Wikisource
jawikisource
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
MediaWiki 1.45.0-wmf.8
first-letter
メディア
特別
トーク
利用者
利用者・トーク
Wikisource
Wikisource・トーク
ファイル
ファイル・トーク
MediaWiki
MediaWiki・トーク
テンプレート
テンプレート・トーク
ヘルプ
ヘルプ・トーク
カテゴリ
カテゴリ・トーク
作者
作者・トーク
Page
Page talk
Index
Index talk
TimedText
TimedText talk
モジュール
モジュール・トーク
檸檬
0
8025
230396
229095
2025-07-07T16:08:15Z
Hideokun
2025
230396
wikitext
text/x-wiki
{{header
|title=檸檬
|year=
|author=梶井基次郎
|translator=
|edition=yes
|notes=
{{DEFAULTSORT:れもん}}
[[カテゴリ:梶井基次郎]]
[[Category:日本の近代文学]]
{{Textquality|100%}}
}}
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終{{r|圧|おさ}}えつけていた。{{r|焦躁|しょうそう}}と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに{{r|宿酔|ふつかよい}}があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した{{r|肺尖|はいせん}}カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を{{r|居堪|いたたま}}らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。
{{r|何故|なぜ}}だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったり{{傍点|がらくた}}が転がしてあったりむさくるしい部屋が{{r|覗|のぞ}}いていたりする裏通りが好きであった。雨や風が{{r|蝕|むしば}}んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、{{r|土塀|どべい}}が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような{{r|向日葵|ひまわり}}があったりカンナが咲いていたりする。
時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な{{r|蒲団|ふとん}}。{{r|匂|にお}}いのいい{{r|蚊帳|かや}}と{{r|糊|のり}}のよくきいた{{r|浴衣|ゆかた}}。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。{{r|希|ねが}}わくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。
私はまたあの花火というやつが好きになった。花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、さまざまの{{r|縞模様|しまもよう}}を持った花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。それから{{r|鼠花火|ねずみはなび}}というのは一つずつ輪になっていて箱に詰めてある。そんなものが変に私の心を{{r|唆|そそ}}った。
それからまた、{{傍点|びいどろ}}という色{{r|硝子|ガラス}}で鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、{{r|南京玉|なんきんだま}}が好きになった。またそれを{{r|嘗|な}}めてみるのが私にとってなんともいえない享楽だったのだ。あの{{傍点|びいどろ}}の味ほど{{r|幽|かす}}かな涼しい味があるものか。私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなって落ち{{r|魄|ぶ}}れた私に{{r|蘇|よみが}}えってくる{{r|故|せい}}だろうか、まったくあの味には{{r|幽|かす}}かな{{r|爽|さわ}}やかななんとなく詩美と言ったような味覚が漂って来る。
察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。とは言えそんなものを見て少しでも心の動きかけた時の私自身を慰めるためには{{r|贅沢|ぜいたく}}ということが必要であった。二銭や三銭のもの――と言って贅沢なもの。美しいもの――と言って無気力な私の触角にむしろ{{r|媚|こ}}びて来るもの。――そう言ったものが自然私を慰めるのだ。
生活がまだ{{r|蝕|むしば}}まれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。{{r|洒落|しゃれ}}た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や{{r|翡翠色|ひすいいろ}}の{{r|香水壜|こうすいびん}}。{{r|煙管|きせる}}、小刀、{{r|石鹸|せっけん}}、{{r|煙草|たばこ}}。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。しかしここももうその頃の私にとっては重くるしい場所に過ぎなかった。書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった。
ある朝――その頃私は甲の友達から乙の友達へというふうに友達の下宿を転々として暮らしていたのだが――友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一人取り残された。私はまたそこから{{r|彷徨|さまよ}}い出なければならなかった。何かが私を追いたてる。そして街から街へ、先に言ったような裏通りを歩いたり、駄菓子屋の前で立ち{{r|留|ど}}まったり、乾物屋の{{r|乾蝦|ほしえび}}や{{r|棒鱈|ぼうだら}}や{{r|湯葉|ゆば}}を眺めたり、とうとう私は二条の方へ寺町を{{r|下|さが}}り、そこの果物屋で足を{{r|留|と}}めた。ここでちょっとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い{{r|漆塗|うるしぬ}}りの板だったように思える。何か華やかな美しい音楽の{{r|快速調|アッレグロ}}の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに{{r|凝|こ}}り固まったというふうに果物は並んでいる。青物もやはり奥へゆけばゆくほど{{r|堆|うず}}高く積まれている。――実際あそこの{{r|人参葉|にんじんば}}の美しさなどは{{r|素晴|すばら}}しかった。それから水に{{r|漬|つ}}けてある豆だとか{{r|慈姑|くわい}}だとか。
またそこの家の美しいのは夜だった。寺町通はいったいに{{r|賑|にぎや}}かな通りで――と言って感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるが――飾窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている。それがどうしたわけかその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ。もともと片方は暗い二条通に接している街角になっているので、暗いのは当然であったが、その隣家が寺町通にある家にもかかわらず暗かったのが{{r|瞭然|はっきり}}しない。しかしその家が暗くなかったら、あんなにも私を誘惑するには至らなかったと思う。もう一つはその家の打ち出した{{r|廂|ひさし}}なのだが、その廂が{{r|眼深|まぶか}}に冠った帽子の廂のように――これは形容というよりも、「おや、あそこの店は帽子の廂をやけに下げているぞ」と思わせるほどなので、廂の上はこれも真暗なのだ。そう周囲が真暗なため、店頭に{{r|点|つ}}けられた幾つもの電燈が{{r|驟雨|しゅうう}}のように浴びせかける{{r|絢爛|けんらん}}は、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。裸の電燈が細長い{{r|螺旋棒|らせんぼう}}をきりきり眼の中へ刺し込んでくる往来に立って、また近所にある{{r|鎰屋|かぎや}}の二階の{{r|硝子|ガラス}}窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも{{r|稀|まれ}}だった。
その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい{{r|檸檬|れもん}}が出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの{{r|丈|たけ}}の詰まった紡錘形の{{r|恰好|かっこう}}も。――結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか{{r|弛|ゆる}}んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに{{r|執拗|しつこ}}かった憂鬱が、そんなものの{{r|一顆|いっか}}で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。
その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は{{r|肺尖|はいせん}}を悪くしていていつも身体に熱が出た。事実友達の{{r|誰彼|だれかれ}}に私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱い{{r|故|せい}}だったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。
私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては{{r|嗅|か}}いでみた。それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻を{{r|撲|う}}つ」という言葉が{{r|断|き}}れぎれに浮かんで来る。そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。……
実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に思える――それがあの頃のことなんだから。
私はもう往来を軽やかな昂奮に弾んで、一種誇りかな気持さえ感じながら、美的装束をして街を{{r|𤄃歩|かっぽ}}した詩人のことなど思い浮かべては歩いていた。汚れた手拭の上へ載せてみたりマントの上へあてがってみたりして色の反映を{{r|量|はか}}ったり、またこんなことを思ったり、
――つまりはこの重さなんだな。――
その重さこそ{{r|常|つね}}づね尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さであるとか、思いあがった{{r|諧謔心|かいぎゃくしん}}からそんな馬鹿げたことを考えてみたり――なにがさて私は幸福だったのだ。
どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。平常あんなに避けていた丸善がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。
「今日は{{r|一|ひと}}つ入ってみてやろう」そして私はずかずか入って行った。
しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。香水の壜にも{{r|煙管|きせる}}にも私の心はのしかかってはゆかなかった。憂鬱が立て{{r|罩|こ}}めて来る、私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。私は画本の棚の前へ行ってみた。画集の重たいのを取り出すのさえ常に増して力が要るな! と思った。しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る。それも同じことだ。それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。それ以上は{{r|堪|たま}}らなくなってそこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえできない。私は幾度もそれを繰り返した。とうとうおしまいには日頃から大好きだったアングルの{{r|橙色|だいだいろ}}の重い本までなおいっそうの{{r|堪|た}}えがたさのために置いてしまった。――なんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めていた。
以前にはあんなに私をひきつけた画本がどうしたことだろう。一枚一枚に眼を{{r|晒|さら}}し終わって後、さてあまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持を、私は以前には好んで味わっていたものであった。……
「あ、そうだそうだ」その時私は{{r|袂|たもと}}の中の{{r|檸檬|れもん}}を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」
私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また{{r|慌|あわただ}}しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る{{r|檸檬|れもん}}を据えつけた。そしてそれは上出来だった。
見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は{{r|埃|ほこり}}っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
――それをそのままにしておいて私は、なに{{r|喰|く}}わぬ顔をして外へ出る。――
私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。
変にくすぐったい気持が街の上の私を{{r|微笑|ほほえ}}ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も{{r|粉葉|こっぱ}}みじんだろう」
そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を{{r|彩|いろど}}っている京極を下って行った。
<!--著作権の状況に応じて以下のタグを適切なものに置き換えてください-->
{{PD-Japan-auto-expired|deathyear=1932}}
qxi3oi1nnm9917uj9evmx55stocv289
230397
230396
2025-07-07T16:09:04Z
Hideokun
2025
230397
wikitext
text/x-wiki
{{header
|title=檸檬
|year=
|author=梶井基次郎
|translator=
|edition=yes
|notes=
*底本:1968(昭和43)年4月5日中央公論社発行『日本の文学36 滝井孝作 梶井基次郎 中島敦』
{{DEFAULTSORT:れもん}}
[[カテゴリ:梶井基次郎]]
[[Category:日本の近代文学]]
{{Textquality|100%}}
}}
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終{{r|圧|おさ}}えつけていた。{{r|焦躁|しょうそう}}と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに{{r|宿酔|ふつかよい}}があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した{{r|肺尖|はいせん}}カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を{{r|居堪|いたたま}}らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。
{{r|何故|なぜ}}だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったり{{傍点|がらくた}}が転がしてあったりむさくるしい部屋が{{r|覗|のぞ}}いていたりする裏通りが好きであった。雨や風が{{r|蝕|むしば}}んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、{{r|土塀|どべい}}が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような{{r|向日葵|ひまわり}}があったりカンナが咲いていたりする。
