Wikisource jawikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 MediaWiki 1.47.0-wmf.6 first-letter メディア 特別 トーク 利用者 利用者・トーク Wikisource Wikisource・トーク ファイル ファイル・トーク MediaWiki MediaWiki・トーク テンプレート テンプレート・トーク ヘルプ ヘルプ・トーク カテゴリ カテゴリ・トーク 作者 作者・トーク Page Page talk Index Index talk TimedText TimedText talk モジュール モジュール・トーク Event Event talk 枕草子 (Wikisource)/第一段 0 6449 243131 242943 2026-06-12T12:19:36Z ~2026-34668-12 45952 /* 原文 */ 243131 wikitext text/x-wiki {{header | title = 枕草子 (Wikisource) 第一段 | author = 清少納言 | section = | previous = | translator = | next = [[枕草子 (Wikisource)/第二段]] | notes = }} == 原文 ==  春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。  夏は夜。月の頃はさらなり。闇もなほ螢の多く飛び違ひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。 秋は夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの列ねたるがいと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。  冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎ熾して、炭もて渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし。 ---- [[Category:枕草子 (Wikisource)|001]] ii9mzm02rsbdif31zxs9b517ennqp2e Wikisource:内閣府令 4 7746 243135 243120 2026-06-12T13:55:18Z HTDFPC 45275 /* 平成27年 */ 243135 wikitext text/x-wiki [[w:日本|日本]]で[[w:公布|公布]]された[[w:府令#現在存在する府令|内閣府令]]の一覧。なお、内閣府令と[[w:省令|省令]]の複合体<!--適切な言葉が思いつきません。差し替え歓迎。-->については、[[内閣府令・省令]]を参照。 ==平成13年== *[[内閣府本府組織規則]] *[[原子力安全委員会事務局組織規則]] *[[国立公文書館組織規則]] *[[沖縄総合事務局組織規則]] *[[防衛施設庁組織規則]] *[[独立行政法人国立公文書館の業務運営並びに財務及び会計に関する内閣府令]] *[[証券会社の自己資本規制に関する内閣府令]] *[[国立公文書館組織規則を廃止する内閣府令]] *[[情報公開審査会事務局組織規則]] *[[上場等株券の発行者である会社が行う上場等株券の売買等に関する内閣府令]] *[[銀行法等の一部を改正する法律附則第二条第二項の届出に関する内閣府令]] *[[独立行政法人駐留軍等労働者労務管理機構の業務運営並びに財務及び会計に関する省令]] ==平成14年== *[[銀行等の株式等の保有の制限に関する内閣府令]] *[[金融業に付随する業務及び金融業務に係る事業認定の申請等に関する内閣府令]] *[[観光振興地域の区域内における特定民間観光関連施設である販売施設の指定申請に関する内閣府令]] *[[自動車運転代行業の業務の適正化に関する法律の施行に伴う道路交通法施行規則の規定の読替えに関する内閣府令]] *[[証券取引法及び金融先物取引法の一部を改正する法律の一部の施行に伴う経過措置に関する内閣府令]] *[[開示用電子情報処理組織による手続の特例等に関する内閣府令]] *[[道路関係四公団民営化推進委員会事務局組織規則]] *[[防衛庁の職員の俸給の切替え及び切替えに伴う措置に関する内閣府令 (平成14年内閣府令第72号)]] *[[金融商品取引清算機関等に関する内閣府令]] *[[北朝鮮当局によって拉致された被害者等の支援に関する法律施行規則]] *[[金融機関等の組織再編成の促進のための特別措置に関する内閣府令]] ==平成15年== *[[預金保険法第五十八条の三第一項に規定する措置に関する内閣府令]] *[[構造改革特別区域法施行規則]] *[[内閣府の所管する金融関連法令に係る行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[上場等株券の発行者である会社が行う上場等株券の売買等に関する内閣府令の特例に関する内閣府令]] *[[内閣総理大臣の所管に属する公益信託の引受けの許可及び監督に関する内閣府令に係る行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[金融機関等の更生手続の特例等に関する法律施行規則]] *[[上場株式の議決権の代理行使の勧誘に関する内閣府令]] *[[平成15年内閣府令第24号|民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律第二十条第二項の規定により読み替えて適用される商法第二百九十条第一項及び第二百九十三条ノ五第三項の内閣府令で定める場合及び内閣府令で定める金額等を定める内閣府令]] *[[構造改革特別区域における内閣総理大臣の所掌に係る研究の交流促進に関する内閣府令]] *[[各種勲章及び大勲位菊花章頸飾の制式及び形状を定める内閣府令]] *[[褒章の制式及び形状を定める内閣府令]] *[[食品安全委員会令第一条第一項の内閣府令で定めるときを定める内閣府令]] *[[食品安全委員会事務局組織規則]] *[[防衛省関係法令に係る行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[東南海・南海地震に係る地震防災対策の推進に関する特別措置法施行規則]] *[[独立行政法人国民生活センターの業務運営並びに財務及び会計に関する内閣府令]] *[[防衛庁の職員の俸給の切替え及び切替えに伴う措置に関する内閣府令 (平成15年内閣府令第93号)]] ==平成16年== *[[証券仲介業者に関する内閣府令]] *[[外国証券取引所に関する内閣府令]] *[[公認会計士・監査審査会の職員が検査の際に携帯すべき証票の様式を定める内閣府令]] *[[公認会計士・監査審査会事務局組織規則]] *[[日本公認会計士協会に関する内閣府令]] *[[公認会計士法第二十八条に規定する研修に関する内閣府令]] *[[公認会計士試験規則]] *[[内閣府の所管する内閣府本府関係法令に係る行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[金融機能の強化のための特別措置に関する内閣府令]] *[[「故鈴木善幸」内閣・自由民主党合同葬儀における自衛隊の礼式に関する内閣府令]] *[[武力攻撃事態等におけるアメリカ合衆国の軍隊の行動に伴い我が国が実施する措置に関する法律施行規則]] *[[防衛庁の職員の俸給の切替え及び切替えに伴う措置に関する内閣府令 (平成16年内閣府令第85号)]] *[[外国軍用品審判規則]] *[[内閣府の所管する金融庁関係構造改革特別区域法第二条第三項に規定する内閣府令の特例に関する措置及びその適用を受ける特定事業を定める内閣府令]] *[[信託業法施行規則]] ==平成17年== *[[取扱有価証券に関する内閣府令]] *[[証券取引法第七十九条の三及び第百十六条に規定する最終の価格がない場合にこれに相当するものを定める内閣府令]] *[[武力攻撃事態における捕虜等の取扱いに関する法律施行規則]] *[[捕虜収容所処遇規則]] *[[捕虜資格認定審査規則]] *[[捕虜等懲戒規則]] *[[金融商品取引法第六章の二の規定による課徴金に関する内閣府令]] *[[内閣府の所管する金融関連法令に係る民間事業者等が行う書面の保存等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[情報公開・個人情報保護審査会事務局組織規則]] *[[内閣総理大臣の所管に属する公益信託の引受けの許可及び監督に関する内閣府令に係る民間事業者等が行う書面の保存等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[内閣府の所管する内閣府本府関係法令に係る民間事業者等が行う書面の保存等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[地震防災対策特別措置法施行令第二条第二項の額の算定に関する内閣府令]] *[[交付金の額の特例に係る算定方法及び沖縄振興特別措置法第百五条の三第二項に規定する交付金の交付に関する内閣府令]] *[[地域再生法施行規則]] *[[日本郵政公社による証券投資信託の受益証券の募集の取扱い等のための日本郵政公社の業務の特例等に関する法律の施行に関する内閣府令]] *[[金融先物取引業者の自己資本規制に関する内閣府令]] *[[独立行政法人沖縄科学技術研究基盤整備機構の財務及び会計に関する内閣府令]] *[[防衛庁の職員の俸給の切替え及び切替えに伴う措置に関する内閣府令 (平成17年内閣府令第88号)]] *[[日本学術会議法の一部を改正する法律附則第五条第一項に基づき日本学術会議会員候補者の内閣総理大臣への推薦手続を定める内閣府令]] *[[日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震に係る地震防災対策の推進に関する特別措置法施行規則]] *[[日本学術会議会員候補者の内閣総理大臣への推薦手続を定める内閣府令]] *[[道路関係四公団民営化推進委員会事務局組織規則を廃止する内閣府令]] *[[防衛庁の職員の俸給の切替え及び切替えに伴う措置に関する内閣府令 (平成17年内閣府令第100号)]] *[[証券取引法第百七十二条の二第一項第二号イに規定する市場価額の総額等を定める内閣府令]] *[[実務補習規則]] ==平成18年== *[[沖縄振興特別措置法に基づく特定跡地給付金の支給に関する省令]] *[[防衛庁の職員の俸給の切替え及び切替えに伴う措置等に関する内閣府令]] *[[特定目的会社の計算に関する規則]] *[[特定目的会社の監査に関する規則]] *[[会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律の特例旧特定目的会社に関する内閣府令]] *[[投資法人の計算に関する規則]] *[[投資法人の会計監査に関する規則]] *[[社債の担保変更手続の特例に関する件及び銀行持株会社の創設のための銀行等に係る合併手続の特例等に関する法律施行規則を廃止する内閣府令]] *[[特定目的会社の社員総会に関する規則]] *[[特定目的信託の権利者集会等に関する規則]] *[[平成18年内閣府令第57号|民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律第二十条第二項の規定により読み替えて適用される商法第二百九十条第一項及び第二百九十三条ノ五第三項の内閣府令で定める場合及び内閣府令で定める金額等を定める内閣府令を廃止する内閣府令]] *[[防声具の制式に関する内閣府令]] *[[防衛省職員の留学費用の償還に関する省令]] *[[官民競争入札等監理委員会事務局組織規則]] *[[防衛庁の職員の俸給の切替えに関する内閣府令]] *[[「故橋本龍太郎」内閣・自由民主党合同葬儀における自衛隊の礼式に関する内閣府令]] *[[中心市街地の活性化に関する法律施行規則]] ==平成19年== *[[防衛省の所管に属する補助金等の事務委任の範囲及びその委任を受ける者を定める省令]] *[[防衛省の主管に係る一般会計の歳入について証券をもって納付し得る種目を定める省令]] *[[防衛省の所管に属する不動産及び船舶に関する権利の登記嘱託職員を指定する省令]] *[[防衛大臣の所管に属する公益法人の設立及び監督に関する規則]] *[[防衛大臣の所管に属する公益信託の引受けの許可及び監督に関する省令]] *[[防衛大臣の所掌に係る研究の交流促進に関する省令]] *[[防衛省聴聞手続規則]] *[[防衛大臣の所管に属する公益信託の引受けの許可及び監督に関する省令に係る行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[防衛大臣の所管に属する公益信託の引受けの許可及び監督に関する省令に係る民間事業者等が行う書面の保存等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[道州制特別区域における広域行政の推進に関する法律施行規則]] *[[消費者契約法施行規則]] *[[探偵業の業務の適正化に関する法律施行規則]] *[[公益認定等委員会事務局組織規則]] *[[遺失物法施行規則を廃止する内閣府令]] *[[国家公安委員会関係刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律施行規則]] *[[貸付信託法施行規則]] *[[担保付社債信託法施行規則]] *[[金融商品取引業等に関する内閣府令]] *[[金融商品取引業協会等に関する内閣府令]] *[[金融商品取引所等に関する内閣府令]] *[[有価証券に係る投資顧問業の規制等に関する法律施行規則等を廃止する内閣府令]] *[[総合研究開発機構法を廃止する法律施行規則]] *[[総合研究開発機構法施行規則及び総合研究開発機構の財務及び会計に関する内閣府令を廃止する内閣府令]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令]] *[[財務計算に関する書類その他の情報の適正性を確保するための体制に関する内閣府令]] *[[四半期財務諸表等の用語、様式及び作成方法に関する規則]] *[[四半期連結財務諸表の用語、様式及び作成方法に関する規則]] *[[公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律施行規則]] *[[一般社団法人及び一般財団法人に関する法律及び公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律施行規則]] *[[日本郵政株式会社が銀行持株会社等である場合の届出に関する手続を定める内閣府令]] *[[出資の受入れ、預り金及び金利等の取締りに関する法律の一部を改正する法律附則第九項第一号に規定する小規模のものを定める内閣府令を廃止する内閣府令]] *[[公認会計士法施行規則]] *[[公認会計士法の規定による課徴金に関する内閣府令]] *[[特定社員登録規則]] ==平成20年== *[[外国監査法人等に関する内閣府令]] *[[独立行政法人国民生活センター法施行規則]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成20年内閣府令第61号)]] *[[内閣総理大臣の所掌に係る研究開発システムの改革の推進等による研究開発能力の強化及び研究開発等の効率的推進等に関する内閣府令]] *[[内閣総理大臣の所管に属する公益法人の設立及び監督に関する規則を廃止する内閣府令]] *[[証券情報等の提供又は公表に関する内閣府令]] *[[職員の退職管理に関する内閣府令]] *[[特定独立行政法人の役員の退職管理に関する内閣府令]] *[[再就職等監視委員会事務局組織規則]] *[[官民人材交流センター組織規則]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成20年内閣府令第88号)]] ==平成21年== *[[標準的な官職を定める政令に規定する内閣府令で定める標準的な官職等を定める内閣府令]] *[[人事評価の基準、方法等に関する内閣府令]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成21年内閣府令第11号)]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成21年内閣府令第42号)]] *[[消費者委員会事務局組織規則]] *[[消費生活用製品安全法の規定に基づく重大事故報告等に関する内閣府令]] *[[消費者安全法施行規則]] *[[不当景品類及び不当表示防止法第四条第二項の規定による資料の提出要求の手続に関する内閣府令]] *[[不当景品類及び不当表示防止法第九条第一項の規定による立入検査をする職員の携帯する身分を示す証明書の様式を定める内閣府令]] *[[農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律の規定に基づく飲食料品の区分等に関する内閣府令]] *[[消費者安全法の規定に基づく立入調査等をする職員の携帯する身分を示す証明書の様式を定める内閣府令]] *[[健康増進法に規定する特別用途表示の許可等に関する内閣府令]] *[[消費者庁組織規則]] *[[内閣府の所管する消費者庁関係法令に係る民間事業者等が行う書面の保存等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[内閣府の所管する消費者庁関係法令に係る行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成21年内閣府令第65号)]] *[[中小企業者等に対する金融の円滑化を図るための臨時措置に関する内閣府令]] *[[金融商品取引法第五章の五の規定による指定紛争解決機関に関する内閣府令]] ==平成22年== *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成22年内閣府令第2号)]] *[[前払式支払手段に関する内閣府令]] *[[資金移動業者に関する内閣府令]] *[[資金清算機関に関する内閣府令]] *[[認定資金決済事業者協会に関する内閣府令]] *[[資金移動業の指定紛争解決機関に関する内閣府令]] *[[子ども・若者育成支援推進法施行規則]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成22年内閣府令第26号)]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成22年内閣府令第38号)]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成22年内閣府令第47号)]] ==平成23年== *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成23年内閣府令第1号)]] *[[国家公務員体育センターの管理運営等に関する内閣府令を廃止する内閣府令]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成23年内閣府令第20号)]] *[[総合特別区域法施行規則]] *[[食品衛生法第十九条第一項の規定に基づく表示の基準に関する内閣府令]] *[[食品衛生法第十九条第一項の規定に基づく乳及び乳製品並びにこれらを主要原料とする食品の表示の基準に関する内閣府令]] *[[特定非営利活動促進法施行規則]] *[[沖縄科学技術大学院大学学園法施行規則]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成23年内閣府令第60号)]] *[[民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律施行規則]] *[[公共施設等運営権登録令施行規則]] *[[東日本大震災復興特別区域法施行規則]] ==平成24年== *[[貸金業の規制等に関する法律施行令の一部を改正する政令附則第二十条第二項第一号ハに規定する会社に関する内閣府令]] *[[沖縄県における駐留軍用地跡地の有効かつ適切な利用の推進に関する特別措置法施行規則]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成24年内閣府令第37号)]] *[[店頭デリバティブ取引等の規制に関する内閣府令]] *[[死因究明等推進会議事務局組織規則]] *[[簡易郵便局法第四条第一項に規定する受託者の銀行法第五十二条の三十九第一項又は第二項の規定による届出に関する内閣府令]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成24年内閣府令第73号)]] ==平成27年== *第10号:[[食品表示基準]] *第17号:[[不当景品類及び不当表示防止法等の一部を改正する等の法律の一部の施行に伴う経過措置に関する内閣府令]] *第18号:[[指定消費生活相談員に係る消費生活相談員としての実務の経験を定める内閣府令]] *第39号:[[特定金融指標算出者に関する内閣府令]] *第46号:[[内閣府関係構造改革特別区域法施行規則]] *第51号:[[女性の職業生活における活躍の推進に関する法律施行規則]] *第61号:[[女性の職業生活における活躍の推進に関する法律に基づく特定事業主行動計画の策定等に係る内閣府令]] *第71号:[[活動火山対策特別措置法施行規則]] *第72号:[[道路交通法施行規則の一部を改正する内閣府令 (平成27年内閣府令第72号)|道路交通法施行規則の一部を改正する内閣府令]] *第75号:[[個人情報保護委員会事務局組織規則]] ==平成28年== *第2号:[[障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律施行規則]] *第6号:[[不当景品類及び不当表示防止法施行規則]] *第38号:[[迎賓館の施設に係る参観料の徴収に関する内閣府令]] ==平成29年== *第41号:[[衛星リモートセンシング記録の適正な取扱いの確保に関する法律施行規則]] *第50号:[[人工衛星等の打上げ及び人工衛星の管理に関する法律施行規則]] *第54号:[[金融商品取引法第二章の六の規定による重要情報の公表に関する内閣府令]] ==平成30年== *第26号:[[地域における大学の振興及び若者の雇用機会の創出による若者の修学及び就業の促進に関する法律施行規則]] *第32号:[[民間公益活動を促進するための休眠預金等に係る資金の活用に関する法律に基づく指定活用団体に関する内閣府令]] *第39号:[[桂離宮の施設に係る参観料の徴収に関する内閣府令]] *第57号:[[災害救助法に基づく救助実施市に関する内閣府令]] ==平成31年== *第23号:[[宮内庁組織規則の一部を改正する内閣府令]] *第25号:[[京都事務所の所掌事務を定める内閣府令及び宮内庁組織規則の一部を改正する内閣府令]] *第26号:[[警察法施行規則の一部を改正する内閣府令]] ==令和元年== *第1号:[[元号を改める政令の施行に伴う関係府令の整理に関する内閣府令]] *第4号:[[アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律施行規則]] *第22号:[[災害弔慰金の支給等に関する法律の規定に基づく災害援護資金の償還免除に関する内閣府令]] *第49号:[[カジノ管理委員会事務局組織規則]] ==令和2年== *第1号:[[特定複合観光施設区域整備法の一部の施行に伴う関係内閣府令の整備に関する内閣府令]] *第57号:[[国家戦略特別区域法第二十五条の二の内閣府令で定める実証事業等を定める内閣府令]] ==令和3年== *第35号:[[金融サービス仲介業者等に関する内閣府令]] *第64号:[[内閣府の所管する法律の規定に基づく立入検査等の際に携帯する職員の身分を示す証明書の様式の特例に関する内閣府令]] *第65号:[[消費者庁の所管する法律の規定に基づく立入検査等の際に携帯する職員の身分を示す証明書の様式の特例に関する内閣府令]] *第73号:[[宇宙資源の探査及び開発に関する事業活動の促進に関する法律施行規則]] ==令和4年== *第1号:[[預託等取引に関する法律施行規則]] *第9号:[[取引デジタルプラットフォームを利用する消費者の利益の保護に関する法律施行規則]] *第56号:[[重要施設周辺及び国境離島等における土地等の利用状況の調査及び利用の規制等に関する法律施行規則]] ==令和5年== *第24号:[[法人等による寄附の不当な勧誘の防止等に関する法律第四条第四号の内閣府令で定める方法を定める内閣府令]] *第38号:[[こども家庭庁組織規則]] ==令和6年== *第1号:[[孤独・孤立対策推進法施行規則]] *第10号:[[金融経済教育推進機構に関する内閣府令]] *第15号:[[内閣府の所管する法令に係る情報通信技術を利用する方法による国の歳入等の納付に関する法律施行規則]] *第27号:[[一時保護施設の設備及び運営に関する基準]] *第55号:[[不当景品類及び不当表示防止法の規定に基づく確約手続に関する内閣府令]] *第80号:[[官報の発行に関する内閣府令]] *第90号:[[金融サービスの提供及び利用環境の整備等に関する法律施行令第二条の規定に基づき業務を定める内閣府令]] *第95号:[[次世代育成支援対策推進法に基づく特定事業主行動計画の策定等に係る内閣府令]] *第99号:[[金融庁関係国家戦略特別区域法第二十六条に規定する政令等規制事業に係る内閣府令の特例に関する措置を定める内閣府令]] *第102号:[[金融商品の販売等に係る勧誘方針の公表の方法に関する内閣府令]] *第114号:[[旧優生保護法に基づく優生手術等を受けた者等に対する補償金等の支給等に関する法律施行規則]] *第115号:[[社会保険診療報酬支払基金の支援納付金関係業務に係る業務方法書に記載すべき事項を定める内閣府令]] *第116号:[[社会保険診療報酬支払基金の支援納付金関係業務に係る財務及び会計に関する内閣府令]] ==令和7年== *第1号:[[乳児等通園支援事業の設備及び運営に関する基準]] *第21号:[[金融商品取引法の審判手続等における参考人及び鑑定人の旅費及び手当に関する内閣府令]] *第22号:[[公認会計士法の審判手続における参考人及び鑑定人の旅費及び手当に関する内閣府令]] *第58号:[[登録被災者援護協力団体に関する内閣府令]] *第63号:[[公益信託に関する法律施行規則]] *第67号:[[企業価値担保権に関する信託業務に関する内閣府令]] *第90号:[[日本学術会議法附則第七条第二項に規定する内閣府令で定める事項を定める内閣府令]] *第93号:[[子ども・子育て支援納付金の算定等に関する内閣府令]] *第95号:[[特定乳児等通園支援事業の運営に関する基準]] *第97号:[[会員予定者の候補者の内閣総理大臣への推薦手続を定める内閣府令]] *第104号:[[学校設置者等及び民間教育保育等事業者による児童対象性暴力等の防止等のための措置に関する法律施行規則]] ==令和8年== *第16号:[[一時保護委託者の登録等に関する基準]] *第32号:[[サイバー通信情報監理委員会事務局組織規則]] [[Category:内閣府令|*]] [[カテゴリ:索引|ないかくふれい]] 3hyzvhzlyo7y7yaelxl59i2lqhpjx96 243136 243135 2026-06-12T14:01:50Z HTDFPC 45275 /* 平成24年 */ 243136 wikitext text/x-wiki [[w:日本|日本]]で[[w:公布|公布]]された[[w:府令#現在存在する府令|内閣府令]]の一覧。なお、内閣府令と[[w:省令|省令]]の複合体<!--適切な言葉が思いつきません。差し替え歓迎。-->については、[[内閣府令・省令]]を参照。 ==平成13年== *[[内閣府本府組織規則]] *[[原子力安全委員会事務局組織規則]] *[[国立公文書館組織規則]] *[[沖縄総合事務局組織規則]] *[[防衛施設庁組織規則]] *[[独立行政法人国立公文書館の業務運営並びに財務及び会計に関する内閣府令]] *[[証券会社の自己資本規制に関する内閣府令]] *[[国立公文書館組織規則を廃止する内閣府令]] *[[情報公開審査会事務局組織規則]] *[[上場等株券の発行者である会社が行う上場等株券の売買等に関する内閣府令]] *[[銀行法等の一部を改正する法律附則第二条第二項の届出に関する内閣府令]] *[[独立行政法人駐留軍等労働者労務管理機構の業務運営並びに財務及び会計に関する省令]] ==平成14年== *[[銀行等の株式等の保有の制限に関する内閣府令]] *[[金融業に付随する業務及び金融業務に係る事業認定の申請等に関する内閣府令]] *[[観光振興地域の区域内における特定民間観光関連施設である販売施設の指定申請に関する内閣府令]] *[[自動車運転代行業の業務の適正化に関する法律の施行に伴う道路交通法施行規則の規定の読替えに関する内閣府令]] *[[証券取引法及び金融先物取引法の一部を改正する法律の一部の施行に伴う経過措置に関する内閣府令]] *[[開示用電子情報処理組織による手続の特例等に関する内閣府令]] *[[道路関係四公団民営化推進委員会事務局組織規則]] *[[防衛庁の職員の俸給の切替え及び切替えに伴う措置に関する内閣府令 (平成14年内閣府令第72号)]] *[[金融商品取引清算機関等に関する内閣府令]] *[[北朝鮮当局によって拉致された被害者等の支援に関する法律施行規則]] *[[金融機関等の組織再編成の促進のための特別措置に関する内閣府令]] ==平成15年== *[[預金保険法第五十八条の三第一項に規定する措置に関する内閣府令]] *[[構造改革特別区域法施行規則]] *[[内閣府の所管する金融関連法令に係る行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[上場等株券の発行者である会社が行う上場等株券の売買等に関する内閣府令の特例に関する内閣府令]] *[[内閣総理大臣の所管に属する公益信託の引受けの許可及び監督に関する内閣府令に係る行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[金融機関等の更生手続の特例等に関する法律施行規則]] *[[上場株式の議決権の代理行使の勧誘に関する内閣府令]] *[[平成15年内閣府令第24号|民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律第二十条第二項の規定により読み替えて適用される商法第二百九十条第一項及び第二百九十三条ノ五第三項の内閣府令で定める場合及び内閣府令で定める金額等を定める内閣府令]] *[[構造改革特別区域における内閣総理大臣の所掌に係る研究の交流促進に関する内閣府令]] *[[各種勲章及び大勲位菊花章頸飾の制式及び形状を定める内閣府令]] *[[褒章の制式及び形状を定める内閣府令]] *[[食品安全委員会令第一条第一項の内閣府令で定めるときを定める内閣府令]] *[[食品安全委員会事務局組織規則]] *[[防衛省関係法令に係る行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[東南海・南海地震に係る地震防災対策の推進に関する特別措置法施行規則]] *[[独立行政法人国民生活センターの業務運営並びに財務及び会計に関する内閣府令]] *[[防衛庁の職員の俸給の切替え及び切替えに伴う措置に関する内閣府令 (平成15年内閣府令第93号)]] ==平成16年== *[[証券仲介業者に関する内閣府令]] *[[外国証券取引所に関する内閣府令]] *[[公認会計士・監査審査会の職員が検査の際に携帯すべき証票の様式を定める内閣府令]] *[[公認会計士・監査審査会事務局組織規則]] *[[日本公認会計士協会に関する内閣府令]] *[[公認会計士法第二十八条に規定する研修に関する内閣府令]] *[[公認会計士試験規則]] *[[内閣府の所管する内閣府本府関係法令に係る行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[金融機能の強化のための特別措置に関する内閣府令]] *[[「故鈴木善幸」内閣・自由民主党合同葬儀における自衛隊の礼式に関する内閣府令]] *[[武力攻撃事態等におけるアメリカ合衆国の軍隊の行動に伴い我が国が実施する措置に関する法律施行規則]] *[[防衛庁の職員の俸給の切替え及び切替えに伴う措置に関する内閣府令 (平成16年内閣府令第85号)]] *[[外国軍用品審判規則]] *[[内閣府の所管する金融庁関係構造改革特別区域法第二条第三項に規定する内閣府令の特例に関する措置及びその適用を受ける特定事業を定める内閣府令]] *[[信託業法施行規則]] ==平成17年== *[[取扱有価証券に関する内閣府令]] *[[証券取引法第七十九条の三及び第百十六条に規定する最終の価格がない場合にこれに相当するものを定める内閣府令]] *[[武力攻撃事態における捕虜等の取扱いに関する法律施行規則]] *[[捕虜収容所処遇規則]] *[[捕虜資格認定審査規則]] *[[捕虜等懲戒規則]] *[[金融商品取引法第六章の二の規定による課徴金に関する内閣府令]] *[[内閣府の所管する金融関連法令に係る民間事業者等が行う書面の保存等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[情報公開・個人情報保護審査会事務局組織規則]] *[[内閣総理大臣の所管に属する公益信託の引受けの許可及び監督に関する内閣府令に係る民間事業者等が行う書面の保存等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[内閣府の所管する内閣府本府関係法令に係る民間事業者等が行う書面の保存等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[地震防災対策特別措置法施行令第二条第二項の額の算定に関する内閣府令]] *[[交付金の額の特例に係る算定方法及び沖縄振興特別措置法第百五条の三第二項に規定する交付金の交付に関する内閣府令]] *[[地域再生法施行規則]] *[[日本郵政公社による証券投資信託の受益証券の募集の取扱い等のための日本郵政公社の業務の特例等に関する法律の施行に関する内閣府令]] *[[金融先物取引業者の自己資本規制に関する内閣府令]] *[[独立行政法人沖縄科学技術研究基盤整備機構の財務及び会計に関する内閣府令]] *[[防衛庁の職員の俸給の切替え及び切替えに伴う措置に関する内閣府令 (平成17年内閣府令第88号)]] *[[日本学術会議法の一部を改正する法律附則第五条第一項に基づき日本学術会議会員候補者の内閣総理大臣への推薦手続を定める内閣府令]] *[[日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震に係る地震防災対策の推進に関する特別措置法施行規則]] *[[日本学術会議会員候補者の内閣総理大臣への推薦手続を定める内閣府令]] *[[道路関係四公団民営化推進委員会事務局組織規則を廃止する内閣府令]] *[[防衛庁の職員の俸給の切替え及び切替えに伴う措置に関する内閣府令 (平成17年内閣府令第100号)]] *[[証券取引法第百七十二条の二第一項第二号イに規定する市場価額の総額等を定める内閣府令]] *[[実務補習規則]] ==平成18年== *[[沖縄振興特別措置法に基づく特定跡地給付金の支給に関する省令]] *[[防衛庁の職員の俸給の切替え及び切替えに伴う措置等に関する内閣府令]] *[[特定目的会社の計算に関する規則]] *[[特定目的会社の監査に関する規則]] *[[会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律の特例旧特定目的会社に関する内閣府令]] *[[投資法人の計算に関する規則]] *[[投資法人の会計監査に関する規則]] *[[社債の担保変更手続の特例に関する件及び銀行持株会社の創設のための銀行等に係る合併手続の特例等に関する法律施行規則を廃止する内閣府令]] *[[特定目的会社の社員総会に関する規則]] *[[特定目的信託の権利者集会等に関する規則]] *[[平成18年内閣府令第57号|民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律第二十条第二項の規定により読み替えて適用される商法第二百九十条第一項及び第二百九十三条ノ五第三項の内閣府令で定める場合及び内閣府令で定める金額等を定める内閣府令を廃止する内閣府令]] *[[防声具の制式に関する内閣府令]] *[[防衛省職員の留学費用の償還に関する省令]] *[[官民競争入札等監理委員会事務局組織規則]] *[[防衛庁の職員の俸給の切替えに関する内閣府令]] *[[「故橋本龍太郎」内閣・自由民主党合同葬儀における自衛隊の礼式に関する内閣府令]] *[[中心市街地の活性化に関する法律施行規則]] ==平成19年== *[[防衛省の所管に属する補助金等の事務委任の範囲及びその委任を受ける者を定める省令]] *[[防衛省の主管に係る一般会計の歳入について証券をもって納付し得る種目を定める省令]] *[[防衛省の所管に属する不動産及び船舶に関する権利の登記嘱託職員を指定する省令]] *[[防衛大臣の所管に属する公益法人の設立及び監督に関する規則]] *[[防衛大臣の所管に属する公益信託の引受けの許可及び監督に関する省令]] *[[防衛大臣の所掌に係る研究の交流促進に関する省令]] *[[防衛省聴聞手続規則]] *[[防衛大臣の所管に属する公益信託の引受けの許可及び監督に関する省令に係る行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[防衛大臣の所管に属する公益信託の引受けの許可及び監督に関する省令に係る民間事業者等が行う書面の保存等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[道州制特別区域における広域行政の推進に関する法律施行規則]] *[[消費者契約法施行規則]] *[[探偵業の業務の適正化に関する法律施行規則]] *[[公益認定等委員会事務局組織規則]] *[[遺失物法施行規則を廃止する内閣府令]] *[[国家公安委員会関係刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律施行規則]] *[[貸付信託法施行規則]] *[[担保付社債信託法施行規則]] *[[金融商品取引業等に関する内閣府令]] *[[金融商品取引業協会等に関する内閣府令]] *[[金融商品取引所等に関する内閣府令]] *[[有価証券に係る投資顧問業の規制等に関する法律施行規則等を廃止する内閣府令]] *[[総合研究開発機構法を廃止する法律施行規則]] *[[総合研究開発機構法施行規則及び総合研究開発機構の財務及び会計に関する内閣府令を廃止する内閣府令]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令]] *[[財務計算に関する書類その他の情報の適正性を確保するための体制に関する内閣府令]] *[[四半期財務諸表等の用語、様式及び作成方法に関する規則]] *[[四半期連結財務諸表の用語、様式及び作成方法に関する規則]] *[[公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律施行規則]] *[[一般社団法人及び一般財団法人に関する法律及び公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律施行規則]] *[[日本郵政株式会社が銀行持株会社等である場合の届出に関する手続を定める内閣府令]] *[[出資の受入れ、預り金及び金利等の取締りに関する法律の一部を改正する法律附則第九項第一号に規定する小規模のものを定める内閣府令を廃止する内閣府令]] *[[公認会計士法施行規則]] *[[公認会計士法の規定による課徴金に関する内閣府令]] *[[特定社員登録規則]] ==平成20年== *[[外国監査法人等に関する内閣府令]] *[[独立行政法人国民生活センター法施行規則]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成20年内閣府令第61号)]] *[[内閣総理大臣の所掌に係る研究開発システムの改革の推進等による研究開発能力の強化及び研究開発等の効率的推進等に関する内閣府令]] *[[内閣総理大臣の所管に属する公益法人の設立及び監督に関する規則を廃止する内閣府令]] *[[証券情報等の提供又は公表に関する内閣府令]] *[[職員の退職管理に関する内閣府令]] *[[特定独立行政法人の役員の退職管理に関する内閣府令]] *[[再就職等監視委員会事務局組織規則]] *[[官民人材交流センター組織規則]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成20年内閣府令第88号)]] ==平成21年== *[[標準的な官職を定める政令に規定する内閣府令で定める標準的な官職等を定める内閣府令]] *[[人事評価の基準、方法等に関する内閣府令]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成21年内閣府令第11号)]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成21年内閣府令第42号)]] *[[消費者委員会事務局組織規則]] *[[消費生活用製品安全法の規定に基づく重大事故報告等に関する内閣府令]] *[[消費者安全法施行規則]] *[[不当景品類及び不当表示防止法第四条第二項の規定による資料の提出要求の手続に関する内閣府令]] *[[不当景品類及び不当表示防止法第九条第一項の規定による立入検査をする職員の携帯する身分を示す証明書の様式を定める内閣府令]] *[[農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律の規定に基づく飲食料品の区分等に関する内閣府令]] *[[消費者安全法の規定に基づく立入調査等をする職員の携帯する身分を示す証明書の様式を定める内閣府令]] *[[健康増進法に規定する特別用途表示の許可等に関する内閣府令]] *[[消費者庁組織規則]] *[[内閣府の所管する消費者庁関係法令に係る民間事業者等が行う書面の保存等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[内閣府の所管する消費者庁関係法令に係る行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成21年内閣府令第65号)]] *[[中小企業者等に対する金融の円滑化を図るための臨時措置に関する内閣府令]] *[[金融商品取引法第五章の五の規定による指定紛争解決機関に関する内閣府令]] ==平成22年== *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成22年内閣府令第2号)]] *[[前払式支払手段に関する内閣府令]] *[[資金移動業者に関する内閣府令]] *[[資金清算機関に関する内閣府令]] *[[認定資金決済事業者協会に関する内閣府令]] *[[資金移動業の指定紛争解決機関に関する内閣府令]] *[[子ども・若者育成支援推進法施行規則]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成22年内閣府令第26号)]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成22年内閣府令第38号)]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成22年内閣府令第47号)]] ==平成23年== *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成23年内閣府令第1号)]] *[[国家公務員体育センターの管理運営等に関する内閣府令を廃止する内閣府令]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成23年内閣府令第20号)]] *[[総合特別区域法施行規則]] *[[食品衛生法第十九条第一項の規定に基づく表示の基準に関する内閣府令]] *[[食品衛生法第十九条第一項の規定に基づく乳及び乳製品並びにこれらを主要原料とする食品の表示の基準に関する内閣府令]] *[[特定非営利活動促進法施行規則]] *[[沖縄科学技術大学院大学学園法施行規則]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成23年内閣府令第60号)]] *[[民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律施行規則]] *[[公共施設等運営権登録令施行規則]] *[[東日本大震災復興特別区域法施行規則]] ==平成24年== *[[貸金業の規制等に関する法律施行令の一部を改正する政令附則第二十条第二項第一号ハに規定する会社に関する内閣府令]] *[[沖縄県における駐留軍用地跡地の有効かつ適切な利用の推進に関する特別措置法施行規則]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成24年内閣府令第37号)]] *[[店頭デリバティブ取引等の規制に関する内閣府令]] *[[死因究明等推進会議事務局組織規則]] *[[簡易郵便局法第四条第一項に規定する受託者の銀行法第五十二条の三十九第一項又は第二項の規定による届出に関する内閣府令]] *[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成24年内閣府令第73号)]] ==平成25年== *第20号:[[子ども・子育て支援法附則第四条の保育の需要及び供給の状況の把握に関する内閣府令]] *第51号:[[大規模災害からの復興に関する法律施行規則]] *第68号:[[災害救助法施行令第一条第一項第三号の内閣府令で定める特別の事情等を定める内閣府令]] *第69号:[[武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律の規定による処分に係る公用令書等の様式を定める内閣府令]] *第75号:[[首都直下地震対策特別措置法施行規則]] ==平成26年== *第8号:[[金融商品取引法令に違反する行為を行った者の氏名等の公表に関する内閣府令]] *第20号:[[国家戦略特別区域法施行規則]] *第34号:[[子ども・子育て支援法附則第十条第一項に規定する保育緊急確保事業を定める内閣府令]] *第44号:[[子ども・子育て支援法施行規則]] ==平成27年== *第10号:[[食品表示基準]] *第17号:[[不当景品類及び不当表示防止法等の一部を改正する等の法律の一部の施行に伴う経過措置に関する内閣府令]] *第18号:[[指定消費生活相談員に係る消費生活相談員としての実務の経験を定める内閣府令]] *第39号:[[特定金融指標算出者に関する内閣府令]] *第46号:[[内閣府関係構造改革特別区域法施行規則]] *第51号:[[女性の職業生活における活躍の推進に関する法律施行規則]] *第61号:[[女性の職業生活における活躍の推進に関する法律に基づく特定事業主行動計画の策定等に係る内閣府令]] *第71号:[[活動火山対策特別措置法施行規則]] *第72号:[[道路交通法施行規則の一部を改正する内閣府令 (平成27年内閣府令第72号)|道路交通法施行規則の一部を改正する内閣府令]] *第75号:[[個人情報保護委員会事務局組織規則]] ==平成28年== *第2号:[[障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律施行規則]] *第6号:[[不当景品類及び不当表示防止法施行規則]] *第38号:[[迎賓館の施設に係る参観料の徴収に関する内閣府令]] ==平成29年== *第41号:[[衛星リモートセンシング記録の適正な取扱いの確保に関する法律施行規則]] *第50号:[[人工衛星等の打上げ及び人工衛星の管理に関する法律施行規則]] *第54号:[[金融商品取引法第二章の六の規定による重要情報の公表に関する内閣府令]] ==平成30年== *第26号:[[地域における大学の振興及び若者の雇用機会の創出による若者の修学及び就業の促進に関する法律施行規則]] *第32号:[[民間公益活動を促進するための休眠預金等に係る資金の活用に関する法律に基づく指定活用団体に関する内閣府令]] *第39号:[[桂離宮の施設に係る参観料の徴収に関する内閣府令]] *第57号:[[災害救助法に基づく救助実施市に関する内閣府令]] ==平成31年== *第23号:[[宮内庁組織規則の一部を改正する内閣府令]] *第25号:[[京都事務所の所掌事務を定める内閣府令及び宮内庁組織規則の一部を改正する内閣府令]] *第26号:[[警察法施行規則の一部を改正する内閣府令]] ==令和元年== *第1号:[[元号を改める政令の施行に伴う関係府令の整理に関する内閣府令]] *第4号:[[アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律施行規則]] *第22号:[[災害弔慰金の支給等に関する法律の規定に基づく災害援護資金の償還免除に関する内閣府令]] *第49号:[[カジノ管理委員会事務局組織規則]] ==令和2年== *第1号:[[特定複合観光施設区域整備法の一部の施行に伴う関係内閣府令の整備に関する内閣府令]] *第57号:[[国家戦略特別区域法第二十五条の二の内閣府令で定める実証事業等を定める内閣府令]] ==令和3年== *第35号:[[金融サービス仲介業者等に関する内閣府令]] *第64号:[[内閣府の所管する法律の規定に基づく立入検査等の際に携帯する職員の身分を示す証明書の様式の特例に関する内閣府令]] *第65号:[[消費者庁の所管する法律の規定に基づく立入検査等の際に携帯する職員の身分を示す証明書の様式の特例に関する内閣府令]] *第73号:[[宇宙資源の探査及び開発に関する事業活動の促進に関する法律施行規則]] ==令和4年== *第1号:[[預託等取引に関する法律施行規則]] *第9号:[[取引デジタルプラットフォームを利用する消費者の利益の保護に関する法律施行規則]] *第56号:[[重要施設周辺及び国境離島等における土地等の利用状況の調査及び利用の規制等に関する法律施行規則]] ==令和5年== *第24号:[[法人等による寄附の不当な勧誘の防止等に関する法律第四条第四号の内閣府令で定める方法を定める内閣府令]] *第38号:[[こども家庭庁組織規則]] ==令和6年== *第1号:[[孤独・孤立対策推進法施行規則]] *第10号:[[金融経済教育推進機構に関する内閣府令]] *第15号:[[内閣府の所管する法令に係る情報通信技術を利用する方法による国の歳入等の納付に関する法律施行規則]] *第27号:[[一時保護施設の設備及び運営に関する基準]] *第55号:[[不当景品類及び不当表示防止法の規定に基づく確約手続に関する内閣府令]] *第80号:[[官報の発行に関する内閣府令]] *第90号:[[金融サービスの提供及び利用環境の整備等に関する法律施行令第二条の規定に基づき業務を定める内閣府令]] *第95号:[[次世代育成支援対策推進法に基づく特定事業主行動計画の策定等に係る内閣府令]] *第99号:[[金融庁関係国家戦略特別区域法第二十六条に規定する政令等規制事業に係る内閣府令の特例に関する措置を定める内閣府令]] *第102号:[[金融商品の販売等に係る勧誘方針の公表の方法に関する内閣府令]] *第114号:[[旧優生保護法に基づく優生手術等を受けた者等に対する補償金等の支給等に関する法律施行規則]] *第115号:[[社会保険診療報酬支払基金の支援納付金関係業務に係る業務方法書に記載すべき事項を定める内閣府令]] *第116号:[[社会保険診療報酬支払基金の支援納付金関係業務に係る財務及び会計に関する内閣府令]] ==令和7年== *第1号:[[乳児等通園支援事業の設備及び運営に関する基準]] *第21号:[[金融商品取引法の審判手続等における参考人及び鑑定人の旅費及び手当に関する内閣府令]] *第22号:[[公認会計士法の審判手続における参考人及び鑑定人の旅費及び手当に関する内閣府令]] *第58号:[[登録被災者援護協力団体に関する内閣府令]] *第63号:[[公益信託に関する法律施行規則]] *第67号:[[企業価値担保権に関する信託業務に関する内閣府令]] *第90号:[[日本学術会議法附則第七条第二項に規定する内閣府令で定める事項を定める内閣府令]] *第93号:[[子ども・子育て支援納付金の算定等に関する内閣府令]] *第95号:[[特定乳児等通園支援事業の運営に関する基準]] *第97号:[[会員予定者の候補者の内閣総理大臣への推薦手続を定める内閣府令]] *第104号:[[学校設置者等及び民間教育保育等事業者による児童対象性暴力等の防止等のための措置に関する法律施行規則]] ==令和8年== *第16号:[[一時保護委託者の登録等に関する基準]] *第32号:[[サイバー通信情報監理委員会事務局組織規則]] [[Category:内閣府令|*]] [[カテゴリ:索引|ないかくふれい]] kbq5tf6efmobcl6txexk48jiml3rzc1 利用者:村田ラジオ 2 28294 243143 243077 2026-06-12T17:09:09Z 村田ラジオ 14210 243143 wikitext text/x-wiki {{resize|120%|この利用者が投稿したもの}}(入力中を含む) ===1. 