした。こうして彼らは絶望の淵に落ち込み、天国への希望を断ち切り、世俗へと向かった。 [p.186] しかし、揺るぎなく恵みに照らされた者たちは、彼とその幻想的な表象を打ち破り、肉体の快楽を踏みにじった。そして、彼らは神の愛によって選ばれた者とされました。 また彼はしばしば、金や貴重なものの像を、どこかに隠された宝物として彼らに示します。そして、これらの様々な策略の一つによって、孤独な者たちの一人を妨害し、彼の{{r|網|あみ}}の罠の一つに絡め取って進路を塞ぐことができると期待して、それらを現実に彼らに見せることさえあります。主よ、私をこれらの誘惑に陥らせないでください。なぜなら、強い者、選ばれた者でさえ、この門を勝利のうちに通過することはほとんどないからです。 誘惑者は、聖徒たちに対し、こうしたあらゆる誘惑の方法を用いて戦いを挑むことが許されています。それは、彼らのうちにある神の愛が、こうした状況のもとで実証されるためです。すなわち、彼らが神の友であるかどうか、また、この世の物事が遠く離れ、不在であるがゆえに神の愛に固執しているかどうか、それとも、真に神を愛していて、たとえ現世の物事が存在していても、誘惑の誘惑によって打ち負かされることなく、神への愛を放棄することなく、それらと戦い、軽蔑するかどうかです。これは、彼らがこうした誘惑によって神に知られるためではなく、できれば彼らを認識したいと強く願う悪魔に知られるためです。彼はまた、ヨブについて神に問いかけてこう言いました。「ヨブが神を恐れるのはいたずらだろうか<ref>ヨブ記 1:9</ref>。」そこに少しでも不注意が入り込むと、誘惑者は彼らに対する自分の力に応じて、権威をもって近づくのです。すると、不義なる者たちは、これらのものが彼の内に掻き立てる欲望に目覚める。そして、これらのことを通して、神への愛に強い者、つまり、神の愛に比べれば取るに足らないと見なすこれらのものすべてを軽蔑する者が試される。彼らは謙虚であり、すべてを強め、彼らの勝利の源である神にのみ功績を認め、戦いを神の手に委ねる。あなたは力強い御方であり、戦いはあなたのものなのです。主よ、戦ってください、我らのために勝利を与えてください。 [p.187] そして彼らは、炉の中の金のように、これらのものによって試されます。しかし、信頼できない者は、それらの試練を通して見抜かれ、{{r|屑|くず}}のように捨てられます。彼らは敵に屈し、戦いから退かざるを得なくなります。心の緩みによって、あるいは聖徒たちを常に助ける力に値しない者と化した傲慢さによって、敗北するのです。 なぜなら、無限にして全能、常に勝利を収める神が、人間の体の中に降りて彼らのために戦う時、私たちを助けてくださる力は、決して敗北しないからです。しかし、「敗北する者は、神なしに敗北する」ことは明白です。彼らは不正のために神から意志を奪われた者であり、勝利者の支えとなる力に値しない者です。彼らはまた、戦闘時に、あらゆる激しく困難な戦闘において自らの中に見いだしてきた通常の力がないことに気づきます。彼らはどのようにこれに気づくのでしょうか。彼らは、敗北が慰めとなり、闘争の苦難、すなわち、いかなる時も明確な勝利を勝ち取るために慣れ親しんできた苦難が耐え難いものであることを自らの中に見いだしているのです。そして、そのような時に自然と激しく揺さぶられ、{{r|灼熱|しゃくねつ}}によって強化された熱情を、彼らは自らの中に見いだせないのです。 さて、自分の基盤から揺り動かされた人々は、これらの闘争だけでなく、木の葉の音<ref>レビ記 26:36</ref>にさえ恐れをなし、ちょっとした困難、空腹や軽い病気で屈服し、放棄し、背を向けます。しかし、真に選ばれた人々は、野菜や野草で飢えを満たすことさえしません。しかし、麻薬や乾いた刈り株を食べては、定められた時が来るまで、食物を求めて口を開くように説得されることはありません。地面に横たわり、衰弱した体と、肉体の衰弱のために盲目になった目<ref>イサク自身も盲目になったと言われている</ref>で、苦難のために魂が口の近くにあり<ref>つまり、体から離れようとしている</ref>、それでも彼らは屈服して敗北したり、確固たる意志を放棄したりしません。なぜなら、彼らにとっては、愛のために苦しみ、高潔さのために労苦することの方が、現世の命とそのすべての快適さを持つことよりも喜ばしいからです。[p.188]したがって、逆境が近づくと、彼らは喜びます。なぜなら、彼らはこれらのことが彼らを完全へと導くことを知っているからです。そして、彼らは肉体的な拷問を受けながらもキリストの愛を疑わないばかりか、キリストのために命を失うことさえも喜んで受け入れます。たとえそうであっても、彼らはキリストから離れようとはしません。 :::[[ニネベのイサアク神秘論文集/第36論文b#第36論文b|トップに戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Chapter 36 の後半を翻訳 --> 0hgw1spnvu8so92dqjwclkpmohjvoct ニネベのイサアク神秘論文集/第23論文 0 51243 230228 229620 2025-06-21T14:24:39Z 村田ラジオ 14210 カテゴリを加筆 230228 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|wikisource:宗教|ニネベのイサアク神秘論文集|hide=1}} {{header |title=ニネベのイサアク神秘論文集 |section=第23論文 |previous=[[../第22論文|第22論文]] |next =[[../第24論文|第24論文]] |year=1923 |override_translator = [[作者:アレント・ヤン・ヴェンシンク|A. J. ヴェンシンク]] |author= |notes= *底本: [[:nl:Arent Jan Wensinck|A. J. Wensinck]], [https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh"]. Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC) *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にねへのいさあくしんひろんふんしゆう23}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:ニネベのイサアク神秘論文集|23]] }} ::'''ニネベのイサアク神秘論文集''' ==第23論文== [p.118] << 真の知識についての談話。>> 行動であれ言葉であれ、知覚できるものはすべて、その原因が全くの偶然ではなく、絶えず繰り返されるならば、内に秘められたものの顕現である。後者は報酬と関連してのみ考慮され、前者はごくわずかしか考慮されない。意志の強さや弱さは、善行や悪行によって証明されるのであって、偶然に起こる何かによって証明されるのではない。意志の自由さの証明は、絶え間ない繰り返しにある。 [p.119] 運命には力が与えられている。時には、意志の自由を支配するほどである。善い偶然も悪い偶然も、人間に出会う。それは、人間を刺激するため、試すため、訓練するため、報いるためである。刺激となるものは善であり、試すものは悪とみなされる。訓練と報奨となるものは無関係である。 偶然の出来事など存在しない。なぜなら、善であれ悪であれ、人間には偶然の出来事など何も起こらないからだ。この世の物事を統べる統治者がいる。私たち一人ひとりには守護者がおり、その守護者から逃れるものは何もなく、その注意も決して怠らない。しかし、あらゆる偶然は、この任命された守護者によって予見される。そして、これら四種類の偶然において、神の摂理が働く。 情熱的な祈りは、人生の情熱的な性質と調和した道程の伴侶であり、偶然に見舞われる人々の性格を変え、改善をもたらす。善良な人々は祈りによって強められ、確固たるものとなり、悪い人々は反対方向へと変化させる。それゆえ、私が述べたことを疑ってはならない。偶然の出来事、あるいは統治者のいない出来事など存在しない。もし祈りが堅固な精神と結びついて変化をもたらし、方向づけることができるならば、あらゆる偶然には統治者が存在すると信じなければならない。自分に起こるあらゆる出来事を、自分の隠れた状態と比較し、その原因を吟味し、その支配者を見つめる人は幸いである。神との経験を積もうとする者は、世俗に対して愚か者となり、人間の栄光を憎む者とならざるを得ない。 謙虚な心で自らの偉大さを隠す人は称賛に値する。そのような人は天使たちからも称賛される。 正義の守護者として、用心深い者にも時折見られる、不本意な欠点も考慮に入れなければならない。 怒りを抱く者との和解を求める祈りほど、すぐに聞き届けられる祈りはない。そして、自らに過ちがあると責めるなら、その祈りは速やかに聞き届けられる。もしあなたが自分の義務を果たし、自分の領域において用心深くありながら、自らの目には弱く卑しい者となり、人の栄光を憎むならば、あなたは確かに神の道を歩んでいると知りなさい。 [p.120] しかし、もしあなたがこの状態にないことに気づき、自分自身を探求したときに、非難の考えがあなたに苦痛を引き起こしていることに気づいたら、あなたは真実を欠いており、秘密裏に虚偽と関係していることを知ってください。 :::[[ニネベのイサアク神秘論文集/第23論文#第23論文|トップに戻る]] {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Chapter 23 を翻訳 --> h9ar4l8lshnncuauvemtbtv9f0nd007 ニネベのイサアク神秘論文集/第24論文 0 51244 230229 229621 2025-06-21T14:25:33Z 村田ラジオ 14210 カテゴリを加筆 230229 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|wikisource:宗教|ニネベのイサアク神秘論文集|hide=1}} {{header |title=ニネベのイサアク神秘論文集 |section=第24論文 |previous=[[../第23論文|第23論文]] |next =[[../第25論文|第25論文]] |year=1923 |override_translator = [[作者:アレント・ヤン・ヴェンシンク|A. J. ヴェンシンク]] |author= |notes= *底本: [[:nl:Arent Jan Wensinck|A. J. Wensinck]], [https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh"]. Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC) *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にねへのいさあくしんひろんふんしゆう24}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:ニネベのイサアク神秘論文集|24]] }} ::'''ニネベのイサアク神秘論文集''' ==第24論文== [p.120] << 兄弟が彼の居室で与えられるものについて。>> 一日のうちに、たとえあなたが彼にこの世の王国を与えたとしても、兄弟がその時、自分の独居室から出ることや、誰かに訪問されることを承諾しないということがよくあります。なぜなら、突然、商売の時<ref>多くの場合、霊的なもののイメージ</ref>が訪れたからです。このようなことは、休息の日と考えられている日に起こります。そのような日、そして他の人と交わっている日でさえ、しばしば突然の恵みが彼を訪れます。それは限りない涙、心を揺さぶる鮮烈な愛情、理由のない喜び、あるいは跪く喜びです。 ある兄弟が、自分の小屋の扉を閉めるために鍵を差し込んだことを知っています。聖書にもあるように<ref>伝道の書 1:14など。</ref>、彼はくだらないことに時間を費やすために外出しようとしていたのです。すると、恵みが訪れ、すぐに戻ってきました。ですから、教会法に定められた独居を守らない日に、たまたま会衆の奉仕を怠ったとしても、誰も彼を責めてはなりません。特に、彼が卑劣な人間だと思われたり、無益なことに手を染めたりせず、肉体労働のために奉仕を怠っているのでなければなおさらです。兄弟たちよ、あなたがたも知っているように、私たちの奉仕は人々の目の前でなされるだけでなく、人々の目から隠され、修練者や信徒には知られていない奉仕も担っています。あなたがたも知っているように、独居者は規則の下にあり、自ら主人となるのではありません。ですから、兄弟が訪ねてきて返事をしなかったとしても、兄弟を責めることなく、すぐに戻って来なければなりません。なぜなら、兄弟がその時何に取り組んでいるかを知らないからです。 [p.121] 独居者の独居房は、父祖たちが言うように、神が<u>モーセ</u>と語り合った岩の洞窟である。真の孤独の味を味わう奉仕によって試練を受けたことのない独居者は、これらのことを知らない。彼らは兄弟を軽蔑し、あらゆる点で兄弟と平等であると主張する。 兄弟が突然、避けられない争いに直面し、両手を胸に当てて、逃げ出しそうになることもあります。ひれ伏して神に祈りを捧げ、誰の声にも耐えることができません。こうした様々な状況は、かつてこの海を渡り、そこに吹く風を知っている者にはよく知られています。 また、悔い改めの思いが人の心に湧き上がり、突然、過去の記憶が死の記憶と結びついて目の前に現れることもあります。そして、輝かしい太陽は目の前から暗くなり、この世のあらゆる記憶が心から消え去るのです。 突如として波が押し寄せ、船が深淵に飲み込まれることもある。それは誰もが知ることではないが、<u>サタン</u>の激しい抵抗によって、孤独な孤独者を予期せず襲い、牢獄が悲しみの場と化す。 この海には数え切れないほどの変化が見られる。その営みと多様な繋がり、深淵に眠る素晴らしい真珠、そしてそこから這い上がる動物たちを、誰が知るだろうか。死の港に着くまで、航海の間ずっと眠らない人は幸いである。 何かを愛する者は、必ずそれとのつながりを増してゆかなければなりません。 この世のものを捨て去り、軽蔑することなくして、神聖なものに身を捧げることはできません。世俗的な名誉や快楽から離れ、十字架を軽蔑し、愛情や人間や悪魔や貧困のために、日々苦い苦悩を味わうようになるのです。 兄弟よ、用心深くあれ。思慮深い商人のように、真珠の輝きを放ち、世をさまよい、その素晴らしい美しさが汚されないように気を配りなさい。