時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な{{r|蒲団|ふとん}}。{{r|匂|にお}}いのいい{{r|蚊帳|かや}}と{{r|糊|のり}}のよくきいた{{r|浴衣|ゆかた}}。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。{{r|希|ねが}}わくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。
私はまたあの花火というやつが好きになった。花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、さまざまの{{r|縞模様|しまもよう}}を持った花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。それから{{r|鼠花火|ねずみはなび}}というのは一つずつ輪になっていて箱に詰めてある。そんなものが変に私の心を{{r|唆|そそ}}った。
それからまた、{{傍点|びいどろ}}という色{{r|硝子|ガラス}}で鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、{{r|南京玉|なんきんだま}}が好きになった。またそれを{{r|嘗|な}}めてみるのが私にとってなんともいえない享楽だったのだ。あの{{傍点|びいどろ}}の味ほど{{r|幽|かす}}かな涼しい味があるものか。私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなって落ち{{r|魄|ぶ}}れた私に{{r|蘇|よみが}}えってくる{{r|故|せい}}だろうか、まったくあの味には{{r|幽|かす}}かな{{r|爽|さわ}}やかななんとなく詩美と言ったような味覚が漂って来る。
察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。とは言えそんなものを見て少しでも心の動きかけた時の私自身を慰めるためには{{r|贅沢|ぜいたく}}ということが必要であった。二銭や三銭のもの――と言って贅沢なもの。美しいもの――と言って無気力な私の触角にむしろ{{r|媚|こ}}びて来るもの。――そう言ったものが自然私を慰めるのだ。
生活がまだ{{r|蝕|むしば}}まれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。{{r|洒落|しゃれ}}た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や{{r|翡翠色|ひすいいろ}}の{{r|香水壜|こうすいびん}}。{{r|煙管|きせる}}、小刀、{{r|石鹸|せっけん}}、{{r|煙草|たばこ}}。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。しかしここももうその頃の私にとっては重くるしい場所に過ぎなかった。書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった。
ある朝――その頃私は甲の友達から乙の友達へというふうに友達の下宿を転々として暮らしていたのだが――友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一人取り残された。私はまたそこから{{r|彷徨|さまよ}}い出なければならなかった。何かが私を追いたてる。そして街から街へ、先に言ったような裏通りを歩いたり、駄菓子屋の前で立ち{{r|留|ど}}まったり、乾物屋の{{r|乾蝦|ほしえび}}や{{r|棒鱈|ぼうだら}}や{{r|湯葉|ゆば}}を眺めたり、とうとう私は二条の方へ寺町を{{r|下|さが}}り、そこの果物屋で足を{{r|留|と}}めた。ここでちょっとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い{{r|漆塗|うるしぬ}}りの板だったように思える。何か華やかな美しい音楽の{{r|快速調|アッレグロ}}の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに{{r|凝|こ}}り固まったというふうに果物は並んでいる。青物もやはり奥へゆけばゆくほど{{r|堆|うず}}高く積まれている。――実際あそこの{{r|人参葉|にんじんば}}の美しさなどは{{r|素晴|すばら}}しかった。それから水に{{r|漬|つ}}けてある豆だとか{{r|慈姑|くわい}}だとか。
またそこの家の美しいのは夜だった。寺町通はいったいに{{r|賑|にぎや}}かな通りで――と言って感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるが――飾窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている。それがどうしたわけかその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ。もともと片方は暗い二条通に接している街角になっているので、暗いのは当然であったが、その隣家が寺町通にある家にもかかわらず暗かったのが{{r|瞭然|はっきり}}しない。しかしその家が暗くなかったら、あんなにも私を誘惑するには至らなかったと思う。もう一つはその家の打ち出した{{r|廂|ひさし}}なのだが、その廂が{{r|眼深|まぶか}}に冠った帽子の廂のように――これは形容というよりも、「おや、あそこの店は帽子の廂をやけに下げているぞ」と思わせるほどなので、廂の上はこれも真暗なのだ。そう周囲が真暗なため、店頭に{{r|点|つ}}けられた幾つもの電燈が{{r|驟雨|しゅうう}}のように浴びせかける{{r|絢爛|けんらん}}は、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。裸の電燈が細長い{{r|螺旋棒|らせんぼう}}をきりきり眼の中へ刺し込んでくる往来に立って、また近所にある{{r|鎰屋|かぎや}}の二階の{{r|硝子|ガラス}}窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも{{r|稀|まれ}}だった。
その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい{{r|檸檬|れもん}}が出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの{{r|丈|たけ}}の詰まった紡錘形の{{r|恰好|かっこう}}も。――結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか{{r|弛|ゆる}}んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに{{r|執拗|しつこ}}かった憂鬱が、そんなものの{{r|一顆|いっか}}で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。
その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は{{r|肺尖|はいせん}}を悪くしていていつも身体に熱が出た。事実友達の{{r|誰彼|だれかれ}}に私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱い{{r|故|せい}}だったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。
私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては{{r|嗅|か}}いでみた。それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻を{{r|撲|う}}つ」という言葉が{{r|断|き}}れぎれに浮かんで来る。そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。……
実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に思える――それがあの頃のことなんだから。
私はもう往来を軽やかな昂奮に弾んで、一種誇りかな気持さえ感じながら、美的装束をして街を{{r|𤄃歩|かっぽ}}した詩人のことなど思い浮かべては歩いていた。汚れた手拭の上へ載せてみたりマントの上へあてがってみたりして色の反映を{{r|量|はか}}ったり、またこんなことを思ったり、
――つまりはこの重さなんだな。――
その重さこそ{{r|常|つね}}づね尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さであるとか、思いあがった{{r|諧謔心|かいぎゃくしん}}からそんな馬鹿げたことを考えてみたり――なにがさて私は幸福だったのだ。
どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。平常あんなに避けていた丸善がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。
「今日は{{r|一|ひと}}つ入ってみてやろう」そして私はずかずか入って行った。
しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。香水の壜にも{{r|煙管|きせる}}にも私の心はのしかかってはゆかなかった。憂鬱が立て{{r|罩|こ}}めて来る、私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。私は画本の棚の前へ行ってみた。画集の重たいのを取り出すのさえ常に増して力が要るな! と思った。しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る。それも同じことだ。それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。それ以上は{{r|堪|たま}}らなくなってそこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえできない。私は幾度もそれを繰り返した。とうとうおしまいには日頃から大好きだったアングルの{{r|橙色|だいだいろ}}の重い本までなおいっそうの{{r|堪|た}}えがたさのために置いてしまった。――なんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めていた。
以前にはあんなに私をひきつけた画本がどうしたことだろう。一枚一枚に眼を{{r|晒|さら}}し終わって後、さてあまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持を、私は以前には好んで味わっていたものであった。……
「あ、そうだそうだ」その時私は{{r|袂|たもと}}の中の{{r|檸檬|れもん}}を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」
私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また{{r|慌|あわただ}}しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る{{r|檸檬|れもん}}を据えつけた。そしてそれは上出来だった。
見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は{{r|埃|ほこり}}っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
――それをそのままにしておいて私は、なに{{r|喰|く}}わぬ顔をして外へ出る。――
私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。
変にくすぐったい気持が街の上の私を{{r|微笑|ほほえ}}ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も{{r|粉葉|こっぱ}}みじんだろう」
そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を{{r|彩|いろど}}っている京極を下って行った。
<!--著作権の状況に応じて以下のタグを適切なものに置き換えてください-->
{{PD-Japan-auto-expired|deathyear=1932}}
4gkd4sj45sa7tn146hfqes5qej3nf0b
半七捕物帳 第二巻/一つ目小僧
0
21276
230399
216296
2025-07-07T16:17:04Z
Hideokun
2025
230399
wikitext
text/x-wiki
{{header
| title = 『[[半七捕物帳]]』(はんしちとりものちょう)
|section= 第二巻/一つ目小僧
|previous=[[半七捕物帳 第二巻/雷獣と蛇|雷獣と蛇]]
|next=[[半七捕物帳 第二巻/勘平の死|勘平の死]]
|author=岡本綺堂
|notes=
*底本:1999年10月10日春陽堂書店発行『半七捕物帳第二巻』
{{デフォルトソート:はんしちとりものちよう205}}
[[Category:半七捕物帳|205]]
[[Category:岡本綺堂]]
}}
== {{r|一|ひと}}つ{{r|目|め}}{{r|小僧|こぞう}} ==
=== 一 ===
:{{r|嘉永|かえい}}五年八月のなかばである。{{r|四谷|よつや}}{{r|伝馬町|でんまちょう}}の大通りに小鳥を売っている{{r|野島屋|のじまや}}の店さきに、草履取りをつれた一人の侍が立った。あしたの晩は十五夜だというので、{{r|芒売|すすきう}}りを呼び込んで値をつけていた亭主の{{r|喜右衛門|きえもん}}は、相手が武家とみて丁寧に{{r|会釈|えしゃく}}した。野島屋はここらでも古い店で、いろいろの美しい小鳥が籠のなかで頻りに{{r|囀|さえず}}っているのを、侍は眼にもかけないような風で、ずっと店の奥へはいって来た。
:「亭主。よい{{r|鶉|うずら}}はないか」
:「ござります」と、喜右衛門は誇るように答えた。かれは半月ほど前に金十五両の鶉を手に入れていたのであった。
:「見せてくれぬか」
:「はい、{{r|穢|きたな}}いところでございますが、どうぞおあがり下さい」
:侍は年のころ四十前後で、{{r|生平|きびら}}の{{r|帷子|かたびら}}に、同じ麻を鼠に染めた{{r|打|ぶ}}っ{{r|裂|さ}}き羽織をきて、夏袴をつけて{{r|雪駄|せった}}をはいている。その人品も卑しくない。まず相当の旗本の主人であろうと推量して、喜右衛門も疎略には扱わなかった。かれはこの主従に茶を出して、それから奥へはいって一つの鶉籠をうやうやしくささげ出して来た。その価は十五両と聞いて、侍はすこし首をかしげていたが、とうとうそれを買うことになって、手付けの一両を置いて行った。
:「明朝さるところへ持参しなければならぬのだから、気の毒だが今晩中に屋敷までとどけてくれ」
:その屋敷は{{r|新宿|しんじゅく}}の{{r|新屋敷|しんやしき}}で、{{r|細井|ほそい}}といえばすぐに判るとのことであった。どこへか持参するというからは、なにかの事情で{{r|権門|けんもん}}へ遣い物にするのであろうと喜右衛門は推量した。立ちぎわに侍はまた念を押した。
:「かならず間違い無しにとどけてくれ。あと金は引きかえに遣わすぞ」
:しかし自分はこれから{{r|他|よそ}}へ寄り道して帰るから、日が暮れてから持参してくれといった。喜右衛門はすべて承知して別れた。前に『雷獣と蛇』の中にも説明してある通り、新宿の新屋敷というのは今の{{r|千駄ケ谷|せんだがや}}の一部で、そこには大名の下屋敷や、旗本屋敷や、小さい御家人などの住居もあるが、うしろは一面の田畑で、路ばたに大きい竹藪や草原などもあって、昼でも随分さびしいところとして知られていた。そこへ日が暮れてから出向くのは少し難儀だとも思ったが、これも商売である。まして十五両という大きい商いをするのであるから、喜右衛門も{{r|忌応|いやおう}}は云っていられなかった。勿論、ほかに奉公人もあるが、{{r|高値|こうじき}}の売り物をかかえて武家屋敷へ出向くのであるから、主人自身がゆくことにして、喜右衛門は日の暮れるのを待っていた。
:きょうは朝から薄く{{r|陰|くも}}って、あしたの名月をあやぶませるような空模様であったが、午後からの雲はいよいよ暗くなって、今にも小雨がほどほろと落ちて来そうにも見えた。旧暦の八月なかばで、朝夕はめっきりと涼しくなったが、きょうは袂涼しいのを通り越して、{{r|単衣|ひとえ}}襟が薄ら寒いほど冷たい風がながれて来た。天竜寺の暮れ六ツをきいて喜右衛門は夕飯をくっていると、昼間の草履取りが再び野島屋の店さきに立った。
:「あの辺はさびしいところではあり、路が暗い。屋敷をさがすのに難儀であろうから、おまえが行って案内してやれと殿様が仰った。支度がよければすぐに来てください」
:「それは御苦労さまでござります」
:「案内者が来てくれたので喜右衛門はよろこんだ。早々に飯をくってしまって、かのうずら籠をかかえて店を出ると、表はもう暗かった。草履取りの{{r|中間|ちゅうげん}}と話ししながら新宿の方へ急いでゆくうちに、細かい雨がふたりの額のうえに冷たく落ちて来た。
:「とうとう降って来た」と、中間は舌打ちした。
:「あしたもどうでしょうかな」