聖イサク=== [[Wikisource:宗教]]< * [[シリヤの聖イサアク全書]] * [[ニネベのイサアク神秘論文集]](A. J. ヴェンシンク) {| |valign=top| :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第1論文|第1論文]] 物事への気遣いが存在する限り、魂の中に安住することはできないこと :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第2論文|第2論文]] あなたの内にある宝物庫に入ることに熱心でありなさい :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第3論文|第3論文]] 魂は本来、情念に左右されない :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第4論文|第4論文]] 神を愛する魂は神の中にのみ安らぎを見出す :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第5論文|第5論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第6論文|第6論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第7論文|第7論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第8論文|第8論文]] 人が心から神に近づくのに役立つものは何であるか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第9論文|第9論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第10論文|第10論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第11論文|第11論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第12論文|第12論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第13論文|第13論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第14論文|第14論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第15論文|第15論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第16論文|第16論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第17論文|第17論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第19論文|第19論文]] 幻視の中で聖人たちに起こる力の啓示について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第20論文|第20論文]] 啓示と霊的ビジョンに関連した、精神の様々な知覚可能な力について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第21論文|第21論文]] 独居修行の中で祈りの間に起こることについて :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第22論文|第22論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第23論文|第23論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第24論文|第24論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第25論文|第25論文]] 深い観想を求める魂がその観想に没頭し、想起された事柄から生じる身体的な観想から離れることの契機 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第26論文|第26論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第27論文|第27論文]] 人間性はどのように多様な方法で非物質的存在を知覚するのか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第30論文|第30論文]] 罪の力と邪悪な働き :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第31論文|第31論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第32論文|第32論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第33論文|第33論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第34論文|第34論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第35論文|第35論文]] 絶え間ない行動とあらゆる種類の道徳を考慮した問答形式の論文 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第36論文a|第36論文a]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第37論文|第37論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第38論文|第38論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第39論文|第39論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第40論文|第40論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第43論文|第43論文]] 霊的な知恵に満ちた有益な言葉 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第44論文|第44論文]] 知識の程度と信仰の程度について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第45論文|第45論文]] 有益な助言 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第46論文|第46論文]] その他の考慮事項 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第47論文|第47論文]] 霊的な事柄における魂の教育という神の摂理に :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第48論文|第48論文]] 魂が常にさらされる光と闇の様々な状態 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第50論文|第50論文]] 様々な考察をまとめた短い教訓集 |valign=top| :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第51論文|第51論文]] 知識の3つの段階とその奉仕と衝動との区別、魂の信仰とその中に隠された神秘の宝について ::(a) 知識の第一段階 ::(b) 知識の第二段階 ::(c) 知識の第三段階。つまり完全な段階 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第53論文|第53論文]] 祈りと、絶えず思い出すことが必然的に求められ、人が区別して唱え、保持することが非常に有益であるその他の事柄について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第54論文|第54論文]] マゲナヌータに関するその他の説明 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第55論文|第55論文]] 魂の中に隠された警戒心を :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第56論文|第56論文]] 人の生命に関する美しい考察 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第57論文|第57論文]] 神の愛のための忍耐がどのようにして神の助けを得るのか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第58論文|第58論文]] 神の近くに住み、認識の生活の中で日々を過ごす人々について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第59論文|第59論文]] 有益な談話 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第60論文|第60論文]] 必然性がなければ、何らかのしるしを望んだり求めたりしてはならないこと :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第61論文|第61論文]] 神は何のために神を愛する人たちへの誘惑を許すのか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第62論文|第62論文]] 人の中に湧き起こる思考によって、自分がどの段階に属し、どのような思考が続くかを知ることができるということ :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第63論文|第63論文]] 認識の心理状態にある人々は、なぜ肉体の粗雑さに応じて霊的なことを考えるのか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第64論文|第64論文]] 心中に起こる、祈りによって浄化されるさまざまな状態について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第65論文|第65論文]] 心の警戒に関する指示 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第66論文|第66論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第67論文|第67論文]] 理解可能なものの区別に関して例をあげ、それぞれの使い方を示しての説明 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第68論文|第68論文]] 短いセクション :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第69論文|第69論文]] 思慮ある者はどのように黙想を務めるべきか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第70論文|第70論文]] 初期知識の微妙な順序 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第71論文|第71論文]] 恩寵から生じる影響について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第72論文|第72論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第73論文|第73論文]] これまでに述べられた内容の説明 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第74論文|第74論文]] 聖人の中に神に似たものを創造している霊的目的について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第75論文|第75論文]] 隠された状態と、そこに存在する力と影響力 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第76論文|第76論文]] 短い言葉 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第77論文|第77論文]] この章は生命力に満ちている :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第78論文|第78論文]] 世俗からの逃避によって得られる… :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第79論文|第79論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第80論文|第80論文]] 徹夜祷とその間の様々な種類の労働について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第81論文|第81論文]] なぜ独居修行者たちはそれ以上に孤独を重んじるのか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第82論文|第82論文]] 謙虚さはどれほどの名誉を持ち、その地位は |} ===2. マカリオス=== * [[埃及マカリイ全書]] * [[エジプトのマカリオス50の霊的説教]] (擬マカリオス)(完) :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教1|説教1]] 預言者エゼキエルに記された幻の寓話的解釈。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教2|説教2]] 暗黒の王国、すなわち罪の王国について、そして神だけが私たちから罪を取り除き、邪悪な君主の束縛から私たちを救い出すことができるということについて。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教3|説教3]] 兄弟たちは互いに誠実、単純、愛、平和のうちに生きるべきであり、心の中では競争と戦いを続けるべきである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教4|説教4]] キリスト教徒は、神と天使たちから天の賞賛を得るために、この世での競争を注意深く慎重に成し遂げるべきである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教5|説教5]] キリスト教徒とこの世の人々の間には大きな違いがある。この世の精神を持つ人々は心と精神において地上の束縛に縛られているが、他の人々は天の父の愛を切望し、ただ目の前に父を待ち望んでいる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教6|説教6]] 神を喜ばせたいと願う者は、平穏と静寂、優しさと知恵をもって祈りを捧げるべきであり、大声で叫んで他人に迷惑をかけるべきではない。説教には、王座と冠が実際に創造されたものであるかどうか、そしてイスラエルの12の王座についてという2つの質問も含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教7|説教7]] キリストの人間に対する慈愛について。説教にはいくつかの質問と答えも含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教8|説教8]] 祈りの中でキリスト教徒に起こること、そして完全さの尺度について、キリスト教徒が完全な尺度に達することは可能かどうか。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教9|説教9]] 神の約束と預言は、さまざまな試練と誘惑を通して成就し、神のみに従う者は悪魔の誘惑から救われる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教10|説教10]] 謙虚な心と真摯さによって神の恵みの賜物は保存されるが、傲慢さと怠惰によってそれらは破壊される。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教11|説教11]] 聖霊の力は人の心の中で火のようであること、心に湧き上がる考えを見分けるために何が必要か、そしてモーセが柱のてっぺんに立てた死んだ蛇がキリストの象徴であることなど。説教には二つの対話があり、一つはキリストと悪魔、サタンとの対話、もう一つは罪人と同じ罪人との対話である。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教12|説教12]] アダムが神の戒めを破る前、そして自分の姿と天の姿の両方を失った後のアダムの状態について。説教には、非常に有益な質問がいくつか含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教13|説教13]] 神がキリスト信徒に期待する成果。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教14|説教14]] 神に思いと心を捧げる人々は、心の目が開かれ、神が彼らに最も神聖で純粋な神秘を与え、神が恵みを授けてくれることを望みながらそうするのである。天国の善いものを手に入れたいと願う私たちがすべきこと。そして使徒と預言者は窓から差し込む太陽の光にたとえられる。説教ではまた、サタンの「地」と天使の「地」とは何か、そしてどちらも無形で目に見えないものであることを教えている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教15|説教15]] この説教は、世界の救い主であるキリスト・イエスの配偶者に対して、魂がいかに聖潔と貞潔と純潔をもってふるまうべきかを広く教えている。また、復活のときにすべての部分がよみがえるかどうか、悪、恩寵、自由意志、人間の尊厳など、多くの重要な教えに満ちた議論も含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教16|説教16]] 霊的な人は最初の罪から生じる誘惑や逆境にさらされる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教17|説教17]] キリスト教徒の霊的塗油とその栄光について、そしてキリストなしには救われることも永遠の命にあずかることも不可能であることについて。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教18|説教18]] キリスト教徒の宝であるキリストと聖霊について、キリストと聖霊はそれを様々な方法で実践して完成に至る。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教19|説教19]] 進歩し成長したいと願うキリスト教徒は、内在する罪から解放され、聖霊に満たされるために、あらゆる善いことに自らを駆り立てるべきである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教20|説教20]] 内なる人の真の医者であるキリストだけが、魂を癒し、恵みの衣でそれを飾ることができるのである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教21|説教21]] キリスト教徒には、内なる戦いと外なる戦いという二つの戦いが待ち受けている。後者は、地上の煩いから身を引くためのものであり、前者は、心の中で、邪悪な霊の誘惑に対抗するためのものである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教22|説教22]] この世を去る人々の二通りの状態について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教23|説教23]] 王家の血統から生まれた者だけが高価な王家の真珠を身につけることができるように、神の子だけが天国の真珠を身につけることが許されている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教24|説教24]] キリスト教徒の状態は、商品やパン種のようなものである。商人が地上の利益を蓄えるように、キリスト教徒は世界中に散らばった思いを集める。パン種が塊全体をパン種に変えるように、罪のパン種はアダムの種族全体に浸透する。しかしキリストは、忠実な魂には天の善のパン種を入れる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教25|説教25]] この説教は、キリストによって強められなければ、誰も悪魔の妨害を克服することはできないこと、そして神の栄光を望む者がしなければならないことを教えている。また、アダムの不従順によって私たちは肉欲の束縛に陥ったが、十字架の神秘によってそこから解放されたことも教えている。さらに、涙と神の火の力は偉大であることを教えてくれる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教26|説教26]] 不滅の魂の価値と大切さ、力と効力、そしてそれがいかにしてサタンに誘惑され、誘惑から解放されるかについて。また、非常に素晴らしい教えに満ちたいくつかの質問も含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教27|説教27]] この説教は、前述の説教と同様に、キリスト教徒の尊厳と地位について長々と説明している。そして、神の知恵に満ちたいくつかの質問を織り交ぜながら、自由意志に関する多くの有益なことを教えている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教28|説教28]] この説教は、罪のせいで主が魂の中に住まわれないという魂の災難を描写し嘆き、また、洗礼者ヨハネに関して、女から生まれた者の中で彼より偉大な者はいないと述べている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教29|説教29]] 神は人類に恵みの分配を二通りの方法で行い、公正な裁きによってその成果を要求することを意図している。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教30|説教30]] 人の魂が神の王国に入るには聖霊によって生まれなければならない。そして、それがどのように実現されるかについて。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教31|説教31]] 信者は心を変え、すべての思いを神に集めるべきである。なぜなら、神への奉仕はすべてこれにかかっているからである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教32|説教32]] キリスト教徒の栄光は今も彼らの魂の中に留まり、復活の時に現れ、彼らの敬虔さに応じて彼らの体を栄光に輝かせるであろう。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教33|説教33]] 私たちは神に絶えず注意深く祈るべきである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教34|説教34]] キリスト教徒の栄光については、復活の時に彼らの体に与えられ、彼らは魂と共に啓蒙されるであろう。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教35|説教35]] 古い安息日と新しい安息日について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教36|説教36]] 魂と肉体の二重の復活と復活した者の様々な栄光について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教37|説教37]] 楽園と霊的法則について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教38|説教38]] 真のキリスト教徒を見分けるには、またそれが誰であるかを見分けるには、非常に正確な判断力と知性が求められる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教39|説教39]] 聖書が神から私たちに与えられた理由。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教40|説教40]] すべての美徳とすべての悪徳は互いに結びついており、鎖のように互いにつながっている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教41|説教41]] 魂の秘密の部屋は非常に深く、それは恩恵や邪悪さの成長に比例して成長する。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教42|説教42]] 外的なものではなく、内的なものが人間を前進させたり傷つけたりする。つまり、恵みの霊か邪悪の霊かである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教43|説教43]] キリスト教徒の進歩については、その力の全てが心次第であり、ここでは様々な方法で説明されている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教44|説教44]] 魂の苦しみと病を{{r|癒|いや}}したキリストによって、キリスト教徒の内にどのような変化と再生がもたらされるであろうか。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教45|説教45]] この世のいかなる芸術も富でもなく、ただキリストの出現だけが人間を癒すことができる。この説教は人間と神との偉大な親族関係を説いている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教46|説教46]] 神の言葉とこの世の言葉、そして神の子らとこの世の子らの違いについて。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教47|説教47]] 律法のもとで行われた事柄の寓話的解釈。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教48|説教48]] 神への完全な信仰について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教49|説教49]] この世の快楽を捨て去ったとしても、あの世の祝福を得なければ十分ではない。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教50|説教50]] 神は聖徒たちを通して奇跡を起こす。 ===3. クリソストモス=== [[Wikisource:宗教]]< * [[マタイ福音書に関する説教]] 目録(クリソストムス)(未完) {| |valign=top| :* [[マタイ福音書に関する説教/説教13|説教13]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教14|説教14]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教15|説教15]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教15-2|説教15-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教16|説教16]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教16-2|説教16-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教17|説教17]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教17-2|説教17-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教18|説教18]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教18-2|説教18-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教19|説教19]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教19-2|説教19-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教20|説教20]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教21|説教21]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教22|説教22]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教22-2|説教22-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教23|説教23]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教23-2|説教23-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教24|説教24]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教25|説教25]] |valign=top| :* [[マタイ福音書に関する説教/説教33|説教33]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教34|説教34]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教35|説教35]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教36|説教36]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教37|説教37]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教38|説教38]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教39|説教39]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教40|説教40]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教41|説教41]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教42|説教42]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教65|説教65]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教66|説教66]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教67|説教67]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教68|説教68]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教69|説教69]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教70|説教70]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教71|説教71]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教72|説教72]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教73|説教73]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教74|説教74]] |} *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第14巻/ヨハネ福音書注解|ヨハネ福音書注解]](クリソストモス) (未完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第11巻/使徒行伝の注解|使徒行伝の注解]] (クリソストモス) (未完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第11巻/ローマ人への手紙注解|ローマ人への手紙注解]](完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第12巻/コリント人への手紙第一の注解|コリント人への手紙第一の注解]](未完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ガラテヤとエペソについて/ガラテヤ人への手紙注解|ガラテヤ人への手紙注解]] (完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ガラテヤとエペソについて/エペソ人への手紙注解|エペソ人への手紙注解]] (完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/ピリピ人への手紙注解|ピリピ人への手紙注解]](未完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/コロサイ人への手紙注解|コロサイ人への手紙注解]](完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/テサロニケ人への第一の手紙注解|テサロニケ人への第一の手紙注解]](完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/マタイ26章39節についての説教|マタイ26章39節についての説教]](完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/屋根を突き破って降ろされた中風の患者についての説教|屋根を突き破って降ろされた中風の患者についての説教]](完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/オリンピアスへの手紙|オリンピアスへの手紙]] *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/アンティオキアの人々への彫像に関する説教|アンティオキアの人々への彫像に関する説教]](未完) ===4. オリゲネス=== * [[諸原理について]](オリゲネス) :* [[諸原理について/序説]] :* [[諸原理について/第1巻|第1巻]] :* [[諸原理について/第2巻|第2巻]] :* [[諸原理について/第3巻|第3巻]] {| |valign=top| :* [[諸原理について/第3巻/第1章|第3巻/第1章]] :* [[諸原理について/第3巻/第2章|第3巻/第2章]] :* [[諸原理について/第3巻/第3章|第3巻/第3章]] :* [[諸原理について/第3巻/第4章|第3巻/第4章]] |valign=top| :* [[諸原理について/第3巻/第5章|第3巻/第5章]] :* [[諸原理について/第3巻/第6章|第3巻/第6章]] :* [[諸原理について/第3巻/第7章|第3巻/第7章]] :* [[諸原理について/第3巻/第8章|第3巻/第8章]] |} :* [[諸原理について/第4巻|第4巻]] :* [[諸原理について/第4巻/第1章|第4巻/第1章]] :* [[諸原理について/第4巻/第2章|第4巻/第2章]] :* [[諸原理について/解説|解説]] *[[言葉の受肉について]] [[s:la:De incarnatione Verbi|De incarnatione Verbi]](完) *[[エレミヤ書とエゼキエル書に関する説教の翻訳]] [[s:la:Translatio Homiliarum in Ieremiam et Ezechielem|Translatio Homiliarum in Ieremiam et Ezechielem]](未完) *[[イザヤの幻視に関する説教の翻訳]] [[s:la:Translatio homiliarum in visiones Isaiae|Translatio homiliarum in visiones Isaiae]](完) *[[39の説教の翻訳]] [[s:la:Translatio XXXIX Homiliarum|Translatio XXXIX Homiliarum]] ===5. ニカイア教父シリーズ=== *[[ニカイア以前の教父たち]] *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I]] *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II]] **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻|第1巻]] – エウセビオス: 紀元1年から324年までの教会史、コンスタンティヌス大帝の生涯、コンスタンティヌスを讃える演説 ***[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第1巻|エウセビオスの教会史/第1巻]] **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻|第2巻]] – ソクラテス: 西暦305年から438年までの教会史、ソゾメノス ([[w:en:Sozomen|en]]): 西暦323年から425年までの教会史 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻|第3巻]] – テオドレトス、ヒエロニムスとゲンナディウス、ルフィヌス ([[w:en:Tyrannius Rufinus|en]])とヒエロニムス **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第4巻|第4巻]] – アタナシオス: 選集と手紙 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第5巻|第5巻]] – ニュッサのグレゴリオス: 教義論文、選集および書簡 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第6巻|第6巻]] – ヒエロニムス: 手紙と選集 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻|第7巻]] – エルサレムのキュリロス、ナジアンゾスのグレゴリオス **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第8巻|第8巻]] – バシレイオス: 手紙と選集 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻|第9巻]] – ポワティエのヒラリウス、ダマスコのヨアンネス **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第10巻|第10巻]] – アンブロシウス: 選集と手紙 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第11巻|第11巻]] – スルピティウス・セウェルス、レランスのウィンケンティウス、ヨハネス・カッシアヌス **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第12巻|第12巻]] – レオ1世、グレゴリウス1世 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第13巻|第13巻]] – グレゴリウス1世 (パート2)、シリアのエフレム、アフラハト **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第14巻|第14巻]] – 七つの全地公会議 *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻|第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻]] {| |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第1章|第1巻/第1章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第2章|第1巻/第2章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第3章|第1巻/第3章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第4章|第1巻/第4章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第5章|第1巻/第5章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第6章|第1巻/第6章]] |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第7章|第1巻/第7章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第8章|第1巻/第8章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第9章|第1巻/第9章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第10章|第1巻/第10章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第11章|第1巻/第11章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第12章|第1巻/第12章]] |} *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/高名な人々について|第3巻/高名な人々について]](著名人列伝) **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/高名な人々について/ヒエロニムス|ヒエロニムス]](135人) **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/高名な人々について/ゲンナディウス|ゲンナディウス]](99人) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/ルフィヌス/使徒信条の解説|第3巻/ルフィヌス/使徒信条の解説]](ルフィヌス)(未完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/ナジアンゾスのグレゴリオス演説|第7巻/ナジアンゾスのグレゴリオス演説]] (未完) *[[原ニカイア信条]](325年) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第14巻/第二回公会議/聖なる信条|第14巻/第二回公会議/聖なる信条]](374 - 381年) *[[ニカイア以前の教父たち/第2巻/ヘルマスの牧者]] (完) ===6. ユスティノス=== *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/殉教者ユスティノス/トリュフォンとの対話|トリュフォンとの対話]](完) ===7. エイレナイオス 他=== *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第1巻|異端反駁:第1巻]](エイレナイオス)(完) *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第2巻|異端反駁:第2巻]](エイレナイオス)(完) *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第3巻|異端反駁:第3巻]](エイレナイオス)(完) *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第4巻|異端反駁:第4巻]](エイレナイオス)(完) *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第5巻|異端反駁:第5巻]](エイレナイオス)(完) *[[ニカイア以前の教父たち/第3巻/護教的論文/偶像崇拝について|偶像崇拝について]](テルトゥリアヌス)(完) *[[ニカイア以前の教父たち/第5巻/キプリアヌス/キプリアヌスの論文/主の祈りについて|主の祈りについて]] (キプリアヌス) (完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/エルサレムのキュリロス/教理講義|教理講義]] (キュリロス) (完) **[[教理講義4]] 《教義の10の要点について》 *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/エルサレムのキュリロス/序説|エルサレムのキュリロス/序説]] *[[神の言葉の誕生について]](ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス) (完) :::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]] ===8. ヒラリウス=== *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ポワティエのヒラリウス/三位一体論|三位一体論]] (ヒラリウス) (未完) * [[詩篇の論考]](未完) ** [[詩篇の論考/序文|序文]] ** [[詩篇の論考/詩篇第1篇|詩篇第1篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇2篇|詩篇2篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇9篇|詩篇9篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇13篇|詩篇13篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇14篇|詩篇14篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇51篇|詩篇51篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇61篇|詩篇61篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇62篇|詩篇62篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇67篇|詩篇67篇]] ===9. アンブロシウス=== *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第10巻/著作/キリスト教信仰の解説|ニカイア後教父: シリーズ II/信仰について]](アンブロシウス)入力中 * [[信仰について (アンブロシウス)]](完) * [[ルカ福音書の解説 (アンブロシウス)]](完) * [[ヘクサエメロン (アンブロシウス)]](第5巻のみが未完) * [[楽園について (アンブロシウス)]](完) * [[カインとアベルについて (アンブロシウス)]](完) * [[ノアと箱舟について (アンブロシウス)]](完) * [[アブラハムについて (アンブロシウス)]](完) * [[イサクと魂について]](完) * [[死の善について]](完) * [[世界からの逃避について]](完) * [[ヤコブと祝福された人生について]](未完) * [[族長ヨセフについて]](未完) * [[ダビデの詩篇十二篇の解説]](完) * [[ダビデの詩篇118篇の解説]](未完) ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/プロローグ|プロローグ]] ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/1番目の言葉|1番目の言葉]] アレフ ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/2番目の言葉|2番目の言葉]] ベト ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/3番目の言葉|3番目の言葉]] ギメル ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/4番目の言葉|4番目の言葉]] ダレト ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/5番目の言葉|5番目の言葉]] ヘー ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/6番目の言葉|6番目の言葉]] ワウ ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/7番目の言葉|7番目の言葉]] ザイン ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/8番目の言葉|8番目の言葉]] ヘト ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/9番目の言葉|9番目の言葉]] テト ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/10番目の言葉|10番目の言葉]] ヨド ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/11番目の言葉|11番目の言葉]] カフ ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/12番目の言葉|12番目の言葉]] ラメド ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/13番目の言葉|13番目の言葉]] メム ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/14番目の言葉|14番目の言葉]] ヌン ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/15番目の言葉|15番目の言葉]] サメク ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/16番目の言葉|16番目の言葉]] アイン * [[ローマ人への手紙注解 (アンブロシアステル)]](完) * [[コリント人への第一の手紙注解 (アンブロシアステル)]](完) * [[コリント人への第二の手紙注解 (アンブロシアステル)]](完) ===10. アウグスティヌス=== * [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第7巻/ヨハネ福音書論考|ヨハネ福音書論考]] 入力中 * [[三位一体論 (アウグスティヌス)]] 入力中 ===11. レオ1世=== *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第12巻/レオ1世/説教|第12巻/レオ1世/説教]](レオ1世)入力中 ===12. ダマスコのヨハネ=== *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻|正教信仰の正確な解説/第1巻]](ヨハネ・ダマスキン)入力中 {| |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第1章|第1章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第2章|第2章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第3章|第3章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第4章|第4章]] |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第5章|第5章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第6章|第6章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第7章|第7章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第8章|第8章]] |} *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻|正教信仰の正確な解説/第2巻]] {| |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第1章|第1章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第2章|第2章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第3章|第3章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第4章|第4章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第5章|第5章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第6章|第6章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第7章|第7章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第8章|第8章]] |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第22章|第22章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第23章|第23章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第24章|第24章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第26章|第26章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第27章|第27章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第28章|第28章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第29章|第29章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第30章|第30章]] |} *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻|正教信仰の正確な解説/第3巻]] {| |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻/第1章|第1章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻/第2章|第2章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻/第3章|第3章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻/第4章|第4章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻/第5章|第5章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ 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*[[ドブロトリュビエ]] (Philokalia) *[[ドブロトリュビエ/第1巻|第1巻]] **[[ドブロトリュビエ/第1巻/大アントニオスの言葉と彼に関する伝説|大アントニオスの言葉と彼に関する伝説]] **[[ドブロトリュビエ/第1巻/大アントニオスの名言の解説|大アントニオスの名言の解説]] **[[ドブロトリュビエ/第1巻/アバ・イザヤが弟子たちに語った言葉|アバ・イザヤが弟子たちに語った言葉]](アバ・イザヤ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/新米修道士へのルールとアドバイス|新米修道士へのルールとアドバイス]](アバ・イザヤ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/アバ・イザヤの言葉|アバ・イザヤの言葉]](アバ・イザヤ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/心を守ることについて27章|心を守ることについて27章]](アバ・イザヤ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/修道士ニコラスへのメッセージ|修道士ニコラスへのメッセージ]](修行者マルコ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/修行者マルコの著作に対するニコラス修道士の反応|修行者マルコの著作に対するニコラス修道士の反応]] **[[ドブロトリュビエ/第1巻/霊的法則に関する200章|霊的法則に関する200章]](修行者マルコ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/行いによって義とされると考える人々について|行いによって義とされると考える人々について]](修行者マルコ) *[[ドブロトリュビエ/第2巻|第2巻]] **[[ドブロトリュビエ/第2巻/霊的生活の完成度について|霊的生活の完成度について]](ヨハネス・カッシアヌス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/悔い改めの働きの終了について|悔い改めの働きの終了について]](ヨハネス・カッシアヌス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/テオドロスへ 覚醒と祈りについて|テオドロスへ 覚醒と祈りについて]](ヘシュキオス長老) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/祈りに関する153章|祈りに関する153章]](シナイのニール) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/悪の八魂について|悪の八魂について]](シナイのニール) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/悔い改めについて|悔い改めについて]](ヨハネ・クリマクス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/美徳と情熱について–また情熱との戦いについて|美徳と情熱について–また情熱との戦いについて]](ヨハネ・クリマクス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/8つの主要な情熱との戦いについて|8つの主要な情熱との戦いについて]](ヨハネ・クリマクス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/平静さについて|平静さについて]](ヨハネ・クリマクス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/バルサヌフィオスの禁欲的教え|バルサヌフィオスの禁欲的教え]](大バルサヌフィオス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/アバ・ドロテオスの禁欲的教え|アバ・ドロテオスの禁欲的教え]](アバ・ドロテオス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/シリアの聖イサクの禁欲的教え|シリアの聖イサクの禁欲的教え]](シリアのイサク) *[[ドブロトリュビエ/第3巻|第3巻]] **[[ドブロトリュビエ/第3巻/霊的知識と識別についての100章|霊的知識と識別についての100章]](フォティケのディアドコス) **[[ドブロトリュビエ/第3巻/愛についての400章|愛についての400章]](告白者マクシモス) **[[ドブロトリュビエ/第3巻/愛・禁欲・霊的生活について400章|愛・禁欲・霊的生活について400章]](アバ・タラシオス) **[[ドブロトリュビエ/第3巻/最も魂をたすける100の章|最も魂をたすける100の章]](エデッサのテオドロス) **[[ドブロトリュビエ/第3巻/覚醒についての40章|覚醒についての40章]](シナイのフィロテオス) *[[ドブロトリュビエ/第4巻|第4巻]] **[[ドブロトリュビエ/第4巻/修道士への禁欲的な指導|修道士への禁欲的な指導]](ストゥディオスのテオドロス) *[[ドブロトリュビエ/第5巻|第5巻]] :::新神学者シメオン :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/新神学者シメオンの略歴|新神学者シメオンの略歴]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/実践的および神学的な章|実践的および神学的な章]](新神学者シメオン) :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/敬虔なる長老シメオンの禁欲的な説教|敬虔なる長老シメオンの禁欲的な説教]](彼の師、敬虔者シメオン) :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/信仰について、そしてこの世に生きる人間が完璧を達成するのは不可能だと言う人々へ|信仰について、そしてこの世に生きる人間が完璧を達成するのは不可能だと言う人々へ]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/三つの注意と祈りについて|三つの注意と祈りについて]] :::ニケタス・ステタトス :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ニケタス・ステタトスの略歴|ニケタス・ステタトスの略歴]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/最初の100の実践的な章|最初の100の実践的な章]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/次の100の自然心理学的章 – 精神の浄化について|次の100の自然心理学的章 – 精神の浄化について]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/最後の100の思索的な章 – 愛と人生の完成について|最後の100の思索的な章 – 愛と人生の完成について ]] :::シナイのグレゴリオス :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/戒めと教義・警告と約束についての137章|戒めと教義・警告と約束についての137章]](シナイのグレゴリオス) :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/沈黙行者たちへの指示|沈黙行者たちへの指示]](シナイのグレゴリオス) :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/静寂と祈りについての15章|静寂と祈りについての15章]](シナイのグレゴリオス) :::修道士ニケフォロス :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/覚醒と心を守ることについて|覚醒と心を守ることについて]](修道士ニケフォロス) :::グレゴリオス・パラマス :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/名誉ある修道女クセニアに|名誉ある修道女クセニアに]](グレゴリオス・パラマス) :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/キリスト教法に基づく十戒|キリスト教法に基づく十戒]](グレゴリオス・パラマス) :::ダマスコのペトロ :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ダマスコのペトロ序文|ダマスコのペトロ序文]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ダマスコのペトロの第1巻|ダマスコのペトロの第1巻]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ダマスコのペトロの第2巻|ダマスコのペトロの第2巻]] &#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212; ===14. 神学的著作=== *[[主の祈り、洗礼、聖体に関する注釈]](モプスエスティアのテオドロス) (完) * [[口語訳旧約聖書 目次]]{{ext scan link|1=http://jco.ibibles.net/index.htm#%C2%A0%3E%C2%A0}} * [[口語訳新約聖書 目次]]{{ext scan link|1=http://jco.ibibles.net/index.htm#%C2%A0%3E%C2%A0}} * [[KJV 旧約聖書続編 目録]] (King James Bible, 1769) * [[フィラレートのカテキズム]](モスクワの聖フィラレート、1913)(完) ** [[フィラレートのカテキズム 2]] * [[英国国教会の39箇条についての教理問答]](ジェームズ・ビーヴン、1853)(未完) * [[短い信条]](ガザーリー、1903英訳ダンカン・B・マクドナルド)(完) * [[アル・ガザーリーの宗教的・道徳的教え]](ガザーリー、1921英訳サイード・ナワーブ・アリ)(導入のみ) * [[鳩の書]](''Book of the Dove'' [[w:ja:バル・ヘブラエウス|バル・ヘブラエウス]]、1919英訳 A.J. ヴェンシンク)(入力中) * [[蜂の書]](''The Book of the Bee'' アフラトのソロモン、英訳 [[w:ja:ウォーリス・バッジ|ウォーリス・バッジ]])(入力中) * [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作]](ジョン・パーカー、1897)(目録) ** [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作/神名論|神名論]](完) ** [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作/神秘神学|神秘神学]](完) * [[修道院の制度について]] "De coenobiorum institutis"(ヨハネス・カッシアヌス) * [[コラティオネス]](ヨハネス・カッシアヌス)(未完) * [[信仰について (アンブロシウス)]](完) * [[マルコ福音書注解 (アンセルムス・ラウドゥン)]](グロッサ・オルディナリア)(未完) * [[聖バルラームと聖ヨサファトの生涯]](ダマスコのヨハネ)(未完) * [[神の言葉の誕生について]](ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス)(完) * [[ホモウシオスの受容について]](ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス)(完) * [[砂漠を讃えて]](リヨンのエウケリウス)(完) * [[聖書霊的解釈の定式]](リヨンのエウケリウス)(未完) * [[神の統治について]](マルセイユのサルヴィアヌス)(完) * [[論考 (ヴェローナのゼノ)]](完) * [[言葉の受肉について]] [[s:la:De incarnatione Verbi|De incarnatione Verbi]](オリゲネス)(完) * [[観想生活について]] [[s:la:De vita contemplativa|De vita contemplativa]](ユリアヌス・ポメリウス) * [[歴史 (オロシウス)]] [[s:la:Historiae (Orosius)|Historiae (Orosius)]](オロシウス) * [[詩篇の解説 (カッシオドルス)]] [[s:la:Expositio in Psalterium (Cassiodorus)|Expositio in Psalterium (Cassiodorus)]](カッシオドルス) * [[説教 (アマセアのアステリウス)]] **[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教1|説教1]] 金持ちとラザロ **[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教2|説教2]] 不正な管理人 **[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教3|説教3]] 貪欲に対する戒め **[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教4|説教4]] カレンダ祭について **[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教5|説教5]] 離婚について *[[実証2 (アフラハト)]] デモンストレーション/愛について(完) *[[実証7 (アフラハト)]] デモンストレーション/悔悛について *[[はしご (ヨハネ・クリマコス)]] (楽園への梯子)(未完) :::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]] &#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212; * [[イェルサリム大主教聖キリール教訓]](エルサレムのキュリロス) * [[聖金口イオアン教訓下]](ヨハネ・クリュソストモス) * [[シリヤの聖エフレム教訓]] * [[正教要理問答]] * [[通俗正教教話]](府主教フィラレート) * [[聖詠講話上編]](ヨハネ・クリュソストモス) * [[聖詠講話中編]] * [[新約聖書譬喩略解]] * [[祈祷惺々集]] {{註|祈りと清醒の教訓集。隠修者フェオファン編集。}} *#[[祈祷惺々集/我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓(1)]] *#[[祈祷惺々集/イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(1)]] *#[[祈祷惺々集/克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教(1)]] *#[[祈祷惺々集/シリヤの聖イサアクの教訓(1)]] *#[[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(1)]] :(ヨハネ・クリマクス、シナイのヘシュキオス、シナイのフィロテオス、シリアのイサアク、ガザのバルサヌフィオス) * [[埃及マカリイ全書]](著者は擬マカリオス) * [[ニケア信経]](ニケア・コンスタンチノープル信経) * [[使徒信経(天主公教会1911年)]] * [[使徒信経(日本聖公会1941年)]] * [[アタナシオ信経]] * [[信経問答]] * [[十誡問答]] * [[吉利支丹文学抄/吉利支丹文学概説及び原本の解題]] * [[さんぺいとろの御作業 (新漢字)]] * [[さんふらんしすこの御作業 (新漢字)]] * [[さんゑうすたきよの御作業]] * [[こんてむつすむんぢ抄 (新漢字)]](『キリストに倣いて』) * [[でうすの御性体と御善徳の事 (新漢字)]](『ぎや・ど・ぺかどる』) * [[御扶けの御恩の事 (新漢字)]]( 同 ){{註|ぎやどぺかどるは興味深い。}} * [[善人達のよきこんしゑんしやの悦びの事 (新漢字)]]( 同 ) * [[世界と悪の執着に引るゝ人の迷ひを導く事 (新漢字)]]( 同 ) * [[瞋恚に対する了簡の事 (新漢字)]]( 同 ) * [[ほるたれざといふ強き心の事 (新漢字)]]( 同 ) * [[けれいど並びにひいですのあるちごの事 (新漢字)]](『どちりな・きりしたん』) * [[でうすの御掟十のまだめんとすの事 (新漢字)]]( 同 ) * [[詩四篇・三十一篇・九十一篇(日本聖公会訳)]](+詩百三十四) * [[詩九十二篇・九十五篇・九十八篇・百篇(日本聖公会訳)]] * [[詩七十一篇・百十六篇(日本聖公会訳)]](+詩百二十七、詩百三十) * [[詩二十三篇・三十九篇・九十篇(日本聖公会訳)]] * [[詩五十一篇]](詩篇第五十一、第五十聖詠) * [[人類の忘恩に対する償の祈祷]] :::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]] ===15. 典礼・奉神礼=== * [[ミサ通常文・キリエ・グロリア]](カトリック) ::(+クレド・サンクトゥス・ベネディクトゥス・アニュスデイ) * [[神聖なる聖体礼儀の歌章の次第]](正教会) * [[大齋の晩課及び先備聖体礼儀の「主よ爾に籲ぶ」]](正教会) * [[八調の品第詞(ステペンナ)]](正教会){{註|聖詠119~133を題材にした祈祷文}} * [[大斎第一週間奉事式略]](おおものいみだいいっしゅうかんほうじしき) **[[大斎第一週間奉事式略 2]](火曜日) **[[大斎第一週間奉事式略 3]](水曜日) **[[大斎第一週間奉事式略 4]](木曜日)(未完) * [[聖パスハの奉事]](未完) * [[信経]](正教会) * [[聖詠経]] ([[w:日本ハリストス正教会|日本正教会]]翻訳) * [[マトフェイ伝06]] * [[マトフェイ伝07]] &#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212; ===16. 仏教=== * [[正信念仏偈 (意訳聖典)]] * [[歎異抄 (意訳聖典)]] ** [[歎異抄 (意訳聖典 新漢字)]] * [[蓮如上人御文章 (意訳聖典)]] * [[七箇條の起請文 (浄土宗全書)]](別名:念仏行者訓條) * [[横川法語]]{{註|恵心僧都、源信}} * [[十二問答]] * [[十二箇條問答]]{{註|法然上人の人柄が優しい。}} * [[黒田の聖人へつかはす御文]](別名:一紙小消息) * [[或女房に示されける法語]] * [[常に仰られける御詞 (法然上人全集)]] * [[平重衡に示す御詞 (法然上人全集)]] * [[甘糟太郎忠綱に示す御詞 (法然上人全集)]] * [[元强盜の張本なりし教阿に示す御詞 (法然上人全集)]] * [[御臨終の時門弟等に示されける御詞 (法然上人全集)]] * [[消息法語 (一遍上人語録)]] * [[門人伝説 (一遍上人語録)]]{{註|興味深い。}} * [[仏説阿弥陀経 (昭和新纂経典部)]] ===17. イスラム教=== * [[短い信条]](ガザーリー、1903英訳ダンカン・B・マクドナルド)(完) * [[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え]](ガザーリー、1921英訳サイード・ナワーブ・アリ)(未完) **[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第1章|1. 人間の本質]] **[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第2章|2. 人間の自由と責任]] **[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第3章|3. プライドと虚栄心]] **[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第4章|4. 友情と誠実さ]] **[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第5章|5. 愛の本質と人間の最高の幸福]] **[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第6章|6. 神の唯一性]] **[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第7章|7. 神の愛とそのしるし]] **[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第8章|8. リザ、すなわち神の意志への喜びに満ちた服従]] ===18. ユダヤ教=== * [[ユダヤ古代誌]] [[s:en:The Antiquities of the Jews|The Antiquities of the Jews]](フラウィウス・ヨセフ)(未完) ===19. ギリシャ・ローマ哲学=== * [[トゥスクルム荘対談集]](キケロ)(完) * [[新プラトン主義哲学者断片集/サッカス (ブイエ訳)]](アンモニオス・サッカス) ==加筆項目== {{resize|120%|この利用者が加筆したもの}} * [[聖詠経]](ふりがなを付加) ** [[第一「カフィズマ」]] ** [[第二「カフィズマ」]] ** [[第三「カフィズマ」]] ** [[第四「カフィズマ」]] ** [[第五「カフィズマ」]] ** [[第六「カフィズマ」]] ** [[第十七「カフィズマ」]] ** [[第十八「カフィズマ」]] ** [[第十九「カフィズマ」]] ** [[第二十「カフィズマ」他]] * [[コンチリサンの略]]{{註|Contrição/Contrition:悔い改め、懺悔という意味}} * [[白骨の御文]] * [[主の祈り]] ==リダイレクト== * [[ディダケー (Riddle translation)]] → [[ニカイア以前の教父たち/第7巻/十二使徒の教訓/十二使徒の教訓]] {{resize|120%|サブページ}} * [[利用者:村田ラジオ/sandbox]] ウェブスター改訂聖書 * [[利用者:村田ラジオ/sandbox2]] マカリオス 大書簡 * [[利用者:村田ラジオ/sandbox3]] ばるらあんと聖じょさはつの御作業 <strike>信仰について 第5巻、ルカ福音書の解説 第8巻</strike> * [[利用者:村田ラジオ/sandbox4]] 第6論文 <strike>第5論文</strike> <strike>第4論文</strike> <strike>第3論文</strike> <strike>トゥスクルム荘対談集</strike> <strike>聖バルラームと聖ヨサファトの生涯</strike> * [[利用者:村田ラジオ/common.js]] :::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]] ----- ===19. 忘備録=== {| |valign=top| * [[ヘルプ:編集の仕方]] * [[ヘルプ:資料を追加する]] * [[ヘルプ:パブリックドメイン]] * [[ヘルプ:著作権タグ]] * [[ヘルプ:信頼性の基本ガイド]] * [[ヘルプ:註釈の追加]] * [[ヘルプ:詩を編集する]] * [[Wikisource:削除依頼]] * [[Wikisource:削除の方針]] * [[Wikisource:ツール・スクリプト]] * [[Wikisource:記事名の付け方]] * [[Wikisource:ウィキリンク]] * [[Wikisource:翻訳の仕方]] * [[Wikisource:スタイルガイド]] * [[Wikisource:全てのルールは無視せよ]] * カテゴリ:段組みテンプレート * カテゴリ:ウィキソース * カテゴリ:ヘルプ * カテゴリ:ウィキソースによる翻訳物 * カテゴリ:スタブ <nowiki>{{スタブ}}</nowiki> |valign=top| * [[テンプレート:変体仮名]] * [[テンプレート:異体字]] * [[テンプレート:難読部]] * [[テンプレート:縦中横]] * [[テンプレート:傍点]] * [[テンプレート:二重線]] * [[テンプレート:註]] * [[テンプレート:Resize]] * [[テンプレート:〱]] * [[テンプレート:レ]] * [[テンプレート:ママ]]({{sic}}) * [[テンプレート:TategakiH]] * [[テンプレート:Textquality/doc]] * [[テンプレート:Verse]] * [[テンプレート:Center]] * [[テンプレート:要改訳]] * [[w:JIS X 0213非漢字一覧]] * [[w:Help:ページの移動]] * [[Wikisource:削除依頼]] * [[Wikisource:削除の方針]] * カテゴリ:即時削除 |} * <nowiki> <u>なになに</u> </nowiki> (一本下線) * <nowiki> {{二重線|なになに}} </nowiki> (二重下線) * <nowiki> <span style="border-bottom: double">なになに</span> </nowiki> (二重下線) * <nowiki> <span style="border-bottom: dotted 2px">なになに</span> </nowiki> (点線下線) * <nowiki> <span style="border-bottom: dashed 1px">なになに</span> </nowiki> (破線下線) * [https://e-words.jp/p/r-htmlentity.html HTMLの文字実体参照] {{DEFAULTSORT:むらたらしお}} qdpl54zxviqajvaox9hq8v7au384f7g 243147 243143 2026-06-12T21:51:53Z 村田ラジオ 14210 243147 wikitext text/x-wiki {{resize|120%|この利用者が投稿したもの}}(入力中を含む) ===1. 聖イサク=== [[Wikisource:宗教]]< * [[シリヤの聖イサアク全書]] * [[ニネベのイサアク神秘論文集]](A. J. ヴェンシンク) {| |valign=top| :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第1論文|第1論文]] 物事への気遣いが存在する限り、魂の中に安住することはできないこと :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第2論文|第2論文]] あなたの内にある宝物庫に入ることに熱心でありなさい :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第3論文|第3論文]] 魂は本来、情念に左右されない :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第4論文|第4論文]] 神を愛する魂は神の中にのみ安らぎを見出す :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第5論文|第5論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第6論文|第6論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第7論文|第7論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第8論文|第8論文]] 人が心から神に近づくのに役立つものは何であるか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第9論文|第9論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第10論文|第10論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第11論文|第11論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第12論文|第12論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第13論文|第13論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第14論文|第14論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第15論文|第15論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第16論文|第16論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第17論文|第17論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第19論文|第19論文]] 幻視の中で聖人たちに起こる力の啓示について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第20論文|第20論文]] 啓示と霊的ビジョンに関連した、精神の様々な知覚可能な力について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第21論文|第21論文]] 独居修行の中で祈りの間に起こることについて :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第22論文|第22論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第23論文|第23論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第24論文|第24論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第25論文|第25論文]] 深い観想を求める魂がその観想に没頭し、想起された事柄から生じる身体的な観想から離れることの契機 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第26論文|第26論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第27論文|第27論文]] 人間性はどのように多様な方法で非物質的存在を知覚するのか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第30論文|第30論文]] 罪の力と邪悪な働き :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第31論文|第31論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第32論文|第32論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第33論文|第33論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第34論文|第34論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第35論文|第35論文]] 絶え間ない行動とあらゆる種類の道徳を考慮した問答形式の論文 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第36論文a|第36論文a]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第37論文|第37論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第38論文|第38論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第39論文|第39論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第40論文|第40論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第43論文|第43論文]] 霊的な知恵に満ちた有益な言葉 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第44論文|第44論文]] 知識の程度と信仰の程度について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第45論文|第45論文]] 有益な助言 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第46論文|第46論文]] その他の考慮事項 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第47論文|第47論文]] 霊的な事柄における魂の教育という神の摂理に :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第48論文|第48論文]] 魂が常にさらされる光と闇の様々な状態 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第50論文|第50論文]] 様々な考察をまとめた短い教訓集 |valign=top| :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第51論文|第51論文]] 知識の3つの段階とその奉仕と衝動との区別、魂の信仰とその中に隠された神秘の宝について ::(a) 知識の第一段階 ::(b) 知識の第二段階 ::(c) 知識の第三段階。つまり完全な段階 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第53論文|第53論文]] 祈りと、絶えず思い出すことが必然的に求められ、人が区別して唱え、保持することが非常に有益であるその他の事柄について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第54論文|第54論文]] マゲナヌータに関するその他の説明 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第55論文|第55論文]] 魂の中に隠された警戒心を :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第56論文|第56論文]] 人の生命に関する美しい考察 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第57論文|第57論文]] 神の愛のための忍耐がどのようにして神の助けを得るのか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第58論文|第58論文]] 神の近くに住み、認識の生活の中で日々を過ごす人々について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第59論文|第59論文]] 有益な談話 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第60論文|第60論文]] 必然性がなければ、何らかのしるしを望んだり求めたりしてはならないこと :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第61論文|第61論文]] 神は何のために神を愛する人たちへの誘惑を許すのか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第62論文|第62論文]] 人の中に湧き起こる思考によって、自分がどの段階に属し、どのような思考が続くかを知ることができるということ :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第63論文|第63論文]] 認識の心理状態にある人々は、なぜ肉体の粗雑さに応じて霊的なことを考えるのか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第64論文|第64論文]] 心中に起こる、祈りによって浄化されるさまざまな状態について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第65論文|第65論文]] 心の警戒に関する指示 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第66論文|第66論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第67論文|第67論文]] 理解可能なものの区別に関して例をあげ、それぞれの使い方を示しての説明 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第68論文|第68論文]] 短いセクション :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第69論文|第69論文]] 思慮ある者はどのように黙想を務めるべきか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第70論文|第70論文]] 初期知識の微妙な順序 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第71論文|第71論文]] 恩寵から生じる影響について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第72論文|第72論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第73論文|第73論文]] これまでに述べられた内容の説明 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第74論文|第74論文]] 聖人の中に神に似たものを創造している霊的目的について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第75論文|第75論文]] 隠された状態と、そこに存在する力と影響力 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第76論文|第76論文]] 短い言葉 :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第77論文|第77論文]] この章は生命力に満ちている :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第78論文|第78論文]] 世俗からの逃避によって得られる… :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第79論文|第79論文]] :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第80論文|第80論文]] 徹夜祷とその間の様々な種類の労働について :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第81論文|第81論文]] なぜ独居修行者たちはそれ以上に孤独を重んじるのか :* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第82論文|第82論文]] 謙虚さはどれほどの名誉を持ち、その地位は |} ===2. マカリオス=== * [[埃及マカリイ全書]] * [[50の霊的講話]] * [[マカリオス大書簡]] * [[エジプトのマカリオス50の霊的説教]] (擬マカリオス)(完) :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教1|説教1]] 預言者エゼキエルに記された幻の寓話的解釈。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教2|説教2]] 暗黒の王国、すなわち罪の王国について、そして神だけが私たちから罪を取り除き、邪悪な君主の束縛から私たちを救い出すことができるということについて。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教3|説教3]] 兄弟たちは互いに誠実、単純、愛、平和のうちに生きるべきであり、心の中では競争と戦いを続けるべきである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教4|説教4]] キリスト教徒は、神と天使たちから天の賞賛を得るために、この世での競争を注意深く慎重に成し遂げるべきである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教5|説教5]] キリスト教徒とこの世の人々の間には大きな違いがある。この世の精神を持つ人々は心と精神において地上の束縛に縛られているが、他の人々は天の父の愛を切望し、ただ目の前に父を待ち望んでいる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教6|説教6]] 神を喜ばせたいと願う者は、平穏と静寂、優しさと知恵をもって祈りを捧げるべきであり、大声で叫んで他人に迷惑をかけるべきではない。説教には、王座と冠が実際に創造されたものであるかどうか、そしてイスラエルの12の王座についてという2つの質問も含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教7|説教7]] キリストの人間に対する慈愛について。説教にはいくつかの質問と答えも含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教8|説教8]] 祈りの中でキリスト教徒に起こること、そして完全さの尺度について、キリスト教徒が完全な尺度に達することは可能かどうか。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教9|説教9]] 神の約束と預言は、さまざまな試練と誘惑を通して成就し、神のみに従う者は悪魔の誘惑から救われる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教10|説教10]] 謙虚な心と真摯さによって神の恵みの賜物は保存されるが、傲慢さと怠惰によってそれらは破壊される。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教11|説教11]] 聖霊の力は人の心の中で火のようであること、心に湧き上がる考えを見分けるために何が必要か、そしてモーセが柱のてっぺんに立てた死んだ蛇がキリストの象徴であることなど。説教には二つの対話があり、一つはキリストと悪魔、サタンとの対話、もう一つは罪人と同じ罪人との対話である。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教12|説教12]] アダムが神の戒めを破る前、そして自分の姿と天の姿の両方を失った後のアダムの状態について。説教には、非常に有益な質問がいくつか含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教13|説教13]] 神がキリスト信徒に期待する成果。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教14|説教14]] 神に思いと心を捧げる人々は、心の目が開かれ、神が彼らに最も神聖で純粋な神秘を与え、神が恵みを授けてくれることを望みながらそうするのである。天国の善いものを手に入れたいと願う私たちがすべきこと。そして使徒と預言者は窓から差し込む太陽の光にたとえられる。説教ではまた、サタンの「地」と天使の「地」とは何か、そしてどちらも無形で目に見えないものであることを教えている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教15|説教15]] この説教は、世界の救い主であるキリスト・イエスの配偶者に対して、魂がいかに聖潔と貞潔と純潔をもってふるまうべきかを広く教えている。また、復活のときにすべての部分がよみがえるかどうか、悪、恩寵、自由意志、人間の尊厳など、多くの重要な教えに満ちた議論も含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教16|説教16]] 霊的な人は最初の罪から生じる誘惑や逆境にさらされる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教17|説教17]] キリスト教徒の霊的塗油とその栄光について、そしてキリストなしには救われることも永遠の命にあずかることも不可能であることについて。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教18|説教18]] キリスト教徒の宝であるキリストと聖霊について、キリストと聖霊はそれを様々な方法で実践して完成に至る。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教19|説教19]] 進歩し成長したいと願うキリスト教徒は、内在する罪から解放され、聖霊に満たされるために、あらゆる善いことに自らを駆り立てるべきである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教20|説教20]] 内なる人の真の医者であるキリストだけが、魂を癒し、恵みの衣でそれを飾ることができるのである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教21|説教21]] キリスト教徒には、内なる戦いと外なる戦いという二つの戦いが待ち受けている。後者は、地上の煩いから身を引くためのものであり、前者は、心の中で、邪悪な霊の誘惑に対抗するためのものである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教22|説教22]] この世を去る人々の二通りの状態について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教23|説教23]] 王家の血統から生まれた者だけが高価な王家の真珠を身につけることができるように、神の子だけが天国の真珠を身につけることが許されている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教24|説教24]] キリスト教徒の状態は、商品やパン種のようなものである。商人が地上の利益を蓄えるように、キリスト教徒は世界中に散らばった思いを集める。パン種が塊全体をパン種に変えるように、罪のパン種はアダムの種族全体に浸透する。しかしキリストは、忠実な魂には天の善のパン種を入れる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教25|説教25]] この説教は、キリストによって強められなければ、誰も悪魔の妨害を克服することはできないこと、そして神の栄光を望む者がしなければならないことを教えている。また、アダムの不従順によって私たちは肉欲の束縛に陥ったが、十字架の神秘によってそこから解放されたことも教えている。さらに、涙と神の火の力は偉大であることを教えてくれる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教26|説教26]] 不滅の魂の価値と大切さ、力と効力、そしてそれがいかにしてサタンに誘惑され、誘惑から解放されるかについて。また、非常に素晴らしい教えに満ちたいくつかの質問も含まれている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教27|説教27]] この説教は、前述の説教と同様に、キリスト教徒の尊厳と地位について長々と説明している。そして、神の知恵に満ちたいくつかの質問を織り交ぜながら、自由意志に関する多くの有益なことを教えている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教28|説教28]] この説教は、罪のせいで主が魂の中に住まわれないという魂の災難を描写し嘆き、また、洗礼者ヨハネに関して、女から生まれた者の中で彼より偉大な者はいないと述べている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教29|説教29]] 神は人類に恵みの分配を二通りの方法で行い、公正な裁きによってその成果を要求することを意図している。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教30|説教30]] 人の魂が神の王国に入るには聖霊によって生まれなければならない。そして、それがどのように実現されるかについて。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教31|説教31]] 信者は心を変え、すべての思いを神に集めるべきである。なぜなら、神への奉仕はすべてこれにかかっているからである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教32|説教32]] キリスト教徒の栄光は今も彼らの魂の中に留まり、復活の時に現れ、彼らの敬虔さに応じて彼らの体を栄光に輝かせるであろう。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教33|説教33]] 私たちは神に絶えず注意深く祈るべきである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教34|説教34]] キリスト教徒の栄光については、復活の時に彼らの体に与えられ、彼らは魂と共に啓蒙されるであろう。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教35|説教35]] 古い安息日と新しい安息日について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教36|説教36]] 魂と肉体の二重の復活と復活した者の様々な栄光について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教37|説教37]] 楽園と霊的法則について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教38|説教38]] 真のキリスト教徒を見分けるには、またそれが誰であるかを見分けるには、非常に正確な判断力と知性が求められる。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教39|説教39]] 聖書が神から私たちに与えられた理由。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教40|説教40]] すべての美徳とすべての悪徳は互いに結びついており、鎖のように互いにつながっている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教41|説教41]] 魂の秘密の部屋は非常に深く、それは恩恵や邪悪さの成長に比例して成長する。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教42|説教42]] 外的なものではなく、内的なものが人間を前進させたり傷つけたりする。つまり、恵みの霊か邪悪の霊かである。