油断せずに真珠を盗まれ、地獄に堕ちて苦悩することのないよう、用心しなさい。 [p.122] 時宜を得た労働から得られる小さな慰めを追い求めなさい。そうすれば、苦悩の地で苦悩から解放される偉大な慰めを得るにふさわしい者と認められるでしょう。小さなことを拒んではなりません。そうしなければ、大きなものを失ってしまうでしょう。乳を吸いながら肉を口に入れる子供を見た者はいません。小さなことを通して、大きなものへの門が開かれるのです。神の支配なしに神があなたを統治することを望む兄弟よ、あなたは神を軽蔑しています。小さなことで試されずに、大きなことを託された者はいません。兄弟よ、このことを考え、時が来たら私のことを思い出してください。明日、あなたがこの卓越性と真理の知識の道において到達するあらゆる地位は、あなたが昨夜過ごした地位よりも、より輝かしく、より優れたものとなるでしょう。あなたは今日入った地位の美しさに驚きながら出発します。しかし、その美しさは、明日あなたが到達する地位の美しさによって消え去ります。喜びに満ちた心の変化する状態を誰が見抜くことができるでしょうか。ただ、門があなたの前に開かれるように祈ってください。 落胆に用心しなさい。あなたは暴君の下に仕えるのではない。あなたは慈悲深い主の下に仕えるのです。主はあなたから何も奪うことなく、あなたにすべてを与え、あなたが存在する前から、あなたが現在の地位を占めるように定めておられる。主が我々を存在へと召してくださったことを通して示された主の恵みを、誰が正当に評価できるだろうか。 ああ、主の計り知れない恵みよ!万物を知る知識を我々に与えてくださった主の栄光を、誰が十分に語り尽くせるだろうか。顕在するものだけでなく、隠されたものも知る。だからこそ、もし我々が知らないことがあれば、主に尋ね求めなければならないことを、我々は知っているのだ。ああ、死すべき者よ、あなたに、自らの本質にない知識を求める欲望に突き動かされるように教えたのは誰なのか。決して心の外にある慰め、すなわち識別の知識を求めてはならない。感覚によって与えられるあらゆる慰めを超越して自らを高めなさい。そうすれば、感覚を超えた慰めにふさわしい者となることができる。キリストの慰めを日々期待せず、世の慰めから疎外された孤独者は、生きた状態で死んでいる。 神は慈悲深く、惜しみなく与えてくださる。しかし、神は私たちが機会を与えることを望んでおられる。人が賢明な祈りを捧げるとき、神は喜ばれる。 [p.123] 病気から回復しつつある人の特徴は、隠されたものを切望していることである。しかし、本質的な健康を目の当たりにすると、遅れが生じる。求めることに疲れる人は、遅れることによって疲れる人の仲間である。疲労は祈りにおいて求めることを拒む。すなわち、それは求めることの妨げとなる。落胆は祈りを短くし、長引かせることを{{r|阻|はば}}む。期待は忍耐を与え、祈りを長引かせるよう促す。期待は手足の疲労の重みを軽くする。また、苦悩する心に安らぎを与えることもできる。期待を伴って働くことほど、荷の重さに耐えられるものはない。期待を伴って交わることほど、交わりを望む仲間もいない。牢獄は、もしそこにあれば、快適な住まいとなる。悔い改めた兄弟よ、それをあなたの友としなさい。そうすればあなたの苦闘の労苦を少しも感じなくなるであろう。あなたが独居室に居るならば、それはあなたと共にあるであろう。あなたが人々の間に居るならば、それに心を集中しなさい。そしてあなたの心が地上の何かに迷い込むことがあれば、この世界とその中にあるすべてのものはあなたにとって異質なものとなるであろう。あなたが眠るならば、それを寝床の友とし、眠りに包まれるまでそれと語り合いなさい。そうすれば堕落した思索はあなたの心に近づくことはないであろう。なぜならあなたの営みは非物質的なものであり、物質をまとい、その外観によって霊を動かすいかなる物体も、そこに姿を現すことはできないからである。そしていかなる悪魔的な思索も、物質的な外観から離れて姿を現すすべを知らないのである。 生命の実は、祈りにおける忍耐から芽生えます。そして、期待は、それを持つ人にとって祈りの助けとなります。祈るときは、希望をもって種を蒔く農夫を思い出しなさい。信仰をもって種を蒔く農夫の種を二倍にして報いてくださる方、神の国と神の義を求めることを現世のものよりも大切にしてくださる方は、約束されたとおり、私たちの祈りに耳を傾け、私たちの願いを聞き入れてくださるでしょう。アーメン。 :::[[ニネベのイサアク神秘論文集/第24論文#第24論文|トップに戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Chapter 24 を翻訳 --> nofpjl4fsz4fzn6rs7szcf9lno3gvxv ニネベのイサアク神秘論文集/第26論文 0 51245 230230 230209 2025-06-21T14:27:19Z 村田ラジオ 14210 カテゴリを加筆 230230 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|wikisource:宗教|ニネベのイサアク神秘論文集|hide=1}} {{header |title=ニネベのイサアク神秘論文集 |section=第26論文 |previous=[[../第25論文|第25論文]] |next =[[../第27論文|第27論文]] |year=1923 |override_translator = [[作者:アレント・ヤン・ヴェンシンク|A. J. ヴェンシンク]] |author= |notes= *底本: [[:nl:Arent Jan Wensinck|A. J. Wensinck]], [https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh"]. Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC) *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にねへのいさあくしんひろんふんしゆう26}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:ニネベのイサアク神秘論文集|26]] }} ::'''ニネベのイサアク神秘論文集''' ==第26論文== [p.128] << 「もし神が善であるのなら、なぜ神はこれらのことを起こすのですか」と言う人たちに対して。>> 罪、地獄、そして死は、神には全く存在しません。なぜなら、それらは事象であり、人格ではないからです。罪は意志の結実です。罪がなかった時代がありました。そして、罪がなくなる時代が来るでしょう。地獄は罪の結実です。いつかは始まりましたが、その終わりは知られていません。しかし、死は創造主の知恵によってもたらされます。それはある期間だけ自然を支配し、その後完全に消滅します。<u>サタン</u>とは、意志が真理から逸脱したものの呼び名であり、自然的存在の呼称ではありません。 兄弟よ、これらのことのいくつかは他の本にも書かれているが、他人の著作を自分のものであるかのように装う私たちは、自分自身の栄光を追い求める者とはみなされない。むしろ謙虚な者とみなされる。私たちは、先祖の乳を吸い、自分たちが牧草地で育ち、養われる蓄えによって知性を豊かにすることを目的に、熟考の対象として収集し、自分の前に置いたものから学ぶのである。 肉体に宿る限り、私たちは弟子の位より上にはいないことを忘れてはいない。識別力とは、自然観念の情動性である。これらが感情の中で自然な道を進むとき、それらは変化する要素や世界に遭遇する。しかし、副次的な道を進むとき、前者は別の用途を見出される。なぜなら、自然観念が知的な用途において二重であるとき、それらはそのうちの一つ、すなわち非精神的状態においてのみ理解されるからである。 あなたが礼拝の言葉の喜びを捉えるとき、心は絶えずそこに留まろうとする。しかし、あなたがその願いを叶えたいと願うなら、その原因を知るために急ぎなさい。あなたが盲目ではなく識別力のある者として、これを速やかに達成するならば、あなたがこの喜びを妨げられることなく絶えず味わうことは難しいことではない。 [p.129] では、原因とも呼ばれる影響とは何でしょうか? やすりによって、鉄は輝きと光り輝きます。なぜなら、これらの特性は鉄の本質に属しているからです。では、何が起こるでしょうか? やすりは、鉄に生じた錆を取り除きますが、その責任は誰にもありません。同じ理論が心の本質についても当てはまります。心をやすりと接触させてください。そうすれば、奉仕のときにそれが星の光を模倣して輝くのがわかるでしょう。物事は[助けなしには]進むことができません。誰かがそれを気にかけなければ、遅れるだけです。それゆえ、詩篇を朗読している間(心の祈りと朗読の間ではありません)、心はほとんど魅了されないと言いました。そうではない人たちには、わずかな注意が必要です。彼らは[詩篇の朗読]を有益なものにすることができます。しかし、それらがなければ、朗誦への配慮は無駄となるでしょう。前者が既に備わっているならば、たとえ他に増加がなくても、後者は促進されるでしょう<ref>最後の文の意味はよく分かりません。</ref>。 空腹は食物を獲得することはできるが、食べることを控える傾向はない。 農夫にとって、汗水たらして得たパンは{{r|美味|おい}}しい。それ以前に汗を流さなければ、真理というパンは満腹感を与えない。農夫たる肉体は汗をかき、理性的な精神を養う。そして、精神が習慣的な、非自然的な食物を奪われているときでさえ、このことは起こる。 精神的な卓越性は意志の卓越性の娘であり、必然的にそうなる。なぜなら、自由は理性の自然な力であり、奴隷ではないからです。しかし、自由が傾き、留まる側には、自然ではない別の力が生まれる。