:こんな話をしながら、ふたりは足を早めてゆくと、やがて新屋敷にたどり着いた。小雨の降る秋の宵で、さびしい屋敷町は灯のひかりも見えない闇の底に沈んでいた。中間は或る屋敷のくぐり門から喜右衛門を案内してはいった。屋敷のなかも薄暗いのでよくは判らなかったが、内玄関のあたりは随分荒れているらしかった。中の口の次に八畳の座敷がある。喜右衛門をここに控えさせて、中間はどこへか立ち去った。
:座敷には暗い灯が一つともっている。その光りであたりを見まわすと、もう手入れ前の古屋敷とみえて、天井や畳の上にも雨漏りの{{r|痕|あと}}がとことどころ{{r|黴|かび}}ていて、襖や障子もよほど破れているのが眼についた。昼間来た主人の侍のすがたとは打って変って、勝手都合の{{r|頗|すこぶ}}るよくないらしい屋敷のありさまに、喜右衛門は少し顔をしかめた。このあばら家の体たらくでは、あと金の十四両をとどこおりなく払い渡してっくれればいいがと、一種の不安を感じながら控えていると、奥からは容易に人の出てくる気配もなかった。雨はしとしとと降りつづけて、暗い庭さきでは虫の声がさびしくきこえた。喜右衛門はだんだんと待ちくたびれて、それとなく催促するように、わざとらしい{{r|咳|しわぶき}}を一つすると、それを合図のように縁側から小さい足音がひびいて、明けたてのきしむ障子をあけて来る音があった。
:それは十三四歳の茶坊主で、待たせてある喜右衛門に茶でも運んで来たのかと思うと、かれは一向に見向きもしないで、床の間にかけてある紙表具の{{r|山水|さんすい}}の掛物に手をかけた。それを掛けかえるのかと見ていると、そうでもないらしかった。かれはその掛物を上の方まで巻きあげるかと思うと、手を放してばらばらと落とした。また巻きあげてまた落とした。こうしたことを幾たびも繰り返しているので、喜右衛門も{{r|終|しま}}いには見かねて声をかけた。
:「これ、これ、いつまでもそんなことをしていると、お掛物が損じます。はずすならば、わたくしが手伝ってあげましょう」
:「黙っていろ」と、かれは振り返って睨んだ。
:喜右衛門はこの時初めてかれの顔を正面から見たのである。茶坊主は左の眼ひとつであった。口は両耳のあたりまで裂けて、大きい二本の{{r|牙|きば}}が白くあらわれていた。薄暗い灯のひかりでこの{{r|異形|いぎょう}}のものを見せられたときに、五十を越えている喜右衛門も{{r|一途|いちず}}に{{傍点|あっ}}とおびえて、半分は夢中でそこに倒れてしまった。
:暫くして、ようやく人心地がつくと、その枕元には三十五六の用心らしい男が坐っていた。かれは小声で{{r|訊|き}}いた。
:「なにか見たか」
:喜右衛門はあまりの恐ろしさに、すぐには返事が出来なかった。用心はそれを察したようにうなずいた。
:「また出たか。なにを隠そう、この屋敷には時々に不思議のことがある。われわれは馴れているのでさのみとも思わぬが、はじめて見た者のおどろくのも{{r|道理|もっとも}}だ。かならず此の事は世間に沙汰してくれるな。こういうことのある為か、殿さま俄に御不快で休んでいられるから、鶉の一件も今夜のことには行くまい。気の毒だが、一旦持ち帰ってくれ」
:かれはまったく気の毒そうに云った。こんな化け物屋敷に長居はできない。帰ってくれといわれたのを幸いに、喜右衛門はうずら籠をかかえて{{r|怱々|そうそう}}に表へ逃げ出した。雨はまだ降っている。自分のうしろからは何者かが追ってくるように思われるので、喜右衛門は暗いなかを一生懸命にかけぬけて、新宿の町の灯を見たときに初めて{{傍点|ほっ}}と息をついた。
:妖怪におびやかされたせいか、冷たい雨に{{r|濡|ぬ}}れたせいか喜右衛門はその晩から大熱を発して、半月ばかりは床についていた。八月の末になって彼はだんだんに気力を回復すると、鶉の鳴き声が少し気にかかった。かの鶉は自分の命よりも大切にかかえて戻って、別条なく店の奥に飼ってあるが、その鳴き声が今までとは変っているようにきこえるので、喜右衛門は不思議に思った。自分の病中、奉公人どもの飼い方が悪かったので、あたら名鳥も声変りしたのではないかと、念のためにその鶉籠を枕もとへ取り寄せてみると、取りはいつの間にか変っているのであった。喜右衛門はびっくりした。かれは一つ目の妖怪にもおびやかされたが、十五両の鶉が{{r|二足三文|にそくさんもん}}の駄鶉に変っているにも又おびやかされた。病中に奉公人どもが{{r|掏|す}}り替えたのか。それとも細井の化け物屋敷で殆ど気を失ったように倒れているあいだに、素早く掏りかえられたのか。二つに一つに相違ないと喜右衛門は判断した。
:万一それが奉公人の{{r|仕業|しわざ}}であるとすると、迂闊に口外することが出来ないと思って、喜右衛門はそのままに黙っていた。九月になって、かれはもう床払いをするようになったので、早速新屋敷へたずねて行ってみると、見おぼえのある古屋敷はそこにあった。しかし其処に住んでいる人がなかった。近所で訊くと、そこには細井という旗本が住んでいたが、なにかの都合で{{r|雑司ケ谷|ぞうしがや}}へ屋敷換えをして、この夏から{{r|空|あき}}屋敷になっていることが判った。もう疑うまでもない。悪者どもが徒党して、喜右衛門をこの空屋敷へ誘い込んで、不思議な化け物をみせて{{r|嚇|おど}}しておいて、持参のうずらを奪い取ったのである。一両の手付けを差し引いても、かれは十四両の損をさせられたのであった。この時代に十両以上の損は大きい。喜右衛門は蒼くなった。
:「訴え出れば、引き合いが面倒だ。泣き寝入りするのもくやしい」
:かれは帰る途中でいろいろに思案したが、どちらとも確かに分別がつかないので、家へ帰って町内の{{r|家主|いえぬし}}に相談すると、家主は眉をよせた。
:「いや、それはちっとも知らなかった。実はこの五、六日前にも、やっぱり同じ空屋敷で五十両の茶道具をかたられた者があるという噂だ。そういうことを打っちゃって置いて、その悪者がお召し捕りになったときには、おまえもお叱りをうけなければならない。ちっとも早くお訴えをして置くことだ」
:家主に注意されて、喜右衛門はすぐにその次第を訴え出た。
=== 二 ===
:大木戸の出来事ではあるが、神田の半七がその探索をうけたまわって、子分の{{r|松吉|まつきち}}を連れて山の手へのぼって行った。その途中で松吉はささやいた。
:「親分。みんな同じ奴らですね」
:「それに相違ねえ、方々のあき屋敷を仕事場にして、いろいろの悪さをしやがる。世話のやける奴らだ」
:このごろ山の手のあき屋敷へ{{r|商人|あきんど}}をつれ込んで、いろいろの手段でその品物をまきあげるのが流行する。{{r|本郷|ほんごう}}の{{r|森川宿|もりかわじゅく}}や{{r|小石川|こいしかわ}}の{{r|音羽|おとわ}}や、そのほかにも{{r|大塚|おおつか}}や{{r|巣鴨|すがも}}や雑司ケ谷や、寂しい場所のあき屋敷をえらんで商人をつれ込み、相手を玄関口に待たせて置いて、その品物をうけ取ったまま奥へはいって、どこへか姿を隠してしまうものもある。あるいは座敷へ通して置いて、腕ずくで嚇して奪い取るものもある。近所の者ならそれが空屋敷であることを大抵承知しているが、遠方の者はそれを知らないで、うっかり連れ込まれるのである。それでもあるから、{{r|白昼|まひる}}のあかるい時には決してその被害はない。かれらはなんとか口実を設けて、いつでも暗い夜に相手をおびき出すのである。おなじ場所で幾たびも同一の手段を繰り返せば、たちまち足のつく{{r|虞|おそ}}れがあるので、一つの場所ではせいぜい二度か三度ぐらいにとどめて、更にほかの場所を選ぶのを例としている。したがって、今度の鶉の一件もおなじ奴らの仕業であることは判り切っていた。
:「だが、今度のは今までと違って、すこし{{r|新手|あらて}}だな」と、半七は笑いながら云った。
:「奴らもいろいろに{{r|工夫|くふう}}するんですね」と、松吉も笑った。「それにしても、一つ目小僧とは考えたね。悪くふざけた奴らだ」
:「まったくふざけた奴らだ。あんまり人を馬鹿にしていやがる。今度こそは何とかして{{r|退治|やっ}}つけてやりてえもんだ」
:ふたりは伝馬町の野島屋へ行って、主人の喜右衛門に逢ってその晩の様子を訊いた。化け物の正体も詳しく聞きただした。喜右衛門は年甲斐もなく物におびえて、その化け物の正体をたしかには見とどけなかったのであるが、一つ目といっても、絵にかいてあるいわゆる一つ目小僧のように、顔のまん中に一つの目があるのではなかった。単に左の目が一つ光って見せたらしかった。
:二つの目を満足にもっている者が、なにかで片目を塞いでいたのであろうと半七は想像した。口が裂けているように見えたのも、何かの絵の具で塗りこしらえたに相違ない。牙なども何かで作ったものであろう。こう煎じつめてくると、一つ目小僧の正体も大抵わかった。所詮は喜右衛門の臆病から、こんな{{r|拵|こしら}}えものにおびやかされたのである。しかし臆病が{{r|却|かえ}}ってかれの仕合わせであったかも知れない。彼がもし気丈の人間で、なまじいにその化け物を取り押さえようなどとしたら、奥にかくれている同類があらわれて来て、彼のからだにどんな危害を加えたかも知れない。一つ目小僧におどされて、十五両の鶉をまきあげられた方が、かれに取ってはむしろ小難であったらしく思われた。
:「御苦労だが、その屋敷まで案内してくれ」
:半七は喜右衛門を案内者として、すぐに新屋敷まで出向いた。なるほど古い屋敷ではあるが、夜目に門がまえを見ただけでは、それが無住の家であるかどうかを{{r|覚|さと}}られそうにもなかった。門内も玄関先のあたりだけでは、草が刈ってあった。あき屋敷と覚られまいために、おそらくその前夜か昼のあいだに草刈りをして置いたのであろう。半七は彼等のなかなか注意ぶかいことを知った。
:「どうします。踏み込みますか」と、松吉がきいた。
:「ともかくも一応はあらためなければいけねえ」
:かれらがもう巣を変えてしまったことは判っているが、それでも何かの手がかりを発見しないとも限らないので、半七は先に立って内玄関からはいり込むと、松吉と喜右衛門もあとから続いた。喜右衛門が通されたという八畳の座敷へはいって、縁側の大きい雨戸をあめ放すと、秋の日のひかりが一面に流れ込んで来た。
:「なるほど、内はずいぶん荒れているな」と、半七はそこらを見まわしながら云った。
:「わたくしもひどい荒れ屋敷だと思っていましたが、まさかに空屋敷とは……」と、喜右衛門も今更のように溜息をついていた。
:壁のすこし崩れている床の間には山水の掛物もかかっていなかった。三人はその座敷を出て、更に屋敷じゅうを見まわると、ほこりのうずたかく積っている縁側には大小の足あとが薄く残っていた。鼠の足跡もみえた。そのほこりの上を爪立ってゆくと、どの座敷も畳をあげてあったが、台所につづく六畳の暗い一と間だけには敗れた琉球畳が敷かれていて、{{r|湿|しめ}}っぽいような{{r|黴|かび}}臭いような匂いが鼻にしみついた。半七は腹這いになって古畳の匂いをかいだ。
:「おめえも嗅いでみろ。酒の匂いがするな」
:松吉もおなじく嗅いでみて、うなずいた」
:「酒の匂いはまだ新らしいようですね」
:「むむ。おめえは鼻利きだ。酒の匂いは新らしい。第一、これは女中部屋だ。ここで酒をのむ者はあるめえ。このあいだの奴らがここに集まっていたに相違ねえ。まあ、{{r|引窓|ひきまど}}をあけてみろ」
:松吉に引窓をあけさせて、その明かりで半七は部屋じゅうを見まわした。押入れのなかも調べた。障子をあけて台所へも出た。{{r|沓|くつ}}ぬぎの土間へも降りて見まわしているうちに、かれは何か小さいものを拾った。それを袂に入れて、半七はもとの座敷へ戻った。
:「さあ、もう帰ろうか」
:「もう引き揚げますかえ」と、松吉はなんだか物足らなそうに云った。
:「いつまで化け物屋敷の番をしていてもしようがねえ。日が暮れると、また一つ目小僧が出るかも知れねえ」
:半七は笑いながらここを出た。途中で喜右衛門にわかれて、半七と松吉は裏路づたいにしずかに歩いた。
:「おい、松。これはなんだか知っているのか」と、半七は袂から出してみせた。
:「へえ。こんなものを……。こりゃあ按摩の笛じゃありませんか」
:「むむ。台所の土間に米のあき俵が一つ転がっていた。その下から出たのよ。痩せても枯れても旗本の屋敷で、流しの按摩を呼び込みゃあしねえ。あんなところに、どうして按摩の上が落ちていたのか。おめえ、考えてみろ」
:「なるほどね」
:松吉は首をひねっていた。
:「これで一つ目小僧の正体はわかりましたよ」と、半七老人はわたしに話した。「初めは片目をなにかで隠しているのかと思いましたが、この笛を拾ったので又かんがえが変りました。松吉やほかの子分どもに云いつけて、江戸じゅうに片目の小按摩が幾人いるかを調べさせると、さずがは江戸で片目の按摩が七人いましたよ。そのなかで肩あげのある者四人の身許を探索すると、{{r|入谷|いりや}}の長屋にいる{{r|周悦|しゅうえつ}}という今年十四歳の小按摩がおかしい。こいつは子供の時にいたずらをして、竹きれで眼を突き潰したので、片目あいていながら按摩になって、二十四文と流して歩いているうちに、{{r|馬道|うまみち}}の下駄屋へたびたび呼び込まれて懇意になると、そこの亭主が悪い奴で、この小按摩を巧くだまし込んで、療治に行った家の物を手あたり次第にぬすませて、自分が{{r|廉|やす}}く買っていたんです。そのうちに、この亭主が悪御家人と共謀して、あき屋敷を仕事場にすることになったんですが、自分の近所は感付かれる{{r|懸念|けねん}}があるので、いつも遠い山の手へ行って仕事をしていました」
:「その按摩も同類なんですね」
:「しかし今までは、相手を玄関に待たせて置いて、その品物を裏門から持ち逃げしたり、相手がなかなか油断しないとみると、奥へ通して腕ずくで脅迫したりしていたんですが、人間というものは奇体なもので、いくら悪党でも同じ手段をくりかえしていると、自然に飽きて来るとみえて、相談の上で更に{{r|新手|あらて}}をかんがえ出したのが怪談がかりの一件です。下駄屋の発案で、それはこういう一つ目小僧の按摩がいるというと、それは妙だとみんなも喜んで、小按摩の周悦には下駄屋から巧く説得して、自分たちの味方にすることになったんですが、その周悦という奴は今では立派な不良少年になっているので、これも面白がってすぐ同意したというわけです。自体口が少し大きい奴なので、それから思いついて、絵の具で口を割ったり、{{r|象牙|ぞうげ}}の箸を{{r|牙|きば}}にこしらえたりしたんですが、周悦の家にはおふくろがあります。そのおふくろの手前、世間の手前、化け物のこしらえで家を出るわけには行きませんから、やはり商売に出るようなふうをして、杖をついて、笛をふいて、いつもの通りに家を出て、かの空屋敷の台所の六畳を楽屋にして、そこですっかり化けおおせた次第です。その時に周悦はふところに入れていた笛をおとしたのを、あとになって気がついたんですが、どこで落としたか判らないので、ついそのままにして置いたのを、運悪くわたくしに見つけられたんです。それからだんだん調べてみると、この小按摩は年に似合わず銭使いがあらい。近所の評判もよくない。そこで引き揚げて吟味すると、なんと云ってもそこは子供で、一つ責めると、みんな正直に白状してしまいました。
:「そうすると、その下駄屋と御家人と、小按摩周悦と……。まだほかにも仲間がありましたか」
:と、わたしは又訊いた。
:「下駄屋は{{r|藤助|とうすけ}}という奴で、これは用心に化けていました。主人になったのは{{r|糠目|ぬかめ}}{{r|三五郎|さんごろう}}という御家人、草履取りは渡り中間の{{r|権平|ごんべえ}}という奴で、これだけは本物です。そのほかに{{r|馬淵|まぶち}}{{r|金八|きんぱち}}という浪人が加わっていました。周悦はあとにも先にもたった一度、その一つ目小僧を勤めただけですが、当人はひどく面白がって、又なにかの役に使ってくれと、しいりに下駄屋をせびっていたそうです。なにしろ、一つ目小僧をさがしあてたので、それから口があいて、ほかの奴らも片っ端からみんな御用になってしまいました。つまらない怪談をやらなければ、もうちっと寿命があったかも知れないんですが、そいつらに取っては不仕合わせ、世間に取っては仕合わせでした」
{{テンプレート:半七捕物帳 }}
{{PD-old-auto-1996|deathyear=1939}}
ecv31f8qxrdqehoa3zoumngaxcqytt7
半七捕物帳 第二巻/勘平の死
0
21293
230398
216320
2025-07-07T16:15:08Z
Hideokun
2025
/* 三 */
230398
wikitext
text/x-wiki
{{header
| title = 『[[半七捕物帳]]』(はんしちとりものちょう)
|section= 第二巻/勘平の死
|previous=[[半七捕物帳 第二巻/一つ目小僧|一つ目小僧]]
|next=[[半七捕物帳 第二巻/雪達磨|雪達磨]]
|author=岡本綺堂
|notes=
*底本:1999年10月10日春陽堂書店発行『半七捕物帳第二巻』
{{デフォルトソート:はんしちとりものちよう206}}
[[Category:半七捕物帳|206]]
[[Category:岡本綺堂]]
}}
== 勘平(かんぺえ)の死(し) ==
=== 一 ===
:歴史小説の老大家T先生のお宅に訪問して、江戸のむかしのお話をいろいろ伺ったので、わたしは又かの半七老人に逢いたくなった。T先生のお宅を出たのは午後三時頃で、赤坂の大通りでは仕事師が家々のまえに{{r|門松|かどまつ}}を立てていた。砂糖屋の店さきには七、八人の男や女が、狭そうに押し合っていた。年末大売出しの紙ビラや立看板や、紅い提灯やむらさきの旗や、{{r|濁|にご}}った楽隊の音や、{{r|甲|かん}}走った蓄音器のひびきや、それらの色彩と音楽とが一つに溶け合って、{{r|師走|しわす}}の都の{{r|巷|ちまた}}にあわただしい気分を作っていた。
:「もう{{r|数|かぞ}}え{{r|日|び}}だ」