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教43|説教43]] キリスト教徒の進歩については、その力の全てが心次第であり、ここでは様々な方法で説明されている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教44|説教44]] 魂の苦しみと病を{{r|癒|いや}}したキリストによって、キリスト教徒の内にどのような変化と再生がもたらされるであろうか。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教45|説教45]] この世のいかなる芸術も富でもなく、ただキリストの出現だけが人間を癒すことができる。この説教は人間と神との偉大な親族関係を説いている。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教46|説教46]] 神の言葉とこの世の言葉、そして神の子らとこの世の子らの違いについて。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教47|説教47]] 律法のもとで行われた事柄の寓話的解釈。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教48|説教48]] 神への完全な信仰について。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教49|説教49]] この世の快楽を捨て去ったとしても、あの世の祝福を得なければ十分ではない。 :*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教50|説教50]] 神は聖徒たちを通して奇跡を起こす。 ===3. クリソストモス=== [[Wikisource:宗教]]< * [[マタイ福音書に関する説教]] 目録(クリソストムス)(未完) {| |valign=top| :* [[マタイ福音書に関する説教/説教13|説教13]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教14|説教14]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教15|説教15]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教15-2|説教15-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教16|説教16]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教16-2|説教16-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教17|説教17]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教17-2|説教17-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教18|説教18]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教18-2|説教18-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教19|説教19]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教19-2|説教19-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教20|説教20]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教21|説教21]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教22|説教22]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教22-2|説教22-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教23|説教23]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教23-2|説教23-2]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教24|説教24]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教25|説教25]] |valign=top| :* [[マタイ福音書に関する説教/説教33|説教33]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教34|説教34]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教35|説教35]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教36|説教36]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教37|説教37]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教38|説教38]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教39|説教39]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教40|説教40]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教41|説教41]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教42|説教42]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教65|説教65]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教66|説教66]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教67|説教67]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教68|説教68]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教69|説教69]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教70|説教70]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教71|説教71]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教72|説教72]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教73|説教73]] :* [[マタイ福音書に関する説教/説教74|説教74]] |} *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第14巻/ヨハネ福音書注解|ヨハネ福音書注解]](クリソストモス) (未完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第11巻/使徒行伝の注解|使徒行伝の注解]] (クリソストモス) (未完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第11巻/ローマ人への手紙注解|ローマ人への手紙注解]](完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第12巻/コリント人への手紙第一の注解|コリント人への手紙第一の注解]](未完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ガラテヤとエペソについて/ガラテヤ人への手紙注解|ガラテヤ人への手紙注解]] (完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ガラテヤとエペソについて/エペソ人への手紙注解|エペソ人への手紙注解]] (完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/ピリピ人への手紙注解|ピリピ人への手紙注解]](未完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/コロサイ人への手紙注解|コロサイ人への手紙注解]](完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/テサロニケ人への第一の手紙注解|テサロニケ人への第一の手紙注解]](完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/マタイ26章39節についての説教|マタイ26章39節についての説教]](完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/屋根を突き破って降ろされた中風の患者についての説教|屋根を突き破って降ろされた中風の患者についての説教]](完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/オリンピアスへの手紙|オリンピアスへの手紙]] *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/アンティオキアの人々への彫像に関する説教|アンティオキアの人々への彫像に関する説教]](未完) ===4. オリゲネス=== * [[諸原理について]](オリゲネス) :* [[諸原理について/序説]] :* [[諸原理について/第1巻|第1巻]] :* [[諸原理について/第2巻|第2巻]] :* [[諸原理について/第3巻|第3巻]] {| |valign=top| :* [[諸原理について/第3巻/第1章|第3巻/第1章]] :* [[諸原理について/第3巻/第2章|第3巻/第2章]] :* [[諸原理について/第3巻/第3章|第3巻/第3章]] :* [[諸原理について/第3巻/第4章|第3巻/第4章]] |valign=top| :* [[諸原理について/第3巻/第5章|第3巻/第5章]] :* [[諸原理について/第3巻/第6章|第3巻/第6章]] :* [[諸原理について/第3巻/第7章|第3巻/第7章]] :* [[諸原理について/第3巻/第8章|第3巻/第8章]] |} :* [[諸原理について/第4巻|第4巻]] :* [[諸原理について/第4巻/第1章|第4巻/第1章]] :* [[諸原理について/第4巻/第2章|第4巻/第2章]] :* [[諸原理について/解説|解説]] *[[言葉の受肉について]] [[s:la:De incarnatione Verbi|De incarnatione Verbi]](完) *[[エレミヤ書とエゼキエル書に関する説教の翻訳]] [[s:la:Translatio Homiliarum in Ieremiam et Ezechielem|Translatio Homiliarum in Ieremiam et Ezechielem]](未完) *[[イザヤの幻視に関する説教の翻訳]] [[s:la:Translatio homiliarum in visiones Isaiae|Translatio homiliarum in visiones Isaiae]](完) *[[39の説教の翻訳]] [[s:la:Translatio XXXIX Homiliarum|Translatio XXXIX Homiliarum]] ===5. ニカイア教父シリーズ=== *[[ニカイア以前の教父たち]] *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I]] *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II]] **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻|第1巻]] – エウセビオス: 紀元1年から324年までの教会史、コンスタンティヌス大帝の生涯、コンスタンティヌスを讃える演説 ***[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第1巻|エウセビオスの教会史/第1巻]] **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻|第2巻]] – ソクラテス: 西暦305年から438年までの教会史、ソゾメノス ([[w:en:Sozomen|en]]): 西暦323年から425年までの教会史 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻|第3巻]] – テオドレトス、ヒエロニムスとゲンナディウス、ルフィヌス ([[w:en:Tyrannius Rufinus|en]])とヒエロニムス **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第4巻|第4巻]] – アタナシオス: 選集と手紙 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第5巻|第5巻]] – ニュッサのグレゴリオス: 教義論文、選集および書簡 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第6巻|第6巻]] – ヒエロニムス: 手紙と選集 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻|第7巻]] – エルサレムのキュリロス、ナジアンゾスのグレゴリオス **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第8巻|第8巻]] – バシレイオス: 手紙と選集 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻|第9巻]] – ポワティエのヒラリウス、ダマスコのヨアンネス **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第10巻|第10巻]] – アンブロシウス: 選集と手紙 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第11巻|第11巻]] – スルピティウス・セウェルス、レランスのウィンケンティウス、ヨハネス・カッシアヌス **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第12巻|第12巻]] – レオ1世、グレゴリウス1世 **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第13巻|第13巻]] – グレゴリウス1世 (パート2)、シリアのエフレム、アフラハト **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第14巻|第14巻]] – 七つの全地公会議 *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻|第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻]] {| |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第1章|第1巻/第1章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第2章|第1巻/第2章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第3章|第1巻/第3章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第4章|第1巻/第4章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第5章|第1巻/第5章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第6章|第1巻/第6章]] |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第7章|第1巻/第7章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第8章|第1巻/第8章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第9章|第1巻/第9章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第10章|第1巻/第10章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第11章|第1巻/第11章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第12章|第1巻/第12章]] |} *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/高名な人々について|第3巻/高名な人々について]](著名人列伝) **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/高名な人々について/ヒエロニムス|ヒエロニムス]](135人) **[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/高名な人々について/ゲンナディウス|ゲンナディウス]](99人) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/ルフィヌス/使徒信条の解説|第3巻/ルフィヌス/使徒信条の解説]](ルフィヌス)(未完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/ナジアンゾスのグレゴリオス演説|第7巻/ナジアンゾスのグレゴリオス演説]] (未完) *[[原ニカイア信条]](325年) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第14巻/第二回公会議/聖なる信条|第14巻/第二回公会議/聖なる信条]](374 - 381年) *[[ニカイア以前の教父たち/第2巻/ヘルマスの牧者]] (完) ===6. ユスティノス=== *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/殉教者ユスティノス/トリュフォンとの対話|トリュフォンとの対話]](完) ===7. エイレナイオス 他=== *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第1巻|異端反駁:第1巻]](エイレナイオス)(完) *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第2巻|異端反駁:第2巻]](エイレナイオス)(完) *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第3巻|異端反駁:第3巻]](エイレナイオス)(完) *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第4巻|異端反駁:第4巻]](エイレナイオス)(完) *[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第5巻|異端反駁:第5巻]](エイレナイオス)(完) *[[ニカイア以前の教父たち/第3巻/護教的論文/偶像崇拝について|偶像崇拝について]](テルトゥリアヌス)(完) *[[ニカイア以前の教父たち/第5巻/キプリアヌス/キプリアヌスの論文/主の祈りについて|主の祈りについて]] (キプリアヌス) (完) *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/エルサレムのキュリロス/教理講義|教理講義]] (キュリロス) (完) **[[教理講義4]] 《教義の10の要点について》 *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/エルサレムのキュリロス/序説|エルサレムのキュリロス/序説]] *[[神の言葉の誕生について]](ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス) (完) :::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]] ===8. ヒラリウス=== *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ポワティエのヒラリウス/三位一体論|三位一体論]] (ヒラリウス) (未完) * [[詩篇の論考]](未完) ** [[詩篇の論考/序文|序文]] ** [[詩篇の論考/詩篇第1篇|詩篇第1篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇2篇|詩篇2篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇9篇|詩篇9篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇13篇|詩篇13篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇14篇|詩篇14篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇51篇|詩篇51篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇61篇|詩篇61篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇62篇|詩篇62篇]] ** [[詩篇の論考/詩篇67篇|詩篇67篇]] ===9. アンブロシウス=== *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第10巻/著作/キリスト教信仰の解説|ニカイア後教父: シリーズ II/信仰について]](アンブロシウス)入力中 * [[信仰について (アンブロシウス)]](完) * [[ルカ福音書の解説 (アンブロシウス)]](完) * [[ヘクサエメロン (アンブロシウス)]](第5巻のみが未完) * [[楽園について (アンブロシウス)]](完) * [[カインとアベルについて (アンブロシウス)]](完) * [[ノアと箱舟について (アンブロシウス)]](完) * [[アブラハムについて (アンブロシウス)]](完) * [[イサクと魂について]](完) * [[死の善について]](完) * [[世界からの逃避について]](完) * [[ヤコブと祝福された人生について]](未完) * [[族長ヨセフについて]](未完) * [[ダビデの詩篇十二篇の解説]](完) * [[ダビデの詩篇118篇の解説]](未完) ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/プロローグ|プロローグ]] ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/1番目の言葉|1番目の言葉]] アレフ ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/2番目の言葉|2番目の言葉]] ベト ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/3番目の言葉|3番目の言葉]] ギメル ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/4番目の言葉|4番目の言葉]] ダレト ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/5番目の言葉|5番目の言葉]] ヘー ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/6番目の言葉|6番目の言葉]] ワウ ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/7番目の言葉|7番目の言葉]] ザイン ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/8番目の言葉|8番目の言葉]] ヘト ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/9番目の言葉|9番目の言葉]] テト ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/10番目の言葉|10番目の言葉]] ヨド ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/11番目の言葉|11番目の言葉]] カフ ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/12番目の言葉|12番目の言葉]] ラメド ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/13番目の言葉|13番目の言葉]] メム ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/14番目の言葉|14番目の言葉]] ヌン ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/15番目の言葉|15番目の言葉]] サメク ** [[ダビデの詩篇118篇の解説/16番目の言葉|16番目の言葉]] アイン * [[ローマ人への手紙注解 (アンブロシアステル)]](完) * [[コリント人への第一の手紙注解 (アンブロシアステル)]](完) * [[コリント人への第二の手紙注解 (アンブロシアステル)]](完) ===10. アウグスティヌス=== * [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第7巻/ヨハネ福音書論考|ヨハネ福音書論考]] 入力中 * [[三位一体論 (アウグスティヌス)]] 入力中 ===11. レオ1世=== *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第12巻/レオ1世/説教|第12巻/レオ1世/説教]](レオ1世)入力中 ===12. ダマスコのヨハネ=== *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻|正教信仰の正確な解説/第1巻]](ヨハネ・ダマスキン)入力中 {| |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第1章|第1章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第2章|第2章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第3章|第3章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第4章|第4章]] |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第5章|第5章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第6章|第6章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第7章|第7章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第8章|第8章]] |} *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻|正教信仰の正確な解説/第2巻]] {| |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第1章|第1章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第2章|第2章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第3章|第3章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第4章|第4章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第5章|第5章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第6章|第6章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第7章|第7章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第8章|第8章]] |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第22章|第22章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第23章|第23章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第24章|第24章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第26章|第26章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第27章|第27章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第28章|第28章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第29章|第29章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻/第30章|第30章]] |} *[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻|正教信仰の正確な解説/第3巻]] {| |valign=top| :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻/第1章|第1章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻/第2章|第2章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻/第3章|第3章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第3巻/第4章|第4章]] :*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ 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II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第4巻|正教信仰の正確な解説/第4巻]] :::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]] ===13. フィロカリア=== *[[ドブロトリュビエ]] (Philokalia) *[[ドブロトリュビエ/第1巻|第1巻]] **[[ドブロトリュビエ/第1巻/大アントニオスの言葉と彼に関する伝説|大アントニオスの言葉と彼に関する伝説]] **[[ドブロトリュビエ/第1巻/大アントニオスの名言の解説|大アントニオスの名言の解説]] **[[ドブロトリュビエ/第1巻/アバ・イザヤが弟子たちに語った言葉|アバ・イザヤが弟子たちに語った言葉]](アバ・イザヤ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/新米修道士へのルールとアドバイス|新米修道士へのルールとアドバイス]](アバ・イザヤ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/アバ・イザヤの言葉|アバ・イザヤの言葉]](アバ・イザヤ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/心を守ることについて27章|心を守ることについて27章]](アバ・イザヤ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/修道士ニコラスへのメッセージ|修道士ニコラスへのメッセージ]](修行者マルコ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/修行者マルコの著作に対するニコラス修道士の反応|修行者マルコの著作に対するニコラス修道士の反応]] **[[ドブロトリュビエ/第1巻/霊的法則に関する200章|霊的法則に関する200章]](修行者マルコ) **[[ドブロトリュビエ/第1巻/行いによって義とされると考える人々について|行いによって義とされると考える人々について]](修行者マルコ) *[[ドブロトリュビエ/第2巻|第2巻]] **[[ドブロトリュビエ/第2巻/霊的生活の完成度について|霊的生活の完成度について]](ヨハネス・カッシアヌス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/悔い改めの働きの終了について|悔い改めの働きの終了について]](ヨハネス・カッシアヌス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/テオドロスへ 覚醒と祈りについて|テオドロスへ 覚醒と祈りについて]](ヘシュキオス長老) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/祈りに関する153章|祈りに関する153章]](シナイのニール) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/悪の八魂について|悪の八魂について]](シナイのニール) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/悔い改めについて|悔い改めについて]](ヨハネ・クリマクス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/美徳と情熱について–また情熱との戦いについて|美徳と情熱について–また情熱との戦いについて]](ヨハネ・クリマクス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/8つの主要な情熱との戦いについて|8つの主要な情熱との戦いについて]](ヨハネ・クリマクス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/平静さについて|平静さについて]](ヨハネ・クリマクス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/バルサヌフィオスの禁欲的教え|バルサヌフィオスの禁欲的教え]](大バルサヌフィオス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/アバ・ドロテオスの禁欲的教え|アバ・ドロテオスの禁欲的教え]](アバ・ドロテオス) **[[ドブロトリュビエ/第2巻/シリアの聖イサクの禁欲的教え|シリアの聖イサクの禁欲的教え]](シリアのイサク) *[[ドブロトリュビエ/第3巻|第3巻]] **[[ドブロトリュビエ/第3巻/霊的知識と識別についての100章|霊的知識と識別についての100章]](フォティケのディアドコス) **[[ドブロトリュビエ/第3巻/愛についての400章|愛についての400章]](告白者マクシモス) **[[ドブロトリュビエ/第3巻/愛・禁欲・霊的生活について400章|愛・禁欲・霊的生活について400章]](アバ・タラシオス) **[[ドブロトリュビエ/第3巻/最も魂をたすける100の章|最も魂をたすける100の章]](エデッサのテオドロス) **[[ドブロトリュビエ/第3巻/覚醒についての40章|覚醒についての40章]](シナイのフィロテオス) *[[ドブロトリュビエ/第4巻|第4巻]] **[[ドブロトリュビエ/第4巻/修道士への禁欲的な指導|修道士への禁欲的な指導]](ストゥディオスのテオドロス) *[[ドブロトリュビエ/第5巻|第5巻]] :::新神学者シメオン :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/新神学者シメオンの略歴|新神学者シメオンの略歴]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/実践的および神学的な章|実践的および神学的な章]](新神学者シメオン) :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/敬虔なる長老シメオンの禁欲的な説教|敬虔なる長老シメオンの禁欲的な説教]](彼の師、敬虔者シメオン) :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/信仰について、そしてこの世に生きる人間が完璧を達成するのは不可能だと言う人々へ|信仰について、そしてこの世に生きる人間が完璧を達成するのは不可能だと言う人々へ]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/三つの注意と祈りについて|三つの注意と祈りについて]] :::ニケタス・ステタトス :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ニケタス・ステタトスの略歴|ニケタス・ステタトスの略歴]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/最初の100の実践的な章|最初の100の実践的な章]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/次の100の自然心理学的章 – 精神の浄化について|次の100の自然心理学的章 – 精神の浄化について]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/最後の100の思索的な章 – 愛と人生の完成について|最後の100の思索的な章 – 愛と人生の完成について ]] :::シナイのグレゴリオス :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/戒めと教義・警告と約束についての137章|戒めと教義・警告と約束についての137章]](シナイのグレゴリオス) :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/沈黙行者たちへの指示|沈黙行者たちへの指示]](シナイのグレゴリオス) :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/静寂と祈りについての15章|静寂と祈りについての15章]](シナイのグレゴリオス) :::修道士ニケフォロス :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/覚醒と心を守ることについて|覚醒と心を守ることについて]](修道士ニケフォロス) :::グレゴリオス・パラマス :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/名誉ある修道女クセニアに|名誉ある修道女クセニアに]](グレゴリオス・パラマス) :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/キリスト教法に基づく十戒|キリスト教法に基づく十戒]](グレゴリオス・パラマス) :::ダマスコのペトロ :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ダマスコのペトロ序文|ダマスコのペトロ序文]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ダマスコのペトロの第1巻|ダマスコのペトロの第1巻]] :*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ダマスコのペトロの第2巻|ダマスコのペトロの第2巻]] &#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212; ===14. 神学的著作=== *[[主の祈り、洗礼、聖体に関する注釈]](モプスエスティアのテオドロス) (完) * [[口語訳旧約聖書 目次]]{{ext scan link|1=http://jco.ibibles.net/index.htm#%C2%A0%3E%C2%A0}} * [[口語訳新約聖書 目次]]{{ext scan link|1=http://jco.ibibles.net/index.htm#%C2%A0%3E%C2%A0}} * [[KJV 旧約聖書続編 目録]] (King James Bible, 1769) * [[フィラレートのカテキズム]](モスクワの聖フィラレート、1913)(完) ** [[フィラレートのカテキズム 2]] * [[英国国教会の39箇条についての教理問答]](ジェームズ・ビーヴン、1853)(未完) * [[短い信条]](ガザーリー、1903英訳ダンカン・B・マクドナルド)(完) * [[アル・ガザーリーの宗教的・道徳的教え]](ガザーリー、1921英訳サイード・ナワーブ・アリ)(導入のみ) * [[鳩の書]](''Book of the Dove'' [[w:ja:バル・ヘブラエウス|バル・ヘブラエウス]]、1919英訳 A.J. ヴェンシンク)(入力中) * [[蜂の書]](''The Book of the Bee'' アフラトのソロモン、英訳 [[w:ja:ウォーリス・バッジ|ウォーリス・バッジ]])(入力中) * [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作]](ジョン・パーカー、1897)(目録) ** [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作/神名論|神名論]](完) ** [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作/神秘神学|神秘神学]](完) * [[修道院の制度について]] "De coenobiorum institutis"(ヨハネス・カッシアヌス) * [[コラティオネス]](ヨハネス・カッシアヌス)(未完) * [[信仰について (アンブロシウス)]](完) * [[マルコ福音書注解 (アンセルムス・ラウドゥン)]](グロッサ・オルディナリア)(未完) * [[聖バルラームと聖ヨサファトの生涯]](ダマスコのヨハネ)(未完) * [[神の言葉の誕生について]](ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス)(完) * [[ホモウシオスの受容について]](ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス)(完) * [[砂漠を讃えて]](リヨンのエウケリウス)(完) * [[聖書霊的解釈の定式]](リヨンのエウケリウス)(未完) * [[神の統治について]](マルセイユのサルヴィアヌス)(完) * [[論考 (ヴェローナのゼノ)]](完) * [[言葉の受肉について]] [[s:la:De incarnatione Verbi|De incarnatione Verbi]](オリゲネス)(完) * [[観想生活について]] [[s:la:De vita contemplativa|De vita contemplativa]](ユリアヌス・ポメリウス) * [[歴史 (オロシウス)]] [[s:la:Historiae (Orosius)|Historiae (Orosius)]](オロシウス) * [[詩篇の解説 (カッシオドルス)]] [[s:la:Expositio in Psalterium (Cassiodorus)|Expositio in Psalterium (Cassiodorus)]](カッシオドルス) * [[説教 (アマセアのアステリウス)]] **[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教1|説教1]] 金持ちとラザロ **[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教2|説教2]] 不正な管理人 **[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教3|説教3]] 貪欲に対する戒め **[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教4|説教4]] カレンダ祭について **[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教5|説教5]] 離婚について *[[実証2 (アフラハト)]] デモンストレーション/愛について(完) *[[実証7 (アフラハト)]] デモンストレーション/悔悛について *[[はしご (ヨハネ・クリマコス)]] (楽園への梯子)(未完) :::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]] &#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212; * [[イェルサリム大主教聖キリール教訓]](エルサレムのキュリロス) * [[聖金口イオアン教訓下]](ヨハネ・クリュソストモス) * [[シリヤの聖エフレム教訓]] * [[正教要理問答]] * [[通俗正教教話]](府主教フィラレート) * [[聖詠講話上編]](ヨハネ・クリュソストモス) * [[聖詠講話中編]] * [[新約聖書譬喩略解]] * [[祈祷惺々集]] {{註|祈りと清醒の教訓集。隠修者フェオファン編集。}} *#[[祈祷惺々集/我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓(1)]] *#[[祈祷惺々集/イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(1)]] *#[[祈祷惺々集/克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教(1)]] *#[[祈祷惺々集/シリヤの聖イサアクの教訓(1)]] *#[[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(1)]] :(ヨハネ・クリマクス、シナイのヘシュキオス、シナイのフィロテオス、シリアのイサアク、ガザのバルサヌフィオス) * [[埃及マカリイ全書]](著者は擬マカリオス) * [[ニケア信経]](ニケア・コンスタンチノープル信経) * [[使徒信経(天主公教会1911年)]] * [[使徒信経(日本聖公会1941年)]] * [[アタナシオ信経]] * [[信経問答]] * [[十誡問答]] * [[吉利支丹文学抄/吉利支丹文学概説及び原本の解題]] * [[さんぺいとろの御作業 (新漢字)]] * [[さんふらんしすこの御作業 (新漢字)]] * [[さんゑうすたきよの御作業]] * [[こんてむつすむんぢ抄 (新漢字)]](『キリストに倣いて』) * [[でうすの御性体と御善徳の事 (新漢字)]](『ぎや・ど・ぺかどる』) * [[御扶けの御恩の事 (新漢字)]]( 同 ){{註|ぎやどぺかどるは興味深い。}} * [[善人達のよきこんしゑんしやの悦びの事 (新漢字)]]( 同 ) * [[世界と悪の執着に引るゝ人の迷ひを導く事 (新漢字)]]( 同 ) * [[瞋恚に対する了簡の事 (新漢字)]]( 同 ) * [[ほるたれざといふ強き心の事 (新漢字)]]( 同 ) * [[けれいど並びにひいですのあるちごの事 (新漢字)]](『どちりな・きりしたん』) * [[でうすの御掟十のまだめんとすの事 (新漢字)]]( 同 ) * [[詩四篇・三十一篇・九十一篇(日本聖公会訳)]](+詩百三十四) * [[詩九十二篇・九十五篇・九十八篇・百篇(日本聖公会訳)]] * [[詩七十一篇・百十六篇(日本聖公会訳)]](+詩百二十七、詩百三十) * [[詩二十三篇・三十九篇・九十篇(日本聖公会訳)]] * [[詩五十一篇]](詩篇第五十一、第五十聖詠) * [[人類の忘恩に対する償の祈祷]] :::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]] ===15. 典礼・奉神礼=== * [[ミサ通常文・キリエ・グロリア]](カトリック) ::(+クレド・サンクトゥス・ベネディクトゥス・アニュスデイ) * [[神聖なる聖体礼儀の歌章の次第]](正教会) * [[大齋の晩課及び先備聖体礼儀の「主よ爾に籲ぶ」]](正教会) * [[八調の品第詞(ステペンナ)]](正教会){{註|聖詠119~133を題材にした祈祷文}} * [[大斎第一週間奉事式略]](おおものいみだいいっしゅうかんほうじしき) **[[大斎第一週間奉事式略 2]](火曜日) **[[大斎第一週間奉事式略 3]](水曜日) **[[大斎第一週間奉事式略 4]](木曜日)(未完) * [[聖パスハの奉事]](未完) * [[信経]](正教会) * [[聖詠経]] ([[w:日本ハリストス正教会|日本正教会]]翻訳) * [[マトフェイ伝06]] * [[マトフェイ伝07]] &#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212; ===16. 仏教=== * [[正信念仏偈 (意訳聖典)]] * [[歎異抄 (意訳聖典)]] ** [[歎異抄 (意訳聖典 新漢字)]] * [[蓮如上人御文章 (意訳聖典)]] * [[七箇條の起請文 (浄土宗全書)]](別名:念仏行者訓條) * [[横川法語]]{{註|恵心僧都、源信}} * [[十二問答]] * [[十二箇條問答]]{{註|法然上人の人柄が優しい。}} * [[黒田の聖人へつかはす御文]](別名:一紙小消息) * [[或女房に示されける法語]] * [[常に仰られける御詞 (法然上人全集)]] * [[平重衡に示す御詞 (法然上人全集)]] * [[甘糟太郎忠綱に示す御詞 (法然上人全集)]] * [[元强盜の張本なりし教阿に示す御詞 (法然上人全集)]] * [[御臨終の時門弟等に示されける御詞 (法然上人全集)]] * [[消息法語 (一遍上人語録)]] * [[門人伝説 (一遍上人語録)]]{{註|興味深い。}} * [[仏説阿弥陀経 (昭和新纂経典部)]] ===17. イスラム教=== * [[短い信条]](ガザーリー、1903英訳ダンカン・B・マクドナルド)(完) * [[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え]](ガザーリー、1921英訳サイード・ナワーブ・アリ)(未完) **[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第1章|1. 人間の本質]] **[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第2章|2. 人間の自由と責任]] **[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第3章|3. プライドと虚栄心]] **[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第4章|4. 友情と誠実さ]] **[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第5章|5. 愛の本質と人間の最高の幸福]] **[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第6章|6. 神の唯一性]] **[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第7章|7. 神の愛とそのしるし]] **[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第8章|8. リザ、すなわち神の意志への喜びに満ちた服従]] ===18. ユダヤ教=== * [[ユダヤ古代誌]] [[s:en:The Antiquities of the Jews|The Antiquities of the Jews]](フラウィウス・ヨセフ)(未完) ===19. ギリシャ・ローマ哲学=== * [[トゥスクルム荘対談集]](キケロ)(完) * [[新プラトン主義哲学者断片集/サッカス (ブイエ訳)]](アンモニオス・サッカス) ==加筆項目== {{resize|120%|この利用者が加筆したもの}} * [[聖詠経]](ふりがなを付加) ** [[第一「カフィズマ」]] ** [[第二「カフィズマ」]] ** [[第三「カフィズマ」]] ** [[第四「カフィズマ」]] ** [[第五「カフィズマ」]] ** [[第六「カフィズマ」]] ** [[第十七「カフィズマ」]] ** [[第十八「カフィズマ」]] ** [[第十九「カフィズマ」]] ** [[第二十「カフィズマ」他]] * [[コンチリサンの略]]{{註|Contrição/Contrition:悔い改め、懺悔という意味}} * [[白骨の御文]] * [[主の祈り]] ==リダイレクト== * [[ディダケー (Riddle translation)]] → [[ニカイア以前の教父たち/第7巻/十二使徒の教訓/十二使徒の教訓]] {{resize|120%|サブページ}} * [[利用者:村田ラジオ/sandbox]] ウェブスター改訂聖書 * [[利用者:村田ラジオ/sandbox2]] マカリオス 大書簡 * [[利用者:村田ラジオ/sandbox3]] ばるらあんと聖じょさはつの御作業 <strike>信仰について 第5巻、ルカ福音書の解説 第8巻</strike> * [[利用者:村田ラジオ/sandbox4]] 第6論文 <strike>第5論文</strike> <strike>第4論文</strike> <strike>第3論文</strike> <strike>トゥスクルム荘対談集</strike> <strike>聖バルラームと聖ヨサファトの生涯</strike> * [[利用者:村田ラジオ/common.js]] :::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]] ----- ===19. 