Wikisource jawikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 MediaWiki 1.46.0-wmf.26 first-letter メディア 特別 トーク 利用者 利用者・トーク Wikisource Wikisource・トーク ファイル ファイル・トーク MediaWiki MediaWiki・トーク テンプレート テンプレート・トーク ヘルプ ヘルプ・トーク カテゴリ カテゴリ・トーク 作者 作者・トーク Page Page talk Index Index talk TimedText TimedText talk モジュール モジュール・トーク Event Event talk 聯合艦隊解散之辞 0 3252 242094 233863 2026-05-03T06:18:24Z ~2026-26801-16 45672 242094 wikitext text/x-wiki {{Header |title=聯合艦隊解散之辞 |author=東郷平八郎 |year=1905 |month=12 |day=21 |wikipedia={{PAGENAME}} |notes= }} == 原文 == 二十閲月ノ征戰已ニ往事ト過ギ、我ガ聯合艦隊ハ今ヤ其ノ隊務ヲ結了シテ茲ニ解散スル事トナレリ。然レドモ我等海軍々人ノ責務ハ決シテ之ガ爲ニ輕減セルモノニアラズ。此ノ戰役ノ收果ヲ永遠ニ全ウシ、尚益々國運ノ隆昌ヲ扶持センニハ、時ノ平戰ヲ問ハズ、先ヅ外衞ニ立ツベキ海軍ガ常ニ其ノ武力ヲ海洋ニ保全シ、一朝緩急応ズルノ覺悟アルヲ要ス。而シテ武力ナル物ハ艦船兵器等ノミニアラズシテ、之ヲ活用スル無形ノ實力ニアリ、百發百中ノ一砲能ク百發一中ノ敵砲百門ニ對抗シ得ルヲ覺ラバ、我等軍人ハ主トシテ武力ヲ形而上ニ求メザルベカラズ。近ク我ガ海軍ノ勝利ヲ得タル所以モ、至尊ノ靈徳ニ頼ル所多シト雖モ、抑亦平素ノ錬磨其ノ因ヲ成シ、果ヲ戰役ニ結ビタルモノニシテ、若シ既往ヲ以テ將來ヲ推ストキハ、征戰息ムト雖モ安ンジテ休憩ス可カラザルモノアルヲ覺ユ。惟フニ武人ノ一生ハ連綿不斷ノ戰爭ニシテ、時ノ平戰ニ由リ其ノ責務ニ輕重アルノ理ナシ。事有レバ武力ヲ發揮シ、事無ケレバ之ヲ修養シ、終始一貫其ノ本分ヲ盡サンノミ。過去ノ一年有半彼ノ風濤ト戰ヒ、寒暑ニ抗シ、屡々頑敵ト對シテ生死ノ間ニ出入セシコト固ヨリ容易ノ業ナラザリシモ、觀ズレバ是レ亦長期ノ一大演習ニシテ之ニ參加シ幾多啓發スルヲ得タル武人ノ幸福比スルニ物無シ。豈之ヲ征戰ノ勞苦トスルニ足ランヤ。苟モ武人ニシテ治平ニ偸安センカ、兵備ノ外觀巍然タルト宛モ沙上ノ樓閣ノ如ク、暴風一過忽チ崩倒スルニ至ラン。洵ニ戒ムベキナリ。 昔者、神功皇后三韓ヲ征服シ給ヒシ以來、韓國ハ四百餘年間、我ガ統理ノ下ニアリシモ、一タビ海軍ノ廢頻スルヤ忽チ之ヲ失ヒ、又近世ニ入リ、徳川幕府治平ニ狃レテ、兵備ヲ懈レバ、舉國米艦數隻ノ應對ニ苦シミ、露艦亦千島樺太ヲ覬覦スルモ、之ト抗爭スルコト能ハザルニ至レリ。飜ツテ之ヲ西史ニ見ルニ、十九世紀ノ初メニ當リ、ナイル及ビトラファルガー等ニ勝チタル英國海軍ハ、祖國ヲ泰山ノ安キニ置キタルノミナラズ爾來後進相襲ツテ能ク其ノ武力ヲ保有シ世運ノ進歩ニ後レザリシカハ、今ニ至ル迄永ク其ノ國利ヲ擁護シ國權ヲ伸張スルヲ得タリ。蓋シ此ノ如キ古今東西ノ殷鑑ハ爲政ノ然シカラシムルモノアリト雖モ主トシテ武人ガ治ニ居テ亂ヲ忘レザルト否トニ基ケル自然ノ結果タラザルハ無シ。我等戰後ノ軍人ハ、深ク此等ノ實例ニ鑑ミ、既有ノ錬磨ニ加フルニ戰役ノ實驗ヲ以ツテ、更ニ將來ノ進歩ヲ圖リテ時勢ノ發展ニ後レザルヲ期セザル可カラズ。若シ夫レ常ニ、聖諭ヲ奉體シテ、孜々奮勵シ實力ノ滿ヲ持シテ放ツベキ時節ヲ待タバ、庶幾バ以テ永遠ニ護國ノ大任ヲ全ウスル事ヲ得ン。神明ハ唯平素ノ鍛錬ニ力メ戰ハヅシテ既ニ勝テル者ニ勝利ノ榮冠ヲ授クルト同時ニ、一勝ニ滿足シ治平ニ安ンズル者ヨリ直ニ之ヲ褫フ。古人曰ク勝ツテ兜ノ緒ヲ締メヨト。 明治三十八年十二月二十一日     聯合艦隊司令長官 東郷平八郎 == 現代語訳 == 二十ヶ月にわたった戦いも、すでに過去のこととなり、我が連合艦隊は今その任務を果たしてここに解散することになった。しかし艦隊は解散しても、そのために我が海軍軍人の務めや責任が軽減するということは決してない。<br/> この戦争で収めた成果を永遠に生かし、さらに一層国運をさかんにするには平時戦時の別なく、まずもって、外の守りに対し重要な役目を持つ海軍が、常に万全の海上戦力を保持し、ひとたび事あるときは、ただちに、その危急に対応できる構えが必要である。<br/> 戦力というものは、ただ艦船兵器等有形のものや数だけで定まるものではなく、これを活用する能力すなわち無形の実力にも左右される。百発百中の砲一門は百発一中、いうなれば百発打っても一発しか当たらないような砲の百門と対抗することができるのであって、この理に気づくなら、われわれ軍人は無形の実力の充実すなわち訓練に主点を置かなければならない。<br/> この度、我が海軍が勝利を得たのは、もちろん天皇陛下の霊徳によるとはいえ、一面また将兵の平素の練磨によるものであって、それがあのような戦果をもたらしたのである。もし過去の事例をもって、将来を推測するならば、たとえ戦いは終わったとはいえ、安閑としてはおれないような気がする。<br/> 考えるに、武人の一生は戦いの連続であって、その責任は平時であれ戦時であれ、その時々によって軽くなったり、重くなったりするものではない。ことが起これば戦力を発揮するし、事がないときは戦力の涵養につとめ、ひたすらにその本分を尽くすことにある。過去一年半、あの風波と戦い、寒暑に耐え、たびたび強敵と相対して生死の間をさまよったことなどは、容易な業ではなかったけれども、考えてみると、これもまた長期の一大演習であって、これに参加し多くの知識を啓発することができたのは、武人としてこの上もない幸せであったというべきであり、どうして戦争で苦労したなどといえようか。<br/> もし武人が太平に安心して目の前の安楽を追うならば、兵備の外見がいかにりっぱであっても、それはあたかも砂上の楼閣のようなものでしかなく、ひとたび暴風にあえばたちまち崩壊してしまうであろう。まことに心すべきである。 むかし神功皇后が三韓を征服されて後、韓国は四百余年間我が国の支配下にあったけれども、ひとたび海軍が衰えるとたちまちこれを失い、また近世に至っては、徳川幕府が太平になり、兵備をおこたると、数隻の米艦の扱いにも国中が苦しみ、またロシアの軍艦が千島樺太をねらってもこれに立ち向かうことができなかった。目を転じて西洋史をみると、十九世紀の初期、ナイル及びトラファルガー等に勝った英国海軍は、祖国をゆるぎない安泰なものとしたばかりでなく、それ以降、後進が相次いでよくその武力を維持し世運の進歩におくれなかったから、今日に至るまで永く国益を守り、国威を伸張することができたのである。<br/> 考えるに、このような古今東西のいましめは、政治のあり方にもよるけれども、そもそもは武人が平和なときにあっても、戦いを忘れないで備えを固くしているかどうかにかかり、それが自然にこのような結果を生んだのである。<br/> われ等戦後の軍人は深くこれらの実例を省察し、これまでの練磨のうえに戦時の体験を加え、さらに将来の進歩を図って時勢の発展におくれないように努めなければならない。そして常に勅諭を戴き、ひたすら奮励し、万全の実力を充実して、時節の到来を待つならば、おそらく永遠に護国の大任を全うすることができるであろう。神は平素ひたすら鍛練に努め、戦う前に既に戦勝を約束された者に勝利の栄冠を授けると同時に、一勝に満足し太平に安閑としている者からは、ただちにその栄冠を取り上げてしまうであろう。<br/> 昔のことわざにも教えている「勝って、兜の緒を締めよ」と。 明治三十八年十二月二十一日 連合艦隊司令長官 東郷平八郎 {{PD-old-auto-1923|deathyear=1934}} {{新訳}} {{DEFAULTSORT:れんこうかんたいかいさんのし}} [[Category:日本の演説]] [[Category:日露戦争]] fiwnapwz0yupkspbuahhmet4nk5pt78 利用者:村田ラジオ 2 28294 242084 242074 2026-05-03T05:01:57Z 村田ラジオ 14210 校正 242084 wikitext text/x-wiki {{resize|120%|この利用者が投稿したもの}}(入力中を含む) ===1. 聖イサク=== [[Wikisource:宗教]]< * [[シリヤの聖イサアク全書]] * [[ニネベのイサアク神秘論文集]](A. J. ヴェンシンク) {| |valign=top| :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第1論文|第1論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第2論文|第2論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第3論文|第3論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第4論文|第4論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第7論文|第7論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第8論文|第8論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第9論文|第9論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第10論文|第10論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第11論文|第11論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第12論文|第12論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第13論文|第13論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第14論文|第14論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第15論文|第15論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第16論文|第16論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第17論文|第17論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第30論文|第30論文]] 罪の力と邪悪な働き :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第31論文|第31論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第32論文|第32論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第33論文|第33論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第34論文|第34論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第35論文|第35論文]] 絶え間ない行動とあらゆる種類の道徳を考慮した問答形式の論文 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第36論文a|第36論文a]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第37論文|第37論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第38論文|第38論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第39論文|第39論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第40論文|第40論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第43論文|第43論文]] 霊的な知恵に満ちた有益な言葉 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第44論文|第44論文]] 知識の程度と信仰の程度について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第45論文|第45論文]] 有益な助言 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第46論文|第46論文]] その他の考慮事項 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第47論文|第47論文]] 霊的な事柄における魂の教育という神の摂理に :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第48論文|第48論文]] 魂が常にさらされる光と闇の様々な状態 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第50論文|第50論文]] 様々な考察をまとめた短い教訓集 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第51論文|第51論文]] 知識の3つの段階とその奉仕と衝動との区別、魂の信仰とその中に隠された神秘の宝について ::(a) 知識の第一段階 ::(b) 知識の第二段階 ::(c) 知識の第三段階。つまり完全な段階 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第53論文|第53論文]] 祈りと、絶えず思い出すことが必然的に求められ、人が区別して唱え、保持することが非常に有益であるその他の事柄について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第54論文|第54論文]] マゲナヌータに関するその他の説明 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第55論文|第55論文]] 魂の中に隠された警戒心を :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第56論文|第56論文]] 人の生命に関する美しい考察 |valign=top| :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第57論文|第57論文]] 神の愛のための忍耐がどのようにして神の助けを得るのか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第58論文|第58論文]] 神の近くに住み、認識の生活の中で日々を過ごす人々について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第59論文|第59論文]] 有益な談話 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第60論文|第60論文]] 必然性がなければ、何らかのしるしを望んだり求めたりしてはならないこと :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第61論文|第61論文]] 神は何のために神を愛する人たちへの誘惑を許すのか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第62論文|第62論文]] 人の中に湧き起こる思考によって、自分がどの段階に属し、どのような思考が続くかを知ることができるということ :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第63論文|第63論文]] 認識の心理状態にある人々は、なぜ肉体の粗雑さに応じて霊的なことを考えるのか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第64論文|第64論文]] 心中に起こる、祈りによって浄化されるさまざまな状態について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第65論文|第65論文]] 心の警戒に関する指示 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第66論文|第66論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第67論文|第67論文]] 理解可能なものの区別に関して例をあげ、それぞれの使い方を示しての説明 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第68論文|第68論文]] 短いセクション :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第69論文|第69論文]] 思慮ある者はどのように黙想を務めるべきか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第70論文|第70論文]] 初期知識の微妙な順序 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第71論文|第71論文]] 恩寵から生じる影響について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第72論文|第72論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第73論文|第73論文]] これまでに述べられた内容の説明 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第74論文|第74論文]] 聖人の中に神に似たものを創造している霊的目的について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第75論文|第75論文]] 隠された状態と、そこに存在する力と影響力 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第76論文|第76論文]] 短い言葉 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第77論文|第77論文]] この章は生命力に満ちている :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第78論文|第78論文]] 世俗からの逃避によって得られる… :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第79論文|第79論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第80論文|第80論文]] 徹夜祷とその間の様々な種類の労働について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第81論文|第81論文]] なぜ独居修行者たちはそれ以上に孤独を重んじるのか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第82論文|第82論文]] 謙虚さはどれほどの名誉を持ち、その地位は |} ===2. マカリオス=== * [[エジプトのマカリオス50の霊的説教]] (擬マカリオス)(完) :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教1|説教1]] 預言者エゼキエルに記された幻の寓話的解釈。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教2|説教2]] 暗黒の王国、すなわち罪の王国について、そして神だけが私たちから罪を取り除き、邪悪な君主の束縛から私たちを救い出すことができるということについて。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教3|説教3]] 兄弟たちは互いに誠実、単純、愛、平和のうちに生きるべきであり、心の中では競争と戦いを続けるべきである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教4|説教4]] キリスト教徒は、神と天使たちから天の賞賛を得るために、この世での競争を注意深く慎重に成し遂げるべきである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教5|説教5]] キリスト教徒とこの世の人々の間には大きな違いがある。この世の精神を持つ人々は心と精神において地上の束縛に縛られているが、他の人々は天の父の愛を切望し、ただ目の前に父を待ち望んでいる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教6|説教6]] 神を喜ばせたいと願う者は、平穏と静寂、優しさと知恵をもって祈りを捧げるべきであり、大声で叫んで他人に迷惑をかけるべきではない。説教には、王座と冠が実際に創造されたものであるかどうか、そしてイスラエルの12の王座についてという2つの質問も含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教7|説教7]] キリストの人間に対する慈愛について。説教にはいくつかの質問と答えも含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教8|説教8]] 祈りの中でキリスト教徒に起こること、そして完全さの尺度について、キリスト教徒が完全な尺度に達することは可能かどうか。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教9|説教9]] 神の約束と預言は、さまざまな試練と誘惑を通して成就し、神のみに従う者は悪魔の誘惑から救われる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教10|説教10]] 謙虚な心と真摯さによって神の恵みの賜物は保存されるが、傲慢さと怠惰によってそれらは破壊される。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教11|説教11]] 聖霊の力は人の心の中で火のようであること、心に湧き上がる考えを見分けるために何が必要か、そしてモーセが柱のてっぺんに立てた死んだ蛇がキリストの象徴であることなど。説教には二つの対話があり、一つはキリストと悪魔、サタンとの対話、もう一つは罪人と同じ罪人との対話である。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教12|説教12]] アダムが神の戒めを破る前、そして自分の姿と天の姿の両方を失った後のアダムの状態について。説教には、非常に有益な質問がいくつか含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教13|説教13]] 神がキリスト信徒に期待する成果。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教14|説教14]] 神に思いと心を捧げる人々は、心の目が開かれ、神が彼らに最も神聖で純粋な神秘を与え、神が恵みを授けてくれることを望みながらそうするのである。天国の善いものを手に入れたいと願う私たちがすべきこと。そして使徒と預言者は窓から差し込む太陽の光にたとえられる。説教ではまた、サタンの「地」と天使の「地」とは何か、そしてどちらも無形で目に見えないものであることを教えている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教15|説教15]] この説教は、世界の救い主であるキリスト・イエスの配偶者に対して、魂がいかに聖潔と貞潔と純潔をもってふるまうべきかを広く教えている。また、復活のときにすべての部分がよみがえるかどうか、悪、恩寵、自由意志、人間の尊厳など、多くの重要な教えに満ちた議論も含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教16|説教16]] 霊的な人は最初の罪から生じる誘惑や逆境にさらされる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教17|説教17]] キリスト教徒の霊的塗油とその栄光について、そしてキリストなしには救われることも永遠の命にあずかることも不可能であることについて。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教18|説教18]] キリスト教徒の宝であるキリストと聖霊について、キリストと聖霊はそれを様々な方法で実践して完成に至る。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教19|説教19]] 進歩し成長したいと願うキリスト教徒は、内在する罪から解放され、聖霊に満たされるために、あらゆる善いことに自らを駆り立てるべきである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教20|説教20]] 内なる人の真の医者であるキリストだけが、魂を癒し、恵みの衣でそれを飾ることができるのである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教21|説教21]] キリスト教徒には、内なる戦いと外なる戦いという二つの戦いが待ち受けている。後者は、地上の煩いから身を引くためのものであり、前者は、心の中で、邪悪な霊の誘惑に対抗するためのものである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教22|説教22]] この世を去る人々の二通りの状態について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教23|説教23]] 王家の血統から生まれた者だけが高価な王家の真珠を身につけることができるように、神の子だけが天国の真珠を身につけることが許されている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教24|説教24]] キリスト教徒の状態は、商品やパン種のようなものである。商人が地上の利益を蓄えるように、キリスト教徒は世界中に散らばった思いを集める。パン種が塊全体をパン種に変えるように、罪のパン種はアダムの種族全体に浸透する。しかしキリストは、忠実な魂には天の善のパン種を入れる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教25|説教25]] この説教は、キリストによって強められなければ、誰も悪魔の妨害を克服することはできないこと、そして神の栄光を望む者がしなければならないことを教えている。また、アダムの不従順によって私たちは肉欲の束縛に陥ったが、十字架の神秘によってそこから解放されたことも教えている。さらに、涙と神の火の力は偉大であることを教えてくれる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教26|説教26]] 不滅の魂の価値と大切さ、力と効力、そしてそれがいかにしてサタンに誘惑され、誘惑から解放されるかについて。また、非常に素晴らしい教えに満ちたいくつかの質問も含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教27|説教27]] この説教は、前述の説教と同様に、キリスト教徒の尊厳と地位について長々と説明している。そして、神の知恵に満ちたいくつかの質問を織り交ぜながら、自由意志に関する多くの有益なことを教えている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教28|説教28]] この説教は、罪のせいで主が魂の中に住まわれないという魂の災難を描写し嘆き、また、洗礼者ヨハネに関して、女から生まれた者の中で彼より偉大な者はいないと述べている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教29|説教29]] 神は人類に恵みの分配を二通りの方法で行い、公正な裁きによってその成果を要求することを意図している。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教30|説教30]] 人の魂が神の王国に入るには聖霊によって生まれなければならない。そして、それがどのように実現されるかについて。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教31|説教31]] 信者は心を変え、すべての思いを神に集めるべきである。なぜなら、神への奉仕はすべてこれにかかっているからである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教32|説教32]] キリスト教徒の栄光は今も彼らの魂の中に留まり、復活の時に現れ、彼らの敬虔さに応じて彼らの体を栄光に輝かせるであろう。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教33|説教33]] 私たちは神に絶えず注意深く祈るべきである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教34|説教34]] キリスト教徒の栄光については、復活の時に彼らの体に与えられ、彼らは魂と共に啓蒙されるであろう。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教35|説教35]] 古い安息日と新しい安息日について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教36|説教36]] 魂と肉体の二重の復活と復活した者の様々な栄光について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教37|説教37]] 楽園と霊的法則について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教38|説教38]] 真のキリスト教徒を見分けるには、またそれが誰であるかを見分けるには、非常に正確な判断力と知性が求められる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教39|説教39]] 聖書が神から私たちに与えられた理由。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教40|説教40]] すべての美徳とすべての悪徳は互いに結びついており、鎖のように互いにつながっている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教41|説教41]] 魂の秘密の部屋は非常に深く、それは恩恵や邪悪さの成長に比例して成長する。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教42|説教42]] 外的なものではなく、内的なものが人間を前進させたり傷つけたりする。つまり、恵みの霊か邪悪の霊かである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教43|説教43]] キリスト教徒の進歩については、その力の全てが心次第であり、ここでは様々な方法で説明されている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教44|説教44]] 魂の苦しみと病を{{r|癒|いや}}したキリストによって、キリスト教徒の内にどのような変化と再生がもたらされるであろうか。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教45|説教45]] この世のいかなる芸術も富でもなく、ただキリストの出現だけが人間を癒すことができる。この説教は人間と神との偉大な親族関係を説いている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教46|説教46]] 神の言葉とこの世の言葉、そして神の子らとこの世の子らの違いについて。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教47|説教47]] 律法のもとで行われた事柄の寓話的解釈。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教48|説教48]] 神への完全な信仰について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教49|説教49]] この世の快楽を捨て去ったとしても、あの世の祝福を得なければ十分ではない。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教50|説教50]] 神は聖徒たちを通して奇跡を起こす。 ===3. クリソストモス=== [[Wikisource:宗教]]< * [[マタイ福音書に関する説教]] 目録(クリソストムス) {| |valign=top| :* [[マタイ福音書に関する説教/説教13|説教13]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教14|説教14]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教15|説教15]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教15-2|説教15-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教16|説教16]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教16-2|説教16-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教17|説教17]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教17-2|説教17-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教18|説教18]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教18-2|説教18-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教19|説教19]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教19-2|説教19-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教20|説教20]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教21|説教21]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教22|説教22]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教22-2|説教22-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教23|説教23]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教23-2|説教23-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教24|説教24]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教25|説教25]] |valign=top| :* [[マタイ福音書に関する説教/説教33|説教33]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教34|説教34]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教35|説教35]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教36|説教36]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教37|説教37]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教38|説教38]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教39|説教39]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教40|説教40]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教41|説教41]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教42|説教42]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教65|説教65]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教66|説教66]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教67|説教67]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教68|説教68]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教69|説教69]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教70|説教70]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教71|説教71]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教72|説教72]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教73|説教73]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教74|説教74]] |} *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第14巻/ヨハネ福音書注解|ヨハネ福音書注解]](クリソストモス) (未完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第11巻/使徒行伝の注解|使徒行伝の注解]] (クリソストモス) (未完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第11巻/ローマ人への手紙注解|ローマ人への手紙注解]](完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第12巻/コリント人への手紙第一の注解|コリント人への手紙第一の注解]](未完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ガラテヤとエペソについて/ガラテヤ人への手紙注解|ガラテヤ人への手紙注解]] (完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ガラテヤとエペソについて/エペソ人への手紙注解|エペソ人への手紙注解]] (完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/ピリピ人への手紙注解|ピリピ人への手紙注解]](未完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/コロサイ人への手紙注解|コロサイ人への手紙注解]](完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/テサロニケ人への第一の手紙注解|テサロニケ人への第一の手紙注解]](完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/マタイ26章39節についての説教|マタイ26章39節についての説教]](完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/屋根を突き破って降ろされた中風の患者についての説教|屋根を突き破って降ろされた中風の患者についての説教]](完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/オリンピアスへの手紙|オリンピアスへの手紙]] *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/アンティオキアの人々への彫像に関する説教|アンティオキアの人々への彫像に関する説教]](未完) ===4. オリゲネス=== * [[諸原理について]](オリゲネス) :* [[諸原理について/序説]] :* [[諸原理について/I|I]] {| |valign=top| :* [[諸原理について/I/第1章|I/第1章]] :* [[諸原理について/I/第2章|I/第2章]] :* [[諸原理について/I/第3章|I/第3章]] :* [[諸原理について/I/第4章|I/第4章]] :* [[諸原理について/I/第5章|I/第5章]] |valign=top| :* [[諸原理について/I/第6章|I/第6章]] :* [[諸原理について/I/第7章|I/第7章]] :* [[諸原理について/I/第8章|I/第8章]] :* [[諸原理について/I/第9章|I/第9章]] :* [[諸原理について/I/第10章|I/第10章]] |} :* [[諸原理について/II|II]] {| |valign=top| :* [[諸原理について/II/第1章|II/第1章]] :* [[諸原理について/II/第2章|II/第2章]] :* [[諸原理について/II/第3章|II/第3章]] :* [[諸原理について/II/第4章|II/第4章]] :* [[諸原理について/II/第5章|II/第5章]] :* [[諸原理について/II/第6章|II/第6章]] |valign=top| :* [[諸原理について/II/第7章|II/第7章]] :* [[諸原理について/II/第8章|II/第8章]] :* [[諸原理について/II/第9章|II/第9章]] :* [[諸原理について/II/第10章|II/第10章]] :* [[諸原理について/II/第11章|II/第11章]] |} :* [[諸原理について/III|III]] {| |valign=top| :* [[諸原理について/III/第1章|III/第1章]] :* [[諸原理について/III/第2章|III/第2章]] :* [[諸原理について/III/第3章|III/第3章]] :* [[諸原理について/III/第4章|III/第4章]] |valign=top| :* [[諸原理について/III/第5章|III/第5章]] :* [[諸原理について/III/第6章|III/第6章]] :* [[諸原理について/III/第7章|III/第7章]] :* [[諸原理について/III/第8章|III/第8章]] |} :* [[諸原理について/IV|IV]] :* [[諸原理について/IV/第1章|IV/第1章]] :* [[諸原理について/IV/第2章|IV/第2章]] :* [[諸原理について/解説|解説]] *[[言葉の受肉について]] [[s:la:De incarnatione Verbi|De incarnatione Verbi]] *[[エレミヤ書とエゼキエル書に関する説教の翻訳]] [[s:la:Translatio Homiliarum in Ieremiam et Ezechielem|Translatio Homiliarum in Ieremiam et Ezechielem]] *[[イザヤの幻視に関する説教の翻訳]] [[s:la:Translatio homiliarum in visiones Isaiae|Translatio homiliarum in visiones Isaiae]] *[[39の説教の翻訳]] [[s:la:Translatio XXXIX Homiliarum|Translatio XXXIX Homiliarum]] ===5. ニカイア教父シリーズ=== *[[ニカイア以前の教父たち]] *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I]] *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II]] **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻|第1巻]] – エウセビオス: 紀元1年から324年までの教会史、コンスタンティヌス大帝の生涯、コンスタンティヌスを讃える演説 ***[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史|第1巻/エウセビオスの教会史]] 入力中 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻|第2巻]] – ソクラテス: 西暦305年から438年までの教会史、ソゾメノス ([[w:en:Sozomen|en]]): 西暦323年から425年までの教会史 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻|第3巻]] – テオドレトス、ヒエロニムスとゲンナディウス、ルフィヌス ([[w:en:Tyrannius Rufinus|en]])とヒエロニムス **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第4巻|第4巻]] – アタナシオス: 選集と手紙 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第5巻|第5巻]] – ニュッサのグレゴリオス: 教義論文、選集および書簡 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第6巻|第6巻]] – ヒエロニムス: 手紙と選集 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻|第7巻]] – エルサレムのキュリロス、ナジアンゾスのグレゴリオス **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第8巻|第8巻]] – バシレイオス: 手紙と選集 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻|第9巻]] – ポワティエのヒラリウス、ダマスコのヨアンネス **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第10巻|第10巻]] – アンブロシウス: 選集と手紙 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第11巻|第11巻]] – スルピティウス・セウェルス、レランスのウィンケンティウス、ヨハネス・カッシアヌス **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第12巻|第12巻]] – レオ1世、グレゴリウス1世 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第13巻|第13巻]] – グレゴリウス1世 (パート2)、シリアのエフレム、アフラハト **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第14巻|第14巻]] – 七つの全地公会議 *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻|第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻]] {| |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第1章|第1巻/第1章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第2章|第1巻/第2章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第3章|第1巻/第3章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第4章|第1巻/第4章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第5章|第1巻/第5章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第6章|第1巻/第6章]] |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第7章|第1巻/第7章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第8章|第1巻/第8章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第9章|第1巻/第9章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第10章|第1巻/第10章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第11章|第1巻/第11章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第12章|第1巻/第12章]] |} *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/高名な人々について|第3巻/高名な人々について]](著名人列伝) **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/高名な人々について/ヒエロニムス|ヒエロニムス]](135人) **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/高名な人々について/ゲンナディウス|ゲンナディウス]](99人) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/ルフィヌス/使徒信条の解説|第3巻/ルフィヌス/使徒信条の解説]](ルフィヌス) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/ナジアンゾスのグレゴリオス演説|第7巻/ナジアンゾスのグレゴリオス演説]] *[[原ニカイア信条]](325年) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第14巻/第二回公会議/聖なる信条|第14巻/第二回公会議/聖なる信条]](374 - 381年) *[[ニカイア以前の教父たち/第2巻/ヘルマスの牧者]] (完) ===6. ユスティノス=== *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/殉教者ユスティノス/トリュフォンとの対話|トリュフォンとの対話]] ===7. エイレナイオス 他=== *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第1巻|異端反駁:第1巻]](エイレナイオス)(完) *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第2巻|異端反駁:第2巻]](エイレナイオス)(完) *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第3巻|異端反駁:第3巻]](エイレナイオス)(完) *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第4巻|異端反駁:第4巻]](エイレナイオス)(完) *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第5巻|異端反駁:第5巻]](エイレナイオス)(完) *[[ニカイア以前の教父たち/第3巻/護教的論文/偶像崇拝について|偶像崇拝について]](テルトゥリアヌス)(完) *[[ニカイア以前の教父たち/第5巻/キプリアヌス/キプリアヌスの論文/主の祈りについて|主の祈りについて]] (キプリアヌス) (完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/エルサレムのキュリロス/教理講義|教理講義]] (キュリロス) (完) **[[教理講義4]] 《教義の10の要点について》 *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/エルサレムのキュリロス/序説|エルサレムのキュリロス/序説]] *[[神の言葉の誕生について]](ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス) (完) :::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]] ===8. ヒラリウス=== *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ポワティエのヒラリウス/三位一体論|三位一体論]] (ヒラリウス) (未完) * [[詩篇の論考]] ** [[詩篇の論考/序文|序文]] ** [[詩篇の論考/詩篇第1篇|詩篇第1篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇2篇|詩篇2篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇9篇|詩篇9篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇13篇|詩篇13篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇14篇|詩篇14篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇51篇|詩篇51篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇61篇|詩篇61篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇62篇|詩篇62篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇67篇|詩篇67篇]] ===9. アンブロシウス=== *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第10巻/著作/キリスト教信仰の解説|ニカイア後教父: シリーズ II/信仰について]](アンブロシウス)入力中 * [[信仰について (アンブロシウス)]](完) * [[ルカ福音書の解説 (アンブロシウス)]](完) * [[ヘクサエメロン (アンブロシウス)]](第5巻のみが未完) * [[楽園について (アンブロシウス)]](完) * [[カインとアベルについて (アンブロシウス)]](完) * [[ノアと箱舟について (アンブロシウス)]](完) * [[アブラハムについて (アンブロシウス)]](完) * [[イサクと魂について]](完) * [[死の善について]](完) * [[世界からの逃避について]](完) * [[ヤコブと祝福された人生について]](未完) * [[族長ヨセフについて]](未完) * [[ダビデの詩篇十二篇の解説]](完) * [[ダビデの詩篇118篇の解説]](未完) ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/プロローグ|プロローグ]] ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/1番目の言葉|1番目の言葉]] アレフ ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/2番目の言葉|2番目の言葉]] ベト ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/3番目の言葉|3番目の言葉]] ギメル ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/4番目の言葉|4番目の言葉]] ダレト ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/5番目の言葉|5番目の言葉]] ヘー ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/6番目の言葉|6番目の言葉]] ワウ ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/7番目の言葉|7番目の言葉]] ザイン ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/8番目の言葉|8番目の言葉]] ヘト ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/9番目の言葉|9番目の言葉]] テト ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/10番目の言葉|10番目の言葉]] ヨド ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/11番目の言葉|11番目の言葉]] カフ ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/12番目の言葉|12番目の言葉]] ラメド ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/13番目の言葉|13番目の言葉]] メム ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/14番目の言葉|14番目の言葉]] ヌン ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/15番目の言葉|15番目の言葉]] サメク ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/16番目の言葉|16番目の言葉]] アイン * [[ローマ人への手紙注解 (アンブロシアステル)]](完) * [[コリント人への第一の手紙注解 (アンブロシアステル)]](完) * [[コリント人への第二の手紙注解 (アンブロシアステル)]](完) ===10. アウグスティヌス=== * [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第7巻/ヨハネ福音書論考|ヨハネ福音書論考]] 入力中 * [[三位一体論 (アウグスティヌス)]] 入力中 ===11. レオ1世=== *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第12巻/レオ1世/説教|第12巻/レオ1世/説教]](レオ1世)入力中 ===12. ダマスコのヨハネ=== *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻|正教信仰の正確な解説/第1巻]](ヨハネ・ダマスキン)入力中 {| |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第1章|第1章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第2章|第2章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第3章|第3章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第4章|第4章]] |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第5章|第5章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第6章|第6章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第7章|第7章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第8章|第8章]] |} *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻|正教信仰の正確な解説/第2巻]] {| |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第1章|第1章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第2章|第2章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第3章|第3章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第4章|第4章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第5章|第5章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第6章|第6章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第7章|第7章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第8章|第8章]] |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ 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*[[ドブロトリュビエ]] (Philokalia) *[[ドブロトリュビエ/第1巻|第1巻]] **[[ドブロトリュビエ/第1巻/大アントニオスの言葉と彼に関する伝説|大アントニオスの言葉と彼に関する伝説]] **[[ドブロトリュビエ/第1巻/大アントニオスの名言の解説|大アントニオスの名言の解説]] **[[ドブロトリュビエ/第1巻/アバ・イザヤが弟子たちに語った言葉|アバ・イザヤが弟子たちに語った言葉]](アバ・イザヤ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/新米修道士へのルールとアドバイス|新米修道士へのルールとアドバイス]](アバ・イザヤ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/アバ・イザヤの言葉|アバ・イザヤの言葉]](アバ・イザヤ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/心を守ることについて27章|心を守ることについて27章]](アバ・イザヤ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/修道士ニコラスへのメッセージ|修道士ニコラスへのメッセージ]](修行者マルコ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/修行者マルコの著作に対するニコラス修道士の反応|修行者マルコの著作に対するニコラス修道士の反応]] **[[ドブロトリュビエ/第1巻/霊的法則に関する200章|霊的法則に関する200章]](修行者マルコ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/行いによって義とされると考える人々について|行いによって義とされると考える人々について]](修行者マルコ) *[[ドブロトリュビエ/第2巻|第2巻]] **[[ドブロトリュビエ/第2巻/霊的生活の完成度について|霊的生活の完成度について]](ヨハネス・カッシアヌス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/悔い改めの働きの終了について|悔い改めの働きの終了について]](ヨハネス・カッシアヌス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/テオドロスへ 覚醒と祈りについて|テオドロスへ 覚醒と祈りについて]](ヘシュキオス長老) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/祈りに関する153章|祈りに関する153章]](シナイのニール) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/悪の八魂について|悪の八魂について]](シナイのニール) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/悔い改めについて|悔い改めについて]](ヨハネ・クリマクス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/美徳と情熱について–また情熱との戦いについて|美徳と情熱について–また情熱との戦いについて]](ヨハネ・クリマクス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/8つの主要な情熱との戦いについて|8つの主要な情熱との戦いについて]](ヨハネ・クリマクス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/平静さについて|平静さについて]](ヨハネ・クリマクス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/バルサヌフィオスの禁欲的教え|バルサヌフィオスの禁欲的教え]](大バルサヌフィオス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/アバ・ドロテオスの禁欲的教え|アバ・ドロテオスの禁欲的教え]](アバ・ドロテオス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/シリアの聖イサクの禁欲的教え|シリアの聖イサクの禁欲的教え]](シリアのイサク) *[[ドブロトリュビエ/第3巻|第3巻]] **[[ドブロトリュビエ/第3巻/霊的知識と識別についての100章|霊的知識と識別についての100章]](フォティケのディアドコス) **[[ドブロトリュビエ/第3巻/愛についての400章|愛についての400章]](告白者マクシモス) **[[ドブロトリュビエ/第3巻/愛・禁欲・霊的生活について400章|愛・禁欲・霊的生活について400章]](アバ・タラシオス) **[[ドブロトリュビエ/第3巻/最も魂をたすける100の章|最も魂をたすける100の章]](エデッサのテオドロス) **[[ドブロトリュビエ/第3巻/覚醒についての40章|覚醒についての40章]](シナイのフィロテオス) *[[ドブロトリュビエ/第4巻|第4巻]] **[[ドブロトリュビエ/第4巻/修道士への禁欲的な指導|修道士への禁欲的な指導]](ストゥディオスのテオドロス) *[[ドブロトリュビエ/第5巻|第5巻]] :::新神学者シメオン :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/新神学者シメオンの略歴|新神学者シメオンの略歴]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/実践的および神学的な章|実践的および神学的な章]](新神学者シメオン) :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/敬虔なる長老シメオンの禁欲的な説教|敬虔なる長老シメオンの禁欲的な説教]](彼の師、敬虔者シメオン) :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/信仰について、そしてこの世に生きる人間が完璧を達成するのは不可能だと言う人々へ|信仰について、そしてこの世に生きる人間が完璧を達成するのは不可能だと言う人々へ]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/三つの注意と祈りについて|三つの注意と祈りについて]] :::ニケタス・ステタトス :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ニケタス・ステタトスの略歴|ニケタス・ステタトスの略歴]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/最初の100の実践的な章|最初の100の実践的な章]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/次の100の自然心理学的章 – 精神の浄化について|次の100の自然心理学的章 – 精神の浄化について]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/最後の100の思索的な章 – 愛と人生の完成について|最後の100の思索的な章 – 愛と人生の完成について ]] :::シナイのグレゴリオス :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/戒めと教義・警告と約束についての137章|戒めと教義・警告と約束についての137章]](シナイのグレゴリオス) :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/沈黙行者たちへの指示|沈黙行者たちへの指示]](シナイのグレゴリオス) :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/静寂と祈りについての15章|静寂と祈りについての15章]](シナイのグレゴリオス) :::修道士ニケフォロス :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/覚醒と心を守ることについて|覚醒と心を守ることについて]](修道士ニケフォロス) :::グレゴリオス・パラマス :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/名誉ある修道女クセニアに|名誉ある修道女クセニアに]](グレゴリオス・パラマス) :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/キリスト教法に基づく十戒|キリスト教法に基づく十戒]](グレゴリオス・パラマス) :::ダマスコのペトロ :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ダマスコのペトロ序文|ダマスコのペトロ序文]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ダマスコのペトロの第1巻|ダマスコのペトロの第1巻]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ダマスコのペトロの第2巻|ダマスコのペトロの第2巻]] &#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212; ===14. 神学的著作=== *[[主の祈り、洗礼、聖体に関する注釈]](モプスエスティアのテオドロス) (完) * [[口語訳旧約聖書 目次]]{{ext scan link|1=http://jco.ibibles.net/index.htm#%C2%A0%3E%C2%A0}} * [[口語訳新約聖書 目次]]{{ext scan link|1=http://jco.ibibles.net/index.htm#%C2%A0%3E%C2%A0}} * [[KJV 旧約聖書続編 目録]] (King James Bible, 1769) * [[フィラレートのカテキズム]](モスクワの聖フィラレート、1913)(完) ** [[フィラレートのカテキズム 2]] * [[英国国教会の39箇条についての教理問答]](ジェームズ・ビーヴン、1853)(未完) * [[短い信条]](ガザーリー、1903英訳ダンカン・B・マクドナルド)(完) * [[アル・ガザーリーの宗教的・道徳的教え]](ガザーリー、1921英訳サイード・ナワーブ・アリ) * [[鳩の書]](''Book of the Dove'' [[w:ja:バル・ヘブラエウス|バル・ヘブラエウス]]、1919英訳 A.J. ヴェンシンク)(入力中) * [[蜂の書]](''The Book of the Bee'' アフラトのソロモン、英訳 [[w:ja:ウォーリス・バッジ|ウォーリス・バッジ]])(入力中) * [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作]](ジョン・パーカー、1897)(目録) ** [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作/神名論|神名論]] ** [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作/神秘神学|神秘神学]] * [[修道院の制度について]] "De coenobiorum institutis"(ヨハネス・カッシアヌス) * [[コラティオネス]](ヨハネス・カッシアヌス) * [[信仰について (アンブロシウス)]](完) * [[マルコ福音書注解 (アンセルムス・ラウドゥン)]](グロッサ・オルディナリア) * [[聖バルラームと聖ヨサファトの生涯]](ダマスコのヨハネ) * [[神の言葉の誕生について]](ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス)(完) * [[ホモウシオスの受容について]](ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス)(完) * [[砂漠を讃えて]](リヨンのエウケリウス)(完) * [[聖書霊的解釈の定式]](リヨンのエウケリウス)(入力中) * [[神の統治について]](マルセイユのサルヴィアヌス)(完) * [[論考 (ヴェローナのゼノ)]](入力中) * [[観想生活について]] [[s:la:De vita contemplativa|De vita contemplativa]](ユリアヌス・ポメリウス) :::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]] &#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212; * [[イェルサリム大主教聖キリール教訓]](エルサレムのキュリロス) * [[聖金口イオアン教訓下]](ヨハネ・クリュソストモス) * [[シリヤの聖エフレム教訓]] * [[正教要理問答]] * [[通俗正教教話]](府主教フィラレート) * [[聖詠講話上編]](ヨハネ・クリュソストモス) * [[聖詠講話中編]] * [[新約聖書譬喩略解]] * [[祈祷惺々集]] {{註|祈りと清醒の教訓集。