:こう思うと、わたしのような{{r|閑人|ひまじん}}が方々のお邪魔をして歩いているのは、あまり心ない{{r|仕業|しわざ}}であることを考えなければならなかった。私も、もうまっずぐに自分の{{r|家|うち}}に帰ろうと思い直した。そうして、電車の停留場の方へぶらぶら歩いてゆくと、往来のなかでちょうど半七老人に出逢った。
:「どうなすった。この頃はしばらく見えませんでしたね」
:老人はいつも元気よく笑っていた。
:「実はこれから伺おうかと思ったんですが、歳の暮にお邪魔をしても悪いと思って……」
:「なあに、わたくしはどうせ隠居の身分です。盆も暮も正月もあるもんですか。あなたの方さえ御用がなけりゃあ、ちょと寄っていらっしゃい」
:渡りに舟というのは全くこの事であった。わたしは遠慮なしにそのあとについて行くと、老人は先に立って格子をあけた。
:「{{r|老婢|ばあや}}。お客様だよ」
:私はいつもの六畳に通された。それからいつもの通りに{{r|佳|よ}}いお茶が出る。旨い菓子が出る。忙がしい師走の社会と遠く懸け放れている老人と若い者とは、時計のない国に住んでいるように、日の暮れる頃までのんびりした心持で語りつづけた。
:「ちょうど今頃でしたね。{{r|京橋|きょうばし}}の{{r|和泉屋|いずみや}}で素人芝居のあったのは……」と、老人は思い出したように云った。
:「なんです。しろうと芝居がどうしたんです」
:「その時に一と騒動が持ち上がりましてね。その時には私も少し頭を痛めましたよ。あれは確か{{r|安政|あんせい}}{{r|午|うま}}年の十二月、歳の暮にしては暖い晩でした。和泉屋というのは大きな{{r|鉄物屋|かなものや}}で、店は{{r|具足町|ぐそくちょう}}にありました。{{r|家中|うちじゅう}}が芝居気ちがいでしてね。とうとう大変な騒ぎをおっ始めてしまったんです。え、その話をしろと云うんですか。じゃあ、又いつもの手柄話を始めますから、まあ聴いてください」
:安政五年の暮は案外あたたかい日が四、五日つづいた。半七は朝飯を済ませて、それから八丁堀の旦那(同心)方のところへ歳暮にでも廻ろうかと思っていると、妹のお{{r|粂|くめ}}が台所の方から忙しそうにはいって来た。お粂は母のお{{r|民|たみ}}と{{r|明神下|みょうじんした}}に世帯を持って、常盤津の師匠をしているのであった。
:「姉さん、お早うございます。兄さんはもう起きていて……」
:女中と一緒に台所で働いていた女房のお{{r|仙|せん}}はにっこりしながら振り向いた。
:「あら、お粂ちゃん、お上がんなさい。大変に早く、どうしたの」
:「すこし兄さんに頼みたいことがあって……」と、お粂はうしろをちょっと見返った。「さあ、おはいんなさいよ」
:お粂の蔭にはまだ一人の女がしょんぼりと立っていた。女は三十七八の粋な{{r|大年増|おおどしま}}で、お粂と同じ商売の人であるらしいことはお仙にもすぐ{{r|覚|さと}}られた。
:「あの、お前さん。どうぞこちらへ」
:たすきをはずして{{r|会釈|えしゃく}}すると、女はおずおずはいって来て丁寧に会釈した。
:「これはおかみさんでございますか。わたくしは{{r|下谷|しもや}}に居ります{{r|文字清|もじきよ}}と申します者で、こちらの{{r|文字房|もじふさ}}さんには毎度お世話になっております」
:「いいえ、どう致しまして。お粂さんこそ年が行きませんから、さぞ御厄介になりましょう」
:この間にお粂は奥へはいって又出て来た。文字清という女は彼女に案内されて、神経の{{r|尖|とが}}ったらしい蒼ざめた顔を半七のまえに出した。文字清はこめかみに頭痛膏を貼って、その眼もすこし血走っていた。
:「兄さん。早速ですが、この文字清さんがお前さんに折り入って頼みたいことがあると云うんですがね」
:お粂は仔細ありそうに、こじの蒼ざめた女を{{r|紹介|ひきあわ}}した。
:「むむ。そうか」と、半七は女の方に向き直った。「もし、おまえさん。どんな御用だか知りませんが、私に出来そうなことだかどうだか、伺って見ようじゃありませんか」
:「だしぬけに伺いましてまことに恐れ入りますが、わたくしもどうしていいか思案に余って居りますもんですから、かねて御懇意にいたして居ります文字房さんにお願い申して、こちらへ押し掛けに伺いまいしたような訳で……」と、文字清は畳に手を置いた。「お聞き及びでございましょうが、この十九日の晩に具足町の和泉屋で年忘れの素人芝居がございました」
:「そう、そう。飛んだ間違いがあったそうですね」
:和泉屋の事件というのは半七も聞いて知っていた。和泉屋の家じゅうが芝居気ちがいで、歳の暮には近所の人たちや出入りの者共をあつめて、歳忘れの素人芝居を催すのが年々の例であった。今年も十九日の夕方から幕をあけた。それはすこぶる大がかりのもので、奥座敷を三{{r|間|ま}}ほど打ち抜いて、正面には{{r|間口|まぐち}}三間の舞台をしつらえ、衣裳や小道具のたぐいもなかなか贅沢なものを用いていた。役者は店の者や近所の者で、チョボ語りの太夫も{{r|下座|げざ}}の{{r|囃子方|はやしかた}}もみな素人の道楽者を狩り集めて来たのであった。
:今度の狂言は忠臣蔵の三段目、四段目、五段目、六段目、九段目の五幕で、和泉屋の総領息子の{{r|角太郎|かくたろう}}が{{r|早野|はやの}}{{r|勘平|かんぺえ}}を勤めることになった。角太郎はことし十九の{{r|華奢|きゃしゃ}}な男で、ふだんから近所の若い娘たちには役者のようだなどと噂されていた。若旦那の勘平は{{r|嵌|はま}}り役だと、見物の人たちにも期待された。
:舞台では喧嘩場から山崎街道までの三幕をとどこおりなく演じ終って、六段目の幕をあけたのは冬の夜の五ツ(午後八時)過ぎであった。幾分はお{{r|追従|ついしょう}}もまじっているであろうが、若旦那の勘平をぜひ拝見したいというので、この前の幕があく頃から遅れ馳せの見物人がだんだんに詰めかけて来た。燭台や火鉢の置き所もないほどにぎっしり押し込められた見物席には、女の{{r|白粉|おしろい}}や油の匂いが{{r|咽|む}}せるようによどんでいた。煙草のけむりも渦をまいてみなぎっていた。男や女の笑い声が外まで洩れて、師走の往来の人の足を停めさせるほど華やかにきこえた。
:併しこの歓楽のさざめきは忽ち哀愁の涙に変った。角太郎の勘平が腹を切ると{{r|生々|なまなま}}しい血潮が彼の衣裳を真っ赤に染めた。それは用意の{{r|糊紅|のりべに}}ではなかった。苦痛の表情が凄いほどに真に迫っているのを驚嘆していた見物は、かれが{{r|台詞|せりふ}}を云いきらぬうちに舞台にがっくり倒れたのを見て、更におどろいて騒いだ。勘平の刀は舞台で用いる{{r|金貝|かながい}}張りと思いのほか、{{r|鞘|さや}}には{{r|本身|ほんみ}}の刀がはいっていたので、角太郎の切腹は芝居ではなかった。夢中で力一ぱい突き立てた刀の切っ先は、ほんとうに彼の脇腹を深く貫いたのであった。苦しんでいる役者はすぐに楽屋へ担ぎ込まれた。もう芝居どころの沙汰ではない。驚きと{{r|怖|おそ}}れのとのうちに今夜の年忘れの宴会はくずれてしまった。
:角太郎は舞台の顔そのままで医師の手当てをうけた。蒼白く{{r|粧|つく}}った顔は更に蒼くなった。おびただしく出血した傷口はすぐに幾針も縫われたが、その経過は思わしくなかった。角太郎はそれから二日二晩苦しみ通して、二壽一日の夜に{{r|悶|もが}}き{{r|死|じに}}のむごたらしい終りを遂げた。その{{r|葬式|とむらい}}は二十三日の{{r|午|ひる}}すぎに和泉屋の店を出た。
:きょうはその翌日である。
:併しこの文字清と和泉屋とのあいだに、どんな関係が結び付けられているのか、それは半七にも想像が付かなかった。
:「そのことに就いて、文字清さんが大変に{{r|口惜|くや}}しがっているんですよ」と、お粂がそばから口を添えた。
:文字清の蒼い顔には涙が一ぱいに流れ落ちた。
:「親分。どうぞ{{r|仇|かたき}}を取ってください」
:「かたき……。誰の仇を……」
:「わたくしの{{r|伜|せがれ}}の仇を……」
:半七は{{r|煙|けむ}}にまかれて相手の顔をじっと見つめていると、文字清はうるんだ眼を{{r|嶮|けわ}}しくして彼を睨むように見あげた。その唇は{{r|癇持|かんも}}ちのように怪しくゆがんで、ぶるぶる{{r|顫|ふる}}えていた。
:和泉屋の若旦那は、師匠、おまえさんの子かい」と、半七は不思議そうに訊いた。
:「はい」
:「ふうむ。そりゃあ初めて聞いた。じゃあ、あの若旦那は今のおかみさんの子じゃあないんだね」
:「角太郎はわたくしの伜でございます。こう申したばかりではお判りになりますまいが、今から丁度二十年前のことでございます。わたくしが{{r|中橋|なかばし}}の近所でやはり常盤津の師匠をして居りますと、和泉屋の旦那が時々遊びに来まして、自然まあそのお世話になって居りますうちに、わたくしはその翌年に男の子を生みました。それが今度亡くなりました角太郎で……」
:「じゃあ、その男の子を和泉屋で引き取ったんだね」
:「左様でございます。和泉屋のおかみさんが其の事を聞きまして、丁度こっちに子供が無いから引き取って自分の子にしたいと……。わたくしも手放すのは{{r|忌|いや}}でしたけれども、向うへ引き取られればちっぱな店の跡取りにもなれる。つまり本人の出世になることだと思いまして、産れると間もなく和泉屋の方へ渡してしまいました。で、こういう親があると知れては、世間の手前もあり、当人の為にもならないというので、わたくしは相当の手当てを貰いまして、伜とは一生縁切りという約束をいたしました。それから下谷の方へ引っ越しまして、こんにちまで相変らずこの商売をいたして居りますが、やっぱり親子の人情で、一日でも生みの子のことを忘れたことはございません。伜がだんだん大きくなって立派な若旦那になったという噂を聴いて、わたくしも蔭ながら喜んで居りますと、飛んでもない今度の騒ぎで……。わたくしももう気でも違いそうに……」
:文字清は畳に食いつくようにして、声を立てて泣き出した。
=== 二 ===
:「へええ。そんな{{r|内情|いきさつ}}があるんですかい。わたしはちっとも知らなかった」と、半七は{{r|喫|の}}みかけていた{{r|煙管|きせる}}をぽんと叩いた。「それにしても、若旦那の死んだのは不時の災難で、誰を怨むというわけにも行くめえと思うが……。それとも其処にはなにか理窟がありますかえ」
:「はい、判って居ります。おかみさんが殺したに相違ございません」
:「おかみさんが……。まあ落ち着いて訳を聞かせておくんなせえ。若旦那を殺すほどならば、最初から自分の方へ引き取りもしめえと思うが……」
:訊く人の無智を{{r|嘲|あざけ}}るように、文字清は泪のあいだに凄い笑顔を見せた。
:「角太郎が和泉屋へ貰われてから五年目に、今のおかみさんの腹に女の子が出来ました。お{{r|照|てる}}といって今年十五になります。ねえ、親分。おかみさんの{{r|料簡|りょうけん}}になったら、角太郎が可愛いでしょうか。自分の生みの娘が可愛いでしょうか。角太郎に家督を譲りたいでしょうか。お照に相続させたいでしょうか。ふだんは幾ら好い顔をしていても、人間のは鬼です。邪魔になる角太郎をどうして亡き者にしようか位のことは考え付こうじゃありませんか。まして角太郎は旦那の隠し子ですもの、腹の底には女の{{r|嫉|ねた}}みもきっとまじっていましょう。そんなことをいろいろ考えると、おかみさんが自分でしたか人にやらせたか、楽屋のごたごたしている{{r|隙|すき}}をみて、本物の刀に{{r|掏|す}}り替えて置いたに相違ないと、わたくしが疑ぐるのが無理でしょうか。それはわたくしの邪推でしょうか。親分、お前さんは何とお思いです」
:和泉屋の息子にこうした秘密のあることは、半七も今までまるで知らなかった。なるほど文字清のいう通り、角太郎は{{r|継子|ままこ}}である。しかも主人の隠し子である。たとい表面は美しく自分の家へ引取っても、おかみさんの胸の奥に冷たい{{r|凝塊|しこり}}の残っていることは{{r|否|いな}}まれない。まして其の後に自分の実子が出来た以上は、角太郎に身代を渡したくないと思うのも女の情としては無理もない。それが{{r|嵩|こう}}じて、今度のような非常手段を{{r|企|たくら}}むということも必ず無いとは受け合えない。半七はこれまで種々の犯罪事件を取り扱っている経験から、人間の恐ろしいということも{{r|能|よ}}く{{r|識|し}}っていた。
:文字清は無論、和泉屋のおかみさんが我が子のかたきと{{r|一途|いちず}}に思いつめているらしかった。
:「親分、察してください。わたくしは口惜しくって、口惜しくって……。いっそ出刃包丁でも持って和泉屋へ暴れ込んで、あん畜生をずたずたに切り殺してやろうかと思っているんですが……」
:彼女は次第に神経が{{r|昂|たか}}ぶって、物狂おしいほどに取りのぼせていた。ここでうっかり{{r|嗾|けしか}}けるようなことを云ったら、{{r|病犬|やまいぬ}}のような彼女は誰に{{r|啖|くら}}い付こうも知れなかった。半七は逆らわずに、黙って煙草をすっていたが、やがてしずかに口をあいた。
:「すっかり判りました。ようがす。わたしが出来るだけ調べてあげましょう。{{r|如才|じょさい}}はあるめえが、当分は誰にも内証にして……」
:「いくら自分の子になっているからと云って、角太郎を殺したおかみさんは無事じゃあ済みますまいね。お{{r|上|かみ}}できっとかたきを取って下さるでしょうね」と、文字清は念を押した。
:「そりゃあ、知れたことさ。まあ、なんでもいいから私にまかせてお置きなせえ」
:文字清をなだめて帰して、半七はすぐに出る支度をした。お粂はあとに残って{{r|義姉|あね}}のお仙と何かしゃべっていた。
:「兄さん。御苦労さまね。まったく和泉屋のおかみさんが悪いんでしょうか」と、半七の出る時にお粂はうしろからささやくように訊いた。
:「そりゃあ判らねえ。なんとか手を着けてみようよ」
:半七はまっすぐ京橋へ向った。いくら御用聞きでも、何の手がかりも無しにむやみに和泉屋へ乗り込んで詮議立てをするわけには行かなかった。彼は{{r|鉄物|かなもの}}屋の店さきを素通りして、町内の鳶{{r|頭|かしら}}の{{r|家|うち}}をたずねた。鳶頭はあいにく留守だというので、彼はその女房とふた言三言挨拶して別れた。
:「これから何処へ行ったものだろう」
:往来に立って思案しているうちに、半七はうしろから自分を追い掛けて来た人のあるのに気がついた。それは五十以上の町人風の男で、悪い生活の人ではないということは一と目にも知られた。男は半七のそばへ来て丁寧に挨拶した。
:「まことに失礼でございますが、お前さんは神田の親分さんじゃあございますまいか。わたくしは{{r|芝|しば}}の{{r|露月町|とうげつちょう}}に鉄物渡世をいたして居ります{{r|大和屋|やまとや}}十右衛門と申す者でございますが、只今あの鳶頭の家へ少し相談があって訪ねてまいりますと、鳶頭は留守で、おかみさんを相手に何かの話をして居ります所へ、お前さんがお出でになりまして……。おかみさんに訊くと、あれは神田の親分さんだというので、好い折柄と存じまして、すぐにおあとを追ってまいりましたのですが、いかがでございましょうか。御迷惑でもちょいとそこらまで御一緒においで下さるわけには……」
:「ようございます。お{{r|伴|とも}}いたしましょう」
:十右衛門に誘われて、半七は近所の鰻屋へはいった。小ぢんまりとした南向きの二階の縁側にはもう春らしい日影がやわらかに流れ込んで、そこにならべてある鉢植えの梅のおもしろい枝振りを、あかるい障子へ墨絵のように映していた。あつらえの{{r|肴|さかな}}の来るあいだに二人は差し向いで{{r|猪口|ちょこ}}の{{r|献酬|やりとり}}を始めた。
:「親分もお役目柄でもう何もかも御承知でございましょうが、和泉屋の伜も飛んだことになりまして……。実はわたくしは和泉屋の女房の兄でございます。今度のことに就きまして、死んだ者は今さら致し方もございませんが、さて其の後の評判でございますが……。人の口はまことにうるさいもので、妹もたいへん心配して居りますので……」
:十右衛門は思い余ったように云った。角太郎の変死については産みの母の文字清ばかりでなく、その秘密を薄々知っている出入りの者のうちには、やはり同じような疑いの眼の光りをおかみさんの上に投げている者もあるらしい。十右衛門はそれを苦に病んで、きょうも町内の鳶頭のところへ相談に行ったのであった。
:「どうして本身の刀と掏り替っていたか、内々それを調べて貰いたいと存じまして……。万一つまらない噂などを立てられますと、妹が実に可哀そうでございます。兄の口から{{r|斯|こ}}う申すのもいかがでございますが、あれはまったく正直なおとなしい女でございまして、角太郎を生みの子のように大切にして居りましたのに……。それを何か世間にありふれた{{r|継母|ままはは}}根性のようにでも思われますのは、いかにも心外で……。ともかくも{{r|葬式|とむらい}}はきのう済みましたから、これから何とか致してその間違いの起った筋道を詮議いたしたいと存じて居るのでございます。その筋道がよく判りませんで、妹が何かの疑いでも受けますようでございますと、妹は気の小さい女ですから、あんまり心配して気違いにでもなり兼ねません。それが{{r|不憫|ふびん}}でございまして……」と、十右衛門は鼻紙を出して{{r|洟|はな}}をかんだ。
:文字清も気違いになりかかっている。和泉屋のおかみさんも気違いになるかも知れないと云う。文字清の話がほんとうであるか、十右衛門の話がいつわりであるか、さすがの半七にも容易に判断がつかなかった。
:「芝居の晩にはおまえさんも無論見物に行っておいでになったんでしょうね」と、半七は猪口をおいて訊いた。
:「はい。見物して居りました」
:「楽屋には大勢詰めていたんでしょうね」