忘備録=== {| |valign=top| * [[ヘルプ:編集の仕方]] * [[ヘルプ:資料を追加する]] * [[ヘルプ:パブリックドメイン]] * [[ヘルプ:著作権タグ]] * [[ヘルプ:信頼性の基本ガイド]] * [[ヘルプ:註釈の追加]] * [[ヘルプ:詩を編集する]] * [[Wikisource:削除依頼]] * [[Wikisource:削除の方針]] * [[Wikisource:ツール・スクリプト]] * [[Wikisource:記事名の付け方]] * 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{{DEFAULTSORT:むらたらしお}} exsxzl97agjeeq0ozkhcp6d1vesops9 利用者:村田ラジオ/sandbox2 2 33718 243137 243099 2026-06-12T14:36:31Z 村田ラジオ 14210 校正 243137 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|wikisource:宗教|埃及マカリイ全書|hide=1}} {{header |title=埃及マカリイ全書 |section=エジプトマカリオスの大書簡 (現代語訳) |previous=[[埃及マカリイ全書/第五十講話|第五十講話]] |next= |year= |author= |override_author = |override_translator = 堀江 {{r|復|ふく}} ( -1914) |notes= <!--{{Textquality|25%}}--> *ウィキソースによる現代語訳 }} ==エジプトマカリオスの大書簡== {{Quotation|完全にして聖にせられたる人の為に{{r|要用|ようよう}}なるはたゞ{{r|自|みづ}}から{{r|神|かみ}}に{{r|居|を}}らんことのみならず、神も彼に{{r|居|を}}らんことなるは、{{r|汝|なんぢ}}が善智の{{r|明|あきらか}}に知る所なるべし、主のいひ給ふごとし、{{r|曰|いは}}く『我に{{r|居|を}}り、我も彼に{{r|居|を}}る』〔<u>イオアン</u>十五の五〕。されば神の人は神聖なる{{r|幕屋|まくや}}に居り、此の幕屋を至浄なる神性の聖なる山に建てざるべからず、これ暗黒なる{{r|情慾|じょうよく}}の{{r|力|ちから}}の占領するをゆるさゞる者の光栄を{{r|暁|さと}}るのみならず、{{r|其|その}}{{r|擁|よう}}する所とならんためなり。けだし適当なる者には{{r|其|その}}{{r|成聖|せいせい}}とその彼等に属する{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}との為に救世主は住み給ふ、これ主の{{r|自|みづ}}から{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}なる如く主をうけたる{{r|者|もの}}{{r|等|ら}}をも無慾なる者となして如何なる風にも{{r|最早|もはや}}{{r|動乱|どうらん}}{{r|漂漾|ひょうよう}}せられざる者となさん為なり。 しかれども{{r|或者|あるもの}}は{{r|自|みづ}}から<u>ハリストス</u>の{{r|機|き}}{{r|密|みつ}}に遠ざかるのみならず、『{{r|濁|にご}}れる{{r|敗壊|はいかい}}を以て{{r|其|その}}{{r|親友|しんゆう}}を{{r|誘|いざな}}ひ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-hab/2:8-17 <u>アバクム</u>二の十五]〕『神を{{r|識|し}}るべきものゝ彼等に{{r|明|あきらか}}にあらはるる』にも{{r|拘|かか}}はらず、神の真理を不義の{{r|中|うち}}に隠さんとす。けだし『{{r|其|その}}{{r|思念|おもひ}}は{{r|虚|むな}}しくなり』{{r|其|その}}{{r|無智|むち}}の心は{{r|昧|くら}}みしにより〔{{二重線|ロマ}}一の十八至二十一〕。彼等は説を{{r|為|な}}していへり、{{r|恥|は}}づべき{{r|情慾|じょうよく}}は天性自然にして神より我等に付与せられたるものなりと、{{r|是|こ}}れ{{r|即|すなはち}}{{r|敗壊|はいかい}}の{{r|楽|たのし}}み、不正なる{{r|忿怒|いきどほり}}、神の為に発するに{{r|非|あら}}ざる不適当なる{{r|怒|いかり}}、及び{{r|凡|およ}}そ{{r|此|これ}}に類するものをいふなり。|[p.425]}} 《現代語訳》 [p.425] 完全で聖なる人となるためには、彼自身が神の内にいるだけでなく、神が彼の内にいることも必要であることを知りなさい。主はこう言われる。「彼が私の内にいれば、私も彼の内にいる」(ヨハネ15章5節)。神の人間は、神の幕屋に住み、この幕屋を最も純粋な神性の聖なる山に建てなければなりません。それは、情欲の暗い力が彼を支配することを許さない方の栄光を受け入れるだけでなく、その栄光に抱かれるためです。救い主は、ふさわしい人々の中に、聖性と生来の無執着のために住まわれるからです。それは、救い主がご自身が無執着であるように、彼を受け入れた人々をも無執着にし、もはや嵐に巻き込まれず、どんな風にも吹き飛ばされない者とするためです。 また、ある人々はキリストの奥義から遠く離れているだけでなく、「わざわいなるかな、その隣り人に怒りの杯を飲ませて、これを酔わせ、 彼らの隠し所を見ようとする者よ。」(ハバクク書 2章15節)、神の真理を偽りの中に含み、「彼らの中には、神の知恵が明らかに示されている」と言われています。なぜなら、「思いがむなしく」なり、愚かな心によって暗くなった(ローマ 1章18–21節)ため、彼らは、腐敗の快楽、不当な短気、神によらない下品な怒りなど、恥ずべき情欲は神によって私たちに生まれつき備わっているものだと言うからです。 {{Quotation|ゆゑに彼等と{{r|其|そ}}の{{r|言|い}}ふ所とは真理に{{r|違|たが}}ふものとしてこれを{{r|棄|す}}て、我等を造りし者を以て我等にあたへられたる自由自主の主権を{{r|承認|うけみと}}めん、善きことに進むも{{r|悪|あし}}きことを{{r|止|や}}むるも我等に{{r|係|かか}}らんためなり。けだし真実なる審判者は、もし{{r|自|みづ}}から情慾の造物主ならば、これに占領せらるゝ我等を{{r|罰|ばつ}}せざるべし。祈る{{r|此|この}}{{r|教|をしへ}}に離れ遠ざかりて、これを{{r|思|おもひ}}にも{{r|生|しょう}}ぜしめざらんことを。けだし{{r|此|こ}}の{{r|蒙昧|もうまい}}にして{{r|愚|おろか}}なる意見は、{{r|凡|およそ}}の敬虔なる{{r|裁|さい}}{{r|智|ち}}の為に{{r|忌|い}}み{{r|嫌|きら}}ふべきものとす。神は清くして{{r|最|いと}}{{r|美|うつく}}しき天地万物の造成者なることは、世界創造の際に{{r|聖神|せいしん}}の{{r|告|つ}}げ{{r|給|たま}}ひし如し、けだしいへり、『神は{{r|其|その}}造りたる{{r|諸|もろもろ}}の物を見たまへるに{{r|甚|はなは}}だ{{r|善|よ}}かりき』〔創世記一の三十一〕。されば<u>イエレミヤ</u>は{{r|恥|は}}づべき情慾のために{{r|哀|かなし}}み、かつ{{r|惑|まど}}ふていへり、『主の命じ給ふにあらずば、誰か事を述べんに、その事すなはち成らんや、{{r|禍|わざわい}}も{{r|福|さいわい}}も{{r|至|し}}{{r|高者|こうしゃ}}の口より{{r|出|い}}づるにあらずや』〔<u>イエレミヤ</u>哀歌三の三十六‐三十八〕。故に{{r|福音|ふくいん}}{{r|経|きょう}}に聡明なる天軍は主に{{r|問|と}}ふていへり、『主よ{{r|爾|なんぢ}}は{{r|美|よき}}{{r|種|たね}}を{{r|爾|なんぢ}}の{{r|田|た}}に{{r|撒|ま}}きたるに{{r|非|あら}}ずや、{{r|然|しか}}らば何に由りて{{傍点|style=open circle|此の}}{{r|稗|ひえ}}あるか』〔<u>マトフェイ</u>十三の二十七〕。[p.427]また他の所に救世主は{{r|自|みづ}}から彼等の事をいへり、『{{r|凡|およ}}そ我が天の父の{{r|植|うゑ}}ざりし植物は{{r|其|その}}{{r|根|ね}}{{r|絶|たや}}されん』と〔<u>マトフェイ</u>十五の十三〕。しかれどもすべて神の{{r|植|う}}ゑしものゝ{{r|美|び}}なることは、<u>ハリストス</u>これをいひ、<u>パウェル</u>もこれを{{r|証|しょう}}せり、曰く『{{r|蓋|けだし}}神の{{r|悉|ことごと}}くの造物は善なり』〔<u>テモフェイ</u>前四の四〕。故に知るべし我等の{{r|中|うち}}にかくるゝ情慾は本来我等に属するに非ずして、他に属するものなるを。けだし{{r|言|い}}ふあり、『我が{{r|隠|ひそか}}なる{{r|咎|とが}}より我を{{r|浄|きよ}}め{{r|給|たま}}へ、{{r|故|こ}}{{r|犯|はん}}より{{r|爾|なんぢ}}の{{r|僕|ぼく}}を{{r|止|とゞ}}めよ』〔[[第三「カフィズマ」#18:13|聖詠十八の十三、十四]]〕、またいふあり、『外人は{{r|起|た}}ちて我を{{r|攻|せ}}め、強き者は我が{{r|霊|たましい}}を{{r|覓|もと}}む』〔[[第七「カフィズマ」#53:5|同上五十三の五]]〕。またいふあり、『主よ我と{{r|争|あらそ}}ふ者と{{r|争|あらそ}}ひ、我と{{r|戦|たゝか}}ふ者と{{r|戦|たゝか}}ひ給へ』〔[[第五「カフィズマ」#34:1|同上三十四の一]]〕。それ此の{{傍点|style=open circle|{{r|隠|ひそか}}なるもの}}{{r|或|あるい}}は此の{{傍点|style=open circle|争ふ者}}{{r|或|あるい}}は{{傍点|style=open circle|戦ふ者}}{{r|或|あるい}}は此の{{傍点|style=open circle|故犯}}とはこれ<u>ハリストス</u>の徳行に{{r|逆|さから}}ふ凶悪なる{{r|諸神|しょしん}}を示すにあらずして何ぞや。|[p.426]}} [p.426] したがって、彼らや彼らの言葉を真理から逸脱したものとして捨て去り、私たちを創造した方が私たちに与えてくださった自由の専制を認め、最善を目指し、最悪を避けるのは私たち次第であることを認めましょう。真の審判者ご自身が創造主であるならば、情欲にとりつかれた私たちを罰するはずがありません。お願いですから、この教えは捨て去り、頭に浮かばないようにしてください。この不合理で愚かな考えは、すべての敬虔な理解力にとって不快です。神は、創造の時に聖霊が告げたように、純粋で最も美しい自然の創造主です。「見よ、すべてが非常に良い」(創世記 1章31節)と神は言っています。エレミヤは、恥ずべき情欲について嘆き、困惑しながらこう言います。「主は『あなたのものは誰か』と言われたのではない。主が語られたから、そうなったのだ。主は『いと高き者の口からは悪は出ず、善は出る』と命じられたのではない。(哀歌エレミヤ3章36-38節)」。それゆえ、福音書の中で、知性ある者たちは主にこう問いかけます。「主よ、あなたは畑に良い種を蒔かれたではありませんか。では、これらの「毒麦」はどこから来るのでしょうか(マタイ13章27節)。別の箇所では、救い主ご自身がそれらについてこう言っています。「天の父が植えなかった庭は、みな根こそぎにされるであろう」(マタイ15章13節)。そして、神の植えたものはすべて美しいと、パウロはキリストが「神の造られたものはすべて良いものである」(テモテ第一4章4節)と言っているように、パウロもそのことを証言しています。ですから、私たちの中に秘められた情熱は私たち自身のものではなく、私たちとは無関係のものであることを知ってください。「わたしの隠れた罪を清め、あなたのしもべを異邦人の罪からお守りください」(詩篇19篇13-14節)、「異邦人がわたしに立ち向かい、力ある者たちがわたしの命を狙っています」(詩篇54篇5節)、「主よ、わたしを害する者を裁き、わたしと戦う者と戦ってください」(詩篇35篇1節)と書いてあるからです。では、この「隠れた」とは、あるいは「罪を犯す者」や「戦う者」、あるいは「異邦人」とは、キリストの徳に敵対する悪霊ではないとしたら、何を意味するのでしょうか。 {{Quotation|律法も内部の人の{{r|潔浄|けつじょう}}のことを公然と呼ぶを精密に吟味せよ。いふあり、『汝の主、神の名を{{r|妄|みだり}}に口にあぐべからず、けだし主は己の名を{{r|妄|みだ}}りに口にあぐる者の心を清めざるべし』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-deu/5:1-11 {{r|復傳|ふくでん}}{{r|律令|りつれい}}五の十一]〕。ゆゑに使徒も勧めて{{r|明|あきら}}かにいへり、『{{r|己|おのれ}}を{{r|凡|およそ}}の{{r|肉|にく}}と{{r|神|しん}}との{{r|汚|けがれ}}より{{r|潔|きよ}}くせよ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-2cor/7:1-5 {{二重線|コリンフ}}後七の一]〕。また他の処にもいふ『心は{{r|灑|そゝ}}がれて悪しき意念を去れ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-heb/10:16-22 {{二重線|エウレイ}}十の二十二]〕、又いふ『汝等の{{r|神|しん}}と{{r|霊|れい}}と{{r|体|たい}}とは{{r|全|まつと}}うし{{r|護|まも}}られて{{r|疵|きず}}なからん』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-1th/5:16-23 {{二重線|ソルン}}前五の二十三]〕、[p.428]又いふ『{{r|疵|きず}}なき神の子とならん為なり』〔{{二重線|フィリッピ}}二の十五〕。ゆゑに{{r|凡|すべ}}て子たる{{r|位地|いち}}を{{r|賜|たま}}はらんことを願ふ者は{{r|疵|きず}}なき{{r|体|からだ}}を有するのみならず、{{r|疵|きず}}なき{{r|霊|たましい}}をも有すること、{{r|左|さ}}の如くならざるべからず『{{r|願|ねがは}}くは我が心{{r|爾|なんぢ}}の{{r|律|おきて}}に{{r|玷|きず}}なからん、我が{{r|羞|はぢ}}を{{r|得|え}}ざらん為なり』〔[[第十七「カフィズマ」#118:80|聖詠百十八の八十]]〕。けだし律法の{{r|下|もと}}に居る者は、たゞ肉体の{{r|稱|しょう}}{{r|義|ぎ}}を遂げて、外部の{{r|潔浄|けつじょう}}を守れども、{{r|恩寵|おんちょう}}の{{r|下|もと}}に{{r|居|を}}る者は、{{r|成聖|せいせい}}により内部の平安を願ふて、{{r|左|さ}}の如くいひし者にしたがふなり、曰く、『もし汝等の義は学士お呼び<u>ファリセイ</u>等の義に{{r|勝|まさ}}らずば{{r|爾|なんぢ}}{{r|等|ら}}天国に入るを得ず』〔<u>マトフェイ</u>五の二十〕、何となれば<u>ファリセイ</u>等は智を{{r|盲|くら}}まして、{{傍点|style=open circle|杯と皿の外}}を{{r|潔|きよ}}むればなり〔<u>マトフェイ</u>二十三の二十五〕。今も彼等に似たる新<u>ファリセイ</u>は、未熟なる才智を以て外部の人を粉飾し、{{r|自|みづ}}から己を義とせんとす、しかれども{{r|聖神|せいしん}}は彼等の{{r|神|しん}}と共に彼等が神の子たるを{{r|証|しょう}}すること、使徒と共に{{r|証|しょう}}する如くせざるべし、言ふあり、『此の{{r|神|しん}}{{r|自|みづ}}から我等の{{r|神|しん}}と共に我等が神の子たるを{{r|証|しょう}}す』〔{{二重線|ロマ}}八の十六〕。彼等は内部の人の{{r|聖徳|せいとく}}に成長するを自己にあらはさんことを{{r|欲|ほつ}}せずして、たゞ肉体上の功労に信任し、『{{r|王|おう}}の{{r|女|ぢょ}}の光栄は皆内部にある』〔[[第六「カフィズマ」#44:14|聖詠四十四の十四]]〕を知らざるなり。我等各人は{{r|恰|あたか}}も心中の{{r|無花果|いちじく}}の如し、主の{{r|尋|たづ}}ぬるは内部の{{r|果|か}}にありて、{{r|枝|し}}{{r|葉|よう}}の{{r|飾|かざり}}にあるにあらざるなり〔<u>マトフェイ</u>二十一の十九〕。|[p.427-p.428]}} [p.427-p.428] 律法もまた、内なる人の清さをはっきりと求めていることを、より深く考えてみましょう。「主なるあなたの神の名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える心をきよめられないからである」(申命記 5:11)とあります。それゆえ、使徒パウロもまた、はっきりとこう勧めています。「肉の汚れだけでなく、霊の汚れからも、あらゆる汚れから自分をきよめましょう」(コリント人への手紙二 7章1節 )。また別の箇所では、「心に汚れた良心を清め」(ヘブライ人への手紙 10章22節 )と言い、さらに「体と霊と魂を、完全に清く保ちなさい」(テサロニケ人への手紙一 5章23節)と言い、「あなたがたが、責められるところのない神の子となるためです」(ピリピ人への手紙 2章15節)とも言っています。したがって、養子縁組にふさわしくありたいと願う者は皆、非の打ちどころのない体だけでなく、非の打ちどころのない魂を持たなければなりません。それは、「あなたの戒めの中で、私の心が清くあって、私が恥じることのないようにしてください」(詩篇 119篇80節)と言われた方のようなものです。律法の下に生き、肉の義認だけを満たす人は外面的な清さを保ちますが、恵みの下に生きる人は、聖さにおける内面的な平和も望み、「あなたがたの義がパリサイ人や律法学者よりもまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入れません」(マタイ 5章20節)と言われた方に従います。パリサイ人は心が盲目であるため、「鏡の外側」をきよめるからです(マタイ 23章25節)。現代の新しいパリサイ人たちも、彼らと同様、未熟な心で外面を飾り、自らを正当化しますが、聖霊は、彼らが神の子であるという彼らの霊に従おうとはしません。使徒パウロはこう言っています。「御霊みずからわたしたちの霊に従われます。わたしたちは神の子なのですから」(ローマ8章16節)彼らは、内なる人の聖さが成長していることを自ら示そうとせず、肉の功績だけに頼っています。「王の娘の栄光はすべて内にある」(詩篇45篇14節)ことを彼らは知りません。私たち一人ひとりは、いわば心のいちじくの木のようで、主はその葉の飾りではなく、内なる実を求めておられるのです(マタイ21章19節)。 [p.429] {{Quotation|故に{{r|恥|は}}づべき情慾を弁護して、天然自然なるものとし、{{r|偶然|ぐうぜん}}に人に{{r|入|い}}りしにあらずといふ者は、『{{r|神|かみ}}の真実を己の{{r|偽|いつわり}}に{{r|易|か}}ふるなり』〔{{二重線|ロマ}}一の二十五〕何となれば我が{{r|先|さき}}にいひし如く{{r|無|む}}{{r|玷|てん}}{{r|純潔|じゅんけつ}}なる者は{{r|其|その}}{{r|像|ぞう}}を{{r|己|おのれ}}に{{r|肖|に}}たるものとなしたりしが、『{{r|悪|あく}}{{r|鬼|き}}の{{r|猜|そね}}みにより死は世に{{r|入|い}}りたればなり』〔知恵書二の二十四〕。ゆゑに人間は不法によりて{{r|孕|はら}}まれ、罪に{{r|於|おい}}て{{r|生|うま}}れて、〔[[第七「カフィズマ」#50:7|聖詠五十の七]]〕{{r|母|ぼ}}{{r|腹|ふく}}より離れ遠ざかる者となり、{{r|母|ぼ}}{{r|胎|たい}}より{{r|迷|まよい}}に{{r|居|を}}りて、<u>アダム</u>より以後<u>ハリストス</u>の{{r|来|きた}}るに至るまで罪が王となりしにより神の{{r|羔|こひつじ}}は{{r|憐|あわれみ}}を{{r|垂|た}}れて{{r|来|きた}}り給へり、これ{{r|先|ま}}づ強き者を{{r|縛|ばく}}し、{{r|其後|そののち}}{{r|鹵|ろ}}{{r|獲|かく}}せられたる器物を{{r|奪|うば}}ひ{{r|回|かへ}}して、己の力を以て世の罪を取らん為なり、言ふあり『{{傍点|style=open circle|擄者を{{r|擄|とりこ}}にす}}』と、又いふ『{{r|献物|さゝげもの}}をうく』と〔[[第九「カフィズマ」#67:19|聖詠六十七の十九]]〕。 我等は{{r|俘|ふ}}{{r|虜|りょ}}たるをまぬかれ、『土に属する者の{{r|状|かたち}}を{{r|衣|き}}たる如く、天に属する者の{{r|状|かたち}}』〔{{二重線|コリンフ}}前十五の四十九〕を{{r|衣|き}}『我等の{{r|肢|し}}{{r|体|たい}}を義の{{r|僕|ぼく}}となして、{{r|成聖|せいせい}}に{{r|委|ゆだ}}ぬること罪に{{r|委|ゆだ}}ねし如くせんことを』{{r|慮|おもんぱか}}らざるべからず〔{{二重線|ロマ}}六の十九〕。我等は信ず、われら{{r|躓|つまづ}}かずして光の{{r|中|うち}}を行く者は、神の奇跡を認めんを要するを。録して言ふ所の如し、曰く『我が目を{{r|啓|ひら}}き{{r|給|たま}}へ、{{r|然|しか}}せば{{r|我|われ}}{{r|爾|なんぢ}}が{{r|律法|りっぽう}}の{{r|奇|き}}{{r|跡|せき}}を{{r|観|み}}ん』〔[[第十七「カフィズマ」#118:19|聖詠百十八の十九]]〕。|[p.429]}} [p.430] {{Quotation|けだし光の{{r|中|うち}}を行く者は五感に{{r|躓|つまづ}}きを{{r|来|きた}}さゞる如く、完全なる{{r|成聖|せいせい}}に{{r|居|を}}る者も心に{{r|奸計|かんけい}}を思はず、{{r|悪|あ}}しく{{r|慮|おもんぱか}}らざるなり。けだし『{{r|光|ひかり}}は{{r|暗|やみ}}と何の{{r|交|まじわ}}ることのあらん、神の{{r|殿|でん}}は偶像と何の同じきことのあらん』〔{{二重線|コリンフ}}後六の十五、十六〕、故に己を神の{{r|殿|でん}}と{{r|認|みと}}むべく、{{r|思|おもい}}の偶像を心中に{{r|画|えが}}かざらんことを{{r|力|つと}}めよ。けだし{{r|霊魂|たましい}}の{{r|中|うち}}に動作する{{r|凡|すべ}}ての{{r|情慾|じょうよく}}は偶像なり、故に『勝たるゝ者は勝つ者の奴隷たり』とは{{r|最|いと}}{{r|善|よ}}く言へるなり〔<u>ペトル</u>後二の十九〕。もし我等は肉体の慾に{{r|勤|つと}}むるならば、{{r|聖|せい}}にして無慾なる{{r|神|しん}}につとめざらんこと{{r|明|あきらか}}なり、何となれば人は『{{r|二人|ふたり}}の主に{{r|事|つか}}ふるあたはず、{{r|神|かみ}}と{{r|財|たから}}とに{{r|兼|かね}}{{r|事|つか}}ふること{{r|能|あた}}はざればなり』〔<u>マトフェイ</u>六の二十四〕。{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}は聖にして『{{r|汚|けがれ}}{{r|或|あるい}}は{{r|此|かく}}の如きもの』を有せず〔{{二重線|エフェス}}五の二十七〕、『けだし{{r|聖神|せいしん}}は{{r|諂|てん}}{{r|媚|び}}を避け、{{r|無智|むち}}{{r|者|しゃ}}の{{r|思念|おもい}}より遠ざかり、{{r|教|おしえ}}は{{r|奸猾|かんかつ}}なる{{r|霊魂|たましい}}に{{r|入|い}}らざるなり』〔知恵書一の四、五〕。 ゆゑに我等が律法はすべて{{r|神|かみ}}の{{r|指|ゆび}}を{{r|以|もつ}}て心にしるさるゝものにて、{{傍点|style=open circle|{{r|墨|すみ}}を以てするにあらず}}、{{r|神|かみ}}の{{r|神|しん}}を{{r|以|もつ}}てする〔{{二重線|コリンフ}}後三の三〕ものなるを確信して、『我は真実なり』〔<u>イオアン</u>十四の七〕との{{r|給|たま}}ひし立法者の真実をうけん、彼は心の割礼を{{r|行|おこな}}ひ、適当なる者の{{r|裁|さい}}{{r|智|ち}}に{{r|其|その}}{{r|仁|じん}}{{r|慈|じ}}の{{r|法|ほう}}をしるすこと、預言者のいへる如し、曰く『われ我が{{r|律法|りっぽう}}を彼等の心に置き、彼等の{{r|思|おもい}}にしるさん』〔<u>イエレミヤ</u>三十一の三十三〕。{{傍点|style=open circle|{{r|凡|およ}}そ選ばれたる族}}と、{{傍点|style=open circle|王たる祭司班}}と、{{傍点|style=open circle|聖なる人民}}と、選ばれたる{{傍点|style=open circle|人}}〔<u>ペトル</u>前二の九〕の{{r|中|うち}}に{{r|入|い}}らんことを苦心する者は、{{r|生活|せいかつ}}を{{r|施|ほどこ}}す{{r|神|しん}}の{{r|効力|こうりょく}}を{{r|便|べん}}{{r|利|り}}に{{r|己|おの}}れにうけん。|[p.430]}} [p.431] {{Quotation|故に<u>ハリストス</u>に{{r|於|おけ}}る生活の<u>ハリストス</u>と同形なる公正に{{r|進|すゝ}}むを、{{r|縦|たと}}ひ久しからずと{{r|雖|いへど}}も、我等にも{{r|賜|たま}}はらんことを{{r|願|ねが}}ひ{{r|且|かつ}}祈るべし。けだし{{r|如此|かくのごとき}}の{{r|霊魂|たましい}}は{{傍点|style=open circle|面の恥}}〔[[第六「カフィズマ」#43:16|聖詠四十三の十六]]〕を脱し、{{r|最早|もはや}}汚れたる{{r|思|おもい}}に占領せられず、{{r|悪者|あくしゃ}}と{{r|姦通|かんつう}}せずして、{{r|疑|うたがい}}なく天の{{r|新郎|しんろう}}と{{r|親|しん}}{{r|与|よ}}をなさん、何となれば{{r|自|みづ}}から彼と{{r|同形|どうけい}}なればなり。彼に対するの愛を以て刺激せられたる{{r|霊魂|たましい}}は望みて{{r|絶|たえ}}{{r|入|い}}らん〔[[第十一「カフィズマ」#83:1|聖詠八十三の一]]〕。{{r|我|われ}}{{r|敢|あえ}}ていふ、{{r|成聖|せいせい}}を{{r|享|うく}}ることの{{r|不|ふ}}{{r|朽|きゅう}}なる{{r|契約|けいやく}}により、彼とかくの如く{{r|美|び}}なる{{r|心中|しんちゅう}}{{r|秘|ひ}}{{r|密|みつ}}の{{r|体合|たいごう}}を{{r|為|な}}すを望まん。{{r|如此|かくのごとき}}の{{r|霊魂|たましい}}は実に幸福なり、彼は{{r|霊神|れいしん}}{{r|上|じょう}}の愛に勝たれたつものとして、{{r|神|かみ}}{{r|言|ことば}}に{{r|嫁|か}}すること当然なり、故に彼は{{r|敢|あえ}}て言ふべし、左の如く言ふべし、曰く『我が{{r|霊|たましい}}はわが{{r|神|かみ}}をたのしまん、そは我に{{r|救|すくい}}の{{r|衣|ころも}}をきせ、義の{{r|外服|がいふく}}をまとはせて、{{r|新郎|しんろう}}が{{r|冠|かんむり}}をいたゞき、{{r|新|しん}}{{r|婦|ぷ}}が{{r|玉|たま}}こがねの{{r|飾|かざり}}をつくるが如くしたまへばなり』〔<u>イサイヤ</u>六十一の十〕けだし{{r|王|おう}}は彼の善良を望みて〔[[第六「カフィズマ」#44:12|聖詠四十四の十二]]〕、彼をたゞ{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}と名づくるのみならず、{{r|王|おう}}の{{r|女|むすめ}}及び{{r|皇后|こうごう}}と名づくるを{{r|賜|たま}}へり、{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}と名づくるは{{r|聖神|せいしん}}の{{r|為|ため}}に{{r|領有|りょうゆう}}せられたるによる、{{r|王|おう}}の{{r|女|むすめ}}と名づくるは{{r|父|ちゝ}}より光の子たることをうけたるによる、{{r|又|また}}{{r|皇后|こうごう}}と名づくるは{{r|独生|どくせい}}{{r|者|しゃ}}の{{r|光栄|こうえい}}の{{r|神性|しんせい}}と{{r|配合|はいごう}}せしによるなり。|[p.431]}} [p.432] {{Quotation|けだし本性に{{r|於|おい}}て{{r|一|いつ}}たる主は、いかんして人間の{{r|救|すくい}}の摂理の為に多くの名を{{r|比喩|ひゆ}}{{r|的|てき}}に{{r|己|おのれ}}にうけしか。{{r|何故|なにゆえ}}{{r|甲処|こうしょ}}には{{r|石|いし}}〔{{二重線|コリンフ}}前十の四〕及び門〔<u>イオアン</u>十の七〕と名づけ、{{r|他|た}}{{r|処|しょ}}には{{r|斧|おの}}〔<u>ルカ</u>十五の一〕及び{{r|餅|ぱん}}と名づけしか〔同六の三十五〕。{{r|石|いし}}と名づけしは{{r|其|その}}{{r|勢力|せいりょく}}の動かすべからざると近づくべからざるとによる、{{r|門|もん}}と名づけしは彼によりて{{r|永世|えいせい}}に{{r|入|い}}るによる、{{r|斧|おの}}とは彼は{{r|悪習|あくしゅう}}の{{r|根|ね}}を{{r|絶|た}}つによる、{{r|路|みち}}とは適当なる者を真実を{{r|識|し}}るにみちびくによる、{{r|葡|ぶ}}{{r|萄|どう}}の{{r|幹|みき}}とは{{r|人心|じんしん}}をたのしましむる{{r|酒|さけ}}が彼によりて{{r|産|さん}}せらるゝによる、また{{r|餅|ぱん}}とは{{r|有言|ゆうげん}}なる{{r|造物|ぞうぶつ}}の{{r|心|こゝろ}}を{{r|堅|かた}}むるによるなり。しかれどもこれと同じく{{r|神|かみ}}{{r|言|ことば}}の為に領有せられたる非難すべからざる{{r|霊魂|たましい}}も、{{r|固|もと}}より{{r|単純|たんじゅん}}なるものなれど、{{r|神的|しんてき}}{{r|道徳|どうとく}}に多くの進歩をなすにしたがひて、{{r|賜|たまもの}}をうけん。我が{{r|此事|このこと}}をいふは{{r|新|しん}}{{r|婦|ぷ}}の名称も{{r|勿論|もちろん}}たゞ{{r|三|みつ}}のみにあらずして、{{r|更|さら}}に{{r|多|おほ}}かるべきによるなり。 ゆゑに{{r|神|かみ}}の{{r|聖所|せいしょ}}に{{r|入|い}}りて、『我等が{{r|年少|ねんしょう}}を{{r|楽|たのし}}ましむる{{r|神|かみ}}に』〔[[第六「カフィズマ」#42:4|聖詠四十二の四]]、{{r|希臘|ギリシャ}}訳文〕{{r|就|つ}}かざらん{{r|間|あいだ}}は、{{r|此|こ}}の{{r|労|ろう}}は我等の面前にあるを知るべし、けだし我等なほ肉体にあるも、{{r|主|しゅ}}の{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}を、たまはり、{{r|成聖|せいせい}}を{{r|遂|と}}げんことは、救世主の{{r|悦|よろこ}}ぶ所にして、{{r|其時|そのとき}}には、{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如くいふを{{r|得|え}}ん、曰く『我等は肉に在りて{{r|行|おこな}}へども、肉に{{r|循|したが}}ひて{{r|戦|たゝか}}はず、我等が{{r|戦|たゝかい}}の{{r|器|うつわ}}は肉に属せず、{{r|乃|すなわち}}{{r|神|かみ}}に{{r|由|よ}}りて{{r|塁|とりで}}を{{r|破|やぶ}}る{{r|能|ちから}}あり、我等{{r|此|これ}}を以て{{r|諸|もろもろ}}の{{r|謀|はかりごと}}と{{r|凡|およ}}そ{{r|神|かみ}}の知識に{{r|逆|さか}}ふ高慢とを破る』〔{{二重線|コリンフ}}後十の三至五〕。|[p.432]}} [p.433] {{Quotation|故に{{r|尚|なほ}}{{r|此処|こゝ}}に{{r|於|おい}}ても我等は罪なる{{r|慾|よく}}を十字架に{{r|釘|くぎ}}すること、預言者の{{r|祈祷|きとう}}の如くすべし、曰く『我が肉体を{{r|爾|なんぢ}}を{{r|畏|おそ}}るゝの{{r|畏|おそ}}れに{{r|釘|くぎ}}す』〔[[第十七「カフィズマ」#118:120|聖詠百十八の百二十]]〕。けだし{{r|使徒|しと}}のいはゆる『神の国を{{r|嗣|つ}}ぐあたはざる』〔{{二重線|コリンフ}}前十五の五十〕肉と血とは、{{r|此|こ}}の{{r|見|み}}ゆる{{r|体|からだ}}をいふにあらずして、〔彼は{{r|神|かみ}}の造る所なり〕{{傍点|style=open circle|{{r|悖逆|はいぎゃく}}の子}}〔{{二重線|エフェス}}二の二〕の{{r|中|うち}}に行為する凶悪の{{r|神|しん}}によりて{{r|起|おこ}}さるゝ肉体の{{r|念慮|ねんりょ}}を指す、何となれば<u>ハリストス</u>に{{r|於|お}}ける完全なる苦行者のために『{{r|戦|たゝかい}}は{{r|血肉|けつにく}}に{{r|於|おい}}てするに非ず、{{r|此|こ}}の{{r|暗昧|あんまい}}の{{r|世|せ}}{{r|君|くん}}に{{r|於|おい}}てし、凶悪の{{r|諸神|しょしん}}に{{r|於|おい}}てすればなり』〔{{二重線|エフェス}}六の十二〕。 故にもし{{r|此|こ}}の行為は天性自然の行為にあらずして、反対なる{{r|力|ちから}}の行為なるを{{r|認|みと}}むるならば、彼等に対して<u>ハリストス</u>の{{r|全|まつた}}き{{r|軍|ぐん}}{{r|備|び}}をおのれにうけ、『{{r|其|そ}}の{{r|奸計|はかりごと}}を{{r|禦|ふせ}}ぐを{{r|得|う}}べし』〔{{二重線|エフェス}}六の十一〕何となれば救世主は『{{r|蛇|だ}}{{r|蝎|かつ}}及び{{r|悉|ことごと}}くの{{r|敵|てき}}の{{r|力|ちから}}を{{r|踏|ふ}}む』の{{r|権|けん}}を我等に{{r|賜|たま}}ふによる〔<u>ルカ</u>十一の十九〕。{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}{{r|尚|なほ}}{{r|肉体|にくたい}}に{{r|居|を}}るも{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如く{{r|言|い}}ふを{{r|得|え}}んが為なり、曰く『もしわが心に不法のあるを{{r|見|み}}しならば主はわれに{{r|聴|き}}かざらん』〔[[第九「カフィズマ」#65:18|聖詠六十五の十八]]〕また曰く『{{r|我|われ}}{{r|尤|とが}}なしといへども、彼等は{{r|趨|は}}せ{{r|集|あつ}}まりて{{r|武具|ぶぐ}}をそなふ』〔同上五十八の五〕と、これ{{r|言|いふ}}{{r|意|こゝろ}}は我等は{{r|志|こゝろざ}}す所に進行し、{{r|即|すなわち}}{{r|上|うえ}}より{{r|召|め}}す所の{{r|褒章|ほうしょう}}に{{r|進向|しんこう}}しつゝ、如何なる肉体の慾もあるなうして、天に生涯を送ること{{r|易|やす}}からん。けだし{{r|諸|もろもろ}}の慾に遠ざかりて{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如く{{r|言|い}}ふことを{{r|得|う}}ればなり、曰くたゞに{{傍点|style=open circle|信を守る}}のみならず、{{傍点|style=open circle|{{r|馳|は}}すべき程を尽せり}}〔<u>テモフェイ</u>後四の七〕。|[p.433]}} [p.434] {{Quotation|たゞ<u>ハリストス</u>を信ずるのみならず、彼と共に{{r|苦|くるしみ}}をうくることも{{r|肝要|かんよう}}なり、{{r|録|ろく}}していへる如し、『{{r|汝|なんぢ}}{{r|等|ら}}に{{r|賜|たま}}はりしはたゞ彼を信ずるのみならず、{{r|亦|また}}彼の為に{{r|苦|くるしみ}}をうくることなり』〔{{二重線|フィリッピ}}一の二十九〕。たゞ{{r|神|かみ}}を信ずるのみは地上の事を{{r|念|おも}}ふ{{r|者|もの}}に相応するのみならず、不潔の{{r|神|しん}}にさへ相応するは我が{{r|言|ことば}}を{{r|俟|ま}}たざるべし、いへらく『{{r|我|われ}}{{r|爾|なんぢ}}が{{r|誰|たれ}}なるを{{r|知|し}}る、{{r|乃|すなわ}}ち神の子なり』〔<u>マルコ</u>一の二十四、<u>マトフェイ</u>八の二十九〕。『けだし彼も{{r|此|これ}}も<u>ハリストス</u>の十字架の敵なり、彼等が{{r|終|おわり}}は{{r|滅亡|めつぼう}}なり、彼等が{{r|神|かみ}}は{{r|腹|はら}}なり、彼等が{{r|栄|えい}}とする所は{{r|辱|はぢ}}なり、彼等は地上の事を{{r|念|おも}}ふ』〔{{二重線|フィリッピ}}三の十八、十九〕と見るか十字架の敵はたゞ背教者の{{r|力|ちから}}のみにあらず、地上の事を{{r|念|おも}}ふ者も{{r|亦|また}}{{r|然|しか}}るを。しかれども<u>ハリストス</u>と共に{{r|苦|くるし}}みをうけて共に{{r|栄|えい}}せらるゝことはたゞ{{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|於|おい}}て{{r|己|おのれ}}を十字架に{{r|釘|くぎ}}して主の{{r|疵|きず}}を{{r|己|おのれ}}の{{r|体|からだ}}に{{r|負|お}}ふ{{r|者|もの}}のみ{{r|能|よく}}し{{r|得|う}}るなり。|[p.434]}} [p.435] {{Quotation|哲学を正しく{{r|攻究|こうきゅう}}して、{{r|霊魂|たましい}}を悪の{{r|汚穢|けがれ}}より{{r|救|すく}}ふ者は、哲学の目的を{{r|精確|せいかく}}に知らんこと{{r|肝要|かんよう}}なり、進行の{{r|労|ろう}}と{{r|経|けい}}{{r|過|か}}の{{r|終|おわり}}とを{{r|確|かく}}{{r|知|ち}}して、{{r|高慢|こうまん}}と{{r|功労|こうろう}}のことを{{r|思|おも}}ふ{{r|意思|いし}}とを{{r|全|まつた}}く{{r|斥|しりぞ}}け、聖書の{{r|誡命|かいめい}}にしたがひ、{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|たましい}}と{{r|生命|いのち}}をすてゝ{{r|一|いつ}}の{{r|富|とみ}}に{{r|注目|ちゅうもく}}せん{{r|為|ため}}なり、{{r|即|すなわち}}{{r|神|かみ}}が{{r|凡|およ}}そ{{r|甘|あま}}んじて{{r|苦|く}}{{r|行|ぎょう}}を{{r|自|みづ}}から{{r|任|にな}}はんと決心したる者を呼びて、{{r|其|その}}愛する所の者に<u>ハリストス</u>を愛したる{{r|為|ため}}の{{r|報償|ほうしょう}}として定め給ひしものに注目せん{{r|為|ため}}なり、{{r|此|かく}}の如き苦行の経過に{{r|於|おい}}て彼等に{{r|充分|じゅうぶん}}の{{r|路|ろ}}{{r|用|よう}}を{{r|給|きゅう}}するは<u>ハリストス</u>の十字架なり、されば彼等は{{r|此|これ}}を{{r|負|お}}ふて、{{r|楽|たのし}}みと{{r|善|ぜん}}なる{{r|希|き}}{{r|望|ぼう}}とを以て救世主<u>ハリストス</u>の{{r|跡|あと}}にしたがひ、{{r|其|その}}摂理を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|生命|いのち}}の{{r|法|ほう}}となし、{{r|路|みち}}となさんこと肝要なり、使徒の{{r|自|みづ}}から{{r|言|い}}へる如し、曰く『{{r|爾|なんぢ}}{{r|等|ら}}我に{{r|效|なら}}ふ者となれ、我が<u>ハリストス</u>に{{r|效|なら}}ふが{{r|如|ごと}}し』〔{{二重線|コリンフ}}十一の一〕又いふ『忍耐を以て我等の前にある{{r|馳|はせ}}{{r|場|ば}}を{{r|趨|はし}}りて、我等の{{r|信|しん}}の{{r|首|かしら}}及び{{r|成全|せいぜん}}{{r|者|しゃ}}なる<u>イイスス</u>を{{r|仰|あお}}ぎ{{r|望|のぞ}}むばし、彼は{{r|其|その}}{{r|前|まえ}}に{{r|在|あ}}る{{r|喜|よろこび}}に{{r|易|か}}へて{{r|辱|はぢ}}を{{r|意|い}}とせず、十字架を忍びて{{r|神|かみ}}の{{r|宝|ほう}}{{r|座|ざ}}の右に{{r|坐|ざ}}せり』〔{{二重線|エウレイ}}十二の一、二〕。 われらは{{r|神|かみ}}の{{r|賜|たまもの}}を以て{{r|自|みづ}}から{{r|高|たか}}ぶり、道徳に進むの{{r|或|あ}}る進歩を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|高慢|こうまん}}と{{r|称賛|しょうさん}}の{{r|為|ため}}の{{r|縁|えん}}{{r|由|ゆ}}となして、望む所の{{r|終|おわ}}りに{{r|達|たつ}}せざる{{r|先|さき}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|志|こゝろざし}}の{{r|撓|たわ}}まざらんが{{r|為|ため}}、{{r|高慢|こうまん}}により先になせる勤労を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に無益となさゞらんが{{r|為|ため}}、及び{{r|神|しん}}の{{r|恩寵|おんちょう}}の我等を{{r|引誘|いんゆう}}する{{r|成全|せいぜん}}に{{r|堪|た}}へざるものとならざらんが{{r|為|ため}}に{{r|戦々|せんせん}}{{r|競々|きょうきょう}}たらざるべからざるなり。|[p.435]}} [p.436] {{Quotation|故に勤労に{{r|於|おけ}}るの{{r|尽力|じんりょく}}を決して{{r|弱|よわ}}むべからず、{{r|眼前|がんぜん}}にある所の苦行を{{r|辞|じ}}するべからず、もし先に何か遂げし所あらんには、それを以て熱心を{{r|劃|かぎ}}るべからず、{{r|乃|すなわち}}{{r|使徒|しと}}の如く{{傍点|style=open circle|後}}を忘れて{{傍点|style=open circle|前}}に進み〔{{二重線|フィリッピ}}三の十三〕、{{r|成全|せいぜん}}を{{r|求|もと}}むる者が{{r|飽|あ}}くを知らずして{{r|独|ひと}}り{{r|飢|き}}{{r|渇|かつ}}する所の義の{{r|願|ねがい}}を{{r|有|ゆう}}し、勤労の為に{{r|慮|おもんぱか}}りて心肝を{{r|摧|くだ}}かんこと{{r|肝要|かんよう}}なり。彼等は{{r|許約|きょやく}}せられたる幸福を{{r|距|さ}}ること{{r|猶|なほ}}遠くして、<u>ハリストス</u>の完全なる愛に多く{{r|達|たつ}}せざる者なるにより、{{r|謙遜|けんそん}}なる者となり、恐れに満てる者とならざるべからず。けだし{{r|此|この}}{{r|愛|あい}}を{{r|切願|せつがん}}して、天の約束を{{r|仰望|ぎょうぼう}}する者は、{{r|禁食|きんしょく}}するか、{{r|儆醒|けいせい}}するか、{{r|或|あるい}}は他のいかなる{{r|徳行|とくこう}}に熱心するも、以前の功労を以て{{r|自|みづか}}ら{{r|高|たか}}ぶらざるべく、{{r|却|かへつ}}て神聖なる{{r|望|のぞみ}}にみたさるゝ彼は{{r|己|おのれ}}を呼ぶ所の者に{{r|間断|かんだん}}なく{{r|眼|め}}を{{r|注|そゝ}}ぎて、いくばく{{r|奮闘|ふんとう}}するも{{r|其|その}}{{r|志|こゝろざ}}す所のものに{{r|比|くら}}ぶれば{{r|全|まつた}}く小なりと{{r|思|おも}}ふべし。されば{{r|其|その}}{{r|行|おこない}}により{{r|己|おのれ}}を{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に尊敬すべき者とあらはさゞらん{{r|間|あいだ}}は、{{r|労|ろう}}に{{r|労|ろう}}を{{r|加|くは}}へ、{{r|徳行|とくこう}}に{{r|徳行|とくこう}}を{{r|重|かさ}}ぬるも、{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に適当なる者となれりとの{{r|意思|いし}}を心に{{r|懐|いだ}}かずして、{{r|此|こ}}の{{r|生命|いのち}}の{{r|終|おわり}}に{{r|至|いた}}るまで{{r|悉|ことごと}}くの{{r|尽力|じんりょく}}を{{r|用|もち}}ひん。けだし{{r|行|おこない}}に{{r|於|おい}}て{{r|大|おほい}}なる者は{{r|神|かみ}}を{{r|畏|おそ}}るゝを{{r|以|もつ}}て{{r|自負|じふ}}を{{r|地|ち}}に{{r|擲|なげう}}ちて、心を謙遜し、生活の為に{{r|己|おのれ}}を{{r|罪|つみ}}し、信じて愛するの{{r|度|ど}}により{{r|許約|きょやく}}を{{r|楽|たのし}}みて、{{r|自|みづ}}から{{r|労|ろう}}するの{{r|如何|いかん}}を{{r|以|もつ}}てせざるは、これぞ{{r|哲学|てつがく}}の{{r|最|もつとも}}{{r|卓越|たくえつ}}せる{{r|功労|こうろう}}なる。けだし{{r|賜|たまもの}}は{{r|大|おほい}}なるにより、これに{{r|相応|そうおう}}する{{r|勤労|きんろう}}を{{r|見|み}}{{r|出|いだ}}すことあたはざればなり。|[p.436]}} [p.437] {{Quotation|さりながら{{r|信|しん}}と{{r|望|ぼう}}とは{{r|大|おほい}}ならざるべからずして、これを{{r|以|もつ}}て報酬を測るべく、勤労を以てすべからざるなり。{{r|然|しか}}して{{r|信|しん}}の{{r|根本|こんぽん}}は{{r|心神|しんしん}}の{{r|貧|まづ}}しきと{{r|神|かみ}}に対する{{r|無|む}}{{r|量|りょう}}の{{r|愛|あい}}とにあり。 希望の目的に応じ、哲学によりて、生活せんと決心したる者の{{r|為|ため}}に{{r|余|よ}}は{{r|充分|じゅうぶん}}にのべたりと{{r|思|おも}}ふ。{{r|今|いま}}{{r|又|また}}これに{{r|加|くは}}ふるにかくの如き者はいかに{{r|互|たがい}}に{{r|交際|こうさい}}して{{r|如何|いか}}なる{{r|労|ろう}}を{{r|愛|あい}}するを{{r|要|よう}}するかを示すべし、{{r|天|てん}}{{r|都|と}}に{{r|達|たつ}}するに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}{{r|其|その}}進行を協力して{{r|成|な}}さん{{r|為|ため}}なり。 {{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|於|おい}}て尊敬すべきと認めらるゝものを{{r|断|だん}}じて{{r|尊|たつと}}ばず、{{r|親族|しんぞく}}を{{r|棄|す}}て、もろ{{く}}{{r|地下|ちか}}の{{r|栄|さかえ}}を{{r|棄|す}}てゝたゞ{{r|天上|てんじょう}}の{{r|尊栄|そんえい}}に{{r|着眼|ちゃくがん}}し、{{r|神|かみ}}による{{r|兄弟|けいてい}}と{{r|心神|しんしん}}にて{{r|結合|けつごう}}する{{r|者|もの}}は、{{r|世|よ}}と{{r|共|とも}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|たましい}}をも{{r|棄|す}}つること{{r|肝要|かんよう}}なり。{{r|霊魂|たましい}}を{{r|棄|す}}つとは{{r|何|なに}}に{{r|於|おい}}ても{{r|己|おのれ}}の{{r|旨|むね}}を求めずして、{{r|反|かへ}}つて{{r|己|おのれ}}の{{r|旨|むね}}を{{r|矯正|きょうせい}}し、{{r|院長|いんちょう}}を以て己の為に{{r|神|かみ}}の{{r|言|ことば}}となして、これを{{r|益用|えきよう}}すること、{{r|善良|ぜんりょう}}なる{{r|舵師|だし}}の如くし、{{r|兄弟|けいてい}}{{r|社会|しゃかい}}のすべてを{{r|挙|あ}}げて、{{r|同心|どうしん}}{{r|協力|きょうりょく}}して、{{r|神|かみ}}の{{r|旨|むね}}の{{r|湊|みなと}}に{{r|向|むか}}はしむるにあり。|[p.437]}} 【以下未入力(p.438-457)】 {{DEFAULTSORT:えしふとまかりいせんしよ しよかん2}} <!-- [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:埃及マカリイ全書|52]]--> {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{PD-old}} }} <!-- --> sxdbmhn3nuy95ltcha0jtdix1lg4hm8 243138 243137 2026-06-12T15:01:07Z 村田ラジオ 14210 243138 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しかれども{{r|或者|あるもの}}は{{r|自|みづ}}から<u>ハリストス</u>の{{r|機|き}}{{r|密|みつ}}に遠ざかるのみならず、『{{r|濁|にご}}れる{{r|敗壊|はいかい}}を以て{{r|其|その}}{{r|親友|しんゆう}}を{{r|誘|いざな}}ひ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-hab/2:8-17 <u>アバクム</u>二の十五]〕『神を{{r|識|し}}るべきものゝ彼等に{{r|明|あきらか}}にあらはるる』にも{{r|拘|かか}}はらず、神の真理を不義の{{r|中|うち}}に隠さんとす。けだし『{{r|其|その}}{{r|思念|おもひ}}は{{r|虚|むな}}しくなり』{{r|其|その}}{{r|無智|むち}}の心は{{r|昧|くら}}みしにより〔{{二重線|ロマ}}一の十八至二十一〕。彼等は説を{{r|為|な}}していへり、{{r|恥|は}}づべき{{r|情慾|じょうよく}}は天性自然にして神より我等に付与せられたるものなりと、{{r|是|こ}}れ{{r|即|すなはち}}{{r|敗壊|はいかい}}の{{r|楽|たのし}}み、不正なる{{r|忿怒|いきどほり}}、神の為に発するに{{r|非|あら}}ざる不適当なる{{r|怒|いかり}}、及び{{r|凡|およ}}そ{{r|此|これ}}に類するものをいふなり。|[p.425]}} 《現代語訳》 [p.425] 完全で聖なる人となるためには、彼自身が神の内にいるだけでなく、神が彼の内にいることも必要であることを知りなさい。主はこう言われる。「彼が私の内にいれば、私も彼の内にいる」(ヨハネ15章5節)。神の人間は、神の幕屋に住み、この幕屋を最も純粋な神性の聖なる山に建てなければなりません。それは、情欲の暗い力が彼を支配することを許さない方の栄光を受け入れるだけでなく、その栄光に抱かれるためです。救い主は、ふさわしい人々の中に、聖性と生来の無執着のために住まわれるからです。それは、救い主がご自身が無執着であるように、彼を受け入れた人々をも無執着にし、もはや嵐に巻き込まれず、どんな風にも吹き飛ばされない者とするためです。 また、ある人々はキリストの奥義から遠く離れているだけでなく、「わざわいなるかな、その隣り人に怒りの杯を飲ませて、これを酔わせ、 彼らの隠し所を見ようとする者よ。」(ハバクク書 2章15節)、神の真理を偽りの中に含み、「彼らの中には、神の知恵が明らかに示されている」と言われています。なぜなら、「思いがむなしく」なり、愚かな心によって暗くなった(ローマ 1章18–21節)ため、彼らは、腐敗の快楽、不当な短気、神によらない下品な怒りなど、恥ずべき情欲は神によって私たちに生まれつき備わっているものだと言うからです。 {{Quotation|ゆゑに彼等と{{r|其|そ}}の{{r|言|い}}ふ所とは真理に{{r|違|たが}}ふものとしてこれを{{r|棄|す}}て、我等を造りし者を以て我等にあたへられたる自由自主の主権を{{r|承認|うけみと}}めん、善きことに進むも{{r|悪|あし}}きことを{{r|止|や}}むるも我等に{{r|係|かか}}らんためなり。けだし真実なる審判者は、もし{{r|自|みづ}}から情慾の造物主ならば、これに占領せらるゝ我等を{{r|罰|ばつ}}せざるべし。祈る{{r|此|この}}{{r|教|をしへ}}に離れ遠ざかりて、これを{{r|思|おもひ}}にも{{r|生|しょう}}ぜしめざらんことを。けだし{{r|此|こ}}の{{r|蒙昧|もうまい}}にして{{r|愚|おろか}}なる意見は、{{r|凡|およそ}}の敬虔なる{{r|裁|さい}}{{r|智|ち}}の為に{{r|忌|い}}み{{r|嫌|きら}}ふべきものとす。神は清くして{{r|最|いと}}{{r|美|うつく}}しき天地万物の造成者なることは、世界創造の際に{{r|聖神|せいしん}}の{{r|告|つ}}げ{{r|給|たま}}ひし如し、けだしいへり、『神は{{r|其|その}}造りたる{{r|諸|もろもろ}}の物を見たまへるに{{r|甚|はなは}}だ{{r|善|よ}}かりき』〔創世記一の三十一〕。