隠修者フェオファン編集。}} *#[[祈祷惺々集/我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓(1)]] *#[[祈祷惺々集/イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(1)]] *#[[祈祷惺々集/克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教(1)]] *#[[祈祷惺々集/シリヤの聖イサアクの教訓(1)]] *#[[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(1)]] :(ヨハネ・クリマクス、シナイのヘシュキオス、シナイのフィロテオス、シリアのイサアク、ガザのバルサヌフィオス) * [[埃及マカリイ全書]](著者は擬マカリオス) * [[ニケア信経]](ニケア・コンスタンチノープル信経) * [[使徒信経(天主公教会1911年)]] * [[使徒信経(日本聖公会1941年)]] * [[アタナシオ信経]] * [[信経問答]] * [[十誡問答]] * [[吉利支丹文学抄/吉利支丹文学概説及び原本の解題]] * [[さんぺいとろの御作業 (新漢字)]] * [[さんふらんしすこの御作業 (新漢字)]] * [[さんゑうすたきよの御作業]] * [[こんてむつすむんぢ抄 (新漢字)]](『キリストに倣いて』) * [[でうすの御性体と御善徳の事 (新漢字)]](『ぎや・ど・ぺかどる』) * [[御扶けの御恩の事 (新漢字)]]( 同 ){{註|ぎやどぺかどるは興味深い。}} * [[善人達のよきこんしゑんしやの悦びの事 (新漢字)]]( 同 ) * [[世界と悪の執着に引るゝ人の迷ひを導く事 (新漢字)]]( 同 ) * [[瞋恚に対する了簡の事 (新漢字)]]( 同 ) * [[ほるたれざといふ強き心の事 (新漢字)]]( 同 ) * [[けれいど並びにひいですのあるちごの事 (新漢字)]](『どちりな・きりしたん』) * [[でうすの御掟十のまだめんとすの事 (新漢字)]]( 同 ) * [[詩四篇・三十一篇・九十一篇(日本聖公会訳)]](+詩百三十四) * [[詩九十二篇・九十五篇・九十八篇・百篇(日本聖公会訳)]] * [[詩七十一篇・百十六篇(日本聖公会訳)]](+詩百二十七、詩百三十) * [[詩二十三篇・三十九篇・九十篇(日本聖公会訳)]] * [[詩五十一篇]](詩篇第五十一、第五十聖詠) * [[人類の忘恩に対する償の祈祷]] :::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]] ===15. 典礼・奉神礼=== * [[ミサ通常文・キリエ・グロリア]](カトリック) ::(+クレド・サンクトゥス・ベネディクトゥス・アニュスデイ) * [[神聖なる聖体礼儀の歌章の次第]](正教会) * [[大齋の晩課及び先備聖体礼儀の「主よ爾に籲ぶ」]](正教会) * [[八調の品第詞(ステペンナ)]](正教会){{註|聖詠119~133を題材にした祈祷文}} * [[大斎第一週間奉事式略]](おおものいみだいいっしゅうかんほうじしき) **[[大斎第一週間奉事式略 2]](火曜日) **[[大斎第一週間奉事式略 3]](水曜日) **[[大斎第一週間奉事式略 4]](木曜日) * [[聖パスハの奉事]] * [[信経]](正教会) * [[聖詠経]] ([[w:日本ハリストス正教会|日本正教会]]翻訳) * [[マトフェイ伝06]] * [[マトフェイ伝07]] &#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212; ===16. 仏教=== * [[正信念仏偈 (意訳聖典)]] * [[歎異抄 (意訳聖典)]] ** [[歎異抄 (意訳聖典 新漢字)]] * [[蓮如上人御文章 (意訳聖典)]] * [[七箇條の起請文 (浄土宗全書)]](別名:念仏行者訓條) * [[横川法語]]{{註|恵心僧都、源信}} * [[十二問答]] * [[十二箇條問答]]{{註|法然上人の人柄が優しい。}} * [[黒田の聖人へつかはす御文]](別名:一紙小消息) * [[或女房に示されける法語]] * [[常に仰られける御詞 (法然上人全集)]] * [[平重衡に示す御詞 (法然上人全集)]] * [[甘糟太郎忠綱に示す御詞 (法然上人全集)]] * [[元强盜の張本なりし教阿に示す御詞 (法然上人全集)]] * [[御臨終の時門弟等に示されける御詞 (法然上人全集)]] * [[消息法語 (一遍上人語録)]] * [[門人伝説 (一遍上人語録)]]{{註|興味深い。}} * [[仏説阿弥陀経 (昭和新纂経典部)]] ===17. イスラム教=== * [[短い信条]](ガザーリー、1903英訳ダンカン・B・マクドナルド)(完) * [[アル・ガザーリーの宗教的・道徳的教え]](ガザーリー、1921英訳サイード・ナワーブ・アリ) ===18. ギリシャ・ローマ哲学=== * [[トゥスクルム荘対談集]](キケロ) * [[新プラトン主義哲学者断片集/サッカス (ブイエ訳)]](アンモニオス・サッカス) ==加筆項目== {{resize|120%|この利用者が加筆したもの}} * [[聖詠経]](ふりがなを付加) ** [[第一「カフィズマ」]] ** [[第二「カフィズマ」]] ** [[第三「カフィズマ」]] ** [[第四「カフィズマ」]] ** [[第五「カフィズマ」]] ** [[第六「カフィズマ」]] ** [[第十七「カフィズマ」]] ** [[第十八「カフィズマ」]] ** [[第十九「カフィズマ」]] ** [[第二十「カフィズマ」他]] * [[コンチリサンの略]]{{註|Contrição/Contrition:悔い改め、懺悔という意味}} * [[白骨の御文]] * [[主の祈り]] ==リダイレクト== * [[ディダケー (Riddle translation)]] → [[ニカイア以前の教父たち/第7巻/十二使徒の教訓/十二使徒の教訓]] {{resize|120%|サブページ}} * [[利用者:村田ラジオ/sandbox]] ウェブスター改訂聖書 * [[利用者:村田ラジオ/sandbox2]] マカリオス 大書簡 * [[利用者:村田ラジオ/sandbox3]] ばるらあんと聖じょさはつの御作業 <strike>信仰について 第5巻、ルカ福音書の解説 第8巻</strike> * [[利用者:村田ラジオ/sandbox4]] トゥスクルム荘対談集 <strike>聖バルラームと聖ヨサファトの生涯</strike> * [[利用者:村田ラジオ/common.js]] :::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]] ----- ===19. 忘備録=== {| |valign=top| * [[ヘルプ:編集の仕方]] * [[ヘルプ:資料を追加する]] * [[ヘルプ:パブリックドメイン]] * [[ヘルプ:著作権タグ]] * [[ヘルプ:信頼性の基本ガイド]] * [[ヘルプ:註釈の追加]] * [[ヘルプ:詩を編集する]] * [[Wikisource:削除依頼]] * [[Wikisource:削除の方針]] * [[Wikisource:ツール・スクリプト]] * [[Wikisource:記事名の付け方]] * [[Wikisource:ウィキリンク]] * [[Wikisource:翻訳の仕方]] * [[Wikisource:スタイルガイド]] * [[Wikisource:全てのルールは無視せよ]] * カテゴリ:段組みテンプレート * カテゴリ:ウィキソース * カテゴリ:ヘルプ * カテゴリ:ウィキソースによる翻訳物 * カテゴリ:スタブ <nowiki>{{スタブ}}</nowiki> |valign=top| * [[テンプレート:変体仮名]] * [[テンプレート:異体字]] * 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1947年(昭和22年)12月30日 |birthyear= |deathyear= |description = 横光 利一(よこみつ りいち)は、日本の小説家・俳人・評論家。{{wikipediaref|横光利一}} |image = |wikipedia_link = |commons_link = }} == 作品一覧 == * [[七階の運動]] * [[日輪 (横光利一)|日輪]]<!--1923--> * [[蠅 (横光利一)|蠅]]<!--1923--> {{PD-Japan-auto-expired|deathyear=1947}} [[Category:日本の作者]] [[Category:文学者]] {{Authority control}} dce5844ajy5qvo5cxmh74c0euiz4fvc 作者:夢野久作 102 30055 242100 242036 2026-05-03T10:27:33Z Keiri 25651 /* 作品一覧 */ 242100 wikitext text/x-wiki {{author |name = 夢野 久作 |last_initial = ゆ |DEFAULTSORT = ゆめのきゅうさく |dates = 1889年(明治22年)1月4日 - 1936年(昭和11年)3月11日 |birthyear=1889 |deathyear=1936 |description = 夢野 久作(ゆめの きゅうさく)は日本の禅僧、陸軍少尉、郵便局長、小説家、詩人、SF作家、探偵小説家、幻想文学作家。日本探偵小説三大奇書の一つに数えられる畢生の奇書『ドグラ・マグラ』をはじめ、怪奇色と幻想性の色濃い作風で名高い。またホラー的な作品もある。詩や短歌にも長け、同時代の他の作家とは一線を画す作家である。{{wikipediaref|夢野久作}} |image = Kyusaku Yumeno.jpg |wikipedia_link = 夢野久作 |commons_link = }} ==作品一覧== * [[あやかしの鼓]] * [[押絵の奇蹟]] * [[氷の涯]] * [[少女地獄]] * [[ドグラ・マグラ]] * [[瓶詰地獄]] * [[ルルとミミ]]('''とだけん'''名義) * [[猟奇歌]] * [[私の好きな読みもの]] == 外部リンク == * {{青空文庫著作者|96|夢野久作}} {{PD-old-auto-1996|deathyear=1936}} [[Category:夢野久作|*]] [[Category:日本の作者]] [[Category:文学者]] {{Authority control}} 8qybl9os441b1hdiykfu559hd8xyukq 禮記/聘義 0 42196 242095 210185 2026-05-03T06:38:19Z 温厚知新 35206 訳を加筆 242095 wikitext text/x-wiki {{header |title=[[禮記]] |section=聘義 |author= |previous=[[禮記/燕義|燕義]] |next=[[禮記/喪服四制|喪服四制]] |notes=訳は、『漢文叢書 第17(礼記)』有朋堂、昭和2年(1927)発行{{NDLJP|1118535|format=short}}{{Commons link|NDL1118535 漢文叢書 第17 (礼記) part4.pdf}}による。※一部の異体字(「&#28212;」など)は平易化しています。{{Textquality|50%}} |edition=yes }} 聘禮,上公七介,侯伯五介,子男三介,所以明貴賤也。介紹而傳命,君子於其所尊弗敢質;敬之至也。三讓而後傳命,三讓而後入廟門,三揖而後至階,三讓而後升;所以致尊讓也。 {{*|訳:{{NDLJP|1118535/353|format=short}} {{r|聘禮|へいれい}}に、{{r|上公|じやうこう}}は七{{r|介|かい}}、{{r|侯|こう}}{{r|伯|はく}}は五介、{{r|子|し}}{{r|男|だん}}は三{{r|介|かい}}、{{r|貴賤|きせん}}を{{r|明|あきら}}かにする所以なり。 {{r|介|かい}}{{r|紹|つ}}ぎて命を{{r|傳|つた}}ふ、君子其の{{r|尊|たふと}}ぶ所に於て{{r|敢|あへ}}て{{r|質|しつ}}せず、{{r|敬|けい}}の至りなり。三{{r|讓|じやう}}し て而して后{{ママ}}に命を{{r|傳|つた}}へ、三{{r|讓|じやう}}して而して后{{ママ}}に{{r|廟門|べうもん}}に入り、三{{r|揖|いふ}}して而して后{{ママ}}に{{r|階|かい}} に至り、三{{r|讓|じやう}}して而して后{{ママ}}に{{r|升|のぼ}}る、{{r|尊讓|そんじやう}}を致す所以なり。}} 君使士迎于竟,大夫郊勞,君親拜迎于大門之內而廟受,北面拜貺,拜君命之辱,所以致敬也。敬讓也者,君子之所以相接也。故諸侯相接以敬讓,則不相侵陵。 {{*|君、士をして{{r|竟|さかひ}}に{{r|迎|むか}} ヘ、{{r|大夫|たいふ}}をして{{r|郊|かう}}{{r|勞|らう}}せしむ。{{r|君|きみ}}{{r|親|みづか}}ら{{r|拜|はい}}して{{r|大門|だん{{ママ}}もん}}の{{r|内|うち}}に{{r|迎|むか}}へて{{r|廟|べう}}に受く。{{r|北面|ほくめん}}し て{{r|&#36026;|たまもの}}を{{r|拜|はい}}し、君命の{{r|辱|かたじけなき}}を拜す、{{r|敬|けい}}を致す所以なり、{{r|敬讓|けいじやう}}は、君子の{{r|相|あひ}}{{r|接|せつ}}す る所以なり。故に{{r|諸侯|しよこう}}{{r|相|あひ}}{{r|接|せつ}}するに{{r|敬讓|けいじやう}}を以てすれば、則ち{{r|相|あひ}}{{r|侵陵|しんりよう}}せず。}} 卿為上擯,大夫為承擯,士為紹擯;君親禮賓;賓私面、私覿;致饔餼、還圭璋、賄、贈、饗、食、燕,所以明賓客君臣之義也。 {{*|{{r|卿|けい}}を {{r|上擯|じやうひん}}と爲し、{{r|大夫|たいふ}}を{{r|承擯|しようひん}}と爲し、士を{{r|紹擯|せうひん}}と爲し、{{r|君|きみ}}{{r|親|みづか}}ら{{r|賓|ひん}}を禮す、{{r|賓|ひん}}、{{r|私面|しめん}} {{r|私覿|してき}}するとき、{{r|&#39252;&#39228;|ようき}}を致し、{{r|圭璋|けいしやう}}を{{r|還|か}}へし、{{r|賄|わい}}{{r|贈|ぞう}}{{r|饗|きやう}}{{r|食|し}}{{r|燕|えん}}す、{{r|賓客|ひんかく}}{{r|君臣|くんしん}}の{{r|義|ぎ}}を{{r|明|あきら}} かにする所以なり。}} 故天子制諸侯,比年小聘,三年大聘,相厲以禮。使者聘而誤,主君弗親饗食也。所以愧厲之也。諸侯相厲以禮,則外不相侵,內不相陵。此天子之所以養諸侯,兵不用而諸侯自為正之具也。 {{*|故に天子、{{r|諸侯|しよこう}}に{{r|制|せい}}し、{{r|比年|ひねん}}に{{r|小聘|せうへい}}し、三年に{{r|大聘|たいへい}}せしめ、{{r|相|あひ}}{{r|&#21426;|はげま}}すに{{r|禮|れい}}を以て す。{{r|使者|ししや}}{{r|聘|へい}}して{{r|誤|あやま}}れば、{{r|主君|しゆくん}}{{r|親|みづか}}ら{{r|饗食|きやうし}}せず、之れを{{r|愧&#21426;|ぎれい}}する所以なり。諸侯 {{r|相|あひ}}{{r|&#21426;|はげま}}すに禮を以てすれば、則ち{{r|外|ほか}}{{r|相|あひ}}{{r|侵|おか}}さず、{{r|内|うち}}{{r|相|あひ}}{{r|陵|しの}}がず。此れ天子の諸侯を{{r|養|やしな}} ひ、兵用ひず、諸侯{{r|自|みづか}}ら{{r|正|せい}}を爲す所以の{{r|具|ぐ}}なり。}} 以圭璋聘,重禮也;已聘而還圭璋,此輕財而重禮之義也。諸侯相厲以輕財重禮,則民作讓矣。主國待客,出入三積,餼客於舍,五牢之具陳於內,米三十車,禾三十車,芻薪倍禾,皆陳於外,乘禽日五雙,群介皆有餼牢,壹食再饗,燕與時賜無數,所以厚重禮也。古之用財者不能均如此,然而用財如此其厚者,言盡之於禮也。盡之於禮,則內君臣不相陵,而外不相侵。故天子制之,而諸侯務焉爾。 {{*|{{r|圭璋|けいしやう}}を以て{{r|聘|へい}}するは、禮を {{r|重|おも}}んずるなり。{{r|已|すで}}に{{r|聘|へい}}して{{r|圭璋|けいしやう}}を{{r|還|かへ}}すは、此れ{{r|財|ざい}}を{{r|輕|かろ}}んじて禮を重んずるの義 なり。諸侯{{r|相|あひ}}{{r|&#21426;|はげま}}すに{{r|財|ざい}}を{{r|輕|かろ}}んじ禮を重んずることを以てすれば、則ち民、{{r|讓|じやう}}に {{r|作|おこ}}る。{{r|主國|しゆこく}}、{{r|客|かく}}を{{r|待|ま}}つに、{{r|出入|しゆつにふ}}三{{r|積|し}}し、{{r|客|かく}}に{{r|舍|しや}}に{{r|&#39228;|き}}し、五{{r|牢|らう}}の{{r|具|ぐ}}{{r|内|うち}}に{{r|陳|つら}}ね、米 三十{{r|車|しや}}、{{r|禾|くわ}}三十{{r|車|しや}}、{{r|芻|すう}}{{r|薪|しん}}は{{r|禾|くわ}}に{{r|倍|ばい}}す、{{r|皆|みな}}{{r|外|ほか}}に{{r|陳|つら}}ね、{{r|乘禽|じようきん}}日に五{{r|雙|さう}}、{{r|羣介|ぐんかい}}{{r|皆|みな}}{{r|&#39228;牢|きらう}}あ り、{{r|壹食|いつしよく}}再{{r|饗|きやう}}、{{r|燕|えん}}と{{r|時賜|じし}}と{{r|數|すう}}なし、{{r|厚|あつ}}く禮を{{r|重|おも}}んずる所以なり。{{r|古|いにしへ}}の{{r|財|ざい}}を 用ふる者、{{r|均|ひと}}しく{{r|此|かく}}の如くなる能はず。然り而して{{r|財|ざい}}を用ふること{{r|此|かく}}の如く其れ {{r|厚|あつ}}き者は、之れを禮に{{r|盡|つ{{ママ}}}}すを言ふなり。之を禮に{{r|盡|つく}}せば、則ち内は君臣{{r|相|あひ}}{{r|陵|しの}}がず、 而して{{r|外|ほか}}は{{r|相|あひ}}{{r|侵|おか}}さず。故に天子之れを{{r|制|せい}}し、諸侯務むること爾り。}} 聘、射之禮,至大禮也。質明而始行事,日幾中而後禮成,非強有力者弗能行也。故強有力者,將以行禮也。酒清,人渴而不敢飲也;肉乾,人饑而不敢食也;日莫人倦,齊莊正齊,而不敢解惰。以成禮節,以正君臣,以親父子,以和長幼。此眾人之所難,而君子行之,故謂之有行;有行之謂有義,有義之謂勇敢。故所貴於勇敢者,貴其能以立義也;所貴於立義者,貴其有行也;所貴於有行者,貴其行禮也。故所貴於勇敢者,貴其敢行禮義也。故勇敢強有力者,天下無事,則用之於禮義;天下有事,則用之於戰勝。用之於戰勝則無敵,用之於禮義則順治;外無敵,內順治,此之謂盛德。故聖王之貴勇敢強有力如此也。勇敢強有力而不用之於禮義戰勝,而用之於爭鬬,則謂之亂人。刑罰行於國,所誅者亂人也。如此則民順治而國安也。 {{*|{{NDLJP|1118535/354|format=short}} {{r|聘|へい}}{{r|射|しや}}の{{r|禮|れい}}は、至つて{{r|大禮|たいれい}}なり、{{r|質明|しつめい}}にして{{r|始|はじ}}めて事を{{r|行|おこな}}ひ、{{r|日|ひ}}{{r|幾|ほと}}んど{{r|中|ちう}}して而 して后{{ママ}}に禮成る。{{r|強有力|きやういうりよく}}の者に{{r|非|あら}}ざれば、{{r|行|おこな}}ふこと能はざるなり。故に強有力 の者は{{r|將|まさ}}に以て禮を行はんとするなり。{{r|酒|さけ}}{{r|清|す}}めり、{{r|人|ひと}}{{r|渇|かつ}}すれども{{r|敢|あへ}}て{{r|飮|の}}まざるな り。{{r|肉|にく}}{{r|乾|かわ}}けり、{{r|人|ひと}}{{r|飢|う}}うれども敢て{{r|食|くら}}はざるなり。{{r|日|ひ}}{{r|莫|く}}れ{{r|人|ひと}}{{r|倦|う}}めども、{{r|齊莊|さいさう}}{{r|正齊|せいさい}}に して、敢て{{r|解惰|かいだ}}せず、以て{{r|禮節|れいせつ}}を成し、以て{{r|君臣|くんしん}}を{{r|正|たゞし}}くし、以て{{r|父子|ふし}}を{{r|親|したし}}み、 以て{{r|長幼|ちやうえう}}を{{r|和|くわ}}す、此れ{{r|衆人|しうじん}}の{{r|難|かた}}んずる所にして、而して君子は之れを{{r|行|おこな}}ふ。故 に之れを{{r|行|かう}}{{r|有|あ}}りと謂ふ、{{r|行|かう}}有る之れ義ありと謂ふ、義ある之れを{{r|勇敢|ゆうかん}}と{{r|謂|い}}ふ。故 に勇敢に{{r|貴|たふと}}ぶ所の者は、其の能く以て義を立つるを{{r|貴|たふと}}ぶなり。義を立つるに貴 ぶ所の者は、其の{{r|行|おこなひ}}あるを{{r|貴|たふと}}ぶなり、{{r|行|おこなひ}}あるに{{r|貴|たふと}}ぶ所の者は、其の禮を{{r|行|おこな}} ふを{{r|貴|たふと}}ぶなり。故に勇敢に{{r|貴|たふと}}ぶ所の者は、其の敢て禮義を{{r|行|おこな}}ふを{{r|貴|たふと}}ぶなり。 故に{{r|勇敢|ゆうかん}}{{r|強有力|きやういうりよく}}の者は、天下事なければ、則ち之を禮義に用ひ、天下事有れば、 則ち之を{{r|戰勝|せんしよう}}に用ふ。之を{{r|戰勝|せんしよう}}に用ふれば、則ち{{r|敵|てき}}なく、之を禮義に用ふれば、 則ち{{r|順治|じゅんぢ}}なり。{{r|外|ほか}}{{r|敵|てき}}なく、{{r|内|うち}}、{{r|順治|しゆんぢ}}するは、此れを之れ{{r|盛徳|せいとく}}と謂ふ。故に{{r|聖王|せいわう}} の{{r|勇敢|ゆうかん}}{{r|強有力|きやういうりよく}}を{{r|貴|たふと}}ぶこと{{r|此|かく}}の如きなり。{{r|勇敢|ゆうかん}}{{r|強有力|きやういうりょく}}にして、之を禮義{{r|戰勝|せんしよう}} に用ひずして、之を{{r|爭闘|そうとう}}に用ふれば、則ち之を{{r|亂人|らんじん}}と謂ふ。{{r|刑罰|けいばつ}}{{r|國|くに}}に{{r|行|おこな}}はれ、{{r|誅|ちう}} する所の者は亂人なり。{{r|此|かく}}の如くなれば則ち{{r|民|たみ}}{{r|順治|じゆんぢ}}にして{{r|國|くに}}{{r|安|やす}}し。}} 子貢問於孔子曰:「敢問君子貴玉而賤玟者何也?為玉之寡而玟之多與?」孔子曰:「非為玟之多故賤之也、玉之寡故貴之也。夫昔者君子比德於玉焉:溫潤而澤,仁也;縝密以栗,知也;廉而不劌,義也;垂之如隊,禮也;叩之其聲清越以長,其終詘然,樂也;瑕不掩瑜、瑜不掩瑕,忠也;孚尹旁達,信也;氣如白虹,天也;精神見於山川,地也;圭璋特達,德也。天下莫不貴者,道也。《詩》云:『言念君子,溫其如玉。』故君子貴之也。」 {{*|{{NDLJP|1118535/355|format=short}} {{r|子貢|しこう}}、{{r|孔子|こうし}}に問うて曰く、{{r|敢|あへ}}て問ふ、君子{{r|玉|たま}}を{{r|貴|たふと}}びて{{r|&#16585;|びん}}を{{r|賤|いやし}}む者は何ぞや、 {{r|玉|たま}}の{{r|寡|すくな}}くして{{r|&#16585;|びん}}の{{r|多|おほ}}きが爲めか。孔子曰く、{{r|&#16585;|びん}}の多きが爲の故に之を{{r|賤|いやし}}んで、 {{r|玉|たま}}の{{r|寡|すくな}}きが故に之れを{{r|貴|たふと}}ぶに非ざるなり。夫れ{{r|昔者|むかし}}君子、徳を玉に比せり。{{r|温|をん}} {{r|潤|じゆん}}にして{{r|澤|たく}}あるは{{r|仁|じん}}なり、{{r|&#32285;密|しんみち}}にして以て{{r|栗|りつ}}なるは知なり、{{r|廉|れん}}にして{{r|&#21132;|やぶ}}らざるは 義なり、之れを{{r|垂|た}}れて{{r|隊|おつ}}るが如きは禮なり、之れを{{r|叩|たゝ}}けば其{{r|聲|こゑ}}{{r|清越|せいゑつ}}にして以て{{r|長|なが}} く、其{{r|終|をはり}}{{r|&#35416;然|くつぜん}}たるは{{r|樂|がく}}なり。{{r|瑕|か}}、{{r|瑜|ゆ}}を{{r|&#25564;|おほ}}はず、{{r|瑜|ゆ}}、{{r|瑕|か}}を{{r|&#25564;|おほ}}はざるは{{r|忠|ちう}}なり、{{r|孚|ふ}} {{r|尹|いん}}{{r|旁達|ばうたつ}}なるは{{r|信|しん}}なり、{{r|氣|き}}、{{r|白虹|はくこう}}の如きは{{r|天|てん}}なり、{{r|精神|せいしん}}、{{r|山川|さんせん}}に{{r|見|あらは}}るゝは地なり、 {{r|圭璋|けいしやう}}{{r|特達|とくたつ}}は{{r|徳|とく}}なり、天下{{r|貴|たふと}}ばざるなき者は{{r|道|みち}}なり。{{r|詩|し}}に云ふ、{{r|言|わ}}れ君子を{{r|念|おも}}ふ、 {{r|温|をん}}として其れ{{r|玉|たま}}の如しと。故に君子之を{{r|貴|たふと}}ぶなり。}} {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{PD-Japan-auto-expired}}}} [[カテゴリ:礼記]] [[Category:漢文叢書]] h3azrzlu1j4zsgquv2yjn5f3a5obifq Page:聖事経(再版).pdf/59 250 56308 242087 241888 2026-05-03T05:42:56Z Kuroyuki-pupa 32076 /* 校正済 */ 242087 proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="3" user="Kuroyuki-pupa" /></noinclude>光ヲ照ラシ、及ビ不當ナル我等ニ、聖水ニ於ケル福タル{{ruby|淨|キヨメ}}ト生命ヲ施ス{{ruby|傅膏|フカウ}}ニ於ケル神妙ナル成聖トヲ賜ヒ、今モ、水ト聖神トヲ以テ、新ニ光照セラレシ爾ノ僕ヲ再生ムヲ喜ビ、並ニ彼ニ、自由ト不自由トノ罪ノ赦ヲ賜ヘリ、主宰・{{ruby|慈|イツクシミ}}深キ萬有ノ王ヤ、爾親ラ、亦彼ニ、爾ノ全能ナル、伏拜セラルヽ聖神ノ恩賜ノ{{ruby|印|シルシ}}、及ビ爾ノ<u>ハリストス</u>ノ聖體尊血ヲ領クルコトヲ賜ヘ、彼ヲ爾ノ成聖ニ護リ、正教ニ堅メ、凶惡者ト其悉クノ{{ruby|所爲|シワザ}}ヨリ援ケ、爾ニ於ケル救ノ畏ヲ以テ、{{ruby|彼|カレ}}ノ靈ヲ潔淨ト義トニ護リ給ヘ、彼ガ凡ノ行ト言トニ於テ爾ノ喜ブ所ト爲リテ、爾ガ天國ノ子及ビ{{ruby|嗣|ヨツギ}}ト爲ランガ爲ナリ、 <span class="rubric">高聲</span> 葢爾ハ我等ノ神、憐ミ且救フ神ナリ、我等光榮ヲ爾父ト 子ト聖神ニ獻ズ、今モ何時モ世世ニ、「アミン」<noinclude></noinclude> ombswgfv8728gxfa21tyzb4ddgul6qh 闘争 0 56369 242096 242061 2026-05-03T09:10:33Z Keiri 25651 242096 wikitext text/x-wiki {{Textquality|100%}} {{header | title = 闘争 | defaultsort = とうそう | year = 1929 | author = 小酒井不木 | section = | previous = | next = | category = 日本の近代文学 | category2 = 日本の短編小説 | category3 = 青空文庫からインポートしたテキスト | edition = | notes = * 書誌情報の詳細は[[{{TALKPAGENAME}}|議論ページ]]をご覧ください。 }}  K君。  親切な御見舞の手紙うれしく拝見した。僕は全く途方に暮れてしまった。御葬式やら何やら{{ruby|彼|か}}やらで、随分{{ruby|忙|せわ}}しかったが、やっと二三日手がすいて、がっかりした気持になって居るところへ君の手紙を受取り、涙ぐましいような感激を覚えた。君の言うとおり、毛利先生を失ったわが法医学教室は闇だ。のみならず、毛利先生を失ったT大学は、げっそり寂しくなった。更に、また毛利先生を失った日本の学界は急に心細くなった。さきに{{ruby|狩尾|かりお}}博士を失い、今また毛利先生の{{ruby|訃|ふ}}にあうというのは、何たる日本の不幸事であろう。毛利先生と狩尾博士とは、日本精神病学界の双璧であったばかりでなく共に世界的に有名な学者であった。その二人が僅か一ヶ月あまりのうちに相次いで病死されたということは、悲しみてもなお余りあることである。  K君。君は僕の現在の心持ちを充分察してくれるであろう。何だか僕も先生と同じく肺炎に{{ruby|罹|かゝ}}って死にそうな気がしてならぬ。かつて中学時代に父を失ったとき、その当座は自分も死にそうに思ったが、その同じ心持ちを今しみ{{ぐ}}感ずるのだ。教室へ出勤しても何も手がつかぬ。幸いに面倒な鑑定がないからいゝけれど、{{ruby|若|も}}しむずかしい急ぎの鑑定でも命ぜられたら、どんな間違いをしないとも限らない。家に帰ってもたゞぼんやりとして居るだけだ。それで居て、何かやらずに居られないような気分に迫られても居るのだ。若し僕に創作の能力があったら、きっと短篇小説の二つや三つは書き上げたにちがいない。けれども残念ながら、それは僕には不可能事だ。たゞ幸いに手紙ぐらいは書けるから、今晩は君に向って、少し長い手紙を御返事かた{{ぐ}}書こうと思う。  君の手紙にも書かれてあるとおり、毛利先生は最近たしかに憂鬱だった。君ばかりでなく、他の友人たちも、それを気づいて、すぐに先生の生前に、僕にたずねた者がある。僕には先生の憂鬱の原因、ことに死の直前一ヶ月あまりの極端な憂鬱の原因はよくわかって居た。けれども、先生が生きて{{ruby|居|お}}られる限りはその原因を僕は絶対に人に語らぬつもりだった。けれども、今はもうそれを語ってもよいばかりでなく、また語らずには置けぬ気がするのだ。で、それについてこれから出来るだけ{{ruby|委|くわ}}しく書こうと思う。  それから今一つ、話の{{ruby|序|ついで}}に、君が{{ruby|嘸|さぞ}}聞きたがっているだろうと思う、例の新聞広告、とだしぬけに言ったのではわかるまいが、今から一ヶ月半ほど前に、都下の主な新聞の三行広告欄へあらわれた不思議な広告 {{border|align = center|compact = true|PMbtDK}} の種明しをもしようと思う。こう言うと、君は定めし不審に思うだろうが、あの広告は、実は僕が出したものだ。君よ、驚いてはいかぬ。詮索好きの君は、あの当時、よく僕の教室へ来て誰が、何のために出して、どういう意味があるだろうかと、色々推定を{{ruby|行|や}}ってきかせてくれたものだ。僕は君に感附かれないように、つとめて知らぬ顔を装って居たのだが、あれこそ、先生の憂鬱の原因と関係があって、その当時は絶対の秘密を要したことだから、僕は自分ながら感心するほど、よく自制したよ。が、今はそれを自由に物語ることが出来るのだ。君も、きっと喜ぶだろうが、僕もうれしい気がする。  K君。  君はよく記憶して居るだろう。郊外Mに文化住宅を構えて居た若き実業家北沢栄二の自殺の一件を。一旦自殺として埋葬されたのを、警察の活動によって、未亡人{{ruby|政子|まさこ}}とその恋人たる文士緑川順が、他殺の嫌疑で拘引され、死骸の再鑑定をすることになったが、鑑定の結果、やはり自殺と決定されて二人は放免され、事件は比較的平凡に片づいてしまった。あの鑑定は主として僕がやったけれど、実はあの事件の底には、もっと{{く}}奥深いものがかくされて居て、それがやがてあの謎の広告と密接な関係を持って居るのだ。というと、察し深い君は、あの事件がやはり他殺だったのかと思うであろう。そうだ。思い切って言えば、やはり一種の他殺だったのだ。が、それはたしかに普通の場合とは異って居るので、それがあの謎の広告となったのだが、とに角、こういう訳で、毛利先生の憂鬱の原因は、間接に北沢事件だとも言い得るのだ。  尤もそれは先生の死の直前の極度の憂鬱のことをいうのであって、すでにその以前から、毛利先生は憂鬱だったのだ。僕はちょうど五年間先生に師事したが、最初の四年間先生は文字通り快活で、疲労というものを少しも知らぬ学者だった。五十を越した人と思われぬ黒い髪と、広い額と窪んだ眼と、かたく結んだ唇とは、見るからに聡明な性質を表わして居たが、ことに先生が、法医学的の、又は精神病学的の鑑定を行われる態度は、{{ruby|襟|えり}}を正しくせずに{{ruby|居|お}}られぬほど厳粛なものだった。それもその筈だ。先生の鑑定の結果は、単に一個人の生命に関係するばかりでなく、社会にも重大な影響を与えるから、いわば人智の限りを尽して{{ruby|携|たずさ}}わられたのである。{{ruby|而|しか}}も、そうした義務的観念から熱心であったばかりでなく、心からの興味をもって従事されたのである。  ところが過去一ヶ年ほど、どうした訳か先生は、以前ほど仕事に興味を持たれなくなった。どんな小さな鑑定にも、必ず自分の息を吹きかけねば気の済まなかった先生が、近頃はほとんど我々助手に任せきりだった。任せきりだとはいうものゝ、鑑定書には必ず眼をとおされ、助手の手にあまるような問題には決して労力を惜まれなかったが、どう観察しなおしても、以前ほどの熱はなく、教室でぼんやり時を過されることが度々であった。後進を引き立てるために、わざと手をつけることを差控えるようにせられたのかとも思って見たけれど、決してそうばかりではなかった。というのは、先生の顔にだん{{く}}憂鬱の影がさして来たからである。  僕ははじめ先生の憂鬱の原因を、何か先生に、世間普通の心のなやみが生じたためではないかと考えたよ。{{ruby|甚|はなは}}だ失礼ながら、独身の先生のことだから、恋愛問題にでも直面されたのではないかと思って見た。もちろん今はその邪推を後悔して居るが、とに角、一時はそうとでも考えるより他はなかったのだ。ところが、だん{{く}}観察を深めて行くと、それが全部ではないけれど、一種の倦怠とも見るべき状態だとわかったのだ。どうもこの倦怠という言葉は甚だ坐りが悪いけれど、他によい言葉がないから、致し方なく使用するのだが、いわば、精神活動の一種の{{ruby|弛緩|しかん}}状態を意味するのだ。  生理学を専攻する君に、こんなことを言うのは僭越だが、心臓の血圧の曲線を観察すると、かのトラウベ・ヘーリング氏の{{ruby|弛張|しちょう}}がある。心臓は生れてから死ぬまで搏動を続けて居なければならぬから、一対ずつ存在して居る器官、例えば腎臓のように、一方の活動して居る間、他方が休むという訳にいかぬ。それで活動に{{ruby|弛張|しちょう}}を{{ruby|来|きた}}し、それが{{ruby|所謂|いわゆる}}トラウベ・ヘーリング氏の弛張と名づけられて居るが、僕は精神的活動にも同様なことがあり得ると思うのだ。平凡な働きしか出来ぬ脳髄には弛張は目立たぬけれど、精神的活動がはげしければはげしいほど、緊張状態の後に来る弛緩状態が目立って来ると考えるのだ。僕は{{ruby|嘗|かつ}}てこの見地のもとに、史上の俊才の伝記を研究したことがある。果して多くの俊才には、精神的活動期の中間に著しいギャップのあることがわかった。古来の伝記学者たちはそのギャップを色々に説明して居るが、要するに、それは生理的に、いわば自然に生ずるものであって、俊才自身が意識してそのギャップを作ったのではないのだ。そうしてその時期にめぐり合せた俊才たちは、きまって憂鬱になるのだ。著しかった精神活動の時期を回顧して、だん{{く}}深い憂鬱に{{ruby|陥|お}}ちこんで行くのだ。  時には肉体的の欠陥がこの弛緩状態を起すことがある。肺結核の初期には却って精神的活動を促すが、後にはやはり弛緩状態を起すらしい。慢性腎臓炎などは弛緩が著しい。そこで僕は先生が何か病気に{{ruby|罹|かゝ}}られたのではないかとも思ったことがあるけれど、やはりそうではなく、俊才に生理的に起る憂鬱状態と見るのが至当だったのだ。  今になって見れば、もっと他の、学者としては最も当然な、{{ruby|且|か}}つ最も高尚な悩みもあったのだが、それはむしろ原因ではなくて、単にその時期に{{ruby|併在|へいざい}}したと見るのが至当であろう。いずれにしても、毛利先生は、先生自身でもどうにもならぬ、{{ruby|況|いわ}}んや僕等の何とも仕ようもない憂鬱に陥ってしまわれたのである。  ところが、その憂鬱からはからずも脱し得られるような事情が起ったのだ。後から見ればそれが一時的のものであって、毛利先生はその後更にはげしい憂鬱に陥られたが、若し、先生の論敵で、先生と共に、日本精神病学界の双璧といわれて居る狩尾博士が脳溢血で{{ruby|頓死|とんし}}されなかったら、あのまゝ従前の活動状態に復帰されたかも知れぬ。そうして、ことによったら、先生の死もこれほど早くには起らなかったかも知れぬ。が、今はもう悔んでも及ばない。又、僕の愚痴をならべて君を退屈させても相済まぬ。で、先生を一時的に憂鬱から救った事情を早く物語ろうと思う。言う迄もなく、それが即ち、北沢事件なのである。  K君。  北沢事件は、その当時、新聞に{{ruby|委|くわ}}しく報ぜられたから、君も大体は知って居るであろう。三十七歳の実業家北沢栄二は郊外に、文化住宅を建て、夫人政子と二人きりで、全然西洋式に暮して居たのだが、今から二月前の十月下旬のある日、夫人の留守中に書斎でピストル自殺を遂げた。その日夫婦は午後一時に昼食をとり、それから間もなく夫人は買物に出たが、色々手間どって五時半頃に帰ると、良人は書斎の机の前に椅子と共に、床の上に血に染まって死んで居たので、驚いて電話で警察へ報じたのである。  取調べの結果、机の上には遺書と見るべきものが置かれてあって、他殺らしい形跡が{{ruby|毫|すこし}}も認められなかったので、翌日埋葬を許可された。普通ならば火葬にさすべきであるのに、特に埋葬にせしめたのは、遺書と見るべきものが、本人の自作の文章ではなくて、本人の自筆ではあるけれど、先年自殺した青年文学者A氏の「{{ruby|或|ある}}旧友へ送る手記」の最初の一節をそのまま引き写したものだったからである。つまり警察では、そこに後日の研究の余地を{{ruby|存|そん}}せしめて置いたのだ。  すると果して約一ヶ月の後、警察へ投書があった。それは「北沢栄二の死因に怪しい点がある」とのみ書かれたハガキであるが、それがため警察がひそかに未亡人を{{ruby|監視|かんし}}すると、未亡人は、緑川順という年若き小説家の愛人があるとわかり、愛人の家宅を突然捜索すると、ちょうど北沢が自殺に用いたと同じピストルが発見され、なお当然のことであるが、「遺書」の載って居るA氏の全集もあったから、警察は謀殺の疑いありとして、未亡人と緑川とを拘引し、死骸の再鑑定を僕等の教室へ依頼して来たのだ。  鑑定の依頼に来たのは、警視庁の福間警部だった。僕等にはお馴染の人である。僕は警部から鑑定の要項と一切の事情とをきゝ取って、発掘して運ばれた死体を受取り、福間警部をかえして毛利先生の部屋をたずねたのだった。その日は今にも雨の降りそうな、変に陰鬱な天気だったせいもあるが、先生の顔には常にないほどの暗い表情が満ちて居た。僕が書類を手にしてはいって行くと、先生は読みかけた雑誌をそのまゝにして顔をあげ、 「また鑑定かね?」と、吐き出すように言われた。 「はあ」 「どんな」  そこで僕は、福間警部からきいた一切を物語ったが、一年前ならば、眼を輝かして聞かれたであろうに、{{ruby|而|しか}}も自殺か他殺かという鑑定の結果によっては二人の生命が左右されるほどの重大な事件であるのに先生はたゞフン、フンといってうなずかれるだけで、悪くいえば、まるで{{ruby|他事|よそごと}}を考えて居られるのではないかと思われるような、味気ない態度であった。僕が語り終ると、 「それで、鑑定の事項は?」 「三ヶ条です。第一は胃腸の内容から、死の起った時間を決定すること。第二は現場及び遺書の血痕が自然のものか、又は人工的に{{ruby|按排|あんばい}}された形跡があるか否や、第三はピストルが、どれほどの距離で発射されたかと言うのです」 「その遺書をそこに持って居るかね?」  僕は紙袋に入れられた遺書を取り出して、先生に差出した。それは二つに折られた水色のレター・ペーパーで、外側には数個の血痕が附着し、中側にペンで「或旧友へ送る手記」の最初の一節が書かれてあった。くどいようであるけれども、後の説明のために、その全文を書いて置こう。 <div style="margin-left: 2em">  誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や{{ruby|或|あるい}}は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであろう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はっきりこの心理を伝えたいと思っている。尤も僕の自殺する動機は特に君に伝えずとも{{ruby|善|よ}}い。レニエは彼の短篇の中に或自殺者を描いている。この短篇の主人公は何のために自殺するかを彼自身も知っていない。君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであろう。しかし僕の経験によれば、それは{{傍点|動機の全部}}ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示しているだけである。自殺者は大抵レニエの描いたように何の為に自殺するかを知らないであろう。それは我々の行為するように複雑な動機を含んでいる。が、少くとも僕の場合は{{ruby|唯|たゞ}}ぼんやりした不安である。君は或は僕の言葉を信用することは出来ないであろう。しかし十年間の僕の経験は僕に近い人々の僕に近い境遇にいない限り、僕の言葉は風の中の歌のように消えることを教えている。従って僕は君を{{ruby|咎|とが}}めない。…… </div>  先生はそれでも、この文句の全部に眼をとおされたのだった。そうして読み終ってから、 「この筆蹟は本人に間ちがいないのかね?」 と、たずねられた。 「それは間違いないそうです」  言う迄もなく先生は筆蹟鑑定のオーソリチーだ。以前の先生ならば、こうした変った遺書はきっと興味をひくにちがいないのだが、 「そうか」と答えられたゞけであった。そうして、僕に紙片を返しながら、 「それでは、{{ruby|涌井|わくい}}君、君にこの事件の鑑定をしてもらうことにしよう」と、言い放って、再び雑誌の方を向いてしまわれた。  あとでわかったことだが、毛利先生がその雑誌の方へ心を引かれて居られたのも無理はないのだった。{{ruby|其処|そこ}}には、先般学会で先生が大討論をなさった狩尾博士の論文が掲載されて居たからである。ここで{{ruby|序|ついで}}に、僕は毛利先生と狩尾博士との関係を述べて置こう。この二人が日本精神病学界の双璧だったことはすでに述べたが、毛利先生を{{ruby|堂上|どうじょう}}の人にたとえるならば、狩尾博士は野人であった。すでにその学歴からが、毛利教授は大学出であるのに、狩尾博士は{{ruby|済生学舎|さいせいがくしゃ}}を出てすぐ英国に渡って苦学した人だった。そうして狩尾博士はS区に広大な脳病院を経営し、しかも、どし{{く}}新研究を発表した。その風采も毛利先生は謹厳であったのに、狩尾博士は{{ruby|禿頭|とくとう}}で、どことなく茶目気があった。  更にその学説に至っては全然相反の立場にあった。毛利先生はドイツ派を受ついで居られたのに、狩尾博士はイギリス、フランス派を受ついで居た。もとより晩年には二人とも、外国にも{{ruby|匹儔|ひっちゅう}}を見ないほどのユニックな学者となって居て、毛利先生は、先生の{{ruby|所謂|いわゆる}}「脳質学派」を代表し、狩尾博士は博士の所謂「体液学派」を代表して居た。脳質学派とは人間の精神状態を脳質によって説明するのに反し、体液学派は、体液ことに内分泌液によって説明するのである。  狩尾博士の体液学派は、内分泌派又は体質派ともよばれるのであって、狩尾博士の主張するところによれば、すべての精神異常は体質によって{{ruby|定|き}}まるものであって、{{ruby|而|しか}}も体質なるものは目下のところ人力で{{ruby|之|これ}}を{{ruby|如何|いかん}}ともすることが出来ない。例えば殺人者たる体質を有するものは、必ずある時期の間に殺人を行う。故にその時期に入ったことを観察することが出来たならば、僅かの暗示的刺戟によっても殺人を行わせることが出来るというのである。即ち、一見精神健全と思われる人にも、体質の如何によって恐ろしい犯罪を{{ruby|敢|あえ}}てせしめ得るのだというのであって、その刺戟を狩尾博士は、これまでの suggestion と混同されないように incendiarism と名づけたのである。  この説に対して毛利先生は、精神異常は脳質に変化が起ってはじめてあらわれるのであって、脳質に変化の起らない限り、即ち、精神病的徴候のあらわれない限り、暗示によって殺人を行わせるごときは絶対に出来ぬと主張されたのである。先般の学会でもこの点について激論があった。実をいうとその時毛利先生の旗色が幾分か悪かった。すると、狩尾博士は、 「毛利君{{ruby|如何|いかゞ}}です?」と、いかにも皮肉な口調で、幾度も先生に迫ったものだ。けれども、人間に直接実験して見せて貰わないうちは、先生も{{ruby|兜|かぶと}}をぬぐことが出来ない。で、結局はやはり、そのまゝになって討論はやんだが、その時の狩尾博士の演説が、雑誌に載って居たので、毛利先生は、鑑定の方よりも、それに余計に気をとられて{{ruby|居|お}}られたわけである。  K君。  このようにして、北沢事件の再鑑定は僕が引受けることゝなった。僕等の教室では、たとい鑑定の事項が局所的のものでも、必ず全身を精密に解剖することになって居るので、その日直ちに注意深く解剖を行った。その結果、北沢栄二という人は{{ruby|胸腺淋巴|きょうせんりんぱ}}体質であることを知った。即ち自殺者に殆んど常に見られる体質だ。それから頭部の銃創と骨折の関係をしらべ、胃腸の内容をしらべたが、その結果、ピストルは右の{{ruby|顳顬|こめかみ}}{{註|「需+頁」、第3水準1-94-6}}から約五センチメートルほど離れたところから発射され、死の時間は昼食後一時間乃至二時間後であることをたしかめた。それから僕は北沢家に出張して{{ruby|現場|げんじょう}}の模様をしらべ、なお、遺書の上の血痕を{{ruby|検|しら}}べたが、人工的に{{ruby|按排|あんばい}}された形跡は一つも発見することが出来なかった。  このうち胃腸の内容検査は、色々の面白い事実を教えてくれた。無論それは事件とは関係のないもので、消化生理の上から見て興味あることだが、とてもその{{ruby|委|くわ}}しいことは今書いて居れぬから、他日教室へ来て鑑定書を見てくれたまえ。いずれにしても、僕の鑑定の結果では、他殺と見るべき根拠は何一つ発見されなかったのである。  あくる日、僕は、毛利先生の部屋をたずねて、解剖の結果その他を逐一報告した。さすがにその時は、熱心に聞いて下さったが、僕の報告を終るなり、先生は、 「それじゃ、自殺と考えても{{ruby|差支|さしつかえ}}ないね。若しそれが他殺だったら、たしかに奇蹟だ」と、言われた。  ところがK君。その奇蹟であることが、皮肉にも、それから一時間の後に起ったのだった。といっては少し言い方が変だが、実は、福間警部がたずねて来て、容疑者の緑川順が、北沢を殺したことを自白したから、毛利先生に警視庁へ来て、緑川を訊問して、その精神鑑定をしてほしいと頼みに来たからである。  これをきいた毛利先生の態度は急に一変した。先生はその瞬間に以前の毛利先生となられたのである。「他殺だったら、たしかに奇蹟だ」と断定されたほど、他殺説の割りこむ余地のない事情のところへ、他殺を自白したのだから、毛利先生は急に興味をもってみずから、取調べて見ようという気になられたにちがいない。 「福間君。緑川の自白したことを、まだ北沢未亡人には告げないだろうね」 「告げません」 「よし、それではこれからすぐ出かけよう」  僕等三人はやがて警視庁へ自動車をとばせた。自動車の中で毛利先生は、福間警部に向って、緑川の自白の{{ruby|趣|おもむき}}をたずねられた。警部の話したところによると、かねて彼は北沢夫人と恋愛関係をもって居たが、北沢夫人から、北沢がピストルを買ったこと、冗談半分に文学者A氏の遺書の一節をうつして持って居ることをきゝ、自分も同じピストルを買って、夫人に内証に北沢を亡きものにしようと決心し、その日、夫人が買物に出かけた後、ひそかにしのびこんで書斎へ行くと、北沢は椅子に腰かけて食後の{{ruby|微睡|びすい}}をして居たので、これ幸いと、うしろにしのび寄り、自分のピストルで射殺し、たおれるのを見すまして、手にそのピストルを握らせ、それから机の抽斗から、北沢のピストルと遺書を取り出し、ピストルはポケットに入れ、遺書は机の上に置いて、再びしのび出たというのであった。 「緑川はどこに{{ruby|住|すま}}って居るのかね?」と、毛利先生は警部の説明をきゝ終ってたずねられた。 「北沢家から、四五町へだたったところに小さな文化住宅をかまえ、一人で住んで居るのです」  警視庁へ着くなり、毛利先生と僕とは一室にはいって、緑川の連れられてくるのを待った。  やがて福間警部につれられてはいって来たのは二十四五の、顔の長い、髪の毛の房々とした青年だった。毛利先生は何思ったか福間警部を別室に{{ruby|退|しりぞ}}かせて、緑川に犯行の模様を語らせた。それは、福間警部が自動車の中で告げたことゝ少しも変らなかった。 「それでは、この机の前で、その時の北沢さんの模様をやって見せて下さい」  と、毛利先生は立ち上って、自分の腰かけて居た椅子を緑川に与え、室の隅にあった{{ruby|薄縁|うすべり}}をもって来て床に敷かれた。  緑川はおそる{{く}}椅子に腰かけた。 「さあ、眼をつぶって微睡して居る様子をして下さい。僕がその時のあなたの役をつとめます。よろしいか。そら、ドンとピストルを打った。そこで北沢さんはどうしましたか」 「何しろ興奮して居たから、こまかい動作はよく覚えて居りません。たしか、こういう風に立ち上ったと思います。それから、たしか身体を、こう{{ruby|捩|ね}}じて、下へたおれ、こう言う風に{{ruby|横|よこた}}わりました」  こう言って一々その動作を示した。 「{{ruby|宜|よろ}}しい。恐入りますが、もう一度やって見て下さいませんか」  更に再び実験が行われた。 「横わった時の姿はそれに変りはありませんか」 「それはたしかに記憶して居ります」 「よろしゅう御座います。元の部屋へお帰り下さい」  こう言って先生は福間警部をよんで緑川を連れ去らせた。 「涌井君。君は昨日北沢家へ調べに行った時、福間警部に北沢がどんな風に死んだかを{{ruby|演|や}}って見せたね」 「はあ」 「そうだろうと思った」  やがて福間警部が戻って来ると、 「福間君。白状というものは、こちらから教えてさすべきものでないよ。むこうの言うことを黙ってきけばいゝのだ」 「緑川が何か言いましたか」 「いま緑川に実演させたら、君が教えたとおりにやったゞけで本当のことをやらなかったよ。あんな飛び上り方なんて、まったく嘘だ。たゞ、横わってからは本式だった。本人も、飛び上ってから、身体を捩じてたおれるまでは、どうも興奮してよく覚えて居りませんと言いながら、横わった姿だけはっきり覚えて居るんだ。緑川の自白は虚偽だよ」 「それでは何故そんな虚偽の自白をしたのでしょう」 「それは、あとでわかるよ。未亡人をつれて来てくれたまえ」  間もなく黒い洋装の喪服を着た北沢未亡人が連れられて来た。眼の縁が際立って黒かったので、一層チャーミングに見えたが、さすがに、三十過ぎであることは皮膚の{{傍点|きめ}}にうかゞわれた。  例によって福間警部が退くと、先生は、 「あなたは、御主人が自殺された日、何時に用たしから御帰りになりましたか」 「五時半頃だったと思います」 「そうではないでしょう。四時か四時半頃だったでしょう」 「いゝえ、たしかに五時……」 「本当のことを言って下さい。こちらには何もかもわかって居るのですから」 「……………………」 「あなたは、四時頃に帰って死骸を発見し、びっくりして緑川さんのところへかけつけ、それから緑川さんをよんで来て、二人でとくと相談して、はじめて警察へ御知らせになったでしょう」 「いえ……」 「だから、緑川さんは、あなたが御主人を殺しなさったにちがいないと思いこみ、あなたをかばうために、今日、自分が殺したのだといって白状されましたよ」  この言葉に彼女はぶるッと身をふるわせて、 「それは本当で御座いますか。それでは何もかも申し上げます。まったく仰せのとおりで御座います。緑川さんが殺したのでもなく、また私が殺したのでもありません。私が四時に帰ったとき、すでに良人は死んで居りました。そうして私は一時に家を出て、それまで緑川さんのところに居たので御座います」 「よろしい。あなたの今言われたことを真実と認めます」  こう言って、毛利先生は警部をよんで夫人を連れ去らせた。 「涌井君」と、先生はさすがに喜ばしそうに言われた。「{{ruby|真実|まこと}}を知ることは、案外に楽なときもあるね。僕は緑川の実演で、彼が死骸を見せられたにちがいないと推定したのだが、果してそうだった。それにしても、恋は恐ろしいものだ。夫人の罪を救おうとして虚偽の自白をなし、敢て自分を犠牲にしたのだ」  K君。僕は今更ながら先生の{{ruby|烱眼|けいがん}}に驚かざるを得なかった。先生の前には、「虚偽」はつねに頭を下げざるを得ない。 「さあ」と先生は腕を組んで言われた。「これで、二人には罪がないとわかり、北沢は自殺ときまったが、さて、何だかまだ事件は片づいて居ないではないかね」 「はあ」と、返事をしたものの、僕にはさっぱり見当がつかなかった。  福間警部がはいってくると、先生は訊問の結果を告げ、二人を放免すべきことを主張せられて、そうして最後に、 「{{ruby|昨日|きのう}}、僕は立入ってはきかなかったが、一たい北沢事件の今度の再調査は、警察へ来た無名の投書がもとになったというではないかね」 「そうです」 「君は、その投書について調べて見たかね」 「いゝえ、投書はありがちのことですから、別に委しいことは検べませんでした」 「その投書はまだ保存してあるだろうね」 「あります、持って来ましょうか」  警部は去って、間もなく葉書をもって来た。そこには、「北沢栄二の死因に怪しい点がある」と、ペンで書かれてあったが、僕はそれを見た瞬間、はッと思って、先生の顔を見ると、先生の眼はすでにぎら{{く}}輝いて居た。 「涌井君。遺書を出したまえ」先生は遺書と投書の筆蹟を見くらべられたが、「この遺書と投書とは、同じ日に、同じペンとインキで、同じ人によって書かれたものだ※[#感嘆符三つ、184-1]」  K君。  その瞬間、僕は、たしかに一種の鬼気というべきものに襲われたよ。福間警部も、あまりの驚きで暫らくは言葉が出ないらしかった。 「福間君。御苦労だが、もう一度北沢夫人を連れて来て下さらぬか」  警部が去るなり、僕は言った。 「先生、それでは、北沢氏自身が、二人を罪に陥れるために、そのような{{ruby|奸計|かんけい}}をめぐらしたのでしょうか」 「それならばもっと他殺らしい証拠を作って然るべきだ」 「他殺らしい証拠を作っては却って観破される{{ruby|虞|おそれ}}があるから、投書の方だけを誰か腹心の人に預けて置いて、あとで投函してもらったのではないでしょうか。現に、遺書を自作にしなかったのも、やはり、深くたくんだ上のことではないでしょうか」 「そうかも知れない。けれど、北沢という人が、果してそういうことの出来得る人かしら。とに角、夫人にきいて見なければわからない」  夫人が連れられて来ると、先生は、遺書を示して、それが果して御主人の筆蹟であるかどうかをたずねられた。  夫人は肯定した。すると、福間警部も、北沢の他の筆蹟と較べたことを告げ、なお証拠として持って来てあった二三の筆蹟を取り出して来て示した。  先生は熱心に研究されたが、もはや、疑うべき余地はなかった。遺書も投書も、北沢その人が同時に書いたものである。 「この遺書を御主人が書かれたのは、いつ頃のことですか」 「たしか、死ぬ二十日程前だったと思います」 「どこで書かれましたか」 「それは存じませんが、ある晩私にそれを見せて、もうこれで、{{ruby|遺書|かきおき}}が出来たから、いつ死んでもよいと、冗談を申して居りました」 「すると、自殺をなさるような様子はなかったのですか」 「少しもありませんでした。平素比較的快活な方でしたから、まさかと思って居りました」 「ピストルはいつ御買いになりました」 「その同じ頃だと思います。強盗が出没して物騒だからといって買いました」 「御主人は{{ruby|平素|ふだん}}{{ruby|巫山戯|ふざけ}}たことを好んでなさいましたか」 「何しろわがまゝに育った人で、たまには巫山戯たことも致しましたが、時にはむやみにはしゃぐかと思えば、時にはむっつりとして二三日口を利かぬこともありました」 「御主人には、親しい友人はありませんでしたか」 「なかったと思います。元来お友達を作ることが嫌いで御座いまして、自分の関係して居る会社へもめったに顔出し致しませんでした。たゞM——クラブへだけはよく出かけました」 「M——クラブというと?」 「英国のロンドンに居たことのある人たちが集って組織して居る英国式のクラブで、丸の内に御座います」  これで毛利先生は訊問を打ちきって、未亡人を去らせ、 「いくらたずねて行っても、わかるものでない」と、呟くように言われた。 「それでは、投書の主をたずね出して見ましょうか」と、福間警部が言った。 「いま、たずね出したところが、自殺説が変るわけのものではないし、又、むこうから名乗って出ない限りはたずね出せるものでもなかろう。とに角、これで事件は片づいたよ」  K君。  かくて北沢事件は{{傍点|とに角}}片づいた。それは新聞で君も御承知のとおりだ。けれども片づかぬのは先生の心だった。再び従前の活動状態に戻られた先生としては、事件の底の底までつきとめねばやまれる筈がない。「むこうから名乗って出ない限りはたずね出せるものでもなかろう」と言われたものゝそれは警察に向っての言葉であって、先生にはすでにその時、たずね出せる自信があったに違いない。それのみならず先生は、その事件の真相を警察に知らせては面白くないとさえ直感されたらしい。  警視庁を去るとき、 「この遺書と投書を暫らく貸してもらいたい。少し研究して見たいから」  と言って、先生はその二品を持って教室へ帰られたが、やがて僕を教授室に呼んで、 「涌井君、君はどう考える」と、だしぬけに質問された。  僕が何と答えてよいか返事に迷って居ると、毛利先生は説明するように、 「単に警察に投書があったというだけなら、無論詮索する必要はないのだ。又、たとい、死んだ本人の自筆の投書であっても、これまたさほど珍らしがらなくてもよいことだ。世の中には随分悪{{ruby|戯気|ふざけ}}の多い人もあるから、大に警察を騒がせて、草葉の蔭から笑ってやろうと計画する場合もあるだろう。また、遺書が自作の文章でなくて、他人の引き写しであってもこれも、別に深入りして詮索するに及ばぬことだ。こうした例はこれまでにもなか{{く}}沢山あった。ところがこの二箇の、詮索を要せぬ事情が合併すると、そこに、はじめて詮索に価する事情が起って来るのだ。この場合自殺者が、遺書と投書とを同じ時に書いたということは、少くともある目的、{{ruby|而|しか}}も、たった一つの目的のために書かれたことになる。従って、その目的を詮索する必要が起って来るのだ」 「その目的はやはり、夫人と愛人とを罪に陥れるためではなかったでしょうか」 「それならば、もっと他殺らしい証拠を造って然るべきだ」 「それでは、単なる人騒がせのための悪戯でしょうか」 「悪戯としては考え過ぎてある。現にこの投書は、今少しのことで捨てられてしまうところだった。この投書を見なかったならば、僕もこのように興味を持たない筈だ」  K君。まったく僕にはわからなくなってしまった。そうして、毛利先生にも、その時はまだ少しもわかっては居なかったのだ。 「この謎はとても短時間には解けぬよ。君はもう帰ってもよい。僕はこれからこの二品を十分研究して見ようと思う」  K君。  かくて僕は、可なりに疲労して家に帰ったが、先生から与えられた謎が頭にこびりついて、その夜はなか{{く}}眠れなかった。僕は色々に考えて見た。はては文学者A氏の全集を{{ruby|繙|ひもと}}き、その遺書の第一節の文章なり意味なりから、何か解決の手がかりは得られないかと詮索して見たが、結局何も得るところはなかった。  あくる日、睡眠不足の眼をこすりながら、教室へ行くと、先生はすでに教授室に居られた。その顔を見たとき、先生が徹夜して研究されたことを直感した。 「涌井君、遂に問題は解けたよ」  僕の顔を見るなり、先生はいきなり声をかけられたが、いつもの問題の解けた時のような、うれしさがあらわれて居なかったから、何か先生にとっては不愉快な解決だなと思った。 「解けましたか」  そう言ったきり、僕は次の言葉に窮した。「それは愉快です」とは、どうしても言えなかったのだ。すると先生は、机の上にあった小さな紙片をとり上げて、 「之がその解決だよ」と言って渡された。見ると{{ruby|其処|そこ}}には、 {{border|align = center|compact = true|PMbtDK}} と書かれてあった。 「君、{{ruby|甚|はなは}}だ御苦労をかけるが、それを都下のおもだった新聞に、あまり目立たないように広告してくれたまえ」  僕は面喰った。 「これは暗号で御座いますか」 「{{ruby|理由|わけ}}は君が帰ってから話す」  僕はそのまゝ黙って引きさがり、それから各新聞社をまわって広告を依頼し、教室へ帰ったのは午後一時ごろだった。道々僕は、先生の渡された暗号——無論僕ははじめそれを暗号だと思った——を、色々に考えて解こうとしたが、まるで雲をつかむようだった。又、何のために、先生が新聞などへ広告を出されるのか、そうして、これが一たい北沢事件と、どう関係があるのか、ちっともわからなかった。だから、教室へ帰ったときは、早く先生から説明がきゝたくて、僕はいわば好奇心そのものであった。  教授室に入ると、先生は立ち上って、入口の方へ歩いて行き、{{ruby|扉|ドア}}の鍵孔に鍵を差しこんでまわされた。 「あまり大きな声で話してはならぬのだよ」こう言って再び机の前えに腰をおろし、「さて涌井君、君はニーチェを読んだことがあるか」と、だしぬけに質問された。 「はあ。以前に読んだことがありましたけれど……」と、僕がしどもどしながら答えると、先生は{{ruby|遮|さえぎ}}って、 「無理もない。今どきニーチェなどを語るのは物笑いの種かも知れぬが、{{ruby|若|も}}しそれが天才の仕事であるならば、たとい非人道的であっても、君は許す気にはならぬかね」 「さあ、そうですね……」 「いきなり、こう言っては君も返答に迷うであろうが、近頃はよく民衆の力ということが叫ばれて居るけれど、少くとも科学の領域に於ては、幾万の平凡人も、一人の天才に及ばぬことを君は認めるであろう」 「認めます」 「そうして、科学なるものが、人間の福利を増進するものである以上、科学的天才の仕事が非人道的であっても、君はそれを許す気にならないか」  誠に大問題である。 「もっとよく考えて見なくてはわかりませんが……」 「その肯定が出来なくては、君に{{ruby|先刻|さっき}}の約束どおり、説明を行うことが出来ぬ」  それでは大変だ。是非、北沢事件の解決をきかねばならぬ。 「許してもよいような気がします」 「よし、そんなら説明に取りかゝろう」と、案外先生は楽に話しかけて下さった。「ゆうべ僕は、この二枚の紙片をにらんで、とうとう徹夜してしまった。だん{{く}}推理を重ねていった後、比較的早く事件の底にかくされた秘密を知ったけれど、その確証をにぎるのに随分苦心した。 「僕は昨日君がかえってから、この二つの品即ち遺書と投書を、机の上にならべて、如何なる順序で研究すべきかを考えた。その結果、最初は先ず、心を白紙状態に還元して、果してこの二つの筆者が北沢その人であるかどうかを研究した。けれども、もはやそれには疑いの余地がなかった。いろ{{く}}北沢の他の筆蹟とくらべて見たが、絶対に他の人であり得ないことがわかった。 「然らば、北沢は何故にかゝる計画を行ったか、何の目的でやったことかを次に研究した。これこそ謎の中心点で、すでに君と話し合っても見たが、遂に昨日は解決が出来なくて別れてしまった大問題だ。昨日も言ったとおり、遺書と投書と別々にしては、色々の目的が考えられるけれど、二つを合せるとたった一つの目的しか考えられなくなるのだ。従ってそのたった一つの目的をさがし出せば{{ruby|凡|すべ}}ての事情が氷解するのだが、何がさて、たったこの二つきりの品によって解決しようとするのだから、なか{{く}}困難だった。 「北沢が{{ruby|何人|だれ}}に投書を依頼したかはわからぬが、とに角、投書は北沢の計画したとおりに投ぜられたにちがいない。ロマンチックな君は、きっと、北沢の投書の依頼を受けた人が誰であるかを知りたく思うであろう。その人を捜し出して、その人から北沢の真意をきゝ{{ruby|度|た}}く思うであろう。無論あの投書が、偶然に無関係な人の手に入ったとは考えられないから、たしかに北沢に依頼された人がある筈だ。そうしてその人は、現にどこかで、警察や僕等の騒ぎを頬笑みながら{{ruby|覗|うかが}}って居るにちがいない。それを思うと、君は腹立たしい気になるかも知れぬが、僕は然し、北沢が投書を依頼したという人には{{ruby|毫|すこし}}も興味を感じなかったのだ。それよりも北沢の{{ruby|唯一|ゆいつ}}の目的が知りたくてならなかった。 「{{ruby|而|しか}}もその目的は、決して単なる人騒がせのためではない。何となれば、若し単なる人騒がせが目的だったら、もっと簡単な、そうしてもっと効果的な方法がある筈だ。だから北沢にはもっと厳粛な一つの目的があらねばならなかったのだ。 「ところが、そのような大切な目的を果すためには北沢の計画はすこぶるあやふやなものだった。それは昨日も言ったごとく、若し僕が注意しなければ、投書はあやうく捨てられてしまうところだった。自殺を敢てしてまで果そうとする大切な目的を遂行するにしては、随分乱暴な計画であって、それは到底手ぬかりなどゝ言ってはすまされないことである。 「して見ると、この投書の危険も{{ruby|予|あらかじ}}め計画のうちに入れられてあったと考えねばならない。すると北沢は、その投書が当然僕の目に触れることを予定して居たと考えねばならない。いゝかね、涌井君、いまこうして話してしまえば何でもないようであるが、僕がこの推理に達するまでには、可なりの時間を費したのだ。 「遺書に自作の文章を書かなかったのは、警察に埋葬の許可しか与えさせぬ計画だった。これは疑うべき余地はないが、投書を警察へ送れば再鑑定が行われ、当然、僕が、その投書と遺書が{{ruby|同|おなじ}}{{ruby|一人|ひとり}}によって同一の時に書かれたことを発見するということも、今は疑うべくもない、予定の計画だったのだ。 「即ち北沢は、僕が投書と遺書の同一筆蹟なるところから興味をもって研究に{{ruby|携|たずさ}}わり、その結果、その目的が何であるかを発見するに大に苦しむということもやはり、予定して居たのだ。涌井君、君は定めしこの言葉を奇怪に思うであろうが、投書が僕の手に入ることを確信した北沢のことであるからそれくらいのことを予定するのは何でもないのだ。つまり、一切の事情は、北沢の計画どおりに運んだ訳なのだ。換言すれば、北沢はすでにその目的を果したことになるのだ。 「いゝかね。僕が一生懸命になって詮索した北沢の目的は、僕に北沢の目的を詮索させることにあったのだ。 「然らば次に起る問題は、何故に北沢が、それだけの簡単な目的のために自己の生命までも奪ったかと言うことだ。北沢という人は、今回の事件ではじめて僕に交渉をもったゞけで、少くとも生前にはあかの他人であった。その人が、そのようなことをするとは、あり得ないことだ。 「その、あり得ないことがあるについては、そこに、それを正当に説明し得る理由がなくてはならない。そうしてそれを説明し得る唯一の理由は、北沢自身が、少しもそれを知らないということでなくてはならない。つまり北沢自身投書と遺書とを書いた目的を少しも知らなかったというより他にないのだ。 「しかも、投書と遺書とは北沢自身の筆蹟である。して見れば、この二つを北沢は無意識の状態で書いたにちがいない。然るに遺書は生前すでに夫人に示したくらいであるから、北沢自身は書いたことを意識して居た筈である。すると北沢は無意識に書いて置きながら、意識して書いたように思って居たと考えねばならぬのだ。 「涌井君。無意識で書いて、それを意識して書いたように思うのは、催眠状態に於て書かされ、あとでそれを意識して書いたつもりになるよう暗示された時に限るのだ。して見ると、北沢は、ある人のために無意識に書かされ、そうして暗示を与えられたと考えねばならなくなった。 「こうして、僕の推理の中にはじめて第三者がはいって来たよ。つまり、北沢事件に、今迄ちっとも顔を出さなかった人が顔を出すに至ったのだ。そうして、その第三者こそ僕に北沢の投書と遺書とを詮索させようとしたのであって、その人が、今まで{{ruby|北沢が行|や}}ったとして話して来た計画をこと{{ぐ}}く立てたわけである。そうして、北沢自身はそれについて少しも知らなかったのだ。 「涌井君。その第三者とはそも{{く}}誰だろう。先ず他人の遺書の文句をうつした遺書を書かせて、死骸を埋葬させ、然る後、同一筆蹟の投書を警察へ送って再鑑定を行わせ、自殺であることを確証せしめて、たゞ僕のみがその投書を見て事件の謎をつきとめるために努力することを予想して居た人は誰であろうか。何のためにその人は僕に徹夜せしめるような苦心をさせたか。 「涌井君。君はもう、それが誰であるかをおぼろげながら察し得たであろう。けれども、その人であると断定すべき証拠が一たい何処にあるのか、その時僕は考えたのだ。これほどまでの計画を立てる人のことであるから、必ずその証拠となるべきものが、どこかにこしらえてあるにちがいないと想像したのだ。{{ruby|而|しか}}も、恐らくは、この投書と遺書の二つの中にその証拠がかくされてあろうと思ったのだ。 「そこで僕はあらためて二つの品を検査しはじめたのだ。たとえば投書の文句が{{ruby|解式|キイ}}となって、遺書の方から何かの文句が出て来るのではあるまいかというようなことも考えて見たのだが、そのような形跡はなかった。そこでこんどは遺書の文句即ちA氏の手記の第一節の文句の中に何かの意味が含ませてあるのではないかと、色々研究して見たが、そうでもなかった。ところがやっと{{ruby|暁方|あけがた}}に至って、とうとう、遺書の中から、確実な証拠を握るに至ったよ。 「涌井君。君はよく記憶して居るだろう。先般の学会に、僕と狩尾君とが激論したことを。その時、たしかに僕は受太刀だった。すると狩尾君は『毛利君如何です』と皮肉な口調で僕に肉迫して来た。その時、僕は『人間について直接実験を行わない限り、君の説に服することは出来ぬ』と言って討論を終った。そうして僕は、その後人間に関する研究は、{{ruby|畢竟|ひっきょう}}人間実験を行うのでなくては徹底的でないと考え、それが不可能事であることを思って、前からの憂鬱が一層はげしくなったのだ。 「ところが、狩尾君は遂にその人間実験を敢てしたのだ。北沢は君の解剖によると胸腺淋巴体質であったから、狩尾君は彼が、そのうちの自殺型に属して居ることを知り、而も狩尾君の{{ruby|所謂|いわゆる}}、『特別の時期』にはいって居たのであろう。それを知った狩尾君はその所謂 incendiarism を行って、北沢を自殺せしめ、もって、僕にその説のたゞしいことを示したのだ。 「北沢が自殺する以前には、少しも自殺しやしないかという{{ruby|虞|おそれ}}のある徴候はなかった筈だ。若しあるならば、ピストルを買ったり、遺書を書いたりしたので、夫人は警戒せねばならない。して見ると{{ruby|毫|すこし}}も精神異常の徴候はあらわれて居らなかったのであって、そのような時機にはたとい暗示を与えても自殺をせぬというのが僕の説なのだ。ところがそれを狩尾君は人間実験で破ったのだ。そうして、それを僕にさとらしめるために、遺書と投書の計画をたてたのだ。 「未亡人の話によると、北沢はM——クラブへよく行ったということであるが、ロンドンを第二の故郷とする狩尾君がそのメムバーであることは推定するに難くない。恐らく狩尾君はそこで自分にとってもあかの他人である北沢を観察し、催眠状態のもとにA氏の手記をディクテートし、なお投書の文句を書かせて、それだけは自分で保存して置いたのであろう。ピストルを買わせたのも狩尾君かも知れぬ。そうして、みごとに自説を証明し、併せてそれを僕に示そうとする目的を達したのだ。勿論、その遺書や投書やピストルが、incendiarism の役をつとめたことはいう迄もなく、北沢事件そのものは、実に天才的科学者の行った人間実験に外ならぬのだ」  こゝまで語って先生は、ほッと一息つかれた。僕は先生の推理のあざやかさに、いわば陶然として耳を傾けて居たが、最後のところに至って、ひやりとしたものが背筋を走った。 「それでは先生、たとい直接手を下されずとも、北沢は狩尾博士が……」  先生は、手真似で「静かに!」と警告された。「だから、はじめに君にことわってあるではないか。狩尾君は天才だよ。到底僕の及びもつかぬ段ちがいの天才だよ。こうして思い切った実験は、アカデミックな考え方にとらわれて居る僕等の金輪際為し得ざるところだ。それは世間普通の考え方から言えば、悪い意味にもとれるが、とに角、科学によって自然を征服して行こうとするには、これくらいのことを平気でやってのけねばなるまい。 「いや、このことについては、これ以上深入りしては論ずまい。それを論ずべく、僕はあまりにつかれて居る。だから、最後に、僕が遺書の中から発見したという証拠について語って置こう。 「見たまえ。この遺書の文字はすこぶる綺麗に書かれてあるが、よく見ると、ところ{{ぐ}}に、棒なり点なりの二重な、即ち一度書いた上をまた一度とめた文字があることに気づくだろう。僕はそこに目をつけて、その文字を拾って見たのだ。即ち、 <div style="text-align:center"> ……書いた'''も'''のはない。……の……'''も''' ……よるものであろ'''う'''。……の……'''う''' ……はっき'''り'''この……………の……'''り''' ……特に'''君'''に伝えず…………の……'''君''' ……描'''い'''ている。……………の……'''い''' ……自殺する'''か'''を……………の……'''か''' ……'''が'''、少くとも……………の……'''が''' ……不安'''で'''ある。……………の……'''で''' ……信用することは…………の……'''す''' </div> の九字で、これを合わせて読むと、「もうり君いかゞです」となる。この言葉を発するのは、狩尾君より他にないではないか。 「そこで僕は、その狩尾君の呼びかけの言葉に対して、返事を書いたのだ。それが、君を煩わした、新聞広告の文字なのだ。PMbtDKとは、別に暗号でも何でもなく、 <div style="text-align:center">Prof. Mohri bows to Dr. Kario.</div> の最初の一字ずつをとったのだ。無論狩尾君の眼にふれゝば、すぐその意味を知ってくれるだろう。