:「なにしろ楽屋が狭うございまして、八畳に十人ばかり、離れの四畳半に二人。役者になる者はそれだけでしたが、ほかに手伝いが大勢で、おまけに衣裳やら{{r|鬘|かつら}}やらがそこら一ぱいで、足の踏み立てられないような混雑でございます。最初にめいめいの小道具類を渡されました時に、角太郎も一々調べて見ましたそうですから、その時には決して間違って居りませんので……。いよいよ舞台へ出るという間ぎわに多分取り違ったか、掏り替えられたか。一体誰がそんなことをしたのか、まるで見当が付きませんので困って居ります」
:「なるほど」
:半七は殆ど猪口をそのままにして腕を{{r|拱|く}}んでいた。十右衛門も黙って自分の膝の上を眺めていた。一匹の蠅が障子の紙を忙がしそうに渡ってゆく{{r|跫音|あしおと}}が微かに響いた。
:「若旦那は八畳にいたんですか、四畳半の方ですか」
:「四畳半の方におりました。{{r|庄八|しょうはち}}、{{r|長次郎|ちょうじろう}}、{{r|和吉|わきち}}という店の者と一緒に居りました。庄八は衣裳の手伝いをして、長次郎は湯や茶の世話をしていたようでした。和吉は役者でございまして、{{r|千崎|せんざき}}{{r|弥五郎|やごろう}}を勤めて居りました」
:「それから、おかしなことを伺うようですが、若旦那は芝居のほかに何か道楽はありましたかえ」と、半七は訊いた。
:碁将棋のたぐいの勝負事は嫌いである、女道楽の噂も聞いたことがないと、十右衛門は答えた。
:「お嫁さんの噂もまだ無いんですね」
:「それは内々きまって居りますので」と十右衛門はなんだか迷惑そうに云った。「こうなれば何もかも申し上げますが、実は仲働きのお{{r|冬|ふゆ}}という女に手をつけまして……。尤もその女は{{r|容貌|きりょう}}も好し、気立ても悪くない者ですから、いっそ世間に知られないうちに相当の仮親でもこしらえて、嫁の披露をしてしまった方が好いかも知れないなどと、親達も内々相談して居りましたのですが、思いもつかない{{r|斯|こ}}んなことになってしまいまして、つまり両方の運が悪いのでございます」
:この恋物語に半七は耳をかたむけた。
:「そのお冬というのは幾つで、どこの者です」
:「年は十七で、{{r|品川|しながわ}}の者です」
:「どうでしょう。そのお冬という女にちょいと逢わして貰うわけには参りますまいか」
:「なにしろ年は若うございますし、角太郎が不意にあんなことになりましたので、まるで気抜けがしたようにぼんやりして居りますから、とても取り留めた御挨拶などは出来ますまいが、お望みならいつでもお逢わせ申します」
:「なるたけ早いほうがようございますから、お差し支えがなければ、これからすぐに御案内を願えますまいか」
:「承知いたしました」
:二人は飯を食ってしまったら、すぐ和泉屋へ出向くことに相談をきめた。十右衛門が待ちかねて手を鳴らした時に、あつらえの鰻をようよう運んで来た。
=== 三 ===
:十右衛門は急いで箸をとったが、半七は碌々に飯を食わなかった。彼は熱いのをもう一本持って来てくれと女中に頼んだ。
:「親分はよっぽど召し上がりますか」と、十右衛門は訊いた。
:「いいえ、{{r|野暮|やぼ}}な人間ですからさっぱり{{r|飲|い}}けないんです。だが、きょうは少し飲みましょうよ。顔でも{{r|紅|あか}}くしていねえと景気が付きませんや」と、半七はにやにや笑っていた。
:十右衛門は妙な顔をして黙ってしまった。
:女中が持って来た一本の徳利を半七は手酌で飲み干した。南に日をうけた暖い座敷で真昼に酒をのみ過したので、半七の顔も手足も歳の{{r|市|いち}}で売る飾り{{r|海老|えび}}のように真っ紅になった。
:「どうです。渋っ紙は好い加減に染まりましたか」と、半七は熱い頰を撫でた。
:「はい、好い色におなりでございます」と、十右衛門は仕方なしに笑っていた。
:そうして、こんなに酔っている男を和泉屋へ案内するのは、なんだか{{r|心許|こころもと}}ないようにも思ったらしいが、今更ことわるわけにも行かないので、かれは勘定を払って半七を表へ連れ出した。半七の足もとは少し乱れて、向うから鮭をさげて来る小僧に危く突き当りそうになった。
:「親分。大丈夫ですか」
:十右衛門に手を取られて半七はよろけながら歩いた。飛んだ人に飛んだことを相談したと、十右衛門はいよいよ後悔しているらしく見えた。
:「旦那。どうぞ裏口からこっそり入れてください」と、半七は云った。
:しかし、まさか裏口へも廻されまいと十右衛門は少し躊躇していると、半七は店の横手の路地へはいって、ずんずん裏口の方へまわって行った。その足取りはあまり酔っているらしくも見えなかった。十右衛門は追うように其の後について行った。
:「すぐにお冬どんに逢わしてください」
:裏口からはいった半七は、広い台所を通りぬけて女中部屋を覗いたが、そこには三人の{{r|赭|あか}}ら顔の女中がかたまっていて、お冬らしい女のすがたは見えなかった。
:「お冬はどうした」と、十右衛門は障子を細目にあけると、赭ら顔は一度にこっちを振り向いて、お冬はゆうべから気分が悪いというので、おかみさんの指図で離れ座敷の四畳半に寝かしてあると答えた。その四畳半は十九日の晩、角太郎の楽屋にあてた小座敷であった。
:縁伝いで奥へ通ると、狭い中庭には大きな南天が紅い玉を房々と実らせていた。ふたりは障子の前に立って、十右衛門が先ず声をかけると、障子は内から開かれた。障子をあけたのはお冬の枕辺に坐っていた若い男で、お冬は{{r|鬢|びん}}も隠れるほど{{r|衾|よぎ}}を深くかぶっていた。男は小作りで色のあさ黒い、額の狭い眉の濃い顔であった。
:十右衛門に挨拶して、若い男は早々に出て行ってしまった。あれが{{r|先刻|さっき}}お話し申した千崎弥五郎の和吉ですと、十右衛門が云った。
:衾を掻いやって蒲団の上に起き直ったお冬の顔は、半七がけさ逢った文字清の顔よりも更に蒼ざめて{{r|窶|やつ}}れていた。生きた幽霊のような彼女は、なにを聞いても要領を得るほどの{{r|捗々|はかばか}}しい返事をしなかった。かれは恐ろしい其の夜の悪夢を呼び起すに堪えないように、唯さめざめと泣いているばかりであった。この二、三日の春めいた陽気にだまされて、どこかで籠の鶯が啼いているのも却って寂しい思いを誘われた。
:お冬の胸に燃えていた恋の火は、灰となってもう{{r|頽|くず}}れてしまったのかも知れない。彼女は過去の楽しい恋の記憶については、何も話そうとしなかった。しかし{{r|惨|みじ}}めな彼女の現在については、不十分ながらも半七の問いに対してきれぎれに答えた。旦那やおかみさんは自分に同情して、勿体ないほど優しくいたわってくださると彼女は語った。店の人達のうちでは和吉が一番親切で、けさから店の隙を見てもう二度も見舞に来てくれたと語った。
:「じゃあ、今も見舞に来ていたんだね。そうして、どんな話をしていたんだ」と、半七は訊いた。
:「あの、若旦那がああなってしまっては、このお店に奉公しているのも辛いから、わたしはもうお暇を頂こうかと思うと云いましたら、和吉さんはまあそんなことを云わないで、ともかくも来年の出代りまで辛抱するがいいとしきりに止めてくれました」
:半七はうなずいた。
:「いや、有難う。折角寝ているところを飛んだ邪魔をして済まなかった。まあ、からだを大事にするが好いぜ。それから大和屋の旦那、お店の方へちょいいとご案内願えますまいか」
:「はい、はい」
:十右衛門は先に立って店へ出て行った。半七はよろけながら付いて行った。さっきの酔がだんだん発したと見えて、彼の頰はいよいよ{{r|熱|ほて}}って来た。
:「旦那。店の方はこれでみんなお揃いなんですか」と半七は帳場から店の先をずらりと見渡した。四十以上の大番頭が帳場に坐って、その傍らに二人の若い番頭が{{r|十露盤|そろばん}}をはじいていた。ほかにもかの和吉ともう一人の中年の男が見えた。四、五人の小僧が店の咲きで{{r|鉄釘|かなくぎ}}の荷を解いていた。
:「はい。丁度みんな揃っているようでございます」と、十右衛門は帳場の火鉢のまえに坐った。
:半七は店のまん中にどかりと{{r|胡坐|あぐら}}をかいて、更に番頭や小僧の顔をじろじろ見まわした。
:「ねえ、大和屋の旦那。具足町で名高けえものは、{{r|清正公|せいしょうこう}}様と和泉屋だという位に、江戸中に知れ渡っている{{r|御大家|ごたいけ}}だが、失礼ながら随分不取締りだと見えますね。ねえ、そうでしょう。{{r|主|しゅ}}殺しをするような太てえ奴らに、飯を食わして給金をやって、こうして大切に飼って置くんだからね」
:店の者はみんな顔をみあわせた。十右衛門も少し慌てた。
:「もし、親分。まあ、お静かに……。この通り往来に近うございますから」
:「誰に聞えたって構うもんか。どうせ引廻しの出る{{r|家|うち}}だ」と、半七はせせら笑った。「やい、こいつら。よく聞け。てめえたちは揃いも揃って{{r|不埒|ふらち}}な奴だ。主殺しを朋輩に持っていながら、知らん顔をして奉公しているという法があると思うか。ええ、嘘をつけ。このなかに主殺しの{{r|磔刑|はりつけ}}野郎がいるということは、俺がちゃんと知っているんだ。{{r|多寡|たか}}が{{r|守|もり}}っ{{r|子|こ}}見たような小女一人の{{傍点|いきさつ}}から、大事の主人を殺すというような、そんな心得ちげえの大それた野郎をこれまで飼って置いたのがそもそもの間ちげえで、ここの主人はよっぽどの明きめくらだ。おれが御歳暮に{{r|寒鴉|かんがらす}}の五、六羽も絞め来てやるから、黒焼きにして持薬にのめとそう云ってやれ。もし、大和屋の旦那。おめえさんの眼玉もちっと{{r|陰|くも}}っているようだ。物置へ行って、{{r|灰汁|あく}}で二、三度洗って来ちゃあどうだね」
:何をいうにも相手が悪い、しかも酒には酔っている。手の着けようがないので、ただ黙って聴いていると、半七は調子に乗って又{{r|呶鳴|どな}}った。
:「だが、おれに取っちゃあ仕合わせだ。ここで主殺しの{{r|科人|とがにん}}を引っくくっていけば、八丁堀の旦那方にも好い御歳暮が出来るというもんだ。さあ、こいつ等、いけしゃあしゃあとした{{r|面|つら}}をしていたって、どの鼠が白いか黒いか俺がもう睨んでいるんだ。てめえ達の主人のような明きめくらだと思うと、ちっとばかり{{r|的|あて}}が違うぞ。いつ両腕がうしろへ廻っても、決しておれを怨むな。飛んだ梅川の浄瑠璃で、縄かける人が怨めしいなんぞ詰まらねえ愚痴をいうな。嘘や冗談じゃねえ、神妙に覚悟していろ」
:十右衛門は堪まらなくなって、半七の傍へおずおず寄って来た。
:「もし、親分。おまえさん大分酔っていなさるようだから、まあ奥へ行ってちっとお休みなすってはどうでございます。店先であんまり大きな声をして下さると、世間へ対して、まことに迷惑いたしますから。おい、和吉。親分を奥へ御案内申して……」
:「はい」と、和吉はふるえながら半七の手を取ろうとすると、彼は横っ面をゆがむほどに{{r|撲|なぐ}}られた。
:「ええ、うるせえ。何をしやがるんだ。てめえ達のような磔刑野郎のお世話になるんじゃねえ。やい、やい、なんで{{r|他|ひと}}の面を睨みやがるんだ。てめえ達は主殺しだから磔刑野郎だと云ったどうした。てめえ達も知っているだろう。磔刑になる奴は裸馬に乗せられて、江戸じゅうを引き廻しになるんだ。それから{{r|鈴ケ森|すずがもり}}か{{r|小塚|こつか}}ッ{{r|原|ぱら}}で高い木の上へ縛り付けられると、{{r|突手|つきて}}が両方から槍をしごいて、{{r|科人|とがにん}}の眼のさきに突き付けて、ありゃありゃと声をかける。それを見せ槍というんだ。よく覚えておけ。見せ槍が済むと、今度はほんどうに右と左の膝の下を何遍もすぐりずぶり突くんだ」
:この恐ろしい刑罰の説明を聴くに堪えないように、十右衛門は顔をしかめた。和吉も真っ蒼になった。ほかの者も息を{{r|嚥|の}}んで、云い知れぬ恐怖に身をすくめていた。どの人も、死の宣告を受けたように、{{r|眼|ま}}たたきもしないで{{r|少時|しばし}}は沈黙をつづけていた。
:冬の空は青々と晴れて、表の往来には明るい日のひかりが満ちていた。
=== 四 ===
:半七はとうとうそこに酔い倒れてしまった。店の真ん中に寝そべっていられては甚だ迷惑だとは思ったが、誰も迂闊(うかつ)にさわることは出来なかった。
:「まあ、仕方がない。ちっとの間、そうして置くが好い」
:十右衛門は奥へはいって、主人夫婦と何か話していた。店のものは思い思いに自分の受け持ちの用向きに取りかかった。やがて小半時(こはんとき)も経ったかと思うと、今まで眠っているように見せかけていた半七は、俄に起き上がった。
:「ああ、酔った。台所へ行って水でも飲んで来よう。なに、おかまいなさるな。わっしが自分で行きます」
:半七は台所へ行かずまっすぐに奥へまわった。中庭の縁からひらりと飛び降りて、大きい南天の葉の蔭に蛙のように腹這って隠れていた。それから少し間を置いて、和吉の姿がおなじくこの縁先にあらわれた。彼は抜き足をしながら四畳半の障子の前に忍び寄って、内の様子を窺っているらしかった。やがて彼がそっと障子をあけた時、南天の蔭から半七が顔を出した。
:障子の内では男のうるんだ声がきこえた。その声があまりに低いので、半七にはよく聴き取れなかった。しまいには焦れったくなったので、彼はそろそろと隠れ場所から抜け出して、泥坊猫のように縁に這い上がった。
:和吉の声はやはり低かった。しかも涙にふるえているらしかった。
:「ねえ。今も云う通りのわけで、わたしは若旦那を殺した。それもみんなお前が恋しいからだ。わたしは一度も口に出したことはなかったが、とうからお前に惚(ほ)れていたんだ。どうしてもお前と夫婦になりたいと思い詰めていたんだ。そのうちにお前は若旦那と……。そうして、近いうちに表向き嫁になると……。わたしの心持はどんなだったろう。お冬どん、察しておくれ。それでも私はおまえを憎いとは思わない。今でも憎いとは思っていない。唯むやみに若旦那が憎くってならなかった。いくら御主人でももう堪忍ができないような気になって、わたしは気が狂ったのかも知れない……今度の年忘れの芝居をちょうど幸いに、日蔭町から出来合いの刀を買って来て、幕のあく間ぎわにそっと掏り替えておくと、それが巧く行って……。それでも若旦那が血だらけになって楽屋へかつぎ込まれた時には、わたしも総身に冷水(みず)を浴びせられたように悚然(ぞっ)とした。それから若旦那がいよいよ息を引き取るまで二日二晩の間、わたしはどんなに怖い思いをしたろう。若旦那の枕もとへ行くたびに、わたしはいつもぶるぶる震えていた。それでも若旦那がいなくなれば遅かれ速かれおまえは私の物になると……。それを思うと、嬉しいが半分、苦しいが半分で、きょうまで斯(こ)うして生きて来たが……。ああ、もういけない。あの岡っ引はさずがに商売で、とうとう私に眼をつけてしまったらしい」
:彼が死んだような顔をして身をおののかしているのが、障子の外からも想像された。和吉は鼻をつまらせながら又語りつづけた。
:「岡っ引は店へ来て、酔っ払っている振りをして、主殺しがこの店にいると怒鳴った。そうして、当てつけらしく磔刑(はりつけ)の講釈までして聴かせるので、私はもうそこに居たたまれなくなった位だ。そういう訳だから私はもう覚悟を決めてしまった。ここの店から縄付きになって出て、牢に入れられて、引き廻しになって、それから磔刑になる。そんな恐ろしい目に逢わないうちに……わたしは一と思いに死んでしまうつもりだ。くどくも云う通り、わたしは決してお前を怨んじゃあいない。けれどもお前という者のために、わたしが斯うなったと思ったら……勿論お前から云ったら、若旦那を殺した仇だとも思うだろうけれども、わたしの心持も少しは察して、どうぞ可哀そうだと思っておくれ。若旦那を殺したのはわたしが悪い。私があやまる。その代りに私が死んだあとでは、せめて御線香の一本でも供えておくれ。それが一生のお願いだ。ここに給金を溜めたのが二両一分ある。これはみんなお前にあずけて行くから」
:声はいよいよ陰(くも)って低くなったので、それから後はよく判らなかったが、お冬のふふり泣きをする声もおりおりに聞えた。石町(こくちょう)の八ツ(午後二時)の鐘が響いた。それに驚かされたように、障子の内では人の起ちあがる気配がしたので、半七は再び南天の繁みに隠れると、縁をふむ足音が力なくきこえて、和吉は縁づたいにしょんぼりと影のように出て行った。泥足をはたいて半七は縁に上がった。
:それから再び店へ行ってみると、和吉の姿はここに見えなかった。帳場の番頭を相手にしばらく世間話をしていたが、和吉はやはり出て来なかった。
:「時に和吉さんという番頭はさっきから見えませんね」と、半七は空とぼけて訊いた。
:「さあ、どこへ行きましたかしら」と、大番頭も首をかしげていた。「使に出たはずもないんですが……。なんぞ御用ですか」
:「いえ、なに。だが、外へ出た様子だかどうだか、ちょいと見て来てくれませんか」
:小僧は奥へはいったが、やがて又出て来て、和吉は奥にも台所にも見えないと云った。
:「それから大和屋の旦那はまだおいでですか」と、半七はまた聞いた。
:「へえ。大和屋の旦那はまだ奥にお話をしていらっしゃいますようで……」
:「わたしがちょっとお目にかかりたいと、そう云ってくれませんか」
:襖を閉め切った奥の居間には、主人夫婦と十右衛門とが長火鉢を取り巻いて、昼でも薄暗い空気のなかに何かひそひそ相談をしていた。おかみさんは四十前後の人品の好い女で、眉のあとの薄いひたいを陰らせていた。半七はその席へ案内された。
:「もし、旦那。若旦那のかたきは知れました」と、半七は小声で云った。
:「え」と、こっちを向いた三人の眼は一度に輝いた。
:「お店の人間ですよ」
:「店の者……」と、十右衛門は一と膝乗り出して来た。「じゃあ、さっきお前さんがあんなことを云ったのはほんとうなんですか」
:「酔った振りしてさんざんに失礼なことを申し上げましたが、科人(とがにん)はお店の和吉ですよ」
:「和吉が……」
:三人は半信半疑の眼を見あわせているところへ、女中の一人があわただしく転(ころ)げ込んで来た。何かの用があって裏の物置へはいると、そこに和吉が首を縊(くく)って死んでいたというのであった。