されば<u>イエレミヤ</u>は{{r|恥|は}}づべき情慾のために{{r|哀|かなし}}み、かつ{{r|惑|まど}}ふていへり、『主の命じ給ふにあらずば、誰か事を述べんに、その事すなはち成らんや、{{r|禍|わざわい}}も{{r|福|さいわい}}も{{r|至|し}}{{r|高者|こうしゃ}}の口より{{r|出|い}}づるにあらずや』〔<u>イエレミヤ</u>哀歌三の三十六‐三十八〕。故に{{r|福音|ふくいん}}{{r|経|きょう}}に聡明なる天軍は主に{{r|問|と}}ふていへり、『主よ{{r|爾|なんぢ}}は{{r|美|よき}}{{r|種|たね}}を{{r|爾|なんぢ}}の{{r|田|た}}に{{r|撒|ま}}きたるに{{r|非|あら}}ずや、{{r|然|しか}}らば何に由りて{{傍点|style=open circle|此の}}{{r|稗|ひえ}}あるか』〔<u>マトフェイ</u>十三の二十七〕。[p.427]また他の所に救世主は{{r|自|みづ}}から彼等の事をいへり、『{{r|凡|およ}}そ我が天の父の{{r|植|うゑ}}ざりし植物は{{r|其|その}}{{r|根|ね}}{{r|絶|たや}}されん』と〔<u>マトフェイ</u>十五の十三〕。しかれどもすべて神の{{r|植|う}}ゑしものゝ{{r|美|び}}なることは、<u>ハリストス</u>これをいひ、<u>パウェル</u>もこれを{{r|証|しょう}}せり、曰く『{{r|蓋|けだし}}神の{{r|悉|ことごと}}くの造物は善なり』〔<u>テモフェイ</u>前四の四〕。故に知るべし我等の{{r|中|うち}}にかくるゝ情慾は本来我等に属するに非ずして、他に属するものなるを。けだし{{r|言|い}}ふあり、『我が{{r|隠|ひそか}}なる{{r|咎|とが}}より我を{{r|浄|きよ}}め{{r|給|たま}}へ、{{r|故|こ}}{{r|犯|はん}}より{{r|爾|なんぢ}}の{{r|僕|ぼく}}を{{r|止|とゞ}}めよ』〔[[第三「カフィズマ」#18:13|聖詠十八の十三、十四]]〕、またいふあり、『外人は{{r|起|た}}ちて我を{{r|攻|せ}}め、強き者は我が{{r|霊|たましい}}を{{r|覓|もと}}む』〔[[第七「カフィズマ」#53:5|同上五十三の五]]〕。またいふあり、『主よ我と{{r|争|あらそ}}ふ者と{{r|争|あらそ}}ひ、我と{{r|戦|たゝか}}ふ者と{{r|戦|たゝか}}ひ給へ』〔[[第五「カフィズマ」#34:1|同上三十四の一]]〕。それ此の{{傍点|style=open circle|{{r|隠|ひそか}}なるもの}}{{r|或|あるい}}は此の{{傍点|style=open circle|争ふ者}}{{r|或|あるい}}は{{傍点|style=open circle|戦ふ者}}{{r|或|あるい}}は此の{{傍点|style=open circle|故犯}}とはこれ<u>ハリストス</u>の徳行に{{r|逆|さから}}ふ凶悪なる{{r|諸神|しょしん}}を示すにあらずして何ぞや。|[p.426]}} [p.426] したがって、彼らや彼らの言葉を真理から逸脱したものとして捨て去り、私たちを創造した方が私たちに与えてくださった自由の専制を認め、最善を目指し、最悪を避けるのは私たち次第であることを認めましょう。真の審判者ご自身が創造主であるならば、情欲にとりつかれた私たちを罰するはずがありません。お願いですから、この教えは捨て去り、頭に浮かばないようにしてください。この不合理で愚かな考えは、すべての敬虔な理解力にとって不快です。神は、創造の時に聖霊が告げたように、純粋で最も美しい自然の創造主です。「見よ、すべてが非常に良い」(創世記 1章31節)と神は言っています。エレミヤは、恥ずべき情欲について嘆き、困惑しながらこう言います。「主は『あなたのものは誰か』と言われたのではない。主が語られたから、そうなったのだ。主は『いと高き者の口からは悪は出ず、善は出る』と命じられたのではない。(哀歌エレミヤ3章36-38節)」。それゆえ、福音書の中で、知性ある者たちは主にこう問いかけます。「主よ、あなたは畑に良い種を蒔かれたではありませんか。では、これらの「毒麦」はどこから来るのでしょうか(マタイ13章27節)。別の箇所では、救い主ご自身がそれらについてこう言っています。「天の父が植えなかった庭は、みな根こそぎにされるであろう」(マタイ15章13節)。そして、神の植えたものはすべて美しいと、パウロはキリストが「神の造られたものはすべて良いものである」(テモテ第一4章4節)と言っているように、パウロもそのことを証言しています。ですから、私たちの中に秘められた情熱は私たち自身のものではなく、私たちとは無関係のものであることを知ってください。「わたしの隠れた罪を清め、あなたのしもべを異邦人の罪からお守りください」(詩篇19篇13-14節)、「異邦人がわたしに立ち向かい、力ある者たちがわたしの命を狙っています」(詩篇54篇5節)、「主よ、わたしを害する者を裁き、わたしと戦う者と戦ってください」(詩篇35篇1節)と書いてあるからです。では、この「隠れた」とは、あるいは「罪を犯す者」や「戦う者」、あるいは「異邦人」とは、キリストの徳に敵対する悪霊ではないとしたら、何を意味するのでしょうか。 {{Quotation|律法も内部の人の{{r|潔浄|けつじょう}}のことを公然と呼ぶを精密に吟味せよ。いふあり、『汝の主、神の名を{{r|妄|みだり}}に口にあぐべからず、けだし主は己の名を{{r|妄|みだ}}りに口にあぐる者の心を清めざるべし』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-deu/5:1-11 {{r|復傳|ふくでん}}{{r|律令|りつれい}}五の十一]〕。ゆゑに使徒も勧めて{{r|明|あきら}}かにいへり、『{{r|己|おのれ}}を{{r|凡|およそ}}の{{r|肉|にく}}と{{r|神|しん}}との{{r|汚|けがれ}}より{{r|潔|きよ}}くせよ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-2cor/7:1-5 {{二重線|コリンフ}}後七の一]〕。また他の処にもいふ『心は{{r|灑|そゝ}}がれて悪しき意念を去れ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-heb/10:16-22 {{二重線|エウレイ}}十の二十二]〕、又いふ『汝等の{{r|神|しん}}と{{r|霊|れい}}と{{r|体|たい}}とは{{r|全|まつと}}うし{{r|護|まも}}られて{{r|疵|きず}}なからん』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-1th/5:16-23 {{二重線|ソルン}}前五の二十三]〕、[p.428]又いふ『{{r|疵|きず}}なき神の子とならん為なり』〔{{二重線|フィリッピ}}二の十五〕。ゆゑに{{r|凡|すべ}}て子たる{{r|位地|いち}}を{{r|賜|たま}}はらんことを願ふ者は{{r|疵|きず}}なき{{r|体|からだ}}を有するのみならず、{{r|疵|きず}}なき{{r|霊|たましい}}をも有すること、{{r|左|さ}}の如くならざるべからず『{{r|願|ねがは}}くは我が心{{r|爾|なんぢ}}の{{r|律|おきて}}に{{r|玷|きず}}なからん、我が{{r|羞|はぢ}}を{{r|得|え}}ざらん為なり』〔[[第十七「カフィズマ」#118:80|聖詠百十八の八十]]〕。けだし律法の{{r|下|もと}}に居る者は、たゞ肉体の{{r|稱|しょう}}{{r|義|ぎ}}を遂げて、外部の{{r|潔浄|けつじょう}}を守れども、{{r|恩寵|おんちょう}}の{{r|下|もと}}に{{r|居|を}}る者は、{{r|成聖|せいせい}}により内部の平安を願ふて、{{r|左|さ}}の如くいひし者にしたがふなり、曰く、『もし汝等の義は学士お呼び<u>ファリセイ</u>等の義に{{r|勝|まさ}}らずば{{r|爾|なんぢ}}{{r|等|ら}}天国に入るを得ず』〔<u>マトフェイ</u>五の二十〕、何となれば<u>ファリセイ</u>等は智を{{r|盲|くら}}まして、{{傍点|style=open circle|杯と皿の外}}を{{r|潔|きよ}}むればなり〔<u>マトフェイ</u>二十三の二十五〕。今も彼等に似たる新<u>ファリセイ</u>は、未熟なる才智を以て外部の人を粉飾し、{{r|自|みづ}}から己を義とせんとす、しかれども{{r|聖神|せいしん}}は彼等の{{r|神|しん}}と共に彼等が神の子たるを{{r|証|しょう}}すること、使徒と共に{{r|証|しょう}}する如くせざるべし、言ふあり、『此の{{r|神|しん}}{{r|自|みづ}}から我等の{{r|神|しん}}と共に我等が神の子たるを{{r|証|しょう}}す』〔{{二重線|ロマ}}八の十六〕。彼等は内部の人の{{r|聖徳|せいとく}}に成長するを自己にあらはさんことを{{r|欲|ほつ}}せずして、たゞ肉体上の功労に信任し、『{{r|王|おう}}の{{r|女|ぢょ}}の光栄は皆内部にある』〔[[第六「カフィズマ」#44:14|聖詠四十四の十四]]〕を知らざるなり。我等各人は{{r|恰|あたか}}も心中の{{r|無花果|いちじく}}の如し、主の{{r|尋|たづ}}ぬるは内部の{{r|果|か}}にありて、{{r|枝|し}}{{r|葉|よう}}の{{r|飾|かざり}}にあるにあらざるなり〔<u>マトフェイ</u>二十一の十九〕。|[p.427-p.428]}} [p.427-p.428] 律法もまた、内なる人の清さをはっきりと求めていることを、より深く考えてみましょう。「主なるあなたの神の名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える心をきよめられないからである」(申命記 5:11)とあります。それゆえ、使徒パウロもまた、はっきりとこう勧めています。「肉の汚れだけでなく、霊の汚れからも、あらゆる汚れから自分をきよめましょう」(コリント人への手紙二 7章1節 )。また別の箇所では、「心に汚れた良心を清め」(ヘブライ人への手紙 10章22節 )と言い、さらに「体と霊と魂を、完全に清く保ちなさい」(テサロニケ人への手紙一 5章23節)と言い、「あなたがたが、責められるところのない神の子となるためです」(ピリピ人への手紙 2章15節)とも言っています。したがって、養子縁組にふさわしくありたいと願う者は皆、非の打ちどころのない体だけでなく、非の打ちどころのない魂を持たなければなりません。それは、「あなたの戒めの中で、私の心が清くあって、私が恥じることのないようにしてください」(詩篇 119篇80節)と言われた方のようなものです。律法の下に生き、肉の義認だけを満たす人は外面的な清さを保ちますが、恵みの下に生きる人は、聖さにおける内面的な平和も望み、「あなたがたの義がパリサイ人や律法学者よりもまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入れません」(マタイ 5章20節)と言われた方に従います。パリサイ人は心が盲目であるため、「鏡の外側」をきよめるからです(マタイ 23章25節)。現代の新しいパリサイ人たちも、彼らと同様、未熟な心で外面を飾り、自らを正当化しますが、聖霊は、彼らが神の子であるという彼らの霊に従おうとはしません。使徒パウロはこう言っています。「御霊みずからわたしたちの霊に従われます。わたしたちは神の子なのですから」(ローマ8章16節)彼らは、内なる人の聖さが成長していることを自ら示そうとせず、肉の功績だけに頼っています。「王の娘の栄光はすべて内にある」(詩篇45篇14節)ことを彼らは知りません。私たち一人ひとりは、いわば心のいちじくの木のようで、主はその葉の飾りではなく、内なる実を求めておられるのです(マタイ21章19節)。 [p.429] {{Quotation|故に{{r|恥|は}}づべき情慾を弁護して、天然自然なるものとし、{{r|偶然|ぐうぜん}}に人に{{r|入|い}}りしにあらずといふ者は、『{{r|神|かみ}}の真実を己の{{r|偽|いつわり}}に{{r|易|か}}ふるなり』〔{{二重線|ロマ}}一の二十五〕何となれば我が{{r|先|さき}}にいひし如く{{r|無|む}}{{r|玷|てん}}{{r|純潔|じゅんけつ}}なる者は{{r|其|その}}{{r|像|ぞう}}を{{r|己|おのれ}}に{{r|肖|に}}たるものとなしたりしが、『{{r|悪|あく}}{{r|鬼|き}}の{{r|猜|そね}}みにより死は世に{{r|入|い}}りたればなり』〔知恵書二の二十四〕。ゆゑに人間は不法によりて{{r|孕|はら}}まれ、罪に{{r|於|おい}}て{{r|生|うま}}れて、〔[[第七「カフィズマ」#50:7|聖詠五十の七]]〕{{r|母|ぼ}}{{r|腹|ふく}}より離れ遠ざかる者となり、{{r|母|ぼ}}{{r|胎|たい}}より{{r|迷|まよい}}に{{r|居|を}}りて、<u>アダム</u>より以後<u>ハリストス</u>の{{r|来|きた}}るに至るまで罪が王となりしにより神の{{r|羔|こひつじ}}は{{r|憐|あわれみ}}を{{r|垂|た}}れて{{r|来|きた}}り給へり、これ{{r|先|ま}}づ強き者を{{r|縛|ばく}}し、{{r|其後|そののち}}{{r|鹵|ろ}}{{r|獲|かく}}せられたる器物を{{r|奪|うば}}ひ{{r|回|かへ}}して、己の力を以て世の罪を取らん為なり、言ふあり『{{傍点|style=open circle|擄者を{{r|擄|とりこ}}にす}}』と、又いふ『{{r|献物|さゝげもの}}をうく』と〔[[第九「カフィズマ」#67:19|聖詠六十七の十九]]〕。 我等は{{r|俘|ふ}}{{r|虜|りょ}}たるをまぬかれ、『土に属する者の{{r|状|かたち}}を{{r|衣|き}}たる如く、天に属する者の{{r|状|かたち}}』〔{{二重線|コリンフ}}前十五の四十九〕を{{r|衣|き}}『我等の{{r|肢|し}}{{r|体|たい}}を義の{{r|僕|ぼく}}となして、{{r|成聖|せいせい}}に{{r|委|ゆだ}}ぬること罪に{{r|委|ゆだ}}ねし如くせんことを』{{r|慮|おもんぱか}}らざるべからず〔{{二重線|ロマ}}六の十九〕。我等は信ず、われら{{r|躓|つまづ}}かずして光の{{r|中|うち}}を行く者は、神の奇跡を認めんを要するを。録して言ふ所の如し、曰く『我が目を{{r|啓|ひら}}き{{r|給|たま}}へ、{{r|然|しか}}せば{{r|我|われ}}{{r|爾|なんぢ}}が{{r|律法|りっぽう}}の{{r|奇|き}}{{r|跡|せき}}を{{r|観|み}}ん』〔[[第十七「カフィズマ」#118:19|聖詠百十八の十九]]〕。|[p.429]}} [p.429] したがって、恥ずべき情欲を自然なものとして、偶然に人に入り込んだものではないとして擁護する者は、「神の真理を偽りに変えた」(ローマ1章25節)のです。なぜなら、私が先に述べたように、汚れなき清らかな方がご自身の似姿に造られたからです。「しかし、悪魔のねたみによって死が世に入り込んだ」(知恵書2章24節)。したがって、人類は不義のうちに宿り、罪のうちに生まれ(詩篇51篇7節 )、母の胎内から離れ、アダムからキリストの到来まで罪が支配し始めてから、母の胎内から誤りの中にとどまりました。そして、憐れみ深い神の子羊が、ご自身の力で世の罪を取り除くために来られ、まず強い男を縛り、それから彼が戦利品として集めた器を奪い取られました。それは、「あなたは捕虜を捕らえ、また捕虜を捕らえた」と言われたとおりです(詩篇68篇19節)。 私たちは、束縛から解放されるよう注意し、「地上の像を着ているように、天の像をも着るようになるのです」(コリント第一 15章49節)、「義のしもべである私たちの肢体を、罪に差し出したように、聖なる姿で差し出す」(ローマ 6章19節)必要があります。私たちは、光の中をつまずくことなく歩む私たちは、神が「私の目を開いてください。そうすれば、あなたの律法からあなたの驚くべき御業を理解できます」(詩篇 119篇18節)と言われたように、神の驚くべき御業を見る運命にあると信じています。 [p.430] {{Quotation|けだし光の{{r|中|うち}}を行く者は五感に{{r|躓|つまづ}}きを{{r|来|きた}}さゞる如く、完全なる{{r|成聖|せいせい}}に{{r|居|を}}る者も心に{{r|奸計|かんけい}}を思はず、{{r|悪|あ}}しく{{r|慮|おもんぱか}}らざるなり。けだし『{{r|光|ひかり}}は{{r|暗|やみ}}と何の{{r|交|まじわ}}ることのあらん、神の{{r|殿|でん}}は偶像と何の同じきことのあらん』〔{{二重線|コリンフ}}後六の十五、十六〕、故に己を神の{{r|殿|でん}}と{{r|認|みと}}むべく、{{r|思|おもい}}の偶像を心中に{{r|画|えが}}かざらんことを{{r|力|つと}}めよ。けだし{{r|霊魂|たましい}}の{{r|中|うち}}に動作する{{r|凡|すべ}}ての{{r|情慾|じょうよく}}は偶像なり、故に『勝たるゝ者は勝つ者の奴隷たり』とは{{r|最|いと}}{{r|善|よ}}く言へるなり〔<u>ペトル</u>後二の十九〕。もし我等は肉体の慾に{{r|勤|つと}}むるならば、{{r|聖|せい}}にして無慾なる{{r|神|しん}}につとめざらんこと{{r|明|あきらか}}なり、何となれば人は『{{r|二人|ふたり}}の主に{{r|事|つか}}ふるあたはず、{{r|神|かみ}}と{{r|財|たから}}とに{{r|兼|かね}}{{r|事|つか}}ふること{{r|能|あた}}はざればなり』〔<u>マトフェイ</u>六の二十四〕。{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}は聖にして『{{r|汚|けがれ}}{{r|或|あるい}}は{{r|此|かく}}の如きもの』を有せず〔{{二重線|エフェス}}五の二十七〕、『けだし{{r|聖神|せいしん}}は{{r|諂|てん}}{{r|媚|び}}を避け、{{r|無智|むち}}{{r|者|しゃ}}の{{r|思念|おもい}}より遠ざかり、{{r|教|おしえ}}は{{r|奸猾|かんかつ}}なる{{r|霊魂|たましい}}に{{r|入|い}}らざるなり』〔知恵書一の四、五〕。 ゆゑに我等が律法はすべて{{r|神|かみ}}の{{r|指|ゆび}}を{{r|以|もつ}}て心にしるさるゝものにて、{{傍点|style=open circle|{{r|墨|すみ}}を以てするにあらず}}、{{r|神|かみ}}の{{r|神|しん}}を{{r|以|もつ}}てする〔{{二重線|コリンフ}}後三の三〕ものなるを確信して、『我は真実なり』〔<u>イオアン</u>十四の七〕との{{r|給|たま}}ひし立法者の真実をうけん、彼は心の割礼を{{r|行|おこな}}ひ、適当なる者の{{r|裁|さい}}{{r|智|ち}}に{{r|其|その}}{{r|仁|じん}}{{r|慈|じ}}の{{r|法|ほう}}をしるすこと、預言者のいへる如し、曰く『われ我が{{r|律法|りっぽう}}を彼等の心に置き、彼等の{{r|思|おもい}}にしるさん』〔<u>イエレミヤ</u>三十一の三十三〕。{{傍点|style=open circle|{{r|凡|およ}}そ選ばれたる族}}と、{{傍点|style=open circle|王たる祭司班}}と、{{傍点|style=open circle|聖なる人民}}と、選ばれたる{{傍点|style=open circle|人}}〔<u>ペトル</u>前二の九〕の{{r|中|うち}}に{{r|入|い}}らんことを苦心する者は、{{r|生活|せいかつ}}を{{r|施|ほどこ}}す{{r|神|しん}}の{{r|効力|こうりょく}}を{{r|便|べん}}{{r|利|り}}に{{r|己|おの}}れにうけん。|[p.430]}} [p.430] 感覚において、光の中を歩む者はつまずかないのと同様に、精神において、完全な聖さの中に留まる者は悪を考えず、悪の理性を働かせません。なぜなら、「光と闇との交わりはなく、教会と偶像との結びつきもない」(コリント第二 6章15-16節)からです。ですから、自分自身を神の神殿であると認識し、心の中に偶像を描かないように努めなさい。魂に働くすべての情欲は偶像です。ですから、「人は何に打ち負かされるかによって、その者のしもべとなる」(ペテロ第二 2章19節)と美しく言われています。もし私たちが肉欲に囚われているなら、明らかに、私たちは聖なる、情欲のない聖霊に囚われていません。なぜなら、「だれも二人の主人に仕えることはできない。あなたがたは、神と富に仕えることはできない」(マタイ 6章24節)と言われているからです。神の神殿は聖なるものであり、「汚れも、しわも、そのようなものは一切ない」(エフェソ 5章27節)のです。「聖霊は欺きから逃げ去り、理性のない考えから遠ざかり、悪しき魂に入り込むことはない」(知恵書 1章4-5節)のです。 ですから、私たちの律法全体が神の指によって、インクではなく神の霊によって心に書かれていることを確信した私たちは、 「わたしは真理である」(ヨハネ14章7節)と言われた律法授与者の真理を受け入れましょう。神は、預言者が言うように、「わたしの律法を彼らの心に与え、わたしはそれを彼らの心に書き記す」(エレミヤ31章33節)ように、ふさわしい者の心に割礼を施し、その善の律法を書き記してくださいます。「選ばれた世代」、「王なる祭司」、「聖なる国民」 、「選ばれた民」(ペテロ第一2章9節)に入ろうとする者は皆、命を与える御霊の効力を喜んで受け入れます。 [p.431] {{Quotation|故に<u>ハリストス</u>に{{r|於|おけ}}る生活の<u>ハリストス</u>と同形なる公正に{{r|進|すゝ}}むを、{{r|縦|たと}}ひ久しからずと{{r|雖|いへど}}も、我等にも{{r|賜|たま}}はらんことを{{r|願|ねが}}ひ{{r|且|かつ}}祈るべし。けだし{{r|如此|かくのごとき}}の{{r|霊魂|たましい}}は{{傍点|style=open circle|面の恥}}〔[[第六「カフィズマ」#43:16|聖詠四十三の十六]]〕を脱し、{{r|最早|もはや}}汚れたる{{r|思|おもい}}に占領せられず、{{r|悪者|あくしゃ}}と{{r|姦通|かんつう}}せずして、{{r|疑|うたがい}}なく天の{{r|新郎|しんろう}}と{{r|親|しん}}{{r|与|よ}}をなさん、何となれば{{r|自|みづ}}から彼と{{r|同形|どうけい}}なればなり。彼に対するの愛を以て刺激せられたる{{r|霊魂|たましい}}は望みて{{r|絶|たえ}}{{r|入|い}}らん〔[[第十一「カフィズマ」#83:1|聖詠八十三の一]]〕。{{r|我|われ}}{{r|敢|あえ}}ていふ、{{r|成聖|せいせい}}を{{r|享|うく}}ることの{{r|不|ふ}}{{r|朽|きゅう}}なる{{r|契約|けいやく}}により、彼とかくの如く{{r|美|び}}なる{{r|心中|しんちゅう}}{{r|秘|ひ}}{{r|密|みつ}}の{{r|体合|たいごう}}を{{r|為|な}}すを望まん。{{r|如此|かくのごとき}}の{{r|霊魂|たましい}}は実に幸福なり、彼は{{r|霊神|れいしん}}{{r|上|じょう}}の愛に勝たれたつものとして、{{r|神|かみ}}{{r|言|ことば}}に{{r|嫁|か}}すること当然なり、故に彼は{{r|敢|あえ}}て言ふべし、左の如く言ふべし、曰く『我が{{r|霊|たましい}}はわが{{r|神|かみ}}をたのしまん、そは我に{{r|救|すくい}}の{{r|衣|ころも}}をきせ、義の{{r|外服|がいふく}}をまとはせて、{{r|新郎|しんろう}}が{{r|冠|かんむり}}をいたゞき、{{r|新|しん}}{{r|婦|ぷ}}が{{r|玉|たま}}こがねの{{r|飾|かざり}}をつくるが如くしたまへばなり』〔<u>イサイヤ</u>六十一の十〕けだし{{r|王|おう}}は彼の善良を望みて〔[[第六「カフィズマ」#44:12|聖詠四十四の十二]]〕、彼をたゞ{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}と名づくるのみならず、{{r|王|おう}}の{{r|女|むすめ}}及び{{r|皇后|こうごう}}と名づくるを{{r|賜|たま}}へり、{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}と名づくるは{{r|聖神|せいしん}}の{{r|為|ため}}に{{r|領有|りょうゆう}}せられたるによる、{{r|王|おう}}の{{r|女|むすめ}}と名づくるは{{r|父|ちゝ}}より光の子たることをうけたるによる、{{r|又|また}}{{r|皇后|こうごう}}と名づくるは{{r|独生|どくせい}}{{r|者|しゃ}}の{{r|光栄|こうえい}}の{{r|神性|しんせい}}と{{r|配合|はいごう}}せしによるなり。|[p.431]}} [p.432] {{Quotation|けだし本性に{{r|於|おい}}て{{r|一|いつ}}たる主は、いかんして人間の{{r|救|すくい}}の摂理の為に多くの名を{{r|比喩|ひゆ}}{{r|的|てき}}に{{r|己|おのれ}}にうけしか。{{r|何故|なにゆえ}}{{r|甲処|こうしょ}}には{{r|石|いし}}〔{{二重線|コリンフ}}前十の四〕及び門〔<u>イオアン</u>十の七〕と名づけ、{{r|他|た}}{{r|処|しょ}}には{{r|斧|おの}}〔<u>ルカ</u>十五の一〕及び{{r|餅|ぱん}}と名づけしか〔同六の三十五〕。{{r|石|いし}}と名づけしは{{r|其|その}}{{r|勢力|せいりょく}}の動かすべからざると近づくべからざるとによる、{{r|門|もん}}と名づけしは彼によりて{{r|永世|えいせい}}に{{r|入|い}}るによる、{{r|斧|おの}}とは彼は{{r|悪習|あくしゅう}}の{{r|根|ね}}を{{r|絶|た}}つによる、{{r|路|みち}}とは適当なる者を真実を{{r|識|し}}るにみちびくによる、{{r|葡|ぶ}}{{r|萄|どう}}の{{r|幹|みき}}とは{{r|人心|じんしん}}をたのしましむる{{r|酒|さけ}}が彼によりて{{r|産|さん}}せらるゝによる、また{{r|餅|ぱん}}とは{{r|有言|ゆうげん}}なる{{r|造物|ぞうぶつ}}の{{r|心|こゝろ}}を{{r|堅|かた}}むるによるなり。しかれどもこれと同じく{{r|神|かみ}}{{r|言|ことば}}の為に領有せられたる非難すべからざる{{r|霊魂|たましい}}も、{{r|固|もと}}より{{r|単純|たんじゅん}}なるものなれど、{{r|神的|しんてき}}{{r|道徳|どうとく}}に多くの進歩をなすにしたがひて、{{r|賜|たまもの}}をうけん。我が{{r|此事|このこと}}をいふは{{r|新|しん}}{{r|婦|ぷ}}の名称も{{r|勿論|もちろん}}たゞ{{r|三|みつ}}のみにあらずして、{{r|更|さら}}に{{r|多|おほ}}かるべきによるなり。 ゆゑに{{r|神|かみ}}の{{r|聖所|せいしょ}}に{{r|入|い}}りて、『我等が{{r|年少|ねんしょう}}を{{r|楽|たのし}}ましむる{{r|神|かみ}}に』〔[[第六「カフィズマ」#42:4|聖詠四十二の四]]、{{r|希臘|ギリシャ}}訳文〕{{r|就|つ}}かざらん{{r|間|あいだ}}は、{{r|此|こ}}の{{r|労|ろう}}は我等の面前にあるを知るべし、けだし我等なほ肉体にあるも、{{r|主|しゅ}}の{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}を、たまはり、{{r|成聖|せいせい}}を{{r|遂|と}}げんことは、救世主の{{r|悦|よろこ}}ぶ所にして、{{r|其時|そのとき}}には、{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如くいふを{{r|得|え}}ん、曰く『我等は肉に在りて{{r|行|おこな}}へども、肉に{{r|循|したが}}ひて{{r|戦|たゝか}}はず、我等が{{r|戦|たゝかい}}の{{r|器|うつわ}}は肉に属せず、{{r|乃|すなわち}}{{r|神|かみ}}に{{r|由|よ}}りて{{r|塁|とりで}}を{{r|破|やぶ}}る{{r|能|ちから}}あり、我等{{r|此|これ}}を以て{{r|諸|もろもろ}}の{{r|謀|はかりごと}}と{{r|凡|およ}}そ{{r|神|かみ}}の知識に{{r|逆|さか}}ふ高慢とを破る』〔{{二重線|コリンフ}}後十の三至五〕。|[p.432]}} [p.433] {{Quotation|故に{{r|尚|なほ}}{{r|此処|こゝ}}に{{r|於|おい}}ても我等は罪なる{{r|慾|よく}}を十字架に{{r|釘|くぎ}}すること、預言者の{{r|祈祷|きとう}}の如くすべし、曰く『我が肉体を{{r|爾|なんぢ}}を{{r|畏|おそ}}るゝの{{r|畏|おそ}}れに{{r|釘|くぎ}}す』〔[[第十七「カフィズマ」#118:120|聖詠百十八の百二十]]〕。けだし{{r|使徒|しと}}のいはゆる『神の国を{{r|嗣|つ}}ぐあたはざる』〔{{二重線|コリンフ}}前十五の五十〕肉と血とは、{{r|此|こ}}の{{r|見|み}}ゆる{{r|体|からだ}}をいふにあらずして、〔彼は{{r|神|かみ}}の造る所なり〕{{傍点|style=open circle|{{r|悖逆|はいぎゃく}}の子}}〔{{二重線|エフェス}}二の二〕の{{r|中|うち}}に行為する凶悪の{{r|神|しん}}によりて{{r|起|おこ}}さるゝ肉体の{{r|念慮|ねんりょ}}を指す、何となれば<u>ハリストス</u>に{{r|於|お}}ける完全なる苦行者のために『{{r|戦|たゝかい}}は{{r|血肉|けつにく}}に{{r|於|おい}}てするに非ず、{{r|此|こ}}の{{r|暗昧|あんまい}}の{{r|世|せ}}{{r|君|くん}}に{{r|於|おい}}てし、凶悪の{{r|諸神|しょしん}}に{{r|於|おい}}てすればなり』〔{{二重線|エフェス}}六の十二〕。 故にもし{{r|此|こ}}の行為は天性自然の行為にあらずして、反対なる{{r|力|ちから}}の行為なるを{{r|認|みと}}むるならば、彼等に対して<u>ハリストス</u>の{{r|全|まつた}}き{{r|軍|ぐん}}{{r|備|び}}をおのれにうけ、『{{r|其|そ}}の{{r|奸計|はかりごと}}を{{r|禦|ふせ}}ぐを{{r|得|う}}べし』〔{{二重線|エフェス}}六の十一〕何となれば救世主は『{{r|蛇|だ}}{{r|蝎|かつ}}及び{{r|悉|ことごと}}くの{{r|敵|てき}}の{{r|力|ちから}}を{{r|踏|ふ}}む』の{{r|権|けん}}を我等に{{r|賜|たま}}ふによる〔<u>ルカ</u>十一の十九〕。{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}{{r|尚|なほ}}{{r|肉体|にくたい}}に{{r|居|を}}るも{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如く{{r|言|い}}ふを{{r|得|え}}んが為なり、曰く『もしわが心に不法のあるを{{r|見|み}}しならば主はわれに{{r|聴|き}}かざらん』〔[[第九「カフィズマ」#65:18|聖詠六十五の十八]]〕また曰く『{{r|我|われ}}{{r|尤|とが}}なしといへども、彼等は{{r|趨|は}}せ{{r|集|あつ}}まりて{{r|武具|ぶぐ}}をそなふ』〔同上五十八の五〕と、これ{{r|言|いふ}}{{r|意|こゝろ}}は我等は{{r|志|こゝろざ}}す所に進行し、{{r|即|すなわち}}{{r|上|うえ}}より{{r|召|め}}す所の{{r|褒章|ほうしょう}}に{{r|進向|しんこう}}しつゝ、如何なる肉体の慾もあるなうして、天に生涯を送ること{{r|易|やす}}からん。けだし{{r|諸|もろもろ}}の慾に遠ざかりて{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如く{{r|言|い}}ふことを{{r|得|う}}ればなり、曰くたゞに{{傍点|style=open circle|信を守る}}のみならず、{{傍点|style=open circle|{{r|馳|は}}すべき程を尽せり}}〔<u>テモフェイ</u>後四の七〕。|[p.433]}} [p.434] {{Quotation|たゞ<u>ハリストス</u>を信ずるのみならず、彼と共に{{r|苦|くるしみ}}をうくることも{{r|肝要|かんよう}}なり、{{r|録|ろく}}していへる如し、『{{r|汝|なんぢ}}{{r|等|ら}}に{{r|賜|たま}}はりしはたゞ彼を信ずるのみならず、{{r|亦|また}}彼の為に{{r|苦|くるしみ}}をうくることなり』〔{{二重線|フィリッピ}}一の二十九〕。たゞ{{r|神|かみ}}を信ずるのみは地上の事を{{r|念|おも}}ふ{{r|者|もの}}に相応するのみならず、不潔の{{r|神|しん}}にさへ相応するは我が{{r|言|ことば}}を{{r|俟|ま}}たざるべし、いへらく『{{r|我|われ}}{{r|爾|なんぢ}}が{{r|誰|たれ}}なるを{{r|知|し}}る、{{r|乃|すなわ}}ち神の子なり』〔<u>マルコ</u>一の二十四、<u>マトフェイ</u>八の二十九〕。『けだし彼も{{r|此|これ}}も<u>ハリストス</u>の十字架の敵なり、彼等が{{r|終|おわり}}は{{r|滅亡|めつぼう}}なり、彼等が{{r|神|かみ}}は{{r|腹|はら}}なり、彼等が{{r|栄|えい}}とする所は{{r|辱|はぢ}}なり、彼等は地上の事を{{r|念|おも}}ふ』〔{{二重線|フィリッピ}}三の十八、十九〕と見るか十字架の敵はたゞ背教者の{{r|力|ちから}}のみにあらず、地上の事を{{r|念|おも}}ふ者も{{r|亦|また}}{{r|然|しか}}るを。しかれども<u>ハリストス</u>と共に{{r|苦|くるし}}みをうけて共に{{r|栄|えい}}せらるゝことはたゞ{{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|於|おい}}て{{r|己|おのれ}}を十字架に{{r|釘|くぎ}}して主の{{r|疵|きず}}を{{r|己|おのれ}}の{{r|体|からだ}}に{{r|負|お}}ふ{{r|者|もの}}のみ{{r|能|よく}}し{{r|得|う}}るなり。|[p.434]}} [p.435] {{Quotation|哲学を正しく{{r|攻究|こうきゅう}}して、{{r|霊魂|たましい}}を悪の{{r|汚穢|けがれ}}より{{r|救|すく}}ふ者は、哲学の目的を{{r|精確|せいかく}}に知らんこと{{r|肝要|かんよう}}なり、進行の{{r|労|ろう}}と{{r|経|けい}}{{r|過|か}}の{{r|終|おわり}}とを{{r|確|かく}}{{r|知|ち}}して、{{r|高慢|こうまん}}と{{r|功労|こうろう}}のことを{{r|思|おも}}ふ{{r|意思|いし}}とを{{r|全|まつた}}く{{r|斥|しりぞ}}け、聖書の{{r|誡命|かいめい}}にしたがひ、{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|たましい}}と{{r|生命|いのち}}をすてゝ{{r|一|いつ}}の{{r|富|とみ}}に{{r|注目|ちゅうもく}}せん{{r|為|ため}}なり、{{r|即|すなわち}}{{r|神|かみ}}が{{r|凡|およ}}そ{{r|甘|あま}}んじて{{r|苦|く}}{{r|行|ぎょう}}を{{r|自|みづ}}から{{r|任|にな}}はんと決心したる者を呼びて、{{r|其|その}}愛する所の者に<u>ハリストス</u>を愛したる{{r|為|ため}}の{{r|報償|ほうしょう}}として定め給ひしものに注目せん{{r|為|ため}}なり、{{r|此|かく}}の如き苦行の経過に{{r|於|おい}}て彼等に{{r|充分|じゅうぶん}}の{{r|路|ろ}}{{r|用|よう}}を{{r|給|きゅう}}するは<u>ハリストス</u>の十字架なり、されば彼等は{{r|此|これ}}を{{r|負|お}}ふて、{{r|楽|たのし}}みと{{r|善|ぜん}}なる{{r|希|き}}{{r|望|ぼう}}とを以て救世主<u>ハリストス</u>の{{r|跡|あと}}にしたがひ、{{r|其|その}}摂理を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|生命|いのち}}の{{r|法|ほう}}となし、{{r|路|みち}}となさんこと肝要なり、使徒の{{r|自|みづ}}から{{r|言|い}}へる如し、曰く『{{r|爾|なんぢ}}{{r|等|ら}}我に{{r|效|なら}}ふ者となれ、我が<u>ハリストス</u>に{{r|效|なら}}ふが{{r|如|ごと}}し』〔{{二重線|コリンフ}}十一の一〕又いふ『忍耐を以て我等の前にある{{r|馳|はせ}}{{r|場|ば}}を{{r|趨|はし}}りて、我等の{{r|信|しん}}の{{r|首|かしら}}及び{{r|成全|せいぜん}}{{r|者|しゃ}}なる<u>イイスス</u>を{{r|仰|あお}}ぎ{{r|望|のぞ}}むばし、彼は{{r|其|その}}{{r|前|まえ}}に{{r|在|あ}}る{{r|喜|よろこび}}に{{r|易|か}}へて{{r|辱|はぢ}}を{{r|意|い}}とせず、十字架を忍びて{{r|神|かみ}}の{{r|宝|ほう}}{{r|座|ざ}}の右に{{r|坐|ざ}}せり』〔{{二重線|エウレイ}}十二の一、二〕。 われらは{{r|神|かみ}}の{{r|賜|たまもの}}を以て{{r|自|みづ}}から{{r|高|たか}}ぶり、道徳に進むの{{r|或|あ}}る進歩を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|高慢|こうまん}}と{{r|称賛|しょうさん}}の{{r|為|ため}}の{{r|縁|えん}}{{r|由|ゆ}}となして、望む所の{{r|終|おわ}}りに{{r|達|たつ}}せざる{{r|先|さき}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|志|こゝろざし}}の{{r|撓|たわ}}まざらんが{{r|為|ため}}、{{r|高慢|こうまん}}により先になせる勤労を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に無益となさゞらんが{{r|為|ため}}、及び{{r|神|しん}}の{{r|恩寵|おんちょう}}の我等を{{r|引誘|いんゆう}}する{{r|成全|せいぜん}}に{{r|堪|た}}へざるものとならざらんが{{r|為|ため}}に{{r|戦々|せんせん}}{{r|競々|きょうきょう}}たらざるべからざるなり。|[p.435]}} [p.436] {{Quotation|故に勤労に{{r|於|おけ}}るの{{r|尽力|じんりょく}}を決して{{r|弱|よわ}}むべからず、{{r|眼前|がんぜん}}にある所の苦行を{{r|辞|じ}}するべからず、もし先に何か遂げし所あらんには、それを以て熱心を{{r|劃|かぎ}}るべからず、{{r|乃|すなわち}}{{r|使徒|しと}}の如く{{傍点|style=open circle|後}}を忘れて{{傍点|style=open circle|前}}に進み〔{{二重線|フィリッピ}}三の十三〕、{{r|成全|せいぜん}}を{{r|求|もと}}むる者が{{r|飽|あ}}くを知らずして{{r|独|ひと}}り{{r|飢|き}}{{r|渇|かつ}}する所の義の{{r|願|ねがい}}を{{r|有|ゆう}}し、勤労の為に{{r|慮|おもんぱか}}りて心肝を{{r|摧|くだ}}かんこと{{r|肝要|かんよう}}なり。彼等は{{r|許約|きょやく}}せられたる幸福を{{r|距|さ}}ること{{r|猶|なほ}}遠くして、<u>ハリストス</u>の完全なる愛に多く{{r|達|たつ}}せざる者なるにより、{{r|謙遜|けんそん}}なる者となり、恐れに満てる者とならざるべからず。けだし{{r|此|この}}{{r|愛|あい}}を{{r|切願|せつがん}}して、天の約束を{{r|仰望|ぎょうぼう}}する者は、{{r|禁食|きんしょく}}するか、{{r|儆醒|けいせい}}するか、{{r|或|あるい}}は他のいかなる{{r|徳行|とくこう}}に熱心するも、以前の功労を以て{{r|自|みづか}}ら{{r|高|たか}}ぶらざるべく、{{r|却|かへつ}}て神聖なる{{r|望|のぞみ}}にみたさるゝ彼は{{r|己|おのれ}}を呼ぶ所の者に{{r|間断|かんだん}}なく{{r|眼|め}}を{{r|注|そゝ}}ぎて、いくばく{{r|奮闘|ふんとう}}するも{{r|其|その}}{{r|志|こゝろざ}}す所のものに{{r|比|くら}}ぶれば{{r|全|まつた}}く小なりと{{r|思|おも}}ふべし。されば{{r|其|その}}{{r|行|おこない}}により{{r|己|おのれ}}を{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に尊敬すべき者とあらはさゞらん{{r|間|あいだ}}は、{{r|労|ろう}}に{{r|労|ろう}}を{{r|加|くは}}へ、{{r|徳行|とくこう}}に{{r|徳行|とくこう}}を{{r|重|かさ}}ぬるも、{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に適当なる者となれりとの{{r|意思|いし}}を心に{{r|懐|いだ}}かずして、{{r|此|こ}}の{{r|生命|いのち}}の{{r|終|おわり}}に{{r|至|いた}}るまで{{r|悉|ことごと}}くの{{r|尽力|じんりょく}}を{{r|用|もち}}ひん。けだし{{r|行|おこない}}に{{r|於|おい}}て{{r|大|おほい}}なる者は{{r|神|かみ}}を{{r|畏|おそ}}るゝを{{r|以|もつ}}て{{r|自負|じふ}}を{{r|地|ち}}に{{r|擲|なげう}}ちて、心を謙遜し、生活の為に{{r|己|おのれ}}を{{r|罪|つみ}}し、信じて愛するの{{r|度|ど}}により{{r|許約|きょやく}}を{{r|楽|たのし}}みて、{{r|自|みづ}}から{{r|労|ろう}}するの{{r|如何|いかん}}を{{r|以|もつ}}てせざるは、これぞ{{r|哲学|てつがく}}の{{r|最|もつとも}}{{r|卓越|たくえつ}}せる{{r|功労|こうろう}}なる。けだし{{r|賜|たまもの}}は{{r|大|おほい}}なるにより、これに{{r|相応|そうおう}}する{{r|勤労|きんろう}}を{{r|見|み}}{{r|出|いだ}}すことあたはざればなり。|[p.436]}} [p.437] {{Quotation|さりながら{{r|信|しん}}と{{r|望|ぼう}}とは{{r|大|おほい}}ならざるべからずして、これを{{r|以|もつ}}て報酬を測るべく、勤労を以てすべからざるなり。{{r|然|しか}}して{{r|信|しん}}の{{r|根本|こんぽん}}は{{r|心神|しんしん}}の{{r|貧|まづ}}しきと{{r|神|かみ}}に対する{{r|無|む}}{{r|量|りょう}}の{{r|愛|あい}}とにあり。 希望の目的に応じ、哲学によりて、生活せんと決心したる者の{{r|為|ため}}に{{r|余|よ}}は{{r|充分|じゅうぶん}}にのべたりと{{r|思|おも}}ふ。{{r|今|いま}}{{r|又|また}}これに{{r|加|くは}}ふるにかくの如き者はいかに{{r|互|たがい}}に{{r|交際|こうさい}}して{{r|如何|いか}}なる{{r|労|ろう}}を{{r|愛|あい}}するを{{r|要|よう}}するかを示すべし、{{r|天|てん}}{{r|都|と}}に{{r|達|たつ}}するに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}{{r|其|その}}進行を協力して{{r|成|な}}さん{{r|為|ため}}なり。 {{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|於|おい}}て尊敬すべきと認めらるゝものを{{r|断|だん}}じて{{r|尊|たつと}}ばず、{{r|親族|しんぞく}}を{{r|棄|す}}て、もろ{{く}}{{r|地下|ちか}}の{{r|栄|さかえ}}を{{r|棄|す}}てゝたゞ{{r|天上|てんじょう}}の{{r|尊栄|そんえい}}に{{r|着眼|ちゃくがん}}し、{{r|神|かみ}}による{{r|兄弟|けいてい}}と{{r|心神|しんしん}}にて{{r|結合|けつごう}}する{{r|者|もの}}は、{{r|世|よ}}と{{r|共|とも}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|たましい}}をも{{r|棄|す}}つること{{r|肝要|かんよう}}なり。{{r|霊魂|たましい}}を{{r|棄|す}}つとは{{r|何|なに}}に{{r|於|おい}}ても{{r|己|おのれ}}の{{r|旨|むね}}を求めずして、{{r|反|かへ}}つて{{r|己|おのれ}}の{{r|旨|むね}}を{{r|矯正|きょうせい}}し、{{r|院長|いんちょう}}を以て己の為に{{r|神|かみ}}の{{r|言|ことば}}となして、これを{{r|益用|えきよう}}すること、{{r|善良|ぜんりょう}}なる{{r|舵師|だし}}の如くし、{{r|兄弟|けいてい}}{{r|社会|しゃかい}}のすべてを{{r|挙|あ}}げて、{{r|同心|どうしん}}{{r|協力|きょうりょく}}して、{{r|神|かみ}}の{{r|旨|むね}}の{{r|湊|みなと}}に{{r|向|むか}}はしむるにあり。|[p.437]}} 【以下未入力(p.438-457)】 {{DEFAULTSORT:えしふとまかりいせんしよ しよかん2}} <!-- [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:埃及マカリイ全書|52]]--> {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{PD-old}} }} <!-- --> lg27jn9pwtgtql6g4hat802i648pacz 243139 243138 2026-06-12T15:18:46Z 村田ラジオ 14210 243139 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しかれども{{r|或者|あるもの}}は{{r|自|みづ}}から<u>ハリストス</u>の{{r|機|き}}{{r|密|みつ}}に遠ざかるのみならず、『{{r|濁|にご}}れる{{r|敗壊|はいかい}}を以て{{r|其|その}}{{r|親友|しんゆう}}を{{r|誘|いざな}}ひ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-hab/2:8-17 <u>アバクム</u>二の十五]〕『神を{{r|識|し}}るべきものゝ彼等に{{r|明|あきらか}}にあらはるる』にも{{r|拘|かか}}はらず、神の真理を不義の{{r|中|うち}}に隠さんとす。けだし『{{r|其|その}}{{r|思念|おもひ}}は{{r|虚|むな}}しくなり』{{r|其|その}}{{r|無智|むち}}の心は{{r|昧|くら}}みしにより〔{{二重線|ロマ}}一の十八至二十一〕。彼等は説を{{r|為|な}}していへり、{{r|恥|は}}づべき{{r|情慾|じょうよく}}は天性自然にして神より我等に付与せられたるものなりと、{{r|是|こ}}れ{{r|即|すなはち}}{{r|敗壊|はいかい}}の{{r|楽|たのし}}み、不正なる{{r|忿怒|いきどほり}}、神の為に発するに{{r|非|あら}}ざる不適当なる{{r|怒|いかり}}、及び{{r|凡|およ}}そ{{r|此|これ}}に類するものをいふなり。|[p.425]}} 《現代語訳》 [p.425] 完全で聖なる人となるためには、彼自身が神の内にいるだけでなく、神が彼の内にいることも必要であることを知りなさい。主はこう言われる。「彼が私の内にいれば、私も彼の内にいる」(ヨハネ15章5節)。神の人間は、神の幕屋に住み、この幕屋を最も純粋な神性の聖なる山に建てなければなりません。それは、情欲の暗い力が彼を支配することを許さない方の栄光を受け入れるだけでなく、その栄光に抱かれるためです。救い主は、ふさわしい人々の中に、聖性と生来の無執着のために住まわれるからです。それは、救い主がご自身が無執着であるように、彼を受け入れた人々をも無執着にし、もはや嵐に巻き込まれず、どんな風にも吹き飛ばされない者とするためです。 また、ある人々はキリストの奥義から遠く離れているだけでなく、「わざわいなるかな、その隣り人に怒りの杯を飲ませて、これを酔わせ、 彼らの隠し所を見ようとする者よ。」(ハバクク書 2章15節)、神の真理を偽りの中に含み、「彼らの中には、神の知恵が明らかに示されている」と言われています。なぜなら、「思いがむなしく」なり、愚かな心によって暗くなった(ローマ 1章18–21節)ため、彼らは、腐敗の快楽、不当な短気、神によらない下品な怒りなど、恥ずべき情欲は神によって私たちに生まれつき備わっているものだと言うからです。 {{Quotation|ゆゑに彼等と{{r|其|そ}}の{{r|言|い}}ふ所とは真理に{{r|違|たが}}ふものとしてこれを{{r|棄|す}}て、我等を造りし者を以て我等にあたへられたる自由自主の主権を{{r|承認|うけみと}}めん、善きことに進むも{{r|悪|あし}}きことを{{r|止|や}}むるも我等に{{r|係|かか}}らんためなり。けだし真実なる審判者は、もし{{r|自|みづ}}から情慾の造物主ならば、これに占領せらるゝ我等を{{r|罰|ばつ}}せざるべし。祈る{{r|此|この}}{{r|教|をしへ}}に離れ遠ざかりて、これを{{r|思|おもひ}}にも{{r|生|しょう}}ぜしめざらんことを。けだし{{r|此|こ}}の{{r|蒙昧|もうまい}}にして{{r|愚|おろか}}なる意見は、{{r|凡|およそ}}の敬虔なる{{r|裁|さい}}{{r|智|ち}}の為に{{r|忌|い}}み{{r|嫌|きら}}ふべきものとす。神は清くして{{r|最|いと}}{{r|美|うつく}}しき天地万物の造成者なることは、世界創造の際に{{r|聖神|せいしん}}の{{r|告|つ}}げ{{r|給|たま}}ひし如し、けだしいへり、『神は{{r|其|その}}造りたる{{r|諸|もろもろ}}の物を見たまへるに{{r|甚|はなは}}だ{{r|善|よ}}かりき』〔創世記一の三十一〕。されば<u>イエレミヤ</u>は{{r|恥|は}}づべき情慾のために{{r|哀|かなし}}み、かつ{{r|惑|まど}}ふていへり、『主の命じ給ふにあらずば、誰か事を述べんに、その事すなはち成らんや、{{r|禍|わざわい}}も{{r|福|さいわい}}も{{r|至|し}}{{r|高者|こうしゃ}}の口より{{r|出|い}}づるにあらずや』〔<u>イエレミヤ</u>哀歌三の三十六‐三十八〕。故に{{r|福音|ふくいん}}{{r|経|きょう}}に聡明なる天軍は主に{{r|問|と}}ふていへり、『主よ{{r|爾|なんぢ}}は{{r|美|よき}}{{r|種|たね}}を{{r|爾|なんぢ}}の{{r|田|た}}に{{r|撒|ま}}きたるに{{r|非|あら}}ずや、{{r|然|しか}}らば何に由りて{{傍点|style=open circle|此の}}{{r|稗|ひえ}}あるか』〔<u>マトフェイ</u>十三の二十七〕。[p.427]また他の所に救世主は{{r|自|みづ}}から彼等の事をいへり、『{{r|凡|およ}}そ我が天の父の{{r|植|うゑ}}ざりし植物は{{r|其|その}}{{r|根|ね}}{{r|絶|たや}}されん』と〔<u>マトフェイ</u>十五の十三〕。しかれどもすべて神の{{r|植|う}}ゑしものゝ{{r|美|び}}なることは、<u>ハリストス</u>これをいひ、<u>パウェル</u>もこれを{{r|証|しょう}}せり、曰く『{{r|蓋|けだし}}神の{{r|悉|ことごと}}くの造物は善なり』〔<u>テモフェイ</u>前四の四〕。故に知るべし我等の{{r|中|うち}}にかくるゝ情慾は本来我等に属するに非ずして、他に属するものなるを。けだし{{r|言|い}}ふあり、『我が{{r|隠|ひそか}}なる{{r|咎|とが}}より我を{{r|浄|きよ}}め{{r|給|たま}}へ、{{r|故|こ}}{{r|犯|はん}}より{{r|爾|なんぢ}}の{{r|僕|ぼく}}を{{r|止|とゞ}}めよ』〔[[第三「カフィズマ」#18:13|聖詠十八の十三、十四]]〕、またいふあり、『外人は{{r|起|た}}ちて我を{{r|攻|せ}}め、強き者は我が{{r|霊|たましい}}を{{r|覓|もと}}む』〔[[第七「カフィズマ」#53:5|同上五十三の五]]〕。またいふあり、『主よ我と{{r|争|あらそ}}ふ者と{{r|争|あらそ}}ひ、我と{{r|戦|たゝか}}ふ者と{{r|戦|たゝか}}ひ給へ』〔[[第五「カフィズマ」#34:1|同上三十四の一]]〕。それ此の{{傍点|style=open circle|{{r|隠|ひそか}}なるもの}}{{r|或|あるい}}は此の{{傍点|style=open circle|争ふ者}}{{r|或|あるい}}は{{傍点|style=open circle|戦ふ者}}{{r|或|あるい}}は此の{{傍点|style=open circle|故犯}}とはこれ<u>ハリストス</u>の徳行に{{r|逆|さから}}ふ凶悪なる{{r|諸神|しょしん}}を示すにあらずして何ぞや。|[p.426]}} [p.426] したがって、彼らや彼らの言葉を真理から逸脱したものとして捨て去り、私たちを創造した方が私たちに与えてくださった自由の専制を認め、最善を目指し、最悪を避けるのは私たち次第であることを認めましょう。真の審判者ご自身が創造主であるならば、情欲にとりつかれた私たちを罰するはずがありません。お願いですから、この教えは捨て去り、頭に浮かばないようにしてください。この不合理で愚かな考えは、すべての敬虔な理解力にとって不快です。神は、創造の時に聖霊が告げたように、純粋で最も美しい自然の創造主です。「見よ、すべてが非常に良い」(創世記 1章31節)と神は言っています。エレミヤは、恥ずべき情欲について嘆き、困惑しながらこう言います。「主は『あなたのものは誰か』と言われたのではない。主が語られたから、そうなったのだ。主は『いと高き者の口からは悪は出ず、善は出る』と命じられたのではない。(哀歌エレミヤ3章36-38節)」。それゆえ、福音書の中で、知性ある者たちは主にこう問いかけます。「主よ、あなたは畑に良い種を蒔かれたではありませんか。では、これらの「毒麦」はどこから来るのでしょうか(マタイ13章27節)。別の箇所では、救い主ご自身がそれらについてこう言っています。「天の父が植えなかった庭は、みな根こそぎにされるであろう」(マタイ15章13節)。そして、神の植えたものはすべて美しいと、パウロはキリストが「神の造られたものはすべて良いものである」(テモテ第一4章4節)と言っているように、パウロもそのことを証言しています。ですから、私たちの中に秘められた情熱は私たち自身のものではなく、私たちとは無関係のものであることを知ってください。「わたしの隠れた罪を清め、あなたのしもべを異邦人の罪からお守りください」(詩篇19篇13-14節)、「異邦人がわたしに立ち向かい、力ある者たちがわたしの命を狙っています」(詩篇54篇5節)、「主よ、わたしを害する者を裁き、わたしと戦う者と戦ってください」(詩篇35篇1節)と書いてあるからです。では、この「隠れた」とは、あるいは「罪を犯す者」や「戦う者」、あるいは「異邦人」とは、キリストの徳に敵対する悪霊ではないとしたら、何を意味するのでしょうか。 {{Quotation|律法も内部の人の{{r|潔浄|けつじょう}}のことを公然と呼ぶを精密に吟味せよ。