僕としては、これが、今の僕の心の全部だ」  K君。これで北沢事件は真の解決を得たのだ。  このことがあってから、毛利先生は、ずっとその快活な状態を続けて居られたが、それから二週間たゝぬうちに、突然狩尾博士の脳溢血による頓死が伝わると、先生は以前にまさる憂鬱に陥ってしまわれた。  学者がその論敵即ち闘争の対象を失うほど寂しいことはない。多分先生の憂鬱もそのためであったと思うが、それは実に極端な憂鬱であった。そうして遂に肺炎にかゝって、狩尾博士のあとを追ってしまわれた。  かくて、日本は、得がたき俊才を一度に二人失ったのだ。こうした花々しい闘争がいつになったら再び行われるか、いつになったら精神病学が、再びこのように進められて行くかと思うと心細くてならぬ。今この事件を書き終ってふりかえって見ると、それが幾世紀も昔の出来事のような気さえする。K君、健在なれ! <div style="text-align:right; margin-right: 0em">(〈新青年〉誌昭和四年五月号発表)</div> {{PD-Japan-auto-expired}} 4d16ion0awwhsfq7lx6op05ebhccnct 言葉の受肉について 0 56402 242082 2026-05-02T20:48:13Z 村田ラジオ 14210 ラテン語版 Wikisource, [[la:De incarnatione Verbi]] J. P. Migne 1846 early modern edition を翻訳 242082 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = 言葉の受肉について | section = De incarnatione Verbi | previous = | next = | year = | 年 = | override_author = [[s:en:Author:Origen|オリゲネス]](2-3世紀) | override_translator = | override_editor = [[s:la:Scriptor:Iacobus Paulus Migne|J.P. ミーニュ]] | noauthor = | notes = *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:ことはのしゆにくについて}} <!-- [[Category:キリスト教]]--> [[Category:教父]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:パトロロギア・ラティナ]] }} 言葉の受肉について(オリゲネス)、JP Migne 42.1192 == 第1巻 == ===第1章=== それは使徒たちが神について説いたことをまとめたものです。しかし、使徒たちの説教を通して明確に伝えられていることの類型は次のとおりです。第一に、万物を創造し構成し、無であった時に万物を存在させた唯一の神が存在するということです。最初の創造と世界の創造からすべての義人の神、アダム、アベル、セツ、エノス、エノク、ノア、セム、アブラハム、イサク、ヤコブ、十二族長、モーセ、そして預言者たちの神です。そして、この神は終わりの日に、預言者たちを通して前もって約束したとおり、主イエス・キリストを遣わされました。まずイスラエルを召すため、そして次にイスラエルの民の背信の後、異邦人をも召すためです。この正義にして善なる神、私たちの主イエス・キリストの父は、自ら律法と預言者と福音書を与え、使徒たちの神であり、旧約聖書と新約聖書の神でもあります。次に、第二に、すべての創造に先立って来られたイエス・キリストは父から生まれたからです。キリストはすべての創造において父に仕え(万物はキリストによって造られたので[ヨハネ1章3節])、最後の自己放棄の時に人となり、神である時に受肉し、人となった後も神であり続けました。キリストは私たちと同じような体を取りましたが、処女と聖霊から生まれたという点だけが異なっていました。そして、この神であるイエス・キリストは空想ではなく真実に生まれ、苦しみを受けたので、この共通の死を本当に死なれました。キリストは確かに死からよみがえり、復活後、弟子たちと交わり、天に上げられました。そして最後に、父と子と性質、栄誉、尊厳において結び合わされ、聖霊を授けられました。実際、この聖霊が聖人、預言者、使徒の一人ひとりに霊感を与えたこと、そして古代の人々には一つの霊があったのではなく、キリストの到来時に霊感を受けた人々には別の霊があったことは、教会において最も明確に説かれている。 ===第2章=== 自由意志と魂の起源。その後、すでに実体と生命を持つ魂は、この世を去った後、その功績に応じて処分される。その行いが永遠の命と幸福を与えたならば、それを相続する。あるいは、その罪の咎によって永遠の罰を受けるならば、永遠の罰に服する。しかし、死者の復活の時もある。今朽ち果てて蒔かれているこの肉体は朽ちることなくよみがえり、不名誉のうちに蒔かれたものは栄光のうちによみがえる(コリントの信徒への手紙一 15章42、43節)。また、教会の説教では、すべての魂は理性的で自由意志を持ち、意志を持っていると定義されている。また、悪魔とその天使たち、そして敵対勢力と戦っている。なぜなら、彼らは魂に罪を負わせようと努めているからである。しかし、私たちが正しく賢明に生きるならば、このような汚れから身を清めようと努めるだろう。したがって、私たちは必然性に縛られていないので、たとえ望まなくても善悪を強制されることはないという結論に至る。もし私たちが自由意志を持っているならば、ある徳は私たちを罪に誘い、別の徳は私たちを救済へと導くかもしれない。しかし、私たちは必然性によって善悪を強制されることはない。星の運行と運動が人間の行動の原因であり、自由意志の自由外に起こることだけでなく、私たちの力でできることの原因でもあると言う人々は、まさにこのことを主張している。しかし、魂に関しては、それが種子から派生し、その理性や実体が肉体の種子そのものにあるのか、それとも別の始まりがあるのか​​、そしてその始まりが生まれたのか生まれていないのか、あるいは確かに外部から体に植え付けられているのかは、明確な述語によって十分に区別されていない。 ===第3章=== 悪魔の状態について。教会の説教では、悪魔とその天使たち、そして悪魔に敵対する勢力についても教えられており、これらは確かに存在するとされています。しかし、それらが何であるか、あるいはどのように存在するのかについては、十分に説明されていません。しかし、多くの人々の間では、この悪魔はかつて天使であり、背教者となった際に多くの天使たちを説得して共に背教させ、それらの天使たちは今もなお悪魔の天使と呼ばれている、という見解が信じられています。 ===第4章=== 世界の始まりと終わり。教会の説教には、この世界はある特定の時に創造され、始まり、そして自らの腐敗によって滅びるという教えもあります。しかし、この世界以前に何があったのか、あるいはこの世界以後に何が起こるのかは、現在多くの人々に明白に知られていません。なぜなら、教会の説教において、これらのことについて明確な議論がなされていないからです。 ===第5章=== 聖書の秘められた意味。最後に、聖書は神の霊によって書かれ、明白な意味だけでなく、多くの人が知らない隠された意味も持っているという教えがあります。これらは、特定の秘跡や神聖な事柄の象徴として描写される形式です。この点に関して、教会全体が、すべての律法は霊的なものであるという点で一致しています。しかし、律法の息吹を吹き込むものは、聖霊の恵みによって知恵と知識の言葉を与えられている者以外には、人間には知られていません。 ===第6章=== 善なる天使たち。教会の説教には、神の天使や善なる力が存在し、人類の救済の完成のために神に仕えるという話もある。しかし、それらがいつ創造されたのか、何者なのか、どのように存在するのかは、十分に明確に区別されていない。 ===第7章=== 真理を調査する方法。したがって、「知識の光があなたを照らすように」という戒めに従って、次のような要素や基礎をこの種のものとして用いる必要がある。すなわち、ある一連の事柄や体系を、これらすべての理性から完成させようとする者は、それぞれについて、真実の中にある事柄について明確かつ必要な主張をもって論じ、先に述べたように、聖書の中に見出したもの、あるいはその後、自らの調査と正しい解釈によって発見したものを例証や断言として用いて、一つの体系を構築することができる。 ===第8章=== 始まりのない御子。私たちは常に、父なる神を、その独り子を通して知ってきました。御子は確かに神自身から生まれ、神から発出していますが、始まりはありません。それは、特定の時間的空間によって区別できないからだけでなく、心がそれ自体の中で見慣れているもの、いわば裸の知性と魂によって見られるものによっても区別できないからです。したがって、始まりと呼んだり理解したりできるすべてのものの外で、知恵が生み出されたと信じなければなりません。したがって、知恵のこの存在そのものの中に、未来の被造物のすべての力と変形が、最初に存在するもの、あるいはその後に起こるもののいずれかが、予知の力によってあらかじめ形成され、配置されていたので、知恵のこの存在そのものの中に、まさにそれらの被造物が記述され、予型されていたので、知恵自身はソロモンを通して、自分は神の道の始まりとして創造された(箴言8章22節)と言い、すべての被造物の始まり、理由、あるいは種のいずれかを自分の中に含んでいると言いました。しかし、私たちが知恵を神の道の始まりであり、それがどのように創造されたか、すなわち、被造物全体の種と理性をあらかじめ形成し、包含していると理解してきたのと同様に、それは神の言葉であるとも理解されなければなりません。なぜなら、それ自体が他のすべて、つまり被造物全体に、確かに神の知恵の中に含まれている神秘と秘儀の理性を開示するからです。そして、このことによって、言葉はいわば心の秘儀の解釈者であると言われています。ヨハネは福音書の冒頭で、言葉を彼自身の定義によって神であると定義し、こう言っています。「そして、言葉は神であった。これは初めに神と共にあった」(ヨハネ1章1節)。しかし、神の言葉や神の知恵の始まりを語る者は、自分が常に父であり、言葉を生んだこと、そして過去のあらゆる時代やあらゆる世において知恵を持っていたことを否定する以上、未だ生まれていない父なる神自身に、さらに不敬虔な態度を向けることのないよう注意すべきである。 ===第9章=== 御言葉には模範的な理由があります。したがって、この御子は真理であり、命であり、万物の道です(同書 XIV、6)。そして、それは当然のことです。なぜなら、造られたものが命からでなければ、どうして生きることができるでしょうか。あるいは、存在するものが真理から派生していなければ、どうして真理の中に存在できるでしょうか。あるいは、言葉や理性が先行していなければ、どうして物質が理性的であることができるでしょうか。あるいは、知恵がなければ、どうして物質が賢明であることができるでしょうか。神の言葉と知恵は道となり、その道は、その道を歩む者を父のもとへ導くので、道と呼ばれています。したがって、私たちが神の知恵について述べたことは、神の子が命であり、言葉であり、真理であり、道であり、復活であるという事実にも適切に当てはまり、理解されるでしょう。なぜなら、これらのすべての名称は、彼の行いと徳から名付けられているからです。そして、これらのどれにも、たとえ些細な意見であっても、物質的なもの、あるいは偉大さ、習慣、色などを表すと思われるものは何も理解できない。 ===第10章=== 言葉の想像を絶する誕生。しかし、私たちの間にいる者たちは人の子らなので ===第11章=== 父の像という言葉。神の目に見えない像がこのように呼ばれることの意味も見ていきましょう。そうすれば、神が御子の父と正しく呼ばれる理由がわかるでしょう。まず、人間の慣習で像と呼ばれるものについて考えてみましょう。像とは、木や石などの素材に描かれたり彫られたりしたものを指すことがあります。また、生まれた子の姿が生まれた子の中にある場合、生まれた子を生んだ者を指すこともあります。ですから、最初の例は、神の形と似姿に造られた方にも当てはまると思います。神の御心ならば、創世記の箇所を解説し始める時に、この方についてもっと詳しく見ていきましょう。しかし、今話している神の子の像は、目に見えない神の目に見えない像であるという点でも、二番目の例えに当てはめることができます。歴史によれば、アダムの像は息子のセツであったと言われています。なぜなら、こう書かれているからです。「アダムは自分のかたちに、また自分の種類に似せてセツを生んだ」(創世記5章3節)。このかたちには、父と子の本質と実体の統一性も含まれています。父がなさったことはすべて子も同じようになさる(ヨハネ5章19節)ので、子が父と同じようにすべてのことを行ったことで、父のかたち像は子において歪められてしまいます。子は確かに、心から発する確固たる意志として父から生まれたのです。ですから、父の意志は父が望むものを維持するのに十分であると私は考えます。意志を持つ者は、意志の計画によって生み出される方法以外には用いないからです。したがって、子の存在もまた父によって生み出されるのです。これは、父なる神以外には生まれていないもの、すなわち生来のものは何もないと告白する人々によってまず受け入れられなければなりません。なぜなら、神の本質を部分に分け、父なる神を分割しようとする、ある種の比喩を自らに当てはめるような愚かな寓話に陥らないよう、私たちは注意しなければならないからである。非物質的な本質について少しでも疑うことは、極めて不敬虔であるだけでなく、究極の愚かさであり、非物質的な本質の実質的な分割を理解できるほどの知性には全く基づかないからである。したがって、意志が心から生じ、心のいかなる部分も切り離さず、また心から分離も分割もされないのと同様に、父なる神は、まさにそのような形、すなわち、ご自身の姿に似せて御子を生み出されたと考えるべきである。つまり、父なる神ご自身が本質的に目に見えないのと同様に、父なる神は目に見えない像を生み出されたのである。御言葉は御子であり、したがって御子には感覚的なものは何一つ理解できない。御子は知恵であり、知恵には物質的なものは何一つ疑われないのである。光は真実であり、この世に来るすべての人を照らす(ヨハネ1章9節)。しかし、それはこの太陽の光とは何の関係もない。したがって、像は、私たちの救い主である父なる神の目に見えない像である。父自身に関しては、確かに真理であるが、父を啓示する私たちに関しては、それは私たちが父を知るための像であり、父を知るのは御子以外には誰もいない。そして御子は父を私たちに啓示することを望んでおられる(マタイ11章27節)。しかし、父は、ご自身が理解されることによってそれを啓示される。なぜなら、父が理解されたことによって、父もまた理解されるからである。父が「わたしを見た者は父を見たのだ」(ヨハネ14章9節)と言われたように。 ===第12章=== キリストは父なる実体の象徴です。しかし、キリストについて語るパウロの言葉、すなわち「キリストは神の栄光の輝きであり、神の実体の完全な姿である」(ヘブライ1章3節)という言葉を引用したので、これをどう解釈すべきか考えてみましょう。ヨハネによれば、神は光です(第一ヨハネ1章5節)。したがって、光の輝きは独り子であり、光から輝きが発するように、神から不可分に発し、被造物全体を照らします。このことから、私たちは上で、父に至る道がどのようなものであり、どのように父へと導くのか、また、御言葉がどのようなものであり、知恵と知識の奥義を解き明かし、それを理性的な被造物にもたらすのか、そして真理がいかに命あるいは復活であるかを説明しました。したがって、私たちは輝きの働きも理解しなければなりません。なぜなら、輝きを通して、光そのものが何であるかが知られ、感じられるからです。この輝きは、弱く脆い人間の目に、より穏やかで優しい形で現れ、主の「目から{{r|梁|はり}}を取り除け」(マタイ7章5節)という言葉にあるように、視界を遮り妨げるものをすべて取り除いた後、徐々に光の輝きに耐えることを教え、慣れさせるかのように、人間と光の間の確かな仲介者として、光の栄光を受け入れることができるようにしてくれる。しかし、使徒は栄光の輝きだけでなく、神の実体または存在の明確な象徴でもあると述べているので(ヘブライ1章3節)、神自身の実体または存在が何であれ、その実体または存在以外のものが、神の実体の象徴であると言われていることに、知性が気づかないはずはないと思う。また、神の子は御言葉と知恵の両方と呼ばれ、父を知っておられる唯一の方であり、御子が御心にかなう者(マタイ11章27節)に御言葉と知恵を理解できる者に御父を啓示されるので、まさにこの御子が神を理解させ、知らしめるという事実によって、神の実体または存在の象徴を表していると言われるかもしれないので、すなわち、知恵がまず自分自身について、他者に啓示したいことを記述し、それによって人々が神を知り、理解するとき、これが神の実体の象徴を表していると言われるのではないだろうか。しかし、救い主が神の実体または存在の象徴であることをさらに完全に理解するために、私たちが話している事柄を完全に適切に表すものではないものの、この目的のためだけに想定されていると思われる例も用いてみましょう。すなわち、神の形をとっておられた御子が、自らを空しくすることによって(フィリピ2章6節)、私たちに神性の完全さを示そうとされたということです。例えば、地球全体を収めることができるほどの大きさの像が作られ、その巨大さゆえに誰もその大きさを想像できないとしても、その像と全く同じ形をした像が、大きさの巨大さを伴わずに、手足の習慣や顔の特徴、外見や材質などあらゆる点で似ているとすれば、その像を見た人は、その像を見たと認識するだろう。なぜなら、手足の特徴や顔の特徴、外見や材質そのものなど、すべてがその類似性によって完全に区別できないからである。このように、神の子は、父なる神との平等性を自ら放棄し、私たちに神を知る道を示し、神の本質の明確な形となる。こうして、神の明晰さの偉大さの中に置かれた純粋な光の栄光を直視することができなかった私たちは、私たちのために輝きが作られたという事実によって、輝きを見ることによって、神の光を見る道を掴むことができるのである。像を物質的なものに当てはめたかのような比較は、神の子が、その業と力の類似性によって、ごく短期間人間の体の形に宿り、父なる神の計り知れない目に見えない偉大さを自らに示し、弟子たちに「わたしを見た者は父をも見たのだ」(ヨハネ14章9節)、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10章30節)と言われたという事実以外には理解されるべきではない。また、「父はわたしのうちにおられ、わたしは父のうちにおられる」(ヨハネ14章10節)と言われたこともこれに類似している。 ===第13章=== 御子は神の力の蒸気である。ソロモンの知恵に書かれていることをどのように感じるべきかも見てみよう。ソロモンは知恵について、蒸気は神の力の一種であり、全能者の最も純粋な栄光の発露であり、永遠の光の輝きであり、神の働きまたは力の汚れなき鏡であり、神の善の像であると述べている(知恵 7、25)。したがって、神についてこれら5つの事柄を定義することによって、彼はそのそれぞれから神の知恵の中にある特定の事柄を指定している。なぜなら、彼は神の力、栄光、永遠の光、働き、善を挙げているからである。しかし、彼は知恵は蒸気であると言っているが、それは全能者の栄光の蒸気でも、永遠の光の蒸気でも、父の働きの蒸気でも、その善の蒸気でもない。なぜなら、これらのどれにも蒸気を帰するのは適切ではなかったからである。しかし、彼は知恵は、そのすべての性質において、神の力の蒸気であると述べている。したがって、神の力は、それが繁栄する力、すなわち、目に見えるものと見えないものすべてを確立し、包含し、あるいは支配する力として理解されるべきである。なぜなら、神の摂理が及ぶすべてのものにとって十分であり、あたかもすべてと結びついているかのように存在するからである。したがって、この偉大で広大な力の蒸気、いわば力そのものは、意志が心から発するように、力そのものから発するにもかかわらず、それ自身の存在において実現される。それにもかかわらず、神の意志そのものは、神の力として実現されるのである。したがって、聖書の言葉にあるように、神の最初の、創造されていない力のある種の蒸気として、別の力がそれ自身の性質において実現される。実際、それは、それ自身であるものをそこから引き出すのである。しかし、それは存在しなかったときには存在しない。もし誰かが、それが以前は存在せず、後になって存在し始めたと言うならば、それを存在させた父がなぜ以前にそうしなかったのか、その理由を述べなければならない。しかし、もし彼が一度何らかの始まりを与えたのなら、この蒸気はどのような始まりで神の力から生じたのか。私たちは再び、なぜ彼が始まりと呼んだものより前にも尋ねなかったのかと問うだろう。このように常に前者について問い、疑問の言葉とともに上昇していくと、私たちは、神は常に可能であり、常に望んでおられたので、神が善いと望まれたものを常に持っていなかったということが、起こったり、何らかの原因が存在したりすることは決してなかったという理解に至るだろう。このことから、神の力の蒸気は常に存在しており、神ご自身以外に始まりはなかったことが示される。なぜなら、神ご自身以外に始まりがないことは当然であり、神ご自身から生まれ、神ご自身から生まれたからである。しかし、使徒によれば、キリストは神の力である(コリント第一 1章24節)ので、今やそれは神の力の蒸気だけではなく、力から力と呼ばれるべきである。しかし、全能神の栄光の源泉は神の子である最も純粋な知恵であるとされているので、全能神の称号が知恵の誕生よりも先に存在し、それによって神は父と呼ばれていると考える人がいるかもしれない。このように疑う者は、聖書がはっきりと述べていることを聞け。「あなたはすべてのものを知恵によって造られた」(詩篇103篇24節)。また、福音書は、すべてのものは彼によって造られ、彼なしには何も造られなかったと教えている(ヨハネ1章3節)。そして、このことから、全能神の称号が父という称号よりも神において古くあり得ないことが分かるだろう。なぜなら、父は子を通して全能だからである。しかし、栄光は全能者のものであり、その栄光は知恵であると述べられているので、知恵もまた全能の栄光に参与しており、それによって神は全能と呼ばれているのだと理解されるべきである。キリストである知恵を通して、神は支配者の権威だけでなく、臣民の自発的な奉仕によっても、すべての権力を保持しておられます。しかし、父と子の全能性が、神と主が父と同一であるのと同様に、一つであり同一であることをあなたがたが知るために、ヨハネが黙示録の中で次のように言っているのを聞いてください。「主なる神、今いまし、かつていまし、やがて来られる全能者がこう言われる」(黙示録1章8節)。来られる者とは、キリスト以外に誰がいるでしょうか。また、神が父であること、救い主もまた神であることに誰も憤慨すべきではないのと同様に、全能者が父と呼ばれるとき、神の子もまた全能者と呼ばれることに誰も憤慨すべきではありません。なぜなら、こうして、彼自身が父に言われた、「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはすべてわたしのもの、わたしはそれらによって栄光を受ける」(ヨハネ17章10節)という言葉が真実となるからです。もし、父が持っているものすべてがキリストのものであり、父が持つものすべてにおいてキリストが全能であるならば、疑いなく、神の独り子も全能でなければなりません。父が持っているものすべてを、子も持っているのです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けています。なぜなら、イエスの御名によって、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、すべてひざまずき、すべての舌が、イエスは主であると告白し、父なる神に栄光を帰するからです(フィリピ2章10、11節)。したがって、神の栄光のアポレアは、神が全能である限りにおいて、全能または栄光のアポレアとして栄光化された、純粋で明瞭な神の知恵である。しかし、全能の栄光が何であるかをより明確に理解するために、次のことも付け加える。父なる神は全能である。なぜなら、神はすべてのもの、すなわち天と地、海とその中にあるすべてのものの力を持っているからである。そして、神は御言葉を通してこれらの力を行使する。なぜなら、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地獄のもの、すべてのものがひざまずくからである。すべてのひざがイエスにひざまずくならば、疑いなくイエスは全能であり、すべてのものがイエスに従う。そして、イエスはすべてのものにおいて力を行使し、すべてのものがイエスを通して父に従うのである。なぜなら、知恵、すなわち言葉と理性によって、力や必然によって従属させられるのではないからである。それゆえ、神が万物を得るまさにそのことにおいて、神の栄光がある。そしてこれは全能の最も純粋で明瞭な栄光であり、力や必然性によってではなく、理性と知恵によって、万物は従属するのである。 ===第14章=== 栄光と輝きと力(ἐνέργεια)。永遠のもの。神の働きとは何でしょうか。しかし、最も純粋で澄み切った知恵の栄光は、純粋または誠実な栄光と呼ばれない栄光と区別するために、まさに適切に表現されています。変化しやすく移ろいやすい性質は、たとえ正義や知恵の行いにおいて栄光を与えられたとしても、正義や知恵という付随的な性質を持っているという事実そのものによって、その栄光は誠実で澄み切ったものとは言えません。しかし、独り子である神の知恵は、あらゆることにおいて不変であり、すべての善は彼の中に実在し、決して変化したり転換したりすることはありません。したがって、彼の純粋で誠実な栄光が述べられています。永遠または永遠という言葉は、彼には存在の始まりがなく、彼が何であるかをやめることもできないため、適切に表現されています。しかし、これはヨハネが「神は光である」(第一ヨハネ1章5節)と言うときに示されています。しかし、彼の光の輝きは彼の知恵であり、それは永遠の光によるだけでなく、彼の知恵は永遠であり、永遠の輝きである。これを全体的に理解すれば、子の本質は父自身から来ているが、時間的にではなく、また、先に述べたように神自身以外のいかなる始まりからも来ていないことを明確に宣言している。しかし、知恵はまた、父なる神の無為の汚れなき鏡とも呼ばれる。したがって、神の力の無為をまず理解しなければならない。それはいわば、父が創造するとき、供給するとき、裁くとき、あるいはあらゆるものをその時々に配置および分配するときに無為となるある種の力である。ちょうど鏡の中で、鏡を見る人が動かされたり行動したりするすべての動きとすべての行為によって、鏡によって歪められた像もまた、同じ行為や動きによって動かされたり行動したりするが、決して衰えることはない。同様に、知恵もまた、神の父性的な働きを映し出す汚れなき鏡と呼ばれるとき、自ら理解されることを望んでいます。神の知恵である主イエス・キリストが、自らについてこう宣言しているように。「父が行う業は、子もまた同じように行うからです。また、彼はこうも言っています。『子は、父がなさるのを見なければ、自分からは何もできません。』(ヨハネ5章19節)。ですから、子は業の力によって父と何ら変わるところがなく、また子の業も父の業と異ならず、いわば一つであり、すべてにおいて動いているのです。それゆえ、彼は子を汚れなき鏡と呼びました。ですから、これによって子と父との間に何ら相違があると理解されてはなりません。福音書では、子は似たようなことをするのではなく、同じことを同じように行うと述べられているからです。 ===第15章=== 御子は神の善性の似姿である。残る問いは、その善性の似姿とは何かということである。この点については、先に述べた鏡によって形成される像について述べたのと同じ意味で理解されるべきであると私は考える。なぜなら、主たる善性は疑いなく父なる神であり、御子は父なる神から生まれ、父なる神はあらゆる点で似姿と呼ばれているからである。御子には、父なる神にある善性以外に、二次的な善性はない。それゆえ、救い主ご自身が福音書の中で、「神以外に善なる者はいない」(マルコ10章18節)と正しく述べている。すなわち、御子は他の善性からではなく、父なる神にある善性のみから成り立っていると理解される。そして、御子は父なる神の似姿と正しく呼ばれる。なぜなら、御子は主たる善性そのもの以外の源泉から生まれたのではなく、また、御子には父なる神にある善性以外の善性は見られず、また、御子には善性の相違や隔たりもないからである。したがって、神以外に善なる者はいないという発言に、いかなる冒涜も含まれるべきではありません。キリストや聖霊の善性が否定されていると誤解される恐れがあるからです。しかし、先に述べたように、真の善性は父なる神に宿るものであり、父なる神から御子が生まれるか、聖霊が発出するかは疑いなく、父なる神は御子が生まれるか、聖霊が発出する源泉において、善性の本質を内包しています。しかし、聖書の中で天使、人、しもべ、宝、人の心、良木など、他の善いものが言及されている場合、これらはすべて、それ自体に内在する本質的な善性ではなく、付随的なものとして、不適切に述べられているのです。 ===第16章=== 聖霊の尊厳。しかし、神の子のすべての称号を集めることは大変な作業であり、別の仕事か別の時間を要する。例えば、彼が真の光、扉、正義、聖化、贖罪、その他無数の称号である理由、そして、これらのそれぞれがどのような原因、徳、感情から名付けられたのかを説明することである。しかし、上で議論した内容に満足して、残りのことについても調べてみよう。したがって、ここで聖霊について簡単に調べてみるべきである。実際、摂理があると何らかの形で感じている人は皆、神は生まれず、万物を創造し、配置し、宇宙の父であると認めている。しかし、彼が子であると断言するのは私たちだけではない。ギリシャ人や野蛮人の間で哲学をしているように見える人々にとっては、これは奇妙で信じがたいことのように思えるが、万物は神の言葉または理性によって創造されたと認めている彼らの中にも、この意見を持つ人がいるようだ。しかし、私たちは、神の霊感を受けたものと信じる彼の教義の信仰に従って、聖霊によって霊感を受けた彼の聖書、すなわち使徒書と福音書、律法と預言者書以外に、神の子についてのより卓越した神聖な記述を人々に伝える可能性は他にないと信じています。キリストご自身が主張されたように。しかし、聖霊の本質については、律法と預言者書に精通している者、あるいはキリストを信じる者以外には、誰も疑う余地はありません。なぜなら、誰も父なる神について適切に語ることはできないとしても、目に見える被造物を通して、また人間の心が自然に知覚するものから、ある程度の理解を得ることは可能であり、さらに聖書からそれを裏付けることも可能だからです。しかし、神の子についても、誰も御子を知らないとしても、父なる神ではないとしても、聖書から神についてどのように感じるべきかを知ることは、新約聖書だけでなく旧約聖書からも、聖徒たちがキリストに比喩的に言及している事柄によって人間の心は形成され、そこから私たちはキリストの神性、あるいはキリストが身にまとった人間性を知覚することができる。多くの聖書は、真の聖霊について、すなわち聖霊がどのような方であるかを教えている。ダビデが詩篇第50篇で「あなたの聖霊を私から取り去らないでください」(詩篇60篇13節)と言っているように。また、ダニエル書には「あなたの中におられる聖霊」(ダニエル書4章5節、6節、15節、5章11節)とある。真の新約聖書では、聖霊がキリストの上に降臨したと書かれている(マタイによる福音書3章16節)など、豊富な証言によって教えられている。そして、主ご自身が復活後、使徒たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20章22節)と言われました。また、天使はマリアに「聖霊があなたに臨むでしょう」(ルカ1章35節)と告げました。しかし、パウロは、聖霊によらなければ「イエスは主である」と言うことはできないと教えています(第一コリント12章3節)。また、使徒言行録では、聖霊は使徒たちの按手によって洗礼の際に与えられました(使徒言行録8章17節)。これらすべてから、聖霊の本質は、救いをもたらす洗礼が、三位一体の中で最も優れた方の権威、すなわち父と子と聖霊の名によってのみ成就され、聖霊の名もまた、生まれていない父なる神とその独り子と結びついていることを学びました。それでは、聖霊の偉大な威厳に驚かない人がいるだろうか。人の子に逆らう言葉を語る者は、あえて赦しを期待するが、聖霊を冒涜する者は、この世でも来世でも赦されないのだから。 ===第17章=== 聖書には「霊」という言葉があります。しかし、現在に至るまで、聖書の中で聖霊が創造物や被造物であると述べている言葉は見つかっていません。ソロモンに上で教えた知恵の伝え方や、生命や御言葉、その他神の子の称号について議論したような意味でもありません。ですから、世界の創造の初めに水の上を動いていた神の霊(創世記1章2節)は、私が理解する限り、聖霊に他ならないと思います。これは、私たちが歴史ではなく霊的な理解に基づいて場所そのものを説明した際にも示したとおりです。実際、私たちの先人たちは新約聖書において、霊がどのような霊であるかを示す形容詞なしに言及されている場合は、聖霊のことだと理解すべきだと指摘しました。例えば、「しかし、"霊"の実とは、愛、喜び、平和である」(ガラテヤ5章22節)などです。同様に、「あなたがたは"霊"によって始めたのだから、肉によって成し遂げなさい」(同3章3節)とも言われています。しかし、私たちはこの区別は旧約聖書にも見られると考えています。例えば、「地上にいる民に"霊"を与え、地上を踏みつける者たちにも"霊"を与える方」(イザヤ42章5節)とあります。疑いなく、地上を踏みつける者、すなわち地上の物質的なものは皆、神から聖霊を受けており、聖霊にあずかっているのです。子について、「子以外に父を知る者はなく、子が父を明らかにしようと望む者以外には誰もいない」(マタイ11章27節)と言われているように、使徒もまた聖霊について同じことを教えています。「しかし、神は"霊"によってそれを私たちに啓示してくださったのです。"霊"は、神の奥深いことまでも、すべてのことを探り出すからです」(コリント第一 2章10節)。しかし、福音書の中で、救い主は弟子たちがまだ理解できなかった神聖で奥深い教えを思い起こし、使徒たちにこう言われます。「わたしにはまだあなたがたに言うべきことがたくさんありますが、今はあなたがたには耐えられません。しかし、父から出る慰め主、すなわち聖霊が来ると、聖霊はあなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い出させてくださるでしょう」(ヨハネ16章13節)。 ===第18章=== 聖霊の流入とさまざまな働きについて。このように、父を知る唯一の御子が、御子が望む者に啓示するように、神の深淵さえも探り出す唯一の聖霊もまた、御子が望む者に神を啓示することを知っておかなければなりません。聖霊は御子が望む所に息を吹き込むからです(ヨハネ3章8節)。また、聖霊も御子の啓示によって知ると考えるべきではありません。もし聖霊が御子の啓示によって父を知るのであれば、聖霊は無知から知識へと至ったことになります。聖霊を告白しながら無知を聖霊に帰するのは、確かに不敬虔で愚かなことです。聖霊は聖霊より前には別の何かであったので、進歩によって聖霊になったのではありません。ですから、聖霊がまだ存在していなかった当時、聖霊は父を知らなかったが、知識を受けた後に聖霊になったと言う人がいるでしょう。しかし、もし彼がそうであったなら、彼自身が常に聖霊でない限り、聖霊は三位一体、すなわち不変の父なる神と御子の一体性の中に決して見なされることはないでしょう。もちろん、私たちが「常に」「かつて」などと言う場合、あるいは時間的な意味を持つ他の名前を用いる場合、それらは単純に、そして寛容に受け止めなければなりません。なぜなら、これらの名前の意味は確かに時間的なものだからです。しかし、私たちが語るものは、言葉の扱いによって確かに時間的に名付けられていますが、その本質においては、時間的な意味の理解をはるかに超えています。父なる神は、それらすべてに、それらが何であり得るかを与えます。しかし、言葉、すなわち理性によるキリストの参与によって、それらは理性的になります。そこから、それらは美徳と悪意の両方を持つことができるので、賞賛に値するか非難に値するかのどちらかであるという結論が導き出されます。したがって、この理由から、聖霊の恵みもまた存在し、本質的に聖くない者も、聖霊の参与によって聖なる者とされるのです。それゆえ、第一に、彼らが存在するためには、父なる神からそれを受け、第二に、彼らが理性的であるために、御言葉からそれを受け、第三に、彼らが聖なる者となるために、聖霊からそれを受けます。また、神の義に従って、聖霊によって前もって聖化されたものは、キリストにあずかることができるようになります。そして、聖霊の聖化によってこの段階にまで進んだ人々は、それでもなお、神の"霊"の働きによって知恵の賜物を得ます。そして、パウロが「ある人には知恵の言葉が、ある人には知識の言葉が、同じ"霊"によって与えられている」と言うとき、私はこれを意味しているのだと思います。そして、賜物のそれぞれの区別を指し示す際に、彼はすべてを宇宙の源に言及し、「働きには区分があるが、すべてをすべての人の中で働かせる神は同じである」(コリント第一 12章8、6節)と言っています。 それゆえ、万物に存在を与える父なる神の無為は、より明確かつ壮大に理解される。なぜなら、各人はキリストの参与を通して、知恵と知識と聖化に従って進歩し、より高い段階へと至るからである。そして、聖霊の参与によって聖化され、より清く、より誠実になった人は、よりふさわしく知恵と知識の恵みを受ける。こうして、あらゆる汚れと無知の痕跡を捨て去り、清められた人は、誠実さと清らかさにおいて大いに進歩し、神から与えられた存在は、確かに純粋かつ完全であるように定められた神にふさわしいものとなる。つまり、存在するものは、それを創造した神にふさわしいものとなるのである。こうして、創造主が望んだとおりの人間として、常に存在し、永遠に存在し続ける力を神から受けるのである。このことが起こり、知恵によって作られたものが、存在する者を絶えず不可分に助けるためには、それらを教え、教育し、聖霊の確証と絶え間ない聖化によって完全へと導くことが必要である。それらは聖霊によってのみ受け取ることができるからである。したがって、父と子と聖霊の絶え間ない働きが進歩のあらゆる段階を通して確立されることによって、私たちは聖く祝福された生活をほとんど見ることができる。(42.1186) 多くの苦闘の末にそこにたどり着いたとしても、私たちはその善に飽きることが決してないように、むしろその祝福をより多く認識すればするほど、それに対する私たちの欲求は拡大し、増大し、私たちは常に父と子と聖霊をより熱心に、より広く受け入れ、あるいは保持しなければならない。 しかし、最高かつ最も完全な境地に達した者の中に、満腹感に襲われた者がいたとしても、突然空虚になって倒れるとは思いません。むしろ、徐々に、徐々に流れ去っていく必要があるのです。そのため、一時的に倒れた者がすぐに立ち直り、完全に倒れるのではなく、再び足場を取り戻し、元の地位に戻り、怠慢によって失われたものを再び確立できる、といったことが時折起こるかもしれません。父の言葉であり知恵である神の独り子は、世が始まる前から父と共に栄光の中にいたとき、自らを空しくし、しもべの姿をとって、死に至るまで従順になりました。それは、従順を通して以外には救いを得られない人々に従順を教えるためであり、まず、他の人々に成就してほしいと願ったことを自ら成就したのです。それゆえ、キリストは十字架の死に至るまでだけでなく、世の終わりまでも父に従順であられ、父に服従させる者すべてを御自身の中に含み、御自身を通して救いに至る者すべてを御自身の中に含み、御自身もまた、彼らに対しても、彼らの内にも、父に服従する者と呼ばれておられる。なぜなら、万物はキリストの中にあり、キリストは万物の頭であり、キリストは従う者にとって救いの完全さだからである。使徒はキリストについてこう述べている。「万物がキリストに服従するようになったら、御子もまた、万物を自分に服従させた方に服従するであろう。それは、神がすべてにおいてすべてとなるためである」(コリント第一 15章28節)。しかし、異端者たちが、これらの言葉に含まれる使徒の意味を理解していないために、御子における服従という名を中傷する理由が私にはわからない。この呼称の真の性質は、もし求められれば、反対の事柄から容易に見いだせる。なぜなら、服従することが良いことではないならば、結局、反対のことが善である、つまり従わないことが善である、ということが残ります。使徒の言葉は、彼らの望むように解釈すれば、このことを示しているように見えます。「万物が御子に従うとき、御子もまた、万物を御自身に従わせた方に従わなければならない。つまり、今父に従わぬ方が、父がまず万物を御子に従わせたとき、従わなければならないということである。」しかし、私は、まだ万物に従わぬ方が、万物が従わされ、万物の王となり、万物の力を持つようになったとき、以前は従わなかったのに、従わなければならないと考えるのはどういうことなのか疑問に思います。キリストが父に従わされたことは、私たちの完全の祝福を示し、キリストが成し遂げられた業の栄光を宣言していることを理解していないのです。なぜなら、キリストは、万物において改善された統治と支配の総和だけでなく、人類の父への従順と服従の修正され回復された制度をも提供しているからです。 したがって、御子が父に服従していると言われるこの服従が善であり有益であると理解されるならば、神の子の服従であると言われる敵の服従もまた有益であり有益であると理解されるのは非常に必然的かつ首尾一貫している。つまり、御子が父に服従していると言われるとき(同上)、すべての被造物の完全な回復が宣言されるのと同様に、神の敵が服従していると言われるとき(同上、25節)、その中に被造物の救済と失われた者の回復が理解されるのである。しかし、この服従は特定の方法、規律、および時期に完成する。すなわち、服従を強制する必然性によってではなく、また全世界が力によって神に服従させられるわけでもなく、言葉、理性、教義、最良の挑発、最良の制度、また、自分自身の安全と有用性の配慮と健全性を軽んじる者たちを正当に脅かす、価値があり有能な脅しによってである。最後に、私たち人間もまた、奴隷や子供を教育する際、彼らがまだ年齢のために理性を理解できない間は、脅迫や恐怖で彼らを強制します。真に善良で有益で正直な者は理解力を身につけ、殴打の恐怖がなくなると、言葉と理性によって説得され、すべての善に同意するようになります。しかし、すべての理性的被造物の選択の自由を保ちながら、神の言葉が禁じている者、すでに準備と能力があり、見つけて教え、その間延期し、完全に隠され、遠く離れた彼らの声を聞かないようにする者、そして示された神の言葉を軽蔑する者に対して、神は再び一定の矯正と懲罰によって救いへと促し、ある意味で彼らの回心を要求し、強要する者を、どのように排除すべきでしょうか。そして神は彼らに救いの機会も与えてくださるので、信仰のみによって発せられた応答によって、疑いのない救いを受ける人もいるのです。どのような理由で、あるいはどのような機会に、このようなことが行われるべきなのでしょうか。内省を通して、あるいはその目的のどのような動きを見て、これらの宇宙を分配する神の知恵とはどのようなものでしょうか。それは神のみぞ知ることであり、万物を創造し、回復させた独り子と、万物を聖化する聖霊のみに知られており、聖霊は父と子から発出する方であり、永遠に栄光あれ。 ==第2巻== 原作から同様の方法で抜粋。(42.1187) 神はあらゆる所に、あらゆるものの中にいると言います。なぜなら、神を欠くものは何もないからです。しかし、私たちは、神がそうであるとか、すべてのものが今や神が存在する場所にあるとは言いません。したがって、幸福の完成と物事の終焉を意味するものの本質、すなわち、神がすべての中に存在すると言われるだけでなく、すべてのものが神であると言われることの本質をより注意深く見なければなりません。そこで、神がすべての中に存在するすべてのものとは何なのかを尋ねてみましょう。そして私は、神がすべての中に存在すると言われる事実は、神が一人ひとりの中にすべてであることを意味すると考えています。しかし、一人ひとりを通して、すべてのものは、あらゆる悪徳の滓から清められ、あらゆる悪意の雲から完全に浄化された理性的な心が感じたり、理解したり、考えたりできるものはすべて神となるような形で存在するでしょう。そして、もはや、神を感じ、神を考え、神を見て、神を抱き、そのすべての動きが神である以外には何も存在しないでしょう。なぜなら、もはや善と悪の区別はないからです。なぜなら、悪はどこにも存在しないからである。悪がもはや近くにない者にとって、万物は神だからである。常に善の中にあり、万物が神である者にとって、善悪の知識の木の実を食べようとはもはや望まないであろう。それゆえ、終わりが始まりに戻り、物事の結果が始まりと比較されることで、理性的な自然が善悪の知識の木の実を食べる必要がなかった状態が回復されるであろう。そして、あらゆる悪意を取り除き、誠実で純粋な状態に浄化された後、唯一の善である神だけが、ここで万物となるであろう。しかも、少数でも多数でもなく、神自身が万物の中で万物となるように。そして、もはや死がなく、もはや死の棘がなく、もはや悪が全くないとき、真に神は万物の中で万物となるであろう。 ===第19章=== 御子が父に服従する方法について。さて、これまで述べてきたことをできる限り詳しく見てきたので、これまで述べてきたことを思い出すために、それぞれのことを要約しておきましょう。まず、父と御子と聖霊についてすべて繰り返します。父なる神は御子と不可分かつ分離できないので、御子は父からプロレーションによって生まれたのではない、と考える人もいる。プロレーションが父の御子であるならば、プロレーションは動物や人間の子孫となるような生殖を意味することになる。プロレーションする者とプロレーションされる者は必然的に両方とも体である。なぜなら、異端者たちが考えるように、神の本質の一部が御子に転じたとか、御子が父によって無から、つまりその本質の外から創造されたとか、あたかも存在しない時に存在していたかのように言うのではなく、あらゆる肉体的感覚を切り離して、御言葉と知恵は、あたかも意志が心から発したかのように、いかなる肉体的情念も伴わずに、目に見えない非物質的な神から生まれたと言うからである。意志もこのように考えれば、愛の御子と呼ばれることも不合理には思えないだろう。しかし、ヨハネは神が光であるとも述べている(第一ヨハネ1章5節)。また、パウロは御子が永遠の光の輝きであると述べている(ヘブライ1章3節)(42:1188)。したがって、光が輝きなしには存在し得ないのと同様に、御子も父なしには理解できない。父は、その本質の明確な形であり、御言葉であり、知恵であるとも呼ばれている。それでは、御子が存在しなかった、あるいは存在していなかった時に、彼が存在したとどうして言えるでしょうか。真理が存在しなかった時、知恵が存在しなかった時、命が存在しなかった時に彼が存在したと言う以外に、他に言うべきことはありません。なぜなら、これらすべてにおいて、父なる神の本質が完全に考察されているからです。これらの事柄は彼から切り離すことはできず、彼の本質から決して切り離すことはできません。これらの事柄は理解においては多数であると言われますが、現実と本質においては一つであり、そこに神性の完全性があります。しかし、存在しなかった時に存在しなかったと言うこのこと自体を、これらの名前自体が「いつ」あるいは「決してない」といった時間的な言葉の意味を持つことのないよう、寛大に受け止めなければなりません。しかし、父と子と聖霊について語られる事柄は、あらゆる時間、あらゆる時代、あらゆる永遠を超えて理解されるべきです。これこそが三位一体であり、それは時間的な理解だけでなく永遠の理解をも超越する。しかし、三位一体の外にある他のものは、時代と時間で測られるべきものである。したがって、この神の子が、初めに神と共にあった神の言葉である(ヨハネ1章1節)という理由で、いかなる場所にも含まれていると誰も考えてはならない。知恵であるからでも、命であるからでも、正義であるからでも、聖化であるからでも、贖いであるからでもない。これらのものはすべて、活動したり働いたりするために場所を必要としないが、彼の力と無活動にあずかる者にとっては、これらは個別に理解されるべきものである。しかし、神の言葉、あるいは彼の知恵、真理、あるいは命にあずかる者を通して、言葉そのものと知恵もまた場所にあるように見えると言う者がいるならば、私たちは彼に答えなければならない。なぜなら、キリストが言葉と知恵、そしてその他すべてのものとしてパウロの中にいたことは疑いようがないからである。そのため、彼はこう言いました。「あなたがたは、キリストが私のうちに語っている証拠を求めているのですか」(コリント第二 13章3節)。また、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ 2章20節)。 それでは、それがパウロの中にあったのなら、ペトロやヨハネ、そしてすべての聖人の中に、地上にいる者だけでなく天にいる者の中にもあったことを誰が疑うでしょうか。キリストがペトロとパウロの中に確かに存在したが、大天使ミカエルやガブリエルの中には存在しなかったと言うのは不合理です。このことから、神の子の神性は特定の場所に限定されていなかったことがはっきりと分かります。もし限定されていたなら、それは彼一人の中にのみ存在し、他の誰にも存在しなかったでしょう。しかし、非物質的な性質の威厳によれば、それはどこにも限定されないので、誰にも欠けていないことが再び理解されます。しかし、唯一の違いは、それがペトロ、パウロ、ミカエル、ガブリエルなど、異なる人々の中にあったとしても、それでもなお、彼ら全員の中に同じように存在しているわけではないということです。なぜなら、それは他の聖人よりも大天使の中に、より完全に、より明確に、いわばより公然と存在しているからです。これは次のことから明らかです。(42.1189) すべての聖人が最高の完全性に達すると、福音の教えによれば、彼らは天使に似た者、あるいは天使と同等の者になると言われています(マタイ22章30節)。したがって、彼ら一人ひとりに、理性が許す限り功績によってキリストが宿っていることは明らかです。したがって、三位一体の信仰についてこれらのことを簡単に繰り返したので、天と地にあるすべてのもの、見えるものと見えないもの、王座、主権、支配、権力など、すべてが御子によって、御子の中に創造されたと言われていることも思い出させるべきです。そして、御子はすべてのものより先に存在し、すべてのものは頭である御子の中にあります。これと調和して、ヨハネも福音書の中で、すべてのものは御子によって造られ、御子なしには何も造られなかったと言っています(ヨハネ1章3節)。しかし、ダビデは、宇宙の状態における三位一体の神秘を象徴して、「天は主の言葉によって確立され、そのすべての力は主の口の霊によって確立された」(詩篇 32篇6節)と言っています。しかし、この後、私たちは、神の独り子の肉体の到来と受肉について適切に思い出していただきたいと思います。このとき、神のすべての威厳が非常に短い肉体の境界内に閉じ込められ、神のすべての言葉と知恵、実体的な真理と生命が父から引き裂かれたか、あるいはその肉体の短さの中に閉じ込められ、その範囲を超えて働いたことは決してなかった、と考えるべきではありません。しかし、この二つの間には、キリストには神性の何一つ欠けておらず、遍在する父なる実体からいかなる分離もなされなかったと信じられるような敬虔な告白があるべきです。洗礼者ヨハネも、イエスが肉体的に不在であった時に、群衆に向かってこう言った。「あなたがたの中に、あなたがたが知らない方が立っておられます。わたしの後に来られる方です。わたしはその方の履物のひもを解く資格さえありません」(ヨハネ1章26節)。 肉体的な存在という点では不在であった方については、肉体的に存在していない人々の真ん中に立っていたとは到底言えません。このことから、神の子は肉体においても、またあらゆる所においても存在していたことが分かります。このことから、神の子の神性の一部がキリストの中にあり、残りの部分は他の所やあらゆる所にあると私たちが主張していると考える人は誰もいないでしょう。それは、非物質的で目に見えない実体の性質を知らない人が感じ取れることです。なぜなら、非物質的なものを分割することは不可能だからです。しかし、彼はすべての中にあり、すべてを通してあり、そしてすべての上にいます。それは、私たちが上で述べたように、つまり、知恵、言葉、生命、真理が理解される方法であり、その理解によって、あらゆる局所的な結論が疑いなく排除される方法です。したがって、神の子は人類の救済のために人々に現れ、人々の間に住まうことを望み、一部の人が考えるように人間の肉体だけでなく、私たちの魂と本質的に似ており、目的と力において彼自身に似ており、御言葉と知恵のすべての意志と摂理を揺るぎなく成就できる魂をも身にまとわれた。しかし、彼が魂を持っていたことは、救い主ご自身が福音書の中で最も明確に示しておられる。「だれもわたしの魂を奪うことはできない。わたしは自らそれを捨てるのだ。また、わたしは自分の魂を捨てる権威があり、またそれを取り戻す権威もある」(ヨハネ10章18節)、「わたしの魂は死ぬほど悲しんでいる」(マタイ26章38節)、「今、わたしの魂は苦しんでいる」(ヨハネ12章27節)と。神の御言葉は、悲しみと苦しみに満ちた魂によって理解されるべきではない。神の権威から「わたしは自分の魂を捨てる権威がある」と言っているのである。また、ペテロやパウロ、その他の聖人たちの魂にあったように、神の子がその魂に宿っていたとも言いません。キリストはパウロと同じように、彼らの魂にも語りかけていると信じられています。しかし、聖書が言うように、たとえ一日でも生きている人であっても、汚れから清められる人はいない(ヨブ記25章4節)ということを、すべての人に感じなければなりません。しかし、キリストにあったこの魂は、悪を知る前から善を選び(イザヤ書7章15節)、正義を愛し、不義を憎んだので、神はそれを喜びの油で仲間たちよりも高く油注がれたのです(詩篇44篇8節)。それゆえ、それは喜びの油で塗られ、汚れなき契約によって神の言葉と結び合わされています。そして、このことによって、すべての魂の中で、この魂だけが罪を犯すことができませんでした。なぜなら、この魂は神の子と完全に結びついていたからです。それゆえ、この魂は神の子と一つであり、神の名によって呼ばれ、万物はキリストによって造られたと言われています(ヨハネ1章3節)。この魂は、神の知恵と真理と命の全きをその内に受け入れたので、使徒もまた、あなたがたの命はキリストと共に神の中に隠されている、しかし、あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたもキリストと共に栄光のうちに現れるであろう、と言っているのだと私は信じています(コロサイ3章3節)。 ここでキリストと理解されるべきは、神の中に隠されていると言われ、後に現れる方以外に誰がいるでしょうか。喜びの油で油を注がれ、すなわち、神に満たされ、今や神の中に隠されていると言われている方以外に誰がいるでしょうか。この理由から、キリストはすべての信者の模範として示されています。なぜなら、キリストは常に、悪を知る前から善を選び、義を愛し、不義を憎んでいたため、神はキリストに喜びの油を注がれたからです。同様に、堕落や過ちの後であっても、すべての人は示された模範によって汚れから身を清め、旅の導き手を得て、徳の険しい道を歩みます。こうして、できる限りキリストに倣うことによって、神の性質にあずかることができるようになるかもしれません。聖書に「キリストにとどまっていると言う者は、キリストが歩まれたように歩むべきである」(ヨハネの手紙一 2章6節)と書かれているように。それゆえ、この御言葉とこの知恵、すなわち、それを模倣することによって私たちが賢い者、あるいは理性的であると称されるこの知恵は、すべての人にすべてをもたらし、弱い者に弱くなり、弱い者をも得るのです。そして、弱くされたゆえに、「弱さゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きている」(コリント第二 13章4節)と彼について言われているのです。パウロは、弱かったにもかかわらず、彼らの間ではイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外には何も知らなかったと述べています(コリント第一 2章2節)。しかし、ある人々は、使徒が言うように、「キリストは神の姿であられたのに、神と等しいことを奪い取るべきものとは考えず、かえって自分を空しくして、僕の姿になられた」(フィリピ2章6節)というこの言葉は、キリストがマリアから初めて肉体を取った時に、魂そのものについて言われたものだと主張した。それは、より良い模範と制度によって、疑いなく神の姿に回復させ、ご自身が空しくされた満ち溢れた状態へと魂を呼び戻すためであった。しかし、神の子にあずかることによって人が子として養子にされ、神にあずかることによって人が賢くなるように、聖霊にあずかることによって人も聖なる霊的な者となる。なぜなら、父と子に属する聖霊にあずかることは、三位一体の非物質的な性質を持つため、同一だからである。したがって、聖書の見解によれば、この論争の前の議論で教えられたように、目に見えるものと見えないものすべてを創造した神の独り子は、すべてのものを創造し、創造したものを愛しておられます。目に見えない神ご自身が目に見えない像であるため、神は目に見えない形でご自身をすべての理性的被造物に分け与え、各被造物は愛の情をもって神にしがみついた分だけ、神から分け前を受け取りました。しかし、自由意志の能力により、各被造物にはさまざまな魂があり、ある者はより熱烈な愛で、別の者はより希薄で遠い愛で創造主を捉えていました。イエスが「だれもわたしの魂をわたしから奪うことはできない」(ヨハネ10章18節)と言われた魂は、神の言葉と知恵と真理と真の光に不可分かつ不可分に結びつき、すべてを受け入れ、神の光と輝きに身を委ね、主に神と一つの霊となりました。使徒もまた、彼女に倣うべき人々に、「主と結びつく者は主と一体となる」(コリント第一 6章17節)と約束している。 したがって、神と肉体の間のこの魂の実体によって(神の本性が仲介者なしに肉体と混ざり合うことは不可能であったため)、先に述べたように、神人は、肉体を取ることが確かに自然に反するものではなかった中間実体とともに誕生した。しかしまた、その魂は理性的実体として、先に述べたように、あたかもすべての言葉と知恵と真理がすでに譲り渡されたかのように、それを受け入れた。それゆえ、それが完全に神の子の中にあったか、あるいは完全に神の子をそれ自体の中に含んでいたかのどちらかであったため、肉体においてそれを取ったものとともに、正しく神の子、神の力、神の知恵と呼ばれ、また、万物を創造した神の子は、イエス・キリスト、人の子と呼ばれている。なぜなら、神の子は、確かに死を受け入れることができたその本性のために死んだと言われており、また、聖なる天使たちとともに父なる神の栄光のうちに来ると宣べ伝えられている人の子と呼ばれているからである。そしてこの理由から、聖書全体を通して、神の性質は人間の名で呼ばれ、人間の性質は神の名によるしるしで飾られています。なぜなら、これについては他のどのことよりも多く語ることができ、「彼らは二人で一体となる」(創世記2章24節)、「彼らはもはや二人ではなく、一体である」(マタイ19章5節)と書かれているからです。神の言葉は、夫と妻以上に、肉体の中の魂と一体であると考えるべきであり、また、神と一体の霊であると考えるべきであり、これは、愛によって神と結びついたこの魂よりもふさわしいものです。この魂は、預言者が言うように、「あなたは義を愛し、不義を憎んだ。それゆえ、あなたの神である神は、あなたの仲間たちよりもあなたに喜びの油を注がれた」(詩篇44篇8節)ので、まさに神と一体の霊と呼ばれるにふさわしいのです。それゆえ、愛によって喜びの油で正しく油注がれたのである。すなわち、魂は神の言葉によってキリストとされたのである。喜びの油で油注がれるとは、聖霊に満たされること以外には理解できない。しかし、イエスが仲間たちの上に言ったことは、預言者たちに与えられたような聖霊の恵みではなく、神の言葉そのものの実質的な満ち溢れがイエスの中にあったことを示している。使徒もまた、「キリストのうちには、神性の満ち溢れるすべてが肉体をもって宿っている」(コロサイ2章9節)と言っている。最後に、この理由から、イエスは「あなたは義を愛した」と言うだけでなく、「そして、不義を憎んだ」と付け加えた。不義を憎むとは、聖書が「罪を犯さず、その口には偽りが見いだされなかった方」(イザヤ53章9節、ペテロ第一2章22節、ヨハネ第一3章5節)について述べていることである。そして、イエスはこう言われました。「罪を犯すことなく、あらゆる点で同じように誘惑された」(ヘブライ人への手紙4章15節)。また、イエスご自身がこう言われました。「見よ、この世の支配者が来るが、わたしには何も見いださない」(ヨハネによる福音書14章30節)。これらすべては、イエスには罪の意識がなかったことを示しています。預言者は、イエスに不義の意識が一度も入ったことがないことをより明確に示すために、こう言っています。「幼子が父や母と呼ぶことを知る前から、イエスは不義から立ち返った」(イザヤ書8章4節)。しかし、キリストには理性的な魂があることを上で示し、魂の本質は善悪を行うことができることをすべての議論で繰り返し示してきたので、もしこれが誰かにとって難しいと思われるならば、この問題の難しさは次のように説明されるでしょう。私は、預言者エレミヤが、神の知恵の本質を理解し、世界の救済のために自ら引き受けたこの言葉を述べたと信じています。「私たちの顔の霊は主キリストであり、私たちはキリストに向かって『私たちはその陰の下で諸国民の中で生きる』と言ったのです」(哀歌4章20節)。 なぜなら、私たちの体の影は体と切り離すことができず、体の動きや仕草を絶えず受け入れ、実行するからです。ですから、パウロは、体に不可分にとどまり、その意志と意志に従ってすべてのことを行ったキリストの魂の働きと動きを示したいと願い、これを主キリストの影と呼び、その影の中で私たちは異邦人の間で生きるのだと考えました。なぜなら、この被昇天の秘跡において異邦人は生き、それを模倣して信仰によって救いに至るからです。しかし、ダビデもまた、「主よ、あなたのキリストと引き換えに彼らが私を辱めた私の辱めを覚えていてください」(詩篇88篇51節)と言っており、同様のことを示しているように思われます。また、パウロが「私たちの命はキリストと共に神の中に隠されています」(コロサイ3章3節)と言うとき、他に何を意味しているのでしょうか。また、別の箇所で「あなたがたは、私の中で語っている方の証拠を求めているのですか」(第二コリント13章3節)と言っているのはどういう意味でしょうか。そして今、彼はキリストは神の中に隠されていると言います。このことを理解するのは、先に述べたように、預言者によってキリストの影によって示されたような者と判断されない限り、難しいことです。おそらくこれも人間の心の感覚を超えています。いや、もっと真実なのは、炉の中で作られるのをしばしば目で見るように、ミサは完全に火でできていると言うことです。なぜなら、その中には火以外に何も見当たらないからです。しかし、誰かがそれに触れて扱おうとすると、鉄の力ではなく、火の力を感じるでしょう。したがって、火の中の鉄のような魂もまた、このように常に御言葉の中に、常に知恵の中に、常に神の中にあります。行動し、感じ、理解するすべてのものは神です。したがって、絶えず燃えている神の御言葉の統一性から不変であるものは、変換可能でも変化可能でもないと言えるでしょう。最後に、神の言葉の熱がすべての聖徒に及んだと考えなければなりませんが、この魂においては、神の火そのものが実体的に宿り、そこから他の者たちに熱が伝わったと信じなければなりません。最後に、彼が言った「あなたの神、主は、喜びの油であなたをあなたの仲間たちよりも高く油注がれた」(詩篇44篇8節)という言葉は、この魂が喜びの油、すなわち神の言葉と知恵によって、またその油にあずかる者、すなわち聖なる預言者と使徒たちによって、異なる方法で油注がれたことを示しています。彼らは彼の香油の香りの中を走ったと言われています(雅歌1章3節)。しかし、この魂こそが香油そのものの器であり、その香りからすべての預言者と使徒たちがふさわしい者となったのです。したがって、香油の香りと香油の実体が別物であるように、キリストとキリストの油にあずかる者は別物なのです。軟膏の中身が入った器自体が、いかなる悪臭も受けることができないのと同様に、その香りにあずかる人々が、その香りから少し離れると、偶然悪臭を受ける可能性がある。同様に、キリストの魂は、軟膏の中身が入った器として、反対の臭いを受けることは不可能であった。しかし、その器に近づくほど、彼らはより深くその臭いを感じ取ることができた。このようにして、この問題の難しさが説明される。キリストの魂の本質が、すべての魂の本質と同じであったことは疑いようがない。そうでなければ、真の魂でなければ、魂とは呼ばれないだろう。しかし、善悪を選ぶ能力は誰にでも備わっているので、キリストのこの魂は正義を愛することを選び、その愛の広大さゆえに、それに不可逆的かつ不可分に固執しました。そのため、意志の堅固さ、愛情の広大さ、そして消えることのない愛の熱が、あらゆる転換の感覚を断ち切りました。そのため、意志に置かれたものは、長年の使用と愛情によって既に自然へと変化しました。このように、キリストには確かに人間的で理性的な魂があり、罪の感覚や可能性はなかったと信じるべきです。しかし、この問題をより完全に説明するために、たとえ話を使うことも不合理ではないようです。非常に困難で難しい問題では、適切な例を使うことさえ十分ではありませんが、偏見なく言うと、金属の鉄は冷たさと熱の両方を経験することができます。したがって、鉄の塊が常に火の中に置かれ、そのすべての孔と脈に火が入り込み、完全に火でできており、火が絶えることがなく、また鉄自体も火から分離されていないとしたら、本質的に火の中に置かれ、絶えず燃えているこの鉄の塊が、冷たさを受け入れることができると言えるでしょうか。しかし、私たちはまた、影の意味に関して神の聖書に挿入されている他の多くの事柄も見ています。例えば、ルカによる福音書では、ガブリエルがマリアに「主の霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆うでしょう」(ルカ1章35節)と言っています。 使徒は律法について、肉に従って割礼を受けた者は天上のものの似姿と影に仕えているのだと言っています(ヘブライ人への手紙8章5節)。また別の箇所では、私たちの命は地上の影ではないかと述べられています(ヨブ記8章9節)。ですから、地上の律法も、地上の私たちの命もすべて影であり、私たちが異邦人の間でキリストの影に生きているならば、これらの影の真実は、もはや鏡を通してではなく、また奥義としてではなく、顔と顔を合わせて啓示されるその啓示の中では知られていないことを理解しなければなりません(コリント人への手紙第一 13章12節)。(42.1193)すべての聖徒は、神の栄光と物事の原因と真理の両方を観想するにふさわしい者となるでしょう。使徒は、聖霊によってその真理の保証をすでに受けており、こう言っています。「もし私たちがかつて肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもう彼を知らないのです」(コリント人への手紙第二 5章16節)。その間、私たちがキリストの受肉と神性といった難しい問題について議論している間にも、これらのことは私たちに思い浮かぶことができたはずです。もし誰かがこれよりも良いものを見つけ、聖書からのより明白な主張で自分の主張を裏付けることができるなら、これよりもそちらを受け入れるべきです。 :::[[言葉の受肉について#第1巻|先頭に戻る]] ==出典== *[https://la.wikisource.org/wiki/Patrologia_Latina/8 Patrologia Latina/42] *底本: [https://la.wikisource.org/wiki/De_incarnatione_Verbi De incarnatione Verbi] 『言葉の受肉について』オリゲネス、J. P. Migne 1846 early modern edition. {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- ラテン語版 Wikisource, [[la:De incarnatione Verbi]] J. P. Migne 1846 early modern edition を翻訳 --> ik2e2gsiuzcsgxdg68kpi7d41g690l2 242083 242082 2026-05-02T20:53:12Z 村田ラジオ 14210 校正 242083 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = 言葉の受肉について | section = De incarnatione Verbi | previous = | next = | year = | 年 = | override_author = [[s:en:Author:Origen|オリゲネス]](2-3世紀) | override_translator = | override_editor = [[s:la:Scriptor:Iacobus Paulus Migne|J.P. ミーニュ]] | noauthor = | notes = *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:ことはのしゆにくについて}} <!-- [[Category:キリスト教]]--> [[Category:教父]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:パトロロギア・ラティナ]] }} 言葉の受肉について(オリゲネス)、JP Migne 42.1192 == 第1巻 == ===第1章=== それは使徒たちが神について説いたことをまとめたものです。しかし、使徒たちの説教を通して明確に伝えられていることの類型は次のとおりです。第一に、万物を創造し構成し、無であった時に万物を存在させた唯一の神が存在するということです。最初の創造と世界の創造からすべての義人の神、アダム、アベル、セツ、エノス、エノク、ノア、セム、アブラハム、イサク、ヤコブ、十二族長、モーセ、そして預言者たちの神です。そして、この神は終わりの日に、預言者たちを通して前もって約束したとおり、主イエス・キリストを遣わされました。まずイスラエルを召すため、そして次にイスラエルの民の背信の後、異邦人をも召すためです。この正義にして善なる神、私たちの主イエス・キリストの父は、自ら律法と預言者と福音書を与え、使徒たちの神であり、旧約聖書と新約聖書の神でもあります。次に、第二に、すべての創造に先立って来られたイエス・キリストは父から生まれたからです。キリストはすべての創造において父に仕え(万物はキリストによって造られたので[ヨハネ1章3節])、最後の自己放棄の時に人となり、神である時に受肉し、人となった後も神であり続けました。キリストは私たちと同じような体を取りましたが、処女と聖霊から生まれたという点だけが異なっていました。そして、この神であるイエス・キリストは空想ではなく真実に生まれ、苦しみを受けたので、この共通の死を本当に死なれました。キリストは確かに死からよみがえり、復活後、弟子たちと交わり、天に上げられました。そして最後に、父と子と性質、栄誉、尊厳において結び合わされ、聖霊を授けられました。実際、この聖霊が聖人、預言者、使徒の一人ひとりに霊感を与えたこと、そして古代の人々には一つの霊があったのではなく、キリストの到来時に霊感を受けた人々には別の霊があったことは、教会において最も明確に説かれている。 ===第2章=== 自由意志と魂の起源。その後、すでに実体と生命を持つ魂は、この世を去った後、その功績に応じて処分される。その行いが永遠の命と幸福を与えたならば、それを相続する。あるいは、その罪の咎によって永遠の罰を受けるならば、永遠の罰に服する。しかし、死者の復活の時もある。今朽ち果てて蒔かれているこの肉体は朽ちることなくよみがえり、不名誉のうちに蒔かれたものは栄光のうちによみがえる(コリントの信徒への手紙一 15章42、43節)。また、教会の説教では、すべての魂は理性的で自由意志を持ち、意志を持っていると定義されている。また、悪魔とその天使たち、そして敵対勢力と戦っている。なぜなら、彼らは魂に罪を負わせようと努めているからである。しかし、私たちが正しく賢明に生きるならば、このような汚れから身を清めようと努めるだろう。したがって、私たちは必然性に縛られていないので、たとえ望まなくても善悪を強制されることはないという結論に至る。もし私たちが自由意志を持っているならば、ある徳は私たちを罪に誘い、別の徳は私たちを救済へと導くかもしれない。しかし、私たちは必然性によって善悪を強制されることはない。星の運行と運動が人間の行動の原因であり、自由意志の自由外に起こることだけでなく、私たちの力でできることの原因でもあると言う人々は、まさにこのことを主張している。しかし、魂に関しては、それが種子から派生し、その理性や実体が肉体の種子そのものにあるのか、それとも別の始まりがあるのか​​、そしてその始まりが生まれたのか生まれていないのか、あるいは確かに外部から体に植え付けられているのかは、明確な述語によって十分に区別されていない。 ===第3章=== 悪魔の状態について。教会の説教では、悪魔とその天使たち、そして悪魔に敵対する勢力についても教えられており、これらは確かに存在するとされています。しかし、それらが何であるか、あるいはどのように存在するのかについては、十分に説明されていません。しかし、多くの人々の間では、この悪魔はかつて天使であり、背教者となった際に多くの天使たちを説得して共に背教させ、それらの天使たちは今もなお悪魔の天使と呼ばれている、という見解が信じられています。 ===第4章=== 世界の始まりと終わり。教会の説教には、この世界はある特定の時に創造され、始まり、そして自らの腐敗によって滅びるという教えもあります。しかし、この世界以前に何があったのか、あるいはこの世界以後に何が起こるのかは、現在多くの人々に明白に知られていません。なぜなら、教会の説教において、これらのことについて明確な議論がなされていないからです。 ===第5章=== 聖書の秘められた意味。最後に、聖書は神の霊によって書かれ、明白な意味だけでなく、多くの人が知らない隠された意味も持っているという教えがあります。これらは、特定の秘跡や神聖な事柄の象徴として描写される形式です。この点に関して、教会全体が、すべての律法は霊的なものであるという点で一致しています。しかし、律法の息吹を吹き込むものは、聖霊の恵みによって知恵と知識の言葉を与えられている者以外には、人間には知られていません。 ===第6章=== 善なる天使たち。教会の説教には、神の天使や善なる力が存在し、人類の救済の完成のために神に仕えるという話もある。しかし、それらがいつ創造されたのか、何者なのか、どのように存在するのかは、十分に明確に区別されていない。 ===第7章=== 真理を調査する方法。したがって、「知識の光があなたを照らすように」という戒めに従って、次のような要素や基礎をこの種のものとして用いる必要がある。すなわち、ある一連の事柄や体系を、これらすべての理性から完成させようとする者は、それぞれについて、真実の中にある事柄について明確かつ必要な主張をもって論じ、先に述べたように、聖書の中に見出したもの、あるいはその後、自らの調査と正しい解釈によって発見したものを例証や断言として用いて、一つの体系を構築することができる。 ===第8章=== 始まりのない御子。私たちは常に、父なる神を、その独り子を通して知ってきました。御子は確かに神自身から生まれ、神から発出していますが、始まりはありません。それは、特定の時間的空間によって区別できないからだけでなく、心がそれ自体の中で見慣れているもの、いわば裸の知性と魂によって見られるものによっても区別できないからです。したがって、始まりと呼んだり理解したりできるすべてのものの外で、知恵が生み出されたと信じなければなりません。