:「首を縊るか、川へ入るか、いずれそんなことだろうと思っていました」と、半七は溜息をついた。「さっき大和屋の旦那からいろいろのお話を伺っているうちに、若旦那とお冬どんのことが耳に止まりました。それから芝居のときに若旦那と同じ部屋にいたという和吉のことが気になりました。若旦那とお冬どんと和吉、この三人を結びつけると、どうしても何か色恋のもつれがあるらしく思われましたから、まずお冬どんに逢ってそれとなく聞いてみますと、和吉が親切にたびたび見舞に来てくれるという。いよいよおかしいと思いましたから、店へ行ってわざと聞けがしに呶鳴りました。大和屋の旦那はさぞ乱暴な奴と思召(おぼしめ)したでしょうが、正直のところ、わたくしは店のためを思いましたので……。私が彼奴を縛って行くのは雑作(ぞうだ)もありませんが、あいつが入牢(じゅろう)して吟味をうける。兇状が決って江戸じゅうを引き廻しになる。吟味中もいろいろの引き合いでこちらが御迷惑もなさるでしょうし。第一ここのお店から引き廻しの科人が出たと云われちゃあ、お店の暖簾(のれん)に疵が付きましょうし、自然これからの御商売にも障るだろうからと存じましたから、どうかして彼奴を縄付きにしたくない。あいつとても引き廻しや磔刑になるよりも、いっそ一と思いに自滅した方がましだろうと思いましたので、わざとああ云って嚇(おど)かしてやったんです。もう一つには、わたくしも確かに彼奴と見極めるほどの立派な証拠を握ってはいないんですから、まあ手探りながら無暗にあんなことを云って見たんで……。もし、まったく本人に何の覚えもないことならば、ほかの人達と同じように唯聞き流してしまうでしょうし、もし覚えのあることならば、とてもじっとしてはいられまいと、こう思ったのが巧く図にあたって、あいつもとうとう覚悟を決めたんです。詳しいことはお冬どんからお聴きください」
:三人は唾(つば)を嚥(の)んで聴いていた。
:「半七さん。いや、恐れ入りました」と、十右衛門は先ず口を切った。「科人を縛るのがお前さんのお役でありながら、自分の手柄を捨ててこの家の暖簾に疵を付けまいとして下すった。そのお礼はなんと申していいか、それに甘えてもう一つのお願いは、どうかこれを表向きにしないで、和吉は飽くまで乱心ということにして……」
:「よろしゅうございます。親御さんや御親類の身になったら、逆(さか)磔刑にしても飽き足らぬと思召すでもございましょうが、どんなむごい仕置きをしたからと云って、死んだ若旦那が返るという訳でもございませんから、これも何かの因縁と思召して、和吉の後始末はまあ好いようにしてやって下さいまし」
:「重ね重ねありがとうございます」
:「だが、旦那、このことは無論内分にいたしますが、江戸中にたった一人、正直に云って聞かせなけりゃあならない者がございますから、それだけは最初からお断り申して置きます」と、半七は男らしく云った。
:「江戸じゅうに一人」と、十右衛門は不思議そうな顔をした。
:「この席じゃあちっと申しにくいことですが、下谷にいる文字清という常盤津の師匠です」
:和泉屋の夫婦は顔をみあわせた。
:「あの女も今度のことについては、いろいろと勘違いしているようですから、得心(とくしん)の行くように私からよく云って聞かせなけりゃあなりません」と、半七は云った。「それから余計なお世話ですが、若旦那のお達者でいる間は又いろいろ御都合もございましたろうが、もう斯(こ)うなりました上は、あの女にもお出入りを許してやって、ちっとは御面倒を見てやって下さいまし。あの年になっても亭主を持たず、だんだん年は老(と)る。頼りのない女は可哀そうですからねえ」
:半七にしみじみ云われて、おかみさんは泣き出した。
:「まったくわたしが行き届きませんでした。あしたにも早速たずねて行って、これからは姉妹(きょうだい)同様に附き合います」
:「すっかり暗くなりました」
:半七老人は起って頭の上の電燈をひねった。
:「お冬はその後も和泉屋に奉公していまして、それから大和屋の媒酌(なこうど)で、和泉屋の娘分ということにして浅草の方へ縁付かせました。文字清も和泉屋へ出入りをするようになって、二、三年の後に師匠をやめて、やはり大和屋の世話で芝の方へ縁付きました。大和屋の主人は親切な世話好きの人でした。
:和泉屋は妹娘のお照に婿を取りましたが、この婿がなかなか働き者で、江戸が東京になると同時に、すばやく商売替えをして、時計屋になりまして、今でも山の手で立派に営業しています。むかしの縁で、わたくしも時々遊びに行きますよ
:『八笑人(はっしょうじん)』でもお馴染みの通り、江戸時代には素人のお座敷狂言や茶番がはやりまして、それには忠臣蔵の五段目六段目がよく出たものでした。衣裳や道具がむずかしくない故(せい)もありましたろう。わたくしもよんどころない義理合いで、幾度も見せられたこともありましたが、この和泉屋の一件があってから、不思議に六段目が出なくなりました。やっぱり何だか心持がよくないと見えるんですね」
{{PD-old-auto-1996|deathyear=1939}}
d5wtjlf6lowp3fp295j6z9j61110mw7
230400
230398
2025-07-07T17:29:33Z
Hideokun
2025
/* 一 */
230400
wikitext
text/x-wiki
{{header
| title = 『[[半七捕物帳]]』(はんしちとりものちょう)
|section= 第二巻/勘平の死
|previous=[[半七捕物帳 第二巻/一つ目小僧|一つ目小僧]]
|next=[[半七捕物帳 第二巻/雪達磨|雪達磨]]
|author=岡本綺堂
|notes=
*底本:1999年10月10日春陽堂書店発行『半七捕物帳第二巻』
{{デフォルトソート:はんしちとりものちよう206}}
[[Category:半七捕物帳|206]]
[[Category:岡本綺堂]]
}}
== 勘平(かんぺえ)の死(し) ==
=== 一 ===
:歴史小説の老大家T先生のお宅に訪問して、江戸のむかしのお話をいろいろ伺ったので、わたしは又かの半七老人に逢いたくなった。T先生のお宅を出たのは午後三時頃で、赤坂の大通りでは仕事師が家々のまえに{{r|門松|かどまつ}}を立てていた。砂糖屋の店さきには七、八人の男や女が、狭そうに押し合っていた。年末大売出しの紙ビラや立看板や、紅い提灯やむらさきの旗や、{{r|濁|にご}}った楽隊の音や、{{r|甲|かん}}走った蓄音器のひびきや、それらの色彩と音楽とが一つに溶け合って、{{r|師走|しわす}}の都の{{r|巷|ちまた}}にあわただしい気分を作っていた。
:「もう{{r|数|かぞ}}え{{r|日|び}}だ」
:こう思うと、わたしのような{{r|閑人|ひまじん}}が方々のお邪魔をして歩いているのは、あまり心ない{{r|仕業|しわざ}}であることを考えなければならなかった。私も、もうまっずぐに自分の{{r|家|うち}}に帰ろうと思い直した。そうして、電車の停留場の方へぶらぶら歩いてゆくと、往来のなかでちょうど半七老人に出逢った。
:「どうなすった。この頃はしばらく見えませんでしたね」
:老人はいつも元気よく笑っていた。
:「実はこれから伺おうかと思ったんですが、歳の暮にお邪魔をしても悪いと思って……」
:「なあに、わたくしはどうせ隠居の身分です。盆も暮も正月もあるもんですか。あなたの方さえ御用がなけりゃあ、ちょと寄っていらっしゃい」
:渡りに舟というのは全くこの事であった。わたしは遠慮なしにそのあとについて行くと、老人は先に立って格子をあけた。
:「{{r|老婢|ばあや}}。お客様だよ」
:私はいつもの六畳に通された。それからいつもの通りに{{r|佳|よ}}いお茶が出る。旨い菓子が出る。忙がしい師走の社会と遠く懸け放れている老人と若い者とは、時計のない国に住んでいるように、日の暮れる頃までのんびりした心持で語りつづけた。
:「ちょうど今頃でしたね。{{r|京橋|きょうばし}}の{{r|和泉屋|いずみや}}で素人芝居のあったのは……」と、老人は思い出したように云った。
:「なんです。しろうと芝居がどうしたんです」
:「その時に一と騒動が持ち上がりましてね。その時には私も少し頭を痛めましたよ。あれは確か{{r|安政|あんせい}}{{r|午|うま}}年の十二月、歳の暮にしては暖い晩でした。和泉屋というのは大きな{{r|鉄物屋|かなものや}}で、店は{{r|具足町|ぐそくちょう}}にありました。{{r|家中|うちじゅう}}が芝居気ちがいでしてね。とうとう大変な騒ぎをおっ始めてしまったんです。え、その話をしろと云うんですか。じゃあ、又いつもの手柄話を始めますから、まあ聴いてください」
:安政五年の暮は案外あたたかい日が四、五日つづいた。半七は朝飯を済ませて、それから八丁堀の旦那(同心)方のところへ歳暮にでも廻ろうかと思っていると、妹のお{{r|粂|くめ}}が台所の方から忙しそうにはいって来た。お粂は母のお{{r|民|たみ}}と{{r|明神下|みょうじんした}}に世帯を持って、常盤津の師匠をしているのであった。
:「姉さん、お早うございます。兄さんはもう起きていて……」
:女中と一緒に台所で働いていた女房のお{{r|仙|せん}}はにっこりしながら振り向いた。
:「あら、お粂ちゃん、お上がんなさい。大変に早く、どうしたの」
:「すこし兄さんに頼みたいことがあって……」と、お粂はうしろをちょっと見返った。「さあ、おはいんなさいよ」
:お粂の蔭にはまだ一人の女がしょんぼりと立っていた。女は三十七八の粋な{{r|大年増|おおどしま}}で、お粂と同じ商売の人であるらしいことはお仙にもすぐ{{r|覚|さと}}られた。
:「あの、お前さん。どうぞこちらへ」
:たすきをはずして{{r|会釈|えしゃく}}すると、女はおずおずはいって来て丁寧に会釈した。
:「これはおかみさんでございますか。わたくしは{{r|下谷|しもや}}に居ります{{r|文字清|もじきよ}}と申します者で、こちらの{{r|文字房|もじふさ}}さんには毎度お世話になっております」
:「いいえ、どう致しまして。お粂さんこそ年が行きませんから、さぞ御厄介になりましょう」
:この間にお粂は奥へはいって又出て来た。文字清という女は彼女に案内されて、神経の{{r|尖|とが}}ったらしい蒼ざめた顔を半七のまえに出した。文字清はこめかみに頭痛膏を貼って、その眼もすこし血走っていた。
:「兄さん。早速ですが、この文字清さんがお前さんに折り入って頼みたいことがあると云うんですがね」
:お粂は仔細ありそうに、こじの蒼ざめた女を{{r|紹介|ひきあわ}}した。
:「むむ。そうか」と、半七は女の方に向き直った。「もし、おまえさん。どんな御用だか知りませんが、私に出来そうなことだかどうだか、伺って見ようじゃありませんか」
:「だしぬけに伺いましてまことに恐れ入りますが、わたくしもどうしていいか思案に余って居りますもんですから、かねて御懇意にいたして居ります文字房さんにお願い申して、こちらへ押し掛けに伺いまいしたような訳で……」と、文字清は畳に手を置いた。「お聞き及びでございましょうが、この十九日の晩に具足町の和泉屋で年忘れの素人芝居がございました」
:「そう、そう。飛んだ間違いがあったそうですね」
:和泉屋の事件というのは半七も聞いて知っていた。和泉屋の家じゅうが芝居気ちがいで、歳の暮には近所の人たちや出入りの者共をあつめて、歳忘れの素人芝居を催すのが年々の例であった。今年も十九日の夕方から幕をあけた。それはすこぶる大がかりのもので、奥座敷を三{{r|間|ま}}ほど打ち抜いて、正面には{{r|間口|まぐち}}三間の舞台をしつらえ、衣裳や小道具のたぐいもなかなか贅沢なものを用いていた。役者は店の者や近所の者で、チョボ語りの太夫も{{r|下座|げざ}}の{{r|囃子方|はやしかた}}もみな素人の道楽者を狩り集めて来たのであった。
:今度の狂言は忠臣蔵の三段目、四段目、五段目、六段目、九段目の五幕で、和泉屋の総領息子の{{r|角太郎|かくたろう}}が{{r|早野|はやの}}{{r|勘平|かんぺえ}}を勤めることになった。角太郎はことし十九の{{r|華奢|きゃしゃ}}な男で、ふだんから近所の若い娘たちには役者のようだなどと噂されていた。若旦那の勘平は{{r|嵌|はま}}り役だと、見物の人たちにも期待された。
:舞台では喧嘩場から山崎街道までの三幕をとどこおりなく演じ終って、六段目の幕をあけたのは冬の夜の五ツ(午後八時)過ぎであった。幾分はお{{r|追従|ついしょう}}もまじっているであろうが、若旦那の勘平をぜひ拝見したいというので、この前の幕があく頃から遅れ馳せの見物人がだんだんに詰めかけて来た。燭台や火鉢の置き所もないほどにぎっしり押し込められた見物席には、女の{{r|白粉|おしろい}}や油の匂いが{{r|咽|む}}せるようによどんでいた。煙草のけむりも渦をまいてみなぎっていた。男や女の笑い声が外まで洩れて、師走の往来の人の足を停めさせるほど華やかにきこえた。
:併しこの歓楽のさざめきは忽ち哀愁の涙に変った。角太郎の勘平が腹を切ると{{r|生々|なまなま}}しい血潮が彼の衣裳を真っ赤に染めた。それは用意の{{r|糊紅|のりべに}}ではなかった。苦痛の表情が凄いほどに真に迫っているのを驚嘆していた見物は、かれが{{r|台詞|せりふ}}を云いきらぬうちに舞台にがっくり倒れたのを見て、更におどろいて騒いだ。勘平の刀は舞台で用いる{{r|金貝|かながい}}張りと思いのほか、{{r|鞘|さや}}には{{r|本身|ほんみ}}の刀がはいっていたので、角太郎の切腹は芝居ではなかった。夢中で力一ぱい突き立てた刀の切っ先は、ほんとうに彼の脇腹を深く貫いたのであった。苦しんでいる役者はすぐに楽屋へ担ぎ込まれた。もう芝居どころの沙汰ではない。驚きと{{r|怖|おそ}}れのとのうちに今夜の年忘れの宴会はくずれてしまった。
:角太郎は舞台の顔そのままで医師の手当てをうけた。蒼白く{{r|粧|つく}}った顔は更に蒼くなった。おびただしく出血した傷口はすぐに幾針も縫われたが、その経過は思わしくなかった。角太郎はそれから二日二晩苦しみ通して、二壽一日の夜に{{r|悶|もが}}き{{r|死|じに}}のむごたらしい終りを遂げた。その{{r|葬式|とむらい}}は二十三日の{{r|午|ひる}}すぎに和泉屋の店を出た。
:きょうはその翌日である。
:併しこの文字清と和泉屋とのあいだに、どんな関係が結び付けられているのか、それは半七にも想像が付かなかった。
:「そのことに就いて、文字清さんが大変に{{r|口惜|くや}}しがっているんですよ」と、お粂がそばから口を添えた。
:文字清の蒼い顔には涙が一ぱいに流れ落ちた。
:「親分。どうぞ{{r|仇|かたき}}を取ってください」
:「かたき……。誰の仇を……」
:「わたくしの{{r|伜|せがれ}}の仇を……」
:半七は{{r|煙|けむ}}にまかれて相手の顔をじっと見つめていると、文字清はうるんだ眼を{{r|嶮|けわ}}しくして彼を睨むように見あげた。その唇は{{r|癇持|かんも}}ちのように怪しくゆがんで、ぶるぶる{{r|顫|ふる}}えていた。
:和泉屋の若旦那は、師匠、おまえさんの子かい」と、半七は不思議そうに訊いた。
:「はい」
:「ふうむ。そりゃあ初めて聞いた。じゃあ、あの若旦那は今のおかみさんの子じゃあないんだね」
:「角太郎はわたくしの伜でございます。こう申したばかりではお判りになりますまいが、今から丁度二十年前のことでございます。わたくしが{{r|中橋|なかばし}}の近所でやはり常盤津の師匠をして居りますと、和泉屋の旦那が時々遊びに来まして、自然まあそのお世話になって居りますうちに、わたくしはその翌年に男の子を生みました。それが今度亡くなりました角太郎で……」
:「じゃあ、その男の子を和泉屋で引き取ったんだね」
:「左様でございます。和泉屋のおかみさんが其の事を聞きまして、丁度こっちに子供が無いから引き取って自分の子にしたいと……。わたくしも手放すのは{{r|忌|いや}}でしたけれども、向うへ引き取られればりっぱな店の跡取りにもなれる。つまり本人の出世になることだと思いまして、産れると間もなく和泉屋の方へ渡してしまいました。で、こういう親があると知れては、世間の手前もあり、当人の為にもならないというので、わたくしは相当の手当てを貰いまして、伜とは一生縁切りという約束をいたしました。それから下谷の方へ引っ越しまして、こんにちまで相変らずこの商売をいたして居りますが、やっぱり親子の人情で、一日でも生みの子のことを忘れたことはございません。伜がだんだん大きくなって立派な若旦那になったという噂を聴いて、わたくしも蔭ながら喜んで居りますと、飛んでもない今度の騒ぎで……。わたくしももう気でも違いそうに……」
:文字清は畳に食いつくようにして、声を立てて泣き出した。
=== 二 ===
:「へええ。そんな{{r|内情|いきさつ}}があるんですかい。わたしはちっとも知らなかった」と、半七は{{r|喫|の}}みかけていた{{r|煙管|きせる}}をぽんと叩いた。「それにしても、若旦那の死んだのは不時の災難で、誰を怨むというわけにも行くめえと思うが……。それとも其処にはなにか理窟がありますかえ」
:「はい、判って居ります。おかみさんが殺したに相違ございません」
:「おかみさんが……。まあ落ち着いて訳を聞かせておくんなせえ。若旦那を殺すほどならば、最初から自分の方へ引き取りもしめえと思うが……」
:訊く人の無智を{{r|嘲|あざけ}}るように、文字清は泪のあいだに凄い笑顔を見せた。
:「角太郎が和泉屋へ貰われてから五年目に、今のおかみさんの腹に女の子が出来ました。お{{r|照|てる}}といって今年十五になります。ねえ、親分。おかみさんの{{r|料簡|りょうけん}}になったら、角太郎が可愛いでしょうか。自分の生みの娘が可愛いでしょうか。角太郎に家督を譲りたいでしょうか。お照に相続させたいでしょうか。ふだんは幾ら好い顔をしていても、人間のは鬼です。邪魔になる角太郎をどうして亡き者にしようか位のことは考え付こうじゃありませんか。まして角太郎は旦那の隠し子ですもの、腹の底には女の{{r|嫉|ねた}}みもきっとまじっていましょう。そんなことをいろいろ考えると、おかみさんが自分でしたか人にやらせたか、楽屋のごたごたしている{{r|隙|すき}}をみて、本物の刀に{{r|掏|す}}り替えて置いたに相違ないと、わたくしが疑ぐるのが無理でしょうか。それはわたくしの邪推でしょうか。親分、お前さんは何とお思いです」