そして、この力が生まれると、自由は強制によって支配され、統制されるようになる。あえて言うなら、自由は束縛され、自制を失う。かつて、強制は自発的なものだった。今や、強制は意志を支配している。 そして私は、人が右の側で自らを抑制し、左の側に機会を与えるとき、このことは両側で見られると言う。しかし、識別力のある見方を学んだ心は、自然からではない力が意志の服従から生まれるとき、両側の強制がいかに自由を支配しているかを観察することができる。私が言っているのは、非常に扱いにくい通常の力ではなく、いわゆる二次的な力である。 [p.130] いずれにせよ、習慣は意志に従属する。たとえ意志に抵抗しようと努めても。これとは別に、私たちは二つの力を知っている。一つは意志を抑制し、もう一つは自然を支配する。そして、それは自然を変える力さえも持っている。その影響が自然を支配することは、それによって試練を受けた人々にはよく知られている。 心の様々な状態、そしてそこから通常生じる逸脱した精神(自由と束縛、生と死)は、神の審判に関して人間の心に生じる思索の不均衡<ref>不平等とは、その反意語と同様に、同系作品にしばしば現れる用語であるが、明確な定義を与えることは容易ではない。ディオニュシオス・アレオパギテスはこの概念に精通していた。ディオニュシオスは、平等は神の特性であり、ある程度正義に対応すると主張する。それは、神が複雑に絡み合ったものではなく、宇宙全体に平等に浸透し、到達することを意味する。文献を遡ると、この用語はネオプラトニストにも見られる。重要なのは、プロティノスの次の一節である。(エネアデス、III,II,§17)</ref>によって大きく促進されます。この不均衡を媒介として、世界は数千年にわたって維持されてきました。この不均衡は、死すべき人生の進路を変えるのに大いに役立ち、そして何よりも重要なのは、神への信頼を生み出す審判についての思索を促すことです。 多くの心は、信頼が芽生えるや否や、猛毒を飲んだ人のようになります。 真実で誠実な息子たちでさえ、愛の十に恐れの五が混じり合っている。 逸脱しやすい性質は、ここで神の真理の完全性を受け入れることも、理性的な存在の集団に関する神の意志の全体を知ることもできない。<u>パウロ</u>と同等の者でさえ、これには十分ではない。誤る傾向が取り除かれ、自然がもはやそのことを意識することによって誤ることがなくなるまでは。 [p.131] 同等と不均衡とは何か? 観想の不均衡、つまり一つの魂における不均衡と変化は、神に到達できないという永遠の思想である。同等とは、真理が明らかにされることである。 誤る性質を持つ者がこの世で正確な真理を受け取ったとしても、誤る性質の力によって滅びるであろう。これは「ああ、富の深さよ」<ref>ローマ 11,33</ref>、「神の裁きは何と測り知れないことか」「誰が神の御心を知っていたか」といった言葉であり、これらは時折、驚くべき方法で、ため息とともに心に湧き上がり、ある者はそれを雲と呼ぶ。そこから、神の裁きについての到達不可能な探求に関して、観想の不一致と洞察の相違が生じる。 しかし、自然の完成が訪れ、逸脱のない世界が到来すると、自然はもはや神の真理を知ることを恐れなくなるでしょう。まるで信頼ゆえに左に逸れてしまうかのように。信頼は軽蔑と精神の豊かさを生み出します。一方、恐れは逸脱を抑制し、抑制する傾向があります。この恐れは、様々な審判と世界、行動の不均衡、この世で人々に与えられる報いと時折現れる正義との不整合、神の絶え間ない忍耐、義人と罪人、そして摂理によって定められた、相容れない人々の相反する不調和な出会いを熟考することによって、あなたの魂の中に見出されるのです。知性がこれらすべてを観察するとき、感情が魂全体を捉えます。そして、熟考、言葉、行動、そして神の正義の領域の輪郭についての考察が生まれます。 さて、知性がこのことから退き、すべての存在に先立つ永遠の知識を有する善なる性質<ref>つまり神</ref>、そして他のすべての存在の性質を観想することによって、唯一の本質へと高められるとき、恐れはたちまち追い払われ、心は確信によって支えられる。 知性が再びその場所から降り、世界とその区別へと戻るとき、知性は逃げ去り、恐れに屈する。なぜなら、摂理は知性が常にこの真理の観想の前にいることを許さないからである。 [p.132] それゆえ、時折[恐れ]は真の観想によって湧き上がる信頼の力を心から奪い、知性を様々な意見によって苦しめるであろう。[知性が]その思索と行動の真実性を絶えず判断することを止め、こうして用心深さを身につけないようにするためである。なぜなら、知性は神の審判にどのように直面するかを知らないからである。永遠に主を讃えます。アーメン。 :::[[ニネベのイサアク神秘論文集/第26論文#第26論文|トップに戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Chapter 26 を翻訳 --> qmx74wsljzw8iyfj7cuvuyk8q1bxarj カテゴリ:松山市の町・字 14 51432 230223 2025-06-21T12:16:04Z 特急いよのたみ 34488 ページの作成:「{{Plain sister|wikipedia=カテゴリ:松山市の町・字}} 現在の愛媛県松山市域にあたる区域の町若しくは字に関する法令等に関するカテゴリ。 {{-}} {{カテゴリ検索}} [[カテゴリ:松山市|まちあさ]] [[カテゴリ:愛媛県の町・字|まつやまし]]」 230223 wikitext text/x-wiki {{Plain sister|wikipedia=カテゴリ:松山市の町・字}} 現在の愛媛県松山市域にあたる区域の町若しくは字に関する法令等に関するカテゴリ。 {{-}} {{カテゴリ検索}} [[カテゴリ:松山市|まちあさ]] [[カテゴリ:愛媛県の町・字|まつやまし]] jy0pjj42by99w7op77pjfpo1jglfxf9 ニネベのイサアク神秘論文集/第59論文 0 51433 230226 2025-06-21T14:16:33Z 村田ラジオ 14210 A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Chapter 59を翻訳 230226 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|wikisource:宗教|ニネベのイサアク神秘論文集|hide=1}} {{header |title=ニネベのイサアク神秘論文集 |section=第59論文 |previous=[[../第58論文|第58論文]] |next=[[../第60論文|第60論文]] |year=1923 |override_translator = [[作者:アレント・ヤン・ヴェンシンク|A. J. ヴェンシンク]] |author= |notes= *底本: [[:nl:Arent Jan Wensinck|A. J. Wensinck]], [https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh"]. Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC) *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にねへのいさあくしんひろんふんしゆう59}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:ニネベのイサアク神秘論文集|59]] }} ::'''ニネベのイサアク神秘論文集''' ==第59論文== << 有益な談話 >> [p.278] 神への愛と「世」への愛を両立させることはできない、また「世」と神とを交わらせることもできない、「世」への思いと神への思いを両立させることもできない、と主が言われたことは真実です。虚栄心と結びついたすべてのことは別として、私たちの多くは一般に肉体的な欠乏のために道を踏み外してしまいます。私たちは天の国に仕えると約束しながらも、主が言われた約束を忘れているのです。「もしあなたがたの思い煩いを天の国にすべて委ねるなら、わたしはあなたがたに感覚的な必要物に乏しいままにしておかない。しかし、これらのものは、あなたがたが困窮したときにその必要について考える前に、自然にあなたがたに与えられるであろう。もっとも、わたしは、あなたがたにそれらのことへの思い煩いのゆえに不足させはしないのだが。」 神は、あなた方のために創造された魂のない鳥にまで配慮を与えておられる。なのに、正義を重んじるあなた方を無視してよいだろうか? 霊的なものを部分的にでも重んじる人には、たとえ彼が備えなくても、必要に応じて、そして時宜にかなった方法で、肉体的なものが備えられている。 最後に挙げた事柄に、ふさわしくないほど気を遣う者は、たとえ無意識であっても、神から離れてしまいます。私たちが主の名にかかわる事柄に気を遣う間、神は、私たちの気遣いの度合いと、それぞれの必要の大きさに応じて、両方を与えてくださいます。しかし、私たちは、労働の報酬として、これらの肉体的な事柄について神に気を遣っていただくよう求めるべきではなく、将来の希望に全力を尽くして奉仕すべきです。なぜなら、いったん魂の愛をもって美徳に身を捧げ、全身全霊で徳への奉仕を切望する者は、肉体的な事柄があってもなくても、それに気を遣うことは考えないからです。徳の友がそのような事柄に誘惑されることを、神は何度お許しになることでしょう。それだけでなく、神は<u>ヨブ</u>の場合のように、あらゆる方面から多くの悪が彼らを襲うことさえお許しになり、彼らの体を打たれます。彼らに貧困を許し、人間としての地位を奪い、彼らが所有するすべてのものを奪い取るが、ただその制限として、疫病が彼らの命に及ばないようにする。 [p.279] 本当に優れた人生を送りたいと願うなら、正義の道を歩みながら、何の苦難にも悩まされず、身体が病気や痛みに悩まされず、変化のない状態を保てるということはあり得ません。しかし、人が故意に自殺したり、自分を傷つけたり、何らかの形で自分を傷つけたりすることは、断罪の原因となります。正義の道を歩み、多くの仲間と共に神への道を歩んでいるのに、その途中でこれらのことの1つでも傷ついたとしても、それることはふさわしいことではありません。むしろ、ためらうことなく喜んでそれを受け入れ、神がその賜物を与えてくださったことに感謝しなければなりません。神のおかげで、彼は誘惑に巻き込まれるにふさわしい者とみなされ、神の道のために苦難に耐えた預言者や使徒、その他の聖徒たちの苦しみに加わるようになったのです。 [神に感謝]それは、たとえそれが人々を通してであれ、悪霊を通してであれ、肉体を通してであれ、彼が優れた道のために苦難を受けるにふさわしい者とみなされたからです。 これらのことは神の意志なしには許されず、あなたが義と認められるために起こるのです。なぜなら、神と共にいようと願う者に、神が優れた者となる機会を与えるには、真理のために試練に遭わせる以外に方法がないからです。 人間は、これらの神聖な事柄のために喜んで試練に遭うほどの偉大さに値し、<u>キリスト</u>からの賜物によってのみ、そのようになることができるということを、使徒<u>パウロ</u>は証明しています。この賜物は非常に偉大なので、<u>パウロ</u>は公然とそれを賜物と呼び、神への希望のために信仰によって苦しむ用意をするようにと命じてこう言っています。「あなたがたには、<u>キリスト</u>を信じるだけでなく、<u>キリスト</u>のために苦しむことも、神から与えられているのです」<ref>ピリピ 1:29</ref>。 ですから、あなたたちを世の闇の支配から救い出し、御子の御国に近づけ、光の中にいる聖徒たちの分にあずかるために、神のために苦しんだすべての光の子らの仲間としてくださった方に、絶えず感謝しなさい。 [p.280] <u>ペテロ</u>は手紙の中でこう書いています。「しかし、もしあなたがたが義のために苦しむなら、あなたがたは幸いです<ref>1ペテロ 3:14</ref>。あなたがたは<u>キリスト</u>の苦しみにあずかることになるからです。ですから、苦難から解放されたとき、喜び躍ってはいけません。また、困難に見舞われたとき、それを神の道に反するものとして、悲しみで顔を覆ってはいけません。」 見なさい、数世代にもわたって、神の道は十字架と死によって平坦にされてきた。なぜあなたは、道の苦難をまるで道の外にあるかのように見ているのか。聖徒たちの{{r|足跡|そくせき}}を{{r|辿|たど}}ることを望まないのか。それとも、苦しみのない、特にあなたのための道を歩むことを望まないのか。神に至る道は日々の十字架である。誰も慰められて天に昇ることはできない。私たちは慰めの道がどこへ通じるかを知っている。 もし誰かが心から神に身を委ねるなら、神は決してその人から心配、すなわち真理のための心配を取り去ろうとはされない。しかし、神が絶えず苦難を送る時、その人は神に導かれていることを知る。しかし、苦難に導かれる者は、神の配慮によって、特に兄弟たちの足に接吻し、彼らの欠点を自分の欠点であるかのように隠す悪霊の手に落ちることを決して許されない。 この世で何の心配もなく、高潔さに導かれることを望む者は、この道を忌み嫌う。ある聖なる注釈者が<u>マタイ</u>による福音書の解釈の中で述べているように、「高潔さを切望する者にとって、苦悩から逃れることは不可能である。なぜなら、魂が逆らう力と闘うほど、苦悩は必然的に増大するからである。しかし、苦悩が魂を去るとき、魂はまず自らに属するものを去るのである。」 何の心配もなく高潔さに導かれていると語る者は、高潔さが魂の中でどこから生まれるのかさえ知らない。なぜなら、私たちは高潔さを支配するものが何であるかを知っているからである。誘惑によって、天国の門は魂の前に開かれる。私たちの父祖たちは、このように私たちを導いてきた。神は、聖徒たちに争いに勝利を与え、彼らの思索が将来の希望から逸れることのないようにしてくださる。そして、彼らの祈りを通して私たちを守り、助けてくださるであろう。アーメン。 [p.281] 義人は、自らの意志によって美しい業に秀でるだけでなく、不本意な誘惑にあっても、忍耐の精神によって大いに優れています。なぜなら、彼らはこの世のあらゆる苦難を勇敢に耐え、この世の驚くべき報いを期待するからです。神への畏れに固執する魂は、肉体に害を及ぼすものに対しても恐れることはありません。 :::[[ニネベのイサアク神秘論文集/第59論文#第59論文|トップに戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A. 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