したがって、知恵のこの存在そのものの中に、未来の被造物のすべての力と変形が、最初に存在するもの、あるいはその後に起こるもののいずれかが、予知の力によってあらかじめ形成され、配置されていたので、知恵のこの存在そのものの中に、まさにそれらの被造物が記述され、予型されていたので、知恵自身はソロモンを通して、自分は神の道の始まりとして創造された(箴言8章22節)と言い、すべての被造物の始まり、理由、あるいは種のいずれかを自分の中に含んでいると言いました。しかし、私たちが知恵を神の道の始まりであり、それがどのように創造されたか、すなわち、被造物全体の種と理性をあらかじめ形成し、包含していると理解してきたのと同様に、それは神の言葉であるとも理解されなければなりません。なぜなら、それ自体が他のすべて、つまり被造物全体に、確かに神の知恵の中に含まれている神秘と秘儀の理性を開示するからです。そして、このことによって、言葉はいわば心の秘儀の解釈者であると言われています。ヨハネは福音書の冒頭で、言葉を彼自身の定義によって神であると定義し、こう言っています。「そして、言葉は神であった。これは初めに神と共にあった」(ヨハネ1章1節)。しかし、神の言葉や神の知恵の始まりを語る者は、自分が常に父であり、言葉を生んだこと、そして過去のあらゆる時代やあらゆる世において知恵を持っていたことを否定する以上、未だ生まれていない父なる神自身に、さらに不敬虔な態度を向けることのないよう注意すべきである。 ===第9章=== 御言葉には模範的な理由があります。したがって、この御子は真理であり、命であり、万物の道です(ヨハネ 14章6節)。そして、それは当然のことです。なぜなら、造られたものが命からでなければ、どうして生きることができるでしょうか。あるいは、存在するものが真理から派生していなければ、どうして真理の中に存在できるでしょうか。あるいは、言葉や理性が先行していなければ、どうして物質が理性的であることができるでしょうか。あるいは、知恵がなければ、どうして物質が賢明であることができるでしょうか。神の言葉と知恵は道となり、その道は、その道を歩む者を父のもとへ導くので、道と呼ばれています。したがって、私たちが神の知恵について述べたことは、神の子が命であり、言葉であり、真理であり、道であり、復活であるという事実にも適切に当てはまり、理解されるでしょう。なぜなら、これらのすべての名称は、彼の行いと徳から名付けられているからです。そして、これらのどれにも、たとえ些細な意見であっても、物質的なもの、あるいは偉大さ、習慣、色などを表すと思われるものは何も理解できない。 ===第10章=== 言葉の想像を絶する誕生。しかし、私たちの間にいる者たちは人の子らなので ===第11章=== 父の像という言葉。神の目に見えない像がこのように呼ばれることの意味も見ていきましょう。そうすれば、神が御子の父と正しく呼ばれる理由がわかるでしょう。まず、人間の慣習で像と呼ばれるものについて考えてみましょう。像とは、木や石などの素材に描かれたり彫られたりしたものを指すことがあります。また、生まれた子の姿が生まれた子の中にある場合、生まれた子を生んだ者を指すこともあります。ですから、最初の例は、神の形と似姿に造られた方にも当てはまると思います。神の御心ならば、創世記の箇所を解説し始める時に、この方についてもっと詳しく見ていきましょう。しかし、今話している神の子の像は、目に見えない神の目に見えない像であるという点でも、二番目の例えに当てはめることができます。歴史によれば、アダムの像は息子のセツであったと言われています。なぜなら、こう書かれているからです。「アダムは自分のかたちに、また自分の種類に似せてセツを生んだ」(創世記5章3節)。このかたちには、父と子の本質と実体の統一性も含まれています。父がなさったことはすべて子も同じようになさる(ヨハネ5章19節)ので、子が父と同じようにすべてのことを行ったことで、父のかたち像は子において歪められてしまいます。子は確かに、心から発する確固たる意志として父から生まれたのです。ですから、父の意志は父が望むものを維持するのに十分であると私は考えます。意志を持つ者は、意志の計画によって生み出される方法以外には用いないからです。したがって、子の存在もまた父によって生み出されるのです。これは、父なる神以外には生まれていないもの、すなわち生来のものは何もないと告白する人々によってまず受け入れられなければなりません。なぜなら、神の本質を部分に分け、父なる神を分割しようとする、ある種の比喩を自らに当てはめるような愚かな寓話に陥らないよう、私たちは注意しなければならないからである。非物質的な本質について少しでも疑うことは、極めて不敬虔であるだけでなく、究極の愚かさであり、非物質的な本質の実質的な分割を理解できるほどの知性には全く基づかないからである。したがって、意志が心から生じ、心のいかなる部分も切り離さず、また心から分離も分割もされないのと同様に、父なる神は、まさにそのような形、すなわち、ご自身の姿に似せて御子を生み出されたと考えるべきである。つまり、父なる神ご自身が本質的に目に見えないのと同様に、父なる神は目に見えない像を生み出されたのである。御言葉は御子であり、したがって御子には感覚的なものは何一つ理解できない。御子は知恵であり、知恵には物質的なものは何一つ疑われないのである。光は真実であり、この世に来るすべての人を照らす(ヨハネ1章9節)。しかし、それはこの太陽の光とは何の関係もない。したがって、像は、私たちの救い主である父なる神の目に見えない像である。父自身に関しては、確かに真理であるが、父を啓示する私たちに関しては、それは私たちが父を知るための像であり、父を知るのは御子以外には誰もいない。そして御子は父を私たちに啓示することを望んでおられる(マタイ11章27節)。しかし、父は、ご自身が理解されることによってそれを啓示される。なぜなら、父が理解されたことによって、父もまた理解されるからである。父が「わたしを見た者は父を見たのだ」(ヨハネ14章9節)と言われたように。 ===第12章=== キリストは父なる実体の象徴です。しかし、キリストについて語るパウロの言葉、すなわち「キリストは神の栄光の輝きであり、神の実体の完全な姿である」(ヘブライ1章3節)という言葉を引用したので、これをどう解釈すべきか考えてみましょう。ヨハネによれば、神は光です(第一ヨハネ1章5節)。したがって、光の輝きは独り子であり、光から輝きが発するように、神から不可分に発し、被造物全体を照らします。このことから、私たちは上で、父に至る道がどのようなものであり、どのように父へと導くのか、また、御言葉がどのようなものであり、知恵と知識の奥義を解き明かし、それを理性的な被造物にもたらすのか、そして真理がいかに命あるいは復活であるかを説明しました。したがって、私たちは輝きの働きも理解しなければなりません。なぜなら、輝きを通して、光そのものが何であるかが知られ、感じられるからです。この輝きは、弱く脆い人間の目に、より穏やかで優しい形で現れ、主の「目から{{r|梁|はり}}を取り除け」(マタイ7章5節)という言葉にあるように、視界を遮り妨げるものをすべて取り除いた後、徐々に光の輝きに耐えることを教え、慣れさせるかのように、人間と光の間の確かな仲介者として、光の栄光を受け入れることができるようにしてくれる。しかし、使徒は栄光の輝きだけでなく、神の実体または存在の明確な象徴でもあると述べているので(ヘブライ1章3節)、神自身の実体または存在が何であれ、その実体または存在以外のものが、神の実体の象徴であると言われていることに、知性が気づかないはずはないと思う。また、神の子は御言葉と知恵の両方と呼ばれ、父を知っておられる唯一の方であり、御子が御心にかなう者(マタイ11章27節)に御言葉と知恵を理解できる者に御父を啓示されるので、まさにこの御子が神を理解させ、知らしめるという事実によって、神の実体または存在の象徴を表していると言われるかもしれないので、すなわち、知恵がまず自分自身について、他者に啓示したいことを記述し、それによって人々が神を知り、理解するとき、これが神の実体の象徴を表していると言われるのではないだろうか。しかし、救い主が神の実体または存在の象徴であることをさらに完全に理解するために、私たちが話している事柄を完全に適切に表すものではないものの、この目的のためだけに想定されていると思われる例も用いてみましょう。すなわち、神の形をとっておられた御子が、自らを空しくすることによって(フィリピ2章6節)、私たちに神性の完全さを示そうとされたということです。例えば、地球全体を収めることができるほどの大きさの像が作られ、その巨大さゆえに誰もその大きさを想像できないとしても、その像と全く同じ形をした像が、大きさの巨大さを伴わずに、手足の習慣や顔の特徴、外見や材質などあらゆる点で似ているとすれば、その像を見た人は、その像を見たと認識するだろう。なぜなら、手足の特徴や顔の特徴、外見や材質そのものなど、すべてがその類似性によって完全に区別できないからである。このように、神の子は、父なる神との平等性を自ら放棄し、私たちに神を知る道を示し、神の本質の明確な形となる。こうして、神の明晰さの偉大さの中に置かれた純粋な光の栄光を直視することができなかった私たちは、私たちのために輝きが作られたという事実によって、輝きを見ることによって、神の光を見る道を掴むことができるのである。像を物質的なものに当てはめたかのような比較は、神の子が、その業と力の類似性によって、ごく短期間人間の体の形に宿り、父なる神の計り知れない目に見えない偉大さを自らに示し、弟子たちに「わたしを見た者は父をも見たのだ」(ヨハネ14章9節)、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10章30節)と言われたという事実以外には理解されるべきではない。また、「父はわたしのうちにおられ、わたしは父のうちにおられる」(ヨハネ14章10節)と言われたこともこれに類似している。 ===第13章=== 御子は神の力の蒸気である。ソロモンの知恵に書かれていることをどのように感じるべきかも見てみよう。ソロモンは知恵について、蒸気は神の力の一種であり、全能者の最も純粋な栄光の発露であり、永遠の光の輝きであり、神の働きまたは力の汚れなき鏡であり、神の善の像であると述べている(知恵 7、25)。したがって、神についてこれら5つの事柄を定義することによって、彼はそのそれぞれから神の知恵の中にある特定の事柄を指定している。なぜなら、彼は神の力、栄光、永遠の光、働き、善を挙げているからである。しかし、彼は知恵は蒸気であると言っているが、それは全能者の栄光の蒸気でも、永遠の光の蒸気でも、父の働きの蒸気でも、その善の蒸気でもない。なぜなら、これらのどれにも蒸気を帰するのは適切ではなかったからである。しかし、彼は知恵は、そのすべての性質において、神の力の蒸気であると述べている。したがって、神の力は、それが繁栄する力、すなわち、目に見えるものと見えないものすべてを確立し、包含し、あるいは支配する力として理解されるべきである。なぜなら、神の摂理が及ぶすべてのものにとって十分であり、あたかもすべてと結びついているかのように存在するからである。したがって、この偉大で広大な力の蒸気、いわば力そのものは、意志が心から発するように、力そのものから発するにもかかわらず、それ自身の存在において実現される。それにもかかわらず、神の意志そのものは、神の力として実現されるのである。したがって、聖書の言葉にあるように、神の最初の、創造されていない力のある種の蒸気として、別の力がそれ自身の性質において実現される。実際、それは、それ自身であるものをそこから引き出すのである。しかし、それは存在しなかったときには存在しない。もし誰かが、それが以前は存在せず、後になって存在し始めたと言うならば、それを存在させた父がなぜ以前にそうしなかったのか、その理由を述べなければならない。しかし、もし彼が一度何らかの始まりを与えたのなら、この蒸気はどのような始まりで神の力から生じたのか。私たちは再び、なぜ彼が始まりと呼んだものより前にも尋ねなかったのかと問うだろう。このように常に前者について問い、疑問の言葉とともに上昇していくと、私たちは、神は常に可能であり、常に望んでおられたので、神が善いと望まれたものを常に持っていなかったということが、起こったり、何らかの原因が存在したりすることは決してなかったという理解に至るだろう。このことから、神の力の蒸気は常に存在しており、神ご自身以外に始まりはなかったことが示される。なぜなら、神ご自身以外に始まりがないことは当然であり、神ご自身から生まれ、神ご自身から生まれたからである。しかし、使徒によれば、キリストは神の力である(コリント第一 1章24節)ので、今やそれは神の力の蒸気だけではなく、力から力と呼ばれるべきである。しかし、全能神の栄光の源泉は神の子である最も純粋な知恵であるとされているので、全能神の称号が知恵の誕生よりも先に存在し、それによって神は父と呼ばれていると考える人がいるかもしれない。このように疑う者は、聖書がはっきりと述べていることを聞け。「あなたはすべてのものを知恵によって造られた」(詩篇103篇24節)。また、福音書は、すべてのものは彼によって造られ、彼なしには何も造られなかったと教えている(ヨハネ1章3節)。そして、このことから、全能神の称号が父という称号よりも神において古くあり得ないことが分かるだろう。なぜなら、父は子を通して全能だからである。しかし、栄光は全能者のものであり、その栄光は知恵であると述べられているので、知恵もまた全能の栄光に参与しており、それによって神は全能と呼ばれているのだと理解されるべきである。キリストである知恵を通して、神は支配者の権威だけでなく、臣民の自発的な奉仕によっても、すべての権力を保持しておられます。しかし、父と子の全能性が、神と主が父と同一であるのと同様に、一つであり同一であることをあなたがたが知るために、ヨハネが黙示録の中で次のように言っているのを聞いてください。「主なる神、今いまし、かつていまし、やがて来られる全能者がこう言われる」(黙示録1章8節)。来られる者とは、キリスト以外に誰がいるでしょうか。また、神が父であること、救い主もまた神であることに誰も憤慨すべきではないのと同様に、全能者が父と呼ばれるとき、神の子もまた全能者と呼ばれることに誰も憤慨すべきではありません。なぜなら、こうして、彼自身が父に言われた、「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはすべてわたしのもの、わたしはそれらによって栄光を受ける」(ヨハネ17章10節)という言葉が真実となるからです。もし、父が持っているものすべてがキリストのものであり、父が持つものすべてにおいてキリストが全能であるならば、疑いなく、神の独り子も全能でなければなりません。父が持っているものすべてを、子も持っているのです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けています。なぜなら、イエスの御名によって、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、すべてひざまずき、すべての舌が、イエスは主であると告白し、父なる神に栄光を帰するからです(フィリピ2章10、11節)。したがって、神の栄光のアポレアは、神が全能である限りにおいて、全能または栄光のアポレアとして栄光化された、純粋で明瞭な神の知恵である。しかし、全能の栄光が何であるかをより明確に理解するために、次のことも付け加える。父なる神は全能である。なぜなら、神はすべてのもの、すなわち天と地、海とその中にあるすべてのものの力を持っているからである。そして、神は御言葉を通してこれらの力を行使する。なぜなら、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地獄のもの、すべてのものがひざまずくからである。すべてのひざがイエスにひざまずくならば、疑いなくイエスは全能であり、すべてのものがイエスに従う。そして、イエスはすべてのものにおいて力を行使し、すべてのものがイエスを通して父に従うのである。なぜなら、知恵、すなわち言葉と理性によって、力や必然によって従属させられるのではないからである。それゆえ、神が万物を得るまさにそのことにおいて、神の栄光がある。そしてこれは全能の最も純粋で明瞭な栄光であり、力や必然性によってではなく、理性と知恵によって、万物は従属するのである。 ===第14章=== 栄光と輝きと力(ἐνέργεια)。永遠のもの。神の働きとは何でしょうか。しかし、最も純粋で澄み切った知恵の栄光は、純粋または誠実な栄光と呼ばれない栄光と区別するために、まさに適切に表現されています。変化しやすく移ろいやすい性質は、たとえ正義や知恵の行いにおいて栄光を与えられたとしても、正義や知恵という付随的な性質を持っているという事実そのものによって、その栄光は誠実で澄み切ったものとは言えません。しかし、独り子である神の知恵は、あらゆることにおいて不変であり、すべての善は彼の中に実在し、決して変化したり転換したりすることはありません。したがって、彼の純粋で誠実な栄光が述べられています。永遠または永遠という言葉は、彼には存在の始まりがなく、彼が何であるかをやめることもできないため、適切に表現されています。しかし、これはヨハネが「神は光である」(第一ヨハネ1章5節)と言うときに示されています。しかし、彼の光の輝きは彼の知恵であり、それは永遠の光によるだけでなく、彼の知恵は永遠であり、永遠の輝きである。これを全体的に理解すれば、子の本質は父自身から来ているが、時間的にではなく、また、先に述べたように神自身以外のいかなる始まりからも来ていないことを明確に宣言している。しかし、知恵はまた、父なる神の無為の汚れなき鏡とも呼ばれる。したがって、神の力の無為をまず理解しなければならない。それはいわば、父が創造するとき、供給するとき、裁くとき、あるいはあらゆるものをその時々に配置および分配するときに無為となるある種の力である。ちょうど鏡の中で、鏡を見る人が動かされたり行動したりするすべての動きとすべての行為によって、鏡によって歪められた像もまた、同じ行為や動きによって動かされたり行動したりするが、決して衰えることはない。同様に、知恵もまた、神の父性的な働きを映し出す汚れなき鏡と呼ばれるとき、自ら理解されることを望んでいます。神の知恵である主イエス・キリストが、自らについてこう宣言しているように。「父が行う業は、子もまた同じように行うからです。また、彼はこうも言っています。『子は、父がなさるのを見なければ、自分からは何もできません。』(ヨハネ5章19節)。ですから、子は業の力によって父と何ら変わるところがなく、また子の業も父の業と異ならず、いわば一つであり、すべてにおいて動いているのです。それゆえ、彼は子を汚れなき鏡と呼びました。ですから、これによって子と父との間に何ら相違があると理解されてはなりません。福音書では、子は似たようなことをするのではなく、同じことを同じように行うと述べられているからです。 ===第15章=== 御子は神の善性の似姿である。残る問いは、その善性の似姿とは何かということである。この点については、先に述べた鏡によって形成される像について述べたのと同じ意味で理解されるべきであると私は考える。なぜなら、主たる善性は疑いなく父なる神であり、御子は父なる神から生まれ、父なる神はあらゆる点で似姿と呼ばれているからである。御子には、父なる神にある善性以外に、二次的な善性はない。それゆえ、救い主ご自身が福音書の中で、「神以外に善なる者はいない」(マルコ10章18節)と正しく述べている。すなわち、御子は他の善性からではなく、父なる神にある善性のみから成り立っていると理解される。そして、御子は父なる神の似姿と正しく呼ばれる。なぜなら、御子は主たる善性そのもの以外の源泉から生まれたのではなく、また、御子には父なる神にある善性以外の善性は見られず、また、御子には善性の相違や隔たりもないからである。したがって、神以外に善なる者はいないという発言に、いかなる冒涜も含まれるべきではありません。キリストや聖霊の善性が否定されていると誤解される恐れがあるからです。しかし、先に述べたように、真の善性は父なる神に宿るものであり、父なる神から御子が生まれるか、聖霊が発出するかは疑いなく、父なる神は御子が生まれるか、聖霊が発出する源泉において、善性の本質を内包しています。しかし、聖書の中で天使、人、しもべ、宝、人の心、良木など、他の善いものが言及されている場合、これらはすべて、それ自体に内在する本質的な善性ではなく、付随的なものとして、不適切に述べられているのです。 ===第16章=== 聖霊の尊厳。しかし、神の子のすべての称号を集めることは大変な作業であり、別の仕事か別の時間を要する。例えば、彼が真の光、扉、正義、聖化、贖罪、その他無数の称号である理由、そして、これらのそれぞれがどのような原因、徳、感情から名付けられたのかを説明することである。しかし、上で議論した内容に満足して、残りのことについても調べてみよう。したがって、ここで聖霊について簡単に調べてみるべきである。実際、摂理があると何らかの形で感じている人は皆、神は生まれず、万物を創造し、配置し、宇宙の父であると認めている。しかし、彼が子であると断言するのは私たちだけではない。ギリシャ人や野蛮人の間で哲学をしているように見える人々にとっては、これは奇妙で信じがたいことのように思えるが、万物は神の言葉または理性によって創造されたと認めている彼らの中にも、この意見を持つ人がいるようだ。しかし、私たちは、神の霊感を受けたものと信じる彼の教義の信仰に従って、聖霊によって霊感を受けた彼の聖書、すなわち使徒書と福音書、律法と預言者書以外に、神の子についてのより卓越した神聖な記述を人々に伝える可能性は他にないと信じています。キリストご自身が主張されたように。しかし、聖霊の本質については、律法と預言者書に精通している者、あるいはキリストを信じる者以外には、誰も疑う余地はありません。なぜなら、誰も父なる神について適切に語ることはできないとしても、目に見える被造物を通して、また人間の心が自然に知覚するものから、ある程度の理解を得ることは可能であり、さらに聖書からそれを裏付けることも可能だからです。しかし、神の子についても、誰も御子を知らないとしても、父なる神ではないとしても、聖書から神についてどのように感じるべきかを知ることは、新約聖書だけでなく旧約聖書からも、聖徒たちがキリストに比喩的に言及している事柄によって人間の心は形成され、そこから私たちはキリストの神性、あるいはキリストが身にまとった人間性を知覚することができる。多くの聖書は、真の聖霊について、すなわち聖霊がどのような方であるかを教えている。ダビデが詩篇第50篇で「あなたの聖霊を私から取り去らないでください」(詩篇60篇13節)と言っているように。また、ダニエル書には「あなたの中におられる聖霊」(ダニエル書4章5節、6節、15節、5章11節)とある。真の新約聖書では、聖霊がキリストの上に降臨したと書かれている(マタイによる福音書3章16節)など、豊富な証言によって教えられている。そして、主ご自身が復活後、使徒たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20章22節)と言われました。また、天使はマリアに「聖霊があなたに臨むでしょう」(ルカ1章35節)と告げました。しかし、パウロは、聖霊によらなければ「イエスは主である」と言うことはできないと教えています(第一コリント12章3節)。また、使徒言行録では、聖霊は使徒たちの按手によって洗礼の際に与えられました(使徒言行録8章17節)。これらすべてから、聖霊の本質は、救いをもたらす洗礼が、三位一体の中で最も優れた方の権威、すなわち父と子と聖霊の名によってのみ成就され、聖霊の名もまた、生まれていない父なる神とその独り子と結びついていることを学びました。それでは、聖霊の偉大な威厳に驚かない人がいるだろうか。人の子に逆らう言葉を語る者は、あえて赦しを期待するが、聖霊を冒涜する者は、この世でも来世でも赦されないのだから。 ===第17章=== 聖書には「霊」という言葉があります。しかし、現在に至るまで、聖書の中で聖霊が創造物や被造物であると述べている言葉は見つかっていません。ソロモンに上で教えた知恵の伝え方や、生命や御言葉、その他神の子の称号について議論したような意味でもありません。ですから、世界の創造の初めに水の上を動いていた神の霊(創世記1章2節)は、私が理解する限り、聖霊に他ならないと思います。これは、私たちが歴史ではなく霊的な理解に基づいて場所そのものを説明した際にも示したとおりです。実際、私たちの先人たちは新約聖書において、霊がどのような霊であるかを示す形容詞なしに言及されている場合は、聖霊のことだと理解すべきだと指摘しました。例えば、「しかし、"霊"の実とは、愛、喜び、平和である」(ガラテヤ5章22節)などです。同様に、「あなたがたは"霊"によって始めたのだから、肉によって成し遂げなさい」(同3章3節)とも言われています。しかし、私たちはこの区別は旧約聖書にも見られると考えています。例えば、「地上にいる民に"霊"を与え、地上を踏みつける者たちにも"霊"を与える方」(イザヤ42章5節)とあります。疑いなく、地上を踏みつける者、すなわち地上の物質的なものは皆、神から聖霊を受けており、聖霊にあずかっているのです。子について、「子以外に父を知る者はなく、子が父を明らかにしようと望む者以外には誰もいない」(マタイ11章27節)と言われているように、使徒もまた聖霊について同じことを教えています。「しかし、神は"霊"によってそれを私たちに啓示してくださったのです。"霊"は、神の奥深いことまでも、すべてのことを探り出すからです」(コリント第一 2章10節)。しかし、福音書の中で、救い主は弟子たちがまだ理解できなかった神聖で奥深い教えを思い起こし、使徒たちにこう言われます。「わたしにはまだあなたがたに言うべきことがたくさんありますが、今はあなたがたには耐えられません。しかし、父から出る慰め主、すなわち聖霊が来ると、聖霊はあなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い出させてくださるでしょう」(ヨハネ16章13節)。 ===第18章=== 聖霊の流入とさまざまな働きについて。このように、父を知る唯一の御子が、御子が望む者に啓示するように、神の深淵さえも探り出す唯一の聖霊もまた、御子が望む者に神を啓示することを知っておかなければなりません。聖霊は御子が望む所に息を吹き込むからです(ヨハネ3章8節)。また、聖霊も御子の啓示によって知ると考えるべきではありません。もし聖霊が御子の啓示によって父を知るのであれば、聖霊は無知から知識へと至ったことになります。聖霊を告白しながら無知を聖霊に帰するのは、確かに不敬虔で愚かなことです。聖霊は聖霊より前には別の何かであったので、進歩によって聖霊になったのではありません。ですから、聖霊がまだ存在していなかった当時、聖霊は父を知らなかったが、知識を受けた後に聖霊になったと言う人がいるでしょう。しかし、もし彼がそうであったなら、彼自身が常に聖霊でない限り、聖霊は三位一体、すなわち不変の父なる神と御子の一体性の中に決して見なされることはないでしょう。もちろん、私たちが「常に」「かつて」などと言う場合、あるいは時間的な意味を持つ他の名前を用いる場合、それらは単純に、そして寛容に受け止めなければなりません。なぜなら、これらの名前の意味は確かに時間的なものだからです。しかし、私たちが語るものは、言葉の扱いによって確かに時間的に名付けられていますが、その本質においては、時間的な意味の理解をはるかに超えています。父なる神は、それらすべてに、それらが何であり得るかを与えます。しかし、言葉、すなわち理性によるキリストの参与によって、それらは理性的になります。そこから、それらは美徳と悪意の両方を持つことができるので、賞賛に値するか非難に値するかのどちらかであるという結論が導き出されます。したがって、この理由から、聖霊の恵みもまた存在し、本質的に聖くない者も、聖霊の参与によって聖なる者とされるのです。それゆえ、第一に、彼らが存在するためには、父なる神からそれを受け、第二に、彼らが理性的であるために、御言葉からそれを受け、第三に、彼らが聖なる者となるために、聖霊からそれを受けます。また、神の義に従って、聖霊によって前もって聖化されたものは、キリストにあずかることができるようになります。そして、聖霊の聖化によってこの段階にまで進んだ人々は、それでもなお、神の"霊"の働きによって知恵の賜物を得ます。そして、パウロが「ある人には知恵の言葉が、ある人には知識の言葉が、同じ"霊"によって与えられている」と言うとき、私はこれを意味しているのだと思います。そして、賜物のそれぞれの区別を指し示す際に、彼はすべてを宇宙の源に言及し、「働きには区分があるが、すべてをすべての人の中で働かせる神は同じである」(コリント第一 12章8、6節)と言っています。 それゆえ、万物に存在を与える父なる神の無為は、より明確かつ壮大に理解される。なぜなら、各人はキリストの参与を通して、知恵と知識と聖化に従って進歩し、より高い段階へと至るからである。そして、聖霊の参与によって聖化され、より清く、より誠実になった人は、よりふさわしく知恵と知識の恵みを受ける。こうして、あらゆる汚れと無知の痕跡を捨て去り、清められた人は、誠実さと清らかさにおいて大いに進歩し、神から与えられた存在は、確かに純粋かつ完全であるように定められた神にふさわしいものとなる。つまり、存在するものは、それを創造した神にふさわしいものとなるのである。こうして、創造主が望んだとおりの人間として、常に存在し、永遠に存在し続ける力を神から受けるのである。このことが起こり、知恵によって作られたものが、存在する者を絶えず不可分に助けるためには、それらを教え、教育し、聖霊の確証と絶え間ない聖化によって完全へと導くことが必要である。それらは聖霊によってのみ受け取ることができるからである。したがって、父と子と聖霊の絶え間ない働きが進歩のあらゆる段階を通して確立されることによって、私たちは聖く祝福された生活をほとんど見ることができる。(42.1186) 多くの苦闘の末にそこにたどり着いたとしても、私たちはその善に飽きることが決してないように、むしろその祝福をより多く認識すればするほど、それに対する私たちの欲求は拡大し、増大し、私たちは常に父と子と聖霊をより熱心に、より広く受け入れ、あるいは保持しなければならない。 しかし、最高かつ最も完全な境地に達した者の中に、満腹感に襲われた者がいたとしても、突然空虚になって倒れるとは思いません。むしろ、徐々に、徐々に流れ去っていく必要があるのです。そのため、一時的に倒れた者がすぐに立ち直り、完全に倒れるのではなく、再び足場を取り戻し、元の地位に戻り、怠慢によって失われたものを再び確立できる、といったことが時折起こるかもしれません。父の言葉であり知恵である神の独り子は、世が始まる前から父と共に栄光の中にいたとき、自らを空しくし、しもべの姿をとって、死に至るまで従順になりました。それは、従順を通して以外には救いを得られない人々に従順を教えるためであり、まず、他の人々に成就してほしいと願ったことを自ら成就したのです。それゆえ、キリストは十字架の死に至るまでだけでなく、世の終わりまでも父に従順であられ、父に服従させる者すべてを御自身の中に含み、御自身を通して救いに至る者すべてを御自身の中に含み、御自身もまた、彼らに対しても、彼らの内にも、父に服従する者と呼ばれておられる。なぜなら、万物はキリストの中にあり、キリストは万物の頭であり、キリストは従う者にとって救いの完全さだからである。使徒はキリストについてこう述べている。「万物がキリストに服従するようになったら、御子もまた、万物を自分に服従させた方に服従するであろう。それは、神がすべてにおいてすべてとなるためである」(コリント第一 15章28節)。しかし、異端者たちが、これらの言葉に含まれる使徒の意味を理解していないために、御子における服従という名を中傷する理由が私にはわからない。この呼称の真の性質は、もし求められれば、反対の事柄から容易に見いだせる。なぜなら、服従することが良いことではないならば、結局、反対のことが善である、つまり従わないことが善である、ということが残ります。使徒の言葉は、彼らの望むように解釈すれば、このことを示しているように見えます。「万物が御子に従うとき、御子もまた、万物を御自身に従わせた方に従わなければならない。つまり、今父に従わぬ方が、父がまず万物を御子に従わせたとき、従わなければならないということである。」しかし、私は、まだ万物に従わぬ方が、万物が従わされ、万物の王となり、万物の力を持つようになったとき、以前は従わなかったのに、従わなければならないと考えるのはどういうことなのか疑問に思います。キリストが父に従わされたことは、私たちの完全の祝福を示し、キリストが成し遂げられた業の栄光を宣言していることを理解していないのです。なぜなら、キリストは、万物において改善された統治と支配の総和だけでなく、人類の父への従順と服従の修正され回復された制度をも提供しているからです。 したがって、御子が父に服従していると言われるこの服従が善であり有益であると理解されるならば、神の子の服従であると言われる敵の服従もまた有益であり有益であると理解されるのは非常に必然的かつ首尾一貫している。つまり、御子が父に服従していると言われるとき(同上)、すべての被造物の完全な回復が宣言されるのと同様に、神の敵が服従していると言われるとき(同上、25節)、その中に被造物の救済と失われた者の回復が理解されるのである。しかし、この服従は特定の方法、規律、および時期に完成する。すなわち、服従を強制する必然性によってではなく、また全世界が力によって神に服従させられるわけでもなく、言葉、理性、教義、最良の挑発、最良の制度、また、自分自身の安全と有用性の配慮と健全性を軽んじる者たちを正当に脅かす、価値があり有能な脅しによってである。最後に、私たち人間もまた、奴隷や子供を教育する際、彼らがまだ年齢のために理性を理解できない間は、脅迫や恐怖で彼らを強制します。真に善良で有益で正直な者は理解力を身につけ、殴打の恐怖がなくなると、言葉と理性によって説得され、すべての善に同意するようになります。しかし、すべての理性的被造物の選択の自由を保ちながら、神の言葉が禁じている者、すでに準備と能力があり、見つけて教え、その間延期し、完全に隠され、遠く離れた彼らの声を聞かないようにする者、そして示された神の言葉を軽蔑する者に対して、神は再び一定の矯正と懲罰によって救いへと促し、ある意味で彼らの回心を要求し、強要する者を、どのように排除すべきでしょうか。そして神は彼らに救いの機会も与えてくださるので、信仰のみによって発せられた応答によって、疑いのない救いを受ける人もいるのです。どのような理由で、あるいはどのような機会に、このようなことが行われるべきなのでしょうか。内省を通して、あるいはその目的のどのような動きを見て、これらの宇宙を分配する神の知恵とはどのようなものでしょうか。それは神のみぞ知ることであり、万物を創造し、回復させた独り子と、万物を聖化する聖霊のみに知られており、聖霊は父と子から発出する方であり、永遠に栄光あれ。 ==第2巻== 原作から同様の方法で抜粋。(42.1187) 神はあらゆる所に、あらゆるものの中にいると言います。なぜなら、神を欠くものは何もないからです。しかし、私たちは、神がそうであるとか、すべてのものが今や神が存在する場所にあるとは言いません。したがって、幸福の完成と物事の終焉を意味するものの本質、すなわち、神がすべての中に存在すると言われるだけでなく、すべてのものが神であると言われることの本質をより注意深く見なければなりません。そこで、神がすべての中に存在するすべてのものとは何なのかを尋ねてみましょう。そして私は、神がすべての中に存在すると言われる事実は、神が一人ひとりの中にすべてであることを意味すると考えています。しかし、一人ひとりを通して、すべてのものは、あらゆる悪徳の滓から清められ、あらゆる悪意の雲から完全に浄化された理性的な心が感じたり、理解したり、考えたりできるものはすべて神となるような形で存在するでしょう。そして、もはや、神を感じ、神を考え、神を見て、神を抱き、そのすべての動きが神である以外には何も存在しないでしょう。なぜなら、もはや善と悪の区別はないからです。なぜなら、悪はどこにも存在しないからである。悪がもはや近くにない者にとって、万物は神だからである。常に善の中にあり、万物が神である者にとって、善悪の知識の木の実を食べようとはもはや望まないであろう。それゆえ、終わりが始まりに戻り、物事の結果が始まりと比較されることで、理性的な自然が善悪の知識の木の実を食べる必要がなかった状態が回復されるであろう。そして、あらゆる悪意を取り除き、誠実で純粋な状態に浄化された後、唯一の善である神だけが、ここで万物となるであろう。しかも、少数でも多数でもなく、神自身が万物の中で万物となるように。そして、もはや死がなく、もはや死の棘がなく、もはや悪が全くないとき、真に神は万物の中で万物となるであろう。 ===第19章=== 御子が父に服従する方法について。さて、これまで述べてきたことをできる限り詳しく見てきたので、これまで述べてきたことを思い出すために、それぞれのことを要約しておきましょう。まず、父と御子と聖霊についてすべて繰り返します。父なる神は御子と不可分かつ分離できないので、御子は父からプロレーションによって生まれたのではない、と考える人もいる。プロレーションが父の御子であるならば、プロレーションは動物や人間の子孫となるような生殖を意味することになる。プロレーションする者とプロレーションされる者は必然的に両方とも体である。なぜなら、異端者たちが考えるように、神の本質の一部が御子に転じたとか、御子が父によって無から、つまりその本質の外から創造されたとか、あたかも存在しない時に存在していたかのように言うのではなく、あらゆる肉体的感覚を切り離して、御言葉と知恵は、あたかも意志が心から発したかのように、いかなる肉体的情念も伴わずに、目に見えない非物質的な神から生まれたと言うからである。意志もこのように考えれば、愛の御子と呼ばれることも不合理には思えないだろう。しかし、ヨハネは神が光であるとも述べている(第一ヨハネ1章5節)。また、パウロは御子が永遠の光の輝きであると述べている(ヘブライ1章3節)(42:1188)。したがって、光が輝きなしには存在し得ないのと同様に、御子も父なしには理解できない。父は、その本質の明確な形であり、御言葉であり、知恵であるとも呼ばれている。それでは、御子が存在しなかった、あるいは存在していなかった時に、彼が存在したとどうして言えるでしょうか。真理が存在しなかった時、知恵が存在しなかった時、命が存在しなかった時に彼が存在したと言う以外に、他に言うべきことはありません。なぜなら、これらすべてにおいて、父なる神の本質が完全に考察されているからです。これらの事柄は彼から切り離すことはできず、彼の本質から決して切り離すことはできません。これらの事柄は理解においては多数であると言われますが、現実と本質においては一つであり、そこに神性の完全性があります。しかし、存在しなかった時に存在しなかったと言うこのこと自体を、これらの名前自体が「いつ」あるいは「決してない」といった時間的な言葉の意味を持つことのないよう、寛大に受け止めなければなりません。しかし、父と子と聖霊について語られる事柄は、あらゆる時間、あらゆる時代、あらゆる永遠を超えて理解されるべきです。これこそが三位一体であり、それは時間的な理解だけでなく永遠の理解をも超越する。しかし、三位一体の外にある他のものは、時代と時間で測られるべきものである。したがって、この神の子が、初めに神と共にあった神の言葉である(ヨハネ1章1節)という理由で、いかなる場所にも含まれていると誰も考えてはならない。知恵であるからでも、命であるからでも、正義であるからでも、聖化であるからでも、贖いであるからでもない。これらのものはすべて、活動したり働いたりするために場所を必要としないが、彼の力と無活動にあずかる者にとっては、これらは個別に理解されるべきものである。しかし、神の言葉、あるいは彼の知恵、真理、あるいは命にあずかる者を通して、言葉そのものと知恵もまた場所にあるように見えると言う者がいるならば、私たちは彼に答えなければならない。なぜなら、キリストが言葉と知恵、そしてその他すべてのものとしてパウロの中にいたことは疑いようがないからである。そのため、彼はこう言いました。「あなたがたは、キリストが私のうちに語っている証拠を求めているのですか」(コリント第二 13章3節)。また、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ 2章20節)。 それでは、それがパウロの中にあったのなら、ペトロやヨハネ、そしてすべての聖人の中に、地上にいる者だけでなく天にいる者の中にもあったことを誰が疑うでしょうか。キリストがペトロとパウロの中に確かに存在したが、大天使ミカエルやガブリエルの中には存在しなかったと言うのは不合理です。このことから、神の子の神性は特定の場所に限定されていなかったことがはっきりと分かります。もし限定されていたなら、それは彼一人の中にのみ存在し、他の誰にも存在しなかったでしょう。しかし、非物質的な性質の威厳によれば、それはどこにも限定されないので、誰にも欠けていないことが再び理解されます。しかし、唯一の違いは、それがペトロ、パウロ、ミカエル、ガブリエルなど、異なる人々の中にあったとしても、それでもなお、彼ら全員の中に同じように存在しているわけではないということです。なぜなら、それは他の聖人よりも大天使の中に、より完全に、より明確に、いわばより公然と存在しているからです。これは次のことから明らかです。(42.1189) すべての聖人が最高の完全性に達すると、福音の教えによれば、彼らは天使に似た者、あるいは天使と同等の者になると言われています(マタイ22章30節)。したがって、彼ら一人ひとりに、理性が許す限り功績によってキリストが宿っていることは明らかです。したがって、三位一体の信仰についてこれらのことを簡単に繰り返したので、天と地にあるすべてのもの、見えるものと見えないもの、王座、主権、支配、権力など、すべてが御子によって、御子の中に創造されたと言われていることも思い出させるべきです。そして、御子はすべてのものより先に存在し、すべてのものは頭である御子の中にあります。これと調和して、ヨハネも福音書の中で、すべてのものは御子によって造られ、御子なしには何も造られなかったと言っています(ヨハネ1章3節)。しかし、ダビデは、宇宙の状態における三位一体の神秘を象徴して、「天は主の言葉によって確立され、そのすべての力は主の口の霊によって確立された」(詩篇 32篇6節)と言っています。しかし、この後、私たちは、神の独り子の肉体の到来と受肉について適切に思い出していただきたいと思います。このとき、神のすべての威厳が非常に短い肉体の境界内に閉じ込められ、神のすべての言葉と知恵、実体的な真理と生命が父から引き裂かれたか、あるいはその肉体の短さの中に閉じ込められ、その範囲を超えて働いたことは決してなかった、と考えるべきではありません。しかし、この二つの間には、キリストには神性の何一つ欠けておらず、遍在する父なる実体からいかなる分離もなされなかったと信じられるような敬虔な告白があるべきです。洗礼者ヨハネも、イエスが肉体的に不在であった時に、群衆に向かってこう言った。「あなたがたの中に、あなたがたが知らない方が立っておられます。わたしの後に来られる方です。わたしはその方の履物のひもを解く資格さえありません」(ヨハネ1章26節)。 肉体的な存在という点では不在であった方については、肉体的に存在していない人々の真ん中に立っていたとは到底言えません。このことから、神の子は肉体においても、またあらゆる所においても存在していたことが分かります。このことから、神の子の神性の一部がキリストの中にあり、残りの部分は他の所やあらゆる所にあると私たちが主張していると考える人は誰もいないでしょう。それは、非物質的で目に見えない実体の性質を知らない人が感じ取れることです。なぜなら、非物質的なものを分割することは不可能だからです。しかし、彼はすべての中にあり、すべてを通してあり、そしてすべての上にいます。それは、私たちが上で述べたように、つまり、知恵、言葉、生命、真理が理解される方法であり、その理解によって、あらゆる局所的な結論が疑いなく排除される方法です。したがって、神の子は人類の救済のために人々に現れ、人々の間に住まうことを望み、一部の人が考えるように人間の肉体だけでなく、私たちの魂と本質的に似ており、目的と力において彼自身に似ており、御言葉と知恵のすべての意志と摂理を揺るぎなく成就できる魂をも身にまとわれた。しかし、彼が魂を持っていたことは、救い主ご自身が福音書の中で最も明確に示しておられる。「だれもわたしの魂を奪うことはできない。わたしは自らそれを捨てるのだ。また、わたしは自分の魂を捨てる権威があり、またそれを取り戻す権威もある」(ヨハネ10章18節)、「わたしの魂は死ぬほど悲しんでいる」(マタイ26章38節)、「今、わたしの魂は苦しんでいる」(ヨハネ12章27節)と。神の御言葉は、悲しみと苦しみに満ちた魂によって理解されるべきではない。神の権威から「わたしは自分の魂を捨てる権威がある」と言っているのである。また、ペテロやパウロ、その他の聖人たちの魂にあったように、神の子がその魂に宿っていたとも言いません。キリストはパウロと同じように、彼らの魂にも語りかけていると信じられています。しかし、聖書が言うように、たとえ一日でも生きている人であっても、汚れから清められる人はいない(ヨブ記25章4節)ということを、すべての人に感じなければなりません。しかし、キリストにあったこの魂は、悪を知る前から善を選び(イザヤ書7章15節)、正義を愛し、不義を憎んだので、神はそれを喜びの油で仲間たちよりも高く油注がれたのです(詩篇44篇8節)。それゆえ、それは喜びの油で塗られ、汚れなき契約によって神の言葉と結び合わされています。そして、このことによって、すべての魂の中で、この魂だけが罪を犯すことができませんでした。なぜなら、この魂は神の子と完全に結びついていたからです。それゆえ、この魂は神の子と一つであり、神の名によって呼ばれ、万物はキリストによって造られたと言われています(ヨハネ1章3節)。この魂は、神の知恵と真理と命の全きをその内に受け入れたので、使徒もまた、あなたがたの命はキリストと共に神の中に隠されている、しかし、あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたもキリストと共に栄光のうちに現れるであろう、と言っているのだと私は信じています(コロサイ3章3節)。 ここでキリストと理解されるべきは、神の中に隠されていると言われ、後に現れる方以外に誰がいるでしょうか。喜びの油で油を注がれ、すなわち、神に満たされ、今や神の中に隠されていると言われている方以外に誰がいるでしょうか。この理由から、キリストはすべての信者の模範として示されています。なぜなら、キリストは常に、悪を知る前から善を選び、義を愛し、不義を憎んでいたため、神はキリストに喜びの油を注がれたからです。同様に、堕落や過ちの後であっても、すべての人は示された模範によって汚れから身を清め、旅の導き手を得て、徳の険しい道を歩みます。こうして、できる限りキリストに倣うことによって、神の性質にあずかることができるようになるかもしれません。聖書に「キリストにとどまっていると言う者は、キリストが歩まれたように歩むべきである」(ヨハネの手紙一 2章6節)と書かれているように。それゆえ、この御言葉とこの知恵、すなわち、それを模倣することによって私たちが賢い者、あるいは理性的であると称されるこの知恵は、すべての人にすべてをもたらし、弱い者に弱くなり、弱い者をも得るのです。そして、弱くされたゆえに、「弱さゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きている」(コリント第二 13章4節)と彼について言われているのです。パウロは、弱かったにもかかわらず、彼らの間ではイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外には何も知らなかったと述べています(コリント第一 2章2節)。しかし、ある人々は、使徒が言うように、「キリストは神の姿であられたのに、神と等しいことを奪い取るべきものとは考えず、かえって自分を空しくして、僕の姿になられた」(フィリピ2章6節)というこの言葉は、キリストがマリアから初めて肉体を取った時に、魂そのものについて言われたものだと主張した。それは、より良い模範と制度によって、疑いなく神の姿に回復させ、ご自身が空しくされた満ち溢れた状態へと魂を呼び戻すためであった。しかし、神の子にあずかることによって人が子として養子にされ、神にあずかることによって人が賢くなるように、聖霊にあずかることによって人も聖なる霊的な者となる。なぜなら、父と子に属する聖霊にあずかることは、三位一体の非物質的な性質を持つため、同一だからである。したがって、聖書の見解によれば、この論争の前の議論で教えられたように、目に見えるものと見えないものすべてを創造した神の独り子は、すべてのものを創造し、創造したものを愛しておられます。目に見えない神ご自身が目に見えない像であるため、神は目に見えない形でご自身をすべての理性的被造物に分け与え、各被造物は愛の情をもって神にしがみついた分だけ、神から分け前を受け取りました。しかし、自由意志の能力により、各被造物にはさまざまな魂があり、ある者はより熱烈な愛で、別の者はより希薄で遠い愛で創造主を捉えていました。イエスが「だれもわたしの魂をわたしから奪うことはできない」(ヨハネ10章18節)と言われた魂は、神の言葉と知恵と真理と真の光に不可分かつ不可分に結びつき、すべてを受け入れ、神の光と輝きに身を委ね、主に神と一つの霊となりました。使徒もまた、彼女に倣うべき人々に、「主と結びつく者は主と一体となる」(コリント第一 6章17節)と約束している。 したがって、神と肉体の間のこの魂の実体によって(神の本性が仲介者なしに肉体と混ざり合うことは不可能であったため)、先に述べたように、神人は、肉体を取ることが確かに自然に反するものではなかった中間実体とともに誕生した。しかしまた、その魂は理性的実体として、先に述べたように、あたかもすべての言葉と知恵と真理がすでに譲り渡されたかのように、それを受け入れた。それゆえ、それが完全に神の子の中にあったか、あるいは完全に神の子をそれ自体の中に含んでいたかのどちらかであったため、肉体においてそれを取ったものとともに、正しく神の子、神の力、神の知恵と呼ばれ、また、万物を創造した神の子は、イエス・キリスト、人の子と呼ばれている。なぜなら、神の子は、確かに死を受け入れることができたその本性のために死んだと言われており、また、聖なる天使たちとともに父なる神の栄光のうちに来ると宣べ伝えられている人の子と呼ばれているからである。そしてこの理由から、聖書全体を通して、神の性質は人間の名で呼ばれ、人間の性質は神の名によるしるしで飾られています。なぜなら、これについては他のどのことよりも多く語ることができ、「彼らは二人で一体となる」(創世記2章24節)、「彼らはもはや二人ではなく、一体である」(マタイ19章5節)と書かれているからです。神の言葉は、夫と妻以上に、肉体の中の魂と一体であると考えるべきであり、また、神と一体の霊であると考えるべきであり、これは、愛によって神と結びついたこの魂よりもふさわしいものです。この魂は、預言者が言うように、「あなたは義を愛し、不義を憎んだ。それゆえ、あなたの神である神は、あなたの仲間たちよりもあなたに喜びの油を注がれた」(詩篇44篇8節)ので、まさに神と一体の霊と呼ばれるにふさわしいのです。それゆえ、愛によって喜びの油で正しく油注がれたのである。すなわち、魂は神の言葉によってキリストとされたのである。喜びの油で油注がれるとは、聖霊に満たされること以外には理解できない。しかし、イエスが仲間たちの上に言ったことは、預言者たちに与えられたような聖霊の恵みではなく、神の言葉そのものの実質的な満ち溢れがイエスの中にあったことを示している。使徒もまた、「キリストのうちには、神性の満ち溢れるすべてが肉体をもって宿っている」(コロサイ2章9節)と言っている。最後に、この理由から、イエスは「あなたは義を愛した」と言うだけでなく、「そして、不義を憎んだ」と付け加えた。不義を憎むとは、聖書が「罪を犯さず、その口には偽りが見いだされなかった方」(イザヤ53章9節、ペテロ第一2章22節、ヨハネ第一3章5節)について述べていることである。そして、イエスはこう言われました。「罪を犯すことなく、あらゆる点で同じように誘惑された」(ヘブライ人への手紙4章15節)。また、イエスご自身がこう言われました。「見よ、この世の支配者が来るが、わたしには何も見いださない」(ヨハネによる福音書14章30節)。これらすべては、イエスには罪の意識がなかったことを示しています。預言者は、イエスに不義の意識が一度も入ったことがないことをより明確に示すために、こう言っています。「幼子が父や母と呼ぶことを知る前から、イエスは不義から立ち返った」(イザヤ書8章4節)。しかし、キリストには理性的な魂があることを上で示し、魂の本質は善悪を行うことができることをすべての議論で繰り返し示してきたので、もしこれが誰かにとって難しいと思われるならば、この問題の難しさは次のように説明されるでしょう。私は、預言者エレミヤが、神の知恵の本質を理解し、世界の救済のために自ら引き受けたこの言葉を述べたと信じています。「私たちの顔の霊は主キリストであり、私たちはキリストに向かって『私たちはその陰の下で諸国民の中で生きる』と言ったのです」(哀歌4章20節)。 なぜなら、私たちの体の影は体と切り離すことができず、体の動きや仕草を絶えず受け入れ、実行するからです。ですから、パウロは、体に不可分にとどまり、その意志と意志に従ってすべてのことを行ったキリストの魂の働きと動きを示したいと願い、これを主キリストの影と呼び、その影の中で私たちは異邦人の間で生きるのだと考えました。なぜなら、この被昇天の秘跡において異邦人は生き、それを模倣して信仰によって救いに至るからです。しかし、ダビデもまた、「主よ、あなたのキリストと引き換えに彼らが私を辱めた私の辱めを覚えていてください」(詩篇88篇51節)と言っており、同様のことを示しているように思われます。また、パウロが「私たちの命はキリストと共に神の中に隠されています」(コロサイ3章3節)と言うとき、他に何を意味しているのでしょうか。また、別の箇所で「あなたがたは、私の中で語っている方の証拠を求めているのですか」(第二コリント13章3節)と言っているのはどういう意味でしょうか。そして今、彼はキリストは神の中に隠されていると言います。このことを理解するのは、先に述べたように、預言者によってキリストの影によって示されたような者と判断されない限り、難しいことです。おそらくこれも人間の心の感覚を超えています。いや、もっと真実なのは、炉の中で作られるのをしばしば目で見るように、ミサは完全に火でできていると言うことです。なぜなら、その中には火以外に何も見当たらないからです。しかし、誰かがそれに触れて扱おうとすると、鉄の力ではなく、火の力を感じるでしょう。したがって、火の中の鉄のような魂もまた、このように常に御言葉の中に、常に知恵の中に、常に神の中にあります。行動し、感じ、理解するすべてのものは神です。したがって、絶えず燃えている神の御言葉の統一性から不変であるものは、変換可能でも変化可能でもないと言えるでしょう。最後に、神の言葉の熱がすべての聖徒に及んだと考えなければなりませんが、この魂においては、神の火そのものが実体的に宿り、そこから他の者たちに熱が伝わったと信じなければなりません。最後に、彼が言った「あなたの神、主は、喜びの油であなたをあなたの仲間たちよりも高く油注がれた」(詩篇44篇8節)という言葉は、この魂が喜びの油、すなわち神の言葉と知恵によって、またその油にあずかる者、すなわち聖なる預言者と使徒たちによって、異なる方法で油注がれたことを示しています。彼らは彼の香油の香りの中を走ったと言われています(雅歌1章3節)。しかし、この魂こそが香油そのものの器であり、その香りからすべての預言者と使徒たちがふさわしい者となったのです。したがって、香油の香りと香油の実体が別物であるように、キリストとキリストの油にあずかる者は別物なのです。軟膏の中身が入った器自体が、いかなる悪臭も受けることができないのと同様に、その香りにあずかる人々が、その香りから少し離れると、偶然悪臭を受ける可能性がある。同様に、キリストの魂は、軟膏の中身が入った器として、反対の臭いを受けることは不可能であった。しかし、その器に近づくほど、彼らはより深くその臭いを感じ取ることができた。このようにして、この問題の難しさが説明される。キリストの魂の本質が、すべての魂の本質と同じであったことは疑いようがない。そうでなければ、真の魂でなければ、魂とは呼ばれないだろう。しかし、善悪を選ぶ能力は誰にでも備わっているので、キリストのこの魂は正義を愛することを選び、その愛の広大さゆえに、それに不可逆的かつ不可分に固執しました。そのため、意志の堅固さ、愛情の広大さ、そして消えることのない愛の熱が、あらゆる転換の感覚を断ち切りました。そのため、意志に置かれたものは、長年の使用と愛情によって既に自然へと変化しました。このように、キリストには確かに人間的で理性的な魂があり、罪の感覚や可能性はなかったと信じるべきです。しかし、この問題をより完全に説明するために、たとえ話を使うことも不合理ではないようです。非常に困難で難しい問題では、適切な例を使うことさえ十分ではありませんが、偏見なく言うと、金属の鉄は冷たさと熱の両方を経験することができます。したがって、鉄の塊が常に火の中に置かれ、そのすべての孔と脈に火が入り込み、完全に火でできており、火が絶えることがなく、また鉄自体も火から分離されていないとしたら、本質的に火の中に置かれ、絶えず燃えているこの鉄の塊が、冷たさを受け入れることができると言えるでしょうか。しかし、私たちはまた、影の意味に関して神の聖書に挿入されている他の多くの事柄も見ています。例えば、ルカによる福音書では、ガブリエルがマリアに「主の霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆うでしょう」(ルカ1章35節)と言っています。 使徒は律法について、肉に従って割礼を受けた者は天上のものの似姿と影に仕えているのだと言っています(ヘブライ人への手紙8章5節)。また別の箇所では、私たちの命は地上の影ではないかと述べられています(ヨブ記8章9節)。ですから、地上の律法も、地上の私たちの命もすべて影であり、私たちが異邦人の間でキリストの影に生きているならば、これらの影の真実は、もはや鏡を通してではなく、また奥義としてではなく、顔と顔を合わせて啓示されるその啓示の中では知られていないことを理解しなければなりません(コリント人への手紙第一 13章12節)。(42.1193)すべての聖徒は、神の栄光と物事の原因と真理の両方を観想するにふさわしい者となるでしょう。使徒は、聖霊によってその真理の保証をすでに受けており、こう言っています。「もし私たちがかつて肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもう彼を知らないのです」(コリント人への手紙第二 5章16節)。その間、私たちがキリストの受肉と神性といった難しい問題について議論している間にも、これらのことは私たちに思い浮かぶことができたはずです。もし誰かがこれよりも良いものを見つけ、聖書からのより明白な主張で自分の主張を裏付けることができるなら、これよりもそちらを受け入れるべきです。 :::[[言葉の受肉について#第1巻|先頭に戻る]] ==出典== *[https://la.wikisource.org/wiki/Patrologia_Latina/8 Patrologia Latina/42] *底本: [https://la.wikisource.org/wiki/De_incarnatione_Verbi De incarnatione Verbi] 『言葉の受肉について』オリゲネス、J. P. Migne 1846 early modern edition. {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- ラテン語版 Wikisource, [[la:De incarnatione Verbi]] J. P. Migne 1846 early modern edition を翻訳 --> myu6tn6emicabzpf6plnnenjqsvabmi イザヤの幻視に関する説教の翻訳 0 56403 242085 2026-05-03T05:31:47Z 村田ラジオ 14210 ラテン語版 Wikisource, [[la:Translatio homiliarum in visiones Isaiae]] J. P. Migne 1846 early modern edition の第5説教までを翻訳 242085 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = イザヤの幻視に関する説教の翻訳 | section = Translatio homiliarum in visiones Isaiae | previous = | next = | year = | 年 = | override_author = [[s:en:Author:Origen|オリゲネス]](2-3世紀) | override_translator = [[s:la:Scriptor:Sophronius Eusebius Hieronymus|ヒエロニムス]] | override_editor = [[s:la:Scriptor:Iacobus Paulus Migne|J.P. ミーニュ]] | noauthor = | notes = *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:ことはのしゆにくについて}} <!-- [[Category:キリスト教]]--> [[Category:教父]] [[Category:オリゲネス]] [[Category:聖書研究]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:パトロロギア・ラティナ]] }} オリゲネス、ストリドンのヒエロニムス ミーニュ・パトロロギア・ラティーナ 第24巻 ==イザヤの幻視に関する説教の翻訳== ===第1説教=== ウジヤ王が死んだ年に、わたしは主が玉座に着いておられるのを見た。 第6章。(1101) 1. ウジヤ王が生きている間、預言者イザヤは幻を見ることができませんでした。ウジヤは罪人であり、主の御前で悪を行い、神の律法の御心に反する行いをしていたからです。彼は神殿と至聖所に入り、そのために額にらい病がかかり、都から出ると汚れた者とみなされました。このように、私たちが神の幻を見るためには、魂の君主であるウジヤ王が死ななければなりません。「ウジヤ王が死んだ年に、わたしは主を見た」(イザヤ書6章1節)と書かれているのは、決して無駄ではありません。ウジヤ、すなわちファラオが生きている間は、私たちはエジプトの行いをしながらため息をつきません。しかし、彼が死ぬと、出エジプト記に記されているように、私たちはため息をつきます。ウジヤが生きている間は、私たちは神の栄光を見ません。しかし、彼が死ぬと、ウジヤが死ぬやいなや、私たちは神の栄光を見るのです。ただ、こうして「しかし、私は彼によって王とされた」(詩篇2篇6節)と言われた方の言葉が私たちのうちに支配し、怒りが支配しないようにするためです。確かに、罪の王もいます。使徒はこれを知って、「ですから、あなたがたの死ぬべき体において、罪が支配しないようにしてください」(ローマ6章12節)と言っています。罪に支配され、そのような王に身を委ね、神の王国を軽んじ、快楽に身を任せる人は、哀れです。ですから、快楽を愛する者は、神を愛する者ではありません。使徒によれば、ある人々についてこう言われています。「神よりも快楽を愛する者たち」(1テモテ3章)。確かに、このことは全くの不信仰者について言われているのではなく、心の中で神よりも快楽を愛する者、敬虔の形は持っているが、その力を否定する者について言われているのです。これはホセア王の死によるもので、預言者は王の死後、幻を見たと言っています。しかし、その幻とは何でしょうか。「私は主が高く上げられた玉座に座っておられるのを見た」など。神を見る者すべてが、神が高く上げられた玉座に座っておられるのを見るわけではありません。別の預言者が主を見て、玉座に座っておられるのを見たが、高く上げられたのではなかったことを私は知っています。聖書について論じたダニエルはこう言っています。「玉座が据えられた」(ダニエル7章9節)が、その玉座は高くありませんでした。そしてわたしは来て、ヨシャファトの谷で民を裁くために座るであろう。それゆえ、彼はこの谷に座り、この谷で、彼が断罪する者を裁くであろう。しかし、彼が高くそびえる玉座に座っているのを見るのはまた別のことである。ミカ書にはこうある。「神は出て行って降りて来られる」(ミカ書1章)。そして、ソドムを見るために、彼は降りて来られる。降りて来られるとき、彼は言う、「わたしのもとに来る者たちの叫びに従って、彼らが行ったかどうかを見よう」(創世記18章)。したがって、神は物事の尊厳に応じて、時には上に、時には下に見られる。それゆえ、わたしは主を見た、(1103)イザヤは言う、高くそびえる玉座に座っている主を。もしわたしが、ここにいる者たちの上に君臨する神を見るならば、高くそびえる玉座に座っている神を見ることはない。もしわたしが、天の力をもって君臨する神を見るならば、高くそびえる玉座に座っている神を見る。神は天の権威について何と言っているでしょうか。王座、主権、支配、権威は天の権威です。そして、もし私が御言葉の中で、主がどのようにそれらを支配しておられるかを見たとしたら、私は主が高くそびえ立つ王座に座っておられるのを見ました。そして、その栄光は御家に満ちていました。その王座は高く上げられ、その栄光は御家に満ちていました。私は、その家が地上にある主の栄光に満ちているとは思いません。地は主のものであり、その満ちるものも主のものです(詩篇24篇)。しかし、あなたがたは今、神の栄光の満ち溢れを見いだすことはないでしょう。しかし、もし誰かが神のために神殿を建てるならば、神の栄光が見られるでしょう。そして、もし彼が言われたことを守るならば、満ち溢れる家は神の栄光であることが見られるでしょう。しかし、私は、家の栄光がこのようにして成就されるかどうかは知りません。そして、レビ記において、この件に関する限り、神は寛大な方であり、続く祈祷文の中で、主の栄光が現れるために主が特定の事柄を行うよう命じられたと記されています。これらの事柄が行われなければ、神の栄光は決して現れません。しかし、私たちはそれらを読めば理解できます。 2. そして、セラフィムが彼の周りに立っていた。一方に六つの翼があり、もう一方に六つの翼があった。私は二人のセラフィムを見た。それぞれに六つの翼があった。それから翼の配置。そして、彼らは確かに二つの翼で顔を覆った。それは彼ら自身の顔ではなく、神の顔を。他の二つの翼で足を覆った。それは彼ら自身の足ではなく、神の足を。そして、他の二つの翼で彼らは飛んだ。書かれていることによれば、それは矛盾しているように思える。もし彼らが立っていたなら、飛ぶことはできない。しかし、こう書かれている。「二人のセラフィムが彼の周りに立っていた。一方に六つの翼があり、もう一方に六つの翼があり、彼らは確かに二つの翼で顔を覆い、二つの翼で足を覆い、二つの翼で飛び、互いに叫び合った。」しかし、神の周りにいるこれらのセラフィムは、知識によってのみ「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と言う。この理由で、彼らは三位一体の秘儀[あるいは mysterium]を守っている。彼ら自身が聖なる者だからである。なぜなら、この世のすべてにおいて、これらよりも聖なるものはないからである。そして彼らは互いに「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と軽々しく言うのではなく、すべての人に救いの告白を叫んで告げるのである。この二人のセラフィムとは何者か。私の主イエスと聖霊である。また、御名の役職が保たれているならば、三位一体の本質が矛盾しているとは思わない。彼らは神の顔を覆った。(1104)なぜなら、神の初めは知られていないからである。しかし、足も。なぜなら、私たちの神にある最後のものは理解されていないからである。中間部分しか見えないからである。これらの以前のことの前には、私は知らない。今あることから、私は神を理解する。これらのこれから来ることの後には、それがどのように来るのか、私は知らない。誰が彼に告げたのか。伝道の書は言った。「以前のことと、これから起こる後のことを私に告げよ。そうすれば、あなたがたは神々であると私が言おう」(伝道の書19章)。それゆえ、イザヤもこう言っている。「わたしたちに過去のことを告げよ。わたしたちは心を傾けて知ることができる。また、これから起こる後のことをわたしたちに示せ。将来起こることをわたしたちに告げよ。そうすれば、わたしたちはあなたがたを神々だと言うであろう。」(イザヤ書41章)このことから、もし誰かが過去について語り、未来について語ることができるならば、その人は神である。では、セラフィム以外に誰が「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と言えるだろうか。しかし、セラフィムはいわば神の一部、半分を覆い隠し、互いに叫び合い、神を助けて、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と言った。それゆえ、彼らは立ち、動き、神と共に立ち、動き、神を示している。彼らは顔を覆い、足を覆い、覆われたものは動かず、飛ぶものは覆われず、そしてこう言う。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神よ、全地は神の栄光に満ちている。」主イエス・キリストの来臨が告げられ、今や全地は主の栄光に満ちています。いや、確かにまだ満ち溢れてはいませんが、主ご自身が私たちに父なる神に祈るように命じられた祈りが成就するときに、それは成就するでしょう。「祈るときは、こう言いなさい。『天におられる私たちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が天でも地でも行われるように、地でも行われますように。』」(マタイ6章)。父の御心は今も天にあり、まだ地上では成就していません。イエスご自身が、身にまとわれた肉体の務めに従って、「神は私に天と地におけるすべての権威をお与えになった」(マタイ28章)と言われたとおりです。天で権威を持っておられた方が、地上でも権威を持っておられないでしょうか。また、ご自身のものとなられた方が、世から何かを受けるべきでしょうか。しかし、神が天で信じられたように、地上でも信じられるために、人となったキリストは、以前は持っていなかった権威を受けられました。そして、今に至るまで、地上のすべてに対して権威を持っておられるわけではありません。なぜなら、キリストはまだ罪を犯す者たちを支配してはおられないからです。しかし、これらの者たちに対する支配権もキリストに与えられ、すべてのものがキリストに従うようになるとき、キリストの力は完全になり、キリストはすべてのものを自分に従わせて歩まれるでしょう(コリント第一 15章)。 しかし、ある者たちはまだ神に服従することを望まず、なおも神の敵に服従している。さらにこう言おう。「わたしの魂は神に服従しないだろうか」(詩篇53篇)?わたしの救いは神にある。 3. 二人は飛び入り、一方が他方に言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神。全地は神の栄光に満ちている。」そして、彼らの叫び声によって敷居が持ち上げられた。それはイエス・キリストの声と聖霊の声であった。もし、叫ぶ私たちの中の誰かがイエス・キリストと聖霊の声を聞くならば、敷居は持ち上げられ、持ち上げられた時よりも高くなる。その時、「君主たちよ、門を上げよ。永遠の門よ、上げよ。栄光の王が入って来られる」(詩篇24篇)と言われた。 4. 家は煙で満たされた。火が消えた後、家は煙で満たされた。煙は火の蒸気である。そして私は言った。「ああ、私は惨めだ。私はただの人間で、唇が汚れているから、苦しんでいるのだ。」私はなぜイザヤが自分を低くしたのか理解できない。彼は真実を言っている。聖書は、彼の唇は彼の罪を取り除くために遣わされたセラフィムの一人によって清められたと証言している。しかし、セラフィムの一人は私の主イエス・キリストであり、父によって私たちの罪を取り除くために遣わされ、こう言われる。「見よ、わたしはあなたがたの不義を取り除き、あなたがたの罪を清めた。」また、御子が父によって遣わされたとしても、あなたはそれを自然に対する侮辱とは思わない。最後に、あなたがたが三位一体における神性の統一性を知ることができるように、このレッスンではキリストだけが罪を赦すが、それでも罪は三位一体によって赦されることは確かである。なぜなら、一人を信じる者は、すべてを信じるからである。それゆえ、天の祭壇から鉗子を持ってきて、私の唇に触れさせよ。主の鉗子が私の唇に触れたなら、それは私の唇を清めます。主は私の唇を清め、悪徳から割礼を施してくださったので、先ほど申し上げたように、私は神の言葉をもって口を開き、もはや私の口から汚れた言葉は出ません。なぜなら、私は人間であり、汚れた唇を持っていますが、汚れた唇を持つ民の中に住んでいるからです。遣わされたセラフィムは預言者の唇を清めましたが、民の唇は清めませんでした。預言者自身が、自分の唇が汚れていること、そして汚れた唇を持つ民の中に住んでいることを告白したからです。しかし、遣わされたこのセラフィムは、民の唇を清めるにふさわしいとは判断せず、そのため民は依然として不敬虔な行いをし、私の主イエス・キリストに抵抗し、汚れた唇で彼を呪っています。しかし、私はセラフィムが来られるとき、私の唇を清めてくださるように祈ります。 5. そして私は、万軍の主である王をこの目で見た。なぜ私たちは、ユダヤ人のある伝承を今ここで語らないのか。それは確かにありそうではあるが真実ではない。そしてなぜ私たちはその解決策を見つけないのか。人々は、イザヤが律法を破り、聖書の外を説いているかのように、民衆に追われたと言う。聖書にはこうある。「だれもわたしの顔を見て生きることはできない」(出エジプト記33章)。しかし彼は言う。「私は万軍の主を見た」。モーセは(彼らは言う)見なかったが、あなたは見た。そしてこの理由で彼らは彼に従い、彼を悪人として非難した。彼らは、セラフィムが二つの翼で神の顔を覆っていることを知らなかったからである。私は主を見たが、イザヤは主の顔を見なかったし、モーセも見なかった。モーセは後のことを見た(と書いてあるとおり)。それでも彼は主を見たが、その顔は見なかった。そしてここで彼は見たが、その顔は見なかった。それゆえ彼らは預言者をひどく非難した。そして私は万軍の主である王をこの目で見た。そしてセラフィムの一人が私のところに遣わされた。私の主イエス・キリストの到来は一度きりではなく、地上に降りてイザヤのもとに、モーセのもとに、民のもとに、そして預言者一人ひとりのもとに来られた。たとえ既に天に迎え入れられたとしても、再び来られることを恐れてはならない。しかし、肉体をも​​って現れる前にも人々のところに来られたので、証人として彼を受け入れ、こう非難し、こう言いなさい。「エルサレムよ、エルサレムよ、預言者を殺し、あなたに遣わされた者たちを石打ちにする者よ、わたしは何度あなたの子らを集めようと願ったことか」(マタイ23章11節)。 私が望む限り何度でも。彼は、「この到来の時以外はあなたたちを見たことがない」とは言わず、「私が望む限り何度でも」と言います。そして、預言者一人ひとりに目を向けて、こう言います。「わたしは、預言者を通して語ったキリストである。わたしは、『恐れるな』と言った。そして今、イエス・キリストが遣わされた。」彼は嘘をつきません。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる」(主は言われる)。彼は嘘をつきません。「わたしの名によって二、三人が集まる所には、わたしもその中にいる。」それゆえ、イエス・キリストはそこにいて、助けてくださり、大祭司として私たちの願いを父にささげる準備を整えておられるので、私たちも立ち上がって、彼を通して父にいけにえをささげましょう。彼は私たちの罪の贖いであり、彼には世々限りなく栄光と支配がありますように。アーメン。 ===第2説教=== 「見よ、処女が胎内に宿るであろう」などと書かれていることについて。 第7章。 (1107) 1. 