:和泉屋の息子にこうした秘密のあることは、半七も今までまるで知らなかった。なるほど文字清のいう通り、角太郎は{{r|継子|ままこ}}である。しかも主人の隠し子である。たとい表面は美しく自分の家へ引取っても、おかみさんの胸の奥に冷たい{{r|凝塊|しこり}}の残っていることは{{r|否|いな}}まれない。まして其の後に自分の実子が出来た以上は、角太郎に身代を渡したくないと思うのも女の情としては無理もない。それが{{r|嵩|こう}}じて、今度のような非常手段を{{r|企|たくら}}むということも必ず無いとは受け合えない。半七はこれまで種々の犯罪事件を取り扱っている経験から、人間の恐ろしいということも{{r|能|よ}}く{{r|識|し}}っていた。
:文字清は無論、和泉屋のおかみさんが我が子のかたきと{{r|一途|いちず}}に思いつめているらしかった。
:「親分、察してください。わたくしは口惜しくって、口惜しくって……。いっそ出刃包丁でも持って和泉屋へ暴れ込んで、あん畜生をずたずたに切り殺してやろうかと思っているんですが……」
:彼女は次第に神経が{{r|昂|たか}}ぶって、物狂おしいほどに取りのぼせていた。ここでうっかり{{r|嗾|けしか}}けるようなことを云ったら、{{r|病犬|やまいぬ}}のような彼女は誰に{{r|啖|くら}}い付こうも知れなかった。半七は逆らわずに、黙って煙草をすっていたが、やがてしずかに口をあいた。
:「すっかり判りました。ようがす。わたしが出来るだけ調べてあげましょう。{{r|如才|じょさい}}はあるめえが、当分は誰にも内証にして……」
:「いくら自分の子になっているからと云って、角太郎を殺したおかみさんは無事じゃあ済みますまいね。お{{r|上|かみ}}できっとかたきを取って下さるでしょうね」と、文字清は念を押した。
:「そりゃあ、知れたことさ。まあ、なんでもいいから私にまかせてお置きなせえ」
:文字清をなだめて帰して、半七はすぐに出る支度をした。お粂はあとに残って{{r|義姉|あね}}のお仙と何かしゃべっていた。
:「兄さん。御苦労さまね。まったく和泉屋のおかみさんが悪いんでしょうか」と、半七の出る時にお粂はうしろからささやくように訊いた。
:「そりゃあ判らねえ。なんとか手を着けてみようよ」
:半七はまっすぐ京橋へ向った。いくら御用聞きでも、何の手がかりも無しにむやみに和泉屋へ乗り込んで詮議立てをするわけには行かなかった。彼は{{r|鉄物|かなもの}}屋の店さきを素通りして、町内の鳶{{r|頭|かしら}}の{{r|家|うち}}をたずねた。鳶頭はあいにく留守だというので、彼はその女房とふた言三言挨拶して別れた。
:「これから何処へ行ったものだろう」
:往来に立って思案しているうちに、半七はうしろから自分を追い掛けて来た人のあるのに気がついた。それは五十以上の町人風の男で、悪い生活の人ではないということは一と目にも知られた。男は半七のそばへ来て丁寧に挨拶した。
:「まことに失礼でございますが、お前さんは神田の親分さんじゃあございますまいか。わたくしは{{r|芝|しば}}の{{r|露月町|とうげつちょう}}に鉄物渡世をいたして居ります{{r|大和屋|やまとや}}十右衛門と申す者でございますが、只今あの鳶頭の家へ少し相談があって訪ねてまいりますと、鳶頭は留守で、おかみさんを相手に何かの話をして居ります所へ、お前さんがお出でになりまして……。おかみさんに訊くと、あれは神田の親分さんだというので、好い折柄と存じまして、すぐにおあとを追ってまいりましたのですが、いかがでございましょうか。御迷惑でもちょいとそこらまで御一緒においで下さるわけには……」
:「ようございます。お{{r|伴|とも}}いたしましょう」
:十右衛門に誘われて、半七は近所の鰻屋へはいった。小ぢんまりとした南向きの二階の縁側にはもう春らしい日影がやわらかに流れ込んで、そこにならべてある鉢植えの梅のおもしろい枝振りを、あかるい障子へ墨絵のように映していた。あつらえの{{r|肴|さかな}}の来るあいだに二人は差し向いで{{r|猪口|ちょこ}}の{{r|献酬|やりとり}}を始めた。
:「親分もお役目柄でもう何もかも御承知でございましょうが、和泉屋の伜も飛んだことになりまして……。実はわたくしは和泉屋の女房の兄でございます。今度のことに就きまして、死んだ者は今さら致し方もございませんが、さて其の後の評判でございますが……。人の口はまことにうるさいもので、妹もたいへん心配して居りますので……」
:十右衛門は思い余ったように云った。角太郎の変死については産みの母の文字清ばかりでなく、その秘密を薄々知っている出入りの者のうちには、やはり同じような疑いの眼の光りをおかみさんの上に投げている者もあるらしい。十右衛門はそれを苦に病んで、きょうも町内の鳶頭のところへ相談に行ったのであった。
:「どうして本身の刀と掏り替っていたか、内々それを調べて貰いたいと存じまして……。万一つまらない噂などを立てられますと、妹が実に可哀そうでございます。兄の口から{{r|斯|こ}}う申すのもいかがでございますが、あれはまったく正直なおとなしい女でございまして、角太郎を生みの子のように大切にして居りましたのに……。それを何か世間にありふれた{{r|継母|ままはは}}根性のようにでも思われますのは、いかにも心外で……。ともかくも{{r|葬式|とむらい}}はきのう済みましたから、これから何とか致してその間違いの起った筋道を詮議いたしたいと存じて居るのでございます。その筋道がよく判りませんで、妹が何かの疑いでも受けますようでございますと、妹は気の小さい女ですから、あんまり心配して気違いにでもなり兼ねません。それが{{r|不憫|ふびん}}でございまして……」と、十右衛門は鼻紙を出して{{r|洟|はな}}をかんだ。
:文字清も気違いになりかかっている。和泉屋のおかみさんも気違いになるかも知れないと云う。文字清の話がほんとうであるか、十右衛門の話がいつわりであるか、さすがの半七にも容易に判断がつかなかった。
:「芝居の晩にはおまえさんも無論見物に行っておいでになったんでしょうね」と、半七は猪口をおいて訊いた。
:「はい。見物して居りました」
:「楽屋には大勢詰めていたんでしょうね」
:「なにしろ楽屋が狭うございまして、八畳に十人ばかり、離れの四畳半に二人。役者になる者はそれだけでしたが、ほかに手伝いが大勢で、おまけに衣裳やら{{r|鬘|かつら}}やらがそこら一ぱいで、足の踏み立てられないような混雑でございます。最初にめいめいの小道具類を渡されました時に、角太郎も一々調べて見ましたそうですから、その時には決して間違って居りませんので……。いよいよ舞台へ出るという間ぎわに多分取り違ったか、掏り替えられたか。一体誰がそんなことをしたのか、まるで見当が付きませんので困って居ります」
:「なるほど」
:半七は殆ど猪口をそのままにして腕を{{r|拱|く}}んでいた。十右衛門も黙って自分の膝の上を眺めていた。一匹の蠅が障子の紙を忙がしそうに渡ってゆく{{r|跫音|あしおと}}が微かに響いた。
:「若旦那は八畳にいたんですか、四畳半の方ですか」
:「四畳半の方におりました。{{r|庄八|しょうはち}}、{{r|長次郎|ちょうじろう}}、{{r|和吉|わきち}}という店の者と一緒に居りました。庄八は衣裳の手伝いをして、長次郎は湯や茶の世話をしていたようでした。和吉は役者でございまして、{{r|千崎|せんざき}}{{r|弥五郎|やごろう}}を勤めて居りました」
:「それから、おかしなことを伺うようですが、若旦那は芝居のほかに何か道楽はありましたかえ」と、半七は訊いた。
:碁将棋のたぐいの勝負事は嫌いである、女道楽の噂も聞いたことがないと、十右衛門は答えた。
:「お嫁さんの噂もまだ無いんですね」
:「それは内々きまって居りますので」と十右衛門はなんだか迷惑そうに云った。「こうなれば何もかも申し上げますが、実は仲働きのお{{r|冬|ふゆ}}という女に手をつけまして……。尤もその女は{{r|容貌|きりょう}}も好し、気立ても悪くない者ですから、いっそ世間に知られないうちに相当の仮親でもこしらえて、嫁の披露をしてしまった方が好いかも知れないなどと、親達も内々相談して居りましたのですが、思いもつかない{{r|斯|こ}}んなことになってしまいまして、つまり両方の運が悪いのでございます」
:この恋物語に半七は耳をかたむけた。
:「そのお冬というのは幾つで、どこの者です」
:「年は十七で、{{r|品川|しながわ}}の者です」
:「どうでしょう。そのお冬という女にちょいと逢わして貰うわけには参りますまいか」
:「なにしろ年は若うございますし、角太郎が不意にあんなことになりましたので、まるで気抜けがしたようにぼんやりして居りますから、とても取り留めた御挨拶などは出来ますまいが、お望みならいつでもお逢わせ申します」
:「なるたけ早いほうがようございますから、お差し支えがなければ、これからすぐに御案内を願えますまいか」
:「承知いたしました」
:二人は飯を食ってしまったら、すぐ和泉屋へ出向くことに相談をきめた。十右衛門が待ちかねて手を鳴らした時に、あつらえの鰻をようよう運んで来た。
=== 三 ===
:十右衛門は急いで箸をとったが、半七は碌々に飯を食わなかった。彼は熱いのをもう一本持って来てくれと女中に頼んだ。
:「親分はよっぽど召し上がりますか」と、十右衛門は訊いた。
:「いいえ、{{r|野暮|やぼ}}な人間ですからさっぱり{{r|飲|い}}けないんです。だが、きょうは少し飲みましょうよ。顔でも{{r|紅|あか}}くしていねえと景気が付きませんや」と、半七はにやにや笑っていた。
:十右衛門は妙な顔をして黙ってしまった。
:女中が持って来た一本の徳利を半七は手酌で飲み干した。南に日をうけた暖い座敷で真昼に酒をのみ過したので、半七の顔も手足も歳の{{r|市|いち}}で売る飾り{{r|海老|えび}}のように真っ紅になった。
:「どうです。渋っ紙は好い加減に染まりましたか」と、半七は熱い頰を撫でた。
:「はい、好い色におなりでございます」と、十右衛門は仕方なしに笑っていた。
:そうして、こんなに酔っている男を和泉屋へ案内するのは、なんだか{{r|心許|こころもと}}ないようにも思ったらしいが、今更ことわるわけにも行かないので、かれは勘定を払って半七を表へ連れ出した。半七の足もとは少し乱れて、向うから鮭をさげて来る小僧に危く突き当りそうになった。
:「親分。大丈夫ですか」
:十右衛門に手を取られて半七はよろけながら歩いた。飛んだ人に飛んだことを相談したと、十右衛門はいよいよ後悔しているらしく見えた。
:「旦那。どうぞ裏口からこっそり入れてください」と、半七は云った。
:しかし、まさか裏口へも廻されまいと十右衛門は少し躊躇していると、半七は店の横手の路地へはいって、ずんずん裏口の方へまわって行った。その足取りはあまり酔っているらしくも見えなかった。十右衛門は追うように其の後について行った。
:「すぐにお冬どんに逢わしてください」
:裏口からはいった半七は、広い台所を通りぬけて女中部屋を覗いたが、そこには三人の{{r|赭|あか}}ら顔の女中がかたまっていて、お冬らしい女のすがたは見えなかった。
:「お冬はどうした」と、十右衛門は障子を細目にあけると、赭ら顔は一度にこっちを振り向いて、お冬はゆうべから気分が悪いというので、おかみさんの指図で離れ座敷の四畳半に寝かしてあると答えた。その四畳半は十九日の晩、角太郎の楽屋にあてた小座敷であった。
:縁伝いで奥へ通ると、狭い中庭には大きな南天が紅い玉を房々と実らせていた。ふたりは障子の前に立って、十右衛門が先ず声をかけると、障子は内から開かれた。障子をあけたのはお冬の枕辺に坐っていた若い男で、お冬は{{r|鬢|びん}}も隠れるほど{{r|衾|よぎ}}を深くかぶっていた。男は小作りで色のあさ黒い、額の狭い眉の濃い顔であった。
:十右衛門に挨拶して、若い男は早々に出て行ってしまった。あれが{{r|先刻|さっき}}お話し申した千崎弥五郎の和吉ですと、十右衛門が云った。
:衾を掻いやって蒲団の上に起き直ったお冬の顔は、半七がけさ逢った文字清の顔よりも更に蒼ざめて{{r|窶|やつ}}れていた。生きた幽霊のような彼女は、なにを聞いても要領を得るほどの{{r|捗々|はかばか}}しい返事をしなかった。かれは恐ろしい其の夜の悪夢を呼び起すに堪えないように、唯さめざめと泣いているばかりであった。この二、三日の春めいた陽気にだまされて、どこかで籠の鶯が啼いているのも却って寂しい思いを誘われた。
:お冬の胸に燃えていた恋の火は、灰となってもう{{r|頽|くず}}れてしまったのかも知れない。彼女は過去の楽しい恋の記憶については、何も話そうとしなかった。しかし{{r|惨|みじ}}めな彼女の現在については、不十分ながらも半七の問いに対してきれぎれに答えた。旦那やおかみさんは自分に同情して、勿体ないほど優しくいたわってくださると彼女は語った。店の人達のうちでは和吉が一番親切で、けさから店の隙を見てもう二度も見舞に来てくれたと語った。
:「じゃあ、今も見舞に来ていたんだね。そうして、どんな話をしていたんだ」と、半七は訊いた。
:「あの、若旦那がああなってしまっては、このお店に奉公しているのも辛いから、わたしはもうお暇を頂こうかと思うと云いましたら、和吉さんはまあそんなことを云わないで、ともかくも来年の出代りまで辛抱するがいいとしきりに止めてくれました」
:半七はうなずいた。
:「いや、有難う。折角寝ているところを飛んだ邪魔をして済まなかった。まあ、からだを大事にするが好いぜ。それから大和屋の旦那、お店の方へちょいいとご案内願えますまいか」
:「はい、はい」
:十右衛門は先に立って店へ出て行った。半七はよろけながら付いて行った。さっきの酔がだんだん発したと見えて、彼の頰はいよいよ{{r|熱|ほて}}って来た。
:「旦那。店の方はこれでみんなお揃いなんですか」と半七は帳場から店の先をずらりと見渡した。四十以上の大番頭が帳場に坐って、その傍らに二人の若い番頭が{{r|十露盤|そろばん}}をはじいていた。ほかにもかの和吉ともう一人の中年の男が見えた。四、五人の小僧が店の咲きで{{r|鉄釘|かなくぎ}}の荷を解いていた。
:「はい。丁度みんな揃っているようでございます」と、十右衛門は帳場の火鉢のまえに坐った。
:半七は店のまん中にどかりと{{r|胡坐|あぐら}}をかいて、更に番頭や小僧の顔をじろじろ見まわした。
:「ねえ、大和屋の旦那。具足町で名高けえものは、{{r|清正公|せいしょうこう}}様と和泉屋だという位に、江戸中に知れ渡っている{{r|御大家|ごたいけ}}だが、失礼ながら随分不取締りだと見えますね。ねえ、そうでしょう。{{r|主|しゅ}}殺しをするような太てえ奴らに、飯を食わして給金をやって、こうして大切に飼って置くんだからね」
:店の者はみんな顔をみあわせた。十右衛門も少し慌てた。
:「もし、親分。まあ、お静かに……。この通り往来に近うございますから」
:「誰に聞えたって構うもんか。どうせ引廻しの出る{{r|家|うち}}だ」と、半七はせせら笑った。「やい、こいつら。よく聞け。てめえたちは揃いも揃って{{r|不埒|ふらち}}な奴だ。主殺しを朋輩に持っていながら、知らん顔をして奉公しているという法があると思うか。ええ、嘘をつけ。このなかに主殺しの{{r|磔刑|はりつけ}}野郎がいるということは、俺がちゃんと知っているんだ。{{r|多寡|たか}}が{{r|守|もり}}っ{{r|子|こ}}見たような小女一人の{{傍点|いきさつ}}から、大事の主人を殺すというような、そんな心得ちげえの大それた野郎をこれまで飼って置いたのがそもそもの間ちげえで、ここの主人はよっぽどの明きめくらだ。おれが御歳暮に{{r|寒鴉|かんがらす}}の五、六羽も絞め来てやるから、黒焼きにして持薬にのめとそう云ってやれ。もし、大和屋の旦那。おめえさんの眼玉もちっと{{r|陰|くも}}っているようだ。物置へ行って、{{r|灰汁|あく}}で二、三度洗って来ちゃあどうだね」
:何をいうにも相手が悪い、しかも酒には酔っている。手の着けようがないので、ただ黙って聴いていると、半七は調子に乗って又{{r|呶鳴|どな}}った。
:「だが、おれに取っちゃあ仕合わせだ。ここで主殺しの{{r|科人|とがにん}}を引っくくっていけば、八丁堀の旦那方にも好い御歳暮が出来るというもんだ。さあ、こいつ等、いけしゃあしゃあとした{{r|面|つら}}をしていたって、どの鼠が白いか黒いか俺がもう睨んでいるんだ。てめえ達の主人のような明きめくらだと思うと、ちっとばかり{{r|的|あて}}が違うぞ。いつ両腕がうしろへ廻っても、決しておれを怨むな。飛んだ梅川の浄瑠璃で、縄かける人が怨めしいなんぞ詰まらねえ愚痴をいうな。嘘や冗談じゃねえ、神妙に覚悟していろ」
:十右衛門は堪まらなくなって、半七の傍へおずおず寄って来た。
:「もし、親分。おまえさん大分酔っていなさるようだから、まあ奥へ行ってちっとお休みなすってはどうでございます。店先であんまり大きな声をして下さると、世間へ対して、まことに迷惑いたしますから。おい、和吉。親分を奥へ御案内申して……」
:「はい」と、和吉はふるえながら半七の手を取ろうとすると、彼は横っ面をゆがむほどに{{r|撲|なぐ}}られた。
:「ええ、うるせえ。何をしやがるんだ。てめえ達のような磔刑野郎のお世話になるんじゃねえ。やい、やい、なんで{{r|他|ひと}}の面を睨みやがるんだ。てめえ達は主殺しだから磔刑野郎だと云ったどうした。てめえ達も知っているだろう。磔刑になる奴は裸馬に乗せられて、江戸じゅうを引き廻しになるんだ。それから{{r|鈴ケ森|すずがもり}}か{{r|小塚|こつか}}ッ{{r|原|ぱら}}で高い木の上へ縛り付けられると、{{r|突手|つきて}}が両方から槍をしごいて、{{r|科人|とがにん}}の眼のさきに突き付けて、ありゃありゃと声をかける。それを見せ槍というんだ。よく覚えておけ。見せ槍が済むと、今度はほんどうに右と左の膝の下を何遍もすぐりずぶり突くんだ」