いふあり、『汝の主、神の名を{{r|妄|みだり}}に口にあぐべからず、けだし主は己の名を{{r|妄|みだ}}りに口にあぐる者の心を清めざるべし』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-deu/5:1-11 {{r|復傳|ふくでん}}{{r|律令|りつれい}}五の十一]〕。ゆゑに使徒も勧めて{{r|明|あきら}}かにいへり、『{{r|己|おのれ}}を{{r|凡|およそ}}の{{r|肉|にく}}と{{r|神|しん}}との{{r|汚|けがれ}}より{{r|潔|きよ}}くせよ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-2cor/7:1-5 {{二重線|コリンフ}}後七の一]〕。また他の処にもいふ『心は{{r|灑|そゝ}}がれて悪しき意念を去れ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-heb/10:16-22 {{二重線|エウレイ}}十の二十二]〕、又いふ『汝等の{{r|神|しん}}と{{r|霊|れい}}と{{r|体|たい}}とは{{r|全|まつと}}うし{{r|護|まも}}られて{{r|疵|きず}}なからん』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-1th/5:16-23 {{二重線|ソルン}}前五の二十三]〕、[p.428]又いふ『{{r|疵|きず}}なき神の子とならん為なり』〔{{二重線|フィリッピ}}二の十五〕。ゆゑに{{r|凡|すべ}}て子たる{{r|位地|いち}}を{{r|賜|たま}}はらんことを願ふ者は{{r|疵|きず}}なき{{r|体|からだ}}を有するのみならず、{{r|疵|きず}}なき{{r|霊|たましい}}をも有すること、{{r|左|さ}}の如くならざるべからず『{{r|願|ねがは}}くは我が心{{r|爾|なんぢ}}の{{r|律|おきて}}に{{r|玷|きず}}なからん、我が{{r|羞|はぢ}}を{{r|得|え}}ざらん為なり』〔[[第十七「カフィズマ」#118:80|聖詠百十八の八十]]〕。けだし律法の{{r|下|もと}}に居る者は、たゞ肉体の{{r|稱|しょう}}{{r|義|ぎ}}を遂げて、外部の{{r|潔浄|けつじょう}}を守れども、{{r|恩寵|おんちょう}}の{{r|下|もと}}に{{r|居|を}}る者は、{{r|成聖|せいせい}}により内部の平安を願ふて、{{r|左|さ}}の如くいひし者にしたがふなり、曰く、『もし汝等の義は学士お呼び<u>ファリセイ</u>等の義に{{r|勝|まさ}}らずば{{r|爾|なんぢ}}{{r|等|ら}}天国に入るを得ず』〔<u>マトフェイ</u>五の二十〕、何となれば<u>ファリセイ</u>等は智を{{r|盲|くら}}まして、{{傍点|style=open circle|杯と皿の外}}を{{r|潔|きよ}}むればなり〔<u>マトフェイ</u>二十三の二十五〕。今も彼等に似たる新<u>ファリセイ</u>は、未熟なる才智を以て外部の人を粉飾し、{{r|自|みづ}}から己を義とせんとす、しかれども{{r|聖神|せいしん}}は彼等の{{r|神|しん}}と共に彼等が神の子たるを{{r|証|しょう}}すること、使徒と共に{{r|証|しょう}}する如くせざるべし、言ふあり、『此の{{r|神|しん}}{{r|自|みづ}}から我等の{{r|神|しん}}と共に我等が神の子たるを{{r|証|しょう}}す』〔{{二重線|ロマ}}八の十六〕。彼等は内部の人の{{r|聖徳|せいとく}}に成長するを自己にあらはさんことを{{r|欲|ほつ}}せずして、たゞ肉体上の功労に信任し、『{{r|王|おう}}の{{r|女|ぢょ}}の光栄は皆内部にある』〔[[第六「カフィズマ」#44:14|聖詠四十四の十四]]〕を知らざるなり。我等各人は{{r|恰|あたか}}も心中の{{r|無花果|いちじく}}の如し、主の{{r|尋|たづ}}ぬるは内部の{{r|果|か}}にありて、{{r|枝|し}}{{r|葉|よう}}の{{r|飾|かざり}}にあるにあらざるなり〔<u>マトフェイ</u>二十一の十九〕。|[p.427-p.428]}} [p.427-p.428] 律法もまた、内なる人の清さをはっきりと求めていることを、より深く考えてみましょう。「主なるあなたの神の名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える心をきよめられないからである」(申命記 5:11)とあります。それゆえ、使徒パウロもまた、はっきりとこう勧めています。「肉の汚れだけでなく、霊の汚れからも、あらゆる汚れから自分をきよめましょう」(コリント人への手紙二 7章1節 )。また別の箇所では、「心に汚れた良心を清め」(ヘブライ人への手紙 10章22節 )と言い、さらに「体と霊と魂を、完全に清く保ちなさい」(テサロニケ人への手紙一 5章23節)と言い、「あなたがたが、責められるところのない神の子となるためです」(ピリピ人への手紙 2章15節)とも言っています。したがって、養子縁組にふさわしくありたいと願う者は皆、非の打ちどころのない体だけでなく、非の打ちどころのない魂を持たなければなりません。それは、「あなたの戒めの中で、私の心が清くあって、私が恥じることのないようにしてください」(詩篇 119篇80節)と言われた方のようなものです。律法の下に生き、肉の義認だけを満たす人は外面的な清さを保ちますが、恵みの下に生きる人は、聖さにおける内面的な平和も望み、「あなたがたの義がパリサイ人や律法学者よりもまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入れません」(マタイ 5章20節)と言われた方に従います。パリサイ人は心が盲目であるため、「鏡の外側」をきよめるからです(マタイ 23章25節)。現代の新しいパリサイ人たちも、彼らと同様、未熟な心で外面を飾り、自らを正当化しますが、聖霊は、彼らが神の子であるという彼らの霊に従おうとはしません。使徒パウロはこう言っています。「御霊みずからわたしたちの霊に従われます。わたしたちは神の子なのですから」(ローマ8章16節)彼らは、内なる人の聖さが成長していることを自ら示そうとせず、肉の功績だけに頼っています。「王の娘の栄光はすべて内にある」(詩篇45篇14節)ことを彼らは知りません。私たち一人ひとりは、いわば心のいちじくの木のようで、主はその葉の飾りではなく、内なる実を求めておられるのです(マタイ21章19節)。 [p.429] {{Quotation|故に{{r|恥|は}}づべき情慾を弁護して、天然自然なるものとし、{{r|偶然|ぐうぜん}}に人に{{r|入|い}}りしにあらずといふ者は、『{{r|神|かみ}}の真実を己の{{r|偽|いつわり}}に{{r|易|か}}ふるなり』〔{{二重線|ロマ}}一の二十五〕何となれば我が{{r|先|さき}}にいひし如く{{r|無|む}}{{r|玷|てん}}{{r|純潔|じゅんけつ}}なる者は{{r|其|その}}{{r|像|ぞう}}を{{r|己|おのれ}}に{{r|肖|に}}たるものとなしたりしが、『{{r|悪|あく}}{{r|鬼|き}}の{{r|猜|そね}}みにより死は世に{{r|入|い}}りたればなり』〔知恵書二の二十四〕。ゆゑに人間は不法によりて{{r|孕|はら}}まれ、罪に{{r|於|おい}}て{{r|生|うま}}れて、〔[[第七「カフィズマ」#50:7|聖詠五十の七]]〕{{r|母|ぼ}}{{r|腹|ふく}}より離れ遠ざかる者となり、{{r|母|ぼ}}{{r|胎|たい}}より{{r|迷|まよい}}に{{r|居|を}}りて、<u>アダム</u>より以後<u>ハリストス</u>の{{r|来|きた}}るに至るまで罪が王となりしにより神の{{r|羔|こひつじ}}は{{r|憐|あわれみ}}を{{r|垂|た}}れて{{r|来|きた}}り給へり、これ{{r|先|ま}}づ強き者を{{r|縛|ばく}}し、{{r|其後|そののち}}{{r|鹵|ろ}}{{r|獲|かく}}せられたる器物を{{r|奪|うば}}ひ{{r|回|かへ}}して、己の力を以て世の罪を取らん為なり、言ふあり『{{傍点|style=open circle|擄者を{{r|擄|とりこ}}にす}}』と、又いふ『{{r|献物|さゝげもの}}をうく』と〔[[第九「カフィズマ」#67:19|聖詠六十七の十九]]〕。 我等は{{r|俘|ふ}}{{r|虜|りょ}}たるをまぬかれ、『土に属する者の{{r|状|かたち}}を{{r|衣|き}}たる如く、天に属する者の{{r|状|かたち}}』〔{{二重線|コリンフ}}前十五の四十九〕を{{r|衣|き}}『我等の{{r|肢|し}}{{r|体|たい}}を義の{{r|僕|ぼく}}となして、{{r|成聖|せいせい}}に{{r|委|ゆだ}}ぬること罪に{{r|委|ゆだ}}ねし如くせんことを』{{r|慮|おもんぱか}}らざるべからず〔{{二重線|ロマ}}六の十九〕。我等は信ず、われら{{r|躓|つまづ}}かずして光の{{r|中|うち}}を行く者は、神の奇跡を認めんを要するを。録して言ふ所の如し、曰く『我が目を{{r|啓|ひら}}き{{r|給|たま}}へ、{{r|然|しか}}せば{{r|我|われ}}{{r|爾|なんぢ}}が{{r|律法|りっぽう}}の{{r|奇|き}}{{r|跡|せき}}を{{r|観|み}}ん』〔[[第十七「カフィズマ」#118:19|聖詠百十八の十九]]〕。|[p.429]}} [p.429] したがって、恥ずべき情欲を自然なものとして、偶然に人に入り込んだものではないとして擁護する者は、「神の真理を偽りに変えた」(ローマ1章25節)のです。なぜなら、私が先に述べたように、汚れなき清らかな方がご自身の似姿に造られたからです。「しかし、悪魔のねたみによって死が世に入り込んだ」(知恵書2章24節)。したがって、人類は不義のうちに宿り、罪のうちに生まれ(詩篇51篇7節 )、母の胎内から離れ、アダムからキリストの到来まで罪が支配し始めてから、母の胎内から誤りの中にとどまりました。そして、憐れみ深い神の子羊が、ご自身の力で世の罪を取り除くために来られ、まず強い男を縛り、それから彼が戦利品として集めた器を奪い取られました。それは、「あなたは捕虜を捕らえ、また背く者を捕らえた」と言われたとおりです(詩篇68篇19節)。 私たちは、束縛から解放されるよう注意し、「地上の像を着ているように、天の像をも着るようになるのです」(コリント第一 15章49節)、「義のしもべである私たちの肢体を、罪に差し出したように、聖なる姿で差し出す」(ローマ 6章19節)必要があります。私たちは、光の中をつまずくことなく歩む私たちは、神が「私の目を開いてください。そうすれば、あなたの律法からあなたの驚くべき御業を理解できます」(詩篇 119篇18節)と言われたように、神の驚くべき御業を見る運命にあると信じています。 [p.430] {{Quotation|けだし光の{{r|中|うち}}を行く者は五感に{{r|躓|つまづ}}きを{{r|来|きた}}さゞる如く、完全なる{{r|成聖|せいせい}}に{{r|居|を}}る者も心に{{r|奸計|かんけい}}を思はず、{{r|悪|あ}}しく{{r|慮|おもんぱか}}らざるなり。けだし『{{r|光|ひかり}}は{{r|暗|やみ}}と何の{{r|交|まじわ}}ることのあらん、神の{{r|殿|でん}}は偶像と何の同じきことのあらん』〔{{二重線|コリンフ}}後六の十五、十六〕、故に己を神の{{r|殿|でん}}と{{r|認|みと}}むべく、{{r|思|おもい}}の偶像を心中に{{r|画|えが}}かざらんことを{{r|力|つと}}めよ。けだし{{r|霊魂|たましい}}の{{r|中|うち}}に動作する{{r|凡|すべ}}ての{{r|情慾|じょうよく}}は偶像なり、故に『勝たるゝ者は勝つ者の奴隷たり』とは{{r|最|いと}}{{r|善|よ}}く言へるなり〔<u>ペトル</u>後二の十九〕。もし我等は肉体の慾に{{r|勤|つと}}むるならば、{{r|聖|せい}}にして無慾なる{{r|神|しん}}につとめざらんこと{{r|明|あきらか}}なり、何となれば人は『{{r|二人|ふたり}}の主に{{r|事|つか}}ふるあたはず、{{r|神|かみ}}と{{r|財|たから}}とに{{r|兼|かね}}{{r|事|つか}}ふること{{r|能|あた}}はざればなり』〔<u>マトフェイ</u>六の二十四〕。{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}は聖にして『{{r|汚|けがれ}}{{r|或|あるい}}は{{r|此|かく}}の如きもの』を有せず〔{{二重線|エフェス}}五の二十七〕、『けだし{{r|聖神|せいしん}}は{{r|諂|てん}}{{r|媚|び}}を避け、{{r|無智|むち}}{{r|者|しゃ}}の{{r|思念|おもい}}より遠ざかり、{{r|教|おしえ}}は{{r|奸猾|かんかつ}}なる{{r|霊魂|たましい}}に{{r|入|い}}らざるなり』〔知恵書一の四、五〕。 ゆゑに我等が律法はすべて{{r|神|かみ}}の{{r|指|ゆび}}を{{r|以|もつ}}て心にしるさるゝものにて、{{傍点|style=open circle|{{r|墨|すみ}}を以てするにあらず}}、{{r|神|かみ}}の{{r|神|しん}}を{{r|以|もつ}}てする〔{{二重線|コリンフ}}後三の三〕ものなるを確信して、『我は真実なり』〔<u>イオアン</u>十四の七〕との{{r|給|たま}}ひし立法者の真実をうけん、彼は心の割礼を{{r|行|おこな}}ひ、適当なる者の{{r|裁|さい}}{{r|智|ち}}に{{r|其|その}}{{r|仁|じん}}{{r|慈|じ}}の{{r|法|ほう}}をしるすこと、預言者のいへる如し、曰く『われ我が{{r|律法|りっぽう}}を彼等の心に置き、彼等の{{r|思|おもい}}にしるさん』〔<u>イエレミヤ</u>三十一の三十三〕。{{傍点|style=open circle|{{r|凡|およ}}そ選ばれたる族}}と、{{傍点|style=open circle|王たる祭司班}}と、{{傍点|style=open circle|聖なる人民}}と、選ばれたる{{傍点|style=open circle|人}}〔<u>ペトル</u>前二の九〕の{{r|中|うち}}に{{r|入|い}}らんことを苦心する者は、{{r|生活|せいかつ}}を{{r|施|ほどこ}}す{{r|神|しん}}の{{r|効力|こうりょく}}を{{r|便|べん}}{{r|利|り}}に{{r|己|おの}}れにうけん。|[p.430]}} [p.430] 感覚において、光の中を歩む者はつまずかないのと同様に、精神において、完全な聖さの中に留まる者は悪を考えず、悪の理性を働かせません。なぜなら、「光と闇との交わりはなく、教会と偶像との結びつきもない」(コリント第二 6章15-16節)からです。ですから、自分自身を神の神殿であると認識し、心の中に偶像を描かないように努めなさい。魂に働くすべての情欲は偶像です。ですから、「人は何に打ち負かされるかによって、その者のしもべとなる」(ペテロ第二 2章19節)と美しく言われています。もし私たちが肉欲に囚われているなら、明らかに、私たちは聖なる、情欲のない聖霊に囚われていません。なぜなら、「だれも二人の主人に仕えることはできない。あなたがたは、神と富に仕えることはできない」(マタイ 6章24節)と言われているからです。神の神殿は聖なるものであり、「汚れも、しわも、そのようなものは一切ない」(エフェソ 5章27節)のです。「聖霊は欺きから逃げ去り、理性のない考えから遠ざかり、悪しき魂に入り込むことはない」(知恵書 1章4-5節)のです。 したがって、私たちの律法全体が神の指によって、インクではなく神の霊によって心に書かれていることを確信した私たちは、 「わたしは真理である」(ヨハネ14章7節)と言われた律法授与者の真理を受け入れましょう。神は、預言者が言うように、「わたしの律法を彼らの心に与え、わたしはそれを彼らの心に書き記す」(エレミヤ31章33節)ように、ふさわしい者の心に割礼を施し、その善の律法を書き記してくださいます。「選ばれた世代」、「王なる祭司」、「聖なる国民」 、「選ばれた民」(ペテロ第一2章9節)に入ろうとする者は皆、命を与える御霊の効力を喜んで受け入れます。 [p.431] {{Quotation|故に<u>ハリストス</u>に{{r|於|おけ}}る生活の<u>ハリストス</u>と同形なる公正に{{r|進|すゝ}}むを、{{r|縦|たと}}ひ久しからずと{{r|雖|いへど}}も、我等にも{{r|賜|たま}}はらんことを{{r|願|ねが}}ひ{{r|且|かつ}}祈るべし。けだし{{r|如此|かくのごとき}}の{{r|霊魂|たましい}}は{{傍点|style=open circle|面の恥}}〔[[第六「カフィズマ」#43:16|聖詠四十三の十六]]〕を脱し、{{r|最早|もはや}}汚れたる{{r|思|おもい}}に占領せられず、{{r|悪者|あくしゃ}}と{{r|姦通|かんつう}}せずして、{{r|疑|うたがい}}なく天の{{r|新郎|しんろう}}と{{r|親|しん}}{{r|与|よ}}をなさん、何となれば{{r|自|みづ}}から彼と{{r|同形|どうけい}}なればなり。彼に対するの愛を以て刺激せられたる{{r|霊魂|たましい}}は望みて{{r|絶|たえ}}{{r|入|い}}らん〔[[第十一「カフィズマ」#83:1|聖詠八十三の一]]〕。{{r|我|われ}}{{r|敢|あえ}}ていふ、{{r|成聖|せいせい}}を{{r|享|うく}}ることの{{r|不|ふ}}{{r|朽|きゅう}}なる{{r|契約|けいやく}}により、彼とかくの如く{{r|美|び}}なる{{r|心中|しんちゅう}}{{r|秘|ひ}}{{r|密|みつ}}の{{r|体合|たいごう}}を{{r|為|な}}すを望まん。{{r|如此|かくのごとき}}の{{r|霊魂|たましい}}は実に幸福なり、彼は{{r|霊神|れいしん}}{{r|上|じょう}}の愛に勝たれたつものとして、{{r|神|かみ}}{{r|言|ことば}}に{{r|嫁|か}}すること当然なり、故に彼は{{r|敢|あえ}}て言ふべし、左の如く言ふべし、曰く『我が{{r|霊|たましい}}はわが{{r|神|かみ}}をたのしまん、そは我に{{r|救|すくい}}の{{r|衣|ころも}}をきせ、義の{{r|外服|がいふく}}をまとはせて、{{r|新郎|しんろう}}が{{r|冠|かんむり}}をいたゞき、{{r|新|しん}}{{r|婦|ぷ}}が{{r|玉|たま}}こがねの{{r|飾|かざり}}をつくるが如くしたまへばなり』〔<u>イサイヤ</u>六十一の十〕けだし{{r|王|おう}}は彼の善良を望みて〔[[第六「カフィズマ」#44:12|聖詠四十四の十二]]〕、彼をたゞ{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}と名づくるのみならず、{{r|王|おう}}の{{r|女|むすめ}}及び{{r|皇后|こうごう}}と名づくるを{{r|賜|たま}}へり、{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}と名づくるは{{r|聖神|せいしん}}の{{r|為|ため}}に{{r|領有|りょうゆう}}せられたるによる、{{r|王|おう}}の{{r|女|むすめ}}と名づくるは{{r|父|ちゝ}}より光の子たることをうけたるによる、{{r|又|また}}{{r|皇后|こうごう}}と名づくるは{{r|独生|どくせい}}{{r|者|しゃ}}の{{r|光栄|こうえい}}の{{r|神性|しんせい}}と{{r|配合|はいごう}}せしによるなり。|[p.431]}} [p.431] ですから、たとえほんの短い間であっても、私たちもキリストにおける一貫した正しい生き方に近づくにふさわしい者と認められるよう、祈り求めましょう。そのような魂は、「顔の恥」(詩篇44篇16節)を捨て、もはや不純な思いにとらわれることもなく、もはや悪魔と姦淫を犯すこともなく、疑いなく天の花婿との交わりに入ります。なぜなら、その魂自体が一貫した生き方をしているからです。主への愛によって傷つき、「切望し、そして尽き果てた」(詩篇84篇1節)のです。あえて言えば、聖なる交わりの朽ちることのない絆を通して、主との美しく神秘的な結びつきを切望しているのです。そのような魂は、真に祝福され、幸福です。霊的な愛に打ち勝った魂は、神の言葉にふさわしく婚約しているのです。それゆえ、彼女は大胆に語り、こう言うであろう。「わが魂は主にあって喜びます。主はわたしに救いの衣と喜びの衣を着せ、花婿のようにわたしに冠を授け、花嫁のようにわたしを美しく飾ってくださいました」(イザヤ書61章10節)。王は彼女の美しさを望み(詩篇44:12)、彼女を神の神殿だけでなく、王女、王妃とも呼ぶにふさわしい者とみなした。神の神殿とは、聖霊によって養子とされた者であり、王女とは、光の父から養子とされた者であり、王妃とは、独り子の栄光の神性と結びついた者なのである。 [p.432] {{Quotation|けだし本性に{{r|於|おい}}て{{r|一|いつ}}たる主は、いかんして人間の{{r|救|すくい}}の摂理の為に多くの名を{{r|比喩|ひゆ}}{{r|的|てき}}に{{r|己|おのれ}}にうけしか。{{r|何故|なにゆえ}}{{r|甲処|こうしょ}}には{{r|石|いし}}〔{{二重線|コリンフ}}前十の四〕及び門〔<u>イオアン</u>十の七〕と名づけ、{{r|他|た}}{{r|処|しょ}}には{{r|斧|おの}}〔<u>ルカ</u>十五の一〕及び{{r|餅|ぱん}}と名づけしか〔同六の三十五〕。{{r|石|いし}}と名づけしは{{r|其|その}}{{r|勢力|せいりょく}}の動かすべからざると近づくべからざるとによる、{{r|門|もん}}と名づけしは彼によりて{{r|永世|えいせい}}に{{r|入|い}}るによる、{{r|斧|おの}}とは彼は{{r|悪習|あくしゅう}}の{{r|根|ね}}を{{r|絶|た}}つによる、{{r|路|みち}}とは適当なる者を真実を{{r|識|し}}るにみちびくによる、{{r|葡|ぶ}}{{r|萄|どう}}の{{r|幹|みき}}とは{{r|人心|じんしん}}をたのしましむる{{r|酒|さけ}}が彼によりて{{r|産|さん}}せらるゝによる、また{{r|餅|ぱん}}とは{{r|有言|ゆうげん}}なる{{r|造物|ぞうぶつ}}の{{r|心|こゝろ}}を{{r|堅|かた}}むるによるなり。しかれどもこれと同じく{{r|神|かみ}}{{r|言|ことば}}の為に領有せられたる非難すべからざる{{r|霊魂|たましい}}も、{{r|固|もと}}より{{r|単純|たんじゅん}}なるものなれど、{{r|神的|しんてき}}{{r|道徳|どうとく}}に多くの進歩をなすにしたがひて、{{r|賜|たまもの}}をうけん。我が{{r|此事|このこと}}をいふは{{r|新|しん}}{{r|婦|ぷ}}の名称も{{r|勿論|もちろん}}たゞ{{r|三|みつ}}のみにあらずして、{{r|更|さら}}に{{r|多|おほ}}かるべきによるなり。 ゆゑに{{r|神|かみ}}の{{r|聖所|せいしょ}}に{{r|入|い}}りて、『我等が{{r|年少|ねんしょう}}を{{r|楽|たのし}}ましむる{{r|神|かみ}}に』〔[[第六「カフィズマ」#42:4|聖詠四十二の四]]、{{r|希臘|ギリシャ}}訳文〕{{r|就|つ}}かざらん{{r|間|あいだ}}は、{{r|此|こ}}の{{r|労|ろう}}は我等の面前にあるを知るべし、けだし我等なほ肉体にあるも、{{r|主|しゅ}}の{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}を、たまはり、{{r|成聖|せいせい}}を{{r|遂|と}}げんことは、救世主の{{r|悦|よろこ}}ぶ所にして、{{r|其時|そのとき}}には、{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如くいふを{{r|得|え}}ん、曰く『我等は肉に在りて{{r|行|おこな}}へども、肉に{{r|循|したが}}ひて{{r|戦|たゝか}}はず、我等が{{r|戦|たゝかい}}の{{r|器|うつわ}}は肉に属せず、{{r|乃|すなわち}}{{r|神|かみ}}に{{r|由|よ}}りて{{r|塁|とりで}}を{{r|破|やぶ}}る{{r|能|ちから}}あり、我等{{r|此|これ}}を以て{{r|諸|もろもろ}}の{{r|謀|はかりごと}}と{{r|凡|およ}}そ{{r|神|かみ}}の知識に{{r|逆|さか}}ふ高慢とを破る』〔{{二重線|コリンフ}}後十の三至五〕。|[p.432]}} [p.432] 本質において唯一の主が、人類の救済という摂理のために、いかにして比喩的な意味で多くの名前を身にまとわれたことだろうか。なぜイエスは、ある箇所では岩(コリント第一 10章4節)や戸口(ヨハネ 10章7節)と呼ばれ、別の箇所では斧(ルカ 3章9節)や道(ヨハネ 14章6節)と呼ばれ、またぶどうの木(ヨハネ 15章1節)やパン(ヨハネ 6章35節)とも呼ばれるのでしょうか。―岩と呼ばれるのは、イエスの力の揺るぎなさと近づきがたい性質によるものです。―戸口と呼ばれるのは、イエスを通して永遠の命に入ることができるからです。―斧と呼ばれるのは、イエスが悪の根源を断ち切るからです。―道と呼ばれるのは、イエスがふさわしい者を真理の知識へと導くからです。―ぶどうの木と呼ばれるのは、イエスが人の心を喜ばせる実り豊かなぶどう酒を実らせるからです。そして同様に、パンと呼ばれるのは、イエスが理性を持つ被造物の心を強くするからです。同様に、神の言葉に似た、それ自体は単純でありながら、多くの霊的な徳を積むことによって、罪のない魂もまた賜物を受けるに値するとみなされるのです。私がこのように述べたのは、花嫁の称号は三つだけでなく、多くの称号を持つからです。 [p.433] {{Quotation|故に{{r|尚|なほ}}{{r|此処|こゝ}}に{{r|於|おい}}ても我等は罪なる{{r|慾|よく}}を十字架に{{r|釘|くぎ}}すること、預言者の{{r|祈祷|きとう}}の如くすべし、曰く『我が肉体を{{r|爾|なんぢ}}を{{r|畏|おそ}}るゝの{{r|畏|おそ}}れに{{r|釘|くぎ}}す』〔[[第十七「カフィズマ」#118:120|聖詠百十八の百二十]]〕。けだし{{r|使徒|しと}}のいはゆる『神の国を{{r|嗣|つ}}ぐあたはざる』〔{{二重線|コリンフ}}前十五の五十〕肉と血とは、{{r|此|こ}}の{{r|見|み}}ゆる{{r|体|からだ}}をいふにあらずして、〔彼は{{r|神|かみ}}の造る所なり〕{{傍点|style=open circle|{{r|悖逆|はいぎゃく}}の子}}〔{{二重線|エフェス}}二の二〕の{{r|中|うち}}に行為する凶悪の{{r|神|しん}}によりて{{r|起|おこ}}さるゝ肉体の{{r|念慮|ねんりょ}}を指す、何となれば<u>ハリストス</u>に{{r|於|お}}ける完全なる苦行者のために『{{r|戦|たゝかい}}は{{r|血肉|けつにく}}に{{r|於|おい}}てするに非ず、{{r|此|こ}}の{{r|暗昧|あんまい}}の{{r|世|せ}}{{r|君|くん}}に{{r|於|おい}}てし、凶悪の{{r|諸神|しょしん}}に{{r|於|おい}}てすればなり』〔{{二重線|エフェス}}六の十二〕。 故にもし{{r|此|こ}}の行為は天性自然の行為にあらずして、反対なる{{r|力|ちから}}の行為なるを{{r|認|みと}}むるならば、彼等に対して<u>ハリストス</u>の{{r|全|まつた}}き{{r|軍|ぐん}}{{r|備|び}}をおのれにうけ、『{{r|其|そ}}の{{r|奸計|はかりごと}}を{{r|禦|ふせ}}ぐを{{r|得|う}}べし』〔{{二重線|エフェス}}六の十一〕何となれば救世主は『{{r|蛇|だ}}{{r|蝎|かつ}}及び{{r|悉|ことごと}}くの{{r|敵|てき}}の{{r|力|ちから}}を{{r|踏|ふ}}む』の{{r|権|けん}}を我等に{{r|賜|たま}}ふによる〔<u>ルカ</u>十一の十九〕。{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}{{r|尚|なほ}}{{r|肉体|にくたい}}に{{r|居|を}}るも{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如く{{r|言|い}}ふを{{r|得|え}}んが為なり、曰く『もしわが心に不法のあるを{{r|見|み}}しならば主はわれに{{r|聴|き}}かざらん』〔[[第九「カフィズマ」#65:18|聖詠六十五の十八]]〕また曰く『{{r|我|われ}}{{r|尤|とが}}なしといへども、彼等は{{r|趨|は}}せ{{r|集|あつ}}まりて{{r|武具|ぶぐ}}をそなふ』〔同上五十八の五〕と、これ{{r|言|いふ}}{{r|意|こゝろ}}は我等は{{r|志|こゝろざ}}す所に進行し、{{r|即|すなわち}}{{r|上|うえ}}より{{r|召|め}}す所の{{r|褒章|ほうしょう}}に{{r|進向|しんこう}}しつゝ、如何なる肉体の慾もあるなうして、天に生涯を送ること{{r|易|やす}}からん。けだし{{r|諸|もろもろ}}の慾に遠ざかりて{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如く{{r|言|い}}ふことを{{r|得|う}}ればなり、曰くたゞに{{傍点|style=open circle|信を守る}}のみならず、{{傍点|style=open circle|{{r|馳|は}}すべき程を尽せり}}〔<u>テモフェイ</u>後四の七〕。|[p.433]}} [p.434] {{Quotation|たゞ<u>ハリストス</u>を信ずるのみならず、彼と共に{{r|苦|くるしみ}}をうくることも{{r|肝要|かんよう}}なり、{{r|録|ろく}}していへる如し、『{{r|汝|なんぢ}}{{r|等|ら}}に{{r|賜|たま}}はりしはたゞ彼を信ずるのみならず、{{r|亦|また}}彼の為に{{r|苦|くるしみ}}をうくることなり』〔{{二重線|フィリッピ}}一の二十九〕。たゞ{{r|神|かみ}}を信ずるのみは地上の事を{{r|念|おも}}ふ{{r|者|もの}}に相応するのみならず、不潔の{{r|神|しん}}にさへ相応するは我が{{r|言|ことば}}を{{r|俟|ま}}たざるべし、いへらく『{{r|我|われ}}{{r|爾|なんぢ}}が{{r|誰|たれ}}なるを{{r|知|し}}る、{{r|乃|すなわ}}ち神の子なり』〔<u>マルコ</u>一の二十四、<u>マトフェイ</u>八の二十九〕。『けだし彼も{{r|此|これ}}も<u>ハリストス</u>の十字架の敵なり、彼等が{{r|終|おわり}}は{{r|滅亡|めつぼう}}なり、彼等が{{r|神|かみ}}は{{r|腹|はら}}なり、彼等が{{r|栄|えい}}とする所は{{r|辱|はぢ}}なり、彼等は地上の事を{{r|念|おも}}ふ』〔{{二重線|フィリッピ}}三の十八、十九〕と見るか十字架の敵はたゞ背教者の{{r|力|ちから}}のみにあらず、地上の事を{{r|念|おも}}ふ者も{{r|亦|また}}{{r|然|しか}}るを。しかれども<u>ハリストス</u>と共に{{r|苦|くるし}}みをうけて共に{{r|栄|えい}}せらるゝことはたゞ{{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|於|おい}}て{{r|己|おのれ}}を十字架に{{r|釘|くぎ}}して主の{{r|疵|きず}}を{{r|己|おのれ}}の{{r|体|からだ}}に{{r|負|お}}ふ{{r|者|もの}}のみ{{r|能|よく}}し{{r|得|う}}るなり。|[p.434]}} [p.435] {{Quotation|哲学を正しく{{r|攻究|こうきゅう}}して、{{r|霊魂|たましい}}を悪の{{r|汚穢|けがれ}}より{{r|救|すく}}ふ者は、哲学の目的を{{r|精確|せいかく}}に知らんこと{{r|肝要|かんよう}}なり、進行の{{r|労|ろう}}と{{r|経|けい}}{{r|過|か}}の{{r|終|おわり}}とを{{r|確|かく}}{{r|知|ち}}して、{{r|高慢|こうまん}}と{{r|功労|こうろう}}のことを{{r|思|おも}}ふ{{r|意思|いし}}とを{{r|全|まつた}}く{{r|斥|しりぞ}}け、聖書の{{r|誡命|かいめい}}にしたがひ、{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|たましい}}と{{r|生命|いのち}}をすてゝ{{r|一|いつ}}の{{r|富|とみ}}に{{r|注目|ちゅうもく}}せん{{r|為|ため}}なり、{{r|即|すなわち}}{{r|神|かみ}}が{{r|凡|およ}}そ{{r|甘|あま}}んじて{{r|苦|く}}{{r|行|ぎょう}}を{{r|自|みづ}}から{{r|任|にな}}はんと決心したる者を呼びて、{{r|其|その}}愛する所の者に<u>ハリストス</u>を愛したる{{r|為|ため}}の{{r|報償|ほうしょう}}として定め給ひしものに注目せん{{r|為|ため}}なり、{{r|此|かく}}の如き苦行の経過に{{r|於|おい}}て彼等に{{r|充分|じゅうぶん}}の{{r|路|ろ}}{{r|用|よう}}を{{r|給|きゅう}}するは<u>ハリストス</u>の十字架なり、されば彼等は{{r|此|これ}}を{{r|負|お}}ふて、{{r|楽|たのし}}みと{{r|善|ぜん}}なる{{r|希|き}}{{r|望|ぼう}}とを以て救世主<u>ハリストス</u>の{{r|跡|あと}}にしたがひ、{{r|其|その}}摂理を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|生命|いのち}}の{{r|法|ほう}}となし、{{r|路|みち}}となさんこと肝要なり、使徒の{{r|自|みづ}}から{{r|言|い}}へる如し、曰く『{{r|爾|なんぢ}}{{r|等|ら}}我に{{r|效|なら}}ふ者となれ、我が<u>ハリストス</u>に{{r|效|なら}}ふが{{r|如|ごと}}し』〔{{二重線|コリンフ}}十一の一〕又いふ『忍耐を以て我等の前にある{{r|馳|はせ}}{{r|場|ば}}を{{r|趨|はし}}りて、我等の{{r|信|しん}}の{{r|首|かしら}}及び{{r|成全|せいぜん}}{{r|者|しゃ}}なる<u>イイスス</u>を{{r|仰|あお}}ぎ{{r|望|のぞ}}むばし、彼は{{r|其|その}}{{r|前|まえ}}に{{r|在|あ}}る{{r|喜|よろこび}}に{{r|易|か}}へて{{r|辱|はぢ}}を{{r|意|い}}とせず、十字架を忍びて{{r|神|かみ}}の{{r|宝|ほう}}{{r|座|ざ}}の右に{{r|坐|ざ}}せり』〔{{二重線|エウレイ}}十二の一、二〕。 われらは{{r|神|かみ}}の{{r|賜|たまもの}}を以て{{r|自|みづ}}から{{r|高|たか}}ぶり、道徳に進むの{{r|或|あ}}る進歩を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|高慢|こうまん}}と{{r|称賛|しょうさん}}の{{r|為|ため}}の{{r|縁|えん}}{{r|由|ゆ}}となして、望む所の{{r|終|おわ}}りに{{r|達|たつ}}せざる{{r|先|さき}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|志|こゝろざし}}の{{r|撓|たわ}}まざらんが{{r|為|ため}}、{{r|高慢|こうまん}}により先になせる勤労を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に無益となさゞらんが{{r|為|ため}}、及び{{r|神|しん}}の{{r|恩寵|おんちょう}}の我等を{{r|引誘|いんゆう}}する{{r|成全|せいぜん}}に{{r|堪|た}}へざるものとならざらんが{{r|為|ため}}に{{r|戦々|せんせん}}{{r|競々|きょうきょう}}たらざるべからざるなり。|[p.435]}} [p.436] {{Quotation|故に勤労に{{r|於|おけ}}るの{{r|尽力|じんりょく}}を決して{{r|弱|よわ}}むべからず、{{r|眼前|がんぜん}}にある所の苦行を{{r|辞|じ}}するべからず、もし先に何か遂げし所あらんには、それを以て熱心を{{r|劃|かぎ}}るべからず、{{r|乃|すなわち}}{{r|使徒|しと}}の如く{{傍点|style=open circle|後}}を忘れて{{傍点|style=open circle|前}}に進み〔{{二重線|フィリッピ}}三の十三〕、{{r|成全|せいぜん}}を{{r|求|もと}}むる者が{{r|飽|あ}}くを知らずして{{r|独|ひと}}り{{r|飢|き}}{{r|渇|かつ}}する所の義の{{r|願|ねがい}}を{{r|有|ゆう}}し、勤労の為に{{r|慮|おもんぱか}}りて心肝を{{r|摧|くだ}}かんこと{{r|肝要|かんよう}}なり。彼等は{{r|許約|きょやく}}せられたる幸福を{{r|距|さ}}ること{{r|猶|なほ}}遠くして、<u>ハリストス</u>の完全なる愛に多く{{r|達|たつ}}せざる者なるにより、{{r|謙遜|けんそん}}なる者となり、恐れに満てる者とならざるべからず。けだし{{r|此|この}}{{r|愛|あい}}を{{r|切願|せつがん}}して、天の約束を{{r|仰望|ぎょうぼう}}する者は、{{r|禁食|きんしょく}}するか、{{r|儆醒|けいせい}}するか、{{r|或|あるい}}は他のいかなる{{r|徳行|とくこう}}に熱心するも、以前の功労を以て{{r|自|みづか}}ら{{r|高|たか}}ぶらざるべく、{{r|却|かへつ}}て神聖なる{{r|望|のぞみ}}にみたさるゝ彼は{{r|己|おのれ}}を呼ぶ所の者に{{r|間断|かんだん}}なく{{r|眼|め}}を{{r|注|そゝ}}ぎて、いくばく{{r|奮闘|ふんとう}}するも{{r|其|その}}{{r|志|こゝろざ}}す所のものに{{r|比|くら}}ぶれば{{r|全|まつた}}く小なりと{{r|思|おも}}ふべし。されば{{r|其|その}}{{r|行|おこない}}により{{r|己|おのれ}}を{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に尊敬すべき者とあらはさゞらん{{r|間|あいだ}}は、{{r|労|ろう}}に{{r|労|ろう}}を{{r|加|くは}}へ、{{r|徳行|とくこう}}に{{r|徳行|とくこう}}を{{r|重|かさ}}ぬるも、{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に適当なる者となれりとの{{r|意思|いし}}を心に{{r|懐|いだ}}かずして、{{r|此|こ}}の{{r|生命|いのち}}の{{r|終|おわり}}に{{r|至|いた}}るまで{{r|悉|ことごと}}くの{{r|尽力|じんりょく}}を{{r|用|もち}}ひん。けだし{{r|行|おこない}}に{{r|於|おい}}て{{r|大|おほい}}なる者は{{r|神|かみ}}を{{r|畏|おそ}}るゝを{{r|以|もつ}}て{{r|自負|じふ}}を{{r|地|ち}}に{{r|擲|なげう}}ちて、心を謙遜し、生活の為に{{r|己|おのれ}}を{{r|罪|つみ}}し、信じて愛するの{{r|度|ど}}により{{r|許約|きょやく}}を{{r|楽|たのし}}みて、{{r|自|みづ}}から{{r|労|ろう}}するの{{r|如何|いかん}}を{{r|以|もつ}}てせざるは、これぞ{{r|哲学|てつがく}}の{{r|最|もつとも}}{{r|卓越|たくえつ}}せる{{r|功労|こうろう}}なる。けだし{{r|賜|たまもの}}は{{r|大|おほい}}なるにより、これに{{r|相応|そうおう}}する{{r|勤労|きんろう}}を{{r|見|み}}{{r|出|いだ}}すことあたはざればなり。|[p.436]}} [p.437] {{Quotation|さりながら{{r|信|しん}}と{{r|望|ぼう}}とは{{r|大|おほい}}ならざるべからずして、これを{{r|以|もつ}}て報酬を測るべく、勤労を以てすべからざるなり。{{r|然|しか}}して{{r|信|しん}}の{{r|根本|こんぽん}}は{{r|心神|しんしん}}の{{r|貧|まづ}}しきと{{r|神|かみ}}に対する{{r|無|む}}{{r|量|りょう}}の{{r|愛|あい}}とにあり。 希望の目的に応じ、哲学によりて、生活せんと決心したる者の{{r|為|ため}}に{{r|余|よ}}は{{r|充分|じゅうぶん}}にのべたりと{{r|思|おも}}ふ。{{r|今|いま}}{{r|又|また}}これに{{r|加|くは}}ふるにかくの如き者はいかに{{r|互|たがい}}に{{r|交際|こうさい}}して{{r|如何|いか}}なる{{r|労|ろう}}を{{r|愛|あい}}するを{{r|要|よう}}するかを示すべし、{{r|天|てん}}{{r|都|と}}に{{r|達|たつ}}するに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}{{r|其|その}}進行を協力して{{r|成|な}}さん{{r|為|ため}}なり。 {{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|於|おい}}て尊敬すべきと認めらるゝものを{{r|断|だん}}じて{{r|尊|たつと}}ばず、{{r|親族|しんぞく}}を{{r|棄|す}}て、もろ{{く}}{{r|地下|ちか}}の{{r|栄|さかえ}}を{{r|棄|す}}てゝたゞ{{r|天上|てんじょう}}の{{r|尊栄|そんえい}}に{{r|着眼|ちゃくがん}}し、{{r|神|かみ}}による{{r|兄弟|けいてい}}と{{r|心神|しんしん}}にて{{r|結合|けつごう}}する{{r|者|もの}}は、{{r|世|よ}}と{{r|共|とも}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|たましい}}をも{{r|棄|す}}つること{{r|肝要|かんよう}}なり。{{r|霊魂|たましい}}を{{r|棄|す}}つとは{{r|何|なに}}に{{r|於|おい}}ても{{r|己|おのれ}}の{{r|旨|むね}}を求めずして、{{r|反|かへ}}つて{{r|己|おのれ}}の{{r|旨|むね}}を{{r|矯正|きょうせい}}し、{{r|院長|いんちょう}}を以て己の為に{{r|神|かみ}}の{{r|言|ことば}}となして、これを{{r|益用|えきよう}}すること、{{r|善良|ぜんりょう}}なる{{r|舵師|だし}}の如くし、{{r|兄弟|けいてい}}{{r|社会|しゃかい}}のすべてを{{r|挙|あ}}げて、{{r|同心|どうしん}}{{r|協力|きょうりょく}}して、{{r|神|かみ}}の{{r|旨|むね}}の{{r|湊|みなと}}に{{r|向|むか}}はしむるにあり。|[p.437]}} 【以下未入力(p.438-457)】 {{DEFAULTSORT:えしふとまかりいせんしよ しよかん2}} <!-- [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:埃及マカリイ全書|52]]--> {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{PD-old}} }} <!-- --> jk3sk3v6vvoy2lfnf0x23tyrhmls52i 243140 243139 2026-06-12T15:22:23Z 村田ラジオ 14210 243140 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しかれども{{r|或者|あるもの}}は{{r|自|みづ}}から<u>ハリストス</u>の{{r|機|き}}{{r|密|みつ}}に遠ざかるのみならず、『{{r|濁|にご}}れる{{r|敗壊|はいかい}}を以て{{r|其|その}}{{r|親友|しんゆう}}を{{r|誘|いざな}}ひ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-hab/2:8-17 <u>アバクム</u>二の十五]〕『神を{{r|識|し}}るべきものゝ彼等に{{r|明|あきらか}}にあらはるる』にも{{r|拘|かか}}はらず、神の真理を不義の{{r|中|うち}}に隠さんとす。けだし『{{r|其|その}}{{r|思念|おもひ}}は{{r|虚|むな}}しくなり』{{r|其|その}}{{r|無智|むち}}の心は{{r|昧|くら}}みしにより〔{{二重線|ロマ}}一の十八至二十一〕。彼等は説を{{r|為|な}}していへり、{{r|恥|は}}づべき{{r|情慾|じょうよく}}は天性自然にして神より我等に付与せられたるものなりと、{{r|是|こ}}れ{{r|即|すなはち}}{{r|敗壊|はいかい}}の{{r|楽|たのし}}み、不正なる{{r|忿怒|いきどほり}}、神の為に発するに{{r|非|あら}}ざる不適当なる{{r|怒|いかり}}、及び{{r|凡|およ}}そ{{r|此|これ}}に類するものをいふなり。|[p.425]}} 《現代語訳》 [p.425] 完全で聖なる人となるためには、彼自身が神の内にいるだけでなく、神が彼の内にいることも必要であることを知りなさい。主はこう言われる。「彼が私の内にいれば、私も彼の内にいる」(ヨハネ15章5節)。神の人間は、神の幕屋に住み、この幕屋を最も純粋な神性の聖なる山に建てなければなりません。それは、情欲の暗い力が彼を支配することを許さない方の栄光を受け入れるだけでなく、その栄光に抱かれるためです。救い主は、ふさわしい人々の中に、聖性と生来の無執着のために住まわれるからです。それは、救い主がご自身が無執着であるように、彼を受け入れた人々をも無執着にし、もはや嵐に巻き込まれず、どんな風にも吹き飛ばされない者とするためです。 また、ある人々はキリストの奥義から遠く離れているだけでなく、「わざわいなるかな、その隣り人に怒りの杯を飲ませて、これを酔わせ、 彼らの隠し所を見ようとする者よ。」(ハバクク書 2章15節)、神の真理を偽りの中に含み、「彼らの中には、神の知恵が明らかに示されている」と言われています。なぜなら、「思いがむなしく」なり、愚かな心によって暗くなった(ローマ 1章18–21節)ため、彼らは、腐敗の快楽、不当な短気、神によらない下品な怒りなど、恥ずべき情欲は神によって私たちに生まれつき備わっているものだと言うからです。 {{Quotation|ゆゑに彼等と{{r|其|そ}}の{{r|言|い}}ふ所とは真理に{{r|違|たが}}ふものとしてこれを{{r|棄|す}}て、我等を造りし者を以て我等にあたへられたる自由自主の主権を{{r|承認|うけみと}}めん、善きことに進むも{{r|悪|あし}}きことを{{r|止|や}}むるも我等に{{r|係|かか}}らんためなり。けだし真実なる審判者は、もし{{r|自|みづ}}から情慾の造物主ならば、これに占領せらるゝ我等を{{r|罰|ばつ}}せざるべし。祈る{{r|此|この}}{{r|教|をしへ}}に離れ遠ざかりて、これを{{r|思|おもひ}}にも{{r|生|しょう}}ぜしめざらんことを。けだし{{r|此|こ}}の{{r|蒙昧|もうまい}}にして{{r|愚|おろか}}なる意見は、{{r|凡|およそ}}の敬虔なる{{r|裁|さい}}{{r|智|ち}}の為に{{r|忌|い}}み{{r|嫌|きら}}ふべきものとす。神は清くして{{r|最|いと}}{{r|美|うつく}}しき天地万物の造成者なることは、世界創造の際に{{r|聖神|せいしん}}の{{r|告|つ}}げ{{r|給|たま}}ひし如し、けだしいへり、『神は{{r|其|その}}造りたる{{r|諸|もろもろ}}の物を見たまへるに{{r|甚|はなは}}だ{{r|善|よ}}かりき』〔創世記一の三十一〕。されば<u>イエレミヤ</u>は{{r|恥|は}}づべき情慾のために{{r|哀|かなし}}み、かつ{{r|惑|まど}}ふていへり、『主の命じ給ふにあらずば、誰か事を述べんに、その事すなはち成らんや、{{r|禍|わざわい}}も{{r|福|さいわい}}も{{r|至|し}}{{r|高者|こうしゃ}}の口より{{r|出|い}}づるにあらずや』〔<u>イエレミヤ</u>哀歌三の三十六‐三十八〕。故に{{r|福音|ふくいん}}{{r|経|きょう}}に聡明なる天軍は主に{{r|問|と}}ふていへり、『主よ{{r|爾|なんぢ}}は{{r|美|よき}}{{r|種|たね}}を{{r|爾|なんぢ}}の{{r|田|た}}に{{r|撒|ま}}きたるに{{r|非|あら}}ずや、{{r|然|しか}}らば何に由りて{{傍点|style=open circle|此の}}{{r|稗|ひえ}}あるか』〔<u>マトフェイ</u>十三の二十七〕。[p.427]また他の所に救世主は{{r|自|みづ}}から彼等の事をいへり、『{{r|凡|およ}}そ我が天の父の{{r|植|うゑ}}ざりし植物は{{r|其|その}}{{r|根|ね}}{{r|絶|たや}}されん』と〔<u>マトフェイ</u>十五の十三〕。しかれどもすべて神の{{r|植|う}}ゑしものゝ{{r|美|び}}なることは、<u>ハリストス</u>これをいひ、<u>パウェル</u>もこれを{{r|証|しょう}}せり、曰く『{{r|蓋|けだし}}神の{{r|悉|ことごと}}くの造物は善なり』〔<u>テモフェイ</u>前四の四〕。故に知るべし我等の{{r|中|うち}}にかくるゝ情慾は本来我等に属するに非ずして、他に属するものなるを。けだし{{r|言|い}}ふあり、『我が{{r|隠|ひそか}}なる{{r|咎|とが}}より我を{{r|浄|きよ}}め{{r|給|たま}}へ、{{r|故|こ}}{{r|犯|はん}}より{{r|爾|なんぢ}}の{{r|僕|ぼく}}を{{r|止|とゞ}}めよ』〔[[第三「カフィズマ」#18:13|聖詠十八の十三、十四]]〕、またいふあり、『外人は{{r|起|た}}ちて我を{{r|攻|せ}}め、強き者は我が{{r|霊|たましい}}を{{r|覓|もと}}む』〔[[第七「カフィズマ」#53:5|同上五十三の五]]〕。またいふあり、『主よ我と{{r|争|あらそ}}ふ者と{{r|争|あらそ}}ひ、我と{{r|戦|たゝか}}ふ者と{{r|戦|たゝか}}ひ給へ』〔[[第五「カフィズマ」#34:1|同上三十四の一]]〕。それ此の{{傍点|style=open circle|{{r|隠|ひそか}}なるもの}}{{r|或|あるい}}は此の{{傍点|style=open circle|争ふ者}}{{r|或|あるい}}は{{傍点|style=open circle|戦ふ者}}{{r|或|あるい}}は此の{{傍点|style=open circle|故犯}}とはこれ<u>ハリストス</u>の徳行に{{r|逆|さから}}ふ凶悪なる{{r|諸神|しょしん}}を示すにあらずして何ぞや。|[p.426]}} [p.426] したがって、彼らや彼らの言葉を真理から逸脱したものとして捨て去り、私たちを創造した方が私たちに与えてくださった自由の専制を認め、最善を目指し、最悪を避けるのは私たち次第であることを認めましょう。真の審判者ご自身が創造主であるならば、情欲にとりつかれた私たちを罰するはずがありません。お願いですから、この教えは捨て去り、頭に浮かばないようにしてください。この不合理で愚かな考えは、すべての敬虔な理解力にとって不快です。神は、創造の時に聖霊が告げたように、純粋で最も美しい自然の創造主です。「見よ、すべてが非常に良い」(創世記 1章31節)と神は言っています。エレミヤは、恥ずべき情欲について嘆き、困惑しながらこう言います。「主は『あなたのものは誰か』と言われたのではない。主が語られたから、そうなったのだ。主は『いと高き者の口からは悪は出ず、善は出る』と命じられたのではない。(哀歌エレミヤ3章36-38節)」。それゆえ、福音書の中で、知性ある者たちは主にこう問いかけます。「主よ、あなたは畑に良い種を蒔かれたではありませんか。では、これらの「毒麦」はどこから来るのでしょうか(マタイ13章27節)。別の箇所では、救い主ご自身がそれらについてこう言っています。「天の父が植えなかった庭は、みな根こそぎにされるであろう」(マタイ15章13節)。そして、神の植えたものはすべて美しいと、パウロはキリストが「神の造られたものはすべて良いものである」(テモテ第一4章4節)と言っているように、パウロもそのことを証言しています。ですから、私たちの中に秘められた情熱は私たち自身のものではなく、私たちとは無関係のものであることを知ってください。「わたしの隠れた罪を清め、あなたのしもべを異邦人の罪からお守りください」(詩篇19篇13-14節)、「異邦人がわたしに立ち向かい、力ある者たちがわたしの命を狙っています」(詩篇54篇5節)、「主よ、わたしを害する者を裁き、わたしと戦う者と戦ってください」(詩篇35篇1節)と書いてあるからです。では、この「隠れた」とは、あるいは「罪を犯す者」や「戦う者」、あるいは「異邦人」とは、キリストの徳に敵対する悪霊ではないとしたら、何を意味するのでしょうか。 {{Quotation|律法も内部の人の{{r|潔浄|けつじょう}}のことを公然と呼ぶを精密に吟味せよ。いふあり、『汝の主、神の名を{{r|妄|みだり}}に口にあぐべからず、けだし主は己の名を{{r|妄|みだ}}りに口にあぐる者の心を清めざるべし』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-deu/5:1-11 {{r|復傳|ふくでん}}{{r|律令|りつれい}}五の十一]〕。ゆゑに使徒も勧めて{{r|明|あきら}}かにいへり、『{{r|己|おのれ}}を{{r|凡|およそ}}の{{r|肉|にく}}と{{r|神|しん}}との{{r|汚|けがれ}}より{{r|潔|きよ}}くせよ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-2cor/7:1-5 {{二重線|コリンフ}}後七の一]〕。また他の処にもいふ『心は{{r|灑|そゝ}}がれて悪しき意念を去れ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-heb/10:16-22 {{二重線|エウレイ}}十の二十二]〕、又いふ『汝等の{{r|神|しん}}と{{r|霊|れい}}と{{r|体|たい}}とは{{r|全|まつと}}うし{{r|護|まも}}られて{{r|疵|きず}}なからん』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-1th/5:16-23 {{二重線|ソルン}}前五の二十三]〕、[p.428]又いふ『{{r|疵|きず}}なき神の子とならん為なり』〔{{二重線|フィリッピ}}二の十五〕。ゆゑに{{r|凡|すべ}}て子たる{{r|位地|いち}}を{{r|賜|たま}}はらんことを願ふ者は{{r|疵|きず}}なき{{r|体|からだ}}を有するのみならず、{{r|疵|きず}}なき{{r|霊|たましい}}をも有すること、{{r|左|さ}}の如くならざるべからず『{{r|願|ねがは}}くは我が心{{r|爾|なんぢ}}の{{r|律|おきて}}に{{r|玷|きず}}なからん、我が{{r|羞|はぢ}}を{{r|得|え}}ざらん為なり』〔[[第十七「カフィズマ」#118:80|聖詠百十八の八十]]〕。けだし律法の{{r|下|もと}}に居る者は、たゞ肉体の{{r|稱|しょう}}{{r|義|ぎ}}を遂げて、外部の{{r|潔浄|けつじょう}}を守れども、{{r|恩寵|おんちょう}}の{{r|下|もと}}に{{r|居|を}}る者は、{{r|成聖|せいせい}}により内部の平安を願ふて、{{r|左|さ}}の如くいひし者にしたがふなり、曰く、『もし汝等の義は学士お呼び<u>ファリセイ</u>等の義に{{r|勝|まさ}}らずば{{r|爾|なんぢ}}{{r|等|ら}}天国に入るを得ず』〔<u>マトフェイ</u>五の二十〕、何となれば<u>ファリセイ</u>等は智を{{r|盲|くら}}まして、{{傍点|style=open circle|杯と皿の外}}を{{r|潔|きよ}}むればなり〔<u>マトフェイ</u>二十三の二十五〕。