前述のとおり、アハズは深淵や高所でしるしを求めるように命じられたとき、恥じ入って、求めない理由を述べました(イザヤ7章)。彼は「私は求めません。主を試そうとはしません」と言いました。しかし、彼はこの言葉で非難され、こう言われました。「ダビデの家よ、今聞け。人間と争うことはあなたたちにとって小さなことなのか。どうして主と争うのか。」そして、この約束が告げられました。「それゆえ、主ご自身があなたたちにしるしを与えられる。見よ、処女が胎内に宿り、男の子を産む。その子の名をインマヌエルと名付けよ。」これらのことを説明し、残りのことについては、神の恵みが現れる必要性と、それらに現れることを知るでしょう。彼はしるしを求めるように命じられましたが、それは単に自分のためではなく、自分のためにです。なぜなら、聖書にはこう書いてあるからです。「深淵や高所で、あなたの神、主からしるしを求めよ。」提案されたしるしは、私の主イエス・キリストです。これは、彼が深淵や高い所で自ら求めるように命じられているしるしです。確かに深淵では、降りてくるのは彼自身です。確かに高い所では、彼はすべての天の上に昇った方です。しかし、深淵と高い所で私に示されたこのしるし、私の主イエス・キリストは、その深遠と高さの奥義が私に知らされなければ、私には何の役にも立ちません。私が深淵と高い所からキリスト・イエスの奥義を受けるとき、私は主の命令に従ってしるしを受け、深淵と高い所を自分の中に持っているかのように、こう言われるでしょう。「あなたは心の中で、『誰が天に昇ったのか』と言ってはならない。これはキリストを下ろすためである。あるいは、『誰が深淵に下ったのか』と言ってはならない。これはキリストを死者の中から連れ戻すためである。」あなたの言葉はあなたの口と心の中で力強いのです(ローマ10章)。それゆえ、私たちは皆、このしるしを求めるように命じられています。主なる神が深淵と高みにおいて与えるしるしが、私たちにとって有益となるためです。しかし、もし誰かが知っていて、理性的な考察によって、深淵と高みにおいて語られていることが分離的に語られているのではないと認識するならば、それは両方が可能であることを意味するからです。(1108)深淵と高みにおいて、主からしるしを自分自身のために求めなさい。そして約束の中で、使徒はこう言いました。「私たちが深さ、高さ、長さ、幅を知ることができるように」(エフェソ3章)。 アハズは言った、「私は求めません」。彼は不信仰だった。彼は言った、「自分で求めなさい」。しかし、今日に至るまで人々はしるしを求めないので、しるしを得ず、私の主イエス・キリストを受け入れない人々は主に挑戦しているのです。それから、別の質問が続きます。彼は、「私は求めません。主を試しません」と言い、しるしを求めることを試練と考え、こう言いました。「ダビデの家よ、今聞け。あなたがたが人と争うことは小さなことなのか。どうして主と争うのか」。しかし、深いところに、あるいは高いところにしるしを求める者は、主と争っているのではなく、人と争っているとも思わない。神の戦いは、人が救われる方法だからである。だから、救いを求めて逃げる者は、主と争っているのではない。しかし、人を救うために主に争う者が救いから逃げ、主から遠く離れるならば、主に挑戦していることになる。それゆえ、主ご自身がしるしをあなたがたに与えるであろう。見よ、処女が身ごもり、男の子を産むであろう。その子の名をインマヌエルと名付けなさい(マタイ1章13節)。この預言者の例の真実は、「あなたがたは名付けるであろう」と言っている。マタイでは、「その子の名はインマヌエルと呼ばれるであろう」と書かれていることがわかっている。預言者について、これより少ないことをする必要があるとは言えない。しかし、福音書はどのようにしてこのように書かれているのだろうか。他の多くの福音書で行われたように、知性のない者が安易なことに走ったのか、それとも最初からそうであったのか、あるいは、福音書が公表されたと言う人がいるかもしれないので、よく考えてみるべきだ。預言者は確かに、「あなたがたはその子の名をインマヌエルと名付けるであろう」と明確に述べている。福音書の冒頭で、「あなたは彼の名をインマヌエルと名付けなさい」とある人が読んで、心の中でこう言ったことを私は知っています。「あなたは彼を何と呼ぶのか?誰が呼ぶのか?アハズだ。アハズは、何世代も後に来た救い主について、『あなたは彼の名をインマヌエルと名付けなさい』と聞くことができたのだろうか。あなたが呼ぶ名前で、彼は名付けられるのだ。」と書いてある。(1109)しかし、アハズに「あなたは彼の名をインマヌエルと名付けなさい」と言われたのではなく、ダビデの家に対してはっきりとこう言われたのである。「ダビデの家よ、今聞け。あなたがたが人と争うことは小さなことなのか。どうして主と争うのか。それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、処女が胎内に宿り、男の子を産む。あなたは彼の名をインマヌエルと名付けなさい。」しかし、この言葉の意味が理解できないときは、何もせず、安易な道に走らず、神の恵みが知識の光によって問題の解明をもたらしてくれるまで待ちましょう。あるいは、少なくとも神の恵みが、神が望む者を通して再び私たちを照らし、私たちがそれ以上求めることなく、問題が解決されるようにしましょう。しかし、理解していない事柄に軽率に踏み込むと、自らを苦しめることになります。では、ダビデの家とは何でしょうか。私が何度も証明してきたように、ダビデがキリストであるならば、私たちダビデの家は神の教会です。そして、教会である私たちには、前述の闘いを神に捧げるのではなく、主の御前でそのしるしを受けるようにと言われています。これらのことは、ダビデの家ではなく、私たちに言われているのです。そして、ダビデの家に属する者は誰でも、その名をインマヌエルと呼ぶと預言されています。キリストの到来の時、私たちの教会だけがキリストについて「神は私たちと共におられる」と言うからです。神の恵みによってこれらのことを説明してきたので、今度は他の奥義を探求しましょう。 2. 彼はバターと蜂蜜を食べるでしょう。キリストがバターと蜂蜜を食べることは、どのように預言されているのでしょうか。主の許しを得てこの点が説明されたとしても、次に続くことで、また別の疑問が生じるでしょう。そして、私たち全員が聖書に書かれているとおりに行いたいものです。「聖書を調べなさい!」聖書には、多くの肉体の食物が霊的な食物として挙げられています。生まれたばかりの赤子のように、純粋で純粋な乳を慕い求めなさい(ペテロ第一 2章2節)。 したがって、それは疑いなく良質なミルクであり、私たちはこの種のミルクを求めなければなりません。また、箴言には蜂蜜についてこう書かれています。「蜂蜜を見つけたら、必要な分だけ食べなさい。吐き出してしまうかもしれないから」(箴言25章16節)。聖霊は、私たちがもっと食べてしまうかもしれないという理由で、この既知の蜂蜜に注意を払っておられたのでしょうか。しかし、聖霊は確かに霊的な蜂蜜を感じ取って、「蜂蜜を見つけたら、必要な分だけ食べなさい」とおっしゃっています。しかし、聖霊はどのような感覚で、蜂蜜を見つけたら、蜂蜜は見つかるのだから、必要な分だけ食べるようにと私たちに命じられたのでしょうか。聖霊は、「蜂のところへ行って、蜂がどのように働くかを学びなさい」(箴言6章)とおっしゃっています。そして、預言者たちは蜂であることが分かります。実際、彼らは蜜蝋を発明して蜂蜜を作り、もし私が聞き手に言うのが適切であれば、彼らの蜜蜂の巣は彼らが残した書物です。そして私は喜んで聖書に近づき、蜂蜜を見つけました。しかし、蜂蜜を食べなさい。箴言にはまたこう書かれています。「蜜蜂の巣は良い。あなたの口を甘くするためである」(箴言24章13節)。聖霊が、使用済みの蜂蜜を食べなさい、それは良いものだと言っていると思いますか。私は、聖霊が私に肉体の蜂蜜について、蜂蜜を食べなさいと命じているとは言いません。見よ、私は蜂蜜を食べられない、あるいは少なくともそのような性質を持っていません。だからこそ、聖霊は私に、蜂蜜を食べなさい、肉は食べてはならない、しかし、わが子よ、蜂蜜を食べなさい、それは良いものだと言っているのです。もしあなたが預言者である蜂と、彼らの仕事である蜂蜜や巣を見れば、聖霊の尊厳に従って、わが子よ、蜂蜜を食べなさい、それは良いものだとどのように理解するか分かるでしょう。神の言葉を黙想し、聖書の言葉によって養われる者は、神の命令、すなわち「わが子よ、蜜を食べよ」という命令を実行しなさい。そして、その命令を実行する者は、それに続く「それは良いものだから」という言葉を得る。聖書に記されているこの蜜は良いものだからである。しかし、「蜂のところへ行け」という言葉は、このような意味である。蜂の上に立つ(いわば)一匹の蜂がいる。蜂の中に王と呼ばれる王がいるように、蜂の王は主イエス・キリストである。聖霊は私をこの方に遣わし、私が蜜を食べるようにする。蜜は良いものだから、またその蜜房は私の口を甘くするためである。そして、文字は蜜房よりも微妙かもしれないが、これらの文字で理解されるのは蜜である。さらに、処女インマヌエルから生まれたこの方は、バターと蜜を食べ、私たち一人ひとりからバターを食べようと望んでおられる。この説教では、主が私たち一人ひとりからいかにバターと蜜を求めているかを教えるでしょう。私たちの甘い行い、最も心地よく有益な言葉は、処女から生まれたこの方が召し上がるインマヌエルが召し上がる蜜です。しかし、もし私たちの言葉が苦味、怒り、憤り、いらだち、汚い言葉、悪徳、争いに満ちているなら、救い主は私の口に苦い胆汁を入れ、救い主はそのような言葉を召し上がりません。しかし、人々の間にある言葉が蜜であるならば、救い主はその言葉を召し上がります。聖書からこのことを確認しましょう。「見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。だれかがわたしのために戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って行き、彼と共に食事をし、彼もわたしと共に食事をするであろう。」(黙示録3章20節)。ですから、主は私たちの中から私たちと共に食事をすると約束しておられ、私たちが主と共に食事をするならば、私たちも主と共に食事をすることは確実です。私たちの善い言葉、行い、理解を糧として、主は霊的で神聖な、より優れた糧を私たちに与えてくださいます。ですから、心の扉を開いて救い主をお迎えすることは祝福です。主のために蜜を用意し、主の晩餐を共にしましょう。主が私たちを天の御国にある父の盛大な晩餐へと導いてくださいますように。その御国はキリスト・イエスにあり、栄光と支配は世々限りなくキリストにあります。アーメン。 ===第3説教=== 七人の女性について 第11章。(1111) 1.七人の女性は非難を受け、その非難を取り除いてくれる人を求めてさまよっています。七人の女性自身は、その人のパンを食べ、その人の衣をまとうと約束しています。彼女たちは、その人のパンではなく、非難を取り除いてくれる人の名を必要としています。彼女たちは、自分が着ている人の衣を必要としていません。彼女たちは、人が与えることのできるものよりも良い衣を身につけています。人間の境遇では得られないほど豊かな食物を持っています。では、この七人の女性は誰であり、彼女たちの非難とは何なのか、考察する価値があります。七人の女性は一つです。なぜなら、彼女たちは神の霊だからです。そして、この一つが七つなのです。神の霊とは、知恵と理解の霊、助言と力の霊、知識と敬虔の霊、主を畏れる霊です(イザヤ書11章)。この知恵は、その内に湧き上がる多くの知恵によって非難を受けています。この真の理解は、偽りの理解から非難を受けています。この偉大な助言は、多くの善くない助言から非難されています。この徳は、徳ではないのに徳であると約束する者によって呪われています。この知識は、その名を僭称する偽りの名を持つある種の知識から非難を受けています。この敬虔さは、敬虔であると主張しながら不敬虔であり、悪人を教えるものから非難されています。この畏れは、畏れるべき者であるはずの者から非難を受けています。なぜなら、多くの人が神への畏れを約束しますが、知識をもって畏れていないからです。それでは、これら七つがどのように非難を受けているかを考えてみましょう。この世の知恵、この世の君主たちの知恵を見てください。彼らは私のキリストの知恵を非難し、真のユダヤ教の知恵を非難しています。私たちはその知恵によって霊的に割礼を受けていますが、彼らは断ち切られています。それゆえ、この世の知恵とこの世の支配者たちが知恵を呪う理由を理解しなさい。このため、七人の霊的な者たちの恥辱を取り除くために、女のように彼らと共にいる人が求められているのです。彼らの恥辱を取り除くことができる人はただ一人しかいません。この人は誰でしょうか。イエスは、肉によればエッサイの根から、肉によればダビデの種から生まれ、義化の霊によって力ある神の子となるよう、あらかじめ定められていました(ローマ1章)。 エッサイの根から一本の杖が生えた。その杖は、すべての被造物の初子ではなく、初めに神と共にあった方、すなわち神の言葉ではない。エッサイの根から生えた杖であり、肉によれば、その方に生まれたのである。エッサイの根から一本の杖が生え、その根から花が咲いた。花とは誰か、根とは何であるか。両者は一つであり、同じである。しかし、事情は異なる。もしあなたが罪人であるならば、あなたには花はなく、エッサイの根から生える花を見ることもないだろう。弟子が杖と花について語っているように、あなたにも杖が来る。杖について彼はこう言っている。「あなたがたは、私が杖を持ってあなたがたのところに来ることを望むのか。」しかし、花について彼はこう言っている。「それとも、神の愛と柔和な心をもって。」それゆえ、エッサイの根から、懲らしめを受ける者のための知恵の杖、叱責を受けるべき者のための杖、戒めを受けるべき者のための杖が生え出た。また、すでに教えを受け、厳しい懲らしめを必要とせず、ましてや懲らしめを必要とせず、すでに花を咲かせ、完全な実を結ぶことができる者のための花も生え出た。まず花が現れ、それから花が伸びて、実を結ぶ。エッサイの根から杖が生え、その根から花が咲き、七人の女がその上に宿り、主の霊、知恵と悟りの霊がその上に宿る。知恵の霊はモーセには宿らず、知恵の霊は契約の箱イエスにも宿らず、知恵の霊は預言者たち、イザヤにもエレミヤにも宿らなかった。 2. あなた方は、私が主イエス・キリストをあがめたいと願っているのに、私が冒涜しているかのように私を石打ちにしない。しかし、我慢して、言われたことをよく考えてみれば、霊が彼らの誰にも宿らなかったことがわかるだろう。(1113) 霊が彼らの誰にも来なかったのではなく、霊が誰にも宿らなかったのだ。霊はモーセに臨んだが、モーセは自分に臨んだ知恵の霊に従わなかった。「聞け、頑固な者たちよ。この岩からあなた方に水を出そうか」とモーセは言う。霊はすべての義人に臨み、イザヤにも臨んだが、彼は何と言っているか。「私は汚れた唇を持っている。汚れた唇を持つ民の中に住んでいる。」(イザヤ6章)。知恵の霊は火ばさみと火の後に臨み、汚れた唇を持つ者に臨んだが、彼は留まらなかった。彼は確かにそれを奉仕者として用いたが、彼は留まらなかった。彼は、自分が臨むすべての人を悩ませる。すべての人は罪を犯し、地上には善を行い罪を犯さない正しい人は一人もいない。汚れから清い者は一人もおらず、たとえ命が一日であっても、その月日は限られている。(ヨブ記15章) したがって、それは誰にもとどまりません。福音書からも、霊が多くの人に臨んだが、彼らのうちにとどまらなかったことが分かります。少し前に、「わたしの霊はこれらの人々のうちにとどまることはない」と読みました。「とどまらない」とは言わず、「とどまらない」とだけ言いました。ヨハネはただ一人、霊がとどまった人を見ました。そのしるしは、「霊が下ってその人のうちにとどまるのを見たら、その人は神の子である」というものでした。彼は確かに、霊と共に下る神の言葉によって奉仕しました。しかし、しばらくすると罪を犯し、しばらくすると無駄なことを言います。しかし、彼が罪を犯さずにとどまるかどうかは分かりません。霊が臨んでいるときに、罪を犯すことが許されると思いますか。したがって、聖書に書かれているとおり、神の霊は誰にもとどまりませんでした。「エッサイの根から一本の若枝が生え、その根から花が咲き、神の霊が彼の上にとどまった。知恵の霊、悟りの霊、助言と力の霊が。」このゆえに彼は偉大な助言の天使である。このゆえに彼は勝利し、ますます強くなり昇天した。力ある者たちは彼の昇天に驚嘆し、彼について言った。「これは主だ。戦いにおいて強く、力強い方だ。」それゆえ、私はさらに天の領域、すなわち彼の力へと昇天したと言う。そして助言と力の霊が彼の上に宿った。私の力と賛美は主であり、主は私の救いとなられた。それゆえ、神の霊が彼の上に宿った。知恵と理解の霊、助言と力の霊、知恵と敬虔の霊、そして主を畏れる霊が彼を満たした。 3. それゆえ、捕らえようとする女たちは、一人の男を七人で捕らえるであろう。そしてこれは前のことに依存しており、まず七人の女が一人の男を捕らえる時を知る必要がある。エルサレムの強者たちが屈服し、シオンの娘たちの胸飾りが露わになり、シオンが一人ぼっちになり、地に踏みにじられるとき、七人の女が一人の男にすがりつき、「私たちは自分のパンを食べ、自分の服を着ます。それでも、あなたの名は私たちの上に呼ばれるでしょう」と言うでしょう。そのとき、七人の女は、理解されている人、生まれ、身にまとった体に従って、私たちの主イエス・キリストである一人の男にすがりつき、真にすがりつくでしょう。七人の女が一人の男をつかみ、「私たちは自分のパンを食べます」と言うでしょう。多くの男が歩いているのに、女はだれもつかまず、だれも彼女たちを喜ばせることはありません。彼女たちが一人の男をつかむのは、男が不足しているからではなく、彼女たちが望むような男が稀だからではなく、そのような男を探し求めたからでもありません。彼女たちはただ一人の男を見つけ、彼をつかみ、「私たちは自分のパンを食べ、自分の服を着ます」と言うのです。知恵の食物、悟りの食物、その他の霊の食物があります。この食物とは何でしょうか。私は恐れずに言いますが、これら以外にも食物があります。おそらく、私の食物が神の言葉であるように、神はこう言われます。「わたしは天から下って来た生けるパンであり、世に命を与える者である」(ヨハネ6章)。知恵の食物は父ご自身です。ですから、私の食物は、私を遣わされた方の御旨を行い、その{{r|業|わざ}}を成し遂げることです(ヨハネ4章)。 また、知恵や理解、その他の霊が何かを必要としていると考えるべきではありません。なぜなら、それらは別の食物を持っているからです。神の本質は、全摂理の食物の一つだからです。私たちは自分のパンを食べ、自分の衣を着ます。知恵には、彼女を飾るある装飾品があります。知恵は言葉で飾られています。これらの女性たちはそれぞれ装飾品を持っています。しかし、あなたの名が私たちの上に呼ばれますように、私たちの恥辱を取り除いてください。知恵の名とは何ですか。イエスです。あなたの名が私たちの上に呼ばれるとはどういう意味ですか。私は知恵です。私はあなたの名で呼ばれたいのです。私が知恵イエスと呼ばれ、理解と偉大な助言と力と知識と敬虔と神への畏れがイエスと呼ばれ、あなたの名がすべてにおいてすべてとなるように。あなたの名が私たちの上に呼ばれますように、私たちの恥辱を取り除いてください。確かにイエスは恥辱を取り除いてくださいました。それゆえ、立ち上がって、この方を遣わされた神に祈りましょう。七人の女性の霊がこの方に宿り、この方が私たちにこれらの女性たちとの交わりを与えてくださいますように。そして、これらの女性たちを受け入れることによって、私たちが神と人において賢く、聡明になり、キリスト・イエスにおいて徳をもって魂を飾ることができますように。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。 ===第4説教=== 神とセラフィムの幻視について 第6章。(1115) 1. 神の始まりを見つけることは不可能です。あなたは決して神の起源の始まりを理解することはできません。私はあなたではなく、誰も、また存在する他の何物も理解できません。常に神と共にいる救い主と聖霊だけが神の御顔を見ます。そしておそらく、天におられる父の御顔を絶えず見ている天使たちも、物事の始まりを見ているのでしょう。そして、セラフィムもまた、人から足を隠すのです。終わりのことは、そのままでは語り尽くせないからです。聖書は「誰が終わりのことを告げられるだろうか」(イザヤ書41章)と言っています。私たちが見るもの(たとえ私たちがいくつかのものを見ていると認められたとしても)は中間的なものです。世界より前にあったものは、私たちは知りません。さらに、世界より前にあったものもありました。世界の後に何が起こるかは、私たちは確信を持って把握できません。しかし、世界の後には、他のものも存在するでしょう。それゆえ、こう書かれていること、すなわち「初めに神は天と地を創造された。地は形なく見えず、闇が淵の面を覆い、神の霊が水の面を覆っていた」(創世記1章)は理解できる。これらの水は清く、その中に神の霊が宿っていた。しかし、深淵を覆っていた闇は生まれてこなかったわけではない。どちらも無から創造されたからである。イザヤ書で主が言われるのを聞け。「わたしは光を形造り、闇を創造した神である」(イザヤ45章)。箴言で知恵が説くのを聞け。「わたしはすべての深淵より先に生まれた」(箴言8章)。これらは生まれてこなかったのではなく、いつ、どのように生まれたのかは知らない。神の最初の業はセラフィム、すなわち神の顔によって覆われている。足も同様である。世の終わりの後に起こることを、誰が幾世にもわたって説明できるだろうか。これらのことを知ると約束するのは、おしゃべりな人間である。人間は、中間のこと、そして世の終わりから審判の完成に至るまでの、罰と報復に関することしか理解できないことを知らないからである。また、これらのことの多くは私たちに隠されている。だからこそ、こう書かれているのだ。「彼らは顔を隠した」。しかし、彼らはただ覆っただけでなく、覆い隠した。つまり、覆ったので、前者の顔は少しも見えず、後者の足も少しも見えなかった。二人は逃げた。観想の道が開かれた。そして彼らは互いに叫び合った。一人が多くの人にではなく、一人が互いに。救い主によって告げられる神の聖さを、その尊厳にふさわしく聞くには、聖霊以外には誰もできない。また、聖霊によって告げられる神の聖さの中に住むには、救い主以外には誰もできない。そのため、彼らは互いに叫び合って言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」。彼らは一度や二度聖なるかなと叫ぶだけでは十分ではなく、三位一体の完全な数(イザヤ書6章)を唱え、父なる神の聖性、独り子なる神の聖性、聖霊という三つの聖性の繰り返しの交わりである、神の聖性の豊かさを顕現した。聖化する方と聖化される方は皆、一つの源から出ているからである(ヘブライ人への手紙2章)。 聖別する方は救い主です。それは、救い主が父なる神から聖さを受ける人であるからです。それゆえ、人々は言います。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神よ」。サバオトは(アキラが訳したように)万軍の主と解釈されます。 2. 全地は神の栄光に満ちています。かつては神殿が栄光に満ちていましたが、今はセラフィムによって地上にいる人々に預言されています。すなわち、わたしの神キリストの栄光が全地を満たすようになるということです。なぜなら、行いによって神をあがめるすべての人の中に神の栄光があり、それゆえ全地は神の栄光に満ちているからです。かつては全地が神の栄光に満ちていたのではなく、地の片隅がそうでした。「神はユダヤで知られ、イスラエルでその御名は偉大である」と言われた時です。御子を遣わし、全地が神の栄光に満ちるようにされた神に栄光あれ。しかし、祝福された人々の教会によって地が満ち溢れていても、彼らがどこにいようとも神の栄光であるのに、あなたがたが神の満ち溢れる栄光にあずからなければ、あなたがたに何の益があるでしょうか。ですから、あなたがたは、神の栄光を求め、それがあなたがたのうちに宿り、あなたがたの中に居場所を見つけ、あなたがたも、神の栄光がある全地とともに、神の栄光に満たされるように、あらゆることに労苦し、努力しなさい。神の栄光の満ち溢れは、私たち一人ひとりを通してどのように実現されるのでしょうか。もし私の行い、私の言葉が神の栄光のためになされるなら、私の言葉は満ち溢れ、私の行いは神の栄光となるのです。(1117)もし私の出入りが神の栄光のためであり、私の食べ物、私の飲み物、私のすべての行いが神の栄光のためになされるなら、私もまた、「地は神の栄光に満ちている」という言葉にあずかる者となるのです。こうして私がこれらすべてのことを成し遂げたとき、セラフィムの叫び声によって敷居が持ち上げられました。ですから、私たち一人ひとりが、理解によればキリスト・神である戸口と戸口の敷居にあずかることができるように働くことは幸いです。私は戸口を肉と呼び、敷居を言葉と呼ぶことが不適切だとは思いません。 3. 彼らの叫び声によって敷居が持ち上げられ、家は煙で満たされた。この煙は神の栄光からの贈り物である。そして私は言った。「ああ、私は惨めだ。私は滅びるのだ。」イザヤよ、幻を見る前に、自分が惨めであることを告白しないのか。彼はこうは言わない。「ホセアが生きている間は、自分が惨めだとは思いもよらなかった。しかし、幻を見たとき、らい病の王ホセアが死にかけているとき、私は自分が惨めであることを知り始め、こう言うのだ。『ああ、私は惨めだ』(歴代誌下26章)!今、私も主に向かって告白し、自分自身についてこう言う。『ああ、私は惨めだ!』イザヤが言うように。『ああ、私は惨めだ!』そして、この次に使徒もこう言う。『ああ、私は惨めな人間だ。誰がこの死の体から私を救い出してくれるだろうか(ローマ7章24節)』だから、私が惨めであることを告白するのは幸いである。もし私が謙遜になり、悔い改めて自分の罪を嘆き悲しむならば、神は私の祈りを聞き、救い主を与えてくださるでしょう。そして私は主イエス・キリストを通して神に感謝を捧げます(同書、25節)。しかし、心から「私は惨めだ」と言いましょう。各自、自分の苦しみと罪の原因を思い出し、祈りを捧げながら、告白するかのように思い出し、もはや行っていないかのように忘れ、こう言いましょう。「私は惨めだ、悔い改めている」。彼は幻を見る前、ホセアが死ぬ前には悔い改めていなかった。悔い改めを始めるとすぐに、「私は悔い改めている」と言う。内なる人に対して感覚のない人は罪人なので、悔い改めません。たとえ外なる体に針を刺されても、死体を感じないのと同じです。同じように、罪に苦しむ罪人に神の言葉をかけても、悔い改めなければ、悲しむことも悔い改めることも、告白を促す悲しみ、すなわち神にかなう悲しみもありません。しかし、救われたいと願う人が、自分を叱責し正す人の言葉を聞いたなら、すぐに「ああ、私は惨めな者だ」と言うでしょう。しかし、「私は惨めな者だ」と言うだけでは十分ではありません。「私は悔い改めます」と付け加えなければなりません。もっと悔い改めたいものです。悔い改めれば悔い改めるほど、罪の束縛は緩むからです。このため、アハブはあまり悔い改められなかったため、大きな益を得ることができませんでした(III Reg. 列王記下 21章)。実際、彼が悔い改められたのは一度だけでした。それゆえ、こう言われています。「あなたがたは、アハブがどのように悔い改められたかを見ました。しかし、悔い改めることをやめない人は、使徒と同じように言います。『私は神の教会を迫害したので、使徒と呼ばれるに値しません』(テモテへの手紙第一 1章)。また、『すべての聖徒の中で最も小さい私に、この恵みが与えられました』(ガラテヤ人への手紙 1章)。」 また、神は真実な方であり、イエス・キリストは罪人を救うために世に来られた。私はその罪人の中で最も罪深い者である(コリント第一 15章)。彼が深く悔い改め、一度ならず、書いたり話したり行動したりする時も常に悔い改めの念を抱いていたことが分かりますか。現代のイザヤも同様に、「ああ、私はなんと惨めな人間だろう。私は悔い改めます。なぜなら私は人間であり、汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ民の中に住んでいるからです」と言っています。また、イザヤの罪は行いではなく言葉にあったので、別の点にも注目しましょう。そのため彼は「私は人間であり、汚れた唇を持っているからです」と言っています。しかし、汚れた唇を持つ民もいました。民を非難し、彼らの罪は汚れた唇の罪よりも多いと言うのは、彼にはふさわしくありませんでした。 4. そして私は、万軍の主である王を自分の目で見た。もし私たちがまだ罪人であった時に神を思い、今預言者が言うように言うならば、神はなんと慈しみ深い方であろうか。神はなんと慈しみ深い方であろうか。なぜなら、神はこう言われるからである。「私は、なんと惨めな者であろうか」。私は彼が悔い改めるのを聞くからである。彼はこう言うからである。「私は悔い改めます」。彼は自分の罪を告白し、こう言ったからである。「私は人間であるが、汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ民の中に住んでいる」。そして、彼がまだ話している間に、私は言った。「見よ、ここに私がいます」。すると、セラフィムの一人が私のところに遣わされ、その手には炭を持っていた。かつて罪を犯した彼の唇が火の燃焼によって清められるように、炭が預言者のところに運ばれてきた。このセラフィムの一人とは誰であろうか。わが主イエス・キリストよ、この者は肉の摂理に従って遣わされ、手に炭を持って、「わたしは地上に火を投げつけるために来た」と言いました。 5. ああ、それがすでに燃えていたらどんなに良いでしょう。そして、セラフィムの一人がわたしに遣わされ、手に祭壇から火ばさみで取った炭を持っていました。火によって清められるのは、ただの偶然の預言者ではなく、神の祭壇から来る預言者です。祭壇の火によって清められていないなら、あなたがたと共にいる者がいます。その者について、「わたしから離れて、ゼブルンとその使いたちのために用意された永遠の火の中へ行け」と言われています。祭壇からそのような火はありません。すべての人が火に渡されますが、すべてが同じ火に渡されるわけではありません。ある者は祭壇からの火を待ち、ある者はゼブルンとその使いたちのために用意された火を待ちます。ですから、叱責の言葉が私たちの心と魂の唇に触れ、私たちも「それは私の口に触れた」と言えるようにしましょう。もし私が口を清めて、無駄なこと、愚かなこと、卑しいこと、悪口(すべてまとめて挙げるとすれば)など、禁じられていることを何も言わないようにするならば、こう言うことができます。「それは私の口に触れた」。さらに、私が汚れた唇を持ち、罪深い言葉のために汚れた物を身に着けている限り、祭壇の火は私の口に触れず、セラフィムの一人も私に遣わされません。 6. そして彼は言った。「見よ、わたしはあなたの唇に触れ、あなたの不義を取り除き、あなたの罪を清めた」。神の言葉が私たちを噛み、私たちの魂を焼き尽くしますように。聞いてこう言いましょう。「私たちの心は私たちの内側で燃えていなかったか」。私たちの不義と罪が取り除かれ、清い口、清い心、清い良心をもって清められるように、キリスト・イエスにおいて全能の神に感謝しましょう。栄光と支配が世々限りなく神にありますように。アーメン。 ===第5説教=== 「東から正義を掲げた方」と記されていること、そして別の形で再び幻について。 第6章(この説教はギリシャ語で非常に誤って翻訳されているため、語句ではなく意味と順序に従って翻訳する。)。(1119) 1. 預言者たちはキリストが生きている義であると言っています。私たちは、キリストが義であり、聖化であり、贖いであり、知恵である(コリント第一 1章)と言っているのは使徒だけの言葉だと思っていました。しかし、おそらく使徒も預言者たちから教えられて、義は生きていて生命を持っていることを知っていたのでしょう。この義とは何でしょうか。それは神の独り子です。しかし、キリストが生きていて生命を持つ義であるのは使徒からだけではなく、この奥義は預言者の言葉からも示されているのです。確かに、今朗読されている章からもそうです。「誰が義を東から起こし、それを自分の足元に呼んだのか」(イザヤ 6章)とあります。彼は義を呼びました。呼ばれると歩くのだから、義が生きていることは明らかです。しかし、父はキリストを呼びました。それは、私たちの救いのために、キリストが私たちのところへ来て、天から私たちのところへ降りてくるためでした。人の子以外に天に昇った者はいない。その子は天から下って来た。神は彼を東から召された。この感覚的な東からではなく、真の光の東から。それゆえ、こう書いてある。「誰が義を東から起こし、それを自分の足元に召されたのか」。父が子を召された。いや、正確に言えば、神が義を自分の足元に召された。すなわち、御子の受肉である。それゆえ、私たちは彼の足台を崇める。こう書いてあるとおりである。「彼の足台を拝め。それは聖なるものだから」。主の肉体は神性の栄誉を帯びる。しかし、レッスンの冒頭にはより深い説明が必要なので、至高の王に祈りましょう。呼び出された言葉が再び私たちのもとに戻ってきて、私たちの能力に応じて少し語ることができるように。 2. ウジヤ王が死んだ年に、私は主が高い玉座に座っておられるのを見た。そして、その家は主の栄光に満ちていた。そして、セラフィムが主の周りに立っていた。一方には六つの翼があり、他方にも六つの翼があった。二匹で主の顔を覆い、二匹で主の足を覆い、二匹で飛んで、互いに叫び合って言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神。地は主の栄光に満ちている。」そして、残りの部分。しかし、私たちもイザヤが見た幻を見ることができるように、見えない者に目を与えたイエスに祈りましょう。イエスは今すぐにでも来て、この講話で語られていることを私たちに目を開いて見させてくださるからです。私たちは、キリストの体を娼婦の体にせず、嘆き悲しむに値する行いをしないと約束しましょう。私たち一人ひとりが心の中でこれらのことを神に語り、イエスが今すぐに来られるように祈りましょう。イエスが来なければ、私たちはこれらのことを見ることができません。私は、セラフィムが私にも遣わされ、火ばさみで炭火をつかんで私の唇を清めてくださるように祈ります。私の唇とは何でしょうか。イザヤは聖なる人であったので、唇だけが清められました。なぜなら、彼は唇、つまり言葉で罪を犯したからです。しかし、私は自分の唇だけが汚れていると言えるような者ではありません。むしろ、汚れた心、汚れた目、汚れた耳、汚れた口を持っているのではないかと恐れています。これらすべてにおいて罪を犯す限り、私は完全に汚れています。もし私が女を見て情欲を抱くなら、私はすでに心の中で彼女と姦淫を犯したことになります。見よ、私の目は汚れています。もし私の胸から悪い思い、姦淫、淫行、偽証が出てくるなら、見よ、私の心は汚れています。平和を説き、良い知らせを説く者の足はなんと美しいことか(イザヤ書52章)!しかし、悪を追い求めて、足が汚れているのではないかと恐れています。主に向かって手を伸ばします。すると、主は顔を背けてこう言われるかもしれません。「あなたが手を伸ばすなら、わたしはあなたから顔を背ける」(イザヤ書1章19節)。それでは、誰がわたしを清めてくれるでしょうか。誰がわたしの足を洗ってくれるでしょうか。イエスよ、来てください。わたしの足は汚れています。わたしのためにしもべになってください。あなたの水をたらいに注ぎ、来て、わたしの足を洗ってください。わたしの言うことが軽率なことは分かっています。しかし、こう言う人の脅しが怖いのです。「わたしがあなたの足を洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もない」(ヨハネによる福音書13章)。 ですから、私の足を洗ってください。そうすれば、私もあなた方と交わることができます。しかし、私の足を洗うとはどういうことでしょうか。ペトロは、足を洗われる以外には何の必要もなかったのに、こう言ったかもしれません。彼は完全に清かったからです。むしろ、私は一度洗われたので、洗礼を受ける必要があります。彼は主にこう言いました。「私はもう一つの洗礼を授ける必要があります。」なぜ私たちはこれらのことを言ったのでしょうか。私は自分自身と、これを聞く人々を、より大きな奥義のために備えているのです。しかし、もし神の言葉が来るなら、もしそれが私たちに下るなら、私はそれが私から逃げ去り、私の祝福をも軽んじるのではないかと恐れています。神の言葉は、一人の罪人アカルのために、かつて民から逃げ去りました。私は言います、神の言葉は、一人の罪人、ユダ族のゼラの子ザンブリの子アカルのために民から逃げ去ったのです。彼は神に不従順であったため、呪われていました(ヨシュア記7章25節)。そして、復活徹夜祭のため、特にキリストの受難の記念日である日曜日には大勢の人々が集まっているので(主の復活は年に一度祝われるわけではなく、必ずしも七日後に祝われるわけでもない)、全能の神に祈り、神の言葉が私たちに届くように祈りなさい。たとえあなたがたが罪人であっても、主に祈りなさい。神は罪人の祈りを聞いてくださいます。しかし、福音書に書かれている「神は罪人の祈りを聞かない」という言葉を恐れるなら(ヨハネ9章13節)、恐れてはならず、信じてはなりません。これを言ったのは盲人でした。むしろ、言う方を信じなさい。偽りを言わない方です。たとえあなたがたの罪が緋のように赤くても、わたしはそれを羊の毛のように白くします(イザヤ1章18節)。また、「あなたがたが望み、わたしに聞き従うならば、地の恵みを食べなさい」(同19節)。もし今、耳を傾ける意思があるならば、主に向かって共に祈りましょう。少なくとも今、御言葉が下された時、私たちがその預言の言葉に耳を傾けることができるように。 3. イザヤはこう述べています。「ウジヤ王が亡くなった年に、私は主が高い玉座に座しておられるのを見た。」この幻は書き留められました。なぜ王の時代が象徴されているのでしょうか。幻がいつ起こったかを考えてみましょう。ウジヤ王が亡くなったとき、イザヤは万軍の主が高い玉座に座しておられるのを見ました。もし私たちの中にウジヤが誰で、何をしたかを知っている人がいるなら、預言者が霊によって何を教えたか、神の言葉が私たちに何を示しているかを知ることができます。「私はウジヤの生涯に行き、列王記と歴代誌からウジヤの歴史を調べます。そして、もしそれが実現するならば、万軍の主が高い玉座に座しておられるのを見ることが、私がウジヤ王として死ぬために必要であることが、そこでわかるでしょう」(歴代誌下 26章)。ダビデの子孫であるこのウジヤは、ゼカリヤが生きている間、ユダの民を治めていた。ゼカリヤは(歴代誌下巻にそう記されているように)主の目にかなうことを悟り、それを行った。そして、これに満足せず、主のために大きな灯明を作り、神殿を建て、彼の宗教には多くの徳があった。しかし、ゼカリヤが死ぬと、彼はそれを知りながら悪を行った。悪を行ったこの者は誰であろうか。彼は王であって祭司ではなかった。王の位階と祭司の位階は別である。彼は神殿に入り、祭司の地位を奪い、自分に許されていない仕事をしようとした。彼は祭司たちより先に神殿に入り、献酒の器を取った。その時、大祭司が八十人の祭司と共に神殿に入ってきた。大祭司は彼に言った。「あなたはウジヤではないか。祭司ではないのか。」彼は激しく抵抗し、額にらい病が発症した。彼は死んで投げ落とされ、神殿から出て行ったが、主が彼を連れ出された。それゆえ、彼は律法を破ったためにらい病患者となった。人は皆、罪の王国か義の王国のどちらかの支配下にある。もし罪が私を支配しているなら、私は力ずくで神殿に入ったイスラエルの王の一人である。もし私が自分の進歩の尺度に従って義人であり、正しいことを行い、神の前で堅く立っているなら、義が私を支配している。しかし、らい病患者が生きている間、イザヤの唇は汚れていた。悪人が生きている間、イザヤは万軍の主を見ることができなかった。(1123) 彼は邪悪な王の支配下にあったため、唇は汚れていた。彼はいつ神の幻を見始めたのか。オシアスが死んだ年である。神の意志があれば、他の多くの書物についても同様のことが言えるだろう。出エジプト記には、これと似たようなことが書かれています。「数日後、エジプトの王が死んだ。イスラエルの子らは嘆き、彼らの叫びは神に届いた。」(出エジプト記2章23節)。 ファラオが生きている間、イスラエルの子らはため息をつかず、さらに悪い境遇にあったため、うめき声​​をあげる自由さえなかった。王が生きていて、彼らに煉瓦と藁を作るように命じていたからである。ファラオが生きている間、彼らは神にため息をつかなかった。ファラオが死んだとき、彼らは涙で濡れた顔を上げることができた。邪悪な王は、ファラオ・ゼブルスが生きている間、私たちの胸の中に生きている。私たちは煉瓦と藁を作り、黙って涙を飲み込み、最初の悪行を行う。しかし、彼が死に、主なる神が私たちを訪れるとき、私たちは主にため息をつく。それゆえ、私たちの死ぬべき体の中にある罪の王国が死ぬように主に祈ろう。罪は死んだ、しかし私は再び生きている、と主は言われる。(ローマ7章9節)また、罪は再び生き、私は死んだ、とも言われる。(同10節)罪の王国を所有する者が死ぬと、ホセアよ、ファラオも死ぬ。邪悪な王が死ぬと、私は天に目を上げると、神はアブラハム、イサク、ヤコブのように私の声を聞いてくださる。そして私は万軍の主が、民が見たことのない高い玉座に座って統治しておられるのを見る。ウジヤはまだ死んでいなかった。私はこれとは反対の良いことに似たことを挟みたい。このウジヤは、ゼカリヤが生きている間は、賢明であったので、神の前に罪を犯さなかった。ゼカリヤが死ぬと、彼は民を治め、町を治めていた場所で主から離れ去った。昼も夜もこれらのことを読んで、主が「あなたは私の金をテーブルの上に置くべきだった」と言われるのを聞く。そして、わたしが来たら、利子をつけて請求したであろう(マタイ25章)。ハンカチで借りたミナを集めたり、お金を地面に投げ捨てたりするのではなく、人々に貸し与えよう。主の理性を信じるなら、利子をつけた貸し付けがどのように返済されるかが分かるだろう。どのように、など。アーメン。 :::[[イザヤの幻視に関する説教の翻訳#第1説教|先頭に戻る]] ==出典== *[https://la.wikisource.org/wiki/Patrologia_Latina/24 Patrologia_Latina/24] *底本: [https://la.wikisource.org/wiki/Translatio_homiliarum_in_visiones_Isaiae Translatio homiliarum in visiones Isaiae] 『イザヤの幻視に関する説教の翻訳』オリゲネス、J. P. Migne 1846 early modern edition. {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- ラテン語版 Wikisource, [[la:Translatio homiliarum in visiones Isaiae]] J. P. Migne 1846 early modern edition の第5説教までを翻訳 --> phsxrepoj1h8wgp4p24x5gah4lbfxw2 242086 242085 2026-05-03T05:36:13Z 村田ラジオ 14210 DEFAULTSORT 242086 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = イザヤの幻視に関する説教の翻訳 | section = Translatio homiliarum in visiones Isaiae | previous = | next = | year = | 年 = | override_author = [[s:en:Author:Origen|オリゲネス]](2-3世紀) | override_translator = [[s:la:Scriptor:Sophronius Eusebius Hieronymus|ヒエロニムス]] | override_editor = [[s:la:Scriptor:Iacobus Paulus Migne|J.P. ミーニュ]] | noauthor = | notes = *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:いさやのけんしにかんするせつきよう}} <!-- [[Category:キリスト教]]--> [[Category:教父]] [[Category:オリゲネス]] [[Category:聖書研究]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:パトロロギア・ラティナ]] }} オリゲネス、ストリドンのヒエロニムス ミーニュ・パトロロギア・ラティーナ 第24巻 ==イザヤの幻視に関する説教の翻訳== ===第1説教=== ウジヤ王が死んだ年に、わたしは主が玉座に着いておられるのを見た。 第6章。(1101) 1. ウジヤ王が生きている間、預言者イザヤは幻を見ることができませんでした。ウジヤは罪人であり、主の御前で悪を行い、神の律法の御心に反する行いをしていたからです。彼は神殿と至聖所に入り、そのために額にらい病がかかり、都から出ると汚れた者とみなされました。このように、私たちが神の幻を見るためには、魂の君主であるウジヤ王が死ななければなりません。「ウジヤ王が死んだ年に、わたしは主を見た」(イザヤ書6章1節)と書かれているのは、決して無駄ではありません。ウジヤ、すなわちファラオが生きている間は、私たちはエジプトの行いをしながらため息をつきません。しかし、彼が死ぬと、出エジプト記に記されているように、私たちはため息をつきます。ウジヤが生きている間は、私たちは神の栄光を見ません。しかし、彼が死ぬと、ウジヤが死ぬやいなや、私たちは神の栄光を見るのです。ただ、こうして「しかし、私は彼によって王とされた」(詩篇2篇6節)と言われた方の言葉が私たちのうちに支配し、怒りが支配しないようにするためです。確かに、罪の王もいます。使徒はこれを知って、「ですから、あなたがたの死ぬべき体において、罪が支配しないようにしてください」(ローマ6章12節)と言っています。罪に支配され、そのような王に身を委ね、神の王国を軽んじ、快楽に身を任せる人は、哀れです。ですから、快楽を愛する者は、神を愛する者ではありません。使徒によれば、ある人々についてこう言われています。「神よりも快楽を愛する者たち」(1テモテ3章)。確かに、このことは全くの不信仰者について言われているのではなく、心の中で神よりも快楽を愛する者、敬虔の形は持っているが、その力を否定する者について言われているのです。これはホセア王の死によるもので、預言者は王の死後、幻を見たと言っています。しかし、その幻とは何でしょうか。「私は主が高く上げられた玉座に座っておられるのを見た」など。神を見る者すべてが、神が高く上げられた玉座に座っておられるのを見るわけではありません。別の預言者が主を見て、玉座に座っておられるのを見たが、高く上げられたのではなかったことを私は知っています。聖書について論じたダニエルはこう言っています。「玉座が据えられた」(ダニエル7章9節)が、その玉座は高くありませんでした。そしてわたしは来て、ヨシャファトの谷で民を裁くために座るであろう。それゆえ、彼はこの谷に座り、この谷で、彼が断罪する者を裁くであろう。しかし、彼が高くそびえる玉座に座っているのを見るのはまた別のことである。ミカ書にはこうある。「神は出て行って降りて来られる」(ミカ書1章)。そして、ソドムを見るために、彼は降りて来られる。降りて来られるとき、彼は言う、「わたしのもとに来る者たちの叫びに従って、彼らが行ったかどうかを見よう」(創世記18章)。したがって、神は物事の尊厳に応じて、時には上に、時には下に見られる。それゆえ、わたしは主を見た、(1103)イザヤは言う、高くそびえる玉座に座っている主を。もしわたしが、ここにいる者たちの上に君臨する神を見るならば、高くそびえる玉座に座っている神を見ることはない。もしわたしが、天の力をもって君臨する神を見るならば、高くそびえる玉座に座っている神を見る。神は天の権威について何と言っているでしょうか。王座、主権、支配、権威は天の権威です。そして、もし私が御言葉の中で、主がどのようにそれらを支配しておられるかを見たとしたら、私は主が高くそびえ立つ王座に座っておられるのを見ました。そして、その栄光は御家に満ちていました。その王座は高く上げられ、その栄光は御家に満ちていました。私は、その家が地上にある主の栄光に満ちているとは思いません。地は主のものであり、その満ちるものも主のものです(詩篇24篇)。しかし、あなたがたは今、神の栄光の満ち溢れを見いだすことはないでしょう。しかし、もし誰かが神のために神殿を建てるならば、神の栄光が見られるでしょう。そして、もし彼が言われたことを守るならば、満ち溢れる家は神の栄光であることが見られるでしょう。しかし、私は、家の栄光がこのようにして成就されるかどうかは知りません。そして、レビ記において、この件に関する限り、神は寛大な方であり、続く祈祷文の中で、主の栄光が現れるために主が特定の事柄を行うよう命じられたと記されています。これらの事柄が行われなければ、神の栄光は決して現れません。しかし、私たちはそれらを読めば理解できます。 2. そして、セラフィムが彼の周りに立っていた。一方に六つの翼があり、もう一方に六つの翼があった。私は二人のセラフィムを見た。それぞれに六つの翼があった。それから翼の配置。そして、彼らは確かに二つの翼で顔を覆った。それは彼ら自身の顔ではなく、神の顔を。他の二つの翼で足を覆った。それは彼ら自身の足ではなく、神の足を。そして、他の二つの翼で彼らは飛んだ。書かれていることによれば、それは矛盾しているように思える。もし彼らが立っていたなら、飛ぶことはできない。しかし、こう書かれている。「二人のセラフィムが彼の周りに立っていた。一方に六つの翼があり、もう一方に六つの翼があり、彼らは確かに二つの翼で顔を覆い、二つの翼で足を覆い、二つの翼で飛び、互いに叫び合った。」しかし、神の周りにいるこれらのセラフィムは、知識によってのみ「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と言う。この理由で、彼らは三位一体の秘儀[あるいは mysterium]を守っている。彼ら自身が聖なる者だからである。なぜなら、この世のすべてにおいて、これらよりも聖なるものはないからである。そして彼らは互いに「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と軽々しく言うのではなく、すべての人に救いの告白を叫んで告げるのである。この二人のセラフィムとは何者か。私の主イエスと聖霊である。また、御名の役職が保たれているならば、三位一体の本質が矛盾しているとは思わない。彼らは神の顔を覆った。(1104)なぜなら、神の初めは知られていないからである。しかし、足も。なぜなら、私たちの神にある最後のものは理解されていないからである。中間部分しか見えないからである。これらの以前のことの前には、私は知らない。今あることから、私は神を理解する。これらのこれから来ることの後には、それがどのように来るのか、私は知らない。誰が彼に告げたのか。伝道の書は言った。「以前のことと、これから起こる後のことを私に告げよ。そうすれば、あなたがたは神々であると私が言おう」(伝道の書19章)。それゆえ、イザヤもこう言っている。「わたしたちに過去のことを告げよ。わたしたちは心を傾けて知ることができる。また、これから起こる後のことをわたしたちに示せ。将来起こることをわたしたちに告げよ。そうすれば、わたしたちはあなたがたを神々だと言うであろう。」(イザヤ書41章)このことから、もし誰かが過去について語り、未来について語ることができるならば、その人は神である。では、セラフィム以外に誰が「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と言えるだろうか。しかし、セラフィムはいわば神の一部、半分を覆い隠し、互いに叫び合い、神を助けて、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と言った。それゆえ、彼らは立ち、動き、神と共に立ち、動き、神を示している。彼らは顔を覆い、足を覆い、覆われたものは動かず、飛ぶものは覆われず、そしてこう言う。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神よ、全地は神の栄光に満ちている。」主イエス・キリストの来臨が告げられ、今や全地は主の栄光に満ちています。いや、確かにまだ満ち溢れてはいませんが、主ご自身が私たちに父なる神に祈るように命じられた祈りが成就するときに、それは成就するでしょう。「祈るときは、こう言いなさい。『天におられる私たちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が天でも地でも行われるように、地でも行われますように。』」(マタイ6章)。父の御心は今も天にあり、まだ地上では成就していません。イエスご自身が、身にまとわれた肉体の務めに従って、「神は私に天と地におけるすべての権威をお与えになった」(マタイ28章)と言われたとおりです。天で権威を持っておられた方が、地上でも権威を持っておられないでしょうか。また、ご自身のものとなられた方が、世から何かを受けるべきでしょうか。しかし、神が天で信じられたように、地上でも信じられるために、人となったキリストは、以前は持っていなかった権威を受けられました。そして、今に至るまで、地上のすべてに対して権威を持っておられるわけではありません。なぜなら、キリストはまだ罪を犯す者たちを支配してはおられないからです。しかし、これらの者たちに対する支配権もキリストに与えられ、すべてのものがキリストに従うようになるとき、キリストの力は完全になり、キリストはすべてのものを自分に従わせて歩まれるでしょう(コリント第一 15章)。 しかし、ある者たちはまだ神に服従することを望まず、なおも神の敵に服従している。さらにこう言おう。「わたしの魂は神に服従しないだろうか」(詩篇53篇)?わたしの救いは神にある。 3. 二人は飛び入り、一方が他方に言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神。全地は神の栄光に満ちている。」そして、彼らの叫び声によって敷居が持ち上げられた。それはイエス・キリストの声と聖霊の声であった。もし、叫ぶ私たちの中の誰かがイエス・キリストと聖霊の声を聞くならば、敷居は持ち上げられ、持ち上げられた時よりも高くなる。その時、「君主たちよ、門を上げよ。永遠の門よ、上げよ。栄光の王が入って来られる」(詩篇24篇)と言われた。 4. 家は煙で満たされた。火が消えた後、家は煙で満たされた。煙は火の蒸気である。そして私は言った。「ああ、私は惨めだ。私はただの人間で、唇が汚れているから、苦しんでいるのだ。」私はなぜイザヤが自分を低くしたのか理解できない。彼は真実を言っている。聖書は、彼の唇は彼の罪を取り除くために遣わされたセラフィムの一人によって清められたと証言している。しかし、セラフィムの一人は私の主イエス・キリストであり、父によって私たちの罪を取り除くために遣わされ、こう言われる。「見よ、わたしはあなたがたの不義を取り除き、あなたがたの罪を清めた。」また、御子が父によって遣わされたとしても、あなたはそれを自然に対する侮辱とは思わない。最後に、あなたがたが三位一体における神性の統一性を知ることができるように、このレッスンではキリストだけが罪を赦すが、それでも罪は三位一体によって赦されることは確かである。なぜなら、一人を信じる者は、すべてを信じるからである。それゆえ、天の祭壇から鉗子を持ってきて、私の唇に触れさせよ。主の鉗子が私の唇に触れたなら、それは私の唇を清めます。主は私の唇を清め、悪徳から割礼を施してくださったので、先ほど申し上げたように、私は神の言葉をもって口を開き、もはや私の口から汚れた言葉は出ません。なぜなら、私は人間であり、汚れた唇を持っていますが、汚れた唇を持つ民の中に住んでいるからです。遣わされたセラフィムは預言者の唇を清めましたが、民の唇は清めませんでした。預言者自身が、自分の唇が汚れていること、そして汚れた唇を持つ民の中に住んでいることを告白したからです。しかし、遣わされたこのセラフィムは、民の唇を清めるにふさわしいとは判断せず、そのため民は依然として不敬虔な行いをし、私の主イエス・キリストに抵抗し、汚れた唇で彼を呪っています。しかし、私はセラフィムが来られるとき、私の唇を清めてくださるように祈ります。 5. そして私は、万軍の主である王をこの目で見た。なぜ私たちは、ユダヤ人のある伝承を今ここで語らないのか。それは確かにありそうではあるが真実ではない。そしてなぜ私たちはその解決策を見つけないのか。人々は、イザヤが律法を破り、聖書の外を説いているかのように、民衆に追われたと言う。聖書にはこうある。「だれもわたしの顔を見て生きることはできない」(出エジプト記33章)。しかし彼は言う。「私は万軍の主を見た」。モーセは(彼らは言う)見なかったが、あなたは見た。そしてこの理由で彼らは彼に従い、彼を悪人として非難した。彼らは、セラフィムが二つの翼で神の顔を覆っていることを知らなかったからである。私は主を見たが、イザヤは主の顔を見なかったし、モーセも見なかった。モーセは後のことを見た(と書いてあるとおり)。それでも彼は主を見たが、その顔は見なかった。そしてここで彼は見たが、その顔は見なかった。それゆえ彼らは預言者をひどく非難した。そして私は万軍の主である王をこの目で見た。そしてセラフィムの一人が私のところに遣わされた。私の主イエス・キリストの到来は一度きりではなく、地上に降りてイザヤのもとに、モーセのもとに、民のもとに、そして預言者一人ひとりのもとに来られた。たとえ既に天に迎え入れられたとしても、再び来られることを恐れてはならない。しかし、肉体をも​​って現れる前にも人々のところに来られたので、証人として彼を受け入れ、こう非難し、こう言いなさい。「エルサレムよ、エルサレムよ、預言者を殺し、あなたに遣わされた者たちを石打ちにする者よ、わたしは何度あなたの子らを集めようと願ったことか」(マタイ23章11節)。 私が望む限り何度でも。彼は、「この到来の時以外はあなたたちを見たことがない」とは言わず、「私が望む限り何度でも」と言います。そして、預言者一人ひとりに目を向けて、こう言います。「わたしは、預言者を通して語ったキリストである。わたしは、『恐れるな』と言った。そして今、イエス・キリストが遣わされた。」彼は嘘をつきません。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる」(主は言われる)。彼は嘘をつきません。「わたしの名によって二、三人が集まる所には、わたしもその中にいる。」それゆえ、イエス・キリストはそこにいて、助けてくださり、大祭司として私たちの願いを父にささげる準備を整えておられるので、私たちも立ち上がって、彼を通して父にいけにえをささげましょう。彼は私たちの罪の贖いであり、彼には世々限りなく栄光と支配がありますように。アーメン。 ===第2説教=== 「見よ、処女が胎内に宿るであろう」などと書かれていることについて。 第7章。 (1107) 1. 前述のとおり、アハズは深淵や高所でしるしを求めるように命じられたとき、恥じ入って、求めない理由を述べました(イザヤ7章)。彼は「私は求めません。主を試そうとはしません」と言いました。しかし、彼はこの言葉で非難され、こう言われました。「ダビデの家よ、今聞け。人間と争うことはあなたたちにとって小さなことなのか。どうして主と争うのか。」そして、この約束が告げられました。「それゆえ、主ご自身があなたたちにしるしを与えられる。見よ、処女が胎内に宿り、男の子を産む。その子の名をインマヌエルと名付けよ。」これらのことを説明し、残りのことについては、神の恵みが現れる必要性と、それらに現れることを知るでしょう。彼はしるしを求めるように命じられましたが、それは単に自分のためではなく、自分のためにです。なぜなら、聖書にはこう書いてあるからです。「深淵や高所で、あなたの神、主からしるしを求めよ。」提案されたしるしは、私の主イエス・キリストです。これは、彼が深淵や高い所で自ら求めるように命じられているしるしです。確かに深淵では、降りてくるのは彼自身です。確かに高い所では、彼はすべての天の上に昇った方です。しかし、深淵と高い所で私に示されたこのしるし、私の主イエス・キリストは、その深遠と高さの奥義が私に知らされなければ、私には何の役にも立ちません。私が深淵と高い所からキリスト・イエスの奥義を受けるとき、私は主の命令に従ってしるしを受け、深淵と高い所を自分の中に持っているかのように、こう言われるでしょう。「あなたは心の中で、『誰が天に昇ったのか』と言ってはならない。これはキリストを下ろすためである。あるいは、『誰が深淵に下ったのか』と言ってはならない。これはキリストを死者の中から連れ戻すためである。」あなたの言葉はあなたの口と心の中で力強いのです(ローマ10章)。それゆえ、私たちは皆、このしるしを求めるように命じられています。主なる神が深淵と高みにおいて与えるしるしが、私たちにとって有益となるためです。しかし、もし誰かが知っていて、理性的な考察によって、深淵と高みにおいて語られていることが分離的に語られているのではないと認識するならば、それは両方が可能であることを意味するからです。(1108)深淵と高みにおいて、主からしるしを自分自身のために求めなさい。そして約束の中で、使徒はこう言いました。「私たちが深さ、高さ、長さ、幅を知ることができるように」(エフェソ3章)。 アハズは言った、「私は求めません」。彼は不信仰だった。彼は言った、「自分で求めなさい」。しかし、今日に至るまで人々はしるしを求めないので、しるしを得ず、私の主イエス・キリストを受け入れない人々は主に挑戦しているのです。それから、別の質問が続きます。彼は、「私は求めません。主を試しません」と言い、しるしを求めることを試練と考え、こう言いました。「ダビデの家よ、今聞け。あなたがたが人と争うことは小さなことなのか。どうして主と争うのか」。しかし、深いところに、あるいは高いところにしるしを求める者は、主と争っているのではなく、人と争っているとも思わない。神の戦いは、人が救われる方法だからである。だから、救いを求めて逃げる者は、主と争っているのではない。しかし、人を救うために主に争う者が救いから逃げ、主から遠く離れるならば、主に挑戦していることになる。それゆえ、主ご自身がしるしをあなたがたに与えるであろう。見よ、処女が身ごもり、男の子を産むであろう。その子の名をインマヌエルと名付けなさい(マタイ1章13節)。この預言者の例の真実は、「あなたがたは名付けるであろう」と言っている。マタイでは、「その子の名はインマヌエルと呼ばれるであろう」と書かれていることがわかっている。預言者について、これより少ないことをする必要があるとは言えない。しかし、福音書はどのようにしてこのように書かれているのだろうか。他の多くの福音書で行われたように、知性のない者が安易なことに走ったのか、それとも最初からそうであったのか、あるいは、福音書が公表されたと言う人がいるかもしれないので、よく考えてみるべきだ。預言者は確かに、「あなたがたはその子の名をインマヌエルと名付けるであろう」と明確に述べている。福音書の冒頭で、「あなたは彼の名をインマヌエルと名付けなさい」とある人が読んで、心の中でこう言ったことを私は知っています。「あなたは彼を何と呼ぶのか?誰が呼ぶのか?アハズだ。アハズは、何世代も後に来た救い主について、『あなたは彼の名をインマヌエルと名付けなさい』と聞くことができたのだろうか。あなたが呼ぶ名前で、彼は名付けられるのだ。」と書いてある。(1109)しかし、アハズに「あなたは彼の名をインマヌエルと名付けなさい」と言われたのではなく、ダビデの家に対してはっきりとこう言われたのである。「ダビデの家よ、今聞け。あなたがたが人と争うことは小さなことなのか。どうして主と争うのか。それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、処女が胎内に宿り、男の子を産む。あなたは彼の名をインマヌエルと名付けなさい。」しかし、この言葉の意味が理解できないときは、何もせず、安易な道に走らず、神の恵みが知識の光によって問題の解明をもたらしてくれるまで待ちましょう。あるいは、少なくとも神の恵みが、神が望む者を通して再び私たちを照らし、私たちがそれ以上求めることなく、問題が解決されるようにしましょう。しかし、理解していない事柄に軽率に踏み込むと、自らを苦しめることになります。では、ダビデの家とは何でしょうか。私が何度も証明してきたように、ダビデがキリストであるならば、私たちダビデの家は神の教会です。そして、教会である私たちには、前述の闘いを神に捧げるのではなく、主の御前でそのしるしを受けるようにと言われています。これらのことは、ダビデの家ではなく、私たちに言われているのです。そして、ダビデの家に属する者は誰でも、その名をインマヌエルと呼ぶと預言されています。キリストの到来の時、私たちの教会だけがキリストについて「神は私たちと共におられる」と言うからです。神の恵みによってこれらのことを説明してきたので、今度は他の奥義を探求しましょう。 2. 彼はバターと蜂蜜を食べるでしょう。キリストがバターと蜂蜜を食べることは、どのように預言されているのでしょうか。主の許しを得てこの点が説明されたとしても、次に続くことで、また別の疑問が生じるでしょう。そして、私たち全員が聖書に書かれているとおりに行いたいものです。「聖書を調べなさい!」聖書には、多くの肉体の食物が霊的な食物として挙げられています。生まれたばかりの赤子のように、純粋で純粋な乳を慕い求めなさい(ペテロ第一 2章2節)。 したがって、それは疑いなく良質なミルクであり、私たちはこの種のミルクを求めなければなりません。また、箴言には蜂蜜についてこう書かれています。「蜂蜜を見つけたら、必要な分だけ食べなさい。吐き出してしまうかもしれないから」(箴言25章16節)。聖霊は、私たちがもっと食べてしまうかもしれないという理由で、この既知の蜂蜜に注意を払っておられたのでしょうか。しかし、聖霊は確かに霊的な蜂蜜を感じ取って、「蜂蜜を見つけたら、必要な分だけ食べなさい」とおっしゃっています。しかし、聖霊はどのような感覚で、蜂蜜を見つけたら、蜂蜜は見つかるのだから、必要な分だけ食べるようにと私たちに命じられたのでしょうか。聖霊は、「蜂のところへ行って、蜂がどのように働くかを学びなさい」(箴言6章)とおっしゃっています。そして、預言者たちは蜂であることが分かります。実際、彼らは蜜蝋を発明して蜂蜜を作り、もし私が聞き手に言うのが適切であれば、彼らの蜜蜂の巣は彼らが残した書物です。そして私は喜んで聖書に近づき、蜂蜜を見つけました。しかし、蜂蜜を食べなさい。箴言にはまたこう書かれています。「蜜蜂の巣は良い。あなたの口を甘くするためである」(箴言24章13節)。聖霊が、使用済みの蜂蜜を食べなさい、それは良いものだと言っていると思いますか。私は、聖霊が私に肉体の蜂蜜について、蜂蜜を食べなさいと命じているとは言いません。見よ、私は蜂蜜を食べられない、あるいは少なくともそのような性質を持っていません。だからこそ、聖霊は私に、蜂蜜を食べなさい、肉は食べてはならない、しかし、わが子よ、蜂蜜を食べなさい、それは良いものだと言っているのです。もしあなたが預言者である蜂と、彼らの仕事である蜂蜜や巣を見れば、聖霊の尊厳に従って、わが子よ、蜂蜜を食べなさい、それは良いものだとどのように理解するか分かるでしょう。神の言葉を黙想し、聖書の言葉によって養われる者は、神の命令、すなわち「わが子よ、蜜を食べよ」という命令を実行しなさい。そして、その命令を実行する者は、それに続く「それは良いものだから」という言葉を得る。聖書に記されているこの蜜は良いものだからである。しかし、「蜂のところへ行け」という言葉は、このような意味である。蜂の上に立つ(いわば)一匹の蜂がいる。蜂の中に王と呼ばれる王がいるように、蜂の王は主イエス・キリストである。聖霊は私をこの方に遣わし、私が蜜を食べるようにする。蜜は良いものだから、またその蜜房は私の口を甘くするためである。そして、文字は蜜房よりも微妙かもしれないが、これらの文字で理解されるのは蜜である。さらに、処女インマヌエルから生まれたこの方は、バターと蜜を食べ、私たち一人ひとりからバターを食べようと望んでおられる。この説教では、主が私たち一人ひとりからいかにバターと蜜を求めているかを教えるでしょう。私たちの甘い行い、最も心地よく有益な言葉は、処女から生まれたこの方が召し上がるインマヌエルが召し上がる蜜です。しかし、もし私たちの言葉が苦味、怒り、憤り、いらだち、汚い言葉、悪徳、争いに満ちているなら、救い主は私の口に苦い胆汁を入れ、救い主はそのような言葉を召し上がりません。しかし、人々の間にある言葉が蜜であるならば、救い主はその言葉を召し上がります。聖書からこのことを確認しましょう。「見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。だれかがわたしのために戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って行き、彼と共に食事をし、彼もわたしと共に食事をするであろう。」(黙示録3章20節)。ですから、主は私たちの中から私たちと共に食事をすると約束しておられ、私たちが主と共に食事をするならば、私たちも主と共に食事をすることは確実です。私たちの善い言葉、行い、理解を糧として、主は霊的で神聖な、より優れた糧を私たちに与えてくださいます。ですから、心の扉を開いて救い主をお迎えすることは祝福です。主のために蜜を用意し、主の晩餐を共にしましょう。主が私たちを天の御国にある父の盛大な晩餐へと導いてくださいますように。その御国はキリスト・イエスにあり、栄光と支配は世々限りなくキリストにあります。アーメン。 ===第3説教=== 七人の女性について 第11章。(1111) 1.七人の女性は非難を受け、その非難を取り除いてくれる人を求めてさまよっています。七人の女性自身は、その人のパンを食べ、その人の衣をまとうと約束しています。彼女たちは、その人のパンではなく、非難を取り除いてくれる人の名を必要としています。彼女たちは、自分が着ている人の衣を必要としていません。彼女たちは、人が与えることのできるものよりも良い衣を身につけています。人間の境遇では得られないほど豊かな食物を持っています。では、この七人の女性は誰であり、彼女たちの非難とは何なのか、考察する価値があります。七人の女性は一つです。なぜなら、彼女たちは神の霊だからです。そして、この一つが七つなのです。神の霊とは、知恵と理解の霊、助言と力の霊、知識と敬虔の霊、主を畏れる霊です(イザヤ書11章)。この知恵は、その内に湧き上がる多くの知恵によって非難を受けています。この真の理解は、偽りの理解から非難を受けています。この偉大な助言は、多くの善くない助言から非難されています。この徳は、徳ではないのに徳であると約束する者によって呪われています。この知識は、その名を僭称する偽りの名を持つある種の知識から非難を受けています。この敬虔さは、敬虔であると主張しながら不敬虔であり、悪人を教えるものから非難されています。この畏れは、畏れるべき者であるはずの者から非難を受けています。なぜなら、多くの人が神への畏れを約束しますが、知識をもって畏れていないからです。それでは、これら七つがどのように非難を受けているかを考えてみましょう。この世の知恵、この世の君主たちの知恵を見てください。彼らは私のキリストの知恵を非難し、真のユダヤ教の知恵を非難しています。私たちはその知恵によって霊的に割礼を受けていますが、彼らは断ち切られています。それゆえ、この世の知恵とこの世の支配者たちが知恵を呪う理由を理解しなさい。このため、七人の霊的な者たちの恥辱を取り除くために、女のように彼らと共にいる人が求められているのです。彼らの恥辱を取り除くことができる人はただ一人しかいません。この人は誰でしょうか。イエスは、肉によればエッサイの根から、肉によればダビデの種から生まれ、義化の霊によって力ある神の子となるよう、あらかじめ定められていました(ローマ1章)。 エッサイの根から一本の杖が生えた。その杖は、すべての被造物の初子ではなく、初めに神と共にあった方、すなわち神の言葉ではない。エッサイの根から生えた杖であり、肉によれば、その方に生まれたのである。エッサイの根から一本の杖が生え、その根から花が咲いた。花とは誰か、根とは何であるか。両者は一つであり、同じである。しかし、事情は異なる。もしあなたが罪人であるならば、あなたには花はなく、エッサイの根から生える花を見ることもないだろう。弟子が杖と花について語っているように、あなたにも杖が来る。杖について彼はこう言っている。「あなたがたは、私が杖を持ってあなたがたのところに来ることを望むのか。」しかし、花について彼はこう言っている。「それとも、神の愛と柔和な心をもって。」それゆえ、エッサイの根から、懲らしめを受ける者のための知恵の杖、叱責を受けるべき者のための杖、戒めを受けるべき者のための杖が生え出た。また、すでに教えを受け、厳しい懲らしめを必要とせず、ましてや懲らしめを必要とせず、すでに花を咲かせ、完全な実を結ぶことができる者のための花も生え出た。まず花が現れ、それから花が伸びて、実を結ぶ。エッサイの根から杖が生え、その根から花が咲き、七人の女がその上に宿り、主の霊、知恵と悟りの霊がその上に宿る。知恵の霊はモーセには宿らず、知恵の霊は契約の箱イエスにも宿らず、知恵の霊は預言者たち、イザヤにもエレミヤにも宿らなかった。 2. あなた方は、私が主イエス・キリストをあがめたいと願っているのに、私が冒涜しているかのように私を石打ちにしない。しかし、我慢して、言われたことをよく考えてみれば、霊が彼らの誰にも宿らなかったことがわかるだろう。(1113) 霊が彼らの誰にも来なかったのではなく、霊が誰にも宿らなかったのだ。霊はモーセに臨んだが、モーセは自分に臨んだ知恵の霊に従わなかった。「聞け、頑固な者たちよ。この岩からあなた方に水を出そうか」とモーセは言う。霊はすべての義人に臨み、イザヤにも臨んだが、彼は何と言っているか。「私は汚れた唇を持っている。汚れた唇を持つ民の中に住んでいる。」(イザヤ6章)。知恵の霊は火ばさみと火の後に臨み、汚れた唇を持つ者に臨んだが、彼は留まらなかった。彼は確かにそれを奉仕者として用いたが、彼は留まらなかった。彼は、自分が臨むすべての人を悩ませる。すべての人は罪を犯し、地上には善を行い罪を犯さない正しい人は一人もいない。汚れから清い者は一人もおらず、たとえ命が一日であっても、その月日は限られている。(ヨブ記15章) したがって、それは誰にもとどまりません。福音書からも、霊が多くの人に臨んだが、彼らのうちにとどまらなかったことが分かります。少し前に、「わたしの霊はこれらの人々のうちにとどまることはない」と読みました。「とどまらない」とは言わず、「とどまらない」とだけ言いました。ヨハネはただ一人、霊がとどまった人を見ました。そのしるしは、「霊が下ってその人のうちにとどまるのを見たら、その人は神の子である」というものでした。彼は確かに、霊と共に下る神の言葉によって奉仕しました。しかし、しばらくすると罪を犯し、しばらくすると無駄なことを言います。しかし、彼が罪を犯さずにとどまるかどうかは分かりません。霊が臨んでいるときに、罪を犯すことが許されると思いますか。したがって、聖書に書かれているとおり、神の霊は誰にもとどまりませんでした。「エッサイの根から一本の若枝が生え、その根から花が咲き、神の霊が彼の上にとどまった。知恵の霊、悟りの霊、助言と力の霊が。」このゆえに彼は偉大な助言の天使である。このゆえに彼は勝利し、ますます強くなり昇天した。力ある者たちは彼の昇天に驚嘆し、彼について言った。「これは主だ。戦いにおいて強く、力強い方だ。」それゆえ、私はさらに天の領域、すなわち彼の力へと昇天したと言う。そして助言と力の霊が彼の上に宿った。私の力と賛美は主であり、主は私の救いとなられた。それゆえ、神の霊が彼の上に宿った。知恵と理解の霊、助言と力の霊、知恵と敬虔の霊、そして主を畏れる霊が彼を満たした。 3. それゆえ、捕らえようとする女たちは、一人の男を七人で捕らえるであろう。そしてこれは前のことに依存しており、まず七人の女が一人の男を捕らえる時を知る必要がある。エルサレムの強者たちが屈服し、シオンの娘たちの胸飾りが露わになり、シオンが一人ぼっちになり、地に踏みにじられるとき、七人の女が一人の男にすがりつき、「私たちは自分のパンを食べ、自分の服を着ます。それでも、あなたの名は私たちの上に呼ばれるでしょう」と言うでしょう。そのとき、七人の女は、理解されている人、生まれ、身にまとった体に従って、私たちの主イエス・キリストである一人の男にすがりつき、真にすがりつくでしょう。