:この恐ろしい刑罰の説明を聴くに堪えないように、十右衛門は顔をしかめた。和吉も真っ蒼になった。ほかの者も息を{{r|嚥|の}}んで、云い知れぬ恐怖に身をすくめていた。どの人も、死の宣告を受けたように、{{r|眼|ま}}たたきもしないで{{r|少時|しばし}}は沈黙をつづけていた。
:冬の空は青々と晴れて、表の往来には明るい日のひかりが満ちていた。
=== 四 ===
:半七はとうとうそこに酔い倒れてしまった。店の真ん中に寝そべっていられては甚だ迷惑だとは思ったが、誰も迂闊(うかつ)にさわることは出来なかった。
:「まあ、仕方がない。ちっとの間、そうして置くが好い」
:十右衛門は奥へはいって、主人夫婦と何か話していた。店のものは思い思いに自分の受け持ちの用向きに取りかかった。やがて小半時(こはんとき)も経ったかと思うと、今まで眠っているように見せかけていた半七は、俄に起き上がった。
:「ああ、酔った。台所へ行って水でも飲んで来よう。なに、おかまいなさるな。わっしが自分で行きます」
:半七は台所へ行かずまっすぐに奥へまわった。中庭の縁からひらりと飛び降りて、大きい南天の葉の蔭に蛙のように腹這って隠れていた。それから少し間を置いて、和吉の姿がおなじくこの縁先にあらわれた。彼は抜き足をしながら四畳半の障子の前に忍び寄って、内の様子を窺っているらしかった。やがて彼がそっと障子をあけた時、南天の蔭から半七が顔を出した。
:障子の内では男のうるんだ声がきこえた。その声があまりに低いので、半七にはよく聴き取れなかった。しまいには焦れったくなったので、彼はそろそろと隠れ場所から抜け出して、泥坊猫のように縁に這い上がった。
:和吉の声はやはり低かった。しかも涙にふるえているらしかった。
:「ねえ。今も云う通りのわけで、わたしは若旦那を殺した。それもみんなお前が恋しいからだ。わたしは一度も口に出したことはなかったが、とうからお前に惚(ほ)れていたんだ。どうしてもお前と夫婦になりたいと思い詰めていたんだ。そのうちにお前は若旦那と……。そうして、近いうちに表向き嫁になると……。わたしの心持はどんなだったろう。お冬どん、察しておくれ。それでも私はおまえを憎いとは思わない。今でも憎いとは思っていない。唯むやみに若旦那が憎くってならなかった。いくら御主人でももう堪忍ができないような気になって、わたしは気が狂ったのかも知れない……今度の年忘れの芝居をちょうど幸いに、日蔭町から出来合いの刀を買って来て、幕のあく間ぎわにそっと掏り替えておくと、それが巧く行って……。それでも若旦那が血だらけになって楽屋へかつぎ込まれた時には、わたしも総身に冷水(みず)を浴びせられたように悚然(ぞっ)とした。それから若旦那がいよいよ息を引き取るまで二日二晩の間、わたしはどんなに怖い思いをしたろう。若旦那の枕もとへ行くたびに、わたしはいつもぶるぶる震えていた。それでも若旦那がいなくなれば遅かれ速かれおまえは私の物になると……。それを思うと、嬉しいが半分、苦しいが半分で、きょうまで斯(こ)うして生きて来たが……。ああ、もういけない。あの岡っ引はさずがに商売で、とうとう私に眼をつけてしまったらしい」
:彼が死んだような顔をして身をおののかしているのが、障子の外からも想像された。和吉は鼻をつまらせながら又語りつづけた。
:「岡っ引は店へ来て、酔っ払っている振りをして、主殺しがこの店にいると怒鳴った。そうして、当てつけらしく磔刑(はりつけ)の講釈までして聴かせるので、私はもうそこに居たたまれなくなった位だ。そういう訳だから私はもう覚悟を決めてしまった。ここの店から縄付きになって出て、牢に入れられて、引き廻しになって、それから磔刑になる。そんな恐ろしい目に逢わないうちに……わたしは一と思いに死んでしまうつもりだ。くどくも云う通り、わたしは決してお前を怨んじゃあいない。けれどもお前という者のために、わたしが斯うなったと思ったら……勿論お前から云ったら、若旦那を殺した仇だとも思うだろうけれども、わたしの心持も少しは察して、どうぞ可哀そうだと思っておくれ。若旦那を殺したのはわたしが悪い。私があやまる。その代りに私が死んだあとでは、せめて御線香の一本でも供えておくれ。それが一生のお願いだ。ここに給金を溜めたのが二両一分ある。これはみんなお前にあずけて行くから」
:声はいよいよ陰(くも)って低くなったので、それから後はよく判らなかったが、お冬のふふり泣きをする声もおりおりに聞えた。石町(こくちょう)の八ツ(午後二時)の鐘が響いた。それに驚かされたように、障子の内では人の起ちあがる気配がしたので、半七は再び南天の繁みに隠れると、縁をふむ足音が力なくきこえて、和吉は縁づたいにしょんぼりと影のように出て行った。泥足をはたいて半七は縁に上がった。
:それから再び店へ行ってみると、和吉の姿はここに見えなかった。帳場の番頭を相手にしばらく世間話をしていたが、和吉はやはり出て来なかった。
:「時に和吉さんという番頭はさっきから見えませんね」と、半七は空とぼけて訊いた。
:「さあ、どこへ行きましたかしら」と、大番頭も首をかしげていた。「使に出たはずもないんですが……。なんぞ御用ですか」
:「いえ、なに。だが、外へ出た様子だかどうだか、ちょいと見て来てくれませんか」
:小僧は奥へはいったが、やがて又出て来て、和吉は奥にも台所にも見えないと云った。
:「それから大和屋の旦那はまだおいでですか」と、半七はまた聞いた。
:「へえ。大和屋の旦那はまだ奥にお話をしていらっしゃいますようで……」
:「わたしがちょっとお目にかかりたいと、そう云ってくれませんか」
:襖を閉め切った奥の居間には、主人夫婦と十右衛門とが長火鉢を取り巻いて、昼でも薄暗い空気のなかに何かひそひそ相談をしていた。おかみさんは四十前後の人品の好い女で、眉のあとの薄いひたいを陰らせていた。半七はその席へ案内された。
:「もし、旦那。若旦那のかたきは知れました」と、半七は小声で云った。
:「え」と、こっちを向いた三人の眼は一度に輝いた。
:「お店の人間ですよ」
:「店の者……」と、十右衛門は一と膝乗り出して来た。「じゃあ、さっきお前さんがあんなことを云ったのはほんとうなんですか」
:「酔った振りしてさんざんに失礼なことを申し上げましたが、科人(とがにん)はお店の和吉ですよ」
:「和吉が……」
:三人は半信半疑の眼を見あわせているところへ、女中の一人があわただしく転(ころ)げ込んで来た。何かの用があって裏の物置へはいると、そこに和吉が首を縊(くく)って死んでいたというのであった。
:「首を縊るか、川へ入るか、いずれそんなことだろうと思っていました」と、半七は溜息をついた。「さっき大和屋の旦那からいろいろのお話を伺っているうちに、若旦那とお冬どんのことが耳に止まりました。それから芝居のときに若旦那と同じ部屋にいたという和吉のことが気になりました。若旦那とお冬どんと和吉、この三人を結びつけると、どうしても何か色恋のもつれがあるらしく思われましたから、まずお冬どんに逢ってそれとなく聞いてみますと、和吉が親切にたびたび見舞に来てくれるという。いよいよおかしいと思いましたから、店へ行ってわざと聞けがしに呶鳴りました。大和屋の旦那はさぞ乱暴な奴と思召(おぼしめ)したでしょうが、正直のところ、わたくしは店のためを思いましたので……。私が彼奴を縛って行くのは雑作(ぞうだ)もありませんが、あいつが入牢(じゅろう)して吟味をうける。兇状が決って江戸じゅうを引き廻しになる。吟味中もいろいろの引き合いでこちらが御迷惑もなさるでしょうし。第一ここのお店から引き廻しの科人が出たと云われちゃあ、お店の暖簾(のれん)に疵が付きましょうし、自然これからの御商売にも障るだろうからと存じましたから、どうかして彼奴を縄付きにしたくない。あいつとても引き廻しや磔刑になるよりも、いっそ一と思いに自滅した方がましだろうと思いましたので、わざとああ云って嚇(おど)かしてやったんです。もう一つには、わたくしも確かに彼奴と見極めるほどの立派な証拠を握ってはいないんですから、まあ手探りながら無暗にあんなことを云って見たんで……。もし、まったく本人に何の覚えもないことならば、ほかの人達と同じように唯聞き流してしまうでしょうし、もし覚えのあることならば、とてもじっとしてはいられまいと、こう思ったのが巧く図にあたって、あいつもとうとう覚悟を決めたんです。詳しいことはお冬どんからお聴きください」
:三人は唾(つば)を嚥(の)んで聴いていた。
:「半七さん。いや、恐れ入りました」と、十右衛門は先ず口を切った。「科人を縛るのがお前さんのお役でありながら、自分の手柄を捨ててこの家の暖簾に疵を付けまいとして下すった。そのお礼はなんと申していいか、それに甘えてもう一つのお願いは、どうかこれを表向きにしないで、和吉は飽くまで乱心ということにして……」
:「よろしゅうございます。親御さんや御親類の身になったら、逆(さか)磔刑にしても飽き足らぬと思召すでもございましょうが、どんなむごい仕置きをしたからと云って、死んだ若旦那が返るという訳でもございませんから、これも何かの因縁と思召して、和吉の後始末はまあ好いようにしてやって下さいまし」
:「重ね重ねありがとうございます」
:「だが、旦那、このことは無論内分にいたしますが、江戸中にたった一人、正直に云って聞かせなけりゃあならない者がございますから、それだけは最初からお断り申して置きます」と、半七は男らしく云った。
:「江戸じゅうに一人」と、十右衛門は不思議そうな顔をした。
:「この席じゃあちっと申しにくいことですが、下谷にいる文字清という常盤津の師匠です」
:和泉屋の夫婦は顔をみあわせた。
:「あの女も今度のことについては、いろいろと勘違いしているようですから、得心(とくしん)の行くように私からよく云って聞かせなけりゃあなりません」と、半七は云った。「それから余計なお世話ですが、若旦那のお達者でいる間は又いろいろ御都合もございましたろうが、もう斯(こ)うなりました上は、あの女にもお出入りを許してやって、ちっとは御面倒を見てやって下さいまし。あの年になっても亭主を持たず、だんだん年は老(と)る。頼りのない女は可哀そうですからねえ」
:半七にしみじみ云われて、おかみさんは泣き出した。
:「まったくわたしが行き届きませんでした。あしたにも早速たずねて行って、これからは姉妹(きょうだい)同様に附き合います」
:「すっかり暗くなりました」
:半七老人は起って頭の上の電燈をひねった。
:「お冬はその後も和泉屋に奉公していまして、それから大和屋の媒酌(なこうど)で、和泉屋の娘分ということにして浅草の方へ縁付かせました。文字清も和泉屋へ出入りをするようになって、二、三年の後に師匠をやめて、やはり大和屋の世話で芝の方へ縁付きました。大和屋の主人は親切な世話好きの人でした。
:和泉屋は妹娘のお照に婿を取りましたが、この婿がなかなか働き者で、江戸が東京になると同時に、すばやく商売替えをして、時計屋になりまして、今でも山の手で立派に営業しています。むかしの縁で、わたくしも時々遊びに行きますよ
:『八笑人(はっしょうじん)』でもお馴染みの通り、江戸時代には素人のお座敷狂言や茶番がはやりまして、それには忠臣蔵の五段目六段目がよく出たものでした。衣裳や道具がむずかしくない故(せい)もありましたろう。わたくしもよんどころない義理合いで、幾度も見せられたこともありましたが、この和泉屋の一件があってから、不思議に六段目が出なくなりました。やっぱり何だか心持がよくないと見えるんですね」
{{PD-old-auto-1996|deathyear=1939}}
22pd6d4ckfymncjx2jef8s4pb6hfxpg
トーク:檸檬
1
47070
230395
212839
2025-07-07T16:07:40Z
Hideokun
2025
ページの白紙化
230395
wikitext
text/x-wiki
phoiac9h4m842xq45sp7s6u21eteeq1
甲陽軍鑑
0
47722
230402
217798
2025-07-08T04:28:23Z
Chain114514
40905
230402
wikitext
text/x-wiki
<noinclude>
{{:甲陽軍鑑|ソート識別子=*|notes={{Textquality|50%}}|section=|section_from=上扉|section_to=目録|previous=|next=[[甲陽軍鑑/品第一|品第一]]}}
</noinclude><includeonly>{{#if:{{{ソート識別子|}}}
|__NOTOC__{{NDLJP899828|ヘッダー=1|section={{{section|}}}|previous={{{previous|}}}|next={{{next|}}}|
notes={{{notes|}}}
*底本: 高坂弾正 著 ほか『甲陽軍鑑』,温故堂,明25,26. {{#if:{{#invoke:String|match|s={{FULLPAGENAME}}|pattern=/|plain=false|nomatch=}}||{{NDLJP|899828}}}}
*Webブラウザ上でキーワード検索しやすくするために、「龍」を除く旧字を新字に変換し、いくつかの異体字を常用漢字に変換している。
*「己」と「巳」の誤りは底本のままとする。
}}
{{カテゴリ検索|甲陽軍鑑}}
<div style="margin-left:9em">
{{#Invoke:Remix|conjure|index=Template:NDLJP899828|showlink=0|bindCJK=rs,一,二,レ,soe,く,ぐ|kanji_old2new=1
|oldnew={{NDLJP899828|oldnew=1}}
|exclude=龍
|rplptn1=^.*({{仮題|ここから={{{section_from|{{{section|}}}}}}}}.+{{仮題|ここまで={{{section_to|{{{section|}}}}}}}}).*$|rplfmt1=%1|rplhan1=1|rplerr1=error
|rplptn2={{[Rr]||rplfmt2={{rs||rplhan2=1|rplerr2=skip
|rplptn5=({{仮題|投錨=[^}]+}})
|rplfmt5=%1|rplhan5=1|rplerr5=skip
|rplptn7=
({{仮題|頁=[^}]+}})
|rplfmt7=%1|rplhan7=1|rplerr7=error
|rplptn8=({{仮題|ここから=)|rplfmt8={{dhr|2em}}%1|rplhan8=1|rplerr8=error
|rplptn9=({{仮題|ここまで=)|rplfmt9={{dhr|2em}}%1|rplhan9=1|rplerr9=error
|rplptn10={{仮題||rplfmt10={{NDLJP899828||rplhan10=1}}
</div>
{{NDLJP899828|フッター=1|previous={{{previous|}}}|next={{{next|}}}|ソート識別子={{{ソート識別子|}}}}}
}}</includeonly>
{{檢索|甲陽軍鑑}}
5y36e921ylc0azvww10tyc63sm4mvlt
利用者:Mistsplitter Reforged
2
51472
230401
2025-07-08T03:42:18Z
Mistsplitter Reforged
43637
ページの作成:「[[is:User:mistsplitter Reforged]] [[de:User:mistsplitter Reforged]] [[nl:User:mistsplitter Reforged]] [[no:User:mistsplitter Reforged]] [[en:User:mistsplitter Reforged]] [[pl:User:mistsplitter Reforged]] [[is:User:mistsplitter Reforged]] [[es:User:mistsplitter Reforged]] [[pt:User:mistsplitter Reforged]] [[sv:User:mistsplitter Reforged]] [[fi:User:mistsplitter Reforged]] [[ar:User:mistsplitter Reforged]] [[nn:User:mistsplitter Reforged]] zh:User:mistsplitter Refor…」
230401
wikitext
text/x-wiki
[[is:User:mistsplitter Reforged]] [[de:User:mistsplitter Reforged]] [[nl:User:mistsplitter Reforged]] [[no:User:mistsplitter Reforged]] [[en:User:mistsplitter Reforged]] [[pl:User:mistsplitter Reforged]] [[is:User:mistsplitter Reforged]] [[es:User:mistsplitter Reforged]] [[pt:User:mistsplitter Reforged]] [[sv:User:mistsplitter Reforged]] [[fi:User:mistsplitter Reforged]] [[ar:User:mistsplitter Reforged]] [[nn:User:mistsplitter Reforged]] [[zh:User:mistsplitter Reforged]] [[he:User:mistsplitter Reforged]] [[id:User:mistsplitter Reforged]]
rnc9lwzqtqtqj32s3rk0kqw4xybkmqk