七人の女が一人の男をつかみ、「私たちは自分のパンを食べます」と言うでしょう。多くの男が歩いているのに、女はだれもつかまず、だれも彼女たちを喜ばせることはありません。彼女たちが一人の男をつかむのは、男が不足しているからではなく、彼女たちが望むような男が稀だからではなく、そのような男を探し求めたからでもありません。彼女たちはただ一人の男を見つけ、彼をつかみ、「私たちは自分のパンを食べ、自分の服を着ます」と言うのです。知恵の食物、悟りの食物、その他の霊の食物があります。この食物とは何でしょうか。私は恐れずに言いますが、これら以外にも食物があります。おそらく、私の食物が神の言葉であるように、神はこう言われます。「わたしは天から下って来た生けるパンであり、世に命を与える者である」(ヨハネ6章)。知恵の食物は父ご自身です。ですから、私の食物は、私を遣わされた方の御旨を行い、その{{r|業|わざ}}を成し遂げることです(ヨハネ4章)。 また、知恵や理解、その他の霊が何かを必要としていると考えるべきではありません。なぜなら、それらは別の食物を持っているからです。神の本質は、全摂理の食物の一つだからです。私たちは自分のパンを食べ、自分の衣を着ます。知恵には、彼女を飾るある装飾品があります。知恵は言葉で飾られています。これらの女性たちはそれぞれ装飾品を持っています。しかし、あなたの名が私たちの上に呼ばれますように、私たちの恥辱を取り除いてください。知恵の名とは何ですか。イエスです。あなたの名が私たちの上に呼ばれるとはどういう意味ですか。私は知恵です。私はあなたの名で呼ばれたいのです。私が知恵イエスと呼ばれ、理解と偉大な助言と力と知識と敬虔と神への畏れがイエスと呼ばれ、あなたの名がすべてにおいてすべてとなるように。あなたの名が私たちの上に呼ばれますように、私たちの恥辱を取り除いてください。確かにイエスは恥辱を取り除いてくださいました。それゆえ、立ち上がって、この方を遣わされた神に祈りましょう。七人の女性の霊がこの方に宿り、この方が私たちにこれらの女性たちとの交わりを与えてくださいますように。そして、これらの女性たちを受け入れることによって、私たちが神と人において賢く、聡明になり、キリスト・イエスにおいて徳をもって魂を飾ることができますように。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。 ===第4説教=== 神とセラフィムの幻視について 第6章。(1115) 1. 神の始まりを見つけることは不可能です。あなたは決して神の起源の始まりを理解することはできません。私はあなたではなく、誰も、また存在する他の何物も理解できません。常に神と共にいる救い主と聖霊だけが神の御顔を見ます。そしておそらく、天におられる父の御顔を絶えず見ている天使たちも、物事の始まりを見ているのでしょう。そして、セラフィムもまた、人から足を隠すのです。終わりのことは、そのままでは語り尽くせないからです。聖書は「誰が終わりのことを告げられるだろうか」(イザヤ書41章)と言っています。私たちが見るもの(たとえ私たちがいくつかのものを見ていると認められたとしても)は中間的なものです。世界より前にあったものは、私たちは知りません。さらに、世界より前にあったものもありました。世界の後に何が起こるかは、私たちは確信を持って把握できません。しかし、世界の後には、他のものも存在するでしょう。それゆえ、こう書かれていること、すなわち「初めに神は天と地を創造された。地は形なく見えず、闇が淵の面を覆い、神の霊が水の面を覆っていた」(創世記1章)は理解できる。これらの水は清く、その中に神の霊が宿っていた。しかし、深淵を覆っていた闇は生まれてこなかったわけではない。どちらも無から創造されたからである。イザヤ書で主が言われるのを聞け。「わたしは光を形造り、闇を創造した神である」(イザヤ45章)。箴言で知恵が説くのを聞け。「わたしはすべての深淵より先に生まれた」(箴言8章)。これらは生まれてこなかったのではなく、いつ、どのように生まれたのかは知らない。神の最初の業はセラフィム、すなわち神の顔によって覆われている。足も同様である。世の終わりの後に起こることを、誰が幾世にもわたって説明できるだろうか。これらのことを知ると約束するのは、おしゃべりな人間である。人間は、中間のこと、そして世の終わりから審判の完成に至るまでの、罰と報復に関することしか理解できないことを知らないからである。また、これらのことの多くは私たちに隠されている。だからこそ、こう書かれているのだ。「彼らは顔を隠した」。しかし、彼らはただ覆っただけでなく、覆い隠した。つまり、覆ったので、前者の顔は少しも見えず、後者の足も少しも見えなかった。二人は逃げた。観想の道が開かれた。そして彼らは互いに叫び合った。一人が多くの人にではなく、一人が互いに。救い主によって告げられる神の聖さを、その尊厳にふさわしく聞くには、聖霊以外には誰もできない。また、聖霊によって告げられる神の聖さの中に住むには、救い主以外には誰もできない。そのため、彼らは互いに叫び合って言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」。彼らは一度や二度聖なるかなと叫ぶだけでは十分ではなく、三位一体の完全な数(イザヤ書6章)を唱え、父なる神の聖性、独り子なる神の聖性、聖霊という三つの聖性の繰り返しの交わりである、神の聖性の豊かさを顕現した。聖化する方と聖化される方は皆、一つの源から出ているからである(ヘブライ人への手紙2章)。 聖別する方は救い主です。それは、救い主が父なる神から聖さを受ける人であるからです。それゆえ、人々は言います。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神よ」。サバオトは(アキラが訳したように)万軍の主と解釈されます。 2. 全地は神の栄光に満ちています。かつては神殿が栄光に満ちていましたが、今はセラフィムによって地上にいる人々に預言されています。すなわち、わたしの神キリストの栄光が全地を満たすようになるということです。なぜなら、行いによって神をあがめるすべての人の中に神の栄光があり、それゆえ全地は神の栄光に満ちているからです。かつては全地が神の栄光に満ちていたのではなく、地の片隅がそうでした。「神はユダヤで知られ、イスラエルでその御名は偉大である」と言われた時です。御子を遣わし、全地が神の栄光に満ちるようにされた神に栄光あれ。しかし、祝福された人々の教会によって地が満ち溢れていても、彼らがどこにいようとも神の栄光であるのに、あなたがたが神の満ち溢れる栄光にあずからなければ、あなたがたに何の益があるでしょうか。ですから、あなたがたは、神の栄光を求め、それがあなたがたのうちに宿り、あなたがたの中に居場所を見つけ、あなたがたも、神の栄光がある全地とともに、神の栄光に満たされるように、あらゆることに労苦し、努力しなさい。神の栄光の満ち溢れは、私たち一人ひとりを通してどのように実現されるのでしょうか。もし私の行い、私の言葉が神の栄光のためになされるなら、私の言葉は満ち溢れ、私の行いは神の栄光となるのです。(1117)もし私の出入りが神の栄光のためであり、私の食べ物、私の飲み物、私のすべての行いが神の栄光のためになされるなら、私もまた、「地は神の栄光に満ちている」という言葉にあずかる者となるのです。こうして私がこれらすべてのことを成し遂げたとき、セラフィムの叫び声によって敷居が持ち上げられました。ですから、私たち一人ひとりが、理解によればキリスト・神である戸口と戸口の敷居にあずかることができるように働くことは幸いです。私は戸口を肉と呼び、敷居を言葉と呼ぶことが不適切だとは思いません。 3. 彼らの叫び声によって敷居が持ち上げられ、家は煙で満たされた。この煙は神の栄光からの贈り物である。そして私は言った。「ああ、私は惨めだ。私は滅びるのだ。」イザヤよ、幻を見る前に、自分が惨めであることを告白しないのか。彼はこうは言わない。「ホセアが生きている間は、自分が惨めだとは思いもよらなかった。しかし、幻を見たとき、らい病の王ホセアが死にかけているとき、私は自分が惨めであることを知り始め、こう言うのだ。『ああ、私は惨めだ』(歴代誌下26章)!今、私も主に向かって告白し、自分自身についてこう言う。『ああ、私は惨めだ!』イザヤが言うように。『ああ、私は惨めだ!』そして、この次に使徒もこう言う。『ああ、私は惨めな人間だ。誰がこの死の体から私を救い出してくれるだろうか(ローマ7章24節)』だから、私が惨めであることを告白するのは幸いである。もし私が謙遜になり、悔い改めて自分の罪を嘆き悲しむならば、神は私の祈りを聞き、救い主を与えてくださるでしょう。そして私は主イエス・キリストを通して神に感謝を捧げます(同書、25節)。しかし、心から「私は惨めだ」と言いましょう。各自、自分の苦しみと罪の原因を思い出し、祈りを捧げながら、告白するかのように思い出し、もはや行っていないかのように忘れ、こう言いましょう。「私は惨めだ、悔い改めている」。彼は幻を見る前、ホセアが死ぬ前には悔い改めていなかった。悔い改めを始めるとすぐに、「私は悔い改めている」と言う。内なる人に対して感覚のない人は罪人なので、悔い改めません。たとえ外なる体に針を刺されても、死体を感じないのと同じです。同じように、罪に苦しむ罪人に神の言葉をかけても、悔い改めなければ、悲しむことも悔い改めることも、告白を促す悲しみ、すなわち神にかなう悲しみもありません。しかし、救われたいと願う人が、自分を叱責し正す人の言葉を聞いたなら、すぐに「ああ、私は惨めな者だ」と言うでしょう。しかし、「私は惨めな者だ」と言うだけでは十分ではありません。「私は悔い改めます」と付け加えなければなりません。もっと悔い改めたいものです。悔い改めれば悔い改めるほど、罪の束縛は緩むからです。このため、アハブはあまり悔い改められなかったため、大きな益を得ることができませんでした(III Reg. 列王記下 21章)。実際、彼が悔い改められたのは一度だけでした。それゆえ、こう言われています。「あなたがたは、アハブがどのように悔い改められたかを見ました。しかし、悔い改めることをやめない人は、使徒と同じように言います。『私は神の教会を迫害したので、使徒と呼ばれるに値しません』(テモテへの手紙第一 1章)。また、『すべての聖徒の中で最も小さい私に、この恵みが与えられました』(ガラテヤ人への手紙 1章)。」 また、神は真実な方であり、イエス・キリストは罪人を救うために世に来られた。私はその罪人の中で最も罪深い者である(コリント第一 15章)。彼が深く悔い改め、一度ならず、書いたり話したり行動したりする時も常に悔い改めの念を抱いていたことが分かりますか。現代のイザヤも同様に、「ああ、私はなんと惨めな人間だろう。私は悔い改めます。なぜなら私は人間であり、汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ民の中に住んでいるからです」と言っています。また、イザヤの罪は行いではなく言葉にあったので、別の点にも注目しましょう。そのため彼は「私は人間であり、汚れた唇を持っているからです」と言っています。しかし、汚れた唇を持つ民もいました。民を非難し、彼らの罪は汚れた唇の罪よりも多いと言うのは、彼にはふさわしくありませんでした。 4. そして私は、万軍の主である王を自分の目で見た。もし私たちがまだ罪人であった時に神を思い、今預言者が言うように言うならば、神はなんと慈しみ深い方であろうか。神はなんと慈しみ深い方であろうか。なぜなら、神はこう言われるからである。「私は、なんと惨めな者であろうか」。私は彼が悔い改めるのを聞くからである。彼はこう言うからである。「私は悔い改めます」。彼は自分の罪を告白し、こう言ったからである。「私は人間であるが、汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ民の中に住んでいる」。そして、彼がまだ話している間に、私は言った。「見よ、ここに私がいます」。すると、セラフィムの一人が私のところに遣わされ、その手には炭を持っていた。かつて罪を犯した彼の唇が火の燃焼によって清められるように、炭が預言者のところに運ばれてきた。このセラフィムの一人とは誰であろうか。わが主イエス・キリストよ、この者は肉の摂理に従って遣わされ、手に炭を持って、「わたしは地上に火を投げつけるために来た」と言いました。 5. ああ、それがすでに燃えていたらどんなに良いでしょう。そして、セラフィムの一人がわたしに遣わされ、手に祭壇から火ばさみで取った炭を持っていました。火によって清められるのは、ただの偶然の預言者ではなく、神の祭壇から来る預言者です。祭壇の火によって清められていないなら、あなたがたと共にいる者がいます。その者について、「わたしから離れて、ゼブルンとその使いたちのために用意された永遠の火の中へ行け」と言われています。祭壇からそのような火はありません。すべての人が火に渡されますが、すべてが同じ火に渡されるわけではありません。ある者は祭壇からの火を待ち、ある者はゼブルンとその使いたちのために用意された火を待ちます。ですから、叱責の言葉が私たちの心と魂の唇に触れ、私たちも「それは私の口に触れた」と言えるようにしましょう。もし私が口を清めて、無駄なこと、愚かなこと、卑しいこと、悪口(すべてまとめて挙げるとすれば)など、禁じられていることを何も言わないようにするならば、こう言うことができます。「それは私の口に触れた」。さらに、私が汚れた唇を持ち、罪深い言葉のために汚れた物を身に着けている限り、祭壇の火は私の口に触れず、セラフィムの一人も私に遣わされません。 6. そして彼は言った。「見よ、わたしはあなたの唇に触れ、あなたの不義を取り除き、あなたの罪を清めた」。神の言葉が私たちを噛み、私たちの魂を焼き尽くしますように。聞いてこう言いましょう。「私たちの心は私たちの内側で燃えていなかったか」。私たちの不義と罪が取り除かれ、清い口、清い心、清い良心をもって清められるように、キリスト・イエスにおいて全能の神に感謝しましょう。栄光と支配が世々限りなく神にありますように。アーメン。 ===第5説教=== 「東から正義を掲げた方」と記されていること、そして別の形で再び幻について。 第6章(この説教はギリシャ語で非常に誤って翻訳されているため、語句ではなく意味と順序に従って翻訳する。)。(1119) 1. 預言者たちはキリストが生きている義であると言っています。私たちは、キリストが義であり、聖化であり、贖いであり、知恵である(コリント第一 1章)と言っているのは使徒だけの言葉だと思っていました。しかし、おそらく使徒も預言者たちから教えられて、義は生きていて生命を持っていることを知っていたのでしょう。この義とは何でしょうか。それは神の独り子です。しかし、キリストが生きていて生命を持つ義であるのは使徒からだけではなく、この奥義は預言者の言葉からも示されているのです。確かに、今朗読されている章からもそうです。「誰が義を東から起こし、それを自分の足元に呼んだのか」(イザヤ 6章)とあります。彼は義を呼びました。呼ばれると歩くのだから、義が生きていることは明らかです。しかし、父はキリストを呼びました。それは、私たちの救いのために、キリストが私たちのところへ来て、天から私たちのところへ降りてくるためでした。人の子以外に天に昇った者はいない。その子は天から下って来た。神は彼を東から召された。この感覚的な東からではなく、真の光の東から。それゆえ、こう書いてある。「誰が義を東から起こし、それを自分の足元に召されたのか」。父が子を召された。いや、正確に言えば、神が義を自分の足元に召された。すなわち、御子の受肉である。それゆえ、私たちは彼の足台を崇める。こう書いてあるとおりである。「彼の足台を拝め。それは聖なるものだから」。主の肉体は神性の栄誉を帯びる。しかし、レッスンの冒頭にはより深い説明が必要なので、至高の王に祈りましょう。呼び出された言葉が再び私たちのもとに戻ってきて、私たちの能力に応じて少し語ることができるように。 2. ウジヤ王が死んだ年に、私は主が高い玉座に座っておられるのを見た。そして、その家は主の栄光に満ちていた。そして、セラフィムが主の周りに立っていた。一方には六つの翼があり、他方にも六つの翼があった。二匹で主の顔を覆い、二匹で主の足を覆い、二匹で飛んで、互いに叫び合って言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神。地は主の栄光に満ちている。」そして、残りの部分。しかし、私たちもイザヤが見た幻を見ることができるように、見えない者に目を与えたイエスに祈りましょう。イエスは今すぐにでも来て、この講話で語られていることを私たちに目を開いて見させてくださるからです。私たちは、キリストの体を娼婦の体にせず、嘆き悲しむに値する行いをしないと約束しましょう。私たち一人ひとりが心の中でこれらのことを神に語り、イエスが今すぐに来られるように祈りましょう。イエスが来なければ、私たちはこれらのことを見ることができません。私は、セラフィムが私にも遣わされ、火ばさみで炭火をつかんで私の唇を清めてくださるように祈ります。私の唇とは何でしょうか。イザヤは聖なる人であったので、唇だけが清められました。なぜなら、彼は唇、つまり言葉で罪を犯したからです。しかし、私は自分の唇だけが汚れていると言えるような者ではありません。むしろ、汚れた心、汚れた目、汚れた耳、汚れた口を持っているのではないかと恐れています。これらすべてにおいて罪を犯す限り、私は完全に汚れています。もし私が女を見て情欲を抱くなら、私はすでに心の中で彼女と姦淫を犯したことになります。見よ、私の目は汚れています。もし私の胸から悪い思い、姦淫、淫行、偽証が出てくるなら、見よ、私の心は汚れています。平和を説き、良い知らせを説く者の足はなんと美しいことか(イザヤ書52章)!しかし、悪を追い求めて、足が汚れているのではないかと恐れています。主に向かって手を伸ばします。すると、主は顔を背けてこう言われるかもしれません。「あなたが手を伸ばすなら、わたしはあなたから顔を背ける」(イザヤ書1章19節)。それでは、誰がわたしを清めてくれるでしょうか。誰がわたしの足を洗ってくれるでしょうか。イエスよ、来てください。わたしの足は汚れています。わたしのためにしもべになってください。あなたの水をたらいに注ぎ、来て、わたしの足を洗ってください。わたしの言うことが軽率なことは分かっています。しかし、こう言う人の脅しが怖いのです。「わたしがあなたの足を洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もない」(ヨハネによる福音書13章)。 ですから、私の足を洗ってください。そうすれば、私もあなた方と交わることができます。しかし、私の足を洗うとはどういうことでしょうか。ペトロは、足を洗われる以外には何の必要もなかったのに、こう言ったかもしれません。彼は完全に清かったからです。むしろ、私は一度洗われたので、洗礼を受ける必要があります。彼は主にこう言いました。「私はもう一つの洗礼を授ける必要があります。」なぜ私たちはこれらのことを言ったのでしょうか。私は自分自身と、これを聞く人々を、より大きな奥義のために備えているのです。しかし、もし神の言葉が来るなら、もしそれが私たちに下るなら、私はそれが私から逃げ去り、私の祝福をも軽んじるのではないかと恐れています。神の言葉は、一人の罪人アカルのために、かつて民から逃げ去りました。私は言います、神の言葉は、一人の罪人、ユダ族のゼラの子ザンブリの子アカルのために民から逃げ去ったのです。彼は神に不従順であったため、呪われていました(ヨシュア記7章25節)。そして、復活徹夜祭のため、特にキリストの受難の記念日である日曜日には大勢の人々が集まっているので(主の復活は年に一度祝われるわけではなく、必ずしも七日後に祝われるわけでもない)、全能の神に祈り、神の言葉が私たちに届くように祈りなさい。たとえあなたがたが罪人であっても、主に祈りなさい。神は罪人の祈りを聞いてくださいます。しかし、福音書に書かれている「神は罪人の祈りを聞かない」という言葉を恐れるなら(ヨハネ9章13節)、恐れてはならず、信じてはなりません。これを言ったのは盲人でした。むしろ、言う方を信じなさい。偽りを言わない方です。たとえあなたがたの罪が緋のように赤くても、わたしはそれを羊の毛のように白くします(イザヤ1章18節)。また、「あなたがたが望み、わたしに聞き従うならば、地の恵みを食べなさい」(同19節)。もし今、耳を傾ける意思があるならば、主に向かって共に祈りましょう。少なくとも今、御言葉が下された時、私たちがその預言の言葉に耳を傾けることができるように。 3. イザヤはこう述べています。「ウジヤ王が亡くなった年に、私は主が高い玉座に座しておられるのを見た。」この幻は書き留められました。なぜ王の時代が象徴されているのでしょうか。幻がいつ起こったかを考えてみましょう。ウジヤ王が亡くなったとき、イザヤは万軍の主が高い玉座に座しておられるのを見ました。もし私たちの中にウジヤが誰で、何をしたかを知っている人がいるなら、預言者が霊によって何を教えたか、神の言葉が私たちに何を示しているかを知ることができます。「私はウジヤの生涯に行き、列王記と歴代誌からウジヤの歴史を調べます。そして、もしそれが実現するならば、万軍の主が高い玉座に座しておられるのを見ることが、私がウジヤ王として死ぬために必要であることが、そこでわかるでしょう」(歴代誌下 26章)。ダビデの子孫であるこのウジヤは、ゼカリヤが生きている間、ユダの民を治めていた。ゼカリヤは(歴代誌下巻にそう記されているように)主の目にかなうことを悟り、それを行った。そして、これに満足せず、主のために大きな灯明を作り、神殿を建て、彼の宗教には多くの徳があった。しかし、ゼカリヤが死ぬと、彼はそれを知りながら悪を行った。悪を行ったこの者は誰であろうか。彼は王であって祭司ではなかった。王の位階と祭司の位階は別である。彼は神殿に入り、祭司の地位を奪い、自分に許されていない仕事をしようとした。彼は祭司たちより先に神殿に入り、献酒の器を取った。その時、大祭司が八十人の祭司と共に神殿に入ってきた。大祭司は彼に言った。「あなたはウジヤではないか。祭司ではないのか。」彼は激しく抵抗し、額にらい病が発症した。彼は死んで投げ落とされ、神殿から出て行ったが、主が彼を連れ出された。それゆえ、彼は律法を破ったためにらい病患者となった。人は皆、罪の王国か義の王国のどちらかの支配下にある。もし罪が私を支配しているなら、私は力ずくで神殿に入ったイスラエルの王の一人である。もし私が自分の進歩の尺度に従って義人であり、正しいことを行い、神の前で堅く立っているなら、義が私を支配している。しかし、らい病患者が生きている間、イザヤの唇は汚れていた。悪人が生きている間、イザヤは万軍の主を見ることができなかった。(1123) 彼は邪悪な王の支配下にあったため、唇は汚れていた。彼はいつ神の幻を見始めたのか。オシアスが死んだ年である。神の意志があれば、他の多くの書物についても同様のことが言えるだろう。出エジプト記には、これと似たようなことが書かれています。「数日後、エジプトの王が死んだ。イスラエルの子らは嘆き、彼らの叫びは神に届いた。」(出エジプト記2章23節)。 ファラオが生きている間、イスラエルの子らはため息をつかず、さらに悪い境遇にあったため、うめき声​​をあげる自由さえなかった。王が生きていて、彼らに煉瓦と藁を作るように命じていたからである。ファラオが生きている間、彼らは神にため息をつかなかった。ファラオが死んだとき、彼らは涙で濡れた顔を上げることができた。邪悪な王は、ファラオ・ゼブルスが生きている間、私たちの胸の中に生きている。私たちは煉瓦と藁を作り、黙って涙を飲み込み、最初の悪行を行う。しかし、彼が死に、主なる神が私たちを訪れるとき、私たちは主にため息をつく。それゆえ、私たちの死ぬべき体の中にある罪の王国が死ぬように主に祈ろう。罪は死んだ、しかし私は再び生きている、と主は言われる。(ローマ7章9節)また、罪は再び生き、私は死んだ、とも言われる。(同10節)罪の王国を所有する者が死ぬと、ホセアよ、ファラオも死ぬ。邪悪な王が死ぬと、私は天に目を上げると、神はアブラハム、イサク、ヤコブのように私の声を聞いてくださる。そして私は万軍の主が、民が見たことのない高い玉座に座って統治しておられるのを見る。ウジヤはまだ死んでいなかった。私はこれとは反対の良いことに似たことを挟みたい。このウジヤは、ゼカリヤが生きている間は、賢明であったので、神の前に罪を犯さなかった。ゼカリヤが死ぬと、彼は民を治め、町を治めていた場所で主から離れ去った。昼も夜もこれらのことを読んで、主が「あなたは私の金をテーブルの上に置くべきだった」と言われるのを聞く。そして、わたしが来たら、利子をつけて請求したであろう(マタイ25章)。ハンカチで借りたミナを集めたり、お金を地面に投げ捨てたりするのではなく、人々に貸し与えよう。主の理性を信じるなら、利子をつけた貸し付けがどのように返済されるかが分かるだろう。どのように、など。アーメン。 :::[[イザヤの幻視に関する説教の翻訳#第1説教|先頭に戻る]] ==出典== *[https://la.wikisource.org/wiki/Patrologia_Latina/24 Patrologia_Latina/24] *底本: [https://la.wikisource.org/wiki/Translatio_homiliarum_in_visiones_Isaiae Translatio homiliarum in visiones Isaiae] 『イザヤの幻視に関する説教の翻訳』オリゲネス、J. P. Migne 1846 early modern edition. {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- ラテン語版 Wikisource, [[la:Translatio homiliarum in visiones Isaiae]] J. P. Migne 1846 early modern edition の第5説教までを翻訳 --> 0sb93jbowz1nrtkxnlals7q0thkqnsu 242090 242086 2026-05-03T06:07:36Z 村田ラジオ 14210 校正 242090 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = イザヤの幻視に関する説教の翻訳 | section = Translatio homiliarum in visiones Isaiae | previous = | next = | year = | 年 = | override_author = [[s:en:Author:Origen|オリゲネス]](2-3世紀) | override_translator = [[s:la:Scriptor:Sophronius Eusebius Hieronymus|ヒエロニムス]] | override_editor = [[s:la:Scriptor:Iacobus Paulus Migne|J.P. ミーニュ]] | noauthor = | notes = *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:いさやのけんしにかんするせつきよう}} <!-- [[Category:キリスト教]]--> [[Category:教父]] [[Category:オリゲネス]] [[Category:聖書研究]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:パトロロギア・ラティナ]] }} オリゲネス、ストリドンのヒエロニムス ミーニュ・パトロロギア・ラティーナ 第24巻 ==イザヤの幻視に関する説教の翻訳== ===第1説教=== ウジヤ王が死んだ年に、わたしは主が玉座に着いておられるのを見た。 第6章。(1101) 1. ウジヤ王が生きている間、預言者イザヤは幻を見ることができませんでした。ウジヤは罪人であり、主の御前で悪を行い、神の律法の御心に反する行いをしていたからです。彼は神殿と至聖所に入り、そのために額にらい病がかかり、都から出ると汚れた者とみなされました。このように、私たちが神の幻を見るためには、魂の君主であるウジヤ王が死ななければなりません。「ウジヤ王が死んだ年に、わたしは主を見た」(イザヤ書6章1節)と書かれているのは、決して無駄ではありません。ウジヤ、すなわちファラオが生きている間は、私たちはエジプトの行いをしながらため息をつきません。しかし、彼が死ぬと、出エジプト記に記されているように、私たちはため息をつきます。ウジヤが生きている間は、私たちは神の栄光を見ません。しかし、彼が死ぬと、ウジヤが死ぬやいなや、私たちは神の栄光を見るのです。ただ、こうして「しかし、私は彼によって王とされた」(詩篇2篇6節)と言われた方の言葉が私たちのうちに支配し、怒りが支配しないようにするためです。確かに、罪の王もいます。使徒はこれを知って、「ですから、あなたがたの死ぬべき体において、罪が支配しないようにしてください」(ローマ6章12節)と言っています。罪に支配され、そのような王に身を委ね、神の王国を軽んじ、快楽に身を任せる人は、哀れです。ですから、快楽を愛する者は、神を愛する者ではありません。使徒によれば、ある人々についてこう言われています。「神よりも快楽を愛する者たち」(1テモテ3章)。確かに、このことは全くの不信仰者について言われているのではなく、心の中で神よりも快楽を愛する者、敬虔の形は持っているが、その力を否定する者について言われているのです。これはホセア王の死によるもので、預言者は王の死後、幻を見たと言っています。しかし、その幻とは何でしょうか。「私は主が高く上げられた玉座に座っておられるのを見た」など。神を見る者すべてが、神が高く上げられた玉座に座っておられるのを見るわけではありません。別の預言者が主を見て、玉座に座っておられるのを見たが、高く上げられたのではなかったことを私は知っています。聖書について論じたダニエルはこう言っています。「玉座が据えられた」(ダニエル7章9節)が、その玉座は高くありませんでした。そしてわたしは来て、ヨシャファトの谷で民を裁くために座るであろう。それゆえ、彼はこの谷に座り、この谷で、彼が断罪する者を裁くであろう。しかし、彼が高くそびえる玉座に座っているのを見るのはまた別のことである。ミカ書にはこうある。「神は出て行って降りて来られる」(ミカ書1章)。そして、ソドムを見るために、彼は降りて来られる。降りて来られるとき、彼は言う、「わたしのもとに来る者たちの叫びに従って、彼らが行ったかどうかを見よう」(創世記18章)。したがって、神は物事の尊厳に応じて、時には上に、時には下に見られる。それゆえ、わたしは主を見た、(1103)イザヤは言う、高くそびえる玉座に座っている主を。もしわたしが、ここにいる者たちの上に君臨する神を見るならば、高くそびえる玉座に座っている神を見ることはない。もしわたしが、天の力をもって君臨する神を見るならば、高くそびえる玉座に座っている神を見る。神は天の権威について何と言っているでしょうか。王座、主権、支配、権威は天の権威です。そして、もし私が御言葉の中で、主がどのようにそれらを支配しておられるかを見たとしたら、私は主が高くそびえ立つ王座に座っておられるのを見ました。そして、その栄光は御殿に満ちていました。その王座は高く上げられ、その栄光は御殿に満ちていました。私は、その家が地上にある主の栄光に満ちているとは思いません。地は主のものであり、その満ちるものも主のものです(詩篇24篇)。しかし、あなたがたは今、神の栄光の満ち溢れを見いだすことはないでしょう。しかし、もし誰かが神のために神殿を建てるならば、神の栄光が見られるでしょう。そして、もし彼が言われたことを守るならば、満ち溢れる家は神の栄光であることが見られるでしょう。しかし、私は、家の栄光がこのようにして成就されるかどうかは知りません。そして、レビ記において、この件に関する限り、神は寛大な方であり、続く祈祷文の中で、主の栄光が現れるために主が特定の事柄を行うよう命じられたと記されています。これらの事柄が行われなければ、神の栄光は決して現れません。しかし、私たちはそれらを読めば理解できます。 2. そして、セラフィムが彼の周りに立っていた。一方に六つの翼があり、もう一方に六つの翼があった。私は二人のセラフィムを見た。それぞれに六つの翼があった。それから翼の配置。そして、彼らは確かに二つの翼で顔を覆った。それは彼ら自身の顔ではなく、神の顔を。他の二つの翼で足を覆った。それは彼ら自身の足ではなく、神の足を。そして、他の二つの翼で彼らは飛んだ。書かれていることによれば、それは矛盾しているように思える。もし彼らが立っていたなら、飛ぶことはできない。しかし、こう書かれている。「二人のセラフィムが彼の周りに立っていた。一方に六つの翼があり、もう一方に六つの翼があり、彼らは確かに二つの翼で顔を覆い、二つの翼で足を覆い、二つの翼で飛び、互いに叫び合った。」しかし、神の周りにいるこれらのセラフィムは、知識によってのみ「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と言う。この理由で、彼らは三位一体の秘儀[あるいは mysterium]を守っている。彼ら自身が聖なる者だからである。なぜなら、この世のすべてにおいて、これらよりも聖なるものはないからである。そして彼らは互いに「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と軽々しく言うのではなく、すべての人に救いの告白を叫んで告げるのである。この二人のセラフィムとは何者か。私の主イエスと聖霊である。また、御名の役職が保たれているならば、三位一体の本質が矛盾しているとは思わない。彼らは神の顔を覆った。(1104)なぜなら、神の初めは知られていないからである。しかし、足も。なぜなら、私たちの神にある最後のものは理解されていないからである。中間部分しか見えないからである。これらの以前のことの前には、私は知らない。今あることから、私は神を理解する。これらのこれから来ることの後には、それがどのように来るのか、私は知らない。誰が彼に告げたのか。伝道の書は言った。「以前のことと、これから起こる後のことを私に告げよ。そうすれば、あなたがたは神々であると私が言おう」(伝道の書19章)。それゆえ、イザヤもこう言っている。「わたしたちに過去のことを告げよ。わたしたちは心を傾けて知ることができる。また、これから起こる後のことをわたしたちに示せ。将来起こることをわたしたちに告げよ。そうすれば、わたしたちはあなたがたを神々だと言うであろう。」(イザヤ書41章)このことから、もし誰かが過去について語り、未来について語ることができるならば、その人は神である。では、セラフィム以外に誰が「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と言えるだろうか。しかし、セラフィムはいわば神の一部、半分を覆い隠し、互いに叫び合い、神を助けて、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と言った。それゆえ、彼らは立ち、動き、神と共に立ち、動き、神を示している。彼らは顔を覆い、足を覆い、覆われたものは動かず、飛ぶものは覆われず、そしてこう言う。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神よ、全地は神の栄光に満ちている。」主イエス・キリストの来臨が告げられ、今や全地は主の栄光に満ちています。いや、確かにまだ満ち溢れてはいませんが、主ご自身が私たちに父なる神に祈るように命じられた祈りが成就するときに、それは成就するでしょう。「祈るときは、こう言いなさい。『天におられる私たちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が天でも地でも行われるように、地でも行われますように。』」(マタイ6章)。父の御心は今も天にあり、まだ地上では成就していません。イエスご自身が、身にまとわれた肉体の務めに従って、「神は私に天と地におけるすべての権威をお与えになった」(マタイ28章)と言われたとおりです。天で権威を持っておられた方が、地上でも権威を持っておられないでしょうか。また、ご自身のものとなられた方が、世から何かを受けるべきでしょうか。しかし、神が天で信じられたように、地上でも信じられるために、人となったキリストは、以前は持っていなかった権威を受けられました。そして、今に至るまで、地上のすべてに対して権威を持っておられるわけではありません。なぜなら、キリストはまだ罪を犯す者たちを支配してはおられないからです。しかし、これらの者たちに対する支配権もキリストに与えられ、すべてのものがキリストに従うようになるとき、キリストの力は完全になり、キリストはすべてのものを自分に従わせて歩まれるでしょう(コリント第一 15章)。 しかし、ある者たちはまだ神に服従することを望まず、なおも神の敵に服従している。さらにこう言おう。「わたしの魂は神に服従しないだろうか」(詩篇53篇)?わたしの救いは神にある。 3. 二人は飛び入り、一方が他方に言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神。全地は神の栄光に満ちている。」そして、彼らの叫び声によって敷居が持ち上げられた。それはイエス・キリストの声と聖霊の声であった。もし、叫ぶ私たちの中の誰かがイエス・キリストと聖霊の声を聞くならば、敷居は持ち上げられ、持ち上げられた時よりも高くなる。その時、「君主たちよ、門を上げよ。永遠の門よ、上げよ。栄光の王が入って来られる」(詩篇24篇)と言われた。 4. 家は煙で満たされた。火が消えた後、家は煙で満たされた。煙は火の蒸気である。そして私は言った。「ああ、私は惨めだ。私はただの人間で、唇が汚れているから、苦しんでいるのだ。」私はなぜイザヤが自分を低くしたのか理解できない。彼は真実を言っている。聖書は、彼の唇は彼の罪を取り除くために遣わされたセラフィムの一人によって清められたと証言している。しかし、セラフィムの一人は私の主イエス・キリストであり、父によって私たちの罪を取り除くために遣わされ、こう言われる。「見よ、わたしはあなたがたの不義を取り除き、あなたがたの罪を清めた。」また、御子が父によって遣わされたとしても、あなたはそれを自然に対する侮辱とは思わない。最後に、あなたがたが三位一体における神性の統一性を知ることができるように、このレッスンではキリストだけが罪を赦すが、それでも罪は三位一体によって赦されることは確かである。なぜなら、一人を信じる者は、すべてを信じるからである。それゆえ、天の祭壇から鉗子を持ってきて、私の唇に触れさせよ。主の鉗子が私の唇に触れたなら、それは私の唇を清めます。主は私の唇を清め、悪徳から割礼を施してくださったので、先ほど申し上げたように、私は神の言葉をもって口を開き、もはや私の口から汚れた言葉は出ません。なぜなら、私は人間であり、汚れた唇を持っていますが、汚れた唇を持つ民の中に住んでいるからです。遣わされたセラフィムは預言者の唇を清めましたが、民の唇は清めませんでした。預言者自身が、自分の唇が汚れていること、そして汚れた唇を持つ民の中に住んでいることを告白したからです。しかし、遣わされたこのセラフィムは、民の唇を清めるにふさわしいとは判断せず、そのため民は依然として不敬虔な行いをし、私の主イエス・キリストに抵抗し、汚れた唇で彼を呪っています。しかし、私はセラフィムが来られるとき、私の唇を清めてくださるように祈ります。 5. そして私は、万軍の主である王をこの目で見た。なぜ私たちは、ユダヤ人のある伝承を今ここで語らないのか。それは確かにありそうではあるが真実ではない。そしてなぜ私たちはその解決策を見つけないのか。人々は、イザヤが律法を破り、聖書の外を説いているかのように、民衆に追われたと言う。聖書にはこうある。「だれもわたしの顔を見て生きることはできない」(出エジプト記33章)。しかし彼は言う。「私は万軍の主を見た」。モーセは(彼らは言う)見なかったが、あなたは見た。そしてこの理由で彼らは彼に従い、彼を悪人として非難した。彼らは、セラフィムが二つの翼で神の顔を覆っていることを知らなかったからである。私は主を見たが、イザヤは主の顔を見なかったし、モーセも見なかった。モーセは後のことを見た(と書いてあるとおり)。それでも彼は主を見たが、その顔は見なかった。そしてここで彼は見たが、その顔は見なかった。それゆえ彼らは預言者をひどく非難した。そして私は万軍の主である王をこの目で見た。そしてセラフィムの一人が私のところに遣わされた。私の主イエス・キリストの到来は一度きりではなく、地上に降りてイザヤのもとに、モーセのもとに、民のもとに、そして預言者一人ひとりのもとに来られた。たとえ既に天に迎え入れられたとしても、再び来られることを恐れてはならない。しかし、肉体をも​​って現れる前にも人々のところに来られたので、証人として彼を受け入れ、こう非難し、こう言いなさい。「エルサレムよ、エルサレムよ、預言者を殺し、あなたに遣わされた者たちを石打ちにする者よ、わたしは何度あなたの子らを集めようと願ったことか」(マタイ23章11節)。 私が望む限り何度でも。彼は、「この到来の時以外はあなたたちを見たことがない」とは言わず、「私が望む限り何度でも」と言います。そして、預言者一人ひとりに目を向けて、こう言います。「わたしは、預言者を通して語ったキリストである。わたしは、『恐れるな』と言った。そして今、イエス・キリストが遣わされた。」彼は嘘をつきません。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる」(主は言われる)。彼は嘘をつきません。「わたしの名によって二、三人が集まる所には、わたしもその中にいる。」それゆえ、イエス・キリストはそこにいて、助けてくださり、大祭司として私たちの願いを父にささげる準備を整えておられるので、私たちも立ち上がって、彼を通して父にいけにえをささげましょう。彼は私たちの罪の贖いであり、彼には世々限りなく栄光と支配がありますように。アーメン。 ===第2説教=== 「見よ、処女が胎内に宿るであろう」などと書かれていることについて。 第7章。 (1107) 1. 前述のとおり、アハズは深淵や高所でしるしを求めるように命じられたとき、恥じ入って、求めない理由を述べました(イザヤ7章)。彼は「私は求めません。主を試そうとはしません」と言いました。しかし、彼はこの言葉で非難され、こう言われました。「ダビデの家よ、今聞け。人間と争うことはあなたたちにとって小さなことなのか。どうして主と争うのか。」そして、この約束が告げられました。「それゆえ、主ご自身があなたたちにしるしを与えられる。見よ、処女が胎内に宿り、男の子を産む。その子の名をインマヌエルと名付けよ。」これらのことを説明し、残りのことについては、神の恵みが現れる必要性と、それらに現れることを知るでしょう。彼はしるしを求めるように命じられましたが、それは単に自分のためではなく、自分のためにです。なぜなら、聖書にはこう書いてあるからです。「深淵や高所で、あなたの神、主からしるしを求めよ。」提案されたしるしは、私の主イエス・キリストです。これは、彼が深淵や高い所で自ら求めるように命じられているしるしです。確かに深淵では、降りてくるのは彼自身です。確かに高い所では、彼はすべての天の上に昇った方です。しかし、深淵と高い所で私に示されたこのしるし、私の主イエス・キリストは、その深遠と高さの奥義が私に知らされなければ、私には何の役にも立ちません。私が深淵と高い所からキリスト・イエスの奥義を受けるとき、私は主の命令に従ってしるしを受け、深淵と高い所を自分の中に持っているかのように、こう言われるでしょう。「あなたは心の中で、『誰が天に昇ったのか』と言ってはならない。これはキリストを下ろすためである。あるいは、『誰が深淵に下ったのか』と言ってはならない。これはキリストを死者の中から連れ戻すためである。」あなたの言葉はあなたの口と心の中で力強いのです(ローマ10章)。それゆえ、私たちは皆、このしるしを求めるように命じられています。主なる神が深淵と高みにおいて与えるしるしが、私たちにとって有益となるためです。しかし、もし誰かが知っていて、理性的な考察によって、深淵と高みにおいて語られていることが分離的に語られているのではないと認識するならば、それは両方が可能であることを意味するからです。(1108)深淵と高みにおいて、主からしるしを自分自身のために求めなさい。そして約束の中で、使徒はこう言いました。「私たちが深さ、高さ、長さ、幅を知ることができるように」(エフェソ3章)。 アハズは言った、「私は求めません」。彼は不信仰だった。彼は言った、「自分で求めなさい」。しかし、今日に至るまで人々はしるしを求めないので、しるしを得ず、私の主イエス・キリストを受け入れない人々は主に挑戦しているのです。それから、別の質問が続きます。彼は、「私は求めません。主を試しません」と言い、しるしを求めることを試練と考え、こう言いました。「ダビデの家よ、今聞け。あなたがたが人と争うことは小さなことなのか。どうして主と争うのか」。しかし、深いところに、あるいは高いところにしるしを求める者は、主と争っているのではなく、人と争っているとも思わない。神の戦いは、人が救われる方法だからである。だから、救いを求めて逃げる者は、主と争っているのではない。しかし、人を救うために主に争う者が救いから逃げ、主から遠く離れるならば、主に挑戦していることになる。それゆえ、主ご自身がしるしをあなたがたに与えるであろう。見よ、処女が身ごもり、男の子を産むであろう。その子の名をインマヌエルと名付けなさい(マタイ1章13節)。この預言者の例の真実は、「あなたがたは名付けるであろう」と言っている。マタイでは、「その子の名はインマヌエルと呼ばれるであろう」と書かれていることがわかっている。預言者について、これより少ないことをする必要があるとは言えない。しかし、福音書はどのようにしてこのように書かれているのだろうか。他の多くの福音書で行われたように、知性のない者が安易なことに走ったのか、それとも最初からそうであったのか、あるいは、福音書が公表されたと言う人がいるかもしれないので、よく考えてみるべきだ。預言者は確かに、「あなたがたはその子の名をインマヌエルと名付けるであろう」と明確に述べている。福音書の冒頭で、「あなたは彼の名をインマヌエルと名付けなさい」とある人が読んで、心の中でこう言ったことを私は知っています。「あなたは彼を何と呼ぶのか?誰が呼ぶのか?アハズだ。アハズは、何世代も後に来た救い主について、『あなたは彼の名をインマヌエルと名付けなさい』と聞くことができたのだろうか。あなたが呼ぶ名前で、彼は名付けられるのだ。」と書いてある。(1109)しかし、アハズに「あなたは彼の名をインマヌエルと名付けなさい」と言われたのではなく、ダビデの家に対してはっきりとこう言われたのである。「ダビデの家よ、今聞け。あなたがたが人と争うことは小さなことなのか。どうして主と争うのか。それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、処女が胎内に宿り、男の子を産む。あなたは彼の名をインマヌエルと名付けなさい。」しかし、この言葉の意味が理解できないときは、何もせず、安易な道に走らず、神の恵みが知識の光によって問題の解明をもたらしてくれるまで待ちましょう。あるいは、少なくとも神の恵みが、神が望む者を通して再び私たちを照らし、私たちがそれ以上求めることなく、問題が解決されるようにしましょう。しかし、理解していない事柄に軽率に踏み込むと、自らを苦しめることになります。では、ダビデの家とは何でしょうか。私が何度も証明してきたように、ダビデがキリストであるならば、私たちダビデの家は神の教会です。そして、教会である私たちには、前述の闘いを神に捧げるのではなく、主の御前でそのしるしを受けるようにと言われています。これらのことは、ダビデの家ではなく、私たちに言われているのです。そして、ダビデの家に属する者は誰でも、その名をインマヌエルと呼ぶと預言されています。キリストの到来の時、私たちの教会だけがキリストについて「神は私たちと共におられる」と言うからです。神の恵みによってこれらのことを説明してきたので、今度は他の奥義を探求しましょう。 2. 彼はバターと蜂蜜を食べるでしょう。キリストがバターと蜂蜜を食べることは、どのように預言されているのでしょうか。主の許しを得てこの点が説明されたとしても、次に続くことで、また別の疑問が生じるでしょう。そして、私たち全員が聖書に書かれているとおりに行いたいものです。「聖書を調べなさい!」聖書には、多くの肉体の食物が霊的な食物として挙げられています。生まれたばかりの赤子のように、純粋で純粋な乳を慕い求めなさい(ペテロ第一 2章2節)。 したがって、それは疑いなく良質なミルクであり、私たちはこの種のミルクを求めなければなりません。また、箴言には蜂蜜についてこう書かれています。「蜂蜜を見つけたら、必要な分だけ食べなさい。吐き出してしまうかもしれないから」(箴言25章16節)。聖霊は、私たちがもっと食べてしまうかもしれないという理由で、この既知の蜂蜜に注意を払っておられたのでしょうか。しかし、聖霊は確かに霊的な蜂蜜を感じ取って、「蜂蜜を見つけたら、必要な分だけ食べなさい」とおっしゃっています。しかし、聖霊はどのような感覚で、蜂蜜を見つけたら、蜂蜜は見つかるのだから、必要な分だけ食べるようにと私たちに命じられたのでしょうか。聖霊は、「蜂のところへ行って、蜂がどのように働くかを学びなさい」(箴言6章)とおっしゃっています。そして、預言者たちは蜂であることが分かります。実際、彼らは蜜蝋を発明して蜂蜜を作り、もし私が聞き手に言うのが適切であれば、彼らの蜜蜂の巣は彼らが残した書物です。そして私は喜んで聖書に近づき、蜂蜜を見つけました。しかし、蜂蜜を食べなさい。箴言にはまたこう書かれています。「蜜蜂の巣は良い。あなたの口を甘くするためである」(箴言24章13節)。聖霊が、使用済みの蜂蜜を食べなさい、それは良いものだと言っていると思いますか。私は、聖霊が私に肉体の蜂蜜について、蜂蜜を食べなさいと命じているとは言いません。見よ、私は蜂蜜を食べられない、あるいは少なくともそのような性質を持っていません。だからこそ、聖霊は私に、蜂蜜を食べなさい、肉は食べてはならない、しかし、わが子よ、蜂蜜を食べなさい、それは良いものだと言っているのです。もしあなたが預言者である蜂と、彼らの仕事である蜂蜜や巣を見れば、聖霊の尊厳に従って、わが子よ、蜂蜜を食べなさい、それは良いものだとどのように理解するか分かるでしょう。神の言葉を黙想し、聖書の言葉によって養われる者は、神の命令、すなわち「わが子よ、蜜を食べよ」という命令を実行しなさい。そして、その命令を実行する者は、それに続く「それは良いものだから」という言葉を得る。聖書に記されているこの蜜は良いものだからである。しかし、「蜂のところへ行け」という言葉は、このような意味である。蜂の上に立つ(いわば)一匹の蜂がいる。蜂の中に王と呼ばれる王がいるように、蜂の王は主イエス・キリストである。聖霊は私をこの方に遣わし、私が蜜を食べるようにする。蜜は良いものだから、またその蜜房は私の口を甘くするためである。そして、文字は蜜房よりも微妙かもしれないが、これらの文字で理解されるのは蜜である。さらに、処女インマヌエルから生まれたこの方は、バターと蜜を食べ、私たち一人ひとりからバターを食べようと望んでおられる。この説教では、主が私たち一人ひとりからいかにバターと蜜を求めているかを教えるでしょう。私たちの甘い行い、最も心地よく有益な言葉は、処女から生まれたこの方が召し上がるインマヌエルが召し上がる蜜です。しかし、もし私たちの言葉が苦味、怒り、憤り、いらだち、汚い言葉、悪徳、争いに満ちているなら、救い主は私の口に苦い胆汁を入れ、救い主はそのような言葉を召し上がりません。しかし、人々の間にある言葉が蜜であるならば、救い主はその言葉を召し上がります。聖書からこのことを確認しましょう。「見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。だれかがわたしのために戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って行き、彼と共に食事をし、彼もわたしと共に食事をするであろう。」(黙示録3章20節)。ですから、主は私たちの中から私たちと共に食事をすると約束しておられ、私たちが主と共に食事をするならば、私たちも主と共に食事をすることは確実です。私たちの善い言葉、行い、理解を糧として、主は霊的で神聖な、より優れた糧を私たちに与えてくださいます。ですから、心の扉を開いて救い主をお迎えすることは祝福です。主のために蜜を用意し、主の晩餐を共にしましょう。主が私たちを天の御国にある父の盛大な晩餐へと導いてくださいますように。その御国はキリスト・イエスにあり、栄光と支配は世々限りなくキリストにあります。アーメン。 ===第3説教=== 七人の女性について 第11章。(1111) 1.七人の女性は非難を受け、その非難を取り除いてくれる人を求めてさまよっています。七人の女性自身は、その人のパンを食べ、その人の衣をまとうと約束しています。彼女たちは、その人のパンではなく、非難を取り除いてくれる人の名を必要としています。彼女たちは、自分が着ている人の衣を必要としていません。彼女たちは、人が与えることのできるものよりも良い衣を身につけています。人間の境遇では得られないほど豊かな食物を持っています。では、この七人の女性は誰であり、彼女たちの非難とは何なのか、考察する価値があります。七人の女性は一つです。なぜなら、彼女たちは神の霊だからです。そして、この一つが七つなのです。神の霊とは、知恵と理解の霊、助言と力の霊、知識と敬虔の霊、主を畏れる霊です(イザヤ書11章)。この知恵は、その内に湧き上がる多くの知恵によって非難を受けています。この真の理解は、偽りの理解から非難を受けています。この偉大な助言は、多くの善くない助言から非難されています。この徳は、徳ではないのに徳であると約束する者によって呪われています。この知識は、その名を僭称する偽りの名を持つある種の知識から非難を受けています。この敬虔さは、敬虔であると主張しながら不敬虔であり、悪人を教えるものから非難されています。この畏れは、畏れるべき者であるはずの者から非難を受けています。なぜなら、多くの人が神への畏れを約束しますが、知識をもって畏れていないからです。それでは、これら七つがどのように非難を受けているかを考えてみましょう。この世の知恵、この世の君主たちの知恵を見てください。彼らは私のキリストの知恵を非難し、真のユダヤ教の知恵を非難しています。私たちはその知恵によって霊的に割礼を受けていますが、彼らは断ち切られています。それゆえ、この世の知恵とこの世の支配者たちが知恵を呪う理由を理解しなさい。このため、七人の霊的な者たちの恥辱を取り除くために、女のように彼らと共にいる人が求められているのです。彼らの恥辱を取り除くことができる人はただ一人しかいません。この人は誰でしょうか。イエスは、肉によればエッサイの根から、肉によればダビデの種から生まれ、義化の霊によって力ある神の子となるよう、あらかじめ定められていました(ローマ1章)。 エッサイの根から一本の杖が生えた。その杖は、すべての被造物の初子ではなく、初めに神と共にあった方、すなわち神の言葉ではない。エッサイの根から生えた杖であり、肉によれば、その方に生まれたのである。エッサイの根から一本の杖が生え、その根から花が咲いた。花とは誰か、根とは何であるか。両者は一つであり、同じである。しかし、事情は異なる。もしあなたが罪人であるならば、あなたには花はなく、エッサイの根から生える花を見ることもないだろう。弟子が杖と花について語っているように、あなたにも杖が来る。杖について彼はこう言っている。「あなたがたは、私が杖を持ってあなたがたのところに来ることを望むのか。」しかし、花について彼はこう言っている。「それとも、神の愛と柔和な心をもって。」それゆえ、エッサイの根から、懲らしめを受ける者のための知恵の杖、叱責を受けるべき者のための杖、戒めを受けるべき者のための杖が生え出た。また、すでに教えを受け、厳しい懲らしめを必要とせず、ましてや懲らしめを必要とせず、すでに花を咲かせ、完全な実を結ぶことができる者のための花も生え出た。まず花が現れ、それから花が伸びて、実を結ぶ。エッサイの根から杖が生え、その根から花が咲き、七人の女がその上に宿り、主の霊、知恵と悟りの霊がその上に宿る。知恵の霊はモーセには宿らず、知恵の霊は契約の箱イエスにも宿らず、知恵の霊は預言者たち、イザヤにもエレミヤにも宿らなかった。 2. あなた方は、私が主イエス・キリストをあがめたいと願っているのに、私が冒涜しているかのように私を石打ちにしない。しかし、我慢して、言われたことをよく考えてみれば、霊が彼らの誰にも宿らなかったことがわかるだろう。(1113) 霊が彼らの誰にも来なかったのではなく、霊が誰にも宿らなかったのだ。霊はモーセに臨んだが、モーセは自分に臨んだ知恵の霊に従わなかった。「聞け、頑固な者たちよ。この岩からあなた方に水を出そうか」とモーセは言う。霊はすべての義人に臨み、イザヤにも臨んだが、彼は何と言っているか。「私は汚れた唇を持っている。汚れた唇を持つ民の中に住んでいる。」(イザヤ6章)。知恵の霊は火ばさみと火の後に臨み、汚れた唇を持つ者に臨んだが、彼は留まらなかった。彼は確かにそれを奉仕者として用いたが、彼は留まらなかった。彼は、自分が臨むすべての人を悩ませる。すべての人は罪を犯し、地上には善を行い罪を犯さない正しい人は一人もいない。汚れから清い者は一人もおらず、たとえ命が一日であっても、その月日は限られている。(ヨブ記15章) したがって、それは誰にもとどまりません。福音書からも、霊が多くの人に臨んだが、彼らのうちにとどまらなかったことが分かります。少し前に、「わたしの霊はこれらの人々のうちにとどまることはない」と読みました。「とどまらない」とは言わず、「とどまらない」とだけ言いました。ヨハネはただ一人、霊がとどまった人を見ました。そのしるしは、「霊が下ってその人のうちにとどまるのを見たら、その人は神の子である」というものでした。彼は確かに、霊と共に下る神の言葉によって奉仕しました。しかし、しばらくすると罪を犯し、しばらくすると無駄なことを言います。しかし、彼が罪を犯さずにとどまるかどうかは分かりません。霊が臨んでいるときに、罪を犯すことが許されると思いますか。したがって、聖書に書かれているとおり、神の霊は誰にもとどまりませんでした。「エッサイの根から一本の若枝が生え、その根から花が咲き、神の霊が彼の上にとどまった。知恵の霊、悟りの霊、助言と力の霊が。」このゆえに彼は偉大な助言の天使である。このゆえに彼は勝利し、ますます強くなり昇天した。力ある者たちは彼の昇天に驚嘆し、彼について言った。「これは主だ。戦いにおいて強く、力強い方だ。」それゆえ、私はさらに天の領域、すなわち彼の力へと昇天したと言う。そして助言と力の霊が彼の上に宿った。私の力と賛美は主であり、主は私の救いとなられた。それゆえ、神の霊が彼の上に宿った。知恵と理解の霊、助言と力の霊、知恵と敬虔の霊、そして主を畏れる霊が彼を満たした。 3. それゆえ、捕らえようとする女たちは、一人の男を七人で捕らえるであろう。そしてこれは前のことに依存しており、まず七人の女が一人の男を捕らえる時を知る必要がある。エルサレムの強者たちが屈服し、シオンの娘たちの胸飾りが露わになり、シオンが一人ぼっちになり、地に踏みにじられるとき、七人の女が一人の男にすがりつき、「私たちは自分のパンを食べ、自分の服を着ます。それでも、あなたの名は私たちの上に呼ばれるでしょう」と言うでしょう。そのとき、七人の女は、理解されている人、生まれ、身にまとった体に従って、私たちの主イエス・キリストである一人の男にすがりつき、真にすがりつくでしょう。七人の女が一人の男をつかみ、「私たちは自分のパンを食べます」と言うでしょう。多くの男が歩いているのに、女はだれもつかまず、だれも彼女たちを喜ばせることはありません。彼女たちが一人の男をつかむのは、男が不足しているからではなく、彼女たちが望むような男が稀だからではなく、そのような男を探し求めたからでもありません。彼女たちはただ一人の男を見つけ、彼をつかみ、「私たちは自分のパンを食べ、自分の服を着ます」と言うのです。知恵の食物、悟りの食物、その他の霊の食物があります。この食物とは何でしょうか。私は恐れずに言いますが、これら以外にも食物があります。おそらく、私の食物が神の言葉であるように、神はこう言われます。「わたしは天から下って来た生けるパンであり、世に命を与える者である」(ヨハネ6章)。知恵の食物は父ご自身です。ですから、私の食物は、私を遣わされた方の御旨を行い、その{{r|業|わざ}}を成し遂げることです(ヨハネ4章)。 また、知恵や理解、その他の霊が何かを必要としていると考えるべきではありません。なぜなら、それらは別の食物を持っているからです。神の本質は、全摂理の食物の一つだからです。私たちは自分のパンを食べ、自分の衣を着ます。知恵には、彼女を飾るある装飾品があります。知恵は言葉で飾られています。これらの女性たちはそれぞれ装飾品を持っています。しかし、あなたの名が私たちの上に呼ばれますように、私たちの恥辱を取り除いてください。知恵の名とは何ですか。イエスです。あなたの名が私たちの上に呼ばれるとはどういう意味ですか。私は知恵です。私はあなたの名で呼ばれたいのです。私が知恵イエスと呼ばれ、理解と偉大な助言と力と知識と敬虔と神への畏れがイエスと呼ばれ、あなたの名がすべてにおいてすべてとなるように。あなたの名が私たちの上に呼ばれますように、私たちの恥辱を取り除いてください。確かにイエスは恥辱を取り除いてくださいました。それゆえ、立ち上がって、この方を遣わされた神に祈りましょう。七人の女性の霊がこの方に宿り、この方が私たちにこれらの女性たちとの交わりを与えてくださいますように。そして、これらの女性たちを受け入れることによって、私たちが神と人において賢く、聡明になり、キリスト・イエスにおいて徳をもって魂を飾ることができますように。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。 ===第4説教=== 神とセラフィムの幻視について 第6章。(1115) 1. 神の始まりを見つけることは不可能です。あなたは決して神の起源の始まりを理解することはできません。私はあなたではなく、誰も、また存在する他の何物も理解できません。常に神と共にいる救い主と聖霊だけが神の御顔を見ます。そしておそらく、天におられる父の御顔を絶えず見ている天使たちも、物事の始まりを見ているのでしょう。そして、セラフィムもまた、人から足を隠すのです。終わりのことは、そのままでは語り尽くせないからです。聖書は「誰が終わりのことを告げられるだろうか」(イザヤ書41章)と言っています。私たちが見るもの(たとえ私たちがいくつかのものを見ていると認められたとしても)は中間的なものです。世界より前にあったものは、私たちは知りません。さらに、世界より前にあったものもありました。世界の後に何が起こるかは、私たちは確信を持って把握できません。しかし、世界の後には、他のものも存在するでしょう。それゆえ、こう書かれていること、すなわち「初めに神は天と地を創造された。地は形なく見えず、闇が淵の面を覆い、神の霊が水の面を覆っていた」(創世記1章)は理解できる。これらの水は清く、その中に神の霊が宿っていた。しかし、深淵を覆っていた闇は生まれてこなかったわけではない。どちらも無から創造されたからである。イザヤ書で主が言われるのを聞け。「わたしは光を形造り、闇を創造した神である」(イザヤ45章)。箴言で知恵が説くのを聞け。「わたしはすべての深淵より先に生まれた」(箴言8章)。これらは生まれてこなかったのではなく、いつ、どのように生まれたのかは知らない。神の最初の業はセラフィム、すなわち神の顔によって覆われている。足も同様である。世の終わりの後に起こることを、誰が幾世にもわたって説明できるだろうか。これらのことを知ると約束するのは、おしゃべりな人間である。人間は、中間のこと、そして世の終わりから審判の完成に至るまでの、罰と報復に関することしか理解できないことを知らないからである。また、これらのことの多くは私たちに隠されている。だからこそ、こう書かれているのだ。「彼らは顔を隠した」。しかし、彼らはただ覆っただけでなく、覆い隠した。つまり、覆ったので、前者の顔は少しも見えず、後者の足も少しも見えなかった。二人は逃げた。観想の道が開かれた。そして彼らは互いに叫び合った。一人が多くの人にではなく、一人が互いに。救い主によって告げられる神の聖さを、その尊厳にふさわしく聞くには、聖霊以外には誰もできない。また、聖霊によって告げられる神の聖さの中に住むには、救い主以外には誰もできない。そのため、彼らは互いに叫び合って言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」。彼らは一度や二度聖なるかなと叫ぶだけでは十分ではなく、三位一体の完全な数(イザヤ書6章)を唱え、父なる神の聖性、独り子なる神の聖性、聖霊という三つの聖性の繰り返しの交わりである、神の聖性の豊かさを顕現した。聖化する方と聖化される方は皆、一つの源から出ているからである(ヘブライ人への手紙2章)。 聖別する方は救い主です。それは、救い主が父なる神から聖さを受ける人であるからです。それゆえ、人々は言います。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神よ」。サバオトは(アキラが訳したように)万軍の主と解釈されます。 2. 全地は神の栄光に満ちています。かつては神殿が栄光に満ちていましたが、今はセラフィムによって地上にいる人々に預言されています。すなわち、わたしの神キリストの栄光が全地を満たすようになるということです。なぜなら、行いによって神をあがめるすべての人の中に神の栄光があり、それゆえ全地は神の栄光に満ちているからです。かつては全地が神の栄光に満ちていたのではなく、地の片隅がそうでした。「神はユダヤで知られ、イスラエルでその御名は偉大である」と言われた時です。御子を遣わし、全地が神の栄光に満ちるようにされた神に栄光あれ。しかし、祝福された人々の教会によって地が満ち溢れていても、彼らがどこにいようとも神の栄光であるのに、あなたがたが神の満ち溢れる栄光にあずからなければ、あなたがたに何の益があるでしょうか。ですから、あなたがたは、神の栄光を求め、それがあなたがたのうちに宿り、あなたがたの中に居場所を見つけ、あなたがたも、神の栄光がある全地とともに、神の栄光に満たされるように、あらゆることに労苦し、努力しなさい。神の栄光の満ち溢れは、私たち一人ひとりを通してどのように実現されるのでしょうか。もし私の行い、私の言葉が神の栄光のためになされるなら、私の言葉は満ち溢れ、私の行いは神の栄光となるのです。(1117)もし私の出入りが神の栄光のためであり、私の食べ物、私の飲み物、私のすべての行いが神の栄光のためになされるなら、私もまた、「地は神の栄光に満ちている」という言葉にあずかる者となるのです。こうして私がこれらすべてのことを成し遂げたとき、セラフィムの叫び声によって敷居が持ち上げられました。ですから、私たち一人ひとりが、理解によればキリスト・神である戸口と戸口の敷居にあずかることができるように働くことは幸いです。私は戸口を肉と呼び、敷居を言葉と呼ぶことが不適切だとは思いません。 3. 彼らの叫び声によって敷居が持ち上げられ、家は煙で満たされた。この煙は神の栄光からの贈り物である。そして私は言った。「ああ、私は惨めだ。私は滅びるのだ。」イザヤよ、幻を見る前に、自分が惨めであることを告白しないのか。彼はこうは言わない。「ホセアが生きている間は、自分が惨めだとは思いもよらなかった。しかし、幻を見たとき、らい病の王ホセアが死にかけているとき、私は自分が惨めであることを知り始め、こう言うのだ。『ああ、私は惨めだ』(歴代誌下26章)!今、私も主に向かって告白し、自分自身についてこう言う。『ああ、私は惨めだ!』イザヤが言うように。『ああ、私は惨めだ!』そして、この次に使徒もこう言う。『ああ、私は惨めな人間だ。誰がこの死の体から私を救い出してくれるだろうか(ローマ7章24節)』だから、私が惨めであることを告白するのは幸いである。もし私が謙遜になり、悔い改めて自分の罪を嘆き悲しむならば、神は私の祈りを聞き、救い主を与えてくださるでしょう。そして私は主イエス・キリストを通して神に感謝を捧げます(同書、25節)。しかし、心から「私は惨めだ」と言いましょう。各自、自分の苦しみと罪の原因を思い出し、祈りを捧げながら、告白するかのように思い出し、もはや行っていないかのように忘れ、こう言いましょう。「私は惨めだ、悔い改めている」。彼は幻を見る前、ホセアが死ぬ前には悔い改めていなかった。悔い改めを始めるとすぐに、「私は悔い改めている」と言う。内なる人に対して感覚のない人は罪人なので、悔い改めません。たとえ外なる体に針を刺されても、死体を感じないのと同じです。同じように、罪に苦しむ罪人に神の言葉をかけても、悔い改めなければ、悲しむことも悔い改めることも、告白を促す悲しみ、すなわち神にかなう悲しみもありません。しかし、救われたいと願う人が、自分を叱責し正す人の言葉を聞いたなら、すぐに「ああ、私は惨めな者だ」と言うでしょう。しかし、「私は惨めな者だ」と言うだけでは十分ではありません。「私は悔い改めます」と付け加えなければなりません。もっと悔い改めたいものです。悔い改めれば悔い改めるほど、罪の束縛は緩むからです。このため、アハブはあまり悔い改められなかったため、大きな益を得ることができませんでした(III Reg. 列王記下 21章)。実際、彼が悔い改められたのは一度だけでした。それゆえ、こう言われています。「あなたがたは、アハブがどのように悔い改められたかを見ました。しかし、悔い改めることをやめない人は、使徒と同じように言います。『私は神の教会を迫害したので、使徒と呼ばれるに値しません』(テモテへの手紙第一 1章)。また、『すべての聖徒の中で最も小さい私に、この恵みが与えられました』(ガラテヤ人への手紙 1章)。」 また、神は真実な方であり、イエス・キリストは罪人を救うために世に来られた。私はその罪人の中で最も罪深い者である(コリント第一 15章)。彼が深く悔い改め、一度ならず、書いたり話したり行動したりする時も常に悔い改めの念を抱いていたことが分かりますか。現代のイザヤも同様に、「ああ、私はなんと惨めな人間だろう。私は悔い改めます。なぜなら私は人間であり、汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ民の中に住んでいるからです」と言っています。また、イザヤの罪は行いではなく言葉にあったので、別の点にも注目しましょう。そのため彼は「私は人間であり、汚れた唇を持っているからです」と言っています。しかし、汚れた唇を持つ民もいました。民を非難し、彼らの罪は汚れた唇の罪よりも多いと言うのは、彼にはふさわしくありませんでした。 4. そして私は、万軍の主である王を自分の目で見た。もし私たちがまだ罪人であった時に神を思い、今預言者が言うように言うならば、神はなんと慈しみ深い方であろうか。神はなんと慈しみ深い方であろうか。なぜなら、神はこう言われるからである。「私は、なんと惨めな者であろうか」。私は彼が悔い改めるのを聞くからである。彼はこう言うからである。「私は悔い改めます」。彼は自分の罪を告白し、こう言ったからである。「私は人間であるが、汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ民の中に住んでいる」。そして、彼がまだ話している間に、私は言った。「見よ、ここに私がいます」。すると、セラフィムの一人が私のところに遣わされ、その手には炭を持っていた。かつて罪を犯した彼の唇が火の燃焼によって清められるように、炭が預言者のところに運ばれてきた。このセラフィムの一人とは誰であろうか。わが主イエス・キリストよ、この者は肉の摂理に従って遣わされ、手に炭を持って、「わたしは地上に火を投げつけるために来た」と言いました。 5. ああ、それがすでに燃えていたらどんなに良いでしょう。そして、セラフィムの一人がわたしに遣わされ、手に祭壇から火ばさみで取った炭を持っていました。火によって清められるのは、ただの偶然の預言者ではなく、神の祭壇から来る預言者です。祭壇の火によって清められていないなら、あなたがたと共にいる者がいます。その者について、「わたしから離れて、ゼブルンとその使いたちのために用意された永遠の火の中へ行け」と言われています。祭壇からそのような火はありません。すべての人が火に渡されますが、すべてが同じ火に渡されるわけではありません。ある者は祭壇からの火を待ち、ある者はゼブルンとその使いたちのために用意された火を待ちます。ですから、叱責の言葉が私たちの心と魂の唇に触れ、私たちも「それは私の口に触れた」と言えるようにしましょう。もし私が口を清めて、無駄なこと、愚かなこと、卑しいこと、悪口(すべてまとめて挙げるとすれば)など、禁じられていることを何も言わないようにするならば、こう言うことができます。「それは私の口に触れた」。さらに、私が汚れた唇を持ち、罪深い言葉のために汚れた物を身に着けている限り、祭壇の火は私の口に触れず、セラフィムの一人も私に遣わされません。 6. そして彼は言った。「見よ、わたしはあなたの唇に触れ、あなたの不義を取り除き、あなたの罪を清めた」。神の言葉が私たちを噛み、私たちの魂を焼き尽くしますように。聞いてこう言いましょう。「私たちの心は私たちの内側で燃えていなかったか」。私たちの不義と罪が取り除かれ、清い口、清い心、清い良心をもって清められるように、キリスト・イエスにおいて全能の神に感謝しましょう。栄光と支配が世々限りなく神にありますように。アーメン。 ===第5説教=== 「東から正義を掲げた方」と記されていること、そして別の形で再び幻について。 第6章(この説教はギリシャ語で非常に誤って翻訳されているため、語句ではなく意味と順序に従って翻訳する。)。(1119) 1. 預言者たちはキリストが生きている義であると言っています。私たちは、キリストが義であり、聖化であり、贖いであり、知恵である(コリント第一 1章)と言っているのは使徒だけの言葉だと思っていました。しかし、おそらく使徒も預言者たちから教えられて、義は生きていて生命を持っていることを知っていたのでしょう。この義とは何でしょうか。それは神の独り子です。しかし、キリストが生きていて生命を持つ義であるのは使徒からだけではなく、この奥義は預言者の言葉からも示されているのです。確かに、今朗読されている章からもそうです。「誰が義を東から起こし、それを自分の足元に呼んだのか」(イザヤ 6章)とあります。彼は義を呼びました。呼ばれると歩くのだから、義が生きていることは明らかです。しかし、父はキリストを呼びました。それは、私たちの救いのために、キリストが私たちのところへ来て、天から私たちのところへ降りてくるためでした。人の子以外に天に昇った者はいない。その子は天から下って来た。神は彼を東から召された。この感覚的な東からではなく、真の光の東から。それゆえ、こう書いてある。「誰が義を東から起こし、それを自分の足元に召されたのか」。父が子を召された。いや、正確に言えば、神が義を自分の足元に召された。すなわち、御子の受肉である。それゆえ、私たちは彼の足台を崇める。こう書いてあるとおりである。「彼の足台を拝め。それは聖なるものだから」。主の肉体は神性の栄誉を帯びる。しかし、レッスンの冒頭にはより深い説明が必要なので、至高の王に祈りましょう。呼び出された言葉が再び私たちのもとに戻ってきて、私たちの能力に応じて少し語ることができるように。 2. ウジヤ王が死んだ年に、私は主が高い玉座に座っておられるのを見た。そして、その家は主の栄光に満ちていた。そして、セラフィムが主の周りに立っていた。一方には六つの翼があり、他方にも六つの翼があった。二匹で主の顔を覆い、二匹で主の足を覆い、二匹で飛んで、互いに叫び合って言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神。地は主の栄光に満ちている。」そして、残りの部分。しかし、私たちもイザヤが見た幻を見ることができるように、見えない者に目を与えたイエスに祈りましょう。イエスは今すぐにでも来て、この講話で語られていることを私たちに目を開いて見させてくださるからです。私たちは、キリストの体を娼婦の体にせず、嘆き悲しむに値する行いをしないと約束しましょう。私たち一人ひとりが心の中でこれらのことを神に語り、イエスが今すぐに来られるように祈りましょう。イエスが来なければ、私たちはこれらのことを見ることができません。私は、セラフィムが私にも遣わされ、火ばさみで炭火をつかんで私の唇を清めてくださるように祈ります。私の唇とは何でしょうか。イザヤは聖なる人であったので、唇だけが清められました。なぜなら、彼は唇、つまり言葉で罪を犯したからです。しかし、私は自分の唇だけが汚れていると言えるような者ではありません。むしろ、汚れた心、汚れた目、汚れた耳、汚れた口を持っているのではないかと恐れています。これらすべてにおいて罪を犯す限り、私は完全に汚れています。もし私が女を見て情欲を抱くなら、私はすでに心の中で彼女と姦淫を犯したことになります。見よ、私の目は汚れています。もし私の胸から悪い思い、姦淫、淫行、偽証が出てくるなら、見よ、私の心は汚れています。平和を説き、良い知らせを説く者の足はなんと美しいことか(イザヤ書52章)!しかし、悪を追い求めて、足が汚れているのではないかと恐れています。主に向かって手を伸ばします。すると、主は顔を背けてこう言われるかもしれません。「あなたが手を伸ばすなら、わたしはあなたから顔を背ける」(イザヤ書1章19節)。それでは、誰がわたしを清めてくれるでしょうか。誰がわたしの足を洗ってくれるでしょうか。イエスよ、来てください。わたしの足は汚れています。わたしのためにしもべになってください。あなたの水をたらいに注ぎ、来て、わたしの足を洗ってください。わたしの言うことが軽率なことは分かっています。しかし、こう言う人の脅しが怖いのです。「わたしがあなたの足を洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もない」(ヨハネによる福音書13章)。 ですから、私の足を洗ってください。そうすれば、私もあなた方と交わることができます。しかし、私の足を洗うとはどういうことでしょうか。ペトロは、足を洗われる以外には何の必要もなかったのに、こう言ったかもしれません。彼は完全に清かったからです。むしろ、私は一度洗われたので、洗礼を受ける必要があります。彼は主にこう言いました。「私はもう一つの洗礼を授ける必要があります。」なぜ私たちはこれらのことを言ったのでしょうか。私は自分自身と、これを聞く人々を、より大きな奥義のために備えているのです。しかし、もし神の言葉が来るなら、もしそれが私たちに下るなら、私はそれが私から逃げ去り、私の祝福をも軽んじるのではないかと恐れています。神の言葉は、一人の罪人アカルのために、かつて民から逃げ去りました。私は言います、神の言葉は、一人の罪人、ユダ族のゼラの子ザンブリの子アカルのために民から逃げ去ったのです。彼は神に不従順であったため、呪われていました(ヨシュア記7章25節)。そして、復活徹夜祭のため、特にキリストの受難の記念日である日曜日には大勢の人々が集まっているので(主の復活は年に一度祝われるわけではなく、必ずしも七日後に祝われるわけでもない)、全能の神に祈り、神の言葉が私たちに届くように祈りなさい。たとえあなたがたが罪人であっても、主に祈りなさい。神は罪人の祈りを聞いてくださいます。しかし、福音書に書かれている「神は罪人の祈りを聞かない」という言葉を恐れるなら(ヨハネ9章13節)、恐れてはならず、信じてはなりません。これを言ったのは盲人でした。むしろ、言う方を信じなさい。偽りを言わない方です。たとえあなたがたの罪が緋のように赤くても、わたしはそれを羊の毛のように白くします(イザヤ1章18節)。また、「あなたがたが望み、わたしに聞き従うならば、地の恵みを食べなさい」(同19節)。もし今、耳を傾ける意思があるならば、主に向かって共に祈りましょう。少なくとも今、御言葉が下された時、私たちがその預言の言葉に耳を傾けることができるように。 3. イザヤはこう述べています。「ウジヤ王が亡くなった年に、私は主が高い玉座に座しておられるのを見た。」この幻は書き留められました。なぜ王の時代が象徴されているのでしょうか。幻がいつ起こったかを考えてみましょう。ウジヤ王が亡くなったとき、イザヤは万軍の主が高い玉座に座しておられるのを見ました。もし私たちの中にウジヤが誰で、何をしたかを知っている人がいるなら、預言者が霊によって何を教えたか、神の言葉が私たちに何を示しているかを知ることができます。「私はウジヤの生涯に行き、列王記と歴代誌からウジヤの歴史を調べます。そして、もしそれが実現するならば、万軍の主が高い玉座に座しておられるのを見ることが、私がウジヤ王として死ぬために必要であることが、そこでわかるでしょう」(歴代誌下 26章)。ダビデの子孫であるこのウジヤは、ゼカリヤが生きている間、ユダの民を治めていた。ゼカリヤは(歴代誌下巻にそう記されているように)主の目にかなうことを悟り、それを行った。そして、これに満足せず、主のために大きな灯明を作り、神殿を建て、彼の宗教には多くの徳があった。しかし、ゼカリヤが死ぬと、彼はそれを知りながら悪を行った。悪を行ったこの者は誰であろうか。彼は王であって祭司ではなかった。王の位階と祭司の位階は別である。彼は神殿に入り、祭司の地位を奪い、自分に許されていない仕事をしようとした。彼は祭司たちより先に神殿に入り、献酒の器を取った。その時、大祭司が八十人の祭司と共に神殿に入ってきた。大祭司は彼に言った。「あなたはウジヤではないか。祭司ではないのか。」彼は激しく抵抗し、額にらい病が発症した。彼は死んで投げ落とされ、神殿から出て行ったが、主が彼を連れ出された。それゆえ、彼は律法を破ったためにらい病患者となった。人は皆、罪の王国か義の王国のどちらかの支配下にある。もし罪が私を支配しているなら、私は力ずくで神殿に入ったイスラエルの王の一人である。もし私が自分の進歩の尺度に従って義人であり、正しいことを行い、神の前で堅く立っているなら、義が私を支配している。しかし、らい病患者が生きている間、イザヤの唇は汚れていた。悪人が生きている間、イザヤは万軍の主を見ることができなかった。(1123) 彼は邪悪な王の支配下にあったため、唇は汚れていた。彼はいつ神の幻を見始めたのか。オシアスが死んだ年である。神の意志があれば、他の多くの書物についても同様のことが言えるだろう。出エジプト記には、これと似たようなことが書かれています。「数日後、エジプトの王が死んだ。イスラエルの子らは嘆き、彼らの叫びは神に届いた。」(出エジプト記2章23節)。 ファラオが生きている間、イスラエルの子らはため息をつかず、さらに悪い境遇にあったため、うめき声​​をあげる自由さえなかった。王が生きていて、彼らに煉瓦と藁を作るように命じていたからである。ファラオが生きている間、彼らは神にため息をつかなかった。ファラオが死んだとき、彼らは涙で濡れた顔を上げることができた。邪悪な王は、ファラオ・ゼブルスが生きている間、私たちの胸の中に生きている。私たちは煉瓦と藁を作り、黙って涙を飲み込み、最初の悪行を行う。しかし、彼が死に、主なる神が私たちを訪れるとき、私たちは主にため息をつく。それゆえ、私たちの死ぬべき体の中にある罪の王国が死ぬように主に祈ろう。罪は死んだ、しかし私は再び生きている、と主は言われる。(ローマ7章9節)また、罪は再び生き、私は死んだ、とも言われる。(同10節)罪の王国を所有する者が死ぬと、ホセアよ、ファラオも死ぬ。邪悪な王が死ぬと、私は天に目を上げると、神はアブラハム、イサク、ヤコブのように私の声を聞いてくださる。そして私は万軍の主が、民が見たことのない高い玉座に座って統治しておられるのを見る。ウジヤはまだ死んでいなかった。私はこれとは反対の良いことに似たことを挟みたい。このウジヤは、ゼカリヤが生きている間は、賢明であったので、神の前に罪を犯さなかった。ゼカリヤが死ぬと、彼は民を治め、町を治めていた場所で主から離れ去った。昼も夜もこれらのことを読んで、主が「あなたは私の金をテーブルの上に置くべきだった」と言われるのを聞く。そして、わたしが来たら、利子をつけて請求したであろう(マタイ25章)。ハンカチで借りたミナを集めたり、お金を地面に投げ捨てたりするのではなく、人々に貸し与えよう。主の理性を信じるなら、利子をつけた貸し付けがどのように返済されるかが分かるだろう。どのように、など。アーメン。 :::[[イザヤの幻視に関する説教の翻訳#第1説教|先頭に戻る]] ==出典== *[https://la.wikisource.org/wiki/Patrologia_Latina/24 Patrologia_Latina/24] *底本: [https://la.wikisource.org/wiki/Translatio_homiliarum_in_visiones_Isaiae Translatio homiliarum in visiones Isaiae] 『イザヤの幻視に関する説教の翻訳』オリゲネス、J. P. Migne 1846 early modern edition. {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- ラテン語版 Wikisource, [[la:Translatio homiliarum in visiones Isaiae]] J. P. Migne 1846 early modern edition の第5説教までを翻訳 --> 53feflryw7wwm85qguy29mal1j9ahx2 242091 242090 2026-05-03T06:11:04Z 村田ラジオ 14210 校正 242091 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = イザヤの幻視に関する説教の翻訳 | section = Translatio homiliarum in visiones Isaiae | previous = | next = | year = | 年 = | override_author = [[s:en:Author:Origen|オリゲネス]](2-3世紀) | override_translator = [[s:la:Scriptor:Sophronius Eusebius Hieronymus|ヒエロニムス]] | override_editor = [[s:la:Scriptor:Iacobus Paulus Migne|J.P. ミーニュ]] | noauthor = | notes = *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:いさやのけんしにかんするせつきよう}} <!-- [[Category:キリスト教]]--> [[Category:教父]] [[Category:オリゲネス]] [[Category:聖書研究]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:パトロロギア・ラティナ]] }} オリゲネス、ストリドンのヒエロニムス ミーニュ・パトロロギア・ラティーナ 第24巻 ==イザヤの幻視に関する説教の翻訳== ===第1説教=== ウジヤ王が死んだ年に、わたしは主が玉座に着いておられるのを見た。 第6章。(1101) 1. ウジヤ王が生きている間、預言者イザヤは幻を見ることができませんでした。ウジヤは罪人であり、主の御前で悪を行い、神の律法の御心に反する行いをしていたからです。彼は神殿と至聖所に入り、そのために額にらい病がかかり、都から出ると汚れた者とみなされました。このように、私たちが神の幻を見るためには、魂の君主であるウジヤ王が死ななければなりません。「ウジヤ王が死んだ年に、わたしは主を見た」(イザヤ書6章1節)と書かれているのは、決して無駄ではありません。ウジヤ、すなわちファラオが生きている間は、私たちはエジプトの行いをしながらため息をつきません。しかし、彼が死ぬと、出エジプト記に記されているように、私たちはため息をつきます。ウジヤが生きている間は、私たちは神の栄光を見ません。しかし、彼が死ぬと、ウジヤが死ぬやいなや、私たちは神の栄光を見るのです。ただ、こうして「しかし、私は彼によって王とされた」(詩篇2篇6節)と言われた方の言葉が私たちのうちに支配し、怒りが支配しないようにするためです。確かに、罪の王もいます。使徒はこれを知って、「ですから、あなたがたの死ぬべき体において、罪が支配しないようにしてください」(ローマ6章12節)と言っています。罪に支配され、そのような王に身を委ね、神の王国を軽んじ、快楽に身を任せる人は、哀れです。ですから、快楽を愛する者は、神を愛する者ではありません。使徒によれば、ある人々についてこう言われています。「神よりも快楽を愛する者たち」(1テモテ3章)。確かに、このことは全くの不信仰者について言われているのではなく、心の中で神よりも快楽を愛する者、敬虔の形は持っているが、その力を否定する者について言われているのです。これはホセア王の死によるもので、預言者は王の死後、幻を見たと言っています。しかし、その幻とは何でしょうか。「私は主が高く上げられた玉座に座っておられるのを見た」など。神を見る者すべてが、神が高く上げられた玉座に座っておられるのを見るわけではありません。別の預言者が主を見て、玉座に座っておられるのを見たが、高く上げられたのではなかったことを私は知っています。聖書について論じたダニエルはこう言っています。「玉座が据えられた」(ダニエル7章9節)が、その玉座は高くありませんでした。そしてわたしは来て、ヨシャファトの谷で民を裁くために座るであろう。それゆえ、彼はこの谷に座り、この谷で、彼が断罪する者を裁くであろう。しかし、彼が高くそびえる玉座に座っているのを見るのはまた別のことである。ミカ書にはこうある。「神は出て行って降りて来られる」(ミカ書1章)。そして、ソドムを見るために、彼は降りて来られる。降りて来られるとき、彼は言う、「わたしのもとに来る者たちの叫びに従って、彼らが行ったかどうかを見よう」(創世記18章)。したがって、神は物事の尊厳に応じて、時には上に、時には下に見られる。それゆえ、わたしは主を見た、(1103)イザヤは言う、高くそびえる玉座に座っている主を。もしわたしが、ここにいる者たちの上に君臨する神を見るならば、高くそびえる玉座に座っている神を見ることはない。もしわたしが、天の力をもって君臨する神を見るならば、高くそびえる玉座に座っている神を見る。神は天の権威について何と言っているでしょうか。王座、主権、支配、権威は天の権威です。そして、もし私が御言葉の中で、主がどのようにそれらを支配しておられるかを見たとしたら、私は主が高くそびえ立つ王座に座っておられるのを見ました。そして、その栄光は御殿に満ちていました。その王座は高く上げられ、その栄光は御殿に満ちていました。私は、その家が地上にある主の栄光に満ちているとは思いません。地は主のものであり、その満ちるものも主のものです(詩篇24篇)。しかし、あなたがたは今、神の栄光の満ち溢れを見いだすことはないでしょう。しかし、もし誰かが神のために神殿を建てるならば、神の栄光が見られるでしょう。そして、もし彼が言われたことを守るならば、満ち溢れる家は神の栄光であることが見られるでしょう。しかし、私は、家の栄光がこのようにして成就されるかどうかは知りません。そして、レビ記において、この件に関する限り、神は寛大な方であり、続く祈祷文の中で、主の栄光が現れるために主が特定の事柄を行うよう命じられたと記されています。これらの事柄が行われなければ、神の栄光は決して現れません。しかし、私たちはそれらを読めば理解できます。 2. そして、セラフィムが彼の周りに立っていた。一方に六つの翼があり、もう一方に六つの翼があった。私は二人のセラフィムを見た。それぞれに六つの翼があった。それから翼の配置。そして、彼らは確かに二つの翼で顔を覆った。それは彼ら自身の顔ではなく、神の顔を。他の二つの翼で足を覆った。それは彼ら自身の足ではなく、神の足を。そして、他の二つの翼で彼らは飛んだ。書かれていることによれば、それは矛盾しているように思える。もし彼らが立っていたなら、飛ぶことはできない。しかし、こう書かれている。「二人のセラフィムが彼の周りに立っていた。一方に六つの翼があり、もう一方に六つの翼があり、彼らは確かに二つの翼で顔を覆い、二つの翼で足を覆い、二つの翼で飛び、互いに叫び合った。」しかし、神の周りにいるこれらのセラフィムは、知識によってのみ「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と言う。この理由で、彼らは三位一体の秘儀[あるいは mysterium]を守っている。彼ら自身が聖なる者だからである。なぜなら、この世のすべてにおいて、これらよりも聖なるものはないからである。そして彼らは互いに「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と軽々しく言うのではなく、すべての人に救いの告白を叫んで告げるのである。この二人のセラフィムとは何者か。私の主イエスと聖霊である。また、御名の役職が保たれているならば、三位一体の本質が矛盾しているとは思わない。彼らは神の顔を覆った。(1104)なぜなら、神の初めは知られていないからである。しかし、足も。なぜなら、私たちの神にある最後のものは理解されていないからである。中間部分しか見えないからである。これらの以前のことの前には、私は知らない。今あることから、私は神を理解する。これらのこれから来ることの後には、それがどのように来るのか、私は知らない。誰が彼に告げたのか。伝道の書は言った。「以前のことと、これから起こる後のことを私に告げよ。そうすれば、あなたがたは神々であると私が言おう」(伝道の書19章)。それゆえ、イザヤもこう言っている。「わたしたちに過去のことを告げよ。わたしたちは心を傾けて知ることができる。また、これから起こる後のことをわたしたちに示せ。将来起こることをわたしたちに告げよ。そうすれば、わたしたちはあなたがたを神々だと言うであろう。」(イザヤ書41章)このことから、もし誰かが過去について語り、未来について語ることができるならば、その人は神である。では、セラフィム以外に誰が「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と言えるだろうか。しかし、セラフィムはいわば神の一部、半分を覆い隠し、互いに叫び合い、神を助けて、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と言った。それゆえ、彼らは立ち、動き、神と共に立ち、動き、神を示している。彼らは顔を覆い、足を覆い、覆われたものは動かず、飛ぶものは覆われず、そしてこう言う。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神よ、全地は神の栄光に満ちている。」主イエス・キリストの来臨が告げられ、今や全地は主の栄光に満ちています。いや、確かにまだ満ち溢れてはいませんが、主ご自身が私たちに父なる神に祈るように命じられた祈りが成就するときに、それは成就するでしょう。「祈るときは、こう言いなさい。『天におられる私たちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が天でも地でも行われるように、地でも行われますように。』」(マタイ6章)。父の御心は今も天にあり、まだ地上では成就していません。イエスご自身が、身にまとわれた肉体の務めに従って、「神は私に天と地におけるすべての権威をお与えになった」(マタイ28章)と言われたとおりです。天で権威を持っておられた方が、地上でも権威を持っておられないでしょうか。また、ご自身のものとなられた方が、世から何かを受けるべきでしょうか。しかし、神が天で信じられたように、地上でも信じられるために、人となったキリストは、以前は持っていなかった権威を受けられました。そして、今に至るまで、地上のすべてに対して権威を持っておられるわけではありません。なぜなら、キリストはまだ罪を犯す者たちを支配してはおられないからです。しかし、これらの者たちに対する支配権もキリストに与えられ、すべてのものがキリストに従うようになるとき、キリストの力は完全になり、キリストはすべてのものを自分に従わせて歩まれるでしょう(コリント第一 15章)。 しかし、ある者たちはまだ神に服従することを望まず、なおも神の敵に服従している。さらにこう言おう。「わたしの魂は神に服従しないだろうか」(詩篇53篇)?わたしの救いは神にある。 3. 二人は飛び入り、一方が他方に言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神。全地は神の栄光に満ちている。」そして、彼らの叫び声によって敷居が持ち上げられた。それはイエス・キリストの声と聖霊の声であった。もし、叫ぶ私たちの中の誰かがイエス・キリストと聖霊の声を聞くならば、敷居は持ち上げられ、持ち上げられた時よりも高くなる。その時、「君主たちよ、門を上げよ。永遠の門よ、上げよ。栄光の王が入って来られる」(詩篇24篇)と言われた。 4. 家は煙で満たされた。火が消えた後、家は煙で満たされた。煙は火の蒸気である。そして私は言った。「ああ、私は惨めだ。私はただの人間で、唇が汚れているから、苦しんでいるのだ。」私はなぜイザヤが自分を低くしたのか理解できない。彼は真実を言っている。聖書は、彼の唇は彼の罪を取り除くために遣わされたセラフィムの一人によって清められたと証言している。しかし、セラフィムの一人は私の主イエス・キリストであり、父によって私たちの罪を取り除くために遣わされ、こう言われる。「見よ、わたしはあなたがたの不義を取り除き、あなたがたの罪を清めた。」また、御子が父によって遣わされたとしても、あなたはそれを自然に対する侮辱とは思わない。最後に、あなたがたが三位一体における神性の統一性を知ることができるように、この講話ではキリストだけが罪を赦すが、それでも罪は三位一体によって赦されることは確かである。なぜなら、一人を信じる者は、すべてを信じるからである。それゆえ、天の祭壇から鉗子を持ってきて、私の唇に触れさせよ。主の鉗子が私の唇に触れたなら、それは私の唇を清めます。主は私の唇を清め、悪徳から割礼を施してくださったので、先ほど申し上げたように、私は神の言葉をもって口を開き、もはや私の口から汚れた言葉は出ません。なぜなら、私は人間であり、汚れた唇を持っていますが、汚れた唇を持つ民の中に住んでいるからです。遣わされたセラフィムは預言者の唇を清めましたが、民の唇は清めませんでした。預言者自身が、自分の唇が汚れていること、そして汚れた唇を持つ民の中に住んでいることを告白したからです。しかし、遣わされたこのセラフィムは、民の唇を清めるにふさわしいとは判断せず、そのため民は依然として不敬虔な行いをし、私の主イエス・キリストに抵抗し、汚れた唇で彼を呪っています。しかし、私はセラフィムが来られるとき、私の唇を清めてくださるように祈ります。 5. そして私は、万軍の主である王をこの目で見た。なぜ私たちは、ユダヤ人のある伝承を今ここで語らないのか。それは確かにありそうではあるが真実ではない。そしてなぜ私たちはその解決策を見つけないのか。人々は、イザヤが律法を破り、聖書の外を説いているかのように、民衆に追われたと言う。聖書にはこうある。「だれもわたしの顔を見て生きることはできない」(出エジプト記33章)。しかし彼は言う。「私は万軍の主を見た」。モーセは(彼らは言う)見なかったが、あなたは見た。そしてこの理由で彼らは彼に従い、彼を悪人として非難した。彼らは、セラフィムが二つの翼で神の顔を覆っていることを知らなかったからである。私は主を見たが、イザヤは主の顔を見なかったし、モーセも見なかった。モーセは後のことを見た(と書いてあるとおり)。それでも彼は主を見たが、その顔は見なかった。そしてここで彼は見たが、その顔は見なかった。それゆえ彼らは預言者をひどく非難した。そして私は万軍の主である王をこの目で見た。そしてセラフィムの一人が私のところに遣わされた。私の主イエス・キリストの到来は一度きりではなく、地上に降りてイザヤのもとに、モーセのもとに、民のもとに、そして預言者一人ひとりのもとに来られた。たとえ既に天に迎え入れられたとしても、再び来られることを恐れてはならない。しかし、肉体をも​​って現れる前にも人々のところに来られたので、証人として彼を受け入れ、こう非難し、こう言いなさい。「エルサレムよ、エルサレムよ、預言者を殺し、あなたに遣わされた者たちを石打ちにする者よ、わたしは何度あなたの子らを集めようと願ったことか」(マタイ23章11節)。 私が望む限り何度でも。彼は、「この到来の時以外はあなたたちを見たことがない」とは言わず、「私が望む限り何度でも」と言います。そして、預言者一人ひとりに目を向けて、こう言います。「わたしは、預言者を通して語ったキリストである。わたしは、『恐れるな』と言った。そして今、イエス・キリストが遣わされた。」彼は嘘をつきません。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる」(主は言われる)。彼は嘘をつきません。「わたしの名によって二、三人が集まる所には、わたしもその中にいる。」それゆえ、イエス・キリストはそこにいて、助けてくださり、大祭司として私たちの願いを父にささげる準備を整えておられるので、私たちも立ち上がって、彼を通して父にいけにえをささげましょう。彼は私たちの罪の贖いであり、彼には世々限りなく栄光と支配がありますように。アーメン。 ===第2説教=== 「見よ、処女が胎内に宿るであろう」などと書かれていることについて。 第7章。 (1107) 1. 前述のとおり、アハズは深淵や高所でしるしを求めるように命じられたとき、恥じ入って、求めない理由を述べました(イザヤ7章)。彼は「私は求めません。主を試そうとはしません」と言いました。しかし、彼はこの言葉で非難され、こう言われました。「ダビデの家よ、今聞け。人間と争うことはあなたたちにとって小さなことなのか。どうして主と争うのか。」そして、この約束が告げられました。「それゆえ、主ご自身があなたたちにしるしを与えられる。見よ、処女が胎内に宿り、男の子を産む。その子の名をインマヌエルと名付けよ。」これらのことを説明し、残りのことについては、神の恵みが現れる必要性と、それらに現れることを知るでしょう。彼はしるしを求めるように命じられましたが、それは単に自分のためではなく、自分のためにです。なぜなら、聖書にはこう書いてあるからです。「深淵や高所で、あなたの神、主からしるしを求めよ。」提案されたしるしは、私の主イエス・キリストです。これは、彼が深淵や高い所で自ら求めるように命じられているしるしです。確かに深淵では、降りてくるのは彼自身です。確かに高い所では、彼はすべての天の上に昇った方です。しかし、深淵と高い所で私に示されたこのしるし、私の主イエス・キリストは、その深遠と高さの奥義が私に知らされなければ、私には何の役にも立ちません。私が深淵と高い所からキリスト・イエスの奥義を受けるとき、私は主の命令に従ってしるしを受け、深淵と高い所を自分の中に持っているかのように、こう言われるでしょう。「あなたは心の中で、『誰が天に昇ったのか』と言ってはならない。これはキリストを下ろすためである。あるいは、『誰が深淵に下ったのか』と言ってはならない。これはキリストを死者の中から連れ戻すためである。」あなたの言葉はあなたの口と心の中で力強いのです(ローマ10章)。それゆえ、私たちは皆、このしるしを求めるように命じられています。主なる神が深淵と高みにおいて与えるしるしが、私たちにとって有益となるためです。しかし、もし誰かが知っていて、理性的な考察によって、深淵と高みにおいて語られていることが分離的に語られているのではないと認識するならば、それは両方が可能であることを意味するからです。(1108)深淵と高みにおいて、主からしるしを自分自身のために求めなさい。そして約束の中で、使徒はこう言いました。「私たちが深さ、高さ、長さ、幅を知ることができるように」(エフェソ3章)。 アハズは言った、「私は求めません」。彼は不信仰だった。彼は言った、「自分で求めなさい」。しかし、今日に至るまで人々はしるしを求めないので、しるしを得ず、私の主イエス・キリストを受け入れない人々は主に挑戦しているのです。それから、別の質問が続きます。彼は、「私は求めません。主を試しません」と言い、しるしを求めることを試練と考え、こう言いました。「ダビデの家よ、今聞け。あなたがたが人と争うことは小さなことなのか。どうして主と争うのか」。しかし、深いところに、あるいは高いところにしるしを求める者は、主と争っているのではなく、人と争っているとも思わない。神の戦いは、人が救われる方法だからである。だから、救いを求めて逃げる者は、主と争っているのではない。しかし、人を救うために主に争う者が救いから逃げ、主から遠く離れるならば、主に挑戦していることになる。それゆえ、主ご自身がしるしをあなたがたに与えるであろう。見よ、処女が身ごもり、男の子を産むであろう。その子の名をインマヌエルと名付けなさい(マタイ1章13節)。この預言者の例の真実は、「あなたがたは名付けるであろう」と言っている。マタイでは、「その子の名はインマヌエルと呼ばれるであろう」と書かれていることがわかっている。預言者について、これより少ないことをする必要があるとは言えない。しかし、福音書はどのようにしてこのように書かれているのだろうか。他の多くの福音書で行われたように、知性のない者が安易なことに走ったのか、それとも最初からそうであったのか、あるいは、福音書が公表されたと言う人がいるかもしれないので、よく考えてみるべきだ。預言者は確かに、「あなたがたはその子の名をインマヌエルと名付けるであろう」と明確に述べている。福音書の冒頭で、「あなたは彼の名をインマヌエルと名付けなさい」とある人が読んで、心の中でこう言ったことを私は知っています。「あなたは彼を何と呼ぶのか?誰が呼ぶのか?アハズだ。アハズは、何世代も後に来た救い主について、『あなたは彼の名をインマヌエルと名付けなさい』と聞くことができたのだろうか。あなたが呼ぶ名前で、彼は名付けられるのだ。」と書いてある。(1109)しかし、アハズに「あなたは彼の名をインマヌエルと名付けなさい」と言われたのではなく、ダビデの家に対してはっきりとこう言われたのである。「ダビデの家よ、今聞け。あなたがたが人と争うことは小さなことなのか。どうして主と争うのか。それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、処女が胎内に宿り、男の子を産む。あなたは彼の名をインマヌエルと名付けなさい。」しかし、この言葉の意味が理解できないときは、何もせず、安易な道に走らず、神の恵みが知識の光によって問題の解明をもたらしてくれるまで待ちましょう。あるいは、少なくとも神の恵みが、神が望む者を通して再び私たちを照らし、私たちがそれ以上求めることなく、問題が解決されるようにしましょう。しかし、理解していない事柄に軽率に踏み込むと、自らを苦しめることになります。では、ダビデの家とは何でしょうか。私が何度も証明してきたように、ダビデがキリストであるならば、私たちダビデの家は神の教会です。そして、教会である私たちには、前述の闘いを神に捧げるのではなく、主の御前でそのしるしを受けるようにと言われています。これらのことは、ダビデの家ではなく、私たちに言われているのです。そして、ダビデの家に属する者は誰でも、その名をインマヌエルと呼ぶと預言されています。キリストの到来の時、私たちの教会だけがキリストについて「神は私たちと共におられる」と言うからです。神の恵みによってこれらのことを説明してきたので、今度は他の奥義を探求しましょう。 2. 彼はバターと蜂蜜を食べるでしょう。キリストがバターと蜂蜜を食べることは、どのように預言されているのでしょうか。主の許しを得てこの点が説明されたとしても、次に続くことで、また別の疑問が生じるでしょう。そして、私たち全員が聖書に書かれているとおりに行いたいものです。「聖書を調べなさい!」聖書には、多くの肉体の食物が霊的な食物として挙げられています。生まれたばかりの赤子のように、純粋で純粋な乳を慕い求めなさい(ペテロ第一 2章2節)。 したがって、それは疑いなく良質なミルクであり、私たちはこの種のミルクを求めなければなりません。また、箴言には蜂蜜についてこう書かれています。「蜂蜜を見つけたら、必要な分だけ食べなさい。吐き出してしまうかもしれないから」(箴言25章16節)。聖霊は、私たちがもっと食べてしまうかもしれないという理由で、この既知の蜂蜜に注意を払っておられたのでしょうか。しかし、聖霊は確かに霊的な蜂蜜を感じ取って、「蜂蜜を見つけたら、必要な分だけ食べなさい」とおっしゃっています。しかし、聖霊はどのような感覚で、蜂蜜を見つけたら、蜂蜜は見つかるのだから、必要な分だけ食べるようにと私たちに命じられたのでしょうか。聖霊は、「蜂のところへ行って、蜂がどのように働くかを学びなさい」(箴言6章)とおっしゃっています。そして、預言者たちは蜂であることが分かります。実際、彼らは蜜蝋を発明して蜂蜜を作り、もし私が聞き手に言うのが適切であれば、彼らの蜜蜂の巣は彼らが残した書物です。そして私は喜んで聖書に近づき、蜂蜜を見つけました。しかし、蜂蜜を食べなさい。箴言にはまたこう書かれています。「蜜蜂の巣は良い。あなたの口を甘くするためである」(箴言24章13節)。聖霊が、使用済みの蜂蜜を食べなさい、それは良いものだと言っていると思いますか。私は、聖霊が私に肉体の蜂蜜について、蜂蜜を食べなさいと命じているとは言いません。見よ、私は蜂蜜を食べられない、あるいは少なくともそのような性質を持っていません。だからこそ、聖霊は私に、蜂蜜を食べなさい、肉は食べてはならない、しかし、わが子よ、蜂蜜を食べなさい、それは良いものだと言っているのです。もしあなたが預言者である蜂と、彼らの仕事である蜂蜜や巣を見れば、聖霊の尊厳に従って、わが子よ、蜂蜜を食べなさい、それは良いものだとどのように理解するか分かるでしょう。神の言葉を黙想し、聖書の言葉によって養われる者は、神の命令、すなわち「わが子よ、蜜を食べよ」という命令を実行しなさい。そして、その命令を実行する者は、それに続く「それは良いものだから」という言葉を得る。聖書に記されているこの蜜は良いものだからである。しかし、「蜂のところへ行け」という言葉は、このような意味である。蜂の上に立つ(いわば)一匹の蜂がいる。蜂の中に王と呼ばれる王がいるように、蜂の王は主イエス・キリストである。聖霊は私をこの方に遣わし、私が蜜を食べるようにする。蜜は良いものだから、またその蜜房は私の口を甘くするためである。そして、文字は蜜房よりも微妙かもしれないが、これらの文字で理解されるのは蜜である。さらに、処女インマヌエルから生まれたこの方は、バターと蜜を食べ、私たち一人ひとりからバターを食べようと望んでおられる。この説教では、主が私たち一人ひとりからいかにバターと蜜を求めているかを教えるでしょう。私たちの甘い行い、最も心地よく有益な言葉は、処女から生まれたこの方が召し上がるインマヌエルが召し上がる蜜です。しかし、もし私たちの言葉が苦味、怒り、憤り、いらだち、汚い言葉、悪徳、争いに満ちているなら、救い主は私の口に苦い胆汁を入れ、救い主はそのような言葉を召し上がりません。しかし、人々の間にある言葉が蜜であるならば、救い主はその言葉を召し上がります。聖書からこのことを確認しましょう。「見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。だれかがわたしのために戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って行き、彼と共に食事をし、彼もわたしと共に食事をするであろう。」(黙示録3章20節)。ですから、主は私たちの中から私たちと共に食事をすると約束しておられ、私たちが主と共に食事をするならば、私たちも主と共に食事をすることは確実です。私たちの善い言葉、行い、理解を糧として、主は霊的で神聖な、より優れた糧を私たちに与えてくださいます。ですから、心の扉を開いて救い主をお迎えすることは祝福です。主のために蜜を用意し、主の晩餐を共にしましょう。主が私たちを天の御国にある父の盛大な晩餐へと導いてくださいますように。その御国はキリスト・イエスにあり、栄光と支配は世々限りなくキリストにあります。アーメン。 ===第3説教=== 七人の女性について 第11章。(1111) 1.七人の女性は非難を受け、その非難を取り除いてくれる人を求めてさまよっています。七人の女性自身は、その人のパンを食べ、その人の衣をまとうと約束しています。彼女たちは、その人のパンではなく、非難を取り除いてくれる人の名を必要としています。彼女たちは、自分が着ている人の衣を必要としていません。彼女たちは、人が与えることのできるものよりも良い衣を身につけています。人間の境遇では得られないほど豊かな食物を持っています。では、この七人の女性は誰であり、彼女たちの非難とは何なのか、考察する価値があります。七人の女性は一つです。なぜなら、彼女たちは神の霊だからです。そして、この一つが七つなのです。神の霊とは、知恵と理解の霊、助言と力の霊、知識と敬虔の霊、主を畏れる霊です(イザヤ書11章)。この知恵は、その内に湧き上がる多くの知恵によって非難を受けています。この真の理解は、偽りの理解から非難を受けています。この偉大な助言は、多くの善くない助言から非難されています。この徳は、徳ではないのに徳であると約束する者によって呪われています。この知識は、その名を僭称する偽りの名を持つある種の知識から非難を受けています。この敬虔さは、敬虔であると主張しながら不敬虔であり、悪人を教えるものから非難されています。この畏れは、畏れるべき者であるはずの者から非難を受けています。なぜなら、多くの人が神への畏れを約束しますが、知識をもって畏れていないからです。それでは、これら七つがどのように非難を受けているかを考えてみましょう。この世の知恵、この世の君主たちの知恵を見てください。彼らは私のキリストの知恵を非難し、真のユダヤ教の知恵を非難しています。私たちはその知恵によって霊的に割礼を受けていますが、彼らは断ち切られています。それゆえ、この世の知恵とこの世の支配者たちが知恵を呪う理由を理解しなさい。このため、七人の霊的な者たちの恥辱を取り除くために、女のように彼らと共にいる人が求められているのです。彼らの恥辱を取り除くことができる人はただ一人しかいません。この人は誰でしょうか。イエスは、肉によればエッサイの根から、肉によればダビデの種から生まれ、義化の霊によって力ある神の子となるよう、あらかじめ定められていました(ローマ1章)。 エッサイの根から一本の杖が生えた。その杖は、すべての被造物の初子ではなく、初めに神と共にあった方、すなわち神の言葉ではない。エッサイの根から生えた杖であり、肉によれば、その方に生まれたのである。エッサイの根から一本の杖が生え、その根から花が咲いた。花とは誰か、根とは何であるか。両者は一つであり、同じである。しかし、事情は異なる。もしあなたが罪人であるならば、あなたには花はなく、エッサイの根から生える花を見ることもないだろう。弟子が杖と花について語っているように、あなたにも杖が来る。杖について彼はこう言っている。「あなたがたは、私が杖を持ってあなたがたのところに来ることを望むのか。」しかし、花について彼はこう言っている。「それとも、神の愛と柔和な心をもって。」それゆえ、エッサイの根から、懲らしめを受ける者のための知恵の杖、叱責を受けるべき者のための杖、戒めを受けるべき者のための杖が生え出た。また、すでに教えを受け、厳しい懲らしめを必要とせず、ましてや懲らしめを必要とせず、すでに花を咲かせ、完全な実を結ぶことができる者のための花も生え出た。まず花が現れ、それから花が伸びて、実を結ぶ。エッサイの根から杖が生え、その根から花が咲き、七人の女がその上に宿り、主の霊、知恵と悟りの霊がその上に宿る。知恵の霊はモーセには宿らず、知恵の霊は契約の箱イエスにも宿らず、知恵の霊は預言者たち、イザヤにもエレミヤにも宿らなかった。 2. あなた方は、私が主イエス・キリストをあがめたいと願っているのに、私が冒涜しているかのように私を石打ちにしない。しかし、我慢して、言われたことをよく考えてみれば、霊が彼らの誰にも宿らなかったことがわかるだろう。(1113) 霊が彼らの誰にも来なかったのではなく、霊が誰にも宿らなかったのだ。霊はモーセに臨んだが、モーセは自分に臨んだ知恵の霊に従わなかった。「聞け、頑固な者たちよ。この岩からあなた方に水を出そうか」とモーセは言う。霊はすべての義人に臨み、イザヤにも臨んだが、彼は何と言っているか。「私は汚れた唇を持っている。汚れた唇を持つ民の中に住んでいる。」(イザヤ6章)。知恵の霊は火ばさみと火の後に臨み、汚れた唇を持つ者に臨んだが、彼は留まらなかった。彼は確かにそれを奉仕者として用いたが、彼は留まらなかった。彼は、自分が臨むすべての人を悩ませる。すべての人は罪を犯し、地上には善を行い罪を犯さない正しい人は一人もいない。汚れから清い者は一人もおらず、たとえ命が一日であっても、その月日は限られている。(ヨブ記15章) したがって、それは誰にもとどまりません。福音書からも、霊が多くの人に臨んだが、彼らのうちにとどまらなかったことが分かります。少し前に、「わたしの霊はこれらの人々のうちにとどまることはない」と読みました。「とどまらない」とは言わず、「とどまらない」とだけ言いました。ヨハネはただ一人、霊がとどまった人を見ました。そのしるしは、「霊が下ってその人のうちにとどまるのを見たら、その人は神の子である」というものでした。彼は確かに、霊と共に下る神の言葉によって奉仕しました。しかし、しばらくすると罪を犯し、しばらくすると無駄なことを言います。しかし、彼が罪を犯さずにとどまるかどうかは分かりません。霊が臨んでいるときに、罪を犯すことが許されると思いますか。したがって、聖書に書かれているとおり、神の霊は誰にもとどまりませんでした。「エッサイの根から一本の若枝が生え、その根から花が咲き、神の霊が彼の上にとどまった。知恵の霊、悟りの霊、助言と力の霊が。」このゆえに彼は偉大な助言の天使である。このゆえに彼は勝利し、ますます強くなり昇天した。力ある者たちは彼の昇天に驚嘆し、彼について言った。「これは主だ。戦いにおいて強く、力強い方だ。」それゆえ、私はさらに天の領域、すなわち彼の力へと昇天したと言う。そして助言と力の霊が彼の上に宿った。私の力と賛美は主であり、主は私の救いとなられた。それゆえ、神の霊が彼の上に宿った。知恵と理解の霊、助言と力の霊、知恵と敬虔の霊、そして主を畏れる霊が彼を満たした。 3. それゆえ、捕らえようとする女たちは、一人の男を七人で捕らえるであろう。そしてこれは前のことに依存しており、まず七人の女が一人の男を捕らえる時を知る必要がある。エルサレムの強者たちが屈服し、シオンの娘たちの胸飾りが露わになり、シオンが一人ぼっちになり、地に踏みにじられるとき、七人の女が一人の男にすがりつき、「私たちは自分のパンを食べ、自分の服を着ます。それでも、あなたの名は私たちの上に呼ばれるでしょう」と言うでしょう。そのとき、七人の女は、理解されている人、生まれ、身にまとった体に従って、私たちの主イエス・キリストである一人の男にすがりつき、真にすがりつくでしょう。七人の女が一人の男をつかみ、「私たちは自分のパンを食べます」と言うでしょう。多くの男が歩いているのに、女はだれもつかまず、だれも彼女たちを喜ばせることはありません。彼女たちが一人の男をつかむのは、男が不足しているからではなく、彼女たちが望むような男が稀だからではなく、そのような男を探し求めたからでもありません。彼女たちはただ一人の男を見つけ、彼をつかみ、「私たちは自分のパンを食べ、自分の服を着ます」と言うのです。知恵の食物、悟りの食物、その他の霊の食物があります。この食物とは何でしょうか。私は恐れずに言いますが、これら以外にも食物があります。おそらく、私の食物が神の言葉であるように、神はこう言われます。「わたしは天から下って来た生けるパンであり、世に命を与える者である」(ヨハネ6章)。知恵の食物は父ご自身です。ですから、私の食物は、私を遣わされた方の御旨を行い、その{{r|業|わざ}}を成し遂げることです(ヨハネ4章)。 また、知恵や理解、その他の霊が何かを必要としていると考えるべきではありません。なぜなら、それらは別の食物を持っているからです。神の本質は、全摂理の食物の一つだからです。私たちは自分のパンを食べ、自分の衣を着ます。知恵には、彼女を飾るある装飾品があります。知恵は言葉で飾られています。これらの女性たちはそれぞれ装飾品を持っています。しかし、あなたの名が私たちの上に呼ばれますように、私たちの恥辱を取り除いてください。知恵の名とは何ですか。イエスです。あなたの名が私たちの上に呼ばれるとはどういう意味ですか。私は知恵です。私はあなたの名で呼ばれたいのです。私が知恵イエスと呼ばれ、理解と偉大な助言と力と知識と敬虔と神への畏れがイエスと呼ばれ、あなたの名がすべてにおいてすべてとなるように。あなたの名が私たちの上に呼ばれますように、私たちの恥辱を取り除いてください。確かにイエスは恥辱を取り除いてくださいました。それゆえ、立ち上がって、この方を遣わされた神に祈りましょう。七人の女性の霊がこの方に宿り、この方が私たちにこれらの女性たちとの交わりを与えてくださいますように。そして、これらの女性たちを受け入れることによって、私たちが神と人において賢く、聡明になり、キリスト・イエスにおいて徳をもって魂を飾ることができますように。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。 ===第4説教=== 神とセラフィムの幻視について 第6章。(1115) 1. 神の始まりを見つけることは不可能です。あなたは決して神の起源の始まりを理解することはできません。私はあなたではなく、誰も、また存在する他の何物も理解できません。常に神と共にいる救い主と聖霊だけが神の御顔を見ます。そしておそらく、天におられる父の御顔を絶えず見ている天使たちも、物事の始まりを見ているのでしょう。そして、セラフィムもまた、人から足を隠すのです。終わりのことは、そのままでは語り尽くせないからです。聖書は「誰が終わりのことを告げられるだろうか」(イザヤ書41章)と言っています。私たちが見るもの(たとえ私たちがいくつかのものを見ていると認められたとしても)は中間的なものです。世界より前にあったものは、私たちは知りません。さらに、世界より前にあったものもありました。世界の後に何が起こるかは、私たちは確信を持って把握できません。しかし、世界の後には、他のものも存在するでしょう。それゆえ、こう書かれていること、すなわち「初めに神は天と地を創造された。地は形なく見えず、闇が淵の面を覆い、神の霊が水の面を覆っていた」(創世記1章)は理解できる。これらの水は清く、その中に神の霊が宿っていた。しかし、深淵を覆っていた闇は生まれてこなかったわけではない。どちらも無から創造されたからである。イザヤ書で主が言われるのを聞け。「わたしは光を形造り、闇を創造した神である」(イザヤ45章)。箴言で知恵が説くのを聞け。「わたしはすべての深淵より先に生まれた」(箴言8章)。これらは生まれてこなかったのではなく、いつ、どのように生まれたのかは知らない。神の最初の業はセラフィム、すなわち神の顔によって覆われている。足も同様である。世の終わりの後に起こることを、誰が幾世にもわたって説明できるだろうか。これらのことを知ると約束するのは、おしゃべりな人間である。人間は、中間のこと、そして世の終わりから審判の完成に至るまでの、罰と報復に関することしか理解できないことを知らないからである。また、これらのことの多くは私たちに隠されている。だからこそ、こう書かれているのだ。「彼らは顔を隠した」。しかし、彼らはただ覆っただけでなく、覆い隠した。つまり、覆ったので、前者の顔は少しも見えず、後者の足も少しも見えなかった。二人は逃げた。観想の道が開かれた。そして彼らは互いに叫び合った。一人が多くの人にではなく、一人が互いに。救い主によって告げられる神の聖さを、その尊厳にふさわしく聞くには、聖霊以外には誰もできない。また、聖霊によって告げられる神の聖さの中に住むには、救い主以外には誰もできない。そのため、彼らは互いに叫び合って言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」。彼らは一度や二度聖なるかなと叫ぶだけでは十分ではなく、三位一体の完全な数(イザヤ書6章)を唱え、父なる神の聖性、独り子なる神の聖性、聖霊という三つの聖性の繰り返しの交わりである、神の聖性の豊かさを顕現した。聖化する方と聖化される方は皆、一つの源から出ているからである(ヘブライ人への手紙2章)。 聖別する方は救い主です。それは、救い主が父なる神から聖さを受ける人であるからです。それゆえ、人々は言います。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神よ」。サバオトは(アキラが訳したように)万軍の主と解釈されます。 2. 全地は神の栄光に満ちています。かつては神殿が栄光に満ちていましたが、今はセラフィムによって地上にいる人々に預言されています。すなわち、わたしの神キリストの栄光が全地を満たすようになるということです。なぜなら、行いによって神をあがめるすべての人の中に神の栄光があり、それゆえ全地は神の栄光に満ちているからです。かつては全地が神の栄光に満ちていたのではなく、地の片隅がそうでした。「神はユダヤで知られ、イスラエルでその御名は偉大である」と言われた時です。御子を遣わし、全地が神の栄光に満ちるようにされた神に栄光あれ。しかし、祝福された人々の教会によって地が満ち溢れていても、彼らがどこにいようとも神の栄光であるのに、あなたがたが神の満ち溢れる栄光にあずからなければ、あなたがたに何の益があるでしょうか。ですから、あなたがたは、神の栄光を求め、それがあなたがたのうちに宿り、あなたがたの中に居場所を見つけ、あなたがたも、神の栄光がある全地とともに、神の栄光に満たされるように、あらゆることに労苦し、努力しなさい。神の栄光の満ち溢れは、私たち一人ひとりを通してどのように実現されるのでしょうか。もし私の行い、私の言葉が神の栄光のためになされるなら、私の言葉は満ち溢れ、私の行いは神の栄光となるのです。(1117)もし私の出入りが神の栄光のためであり、私の食べ物、私の飲み物、私のすべての行いが神の栄光のためになされるなら、私もまた、「地は神の栄光に満ちている」という言葉にあずかる者となるのです。こうして私がこれらすべてのことを成し遂げたとき、セラフィムの叫び声によって敷居が持ち上げられました。ですから、私たち一人ひとりが、理解によればキリスト・神である戸口と戸口の敷居にあずかることができるように働くことは幸いです。私は戸口を肉と呼び、敷居を言葉と呼ぶことが不適切だとは思いません。 3. 彼らの叫び声によって敷居が持ち上げられ、家は煙で満たされた。この煙は神の栄光からの贈り物である。そして私は言った。「ああ、私は惨めだ。私は滅びるのだ。」イザヤよ、幻を見る前に、自分が惨めであることを告白しないのか。彼はこうは言わない。「ホセアが生きている間は、自分が惨めだとは思いもよらなかった。しかし、幻を見たとき、らい病の王ホセアが死にかけているとき、私は自分が惨めであることを知り始め、こう言うのだ。『ああ、私は惨めだ』(歴代誌下26章)!今、私も主に向かって告白し、自分自身についてこう言う。『ああ、私は惨めだ!』イザヤが言うように。『ああ、私は惨めだ!』そして、この次に使徒もこう言う。『ああ、私は惨めな人間だ。誰がこの死の体から私を救い出してくれるだろうか(ローマ7章24節)』だから、私が惨めであることを告白するのは幸いである。もし私が謙遜になり、悔い改めて自分の罪を嘆き悲しむならば、神は私の祈りを聞き、救い主を与えてくださるでしょう。そして私は主イエス・キリストを通して神に感謝を捧げます(同書、25節)。しかし、心から「私は惨めだ」と言いましょう。各自、自分の苦しみと罪の原因を思い出し、祈りを捧げながら、告白するかのように思い出し、もはや行っていないかのように忘れ、こう言いましょう。「私は惨めだ、悔い改めている」。彼は幻を見る前、ホセアが死ぬ前には悔い改めていなかった。悔い改めを始めるとすぐに、「私は悔い改めている」と言う。内なる人に対して感覚のない人は罪人なので、悔い改めません。たとえ外なる体に針を刺されても、死体を感じないのと同じです。同じように、罪に苦しむ罪人に神の言葉をかけても、悔い改めなければ、悲しむことも悔い改めることも、告白を促す悲しみ、すなわち神にかなう悲しみもありません。しかし、救われたいと願う人が、自分を叱責し正す人の言葉を聞いたなら、すぐに「ああ、私は惨めな者だ」と言うでしょう。しかし、「私は惨めな者だ」と言うだけでは十分ではありません。「私は悔い改めます」と付け加えなければなりません。もっと悔い改めたいものです。悔い改めれば悔い改めるほど、罪の束縛は緩むからです。このため、アハブはあまり悔い改められなかったため、大きな益を得ることができませんでした(III Reg. 列王記下 21章)。実際、彼が悔い改められたのは一度だけでした。それゆえ、こう言われています。「あなたがたは、アハブがどのように悔い改められたかを見ました。しかし、悔い改めることをやめない人は、使徒と同じように言います。『私は神の教会を迫害したので、使徒と呼ばれるに値しません』(テモテへの手紙第一 1章)。また、『すべての聖徒の中で最も小さい私に、この恵みが与えられました』(ガラテヤ人への手紙 1章)。」 また、神は真実な方であり、イエス・キリストは罪人を救うために世に来られた。私はその罪人の中で最も罪深い者である(コリント第一 15章)。彼が深く悔い改め、一度ならず、書いたり話したり行動したりする時も常に悔い改めの念を抱いていたことが分かりますか。現代のイザヤも同様に、「ああ、私はなんと惨めな人間だろう。私は悔い改めます。なぜなら私は人間であり、汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ民の中に住んでいるからです」と言っています。また、イザヤの罪は行いではなく言葉にあったので、別の点にも注目しましょう。そのため彼は「私は人間であり、汚れた唇を持っているからです」と言っています。しかし、汚れた唇を持つ民もいました。民を非難し、彼らの罪は汚れた唇の罪よりも多いと言うのは、彼にはふさわしくありませんでした。 4. そして私は、万軍の主である王を自分の目で見た。もし私たちがまだ罪人であった時に神を思い、今預言者が言うように言うならば、神はなんと慈しみ深い方であろうか。神はなんと慈しみ深い方であろうか。なぜなら、神はこう言われるからである。「私は、なんと惨めな者であろうか」。私は彼が悔い改めるのを聞くからである。彼はこう言うからである。「私は悔い改めます」。彼は自分の罪を告白し、こう言ったからである。「私は人間であるが、汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ民の中に住んでいる」。そして、彼がまだ話している間に、私は言った。「見よ、ここに私がいます」。すると、セラフィムの一人が私のところに遣わされ、その手には炭を持っていた。かつて罪を犯した彼の唇が火の燃焼によって清められるように、炭が預言者のところに運ばれてきた。このセラフィムの一人とは誰であろうか。わが主イエス・キリストよ、この者は肉の摂理に従って遣わされ、手に炭を持って、「わたしは地上に火を投げつけるために来た」と言いました。 5. ああ、それがすでに燃えていたらどんなに良いでしょう。そして、セラフィムの一人がわたしに遣わされ、手に祭壇から火ばさみで取った炭を持っていました。火によって清められるのは、ただの偶然の預言者ではなく、神の祭壇から来る預言者です。祭壇の火によって清められていないなら、あなたがたと共にいる者がいます。その者について、「わたしから離れて、ゼブルンとその使いたちのために用意された永遠の火の中へ行け」と言われています。祭壇からそのような火はありません。すべての人が火に渡されますが、すべてが同じ火に渡されるわけではありません。ある者は祭壇からの火を待ち、ある者はゼブルンとその使いたちのために用意された火を待ちます。ですから、叱責の言葉が私たちの心と魂の唇に触れ、私たちも「それは私の口に触れた」と言えるようにしましょう。もし私が口を清めて、無駄なこと、愚かなこと、卑しいこと、悪口(すべてまとめて挙げるとすれば)など、禁じられていることを何も言わないようにするならば、こう言うことができます。「それは私の口に触れた」。さらに、私が汚れた唇を持ち、罪深い言葉のために汚れた物を身に着けている限り、祭壇の火は私の口に触れず、セラフィムの一人も私に遣わされません。 6. そして彼は言った。「見よ、わたしはあなたの唇に触れ、あなたの不義を取り除き、あなたの罪を清めた」。神の言葉が私たちを噛み、私たちの魂を焼き尽くしますように。聞いてこう言いましょう。「私たちの心は私たちの内側で燃えていなかったか」。私たちの不義と罪が取り除かれ、清い口、清い心、清い良心をもって清められるように、キリスト・イエスにおいて全能の神に感謝しましょう。栄光と支配が世々限りなく神にありますように。アーメン。 ===第5説教=== 「東から正義を掲げた方」と記されていること、そして別の形で再び幻について。 第6章(この説教はギリシャ語で非常に誤って翻訳されているため、語句ではなく意味と順序に従って翻訳する。)。(1119) 1. 預言者たちはキリストが生きている義であると言っています。私たちは、キリストが義であり、聖化であり、贖いであり、知恵である(コリント第一 1章)と言っているのは使徒だけの言葉だと思っていました。しかし、おそらく使徒も預言者たちから教えられて、義は生きていて生命を持っていることを知っていたのでしょう。この義とは何でしょうか。それは神の独り子です。しかし、キリストが生きていて生命を持つ義であるのは使徒からだけではなく、この奥義は預言者の言葉からも示されているのです。確かに、今朗読されている章からもそうです。「誰が義を東から起こし、それを自分の足元に呼んだのか」(イザヤ 6章)とあります。彼は義を呼びました。呼ばれると歩くのだから、義が生きていることは明らかです。しかし、父はキリストを呼びました。それは、私たちの救いのために、キリストが私たちのところへ来て、天から私たちのところへ降りてくるためでした。人の子以外に天に昇った者はいない。その子は天から下って来た。神は彼を東から召された。この感覚的な東からではなく、真の光の東から。それゆえ、こう書いてある。「誰が義を東から起こし、それを自分の足元に召されたのか」。父が子を召された。いや、正確に言えば、神が義を自分の足元に召された。すなわち、御子の受肉である。それゆえ、私たちは彼の足台を崇める。こう書いてあるとおりである。「彼の足台を拝め。それは聖なるものだから」。主の肉体は神性の栄誉を帯びる。しかし、講話の冒頭にはより深い説明が必要なので、至高の王に祈りましょう。呼び出された言葉が再び私たちのもとに戻ってきて、私たちの能力に応じて少し語ることができるように。 2. ウジヤ王が死んだ年に、私は主が高い玉座に座っておられるのを見た。そして、その家は主の栄光に満ちていた。そして、セラフィムが主の周りに立っていた。一方には六つの翼があり、他方にも六つの翼があった。二匹で主の顔を覆い、二匹で主の足を覆い、二匹で飛んで、互いに叫び合って言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神。地は主の栄光に満ちている。」そして、残りの部分。しかし、私たちもイザヤが見た幻を見ることができるように、見えない者に目を与えたイエスに祈りましょう。イエスは今すぐにでも来て、この講話で語られていることを私たちに目を開いて見させてくださるからです。私たちは、キリストの体を娼婦の体にせず、嘆き悲しむに値する行いをしないと約束しましょう。私たち一人ひとりが心の中でこれらのことを神に語り、イエスが今すぐに来られるように祈りましょう。イエスが来なければ、私たちはこれらのことを見ることができません。私は、セラフィムが私にも遣わされ、火ばさみで炭火をつかんで私の唇を清めてくださるように祈ります。私の唇とは何でしょうか。イザヤは聖なる人であったので、唇だけが清められました。なぜなら、彼は唇、つまり言葉で罪を犯したからです。しかし、私は自分の唇だけが汚れていると言えるような者ではありません。むしろ、汚れた心、汚れた目、汚れた耳、汚れた口を持っているのではないかと恐れています。これらすべてにおいて罪を犯す限り、私は完全に汚れています。もし私が女を見て情欲を抱くなら、私はすでに心の中で彼女と姦淫を犯したことになります。見よ、私の目は汚れています。もし私の胸から悪い思い、姦淫、淫行、偽証が出てくるなら、見よ、私の心は汚れています。平和を説き、良い知らせを説く者の足はなんと美しいことか(イザヤ書52章)!しかし、悪を追い求めて、足が汚れているのではないかと恐れています。主に向かって手を伸ばします。すると、主は顔を背けてこう言われるかもしれません。「あなたが手を伸ばすなら、わたしはあなたから顔を背ける」(イザヤ書1章19節)。それでは、誰がわたしを清めてくれるでしょうか。誰がわたしの足を洗ってくれるでしょうか。イエスよ、来てください。わたしの足は汚れています。わたしのためにしもべになってください。あなたの水をたらいに注ぎ、来て、わたしの足を洗ってください。わたしの言うことが軽率なことは分かっています。しかし、こう言う人の脅しが怖いのです。「わたしがあなたの足を洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もない」(ヨハネによる福音書13章)。 ですから、私の足を洗ってください。そうすれば、私もあなた方と交わることができます。しかし、私の足を洗うとはどういうことでしょうか。ペトロは、足を洗われる以外には何の必要もなかったのに、こう言ったかもしれません。彼は完全に清かったからです。むしろ、私は一度洗われたので、洗礼を受ける必要があります。彼は主にこう言いました。「私はもう一つの洗礼を授ける必要があります。」なぜ私たちはこれらのことを言ったのでしょうか。私は自分自身と、これを聞く人々を、より大きな奥義のために備えているのです。しかし、もし神の言葉が来るなら、もしそれが私たちに下るなら、私はそれが私から逃げ去り、私の祝福をも軽んじるのではないかと恐れています。神の言葉は、一人の罪人アカルのために、かつて民から逃げ去りました。私は言います、神の言葉は、一人の罪人、ユダ族のゼラの子ザンブリの子アカルのために民から逃げ去ったのです。彼は神に不従順であったため、呪われていました(ヨシュア記7章25節)。そして、復活徹夜祭のため、特にキリストの受難の記念日である日曜日には大勢の人々が集まっているので(主の復活は年に一度祝われるわけではなく、必ずしも七日後に祝われるわけでもない)、全能の神に祈り、神の言葉が私たちに届くように祈りなさい。たとえあなたがたが罪人であっても、主に祈りなさい。神は罪人の祈りを聞いてくださいます。しかし、福音書に書かれている「神は罪人の祈りを聞かない」という言葉を恐れるなら(ヨハネ9章13節)、恐れてはならず、信じてはなりません。これを言ったのは盲人でした。むしろ、言う方を信じなさい。偽りを言わない方です。たとえあなたがたの罪が緋のように赤くても、わたしはそれを羊の毛のように白くします(イザヤ1章18節)。また、「あなたがたが望み、わたしに聞き従うならば、地の恵みを食べなさい」(同19節)。もし今、耳を傾ける意思があるならば、主に向かって共に祈りましょう。少なくとも今、御言葉が下された時、私たちがその預言の言葉に耳を傾けることができるように。 3. イザヤはこう述べています。「ウジヤ王が亡くなった年に、私は主が高い玉座に座しておられるのを見た。」この幻は書き留められました。なぜ王の時代が象徴されているのでしょうか。幻がいつ起こったかを考えてみましょう。ウジヤ王が亡くなったとき、イザヤは万軍の主が高い玉座に座しておられるのを見ました。もし私たちの中にウジヤが誰で、何をしたかを知っている人がいるなら、預言者が霊によって何を教えたか、神の言葉が私たちに何を示しているかを知ることができます。「私はウジヤの生涯に行き、列王記と歴代誌からウジヤの歴史を調べます。そして、もしそれが実現するならば、万軍の主が高い玉座に座しておられるのを見ることが、私がウジヤ王として死ぬために必要であることが、そこでわかるでしょう」(歴代誌下 26章)。ダビデの子孫であるこのウジヤは、ゼカリヤが生きている間、ユダの民を治めていた。ゼカリヤは(歴代誌下巻にそう記されているように)主の目にかなうことを悟り、それを行った。そして、これに満足せず、主のために大きな灯明を作り、神殿を建て、彼の宗教には多くの徳があった。しかし、ゼカリヤが死ぬと、彼はそれを知りながら悪を行った。悪を行ったこの者は誰であろうか。彼は王であって祭司ではなかった。王の位階と祭司の位階は別である。彼は神殿に入り、祭司の地位を奪い、自分に許されていない仕事をしようとした。彼は祭司たちより先に神殿に入り、献酒の器を取った。その時、大祭司が八十人の祭司と共に神殿に入ってきた。大祭司は彼に言った。「あなたはウジヤではないか。祭司ではないのか。」彼は激しく抵抗し、額にらい病が発症した。彼は死んで投げ落とされ、神殿から出て行ったが、主が彼を連れ出された。それゆえ、彼は律法を破ったためにらい病患者となった。人は皆、罪の王国か義の王国のどちらかの支配下にある。もし罪が私を支配しているなら、私は力ずくで神殿に入ったイスラエルの王の一人である。もし私が自分の進歩の尺度に従って義人であり、正しいことを行い、神の前で堅く立っているなら、義が私を支配している。しかし、らい病患者が生きている間、イザヤの唇は汚れていた。悪人が生きている間、イザヤは万軍の主を見ることができなかった。(1123) 彼は邪悪な王の支配下にあったため、唇は汚れていた。彼はいつ神の幻を見始めたのか。オシアスが死んだ年である。神の意志があれば、他の多くの書物についても同様のことが言えるだろう。出エジプト記には、これと似たようなことが書かれています。「数日後、エジプトの王が死んだ。イスラエルの子らは嘆き、彼らの叫びは神に届いた。」(出エジプト記2章23節)。 ファラオが生きている間、イスラエルの子らはため息をつかず、さらに悪い境遇にあったため、うめき声​​をあげる自由さえなかった。王が生きていて、彼らに煉瓦と藁を作るように命じていたからである。ファラオが生きている間、彼らは神にため息をつかなかった。ファラオが死んだとき、彼らは涙で濡れた顔を上げることができた。邪悪な王は、ファラオ・ゼブルスが生きている間、私たちの胸の中に生きている。私たちは煉瓦と藁を作り、黙って涙を飲み込み、最初の悪行を行う。しかし、彼が死に、主なる神が私たちを訪れるとき、私たちは主にため息をつく。それゆえ、私たちの死ぬべき体の中にある罪の王国が死ぬように主に祈ろう。罪は死んだ、しかし私は再び生きている、と主は言われる。(ローマ7章9節)また、罪は再び生き、私は死んだ、とも言われる。(同10節)罪の王国を所有する者が死ぬと、ホセアよ、ファラオも死ぬ。邪悪な王が死ぬと、私は天に目を上げると、神はアブラハム、イサク、ヤコブのように私の声を聞いてくださる。そして私は万軍の主が、民が見たことのない高い玉座に座って統治しておられるのを見る。ウジヤはまだ死んでいなかった。私はこれとは反対の良いことに似たことを挟みたい。このウジヤは、ゼカリヤが生きている間は、賢明であったので、神の前に罪を犯さなかった。ゼカリヤが死ぬと、彼は民を治め、町を治めていた場所で主から離れ去った。昼も夜もこれらのことを読んで、主が「あなたは私の金をテーブルの上に置くべきだった」と言われるのを聞く。そして、わたしが来たら、利子をつけて請求したであろう(マタイ25章)。ハンカチで借りたミナを集めたり、お金を地面に投げ捨てたりするのではなく、人々に貸し与えよう。主の理性を信じるなら、利子をつけた貸し付けがどのように返済されるかが分かるだろう。どのように、など。アーメン。 :::[[イザヤの幻視に関する説教の翻訳#第1説教|先頭に戻る]] ==出典== *[https://la.wikisource.org/wiki/Patrologia_Latina/24 Patrologia_Latina/24] *底本: [https://la.wikisource.org/wiki/Translatio_homiliarum_in_visiones_Isaiae Translatio homiliarum in visiones Isaiae] 『イザヤの幻視に関する説教の翻訳』オリゲネス、J. P. Migne 1846 early modern edition. {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- ラテン語版 Wikisource, [[la:Translatio homiliarum in visiones Isaiae]] J. P. Migne 1846 early modern edition の第5説教までを翻訳 --> 0ck5xgbtntl0nvf7mpiudqntl6rp8iq Page:聖事経(再版).pdf/60 250 56404 242088 2026-05-03T06:02:09Z Kuroyuki-pupa 32076 /* 校正済 */ 242088 proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="3" user="Kuroyuki-pupa" /></noinclude><div class="rubric">誦シ畢リテ、司祭{{ruby|聖膏|セイカウ}}ヲ以テ、洗ヲ受ケシ者ノ額、兩目・兩鼻孔・口・兩耳・胷・兩手・兩足ニ十字形ニ傅ク、傳クル每ニ曰ク、</div> 聖神ノ恩賜ノ{{ruby|印|シルシ}}、「アミン」 <div class="rubric">畢リテ後、司祭ハ、傅膏セラレシ者、及ビ其受託者ト偕ニ、三タビ洗盤ヲ環ル、環ル每ニ歌フ、</div> <u>ハリストス</u>ニ於テ洗ヲ領ケシ者ハ<u>ハリストス</u>ヲ衣タリ「アリルイヤ」 <div class="rubric">次ギテ{{ruby|提綱|ポロキメン}}、第三ノ調、</div> 主ハ我ガ光ト我ガ救ナリ、我誰ヲカ恐レンヤ、 <span class="rubric">句</span> 主ハ我ガ生命ノ防固ナリ、我誰ヲカ懼レンヤ、 聖使徒<u>バワェル</u>ガ{{二重線|ロマ}}人ニ達スル書ノ讀、<span class="rubric">(六章三節ヨリ十一節󠄄ニ至ル)</span> 兄弟ヤ、我等<u>ハリストス</u><u>イイスス</u>ニ於テ洗ヲ領ケシ者ハ、皆<noinclude></noinclude> eptwmtfxwqaet53lpbrh9fl2i0usfcx 242089 242088 2026-05-03T06:04:03Z Kuroyuki-pupa 32076 242089 proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="3" user="Kuroyuki-pupa" /></noinclude><div class="rubric">誦シ畢リテ、司祭{{ruby|聖膏|セイカウ}}ヲ以テ、洗ヲ受ケシ者ノ額、兩目・兩鼻孔・口・兩耳・胷・兩手・兩足ニ十字形ニ傅ク、傳クル每ニ曰ク、</div> 聖神ノ恩賜ノ{{ruby|印|シルシ}}、「アミン」 <div class="rubric">畢リテ後、司祭ハ、傅膏セラレシ者、及ビ其受託者ト偕ニ、三タビ洗盤ヲ環ル、環ル每ニ歌フ、</div> <u>ハリストス</u>ニ於テ洗ヲ領ケシ者ハ<u>ハリストス</u>ヲ衣タリ「アリルイヤ」 <div class="rubric">次ギテ{{ruby|提綱|ポロキメン}}、第三ノ調、</div> 主ハ我ガ光ト我ガ救ナリ、我誰ヲカ恐レンヤ、 <span class="rubric">句</span> 主ハ我ガ{{ruby|生命|イノチ}}ノ{{ruby|防固|カタメ}}ナリ、我誰ヲカ懼レンヤ、 聖使徒<u>バワェル</u>ガ{{二重線|ロマ}}人ニ達スル書ノ{{ruby|讀|ヨミ}}、<span class="rubric">(六章三節ヨリ十一節󠄄ニ至ル)</span> 兄弟ヤ、我等<u>ハリストス</u><u>イイスス</u>ニ於テ洗ヲ領ケシ者ハ、皆<noinclude></noinclude> sn7jna50ndt6ofdetxdwy56t2oh1wnn Page:聖事経(再版).pdf/61 250 56405 242092 2026-05-03T06:11:53Z Kuroyuki-pupa 32076 /* 校正済 */ 242092 proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="3" user="Kuroyuki-pupa" /></noinclude>彼ノ死ニ於テ洗ヲ領ケシナリ、故ニ我等ハ死ニ於ケル洗ヲ以テ彼ト偕ニ葬ラレタリ、<u>ハリストス</u>ガ父ノ光榮ヲ以テ死ヨリ復活セシ如ク、我等モ新ニセラレタル生命ヲ度ランガ爲ナリ、蓋我等若已ニ彼ノ死ニ效フヲ以テ彼ト接合セラルレバ、乃復活ニ效フヲ以テモ接合セラルベシ、葢我等知ル、我等ノ舊キ人ハ彼ト偕ニ釘セラレタリ、罪ノ身滅サレテ、我等{{ruby|復|マタ}}罪ノ奴トナラザルガ爲ナリ、死セシ者ハ罪ヨリ釋カレシニ因ル、我等若<u>ハリストス</u>ト偕ニ死スレバ、則亦彼ト偕ニ生キンコトヲ信ズ、葢知ル、<u>ハリストス</u>死ヨリ復活シテ復死セズ、死モ亦彼ノ上ニ權ヲ有タザルヲ、彼ノ死セシハ、罪ノ爲ニ一タビ死シ、彼ノ生クルハ、神ノ爲ニ生クレバナリ、是クノ如ク、爾等モ己ヲ以テ、我ガ主<u>ハリストス</u><u>イイスス</u>ニ在リテ、罪<noinclude></noinclude> huxnzx3lbxvyut6he80d7prs7ma6er3 Page:聖事経(再版).pdf/62 250 56406 242093 2026-05-03T06:16:23Z Kuroyuki-pupa 32076 /* 未校正 */ ページの作成:「ノ爲ニ死シ、神ノ爲ニ生クル者ト意フベシ、 司祭爾ニ平安、 輔祭容知、謹ミテ聽クベシ、 誦經「アリルイヤ」三次 輔祭容知、肅ミテ立テ、聖福音經ヲ聽クベシ、 司祭マトスイ傳ノ聖福音經ノ讀、 輔祭謹ミテ聽クベシ、 司祭誦ス、二十八章十六節ヨリ二十節ニ至ル 彼ノ時、十一門徒ガリレヤニ往キテ、イイススノ彼等ニ命ゼ シ山ニ至ル、既ニ彼…」 242093 proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="1" user="Kuroyuki-pupa" /></noinclude>ノ爲ニ死シ、神ノ爲ニ生クル者ト意フベシ、 司祭爾ニ平安、 輔祭容知、謹ミテ聽クベシ、 誦經「アリルイヤ」三次 輔祭容知、肅ミテ立テ、聖福音經ヲ聽クベシ、 司祭マトスイ傳ノ聖福音經ノ讀、 輔祭謹ミテ聽クベシ、 司祭誦ス、二十八章十六節ヨリ二十節ニ至ル 彼ノ時、十一門徒ガリレヤニ往キテ、イイススノ彼等ニ命ゼ シ山ニ至ル、既ニ彼ヲ見テ之ニ伏拜セリ、然レドモ亦疑フ者 アリ、イイスス前ミテ彼等ニ語ゲテ曰ヘリ、天ニ在リ地ニ在 ル凡ノ權ハ我ニ予ヘラレタリ、故ニ爾等往キテ、萬民ヲ敎ヘ<noinclude></noinclude> 6q1seyjzi41nr5r16xj6ijpe2db7zpf トーク:ルルとミミ 1 56407 242097 2026-05-03T09:29:10Z Keiri 25651 ページの作成:「{{textinfo |edition =「夢野久作全集1」ちくま文庫、筑摩書房 <br />    1992(平成4)年5月22日第1刷発行 <br /> 初出:「九州日報」<br />    1926(大正15)年3~4月<br /> |source= https://www.aozora.gr.jp/cards/000096/card925.html |contributors=[[User:Keiri]] |proofreaders= |progress=100% |notes={{青空文庫|inputter = 柴田卓治|proofreader = 江村秀之}} <br /> ※底本の解題によれば、初出時の…」 242097 wikitext text/x-wiki {{textinfo |edition =「夢野久作全集1」ちくま文庫、筑摩書房 <br />    1992(平成4)年5月22日第1刷発行 <br /> 初出:「九州日報」<br />    1926(大正15)年3~4月<br /> |source= https://www.aozora.gr.jp/cards/000096/card925.html |contributors=[[User:Keiri]] |proofreaders= |progress=100% |notes={{青空文庫|inputter = 柴田卓治|proofreader = 江村秀之}} <br /> ※底本の解題によれば、初出時の署名は、「戸田健・作画」を意味する、「とだけんさくぐわ」です。 }} ig3733to2jbhaz6fsn147x2zghneidt ルルとミミ 0 56408 242098 2026-05-03T09:29:16Z Keiri 25651 ページの作成:「{{Textquality|100%}} {{header |title = ルルとミミ |year = 1926 |author = 夢野久作 |translator = |edition = yes |defaultsort = るるとみみ |category = 日本の短編小説 |category2 = 日本の近代文学 |category3 = 青空文庫からインポートしたテキスト |notes= * 書誌情報の詳細は[[{{TALKPAGENAME}}|議論ページ]]をご覧ください。 }}  むかし、ある国に、水晶のような水が一ぱいに光っている美…」 242098 wikitext text/x-wiki {{Textquality|100%}} {{header |title = ルルとミミ |year = 1926 |author = 夢野久作 |translator = |edition = yes |defaultsort = るるとみみ |category = 日本の短編小説 |category2 = 日本の近代文学 |category3 = 青空文庫からインポートしたテキスト |notes= * 書誌情報の詳細は[[{{TALKPAGENAME}}|議論ページ]]をご覧ください。 }}  むかし、ある国に、水晶のような水が一ぱいに光っている美しい湖がありまして、そのふちに一つの小さな村がありました。そこに住んでいる人たちは親切な人ばかりで、ほんとに楽しい村でした。  けれどもその湖の水が黒く{{ruby|濁|にご}}って来ると、この村に何かしら悲しいことがあると云い伝えられておりました。  この村にルルとミミという可愛らしい{{ruby|兄妹|きょうだい}}の{{ruby|孤児|みなしご}}が居りました。  二人のお父さんはこの国でたった一人の上手な鐘造りで、お母さんが亡くなったあと、二人の子供を{{ruby|大切|だいじ}}に大切に育てておりました。  ところが或る年のこと、この村のお寺の鐘にヒビが入りましたので、村の人達に頼まれて新しく造り上げますと、どうしたわけか音がちっとも出ません。お父さんはそれを恥かしがって、或る夜、二人の兄妹を残して湖へ身を投げてしまいました。  その時、この湖の水は一面に真黒く濁っていたのでした。そうして、ルルとミミのお父さんが身を投げると間もなく、湖はまたもとの通りに奇麗に澄み渡ってしまったのでした。  それから{{ruby|後|のち}}、この村のお寺の鐘を造る人はありませんでした。夜あけの鐘も夕暮れの鐘も、または休み日のお祈りの鐘もきこえないまま、何年か経ちました。  村の人々は皆、ルルとミミを可愛がって育てました。そうして、いつもルルに云ってきかせました。 「早く大きくなって、いい鐘を作ってお寺へ上げるのだよ。死んだお父さんを喜ばせるのだよ」  ルルはほんとにそうしたいと思いました。ミミも、早くお兄さんが鐘をお作りになればいい。それはどんなにいい{{ruby|音|ね}}がするだろうと、楽しみで楽しみでたまりませんでした。  二人はほんとに仲よしでした。そうしてよく湖のふちに来て、はるかにお寺の方を見ながらいつまでもいつまでも立っておりました。 「おおかたお寺の{{ruby|鐘撞|かねつ}}き堂を見て、死んだお父さんのことを思い出しているのだろう。ほんとに可愛そうな{{ruby|兄妹|きょうだい}}だ」  と村の人々は云っておりました。 「水が濁るとよくないことがある」  と云われていた湖の水晶のような水が、またもすこしずつ薄黒く濁りはじめました。村の人々は皆、どんな事が起るかと、おそろしさのあまり口を利くものもありませんでした。しまいにはみんな顔を見あわせて、ため息ばかりするようになりました。それでも湖の水は、夜があけるたんびに、いくらかずつ黒くなってゆくのでした。  その時にルルは、お父さんが残した仕事場に這入って、一生懸命で鐘を作っていました。そうして、いよいよ一ツの美事な鐘をつくり上げましたので、喜び勇んで村の人にこの事を話しました。 「鐘が出来ました。どうぞお寺へ上げて下さい」  村の人々はわれもわれもとルルが作った鐘を見物に来ました。その立派な恰好を撫でて見たり、又はソッとたたいて見て、その美しい{{ruby|音|ね}}にききとれたりしましたが、みんなそのよく出来ているのに感心をしてしまいました。そうして、日をきめてお寺に上げて、この鐘を撞き鳴らして、村中でお祝いをすることになりました。 「湖の水はいくら濁ったって構うものか。鐘つくりの名人の子のルルが、死んだお父様をよろこばせたいばっかりに、あんな小さな{{ruby|姿|なり}}をして、こんな立派な鐘をつくったのだもの、こんな芽出たいことがあるものか。この鐘を鳴らしたら、どんなわるいことでも消えてしまうにちがいない。湖の水も澄んでしまうに違いない」  と、村の人々は喜んで勇み立ちました。  その日はちょうどお天気のいい日でした。地にはいろいろの花が咲き乱れ、梢や空には様々の鳥が{{ruby|啼|な}}いて、眩しいお{{ruby|太陽様|てんとさま}}が白い雲の底からキラキラと輝いていました。村の人々は、お爺さんもお婆さんも、大人も子供も、みんな奇麗な着物を着て、ルルが作った鐘のお祝いを見にお寺をさして集まって来ました。  お菓子屋や、オモチャ屋や、のぞき眼鏡や、風船売りや、{{ruby|操|あやつり}}人形なぞがお寺の門の前には一パイに並んで、それはそれは賑やかなことでした。  ルルの偉いことや、ミミの美しいことを口々に話し合っていた村の人々は、その時ピッタリと静かになりました。  ルルが作った鐘は坊さんの手で、高く高くお寺の鐘つき堂に釣り上げられました。銀色の鐘は春のお{{ruby|太陽様|てんとさま}}の光りを受けて、まぶしく輝きながらユラリユラリと揺れました。  村の人々は感心のあまり溜息をしました。嬉しさのあまり涙を流したものもありました。  このとき、ルルは鐘つき堂の入り口に立って、あまりの嬉しさにブルブルと震えながら両手を顔に{{ruby|当|あて}}ておりました。その手を妹のミミがソッと引き寄せて{{ruby|接吻|せっぷん}}しました。  {{ruby|兄妹|きょうだい}}は抱き合って喜びました。 「お父様が湖の底から見ていらっしゃるでしょうね」  けれどもまあ、何という悲しいことでしょう。そうして又、何という不思議なことでしょう。  お寺のお坊さんの手でルルの作った鐘が鳴らされました時、鐘は初めに只一度{{ruby|微|かす}}かな{{ruby|唸|うな}}り声を出しましただけで、それっ切り何ぼたたいても音を立てませんでした。  ルルは地びたにひれ伏して泣き出しました。ミミもその背中にたおれかかって泣きました。 「これこれ。ルルや、そんなに泣くのじゃない。おまえはまだ小さいのだから、鐘が上手に出来なくてもちっとも恥かしいことはない。ミミももう泣くのをおやめなさい」  と、いろいろに村の人は兄妹を慰めました。そうして、親切に二人をいたわって家まで送ってやりました。  ルルは小供ながらも一生懸命で鐘を作ったのでした。 「この鐘こそはきっといい音が出るに違いない。そっとたたいても、たまらないいい音がするのだから。湖の底に沈んでいらっしゃるお父様の耳までもきっと{{ruby|達|とど}}くに違いない」  と思っていたのでした。その鐘が鳴らなかったのですから、ルルは不思議でなりませんでした。 「どうしたら本当に鳴る鐘が作れるのであろう」  と考えましたが、それもルルにはわかりませんでした。  ルルは泣いても泣いても尽きない程泣きました。ミミも一所に泣きました。こうして兄妹は泣きながら{{ruby|家|うち}}に帰って、泣きながら抱き合って寝床に這入りました。  その{{ruby|夜|よ}}のこと……。ルルはひとりおき上りまして、泣き疲れてスヤスヤ{{ruby|睡|ねむ}}っている妹の頬にソッと接吻をして、{{ruby|家|うち}}を出ました。{{ruby|只|た}}だ一人で湖のふちへ来て、真黒く濁った水の底深く沈んでしまいました。  村の人が心配していた悲しいことが、とうとう来たのです。ミミは一人ポッチになってしまったのです。  けれども、ミミはどうしてあの優しい兄さんのルルに別れることが出来ましょう。  村の人がどんなに親切に慰めても、ミミは{{ruby|只|た}}だ泣いてばかりいました。そうして朝から晩まで湖のふちへ来て、死んだ兄さんがもしや浮き上りはしまいかと思って、ボンヤリ草の上に座っておりました。  ——可哀そうなミミ。  ルルが湖に沈んでから何日目かの晩に、湖の向うからまん丸いお月様がソロソロと昇って来ました。ミミはその光に照らされた湖の上をながめながら、うちへ帰るのも忘れて坐わっておりました。  湖のまわりに数限りなく咲いている{{ruby|睡蓮|すいれん}}の花も、その{{ruby|夜|よ}}はいつものように睡らずに、ミミの姿と一所に、開いた花の影を水の上に浮かしておりました。  お月様はだんだん高くあがって来ました。それと一所に睡蓮の花には涙のような露が一パイにこぼれかかりました。  ミミは睡蓮の花が自分のために泣いてくれるのだと思いまして、一所に涙を流しながらお礼を云いました。 「睡蓮さん。あなた達は、私がなぜ泣いているか、よく御存じですわね」  その時、睡蓮の一つがユラユラと揺れたと思うと、小さな声でミミにささやきました。 「可哀そうなお嬢さま。あなたはもしお兄さまにお会いになりたいなら、花の鎖をお作りなさい。そうして{{ruby|明日|あす}}の晩、お月様が湖の真上にお{{ruby|出|い}}でになる時までに、その花の鎖が湖の底までとどく長さにおつくりなさい。その鎖につかまって、湖の底の真珠の御殿へいらっしゃい。お兄さまのルルさまを湖の底へお呼びになったのは、その女王様です」  睡蓮の花がここまで云った時、あたりが急に薄暗くなりました。お月様が黒い雲にかくれたのです。そうしてそれと一所に、睡蓮の花は一つ一つに花びらを閉じ初めました。  ミミはあわててその花の一つに尋ねました。 「睡蓮さん。ちょっと花びらを閉じるのを待って下さい。どうして真珠の御殿の女王様は兄さんをお呼びになったのですか」  けれども、暗い水の上の睡蓮はもう花を開きませんでした。 「湖の底の女王様は、どうして私だけをひとりぼっちになすったのですか」  とミミは悲しい声で叫びました。けれども、湖のまわりの睡蓮はスッカリ花を閉じてしまって、一つも返事をしませんでした。お月様もそれから夜の明けるまで雲の中に隠れたまんまでした。 「アラ、ミミちゃん。こんな処で花の鎖を作っててよ。まあ、奇麗なこと。そんなに長くして何になさるの」  と、大勢のお友達がミミのまわりに集まって尋ねました。  ミミは{{ruby|夜|よ}}の明けぬうちから花の鎖を作り初めていたのですが、こう尋ねられますと淋しく笑いました。 「あたし、この鎖をもっともっと長く作ると、それに掴まってお兄さんに会いにゆくのです」 「あら、そう。それじゃ、あたしたちもお加勢しましょうね」  ミミのお友達の女の子たちは、みんなこう云って、方々から花を取ってきてミミに遣りました。ミミは草の葉を{{ruby|綟|よ}}り合わせた糸に、その花を一つ一つつなぎまして、長い長い花の鎖にしてゆきました。  夕方になると、お友達はみんなお{{ruby|家|うち}}へ帰りましたが、ミミはなおも一生懸命に花を摘んでは草の糸につなぎました。  その{{ruby|中|うち}}に日が暮れると、花の咲いているのが見えなくなりましたので、ミミは草の中に{{ruby|突伏|つっぷ}}してウトウトとねむりながら、月の出るのを待ちました。  やがて、何だか{{ruby|身体|からだ}}がヒヤヒヤするようなので、ミミは眼をさまして見ますと、どうでしょう、いつのまにのぼったか、お月様はもう空のまんなかに近付いております。  ミミは月の光りをたよりに花の鎖をふり返って見ました。いろいろの花をつないだ{{ruby|艸|くさ}}の糸は、湖のまわりを一まわりしてもまだ余るほどで、{{ruby|果|はて}}は広い野原の{{ruby|艸|くさ}}にかくれて見えなくなっております。  ミミはこの花の鎖が湖の底まで{{ruby|達|とど}}くかどうかわかりませんでした。  けれども、思い切ってその端をしっかりと握って、湖の中に沈んでゆきました。  湖の水が濁っているのは、ほんの上の方のすこしばかりでした。下の方はやはり水晶のように明るく透きとおって、キラキラと輝いておりました。  その中にゆらめく{{ruby|水艸|みずくさ}}の林の美しいこと……。ミミをふり返ってゆく魚の群の奇麗なこと……。  けれどもミミは、ただ兄さんのルルのことばかり考えて、なおも底深く沈んでゆきました。  そうすると、はるか底の方に湖の御殿が見え初めました。  湖の御殿は、ありとあらゆる{{ruby|貴|たっと}}い美しい石で出来ておりまして、真珠の屋根が林のようにいくらもいくらも並んでおりました。  ミミは、その一番外側の、一番大きな御門の処まで来ますと、花の鎖を放して中へ這入って行きました。そうして、もしや兄さまがそこいらにいらっしゃりはしまいかと、ソッと呼んで見ました。 「ルル兄さま……」  けれども、広い御殿のどこからも何の返事もありません。はるかにはるかに向うまで続いている銀の廊下が、ピカピカと光っているばかりです。  ミミは悲しくなりました。 「兄さんはいらっしゃらないのか知らん」  と思いました。  その時でした。御殿の奥のどこからか、 「カアーンカアーン」  という{{ruby|鉄鎚|かなづち}}の音と一所に、懐しい懐しいルルの歌うこえが、水をふるわせてきこえて来ました。 <div style="margin-left: 1em; text-indent: -1em;">「ミミよ ミミよ オオ いもうとよ……くらい みずうみ オオ ならぬかね……ひとり ながめて オオ なくミミよ</div> <div style="margin-left: 1em; text-indent: -1em;">「ちちは ならない アア かねつくり……あにも ならない アア かねつくり……ミミを のこして アア みずのそこ</div> <div style="margin-left: 1em; text-indent: -1em;">「ミミよ なけなけ エエ みずうみが……ミミの なみだで エエ すむならば……かねも なるやら エエ しれぬもの」</div>  湖の女王様は金剛石の寝椅子の上に横になって、ルルの歌をきいておられました。そうして、ルルが{{ruby|陸|おか}}に残したミミのことを悲しんで歌っていることを知られますと、湖の女王様は思わず独り言を云われました。 「ああ……私は可哀そうなことをした。ルルを湖の底へ呼ぶために、私はルルが作った鐘を鳴らないようにした。そうして、ルルがそれを悲しがって湖へ身を投げるようにした。そのために可哀そうなミミはひとりポッチになってしまった。  {{ruby|嘸|さぞ}}私を怨んでいるだろう……けれども私はそうするよりほかに仕方がなかった——。  ——この湖の水晶のような水は、この御殿のお庭にある大きな噴水から湧き出している。その噴水がこわれると、湖の水がだんだん上の方から濁って来る。そうして、その濁りが次第次第に深くなって底まで{{ruby|達|とど}}くと、この湖に住んでいるものはみな死んでしまわなければならない。——その大切な噴水が又こわれてしまった。これを直すものはルルしか居ない。だから私はルルを呼び寄せるほかにしかたがなかった——。  ——私はこの前にもこうしてルルの父親を呼んだ。その前にも、その又前にも、噴水がこわれるたんびに、何人も鍛冶屋や鐘つくりを呼び寄せた。けれども、そんな人たちはみんな、自分一人で勝手に{{ruby|陸|おか}}へ帰ろうとしたために、途中で悪い{{ruby|魚|さかな}}に食べられてしまった——。  ——ルルは今、噴水を直しながら歌を歌っている。妹のことを悲しんで歌を歌っている。{{ruby|陸|おか}}に残った妹もどんなにか悲しいであろう。今度こそは用が済んだら、途中であぶないことのないようにして妹の処へ送り返してやりましょう。鐘も鳴るようにしてやりましょう——。  ——ああ、ほんとに可哀そうなことをしました」  この時、ミミはルルの歌の声をたよりに、やっと女王様のお{{ruby|室|へや}}の前までたどりついておりました。そうして、女王様のひとり言をすっかりきいてしまったのでした。  ミミは、女王様がルルとミミのことを可愛そうに思っておられる……そうしてルルを{{ruby|陸|おか}}に帰してやろうと考えておられることを知りますと、胸が一パイになりました。  その時、女王様は立ち上って、{{ruby|寝部屋|ねべや}}へ行こうとされました。  ミミは思わず駈け込んで、女王様の長い長い着物の裾に走り寄りました。  女王様はビックリしてふり向かれました。……ここは当り前の人間がたやすく来るところではないのに……と思いながら 「お前はどこの娘かね……」  とお尋ねになりました。  ミミは品よくお辞儀をしました。そうして、涙を一パイ眼に溜めながらお願いしました。 「私はミミと申します。ルル兄様に会いにまいりました。どうぞ会わせて下さいませ」 「オオ。お前がルルの妹かや」  と、女王様はミミを抱寄せられました。そうして、しっかりと抱きしめて、静かな声で云われました。 「お前がルルの妹かや。お前が……お前が……まあ、何という可愛らしい娘であろう。ルルがお前のことをなつかしがるのも無理はない。悲しむのも無理はない。  お前も{{ruby|嘸|さぞ}}悲しかったであろう。淋しかったであろう。そうして私を怨んでいたであろう。  許してたもれや。許してたもれや」  女王様は水晶のような涙の玉をハラハラとミミの髪毛の上に落されました。  ミミは泣きじゃくりながら顔を上げて、女王様に尋ねました。 「女王様。女王様はほんとうに……私たちを{{ruby|陸|おか}}へ帰して下さいますでしょうか」 「ほんとうともほんとうとも。私が今云うたひとり言はみな偽りでないぞや。  あのルルが来て、あの噴水を直してくれなければ、この湖の中のものは皆死ななければならぬ。それゆえルルを呼びました。それゆえお前にも悲しい思いをさせました。どうぞどうぞ許してたもれや。それにしてもおまえはよう来ました。よう兄さまを迎えに来ました。きっと二人は{{ruby|陸|おか}}に帰して上げますぞや。お前たちのお父さんのように悪い魚にたべられぬようにして……そうして、{{ruby|陸|おか}}に帰ったならば鐘も鳴るようにして上げますぞや。  なれども、ルルがあの噴水を{{ruby|治|なお}}してしまうまでは待ってたもれよ。それももう長いことではない。ミミよ、お聞きやれ。あのルルの打つ{{ruby|鎚|つち}}の{{ruby|音|ね}}の勇ましいこと」  女王様とミミは涙に濡れた顔をあげて、ルルの振る鉄鎚の音をききました。  ルルは湖の御殿の噴水を一生懸命につくろいました。もう二度とふたたびこわれることのないように、そうして、{{ruby|陸|おか}}の鐘つくりや鍛冶屋さんが湖の女王様に呼ばれることのないように、命がけで働きました。そのうち振る槌の音は、湖のふちにある{{ruby|魚|うお}}の隠れ家や蟹の穴までも{{ruby|沁|し}}み渡るほど、高く高く響きました。 「カーンコーン カンコン <div style="margin-left: 2em"> ミミにわかれてこの湖の、底にうちふるこの鎚のおと、ルルがうちふるこの槌の音 カーンコーン カンコン ないてうちふるこの槌の音、ないてたたいてこの湖の、水をすませやこの槌のおと カーンコーン カンコン ミミにあいたやあの妹に、おかへゆきたやあの{{ruby|故郷|ふるさと}}へ、そしてききたやあの鐘の音」 </div>  ルルはとうとう噴水を立派につくろい上げました。玉のような澄み切った水の泡が、嬉しそうにキラキラと輝きながら空へ空へ渦巻きのぼってゆきました。そのま上の濁った水が、新しく{{ruby|噴|ふ}}き上った水に追いのけられて、そこからあかるい月の光りと清らかな星の光りが流れ込んで来ました。もうこれから何万年経っても、この噴水がこわれることはあるまいと思われました。  湖の御殿の真珠の屋根は、月と星の光りを受けて見る見る輝き初めました。{{ruby|瑠璃|るり}}の床、青玉の壁、{{ruby|翡翠|ひすい}}の窓、そんなものがみなそれぞれの色にいろめき初めました。  湖の女王の沢山の家来……赤や青や、紫や、{{ruby|黄金|こがね}}色の{{ruby|魚|さかな}}たちは、皆ビックリした眼をキョロキョロさして、われもわれもと列を組んで御殿のまわりに集まって来ました。そのありさまはまるで虹が泳いで来るようでした。  湖の女王様は手をあげてその魚どもを呼び集められまして、これからルルとミミにできるだけ立派な御馳走をするのだから、その支度をせよと云いつけられました。  湖の御殿の噴水を立派に直したルルは、もう歩くことが出来ないほど疲れておりました。けれども……この噴水がもう二度とふたたびこわれないようになった……この湖の中に在る数限りないものの生命は助かった……そうしてこれから{{ruby|後|のち}}何万年経ってもこの水は濁らない……村にわるいことも起らないのだ……と思うと、ルルは嬉しくてたまりませんでした。その嬉しさに、疲れた{{ruby|身体|からだ}}を踊らせながら女王様の前に帰って来ました。  その時にルルは、今までにない美しい御殿の様子に気が付きました。  御殿の大広間は夜光虫の薄紫の光りで夢のように照らされておりました。広い広い部屋一パイに飾られた{{ruby|水艸|みずくさ}}の白い花は、ほのかな{{ruby|香|にお}}いを一面にただよわせておりました。  その中に群あつまる何万とも何億とも知れぬ魚の数々。その奥の奥に見える紫水晶の階段。その上に立っていられる女王様のお姿。  そうして今一人の美しい女の子の姿……ミミ……。  ルルは思わず壇の上に駈け上ってミミを抱きました。ミミもしっかりとルルの首に{{ruby|獅噛|しが}}み付きました。  今まで虹のようにジッと並んでいた数限りない魚の群は、この時ゆらゆらと動き出しました。青、赤、紫、緑、黄色、銀色、銅色、{{ruby|黄金|こがね}}色と、とりどり様々の色をした魚が、同じ色同志に行列を作って、縞のようになったり、渦のようになったりしました。又は花の形を作ったり、鳥の形を作って見せたり、はては皆一時に入り乱れて、一つ一つに輝きひるがえる美しさ。その間を飛びちがい入り乱れる数知れぬ夜光虫の光り。それは世界中が{{ruby|金襴|きんらん}}になって踊り出すかのようでした。  ルルとミミは抱き合ったまま、夢のように見とれていました。その前に数限りない御馳走が並びました。  月の光りはますます明るく御殿の中にさし込みました。そうして、女王様の嬉しそうなお顔やお姿を{{ruby|神々|こうごう}}しく照し出しました。  そのうちに月の光りが次第次第に西へ傾いてゆきました。ルルとミミの{{ruby|陸|おか}}へ帰る時が来ました。  ルルとミミは女王様から貸していただいた、大きな美しい{{ruby|海月|くらげ}}に乗って、湖の御殿の奥庭から{{ruby|陸|おか}}の方へおいとまをすることになりました。  女王様はルルとミミを今一度抱きしめて頬ずりをされました。そうして、こんなお祈りをされました。 「この美しい{{ruby|兄妹|きょうだい}}は、この後どんなことがありましても離れ離れになりませぬように」  ルルもミミも女王様が懐かしくなりました。何だかいつまでもこの女王様に抱かれて、可愛がっていただきたいように思って、涙をホロホロと流しました。  けれども女王様は二人をソッと抱き上げて、海月の上にお乗せになりました。 「海月よ。お前は絶えず光りながら、この{{ruby|兄妹|きょうだい}}を水の上まで送り届けよ。そうして、悪い魚が近付かないように毒の針を用意して行けよ」  海月は黙って浮き上りました。  咲き揃った{{ruby|水藻|みずも}}の花は二人の足もとを{{ruby|後|うしろ}}へ後へとなびいてゆきました。御殿の屋根は薔薇色に、または真珠色に輝きながら、水の底の方へ小さく小さくなってゆきました。宝石をちりばめたような海月の足の下へ……。 「ネエ、ルル兄さま!」 「ナアニ……ミミ」 「女王様は何だかお母様のようじゃなかって」 「ああ、僕もそう思ったよ」 「あたし、何だかおわかれするのが悲しかったわ」 「ああ、僕もミミと二人きりで湖の底にいたいような気もちがしたよ」  こんなことを二人は話し合いました。そうして二人は抱き合って、海月の足の下をのぞきながら、何遍も何遍も女王様のいらっしゃる方へ「左様なら」を送りました。  ルルとミミが湖のおもてに浮き上ったところには、美しい一艘の船が用意してありました。その上にルルとミミは乗りうつりました。 「海月よ。ありがとうよ。ルルとミミが心から御礼を云っていたと、女王様に申し上げておくれ」  海月はやはりだまって、ユラユラと水の底に沈んで行きました。{{ruby|兄妹|きょうだい}}は{{ruby|舷|ふなべり}}につかまって、その海月の薄青い光りが、水の底深く深く、とうとう見えなくなってしまうまで見送っておりました。  お月様は今、西に沈みかけていました。かすかに吹き出した暁の風が、二人の船を{{ruby|陸|おか}}の方へ吹き送りはじめました。  湖の{{ruby|面|おもて}}には牛乳のような{{ruby|朝靄|あさもや}}が棚引きかけていました。その上から、まだ誰も起きていないらしい、なつかしい故郷の村が見えました。その村のお寺の鐘撞き堂に小さく小さくかすかにかすかに光る鐘……ルルはそれをジッと見つめていましたが、その眼からどうしたわけか涙がポトポトとしたたり落ちました。 「まあ。お兄さま、どうなすったの。なぜお泣きになるの……」  ルルはしずかにふりかえりました。 「ミミや。お前は村に帰ったら、一番に何をしようと思っているの……」 「それはもう……何より先にあの鐘の{{ruby|音|ね}}をききたいと思いますわ。あの鐘は今度こそきっと鳴るに違いないのですから……どんなにかいい{{ruby|音|ね}}でしょう……」  と、ミミはもう、ルルの顔をあおぎながら、その{{ruby|音|ね}}が聞こえるようにため息をしました。ルルも一所にため息をしました。 「ミミや。そうしてあの鐘が鳴ったなら、村の人はきっと私たちを可愛がって、二度と再び湖の底へはゆけないようにしてしまうだろうねえ」 「まあ。お兄様はそれじゃ、湖の底へお帰りになりたいと思っていらっしゃるの……」  ルルはうなずいて、又一つため息をしました。そうして又も涙をハラハラと落しました。 「ああ。ミミや。わたしはあの鐘の{{ruby|音|ね}}をきくのが急に怖くなった。村の人に可愛がられて、湖の底へ又行くことが出来なくなるだろうと思うと、悲しくて悲しくてたまらなくなった。私は湖の御殿へ帰りたくて帰りたくてたまらなくなったのだ。私は死ぬまであそこの噴水の番がしていたくなったのだ」 「それならお兄様……あの鐘の{{ruby|音|ね}}はもうお聴きにならなくてもいいのですか……お兄様……ききたいとはお思いにならないのですか」 「ああ。そうなんだよ、ミミ……だから、お前は私の代りにも一度一人で村へ帰って、あの鐘を撞いてくれるように村の人に頼んでくれないか。あの鐘はルルの作り損いではありませんと云ってね。それから兄さんのところへお出で……兄さんはその鐘の{{ruby|音|ね}}を湖の底できいているから……お前の来るのを待っているから……」  といううちに、ルルは立ち上って湖の中に飛びこもうとしました。 「アレ。お兄さま、何でそんなに情ないことをおっしゃるの……それならあたしも連れて行ってちょうだい」  と、ミミは慌ててルルを抱き止めようとしました。そうすると、不思議にもルルの姿は煙のように消え失せてしまいました。船も……お月様も……湖も……村の影も……朝靄も消え失せて、あとにはただ何とも云われぬ芳ばしいにおいばかりが消え残りました。  ミミはオヤと思ってあたりを見まわしました。見ると、ミミは最前のまま湖のふちの{{ruby|草原|くさはら}}に突伏して、花の鎖をしっかりと抱きしめながら睡っているのでした。今までのはすっかり夢で、待っていたお月様は、まだようようにのぼりかけたばかりのところでした。そうして湖の水はやっぱりもとの通り黒いままでした。  ミミはワッとばかり泣き伏しました。泣いて泣いて、涙も声も無くなるほど泣きました。女王様の言葉を思い出しては泣き、ルルの顔を思い出しては泣き、ルルと抱き合って喜んだ時の嬉しさを思い出してはあたりを見まわしました。  けれども、あたりにルルの姿は見えませんでした。ただミミが花を摘んでしまった春の草が、涙のような露を一パイに溜めて、月の光りをうつしながらはてしもなく茫々茂っているばかりでした。  それを見て、ミミはまた泣きつづけました。  その{{ruby|中|うち}}にお月様はだんだんと空の真ん中に近づいて来ました。ミミも泣き止んで、そのお月様をあおぎました。 「ああ、お月様。今まで見たのは夢でしょうか、どうぞ教えて下さいませ」  けれどもお月様は何の返事もなさいませんでした。  ミミは涙を拭いて立ち上りました。露に濡れた{{ruby|草原|くさはら}}を踏みわけて、お寺の方へ来ました。そうして鐘撞き堂まで来ると、空高く月の光りに輝いている鐘を見上げました。 「あの鐘を撞いて見ましょう。あの鐘が鳴ったなら、睡蓮が教えたことはほんとうでしょう。湖の底の御殿もあるのでしょう。女王様のお言葉もほんとうでしょう。お兄さまもほんとうにあそこで待っていらっしゃるでしょう。……あの鐘を撞いてみましょう……」  ミミが撞いた鐘の{{ruby|音|ね}}は、大空高く高くお月様まで……野原を遠く遠く世界の涯まで……そうして、湖の底深く深く女王様の耳まで届くくらい澄み渡って響きました。  お寺の坊さんも、村の人々も、子供までも、みな眼をさましたほど、美しい、清らかな{{ruby|音|ね}}が響き渡りました。  ミミは夢中になって喜びながら、お寺の鐘撞き堂を駈け降りました。 「ああ……夢ではなかった。夢ではなかった。お兄様はほんとうに湖の底に待っていらっしゃる。  {{ruby|妾|わたし}}が来るのを待っていらっしゃる。  ああ、嬉しい。ああ、嬉しい。妾はもうほんとうにお兄様に会えます。そうして、もう二度と再び離れるようなことはないのです。ああ、うれしい……」  こう云ううちに、ミミは最前の花の鎖のところまで駈けもどって来ました。その花の鎖の端を両手でしっかりと握って、静かに湖の底へ沈んでゆきました。——空のまん中にかかったお月様をあおぎながら……。  村中の人々は鐘の音に驚いて、{{ruby|老人|としより}}や子供までみんなお寺に集まって来ました。お寺の坊さんと一所になって、どうしたのだろうどうしたのだろうと話し合いましたが、誰が鐘を打ったのか、どうして鐘が鳴ったか、知っているものは一人もありませんでした。  そのうちに鐘撞き堂の石段に、ミミの露に濡れた小さな足あとが、月の光りに照されているのが見つかりました。その足あとは{{ruby|草原|くさはら}}のふちまで来ますと、草を踏みわけたあとにかわって、ずっと湖のふちまで続いております。  村の人々はやがて、湖のふちに残っている花の鎖の端を見つけました。その一方の端はずっと湖の底深く沈んでいるようです。 「あら、これはあたしたちがミミちゃんに摘んであげた花よ。ミミちゃんが花の鎖につかまってお兄さんに会いにゆくって云ったから、あたしたちは大勢で加勢して上げたのよ」  と二三人の女の子が云いました。  村の人々は皆な泣きました。泣きながら花の鎖を引きはじめました。  お月様がだんだん西に傾いてゆきました。それと一所に湖の水がすこしずつ澄んで来るように見えました。けれども、花の鎖は引いても引いても尽きないほど{{ruby|長|なご}}う御座いました。  ようようにお月様が沈んで、まぶしいお{{ruby|太陽様|てんとさま}}が東の方からキラキラとお上りになりました。その時にはもう湖の水はもとの通り水晶のように澄み切っておりました。そうしてやがて……。  シッカリと抱き合ったまま眠っているルルとミミの姿が、その奇麗な水の底から浮き上って来ました。  ——可哀そうなルルとミミ……。 {{PD-Japan-auto-expired}} 8ugbv971ahndxqm3g0qhu57tzadclpy 242099 242098 2026-05-03T10:26:55Z Keiri 25651 242099 wikitext text/x-wiki {{Textquality|100%}} {{header |title = ルルとミミ |year = 1926 |override_author = [[作者:夢野久作|とだけん]] |translator = |edition = yes |defaultsort = るるとみみ |category = 日本の短編小説 |category2 = 日本の近代文学 |category3 = 青空文庫からインポートしたテキスト |notes= * 書誌情報の詳細は[[{{TALKPAGENAME}}|議論ページ]]をご覧ください。 }}  むかし、ある国に、水晶のような水が一ぱいに光っている美しい湖がありまして、そのふちに一つの小さな村がありました。そこに住んでいる人たちは親切な人ばかりで、ほんとに楽しい村でした。  けれどもその湖の水が黒く{{ruby|濁|にご}}って来ると、この村に何かしら悲しいことがあると云い伝えられておりました。  この村にルルとミミという可愛らしい{{ruby|兄妹|きょうだい}}の{{ruby|孤児|みなしご}}が居りました。  二人のお父さんはこの国でたった一人の上手な鐘造りで、お母さんが亡くなったあと、二人の子供を{{ruby|大切|だいじ}}に大切に育てておりました。  ところが或る年のこと、この村のお寺の鐘にヒビが入りましたので、村の人達に頼まれて新しく造り上げますと、どうしたわけか音がちっとも出ません。お父さんはそれを恥かしがって、或る夜、二人の兄妹を残して湖へ身を投げてしまいました。  その時、この湖の水は一面に真黒く濁っていたのでした。そうして、ルルとミミのお父さんが身を投げると間もなく、湖はまたもとの通りに奇麗に澄み渡ってしまったのでした。  それから{{ruby|後|のち}}、この村のお寺の鐘を造る人はありませんでした。夜あけの鐘も夕暮れの鐘も、または休み日のお祈りの鐘もきこえないまま、何年か経ちました。  村の人々は皆、ルルとミミを可愛がって育てました。そうして、いつもルルに云ってきかせました。 「早く大きくなって、いい鐘を作ってお寺へ上げるのだよ。死んだお父さんを喜ばせるのだよ」  ルルはほんとにそうしたいと思いました。ミミも、早くお兄さんが鐘をお作りになればいい。それはどんなにいい{{ruby|音|ね}}がするだろうと、楽しみで楽しみでたまりませんでした。  二人はほんとに仲よしでした。そうしてよく湖のふちに来て、はるかにお寺の方を見ながらいつまでもいつまでも立っておりました。 「おおかたお寺の{{ruby|鐘撞|かねつ}}き堂を見て、死んだお父さんのことを思い出しているのだろう。ほんとに可愛そうな{{ruby|兄妹|きょうだい}}だ」  と村の人々は云っておりました。 「水が濁るとよくないことがある」  と云われていた湖の水晶のような水が、またもすこしずつ薄黒く濁りはじめました。村の人々は皆、どんな事が起るかと、おそろしさのあまり口を利くものもありませんでした。しまいにはみんな顔を見あわせて、ため息ばかりするようになりました。それでも湖の水は、夜があけるたんびに、いくらかずつ黒くなってゆくのでした。  その時にルルは、お父さんが残した仕事場に這入って、一生懸命で鐘を作っていました。そうして、いよいよ一ツの美事な鐘をつくり上げましたので、喜び勇んで村の人にこの事を話しました。 「鐘が出来ました。どうぞお寺へ上げて下さい」  村の人々はわれもわれもとルルが作った鐘を見物に来ました。その立派な恰好を撫でて見たり、又はソッとたたいて見て、その美しい{{ruby|音|ね}}にききとれたりしましたが、みんなそのよく出来ているのに感心をしてしまいました。そうして、日をきめてお寺に上げて、この鐘を撞き鳴らして、村中でお祝いをすることになりました。 「湖の水はいくら濁ったって構うものか。鐘つくりの名人の子のルルが、死んだお父様をよろこばせたいばっかりに、あんな小さな{{ruby|姿|なり}}をして、こんな立派な鐘をつくったのだもの、こんな芽出たいことがあるものか。この鐘を鳴らしたら、どんなわるいことでも消えてしまうにちがいない。湖の水も澄んでしまうに違いない」  と、村の人々は喜んで勇み立ちました。  その日はちょうどお天気のいい日でした。地にはいろいろの花が咲き乱れ、梢や空には様々の鳥が{{ruby|啼|な}}いて、眩しいお{{ruby|太陽様|てんとさま}}が白い雲の底からキラキラと輝いていました。村の人々は、お爺さんもお婆さんも、大人も子供も、みんな奇麗な着物を着て、ルルが作った鐘のお祝いを見にお寺をさして集まって来ました。  お菓子屋や、オモチャ屋や、のぞき眼鏡や、風船売りや、{{ruby|操|あやつり}}人形なぞがお寺の門の前には一パイに並んで、それはそれは賑やかなことでした。  ルルの偉いことや、ミミの美しいことを口々に話し合っていた村の人々は、その時ピッタリと静かになりました。  ルルが作った鐘は坊さんの手で、高く高くお寺の鐘つき堂に釣り上げられました。銀色の鐘は春のお{{ruby|太陽様|てんとさま}}の光りを受けて、まぶしく輝きながらユラリユラリと揺れました。  村の人々は感心のあまり溜息をしました。嬉しさのあまり涙を流したものもありました。  このとき、ルルは鐘つき堂の入り口に立って、あまりの嬉しさにブルブルと震えながら両手を顔に{{ruby|当|あて}}ておりました。その手を妹のミミがソッと引き寄せて{{ruby|接吻|せっぷん}}しました。  {{ruby|兄妹|きょうだい}}は抱き合って喜びました。 「お父様が湖の底から見ていらっしゃるでしょうね」  けれどもまあ、何という悲しいことでしょう。そうして又、何という不思議なことでしょう。  お寺のお坊さんの手でルルの作った鐘が鳴らされました時、鐘は初めに只一度{{ruby|微|かす}}かな{{ruby|唸|うな}}り声を出しましただけで、それっ切り何ぼたたいても音を立てませんでした。  ルルは地びたにひれ伏して泣き出しました。ミミもその背中にたおれかかって泣きました。 「これこれ。ルルや、そんなに泣くのじゃない。おまえはまだ小さいのだから、鐘が上手に出来なくてもちっとも恥かしいことはない。ミミももう泣くのをおやめなさい」  と、いろいろに村の人は兄妹を慰めました。そうして、親切に二人をいたわって家まで送ってやりました。  ルルは小供ながらも一生懸命で鐘を作ったのでした。 「この鐘こそはきっといい音が出るに違いない。そっとたたいても、たまらないいい音がするのだから。湖の底に沈んでいらっしゃるお父様の耳までもきっと{{ruby|達|とど}}くに違いない」  と思っていたのでした。その鐘が鳴らなかったのですから、ルルは不思議でなりませんでした。 「どうしたら本当に鳴る鐘が作れるのであろう」  と考えましたが、それもルルにはわかりませんでした。  ルルは泣いても泣いても尽きない程泣きました。ミミも一所に泣きました。こうして兄妹は泣きながら{{ruby|家|うち}}に帰って、泣きながら抱き合って寝床に這入りました。  その{{ruby|夜|よ}}のこと……。ルルはひとりおき上りまして、泣き疲れてスヤスヤ{{ruby|睡|ねむ}}っている妹の頬にソッと接吻をして、{{ruby|家|うち}}を出ました。{{ruby|只|た}}だ一人で湖のふちへ来て、真黒く濁った水の底深く沈んでしまいました。  村の人が心配していた悲しいことが、とうとう来たのです。ミミは一人ポッチになってしまったのです。  けれども、ミミはどうしてあの優しい兄さんのルルに別れることが出来ましょう。  村の人がどんなに親切に慰めても、ミミは{{ruby|只|た}}だ泣いてばかりいました。そうして朝から晩まで湖のふちへ来て、死んだ兄さんがもしや浮き上りはしまいかと思って、ボンヤリ草の上に座っておりました。  ——可哀そうなミミ。  ルルが湖に沈んでから何日目かの晩に、湖の向うからまん丸いお月様がソロソロと昇って来ました。ミミはその光に照らされた湖の上をながめながら、うちへ帰るのも忘れて坐わっておりました。  湖のまわりに数限りなく咲いている{{ruby|睡蓮|すいれん}}の花も、その{{ruby|夜|よ}}はいつものように睡らずに、ミミの姿と一所に、開いた花の影を水の上に浮かしておりました。  お月様はだんだん高くあがって来ました。それと一所に睡蓮の花には涙のような露が一パイにこぼれかかりました。  ミミは睡蓮の花が自分のために泣いてくれるのだと思いまして、一所に涙を流しながらお礼を云いました。 「睡蓮さん。あなた達は、私がなぜ泣いているか、よく御存じですわね」  その時、睡蓮の一つがユラユラと揺れたと思うと、小さな声でミミにささやきました。 「可哀そうなお嬢さま。あなたはもしお兄さまにお会いになりたいなら、花の鎖をお作りなさい。そうして{{ruby|明日|あす}}の晩、お月様が湖の真上にお{{ruby|出|い}}でになる時までに、その花の鎖が湖の底までとどく長さにおつくりなさい。その鎖につかまって、湖の底の真珠の御殿へいらっしゃい。お兄さまのルルさまを湖の底へお呼びになったのは、その女王様です」  睡蓮の花がここまで云った時、あたりが急に薄暗くなりました。お月様が黒い雲にかくれたのです。そうしてそれと一所に、睡蓮の花は一つ一つに花びらを閉じ初めました。  ミミはあわててその花の一つに尋ねました。 「睡蓮さん。ちょっと花びらを閉じるのを待って下さい。どうして真珠の御殿の女王様は兄さんをお呼びになったのですか」  けれども、暗い水の上の睡蓮はもう花を開きませんでした。 「湖の底の女王様は、どうして私だけをひとりぼっちになすったのですか」  とミミは悲しい声で叫びました。けれども、湖のまわりの睡蓮はスッカリ花を閉じてしまって、一つも返事をしませんでした。お月様もそれから夜の明けるまで雲の中に隠れたまんまでした。 「アラ、ミミちゃん。こんな処で花の鎖を作っててよ。まあ、奇麗なこと。そんなに長くして何になさるの」  と、大勢のお友達がミミのまわりに集まって尋ねました。  ミミは{{ruby|夜|よ}}の明けぬうちから花の鎖を作り初めていたのですが、こう尋ねられますと淋しく笑いました。 「あたし、この鎖をもっともっと長く作ると、それに掴まってお兄さんに会いにゆくのです」 「あら、そう。それじゃ、あたしたちもお加勢しましょうね」  ミミのお友達の女の子たちは、みんなこう云って、方々から花を取ってきてミミに遣りました。ミミは草の葉を{{ruby|綟|よ}}り合わせた糸に、その花を一つ一つつなぎまして、長い長い花の鎖にしてゆきました。  夕方になると、お友達はみんなお{{ruby|家|うち}}へ帰りましたが、ミミはなおも一生懸命に花を摘んでは草の糸につなぎました。  その{{ruby|中|うち}}に日が暮れると、花の咲いているのが見えなくなりましたので、ミミは草の中に{{ruby|突伏|つっぷ}}してウトウトとねむりながら、月の出るのを待ちました。  やがて、何だか{{ruby|身体|からだ}}がヒヤヒヤするようなので、ミミは眼をさまして見ますと、どうでしょう、いつのまにのぼったか、お月様はもう空のまんなかに近付いております。  ミミは月の光りをたよりに花の鎖をふり返って見ました。いろいろの花をつないだ{{ruby|艸|くさ}}の糸は、湖のまわりを一まわりしてもまだ余るほどで、{{ruby|果|はて}}は広い野原の{{ruby|艸|くさ}}にかくれて見えなくなっております。  ミミはこの花の鎖が湖の底まで{{ruby|達|とど}}くかどうかわかりませんでした。  けれども、思い切ってその端をしっかりと握って、湖の中に沈んでゆきました。  湖の水が濁っているのは、ほんの上の方のすこしばかりでした。下の方はやはり水晶のように明るく透きとおって、キラキラと輝いておりました。  その中にゆらめく{{ruby|水艸|みずくさ}}の林の美しいこと……。ミミをふり返ってゆく魚の群の奇麗なこと……。  けれどもミミは、ただ兄さんのルルのことばかり考えて、なおも底深く沈んでゆきました。  そうすると、はるか底の方に湖の御殿が見え初めました。  湖の御殿は、ありとあらゆる{{ruby|貴|たっと}}い美しい石で出来ておりまして、真珠の屋根が林のようにいくらもいくらも並んでおりました。  ミミは、その一番外側の、一番大きな御門の処まで来ますと、花の鎖を放して中へ這入って行きました。そうして、もしや兄さまがそこいらにいらっしゃりはしまいかと、ソッと呼んで見ました。 「ルル兄さま……」  けれども、広い御殿のどこからも何の返事もありません。はるかにはるかに向うまで続いている銀の廊下が、ピカピカと光っているばかりです。  ミミは悲しくなりました。 「兄さんはいらっしゃらないのか知らん」  と思いました。  その時でした。御殿の奥のどこからか、 「カアーンカアーン」  という{{ruby|鉄鎚|かなづち}}の音と一所に、懐しい懐しいルルの歌うこえが、水をふるわせてきこえて来ました。 <div style="margin-left: 1em; text-indent: -1em;">「ミミよ ミミよ オオ いもうとよ……くらい みずうみ オオ ならぬかね……ひとり ながめて オオ なくミミよ</div> <div style="margin-left: 1em; text-indent: -1em;">「ちちは ならない アア かねつくり……あにも ならない アア かねつくり……ミミを のこして アア みずのそこ</div> <div style="margin-left: 1em; text-indent: -1em;">「ミミよ なけなけ エエ みずうみが……ミミの なみだで エエ すむならば……かねも なるやら エエ しれぬもの」</div>  湖の女王様は金剛石の寝椅子の上に横になって、ルルの歌をきいておられました。そうして、ルルが{{ruby|陸|おか}}に残したミミのことを悲しんで歌っていることを知られますと、湖の女王様は思わず独り言を云われました。 「ああ……私は可哀そうなことをした。ルルを湖の底へ呼ぶために、私はルルが作った鐘を鳴らないようにした。そうして、ルルがそれを悲しがって湖へ身を投げるようにした。そのために可哀そうなミミはひとりポッチになってしまった。  {{ruby|嘸|さぞ}}私を怨んでいるだろう……けれども私はそうするよりほかに仕方がなかった——。  ——この湖の水晶のような水は、この御殿のお庭にある大きな噴水から湧き出している。その噴水がこわれると、湖の水がだんだん上の方から濁って来る。そうして、その濁りが次第次第に深くなって底まで{{ruby|達|とど}}くと、この湖に住んでいるものはみな死んでしまわなければならない。——その大切な噴水が又こわれてしまった。これを直すものはルルしか居ない。だから私はルルを呼び寄せるほかにしかたがなかった——。  ——私はこの前にもこうしてルルの父親を呼んだ。その前にも、その又前にも、噴水がこわれるたんびに、何人も鍛冶屋や鐘つくりを呼び寄せた。けれども、そんな人たちはみんな、自分一人で勝手に{{ruby|陸|おか}}へ帰ろうとしたために、途中で悪い{{ruby|魚|さかな}}に食べられてしまった——。  ——ルルは今、噴水を直しながら歌を歌っている。妹のことを悲しんで歌を歌っている。{{ruby|陸|おか}}に残った妹もどんなにか悲しいであろう。今度こそは用が済んだら、途中であぶないことのないようにして妹の処へ送り返してやりましょう。鐘も鳴るようにしてやりましょう——。  ——ああ、ほんとに可哀そうなことをしました」  この時、ミミはルルの歌の声をたよりに、やっと女王様のお{{ruby|室|へや}}の前までたどりついておりました。そうして、女王様のひとり言をすっかりきいてしまったのでした。  ミミは、女王様がルルとミミのことを可愛そうに思っておられる……そうしてルルを{{ruby|陸|おか}}に帰してやろうと考えておられることを知りますと、胸が一パイになりました。  その時、女王様は立ち上って、{{ruby|寝部屋|ねべや}}へ行こうとされました。  ミミは思わず駈け込んで、女王様の長い長い着物の裾に走り寄りました。  女王様はビックリしてふり向かれました。……ここは当り前の人間がたやすく来るところではないのに……と思いながら 「お前はどこの娘かね……」  とお尋ねになりました。  ミミは品よくお辞儀をしました。そうして、涙を一パイ眼に溜めながらお願いしました。 「私はミミと申します。ルル兄様に会いにまいりました。どうぞ会わせて下さいませ」 「オオ。お前がルルの妹かや」  と、女王様はミミを抱寄せられました。そうして、しっかりと抱きしめて、静かな声で云われました。 「お前がルルの妹かや。お前が……お前が……まあ、何という可愛らしい娘であろう。ルルがお前のことをなつかしがるのも無理はない。悲しむのも無理はない。  お前も{{ruby|嘸|さぞ}}悲しかったであろう。淋しかったであろう。そうして私を怨んでいたであろう。  許してたもれや。許してたもれや」  女王様は水晶のような涙の玉をハラハラとミミの髪毛の上に落されました。  ミミは泣きじゃくりながら顔を上げて、女王様に尋ねました。 「女王様。女王様はほんとうに……私たちを{{ruby|陸|おか}}へ帰して下さいますでしょうか」 「ほんとうともほんとうとも。私が今云うたひとり言はみな偽りでないぞや。  あのルルが来て、あの噴水を直してくれなければ、この湖の中のものは皆死ななければならぬ。それゆえルルを呼びました。それゆえお前にも悲しい思いをさせました。どうぞどうぞ許してたもれや。それにしてもおまえはよう来ました。よう兄さまを迎えに来ました。きっと二人は{{ruby|陸|おか}}に帰して上げますぞや。お前たちのお父さんのように悪い魚にたべられぬようにして……そうして、{{ruby|陸|おか}}に帰ったならば鐘も鳴るようにして上げますぞや。  なれども、ルルがあの噴水を{{ruby|治|なお}}してしまうまでは待ってたもれよ。それももう長いことではない。ミミよ、お聞きやれ。あのルルの打つ{{ruby|鎚|つち}}の{{ruby|音|ね}}の勇ましいこと」  女王様とミミは涙に濡れた顔をあげて、ルルの振る鉄鎚の音をききました。  ルルは湖の御殿の噴水を一生懸命につくろいました。もう二度とふたたびこわれることのないように、そうして、{{ruby|陸|おか}}の鐘つくりや鍛冶屋さんが湖の女王様に呼ばれることのないように、命がけで働きました。そのうち振る槌の音は、湖のふちにある{{ruby|魚|うお}}の隠れ家や蟹の穴までも{{ruby|沁|し}}み渡るほど、高く高く響きました。 「カーンコーン カンコン <div style="margin-left: 2em"> ミミにわかれてこの湖の、底にうちふるこの鎚のおと、ルルがうちふるこの槌の音 カーンコーン カンコン ないてうちふるこの槌の音、ないてたたいてこの湖の、水をすませやこの槌のおと カーンコーン カンコン ミミにあいたやあの妹に、おかへゆきたやあの{{ruby|故郷|ふるさと}}へ、そしてききたやあの鐘の音」 </div>  ルルはとうとう噴水を立派につくろい上げました。玉のような澄み切った水の泡が、嬉しそうにキラキラと輝きながら空へ空へ渦巻きのぼってゆきました。そのま上の濁った水が、新しく{{ruby|噴|ふ}}き上った水に追いのけられて、そこからあかるい月の光りと清らかな星の光りが流れ込んで来ました。もうこれから何万年経っても、この噴水がこわれることはあるまいと思われました。  湖の御殿の真珠の屋根は、月と星の光りを受けて見る見る輝き初めました。{{ruby|瑠璃|るり}}の床、青玉の壁、{{ruby|翡翠|ひすい}}の窓、そんなものがみなそれぞれの色にいろめき初めました。  湖の女王の沢山の家来……赤や青や、紫や、{{ruby|黄金|こがね}}色の{{ruby|魚|さかな}}たちは、皆ビックリした眼をキョロキョロさして、われもわれもと列を組んで御殿のまわりに集まって来ました。そのありさまはまるで虹が泳いで来るようでした。  湖の女王様は手をあげてその魚どもを呼び集められまして、これからルルとミミにできるだけ立派な御馳走をするのだから、その支度をせよと云いつけられました。  湖の御殿の噴水を立派に直したルルは、もう歩くことが出来ないほど疲れておりました。けれども……この噴水がもう二度とふたたびこわれないようになった……この湖の中に在る数限りないものの生命は助かった……そうしてこれから{{ruby|後|のち}}何万年経ってもこの水は濁らない……村にわるいことも起らないのだ……と思うと、ルルは嬉しくてたまりませんでした。その嬉しさに、疲れた{{ruby|身体|からだ}}を踊らせながら女王様の前に帰って来ました。  その時にルルは、今までにない美しい御殿の様子に気が付きました。  御殿の大広間は夜光虫の薄紫の光りで夢のように照らされておりました。広い広い部屋一パイに飾られた{{ruby|水艸|みずくさ}}の白い花は、ほのかな{{ruby|香|にお}}いを一面にただよわせておりました。  その中に群あつまる何万とも何億とも知れぬ魚の数々。その奥の奥に見える紫水晶の階段。その上に立っていられる女王様のお姿。  そうして今一人の美しい女の子の姿……ミミ……。  ルルは思わず壇の上に駈け上ってミミを抱きました。ミミもしっかりとルルの首に{{ruby|獅噛|しが}}み付きました。  今まで虹のようにジッと並んでいた数限りない魚の群は、この時ゆらゆらと動き出しました。青、赤、紫、緑、黄色、銀色、銅色、{{ruby|黄金|こがね}}色と、とりどり様々の色をした魚が、同じ色同志に行列を作って、縞のようになったり、渦のようになったりしました。又は花の形を作ったり、鳥の形を作って見せたり、はては皆一時に入り乱れて、一つ一つに輝きひるがえる美しさ。その間を飛びちがい入り乱れる数知れぬ夜光虫の光り。それは世界中が{{ruby|金襴|きんらん}}になって踊り出すかのようでした。  ルルとミミは抱き合ったまま、夢のように見とれていました。その前に数限りない御馳走が並びました。  月の光りはますます明るく御殿の中にさし込みました。そうして、女王様の嬉しそうなお顔やお姿を{{ruby|神々|こうごう}}しく照し出しました。  そのうちに月の光りが次第次第に西へ傾いてゆきました。ルルとミミの{{ruby|陸|おか}}へ帰る時が来ました。  ルルとミミは女王様から貸していただいた、大きな美しい{{ruby|海月|くらげ}}に乗って、湖の御殿の奥庭から{{ruby|陸|おか}}の方へおいとまをすることになりました。  女王様はルルとミミを今一度抱きしめて頬ずりをされました。そうして、こんなお祈りをされました。 「この美しい{{ruby|兄妹|きょうだい}}は、この後どんなことがありましても離れ離れになりませぬように」  ルルもミミも女王様が懐かしくなりました。何だかいつまでもこの女王様に抱かれて、可愛がっていただきたいように思って、涙をホロホロと流しました。  けれども女王様は二人をソッと抱き上げて、海月の上にお乗せになりました。 「海月よ。お前は絶えず光りながら、この{{ruby|兄妹|きょうだい}}を水の上まで送り届けよ。そうして、悪い魚が近付かないように毒の針を用意して行けよ」  海月は黙って浮き上りました。  咲き揃った{{ruby|水藻|みずも}}の花は二人の足もとを{{ruby|後|うしろ}}へ後へとなびいてゆきました。御殿の屋根は薔薇色に、または真珠色に輝きながら、水の底の方へ小さく小さくなってゆきました。宝石をちりばめたような海月の足の下へ……。 「ネエ、ルル兄さま!」 「ナアニ……ミミ」 「女王様は何だかお母様のようじゃなかって」 「ああ、僕もそう思ったよ」 「あたし、何だかおわかれするのが悲しかったわ」 「ああ、僕もミミと二人きりで湖の底にいたいような気もちがしたよ」  こんなことを二人は話し合いました。そうして二人は抱き合って、海月の足の下をのぞきながら、何遍も何遍も女王様のいらっしゃる方へ「左様なら」を送りました。  ルルとミミが湖のおもてに浮き上ったところには、美しい一艘の船が用意してありました。その上にルルとミミは乗りうつりました。 「海月よ。ありがとうよ。ルルとミミが心から御礼を云っていたと、女王様に申し上げておくれ」  海月はやはりだまって、ユラユラと水の底に沈んで行きました。{{ruby|兄妹|きょうだい}}は{{ruby|舷|ふなべり}}につかまって、その海月の薄青い光りが、水の底深く深く、とうとう見えなくなってしまうまで見送っておりました。  お月様は今、西に沈みかけていました。かすかに吹き出した暁の風が、二人の船を{{ruby|陸|おか}}の方へ吹き送りはじめました。  湖の{{ruby|面|おもて}}には牛乳のような{{ruby|朝靄|あさもや}}が棚引きかけていました。その上から、まだ誰も起きていないらしい、なつかしい故郷の村が見えました。その村のお寺の鐘撞き堂に小さく小さくかすかにかすかに光る鐘……ルルはそれをジッと見つめていましたが、その眼からどうしたわけか涙がポトポトとしたたり落ちました。 「まあ。お兄さま、どうなすったの。なぜお泣きになるの……」  ルルはしずかにふりかえりました。 「ミミや。お前は村に帰ったら、一番に何をしようと思っているの……」 「それはもう……何より先にあの鐘の{{ruby|音|ね}}をききたいと思いますわ。あの鐘は今度こそきっと鳴るに違いないのですから……どんなにかいい{{ruby|音|ね}}でしょう……」  と、ミミはもう、ルルの顔をあおぎながら、その{{ruby|音|ね}}が聞こえるようにため息をしました。ルルも一所にため息をしました。 「ミミや。そうしてあの鐘が鳴ったなら、村の人はきっと私たちを可愛がって、二度と再び湖の底へはゆけないようにしてしまうだろうねえ」 「まあ。お兄様はそれじゃ、湖の底へお帰りになりたいと思っていらっしゃるの……」  ルルはうなずいて、又一つため息をしました。そうして又も涙をハラハラと落しました。 「ああ。ミミや。わたしはあの鐘の{{ruby|音|ね}}をきくのが急に怖くなった。村の人に可愛がられて、湖の底へ又行くことが出来なくなるだろうと思うと、悲しくて悲しくてたまらなくなった。私は湖の御殿へ帰りたくて帰りたくてたまらなくなったのだ。私は死ぬまであそこの噴水の番がしていたくなったのだ」 「それならお兄様……あの鐘の{{ruby|音|ね}}はもうお聴きにならなくてもいいのですか……お兄様……ききたいとはお思いにならないのですか」 「ああ。そうなんだよ、ミミ……だから、お前は私の代りにも一度一人で村へ帰って、あの鐘を撞いてくれるように村の人に頼んでくれないか。あの鐘はルルの作り損いではありませんと云ってね。それから兄さんのところへお出で……兄さんはその鐘の{{ruby|音|ね}}を湖の底できいているから……お前の来るのを待っているから……」  といううちに、ルルは立ち上って湖の中に飛びこもうとしました。 「アレ。お兄さま、何でそんなに情ないことをおっしゃるの……それならあたしも連れて行ってちょうだい」  と、ミミは慌ててルルを抱き止めようとしました。そうすると、不思議にもルルの姿は煙のように消え失せてしまいました。船も……お月様も……湖も……村の影も……朝靄も消え失せて、あとにはただ何とも云われぬ芳ばしいにおいばかりが消え残りました。  ミミはオヤと思ってあたりを見まわしました。見ると、ミミは最前のまま湖のふちの{{ruby|草原|くさはら}}に突伏して、花の鎖をしっかりと抱きしめながら睡っているのでした。今までのはすっかり夢で、待っていたお月様は、まだようようにのぼりかけたばかりのところでした。そうして湖の水はやっぱりもとの通り黒いままでした。  ミミはワッとばかり泣き伏しました。泣いて泣いて、涙も声も無くなるほど泣きました。女王様の言葉を思い出しては泣き、ルルの顔を思い出しては泣き、ルルと抱き合って喜んだ時の嬉しさを思い出してはあたりを見まわしました。  けれども、あたりにルルの姿は見えませんでした。ただミミが花を摘んでしまった春の草が、涙のような露を一パイに溜めて、月の光りをうつしながらはてしもなく茫々茂っているばかりでした。  それを見て、ミミはまた泣きつづけました。  その{{ruby|中|うち}}にお月様はだんだんと空の真ん中に近づいて来ました。ミミも泣き止んで、そのお月様をあおぎました。 「ああ、お月様。今まで見たのは夢でしょうか、どうぞ教えて下さいませ」  けれどもお月様は何の返事もなさいませんでした。  ミミは涙を拭いて立ち上りました。露に濡れた{{ruby|草原|くさはら}}を踏みわけて、お寺の方へ来ました。そうして鐘撞き堂まで来ると、空高く月の光りに輝いている鐘を見上げました。 「あの鐘を撞いて見ましょう。あの鐘が鳴ったなら、睡蓮が教えたことはほんとうでしょう。湖の底の御殿もあるのでしょう。女王様のお言葉もほんとうでしょう。お兄さまもほんとうにあそこで待っていらっしゃるでしょう。……あの鐘を撞いてみましょう……」  ミミが撞いた鐘の{{ruby|音|ね}}は、大空高く高くお月様まで……野原を遠く遠く世界の涯まで……そうして、湖の底深く深く女王様の耳まで届くくらい澄み渡って響きました。  お寺の坊さんも、村の人々も、子供までも、みな眼をさましたほど、美しい、清らかな{{ruby|音|ね}}が響き渡りました。  ミミは夢中になって喜びながら、お寺の鐘撞き堂を駈け降りました。 「ああ……夢ではなかった。夢ではなかった。お兄様はほんとうに湖の底に待っていらっしゃる。  {{ruby|妾|わたし}}が来るのを待っていらっしゃる。  ああ、嬉しい。ああ、嬉しい。妾はもうほんとうにお兄様に会えます。そうして、もう二度と再び離れるようなことはないのです。ああ、うれしい……」  こう云ううちに、ミミは最前の花の鎖のところまで駈けもどって来ました。その花の鎖の端を両手でしっかりと握って、静かに湖の底へ沈んでゆきました。——空のまん中にかかったお月様をあおぎながら……。  村中の人々は鐘の音に驚いて、{{ruby|老人|としより}}や子供までみんなお寺に集まって来ました。お寺の坊さんと一所になって、どうしたのだろうどうしたのだろうと話し合いましたが、誰が鐘を打ったのか、どうして鐘が鳴ったか、知っているものは一人もありませんでした。  そのうちに鐘撞き堂の石段に、ミミの露に濡れた小さな足あとが、月の光りに照されているのが見つかりました。その足あとは{{ruby|草原|くさはら}}のふちまで来ますと、草を踏みわけたあとにかわって、ずっと湖のふちまで続いております。  村の人々はやがて、湖のふちに残っている花の鎖の端を見つけました。その一方の端はずっと湖の底深く沈んでいるようです。 「あら、これはあたしたちがミミちゃんに摘んであげた花よ。ミミちゃんが花の鎖につかまってお兄さんに会いにゆくって云ったから、あたしたちは大勢で加勢して上げたのよ」  と二三人の女の子が云いました。  村の人々は皆な泣きました。泣きながら花の鎖を引きはじめました。  お月様がだんだん西に傾いてゆきました。それと一所に湖の水がすこしずつ澄んで来るように見えました。けれども、花の鎖は引いても引いても尽きないほど{{ruby|長|なご}}う御座いました。  ようようにお月様が沈んで、まぶしいお{{ruby|太陽様|てんとさま}}が東の方からキラキラとお上りになりました。その時にはもう湖の水はもとの通り水晶のように澄み切っておりました。そうしてやがて……。  シッカリと抱き合ったまま眠っているルルとミミの姿が、その奇麗な水の底から浮き上って来ました。  ——可哀そうなルルとミミ……。 {{PD-Japan-auto-expired}} d4wnu6l8sykkoid83uzss7cxd0ll0fo 利用者:Keiri 2 56409 242101 2026-05-03T10:33:59Z Keiri 25651 ページの作成:「{{Userpage}}」 242101 wikitext text/x-wiki {{Userpage}} l6qcavcnvp13fawtyzuwyy25mtkf9m5 トーク:七階の運動 1 56410 242102 2026-05-03T11:26:10Z Keiri 25651 ページの作成:「{{textinfo |edition 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競子は足先で床を叩いた。香水が三本売れれば三べん久慈のネクタイヘ息を吐きかけることが出来るのだ。だが、此のぼんやりしたシクラメン、オーデコロンは憎々しげに光つてゐる。能子はわざわざ競子の肉感を験べるために前を廻つて帰つて来た。 「急がしさうね。」 「ええ、御覧の通り。」  紙幣行進曲に合せてデパートメントは正午へと沸騰する。エレベーターのボーイは七層の空間を上つたり下つたりしながら、その日の時間を消していつた。  久慈がカウンターヘひつ付いてゐるのは生活のためではない。此のデパートメントの持ち主の道楽息子は永遠の女性を創るがためだ。生活は彼にとつては嘘のやうに方便だ。彼は七層のシヨツプガールを次から次へと舐めてみるシヤベル。永遠の女性は彼に於ては寄り集めて創られる。競子は胴で能子は頭。肩や手足は七階の毛布や机の中で動いてゐる。容子。鳥子。丹子。桃子。鬱子。彼の小使は一ケ月に二万円だ。百貨店の七階から街路へ向かつて振り撒いても、電車や自動車の速力は鈍るだらう。  久慈は二階へ昇つて行つた。鬱子は半襟の中で胃袋のやうに動いてゐる。彼女は久慈にとつては永遠の女性の右脚だ。その癖彼を片肩に担いだまま、片足に重役を履いて馳け廻るのも美事である。 「あら、久慈さん、お暑いのね。」 「下はここよりなほ暑い。」 「ここも暑いわ。」 「もう一寸、笑つてくれ。」 「だつて、まだ氷も飲めないの。」  久慈は十円札を握らせて三階へと登つて行く。封筒の中に、レツテルのやうに埋つてゐるのは軽い桃子。 「もう少し、暴れなければ。」 「だつて、暑いわ。」 「だつて、ハンカチ位はあるだらう。」  十円札をハンカチに包んで投げ出すと、久慈は四階へと昇つて行つた。婚礼調度品の大鯛小鯛に挟まつて、丹子は汗をかいたまま夕暮の来るのを待つてゐる。 「まア、素通りするなんて。」 「今日は人がゐないぢやないか。」 「だから、寄つたつていいぢやないの。」 「人がゐなければ、人眼に付く。」 「五階へお急ぎになるのには、悪いわね。」 「四回で疲れて了つては、意気地がない。」  丹子は女中のやうにお饒舌だ。ここで掴まると、五階の会話が短かくなる。振り切り賃を鯛の腹の下へ押し込んで、五階へと急いで行く。鳥子は金属の中に、刺つた花のやうに浮いてゐた。近よる久慈の方へ指を上げながら、 「けふは冗談を仰言らないで。」 「僕は休憩時間だよ。」 「だつて、あたしはこれからなの。」 「五階まで昇つて蹴られては、降りられない。」 「まア、もう少しあちらへ行つて、」 「これほど放れてをれば、汗もかくまい。」 「あそこで人が、みてるぢやないの。」 「ぢや、これはいくらでございます?」 「はい、それは三十五銭でございますの。」  久慈は爪切りを一丁買ふと十円紙幣を支払つた。 「お釣はお宅へ。」  六階へ昇ると、笑つた容子が鏡の中に五人もゐる。 「どちらが君だ。」 「あら、今日の巡礼はお早いのね。」 「だから、練習と云ふものは、しておくものさ。」 「道理で能子さんが、おしやべりになつたのね。」 「それや、君だ。」 「あたしがおしやべりになつたつて?」 「誰だかそんなことを云つてたよ。」 「それや、あたしが、六階あたりにゐるからよ。」 「人里はなれて暮らしてゐると、下界のことが気になるな。」 「こんな所で、お婆さんにはなりたくないわ。」 「いや、物事は、高い所から見降ろすものさ。」 「でも、高い所へはなかなか男の方は来ませんわ。」 「なるほど、君は、今日は満点だ。」  二枚の十円札が、いきなり容子の帯の間へ突き刺さる。 「まア、もう逃げ支度をなさるのね。」 「時間だ。」 「それや、下でお涼みになる方が、湿気があつて、」  急転直下、久慈は運動が終ると七階からエレベーターで馳け下る。彼は能子の傍へ近かづいた。彼には能子は苦手である。此の「永遠の女性」の頭だけは彼の十円紙幣で効いたためしは一度もない。それ故彼の心理学はいつも此処まで来ると狂ふのだ。彼は賭博に負けたマニヤのやうに、十円札を彼女の前へ重ねて行く。だが、能子の云ふのはかうである。 「あなた。何ぜあなたはあたしにこんなにお金を下さるの?」 「君が、受けとりさうにもないからさ。」 「ぢや、あたし、貰つておくわ。だけど、あなたは、馬鹿だわね。」 「いや、僕より、君の方が賢いのだ。」  彼女は彼の誘惑に従つてどこへでもついて行く。だが、彼女は彼の誘惑にかかつたことは一度もない。 「あなた、なぜあなたは、あたしの心がお分りになれないの。」 「分つて了へば、それまでだ。なるだけ、君だけは、百貨店の法則から逆に進行してゐてくれ給へ。」 「さうすると、あたしにこんなにお金が出て来るの?」 「いや、それは君が金を馬鹿にしてゐる賃金さ。」 「だつて、あたしは、あなたがあたしにお金を下さることを馬鹿にしてゐるのよ。」 「それは勝手だ。だが、金を君にやるからと云つて、僕を馬鹿扱ひにするのは御免蒙る。」 「だけど、そんなことをなすつてゐると、今にあなたがお金のやうに見えて了ふわ。」 「つまり、人間に見えないと云ふんだな。」 「ええ、さう。あなたはお金よ。たつたそれだけ。」 「今度は化物扱ひにし出したな。」 「だつて、あなたは、それが本望なんですもの。あなたは人間の感能がお金でどこまで発達してゐるか、験べる機械のやうなものなのよ。ね、あたしはあなたに、どんな参考になつてゐるの?」 「君は、今の百貨店の売上高では、分らない。」 「ぢや、あたし、あなたにもつと勉強するやうにさせて上げるわ。そしてそのときになつたら、あたしあなたからお金をとつて、それをみんな、あたしと一緒に働いてゐる人達に振り撒くの。さうすると、品物の能率が上るでせう。そしたら、あなたがもつとお金をおとりになるでせう。そしたら、またあたしが沢山とつて、それを人々に振り撒いて、ね、あなたはその間にいろいろな女の方に飽くことを練習するの。今はまアあなたの過度期だから、あたしは黙つて見てゐるわ。まア、あたしは、ここ暫くはあなたの柔い監督ね。」 「うつかりすると、君は社会主義者になりさうだよ。」 「ええ、さう、あたしは、あなたん所の労働者よ。万国の労働者よ団結せよつて云ひたい方なの。だつて、あたしは、朝の八時から立ち詰めよ。あなたのやうに運動がてらに七階まで上つて行つて、一枚づつお{{ruby|幣|さつ}}をくばつて降りて来て、それから競子さんを自動車に乗せて飛び廻ることなんか、新らしい仕事だなんて思へないわ。」 「ぢや、新らしい仕事なんて、どこにある?」 「あるわ。ここに。あなた、一枚お幣を出してごらんなさいな。」 「よし、その手は分つた。」 「あなたのお豪い所は、そこなのね。」 「何に、もう一度云つてみてくれ。」 「そら、そこ。あなたはあたしと、本当に馬が合つてゐるんだわ。あたしはあなたを、馬鹿にときどきするんだけど、かうしてゐられるのもあなたの人柄がさせるのよ。まアあなたは七階まで運動なさるだけあつて、爽やかで、闊達で、理解があつて、善良で、朗らかに光つてゐる癖に傲慢な所がちつともなくて。」 「また、一枚とられるな。」 「あなた、お止しなさいよ。そこがあなたのいけない癖よ。運動なすつたいい癖が台なしだわ。」 「だつて、あまりやつつけられちや、口止めする方が安全だよ。」 「あなたは、他の女の方にお出しになる手を、あたしにまで出さうとなさるから虐めるの。あたしがあなたからお金をいただいてゐるのは、あなたの生活をただお助けしてゐるだけよ。あなたはお金を撒くことだけが、生活なの。」 「まア、云はば、君は少し野暮臭い、と云ふ方の女だよ。僕に意見をしてくれるのはありがたいが、もう少し、僕の金の撒き方に好意を見せてくれてもいい。」 「だつて、好意の見せ場が見つからないわ。あたしが一寸愛嬌を振り撒くと、また一枚と来るんでせう。それぢや出て来る愛嬌だつて溜らないわ。あたしには、あなたがお腹で、あたしの愛嬌にお点を点けていらつしやるのが分つてゐるの。これからあたしが愛嬌を振り撒いたら、あなたを馬鹿にしてゐるときだと思つてゐて頂戴。」  これが能子だ。久慈が金で創つた永遠の女性の頭だけは、いつまでたつても頭を横に振り続ける。久慈は能子に逢ふと世界が新鮮に転倒した。彼女は酒だ。彼は能子の唇を狙つて傾いて行く患者である。  水滴型の自動車が、その膨れた尖端で、街を落下するやうに疾走した。久慈と能子がホテルへと行くのである。ガードの下腹。鉄の皮膚に描かれた粗剛な朱色の十字を指差して、能子は云つた。 「あなた、あたしはあれが恐いの。」  久慈が振り向くとガードの上を貨物列車が驀進した。擦れ違ふオートバイ。電車の腹。警官の両手をかすめてトラツクが飛び上る。キヤナルの水面に光つた都会の足。下水の口で休息してゐる浚渫船。 「あなた、あたしは、あれが好きなの。」  ホテルでは、クツシヨンの中から百貨店の匂ひがした。久慈は上着を脱いでテラスヘ立つた。噴水のアーチの中を二羽の鵞鳥が夢のやうに泳いでゐる。 「まア、あれを御覧なさいな。あれは古風な恋愛よ。あたしはあんなのを見てゐると、羽根枕を目茶苦茶に叩きつけてやりたくなるの。」 「君には情緒といふものがないんだね。」 「ええ、さう、あたしはあんな鵞鳥を見てゐると、この欄干の上で逆立ちしてみたくてならないの。」 「僕は君とは反対だ。先づここで煙草を吸つて、」 「あなたには進化といふものがないんだわ。もしあたしがあなただつたら、首を縊るより仕方がないわ。」 「もし僕が君だつたら、刑務所へでも這入りたい。」 「ぢや、とてもあなたとは駄目なのね。あたし、こんなことをしてゐても、明日の朝は電車で足を踏まれぬやうに、と思つてゐる人間なの。」 「所が、僕は、君がいたつて好きなんだ。」 「まア、もう少し、お上手にお仰言つたつて。」 「いや、さう云はれると羞しくなるんだが。」 「あたし、あなたのお顔を見てゐると、競子さんに黙つて来たのが残念だわ。」 「競子は競子。」 「能子は能子? ね、あなた、ちよつとこちらを見て頂戴。あたしは今夜は、顔を洗ひに来たんだから、もうシヨツプガールぢやないことよ。まあ、鵞鳥だつて、あんなに優しく二人の前で泳いでゐるし、あたしだつて、ここのボーイを蹴飛すぐらゐなんでもないわ。」 「いや、今夜はなるたけ、音無しくしてゐてくれ給へ。」 「あたしは、あなたが好きなのよ。こんなに、こんなに云つたつて。あらあら、あれはシエラザアト、あなた。ちよつと。」  能子は石の上に上つてゐる久慈の手を持つて、引き摺り降ろすと、突きあたりながら踊り出した。 「君は、なかなか乱暴だ。」 「だつて、あなたのお店がいけないんだわ。あたしは気取つたことなんかしてゐると、首の骨が痛み出すの。あたしは動かないでじつとしてると、草のやうになつて了つて風邪をひくの。」 「それや野蛮だ。」 「あたしは野蛮人が大好きよ。あの裸体姿を見てゐると、身体が風のやうに拡つて飛びたくなるの。」 「君には進化と云ふものがないからだ。もし僕が君だつたら、首を縊るより仕方がない。」 「あら、あなたには進化がないから、そんなことを仰言るんだわ。野蛮人を軽蔑するのは、文明人の欠点よ。」 「それなら君は、自分の親父と結婚するに限るのだ。」 「まア、あなたは、結婚とはどんなことだか御存知ないと見えるわね。」 「冗談はよし給へ。これでもまだ結婚だけはしたことがないんだよ。」 「ぢや、どうぞ御自由にして頂戴。あたしはそのとき、そつとあなたのお顔を見て上げるわ。そしたらあなたは、きつと野蛮人のやうなお顔をなすつて、まア結婚なんて、だいたい、こんなものさつて仰言るわ。」 「それなら僕と、結婚してみるのが一番だ。」 「まア、そんなに恐はさうなお顔で仰言らなくても、あたし、結婚なんかいたしませんわ。」 「いや、結婚すると云ふことは、こんなに骨の折れることだとは思はなかつた。さあどうぞ。」  久慈の示した部屋の方へ、能子は扇子を使ひながら、ひらひら笑つた仮面のやうに這入つていつた。久慈は部屋の羽根枕にもたれかかると、黙つて能子の膝を軽く指さきで叩き出した。 「あなたは、あたしの着物が、よほどお気に召さないと見えるのね。これでもあたしは、あなたのお店でいただいたものなのよ」 「いや、これがそれほど大切な着物なら、いま一枚上げてもいい。」 「ええ、どうぞ、あたしはあなたとお逢ひしてると、着物がほしくて仕方がないの。これはきつと、あなたが上品なせゐなのね。もしあなたが野蛮人だつたら、あたしはあなたの前で、裸体になつて踊つてみるわ。」 「僕は一度君のさう云ふ所も見たいのだ。」 「まア、あなたはさう云ふときだけは、野蛮人に好意をお持ちなさるのね。」 「かう云ふ羽根枕の上へ並んだら、もう野蛮人の話だけはよし給へ。」  久慈の片手が能子の胴に絡らんで来た。能子は久慈の膝の上へ飛び移ると、櫓を漕ぐやうに身体を前後に揺り動した。彼女の頭にささつたクリリツカスのヘヤピンが、久慈の眼鏡をひつ掻いた。彼は顔を顰めながら彼女の唇の方へ自分の頬を廻していつた。と、能子はスタンドの傘をくるくる廻しながら、 「鬱子、桃子、丹子、鳥子、まア、沢山で賑やかね。」 「ここは、デパートメントぢやないんだよ。」 「だつて、あなたのために、歌を歌つて上げたつて、悪くはないわ。」 「今日は、芽出度い結婚式だ。縁起の悪いことは云はぬがいい。」 「そんなことを仰言ると、いつも競子さんはどんなことを仰言つて?」 「さア、立つた、今夜は僕は、侮辱されに来たんぢやない。」 「まア、ぢや、あなたはあたしと結婚なさるおつもりなの?」  久慈はいつまでも黙つてゐる。  能子は久慈の膝から立ち上つた。彼女は久慈を睨みながら、強く一振りスタンドの傘を廻すと黙つて部屋の外へ出て行つた。  今日は昨日の翌日だ。エレベーターは吐瀉を続けた。オペラパツクを嗅ぐ女。コンパクトの中へ浸つた女。デコルテアトレーンにモンタント。能子は朝から早くパラソルの垣根の中で、青春とはかくのごとしと云ふかのやうに、ぽんぽん羽根枕を叩いてゐる。久慈は休息の時間が来ると、頭のとれた「永遠の女性」の手足を眺めにまたことこと七階まで昇つていつた。 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