今も彼等に似たる新<u>ファリセイ</u>は、未熟なる才智を以て外部の人を粉飾し、{{r|自|みづ}}から己を義とせんとす、しかれども{{r|聖神|せいしん}}は彼等の{{r|神|しん}}と共に彼等が神の子たるを{{r|証|しょう}}すること、使徒と共に{{r|証|しょう}}する如くせざるべし、言ふあり、『此の{{r|神|しん}}{{r|自|みづ}}から我等の{{r|神|しん}}と共に我等が神の子たるを{{r|証|しょう}}す』〔{{二重線|ロマ}}八の十六〕。彼等は内部の人の{{r|聖徳|せいとく}}に成長するを自己にあらはさんことを{{r|欲|ほつ}}せずして、たゞ肉体上の功労に信任し、『{{r|王|おう}}の{{r|女|ぢょ}}の光栄は皆内部にある』〔[[第六「カフィズマ」#44:14|聖詠四十四の十四]]〕を知らざるなり。我等各人は{{r|恰|あたか}}も心中の{{r|無花果|いちじく}}の如し、主の{{r|尋|たづ}}ぬるは内部の{{r|果|か}}にありて、{{r|枝|し}}{{r|葉|よう}}の{{r|飾|かざり}}にあるにあらざるなり〔<u>マトフェイ</u>二十一の十九〕。|[p.427-p.428]}} [p.427-p.428] 律法もまた、内なる人の清さをはっきりと求めていることを、より深く考えてみましょう。「主なるあなたの神の名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える心をきよめられないからである」(申命記 5:11)とあります。それゆえ、使徒パウロもまた、はっきりとこう勧めています。「肉の汚れだけでなく、霊の汚れからも、あらゆる汚れから自分をきよめましょう」(コリント人への手紙二 7章1節 )。また別の箇所では、「心に汚れた良心を清め」(ヘブライ人への手紙 10章22節 )と言い、さらに「体と霊と魂を、完全に清く保ちなさい」(テサロニケ人への手紙一 5章23節)と言い、「あなたがたが、責められるところのない神の子となるためです」(ピリピ人への手紙 2章15節)とも言っています。したがって、養子縁組にふさわしくありたいと願う者は皆、非の打ちどころのない体だけでなく、非の打ちどころのない魂を持たなければなりません。それは、「あなたの戒めの中で、私の心が清くあって、私が恥じることのないようにしてください」(詩篇 119篇80節)と言われた方のようなものです。律法の下に生き、肉の義認だけを満たす人は外面的な清さを保ちますが、恵みの下に生きる人は、聖さにおける内面的な平和も望み、「あなたがたの義がパリサイ人や律法学者よりもまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入れません」(マタイ 5章20節)と言われた方に従います。パリサイ人は心が盲目であるため、「鏡の外側」をきよめるからです(マタイ 23章25節)。現代の新しいパリサイ人たちも、彼らと同様、未熟な心で外面を飾り、自らを正当化しますが、聖霊は、彼らが神の子であるという彼らの霊に従おうとはしません。使徒パウロはこう言っています。「"霊"みずからわたしたちの霊に従われます。わたしたちは神の子なのですから」(ローマ8章16節)彼らは、内なる人の聖さが成長していることを自ら示そうとせず、肉の功績だけに頼っています。「王の娘の栄光はすべて内にある」(詩篇45篇14節)ことを彼らは知りません。私たち一人ひとりは、いわば心のいちじくの木のようで、主はその葉の飾りではなく、内なる実を求めておられるのです(マタイ21章19節)。 [p.429] {{Quotation|故に{{r|恥|は}}づべき情慾を弁護して、天然自然なるものとし、{{r|偶然|ぐうぜん}}に人に{{r|入|い}}りしにあらずといふ者は、『{{r|神|かみ}}の真実を己の{{r|偽|いつわり}}に{{r|易|か}}ふるなり』〔{{二重線|ロマ}}一の二十五〕何となれば我が{{r|先|さき}}にいひし如く{{r|無|む}}{{r|玷|てん}}{{r|純潔|じゅんけつ}}なる者は{{r|其|その}}{{r|像|ぞう}}を{{r|己|おのれ}}に{{r|肖|に}}たるものとなしたりしが、『{{r|悪|あく}}{{r|鬼|き}}の{{r|猜|そね}}みにより死は世に{{r|入|い}}りたればなり』〔知恵書二の二十四〕。ゆゑに人間は不法によりて{{r|孕|はら}}まれ、罪に{{r|於|おい}}て{{r|生|うま}}れて、〔[[第七「カフィズマ」#50:7|聖詠五十の七]]〕{{r|母|ぼ}}{{r|腹|ふく}}より離れ遠ざかる者となり、{{r|母|ぼ}}{{r|胎|たい}}より{{r|迷|まよい}}に{{r|居|を}}りて、<u>アダム</u>より以後<u>ハリストス</u>の{{r|来|きた}}るに至るまで罪が王となりしにより神の{{r|羔|こひつじ}}は{{r|憐|あわれみ}}を{{r|垂|た}}れて{{r|来|きた}}り給へり、これ{{r|先|ま}}づ強き者を{{r|縛|ばく}}し、{{r|其後|そののち}}{{r|鹵|ろ}}{{r|獲|かく}}せられたる器物を{{r|奪|うば}}ひ{{r|回|かへ}}して、己の力を以て世の罪を取らん為なり、言ふあり『{{傍点|style=open circle|擄者を{{r|擄|とりこ}}にす}}』と、又いふ『{{r|献物|さゝげもの}}をうく』と〔[[第九「カフィズマ」#67:19|聖詠六十七の十九]]〕。 我等は{{r|俘|ふ}}{{r|虜|りょ}}たるをまぬかれ、『土に属する者の{{r|状|かたち}}を{{r|衣|き}}たる如く、天に属する者の{{r|状|かたち}}』〔{{二重線|コリンフ}}前十五の四十九〕を{{r|衣|き}}『我等の{{r|肢|し}}{{r|体|たい}}を義の{{r|僕|ぼく}}となして、{{r|成聖|せいせい}}に{{r|委|ゆだ}}ぬること罪に{{r|委|ゆだ}}ねし如くせんことを』{{r|慮|おもんぱか}}らざるべからず〔{{二重線|ロマ}}六の十九〕。我等は信ず、われら{{r|躓|つまづ}}かずして光の{{r|中|うち}}を行く者は、神の奇跡を認めんを要するを。録して言ふ所の如し、曰く『我が目を{{r|啓|ひら}}き{{r|給|たま}}へ、{{r|然|しか}}せば{{r|我|われ}}{{r|爾|なんぢ}}が{{r|律法|りっぽう}}の{{r|奇|き}}{{r|跡|せき}}を{{r|観|み}}ん』〔[[第十七「カフィズマ」#118:19|聖詠百十八の十九]]〕。|[p.429]}} [p.429] したがって、恥ずべき情欲を自然なものとして、偶然に人に入り込んだものではないとして擁護する者は、「神の真理を偽りに変えた」(ローマ1章25節)のです。なぜなら、私が先に述べたように、汚れなき清らかな方がご自身の似姿に造られたからです。「しかし、悪魔のねたみによって死が世に入り込んだ」(知恵書2章24節)。したがって、人類は不義のうちに宿り、罪のうちに生まれ(詩篇51篇7節 )、母の胎内から離れ、アダムからキリストの到来まで罪が支配し始めてから、母の胎内から誤りの中にとどまりました。そして、憐れみ深い神の子羊が、ご自身の力で世の罪を取り除くために来られ、まず強い男を縛り、それから彼が戦利品として集めた器を奪い取られました。それは、「あなたは捕虜を捕らえ、また背く者を捕らえた」と言われたとおりです(詩篇68篇19節)。 私たちは、束縛から解放されるよう注意し、「地上の像を着ているように、天の像をも着るようになるのです」(コリント第一 15章49節)、「義のしもべである私たちの肢体を、罪に差し出したように、聖なる姿で差し出す」(ローマ 6章19節)必要があります。私たちは、光の中をつまずくことなく歩む私たちは、神が「私の目を開いてください。そうすれば、あなたの律法からあなたの驚くべき御業を理解できます」(詩篇 119篇18節)と言われたように、神の驚くべき御業を見る運命にあると信じています。 [p.430] {{Quotation|けだし光の{{r|中|うち}}を行く者は五感に{{r|躓|つまづ}}きを{{r|来|きた}}さゞる如く、完全なる{{r|成聖|せいせい}}に{{r|居|を}}る者も心に{{r|奸計|かんけい}}を思はず、{{r|悪|あ}}しく{{r|慮|おもんぱか}}らざるなり。けだし『{{r|光|ひかり}}は{{r|暗|やみ}}と何の{{r|交|まじわ}}ることのあらん、神の{{r|殿|でん}}は偶像と何の同じきことのあらん』〔{{二重線|コリンフ}}後六の十五、十六〕、故に己を神の{{r|殿|でん}}と{{r|認|みと}}むべく、{{r|思|おもい}}の偶像を心中に{{r|画|えが}}かざらんことを{{r|力|つと}}めよ。けだし{{r|霊魂|たましい}}の{{r|中|うち}}に動作する{{r|凡|すべ}}ての{{r|情慾|じょうよく}}は偶像なり、故に『勝たるゝ者は勝つ者の奴隷たり』とは{{r|最|いと}}{{r|善|よ}}く言へるなり〔<u>ペトル</u>後二の十九〕。もし我等は肉体の慾に{{r|勤|つと}}むるならば、{{r|聖|せい}}にして無慾なる{{r|神|しん}}につとめざらんこと{{r|明|あきらか}}なり、何となれば人は『{{r|二人|ふたり}}の主に{{r|事|つか}}ふるあたはず、{{r|神|かみ}}と{{r|財|たから}}とに{{r|兼|かね}}{{r|事|つか}}ふること{{r|能|あた}}はざればなり』〔<u>マトフェイ</u>六の二十四〕。{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}は聖にして『{{r|汚|けがれ}}{{r|或|あるい}}は{{r|此|かく}}の如きもの』を有せず〔{{二重線|エフェス}}五の二十七〕、『けだし{{r|聖神|せいしん}}は{{r|諂|てん}}{{r|媚|び}}を避け、{{r|無智|むち}}{{r|者|しゃ}}の{{r|思念|おもい}}より遠ざかり、{{r|教|おしえ}}は{{r|奸猾|かんかつ}}なる{{r|霊魂|たましい}}に{{r|入|い}}らざるなり』〔知恵書一の四、五〕。 ゆゑに我等が律法はすべて{{r|神|かみ}}の{{r|指|ゆび}}を{{r|以|もつ}}て心にしるさるゝものにて、{{傍点|style=open circle|{{r|墨|すみ}}を以てするにあらず}}、{{r|神|かみ}}の{{r|神|しん}}を{{r|以|もつ}}てする〔{{二重線|コリンフ}}後三の三〕ものなるを確信して、『我は真実なり』〔<u>イオアン</u>十四の七〕との{{r|給|たま}}ひし立法者の真実をうけん、彼は心の割礼を{{r|行|おこな}}ひ、適当なる者の{{r|裁|さい}}{{r|智|ち}}に{{r|其|その}}{{r|仁|じん}}{{r|慈|じ}}の{{r|法|ほう}}をしるすこと、預言者のいへる如し、曰く『われ我が{{r|律法|りっぽう}}を彼等の心に置き、彼等の{{r|思|おもい}}にしるさん』〔<u>イエレミヤ</u>三十一の三十三〕。{{傍点|style=open circle|{{r|凡|およ}}そ選ばれたる族}}と、{{傍点|style=open circle|王たる祭司班}}と、{{傍点|style=open circle|聖なる人民}}と、選ばれたる{{傍点|style=open circle|人}}〔<u>ペトル</u>前二の九〕の{{r|中|うち}}に{{r|入|い}}らんことを苦心する者は、{{r|生活|せいかつ}}を{{r|施|ほどこ}}す{{r|神|しん}}の{{r|効力|こうりょく}}を{{r|便|べん}}{{r|利|り}}に{{r|己|おの}}れにうけん。|[p.430]}} [p.430] 感覚において、光の中を歩む者はつまずかないのと同様に、精神において、完全な聖さの中に留まる者は悪を考えず、悪の理性を働かせません。なぜなら、「光と闇との交わりはなく、教会と偶像との結びつきもない」(コリント第二 6章15-16節)からです。ですから、自分自身を神の神殿であると認識し、心の中に偶像を描かないように努めなさい。魂に働くすべての情欲は偶像です。ですから、「人は何に打ち負かされるかによって、その者のしもべとなる」(ペテロ第二 2章19節)と美しく言われています。もし私たちが肉欲に囚われているなら、明らかに、私たちは聖なる、情欲のない聖霊に囚われていません。なぜなら、「だれも二人の主人に仕えることはできない。あなたがたは、神と富に仕えることはできない」(マタイ 6章24節)と言われているからです。神の神殿は聖なるものであり、「汚れも、しわも、そのようなものは一切ない」(エフェソ 5章27節)のです。「聖霊は欺きから逃げ去り、理性のない考えから遠ざかり、悪しき魂に入り込むことはない」(知恵書 1章4-5節)のです。 したがって、私たちの律法全体が神の指によって、インクではなく神の霊によって心に書かれていることを確信した私たちは、 「わたしは真理である」(ヨハネ14章7節)と言われた律法授与者の真理を受け入れましょう。神は、預言者が言うように、「わたしの律法を彼らの心に与え、わたしはそれを彼らの心に書き記す」(エレミヤ31章33節)ように、ふさわしい者の心に割礼を施し、その善の律法を書き記してくださいます。「選ばれた世代」、「王なる祭司」、「聖なる国民」 、「選ばれた民」(ペテロ第一2章9節)に入ろうとする者は皆、命を与える聖霊の効力を喜んで受け入れます。 [p.431] {{Quotation|故に<u>ハリストス</u>に{{r|於|おけ}}る生活の<u>ハリストス</u>と同形なる公正に{{r|進|すゝ}}むを、{{r|縦|たと}}ひ久しからずと{{r|雖|いへど}}も、我等にも{{r|賜|たま}}はらんことを{{r|願|ねが}}ひ{{r|且|かつ}}祈るべし。けだし{{r|如此|かくのごとき}}の{{r|霊魂|たましい}}は{{傍点|style=open circle|面の恥}}〔[[第六「カフィズマ」#43:16|聖詠四十三の十六]]〕を脱し、{{r|最早|もはや}}汚れたる{{r|思|おもい}}に占領せられず、{{r|悪者|あくしゃ}}と{{r|姦通|かんつう}}せずして、{{r|疑|うたがい}}なく天の{{r|新郎|しんろう}}と{{r|親|しん}}{{r|与|よ}}をなさん、何となれば{{r|自|みづ}}から彼と{{r|同形|どうけい}}なればなり。彼に対するの愛を以て刺激せられたる{{r|霊魂|たましい}}は望みて{{r|絶|たえ}}{{r|入|い}}らん〔[[第十一「カフィズマ」#83:1|聖詠八十三の一]]〕。{{r|我|われ}}{{r|敢|あえ}}ていふ、{{r|成聖|せいせい}}を{{r|享|うく}}ることの{{r|不|ふ}}{{r|朽|きゅう}}なる{{r|契約|けいやく}}により、彼とかくの如く{{r|美|び}}なる{{r|心中|しんちゅう}}{{r|秘|ひ}}{{r|密|みつ}}の{{r|体合|たいごう}}を{{r|為|な}}すを望まん。{{r|如此|かくのごとき}}の{{r|霊魂|たましい}}は実に幸福なり、彼は{{r|霊神|れいしん}}{{r|上|じょう}}の愛に勝たれたつものとして、{{r|神|かみ}}{{r|言|ことば}}に{{r|嫁|か}}すること当然なり、故に彼は{{r|敢|あえ}}て言ふべし、左の如く言ふべし、曰く『我が{{r|霊|たましい}}はわが{{r|神|かみ}}をたのしまん、そは我に{{r|救|すくい}}の{{r|衣|ころも}}をきせ、義の{{r|外服|がいふく}}をまとはせて、{{r|新郎|しんろう}}が{{r|冠|かんむり}}をいたゞき、{{r|新|しん}}{{r|婦|ぷ}}が{{r|玉|たま}}こがねの{{r|飾|かざり}}をつくるが如くしたまへばなり』〔<u>イサイヤ</u>六十一の十〕けだし{{r|王|おう}}は彼の善良を望みて〔[[第六「カフィズマ」#44:12|聖詠四十四の十二]]〕、彼をたゞ{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}と名づくるのみならず、{{r|王|おう}}の{{r|女|むすめ}}及び{{r|皇后|こうごう}}と名づくるを{{r|賜|たま}}へり、{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}と名づくるは{{r|聖神|せいしん}}の{{r|為|ため}}に{{r|領有|りょうゆう}}せられたるによる、{{r|王|おう}}の{{r|女|むすめ}}と名づくるは{{r|父|ちゝ}}より光の子たることをうけたるによる、{{r|又|また}}{{r|皇后|こうごう}}と名づくるは{{r|独生|どくせい}}{{r|者|しゃ}}の{{r|光栄|こうえい}}の{{r|神性|しんせい}}と{{r|配合|はいごう}}せしによるなり。|[p.431]}} [p.431] ですから、たとえほんの短い間であっても、私たちもキリストにおける一貫した正しい生き方に近づくにふさわしい者と認められるよう、祈り求めましょう。そのような魂は、「顔の恥」(詩篇44篇16節)を捨て、もはや不純な思いにとらわれることもなく、もはや悪魔と姦淫を犯すこともなく、疑いなく天の花婿との交わりに入ります。なぜなら、その魂自体が一貫した生き方をしているからです。主への愛によって傷つき、「切望し、そして尽き果てた」(詩篇84篇1節)のです。あえて言えば、聖なる交わりの朽ちることのない絆を通して、主との美しく神秘的な結びつきを切望しているのです。そのような魂は、真に祝福され、幸福です。霊的な愛に打ち勝った魂は、神の言葉にふさわしく婚約しているのです。それゆえ、彼女は大胆に語り、こう言うであろう。「わが魂は主にあって喜びます。主はわたしに救いの衣と喜びの衣を着せ、花婿のようにわたしに冠を授け、花嫁のようにわたしを美しく飾ってくださいました」(イザヤ書61章10節)。王は彼女の美しさを望み(詩篇44:12)、彼女を神の神殿だけでなく、王女、王妃とも呼ぶにふさわしい者とみなした。神の神殿とは、聖霊によって養子とされた者であり、王女とは、光の父から養子とされた者であり、王妃とは、独り子の栄光の神性と結びついた者なのである。 [p.432] {{Quotation|けだし本性に{{r|於|おい}}て{{r|一|いつ}}たる主は、いかんして人間の{{r|救|すくい}}の摂理の為に多くの名を{{r|比喩|ひゆ}}{{r|的|てき}}に{{r|己|おのれ}}にうけしか。{{r|何故|なにゆえ}}{{r|甲処|こうしょ}}には{{r|石|いし}}〔{{二重線|コリンフ}}前十の四〕及び門〔<u>イオアン</u>十の七〕と名づけ、{{r|他|た}}{{r|処|しょ}}には{{r|斧|おの}}〔<u>ルカ</u>十五の一〕及び{{r|餅|ぱん}}と名づけしか〔同六の三十五〕。{{r|石|いし}}と名づけしは{{r|其|その}}{{r|勢力|せいりょく}}の動かすべからざると近づくべからざるとによる、{{r|門|もん}}と名づけしは彼によりて{{r|永世|えいせい}}に{{r|入|い}}るによる、{{r|斧|おの}}とは彼は{{r|悪習|あくしゅう}}の{{r|根|ね}}を{{r|絶|た}}つによる、{{r|路|みち}}とは適当なる者を真実を{{r|識|し}}るにみちびくによる、{{r|葡|ぶ}}{{r|萄|どう}}の{{r|幹|みき}}とは{{r|人心|じんしん}}をたのしましむる{{r|酒|さけ}}が彼によりて{{r|産|さん}}せらるゝによる、また{{r|餅|ぱん}}とは{{r|有言|ゆうげん}}なる{{r|造物|ぞうぶつ}}の{{r|心|こゝろ}}を{{r|堅|かた}}むるによるなり。しかれどもこれと同じく{{r|神|かみ}}{{r|言|ことば}}の為に領有せられたる非難すべからざる{{r|霊魂|たましい}}も、{{r|固|もと}}より{{r|単純|たんじゅん}}なるものなれど、{{r|神的|しんてき}}{{r|道徳|どうとく}}に多くの進歩をなすにしたがひて、{{r|賜|たまもの}}をうけん。我が{{r|此事|このこと}}をいふは{{r|新|しん}}{{r|婦|ぷ}}の名称も{{r|勿論|もちろん}}たゞ{{r|三|みつ}}のみにあらずして、{{r|更|さら}}に{{r|多|おほ}}かるべきによるなり。 ゆゑに{{r|神|かみ}}の{{r|聖所|せいしょ}}に{{r|入|い}}りて、『我等が{{r|年少|ねんしょう}}を{{r|楽|たのし}}ましむる{{r|神|かみ}}に』〔[[第六「カフィズマ」#42:4|聖詠四十二の四]]、{{r|希臘|ギリシャ}}訳文〕{{r|就|つ}}かざらん{{r|間|あいだ}}は、{{r|此|こ}}の{{r|労|ろう}}は我等の面前にあるを知るべし、けだし我等なほ肉体にあるも、{{r|主|しゅ}}の{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}を、たまはり、{{r|成聖|せいせい}}を{{r|遂|と}}げんことは、救世主の{{r|悦|よろこ}}ぶ所にして、{{r|其時|そのとき}}には、{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如くいふを{{r|得|え}}ん、曰く『我等は肉に在りて{{r|行|おこな}}へども、肉に{{r|循|したが}}ひて{{r|戦|たゝか}}はず、我等が{{r|戦|たゝかい}}の{{r|器|うつわ}}は肉に属せず、{{r|乃|すなわち}}{{r|神|かみ}}に{{r|由|よ}}りて{{r|塁|とりで}}を{{r|破|やぶ}}る{{r|能|ちから}}あり、我等{{r|此|これ}}を以て{{r|諸|もろもろ}}の{{r|謀|はかりごと}}と{{r|凡|およ}}そ{{r|神|かみ}}の知識に{{r|逆|さか}}ふ高慢とを破る』〔{{二重線|コリンフ}}後十の三至五〕。|[p.432]}} [p.432] 本質において唯一の主が、人類の救済という摂理のために、いかにして比喩的な意味で多くの名前を身にまとわれたことだろうか。なぜイエスは、ある箇所では岩(コリント第一 10章4節)や戸口(ヨハネ 10章7節)と呼ばれ、別の箇所では斧(ルカ 3章9節)や道(ヨハネ 14章6節)と呼ばれ、またぶどうの木(ヨハネ 15章1節)やパン(ヨハネ 6章35節)とも呼ばれるのでしょうか。―岩と呼ばれるのは、イエスの力の揺るぎなさと近づきがたい性質によるものです。―戸口と呼ばれるのは、イエスを通して永遠の命に入ることができるからです。―斧と呼ばれるのは、イエスが悪の根源を断ち切るからです。―道と呼ばれるのは、イエスがふさわしい者を真理の知識へと導くからです。―ぶどうの木と呼ばれるのは、イエスが人の心を喜ばせる実り豊かなぶどう酒を実らせるからです。そして同様に、パンと呼ばれるのは、イエスが理性を持つ被造物の心を強くするからです。同様に、神の言葉に似た、それ自体は単純でありながら、多くの霊的な徳を積むことによって、罪のない魂もまた賜物を受けるに値するとみなされるのです。私がこのように述べたのは、花嫁の称号は三つだけでなく、多くの称号を持つからです。 [p.433] {{Quotation|故に{{r|尚|なほ}}{{r|此処|こゝ}}に{{r|於|おい}}ても我等は罪なる{{r|慾|よく}}を十字架に{{r|釘|くぎ}}すること、預言者の{{r|祈祷|きとう}}の如くすべし、曰く『我が肉体を{{r|爾|なんぢ}}を{{r|畏|おそ}}るゝの{{r|畏|おそ}}れに{{r|釘|くぎ}}す』〔[[第十七「カフィズマ」#118:120|聖詠百十八の百二十]]〕。けだし{{r|使徒|しと}}のいはゆる『神の国を{{r|嗣|つ}}ぐあたはざる』〔{{二重線|コリンフ}}前十五の五十〕肉と血とは、{{r|此|こ}}の{{r|見|み}}ゆる{{r|体|からだ}}をいふにあらずして、〔彼は{{r|神|かみ}}の造る所なり〕{{傍点|style=open circle|{{r|悖逆|はいぎゃく}}の子}}〔{{二重線|エフェス}}二の二〕の{{r|中|うち}}に行為する凶悪の{{r|神|しん}}によりて{{r|起|おこ}}さるゝ肉体の{{r|念慮|ねんりょ}}を指す、何となれば<u>ハリストス</u>に{{r|於|お}}ける完全なる苦行者のために『{{r|戦|たゝかい}}は{{r|血肉|けつにく}}に{{r|於|おい}}てするに非ず、{{r|此|こ}}の{{r|暗昧|あんまい}}の{{r|世|せ}}{{r|君|くん}}に{{r|於|おい}}てし、凶悪の{{r|諸神|しょしん}}に{{r|於|おい}}てすればなり』〔{{二重線|エフェス}}六の十二〕。 故にもし{{r|此|こ}}の行為は天性自然の行為にあらずして、反対なる{{r|力|ちから}}の行為なるを{{r|認|みと}}むるならば、彼等に対して<u>ハリストス</u>の{{r|全|まつた}}き{{r|軍|ぐん}}{{r|備|び}}をおのれにうけ、『{{r|其|そ}}の{{r|奸計|はかりごと}}を{{r|禦|ふせ}}ぐを{{r|得|う}}べし』〔{{二重線|エフェス}}六の十一〕何となれば救世主は『{{r|蛇|だ}}{{r|蝎|かつ}}及び{{r|悉|ことごと}}くの{{r|敵|てき}}の{{r|力|ちから}}を{{r|踏|ふ}}む』の{{r|権|けん}}を我等に{{r|賜|たま}}ふによる〔<u>ルカ</u>十一の十九〕。{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}{{r|尚|なほ}}{{r|肉体|にくたい}}に{{r|居|を}}るも{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如く{{r|言|い}}ふを{{r|得|え}}んが為なり、曰く『もしわが心に不法のあるを{{r|見|み}}しならば主はわれに{{r|聴|き}}かざらん』〔[[第九「カフィズマ」#65:18|聖詠六十五の十八]]〕また曰く『{{r|我|われ}}{{r|尤|とが}}なしといへども、彼等は{{r|趨|は}}せ{{r|集|あつ}}まりて{{r|武具|ぶぐ}}をそなふ』〔同上五十八の五〕と、これ{{r|言|いふ}}{{r|意|こゝろ}}は我等は{{r|志|こゝろざ}}す所に進行し、{{r|即|すなわち}}{{r|上|うえ}}より{{r|召|め}}す所の{{r|褒章|ほうしょう}}に{{r|進向|しんこう}}しつゝ、如何なる肉体の慾もあるなうして、天に生涯を送ること{{r|易|やす}}からん。けだし{{r|諸|もろもろ}}の慾に遠ざかりて{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如く{{r|言|い}}ふことを{{r|得|う}}ればなり、曰くたゞに{{傍点|style=open circle|信を守る}}のみならず、{{傍点|style=open circle|{{r|馳|は}}すべき程を尽せり}}〔<u>テモフェイ</u>後四の七〕。|[p.433]}} [p.434] {{Quotation|たゞ<u>ハリストス</u>を信ずるのみならず、彼と共に{{r|苦|くるしみ}}をうくることも{{r|肝要|かんよう}}なり、{{r|録|ろく}}していへる如し、『{{r|汝|なんぢ}}{{r|等|ら}}に{{r|賜|たま}}はりしはたゞ彼を信ずるのみならず、{{r|亦|また}}彼の為に{{r|苦|くるしみ}}をうくることなり』〔{{二重線|フィリッピ}}一の二十九〕。たゞ{{r|神|かみ}}を信ずるのみは地上の事を{{r|念|おも}}ふ{{r|者|もの}}に相応するのみならず、不潔の{{r|神|しん}}にさへ相応するは我が{{r|言|ことば}}を{{r|俟|ま}}たざるべし、いへらく『{{r|我|われ}}{{r|爾|なんぢ}}が{{r|誰|たれ}}なるを{{r|知|し}}る、{{r|乃|すなわ}}ち神の子なり』〔<u>マルコ</u>一の二十四、<u>マトフェイ</u>八の二十九〕。『けだし彼も{{r|此|これ}}も<u>ハリストス</u>の十字架の敵なり、彼等が{{r|終|おわり}}は{{r|滅亡|めつぼう}}なり、彼等が{{r|神|かみ}}は{{r|腹|はら}}なり、彼等が{{r|栄|えい}}とする所は{{r|辱|はぢ}}なり、彼等は地上の事を{{r|念|おも}}ふ』〔{{二重線|フィリッピ}}三の十八、十九〕と見るか十字架の敵はたゞ背教者の{{r|力|ちから}}のみにあらず、地上の事を{{r|念|おも}}ふ者も{{r|亦|また}}{{r|然|しか}}るを。しかれども<u>ハリストス</u>と共に{{r|苦|くるし}}みをうけて共に{{r|栄|えい}}せらるゝことはたゞ{{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|於|おい}}て{{r|己|おのれ}}を十字架に{{r|釘|くぎ}}して主の{{r|疵|きず}}を{{r|己|おのれ}}の{{r|体|からだ}}に{{r|負|お}}ふ{{r|者|もの}}のみ{{r|能|よく}}し{{r|得|う}}るなり。|[p.434]}} [p.435] {{Quotation|哲学を正しく{{r|攻究|こうきゅう}}して、{{r|霊魂|たましい}}を悪の{{r|汚穢|けがれ}}より{{r|救|すく}}ふ者は、哲学の目的を{{r|精確|せいかく}}に知らんこと{{r|肝要|かんよう}}なり、進行の{{r|労|ろう}}と{{r|経|けい}}{{r|過|か}}の{{r|終|おわり}}とを{{r|確|かく}}{{r|知|ち}}して、{{r|高慢|こうまん}}と{{r|功労|こうろう}}のことを{{r|思|おも}}ふ{{r|意思|いし}}とを{{r|全|まつた}}く{{r|斥|しりぞ}}け、聖書の{{r|誡命|かいめい}}にしたがひ、{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|たましい}}と{{r|生命|いのち}}をすてゝ{{r|一|いつ}}の{{r|富|とみ}}に{{r|注目|ちゅうもく}}せん{{r|為|ため}}なり、{{r|即|すなわち}}{{r|神|かみ}}が{{r|凡|およ}}そ{{r|甘|あま}}んじて{{r|苦|く}}{{r|行|ぎょう}}を{{r|自|みづ}}から{{r|任|にな}}はんと決心したる者を呼びて、{{r|其|その}}愛する所の者に<u>ハリストス</u>を愛したる{{r|為|ため}}の{{r|報償|ほうしょう}}として定め給ひしものに注目せん{{r|為|ため}}なり、{{r|此|かく}}の如き苦行の経過に{{r|於|おい}}て彼等に{{r|充分|じゅうぶん}}の{{r|路|ろ}}{{r|用|よう}}を{{r|給|きゅう}}するは<u>ハリストス</u>の十字架なり、されば彼等は{{r|此|これ}}を{{r|負|お}}ふて、{{r|楽|たのし}}みと{{r|善|ぜん}}なる{{r|希|き}}{{r|望|ぼう}}とを以て救世主<u>ハリストス</u>の{{r|跡|あと}}にしたがひ、{{r|其|その}}摂理を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|生命|いのち}}の{{r|法|ほう}}となし、{{r|路|みち}}となさんこと肝要なり、使徒の{{r|自|みづ}}から{{r|言|い}}へる如し、曰く『{{r|爾|なんぢ}}{{r|等|ら}}我に{{r|效|なら}}ふ者となれ、我が<u>ハリストス</u>に{{r|效|なら}}ふが{{r|如|ごと}}し』〔{{二重線|コリンフ}}十一の一〕又いふ『忍耐を以て我等の前にある{{r|馳|はせ}}{{r|場|ば}}を{{r|趨|はし}}りて、我等の{{r|信|しん}}の{{r|首|かしら}}及び{{r|成全|せいぜん}}{{r|者|しゃ}}なる<u>イイスス</u>を{{r|仰|あお}}ぎ{{r|望|のぞ}}むばし、彼は{{r|其|その}}{{r|前|まえ}}に{{r|在|あ}}る{{r|喜|よろこび}}に{{r|易|か}}へて{{r|辱|はぢ}}を{{r|意|い}}とせず、十字架を忍びて{{r|神|かみ}}の{{r|宝|ほう}}{{r|座|ざ}}の右に{{r|坐|ざ}}せり』〔{{二重線|エウレイ}}十二の一、二〕。 われらは{{r|神|かみ}}の{{r|賜|たまもの}}を以て{{r|自|みづ}}から{{r|高|たか}}ぶり、道徳に進むの{{r|或|あ}}る進歩を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|高慢|こうまん}}と{{r|称賛|しょうさん}}の{{r|為|ため}}の{{r|縁|えん}}{{r|由|ゆ}}となして、望む所の{{r|終|おわ}}りに{{r|達|たつ}}せざる{{r|先|さき}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|志|こゝろざし}}の{{r|撓|たわ}}まざらんが{{r|為|ため}}、{{r|高慢|こうまん}}により先になせる勤労を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に無益となさゞらんが{{r|為|ため}}、及び{{r|神|しん}}の{{r|恩寵|おんちょう}}の我等を{{r|引誘|いんゆう}}する{{r|成全|せいぜん}}に{{r|堪|た}}へざるものとならざらんが{{r|為|ため}}に{{r|戦々|せんせん}}{{r|競々|きょうきょう}}たらざるべからざるなり。|[p.435]}} [p.436] {{Quotation|故に勤労に{{r|於|おけ}}るの{{r|尽力|じんりょく}}を決して{{r|弱|よわ}}むべからず、{{r|眼前|がんぜん}}にある所の苦行を{{r|辞|じ}}するべからず、もし先に何か遂げし所あらんには、それを以て熱心を{{r|劃|かぎ}}るべからず、{{r|乃|すなわち}}{{r|使徒|しと}}の如く{{傍点|style=open circle|後}}を忘れて{{傍点|style=open circle|前}}に進み〔{{二重線|フィリッピ}}三の十三〕、{{r|成全|せいぜん}}を{{r|求|もと}}むる者が{{r|飽|あ}}くを知らずして{{r|独|ひと}}り{{r|飢|き}}{{r|渇|かつ}}する所の義の{{r|願|ねがい}}を{{r|有|ゆう}}し、勤労の為に{{r|慮|おもんぱか}}りて心肝を{{r|摧|くだ}}かんこと{{r|肝要|かんよう}}なり。彼等は{{r|許約|きょやく}}せられたる幸福を{{r|距|さ}}ること{{r|猶|なほ}}遠くして、<u>ハリストス</u>の完全なる愛に多く{{r|達|たつ}}せざる者なるにより、{{r|謙遜|けんそん}}なる者となり、恐れに満てる者とならざるべからず。けだし{{r|此|この}}{{r|愛|あい}}を{{r|切願|せつがん}}して、天の約束を{{r|仰望|ぎょうぼう}}する者は、{{r|禁食|きんしょく}}するか、{{r|儆醒|けいせい}}するか、{{r|或|あるい}}は他のいかなる{{r|徳行|とくこう}}に熱心するも、以前の功労を以て{{r|自|みづか}}ら{{r|高|たか}}ぶらざるべく、{{r|却|かへつ}}て神聖なる{{r|望|のぞみ}}にみたさるゝ彼は{{r|己|おのれ}}を呼ぶ所の者に{{r|間断|かんだん}}なく{{r|眼|め}}を{{r|注|そゝ}}ぎて、いくばく{{r|奮闘|ふんとう}}するも{{r|其|その}}{{r|志|こゝろざ}}す所のものに{{r|比|くら}}ぶれば{{r|全|まつた}}く小なりと{{r|思|おも}}ふべし。されば{{r|其|その}}{{r|行|おこない}}により{{r|己|おのれ}}を{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に尊敬すべき者とあらはさゞらん{{r|間|あいだ}}は、{{r|労|ろう}}に{{r|労|ろう}}を{{r|加|くは}}へ、{{r|徳行|とくこう}}に{{r|徳行|とくこう}}を{{r|重|かさ}}ぬるも、{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に適当なる者となれりとの{{r|意思|いし}}を心に{{r|懐|いだ}}かずして、{{r|此|こ}}の{{r|生命|いのち}}の{{r|終|おわり}}に{{r|至|いた}}るまで{{r|悉|ことごと}}くの{{r|尽力|じんりょく}}を{{r|用|もち}}ひん。けだし{{r|行|おこない}}に{{r|於|おい}}て{{r|大|おほい}}なる者は{{r|神|かみ}}を{{r|畏|おそ}}るゝを{{r|以|もつ}}て{{r|自負|じふ}}を{{r|地|ち}}に{{r|擲|なげう}}ちて、心を謙遜し、生活の為に{{r|己|おのれ}}を{{r|罪|つみ}}し、信じて愛するの{{r|度|ど}}により{{r|許約|きょやく}}を{{r|楽|たのし}}みて、{{r|自|みづ}}から{{r|労|ろう}}するの{{r|如何|いかん}}を{{r|以|もつ}}てせざるは、これぞ{{r|哲学|てつがく}}の{{r|最|もつとも}}{{r|卓越|たくえつ}}せる{{r|功労|こうろう}}なる。けだし{{r|賜|たまもの}}は{{r|大|おほい}}なるにより、これに{{r|相応|そうおう}}する{{r|勤労|きんろう}}を{{r|見|み}}{{r|出|いだ}}すことあたはざればなり。|[p.436]}} [p.437] {{Quotation|さりながら{{r|信|しん}}と{{r|望|ぼう}}とは{{r|大|おほい}}ならざるべからずして、これを{{r|以|もつ}}て報酬を測るべく、勤労を以てすべからざるなり。{{r|然|しか}}して{{r|信|しん}}の{{r|根本|こんぽん}}は{{r|心神|しんしん}}の{{r|貧|まづ}}しきと{{r|神|かみ}}に対する{{r|無|む}}{{r|量|りょう}}の{{r|愛|あい}}とにあり。 希望の目的に応じ、哲学によりて、生活せんと決心したる者の{{r|為|ため}}に{{r|余|よ}}は{{r|充分|じゅうぶん}}にのべたりと{{r|思|おも}}ふ。{{r|今|いま}}{{r|又|また}}これに{{r|加|くは}}ふるにかくの如き者はいかに{{r|互|たがい}}に{{r|交際|こうさい}}して{{r|如何|いか}}なる{{r|労|ろう}}を{{r|愛|あい}}するを{{r|要|よう}}するかを示すべし、{{r|天|てん}}{{r|都|と}}に{{r|達|たつ}}するに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}{{r|其|その}}進行を協力して{{r|成|な}}さん{{r|為|ため}}なり。 {{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|於|おい}}て尊敬すべきと認めらるゝものを{{r|断|だん}}じて{{r|尊|たつと}}ばず、{{r|親族|しんぞく}}を{{r|棄|す}}て、もろ{{く}}{{r|地下|ちか}}の{{r|栄|さかえ}}を{{r|棄|す}}てゝたゞ{{r|天上|てんじょう}}の{{r|尊栄|そんえい}}に{{r|着眼|ちゃくがん}}し、{{r|神|かみ}}による{{r|兄弟|けいてい}}と{{r|心神|しんしん}}にて{{r|結合|けつごう}}する{{r|者|もの}}は、{{r|世|よ}}と{{r|共|とも}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|たましい}}をも{{r|棄|す}}つること{{r|肝要|かんよう}}なり。{{r|霊魂|たましい}}を{{r|棄|す}}つとは{{r|何|なに}}に{{r|於|おい}}ても{{r|己|おのれ}}の{{r|旨|むね}}を求めずして、{{r|反|かへ}}つて{{r|己|おのれ}}の{{r|旨|むね}}を{{r|矯正|きょうせい}}し、{{r|院長|いんちょう}}を以て己の為に{{r|神|かみ}}の{{r|言|ことば}}となして、これを{{r|益用|えきよう}}すること、{{r|善良|ぜんりょう}}なる{{r|舵師|だし}}の如くし、{{r|兄弟|けいてい}}{{r|社会|しゃかい}}のすべてを{{r|挙|あ}}げて、{{r|同心|どうしん}}{{r|協力|きょうりょく}}して、{{r|神|かみ}}の{{r|旨|むね}}の{{r|湊|みなと}}に{{r|向|むか}}はしむるにあり。|[p.437]}} 【以下未入力(p.438-457)】 {{DEFAULTSORT:えしふとまかりいせんしよ しよかん2}} <!-- [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:埃及マカリイ全書|52]]--> {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{PD-old}} }} <!-- --> rb4xb39z7mupmi5sou73tydcy1dggua 243141 243140 2026-06-12T16:40:28Z 村田ラジオ 14210 243141 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しかれども{{r|或者|あるもの}}は{{r|自|みづ}}から<u>ハリストス</u>の{{r|機|き}}{{r|密|みつ}}に遠ざかるのみならず、『{{r|濁|にご}}れる{{r|敗壊|はいかい}}を以て{{r|其|その}}{{r|親友|しんゆう}}を{{r|誘|いざな}}ひ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-hab/2:8-17 <u>アバクム</u>二の十五]〕『神を{{r|識|し}}るべきものゝ彼等に{{r|明|あきらか}}にあらはるる』にも{{r|拘|かか}}はらず、神の真理を不義の{{r|中|うち}}に隠さんとす。けだし『{{r|其|その}}{{r|思念|おもひ}}は{{r|虚|むな}}しくなり』{{r|其|その}}{{r|無智|むち}}の心は{{r|昧|くら}}みしにより〔{{二重線|ロマ}}一の十八至二十一〕。彼等は説を{{r|為|な}}していへり、{{r|恥|は}}づべき{{r|情慾|じょうよく}}は天性自然にして神より我等に付与せられたるものなりと、{{r|是|こ}}れ{{r|即|すなはち}}{{r|敗壊|はいかい}}の{{r|楽|たのし}}み、不正なる{{r|忿怒|いきどほり}}、神の為に発するに{{r|非|あら}}ざる不適当なる{{r|怒|いかり}}、及び{{r|凡|およ}}そ{{r|此|これ}}に類するものをいふなり。|[p.425]}} 《現代語訳》 [p.425] 完全で聖なる人となるためには、彼自身が神の内にいるだけでなく、神が彼の内にいることも必要であることを知りなさい。主はこう言われる。「彼が私の内にいれば、私も彼の内にいる」(ヨハネ15章5節)。神の人間は、神の幕屋に住み、この幕屋を最も純粋な神性の聖なる山に建てなければなりません。それは、情欲の暗い力が彼を支配することを許さない方の栄光を受け入れるだけでなく、その栄光に抱かれるためです。救い主は、ふさわしい人々の中に、聖性と生来の無執着のために住まわれるからです。それは、救い主がご自身が無執着であるように、彼を受け入れた人々をも無執着にし、もはや嵐に巻き込まれず、どんな風にも吹き飛ばされない者とするためです。 また、ある人々はキリストの奥義から遠く離れているだけでなく、「わざわいなるかな、その隣り人に怒りの杯を飲ませて、これを酔わせ、 彼らの隠し所を見ようとする者よ。」(ハバクク書 2章15節)、神の真理を偽りの中に含み、「彼らの中には、神の知恵が明らかに示されている」と言われています。なぜなら、「思いがむなしく」なり、愚かな心によって暗くなった(ローマ 1章18–21節)ため、彼らは、腐敗の快楽、不当な短気、神によらない下品な怒りなど、恥ずべき情欲は神によって私たちに生まれつき備わっているものだと言うからです。 {{Quotation|ゆゑに彼等と{{r|其|そ}}の{{r|言|い}}ふ所とは真理に{{r|違|たが}}ふものとしてこれを{{r|棄|す}}て、我等を造りし者を以て我等にあたへられたる自由自主の主権を{{r|承認|うけみと}}めん、善きことに進むも{{r|悪|あし}}きことを{{r|止|や}}むるも我等に{{r|係|かか}}らんためなり。けだし真実なる審判者は、もし{{r|自|みづ}}から情慾の造物主ならば、これに占領せらるゝ我等を{{r|罰|ばつ}}せざるべし。祈る{{r|此|この}}{{r|教|をしへ}}に離れ遠ざかりて、これを{{r|思|おもひ}}にも{{r|生|しょう}}ぜしめざらんことを。けだし{{r|此|こ}}の{{r|蒙昧|もうまい}}にして{{r|愚|おろか}}なる意見は、{{r|凡|およそ}}の敬虔なる{{r|裁|さい}}{{r|智|ち}}の為に{{r|忌|い}}み{{r|嫌|きら}}ふべきものとす。神は清くして{{r|最|いと}}{{r|美|うつく}}しき天地万物の造成者なることは、世界創造の際に{{r|聖神|せいしん}}の{{r|告|つ}}げ{{r|給|たま}}ひし如し、けだしいへり、『神は{{r|其|その}}造りたる{{r|諸|もろもろ}}の物を見たまへるに{{r|甚|はなは}}だ{{r|善|よ}}かりき』〔創世記一の三十一〕。されば<u>イエレミヤ</u>は{{r|恥|は}}づべき情慾のために{{r|哀|かなし}}み、かつ{{r|惑|まど}}ふていへり、『主の命じ給ふにあらずば、誰か事を述べんに、その事すなはち成らんや、{{r|禍|わざわい}}も{{r|福|さいわい}}も{{r|至|し}}{{r|高者|こうしゃ}}の口より{{r|出|い}}づるにあらずや』〔<u>イエレミヤ</u>哀歌三の三十六‐三十八〕。故に{{r|福音|ふくいん}}{{r|経|きょう}}に聡明なる天軍は主に{{r|問|と}}ふていへり、『主よ{{r|爾|なんぢ}}は{{r|美|よき}}{{r|種|たね}}を{{r|爾|なんぢ}}の{{r|田|た}}に{{r|撒|ま}}きたるに{{r|非|あら}}ずや、{{r|然|しか}}らば何に由りて{{傍点|style=open circle|此の}}{{r|稗|ひえ}}あるか』〔<u>マトフェイ</u>十三の二十七〕。[p.427]また他の所に救世主は{{r|自|みづ}}から彼等の事をいへり、『{{r|凡|およ}}そ我が天の父の{{r|植|うゑ}}ざりし植物は{{r|其|その}}{{r|根|ね}}{{r|絶|たや}}されん』と〔<u>マトフェイ</u>十五の十三〕。しかれどもすべて神の{{r|植|う}}ゑしものゝ{{r|美|び}}なることは、<u>ハリストス</u>これをいひ、<u>パウェル</u>もこれを{{r|証|しょう}}せり、曰く『{{r|蓋|けだし}}神の{{r|悉|ことごと}}くの造物は善なり』〔<u>テモフェイ</u>前四の四〕。故に知るべし我等の{{r|中|うち}}にかくるゝ情慾は本来我等に属するに非ずして、他に属するものなるを。けだし{{r|言|い}}ふあり、『我が{{r|隠|ひそか}}なる{{r|咎|とが}}より我を{{r|浄|きよ}}め{{r|給|たま}}へ、{{r|故|こ}}{{r|犯|はん}}より{{r|爾|なんぢ}}の{{r|僕|ぼく}}を{{r|止|とゞ}}めよ』〔[[第三「カフィズマ」#18:13|聖詠十八の十三、十四]]〕、またいふあり、『外人は{{r|起|た}}ちて我を{{r|攻|せ}}め、強き者は我が{{r|霊|たましい}}を{{r|覓|もと}}む』〔[[第七「カフィズマ」#53:5|同上五十三の五]]〕。またいふあり、『主よ我と{{r|争|あらそ}}ふ者と{{r|争|あらそ}}ひ、我と{{r|戦|たゝか}}ふ者と{{r|戦|たゝか}}ひ給へ』〔[[第五「カフィズマ」#34:1|同上三十四の一]]〕。それ此の{{傍点|style=open circle|{{r|隠|ひそか}}なるもの}}{{r|或|あるい}}は此の{{傍点|style=open circle|争ふ者}}{{r|或|あるい}}は{{傍点|style=open circle|戦ふ者}}{{r|或|あるい}}は此の{{傍点|style=open circle|故犯}}とはこれ<u>ハリストス</u>の徳行に{{r|逆|さから}}ふ凶悪なる{{r|諸神|しょしん}}を示すにあらずして何ぞや。|[p.426]}} [p.426] したがって、彼らや彼らの言葉を真理から逸脱したものとして捨て去り、私たちを創造した方が私たちに与えてくださった自由の専制を認め、最善を目指し、最悪を避けるのは私たち次第であることを認めましょう。真の審判者ご自身が創造主であるならば、情欲にとりつかれた私たちを罰するはずがありません。お願いですから、この教えは捨て去り、頭に浮かばないようにしてください。この不合理で愚かな考えは、すべての敬虔な理解力にとって不快です。神は、創造の時に聖霊が告げたように、純粋で最も美しい自然の創造主です。「見よ、すべてが非常に良い」(創世記 1章31節)と神は言っています。エレミヤは、恥ずべき情欲について嘆き、困惑しながらこう言います。「主は『あなたのものは誰か』と言われたのではない。主が語られたから、そうなったのだ。主は『いと高き者の口からは悪は出ず、善は出る』と命じられたのではない。(哀歌エレミヤ3章36-38節)」。それゆえ、福音書の中で、知性ある者たちは主にこう問いかけます。「主よ、あなたは畑に良い種を蒔かれたではありませんか。では、これらの「毒麦」はどこから来るのでしょうか(マタイ13章27節)。別の箇所では、救い主ご自身がそれらについてこう言っています。「天の父が植えなかった庭は、みな根こそぎにされるであろう」(マタイ15章13節)。そして、神の植えたものはすべて美しいと、パウロはキリストが「神の造られたものはすべて良いものである」(テモテ第一4章4節)と言っているように、パウロもそのことを証言しています。ですから、私たちの中に秘められた情熱は私たち自身のものではなく、私たちとは無関係のものであることを知ってください。「わたしの隠れた罪を清め、あなたのしもべを異邦人の罪からお守りください」(詩篇19篇13-14節)、「異邦人がわたしに立ち向かい、力ある者たちがわたしの命を狙っています」(詩篇54篇5節)、「主よ、わたしを害する者を裁き、わたしと戦う者と戦ってください」(詩篇35篇1節)と書いてあるからです。では、この「隠れた」とは、あるいは「罪を犯す者」や「戦う者」、あるいは「異邦人」とは、キリストの徳に敵対する悪霊ではないとしたら、何を意味するのでしょうか。 {{Quotation|律法も内部の人の{{r|潔浄|けつじょう}}のことを公然と呼ぶを精密に吟味せよ。いふあり、『汝の主、神の名を{{r|妄|みだり}}に口にあぐべからず、けだし主は己の名を{{r|妄|みだ}}りに口にあぐる者の心を清めざるべし』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-deu/5:1-11 {{r|復傳|ふくでん}}{{r|律令|りつれい}}五の十一]〕。ゆゑに使徒も勧めて{{r|明|あきら}}かにいへり、『{{r|己|おのれ}}を{{r|凡|およそ}}の{{r|肉|にく}}と{{r|神|しん}}との{{r|汚|けがれ}}より{{r|潔|きよ}}くせよ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-2cor/7:1-5 {{二重線|コリンフ}}後七の一]〕。また他の処にもいふ『心は{{r|灑|そゝ}}がれて悪しき意念を去れ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-heb/10:16-22 {{二重線|エウレイ}}十の二十二]〕、又いふ『汝等の{{r|神|しん}}と{{r|霊|れい}}と{{r|体|たい}}とは{{r|全|まつと}}うし{{r|護|まも}}られて{{r|疵|きず}}なからん』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-1th/5:16-23 {{二重線|ソルン}}前五の二十三]〕、[p.428]又いふ『{{r|疵|きず}}なき神の子とならん為なり』〔{{二重線|フィリッピ}}二の十五〕。ゆゑに{{r|凡|すべ}}て子たる{{r|位地|いち}}を{{r|賜|たま}}はらんことを願ふ者は{{r|疵|きず}}なき{{r|体|からだ}}を有するのみならず、{{r|疵|きず}}なき{{r|霊|たましい}}をも有すること、{{r|左|さ}}の如くならざるべからず『{{r|願|ねがは}}くは我が心{{r|爾|なんぢ}}の{{r|律|おきて}}に{{r|玷|きず}}なからん、我が{{r|羞|はぢ}}を{{r|得|え}}ざらん為なり』〔[[第十七「カフィズマ」#118:80|聖詠百十八の八十]]〕。けだし律法の{{r|下|もと}}に居る者は、たゞ肉体の{{r|稱|しょう}}{{r|義|ぎ}}を遂げて、外部の{{r|潔浄|けつじょう}}を守れども、{{r|恩寵|おんちょう}}の{{r|下|もと}}に{{r|居|を}}る者は、{{r|成聖|せいせい}}により内部の平安を願ふて、{{r|左|さ}}の如くいひし者にしたがふなり、曰く、『もし汝等の義は学士お呼び<u>ファリセイ</u>等の義に{{r|勝|まさ}}らずば{{r|爾|なんぢ}}{{r|等|ら}}天国に入るを得ず』〔<u>マトフェイ</u>五の二十〕、何となれば<u>ファリセイ</u>等は智を{{r|盲|くら}}まして、{{傍点|style=open circle|杯と皿の外}}を{{r|潔|きよ}}むればなり〔<u>マトフェイ</u>二十三の二十五〕。今も彼等に似たる新<u>ファリセイ</u>は、未熟なる才智を以て外部の人を粉飾し、{{r|自|みづ}}から己を義とせんとす、しかれども{{r|聖神|せいしん}}は彼等の{{r|神|しん}}と共に彼等が神の子たるを{{r|証|しょう}}すること、使徒と共に{{r|証|しょう}}する如くせざるべし、言ふあり、『此の{{r|神|しん}}{{r|自|みづ}}から我等の{{r|神|しん}}と共に我等が神の子たるを{{r|証|しょう}}す』〔{{二重線|ロマ}}八の十六〕。彼等は内部の人の{{r|聖徳|せいとく}}に成長するを自己にあらはさんことを{{r|欲|ほつ}}せずして、たゞ肉体上の功労に信任し、『{{r|王|おう}}の{{r|女|ぢょ}}の光栄は皆内部にある』〔[[第六「カフィズマ」#44:14|聖詠四十四の十四]]〕を知らざるなり。我等各人は{{r|恰|あたか}}も心中の{{r|無花果|いちじく}}の如し、主の{{r|尋|たづ}}ぬるは内部の{{r|果|か}}にありて、{{r|枝|し}}{{r|葉|よう}}の{{r|飾|かざり}}にあるにあらざるなり〔<u>マトフェイ</u>二十一の十九〕。|[p.427-p.428]}} [p.427-p.428] 律法もまた、内なる人の清さをはっきりと求めていることを、より深く考えてみましょう。「主なるあなたの神の名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える心をきよめられないからである」(申命記 5:11)とあります。それゆえ、使徒パウロもまた、はっきりとこう勧めています。「肉の汚れだけでなく、霊の汚れからも、あらゆる汚れから自分をきよめましょう」(コリント人への手紙二 7章1節 )。また別の箇所では、「心に汚れた良心を清め」(ヘブライ人への手紙 10章22節 )と言い、さらに「体と霊と魂を、完全に清く保ちなさい」(テサロニケ人への手紙一 5章23節)と言い、「あなたがたが、責められるところのない神の子となるためです」(ピリピ人への手紙 2章15節)とも言っています。したがって、養子縁組にふさわしくありたいと願う者は皆、非の打ちどころのない体だけでなく、非の打ちどころのない魂を持たなければなりません。それは、「あなたの戒めの中で、私の心が清くあって、私が恥じることのないようにしてください」(詩篇 119篇80節)と言われた方のようなものです。律法の下に生き、肉の義認だけを満たす人は外面的な清さを保ちますが、恵みの下に生きる人は、聖さにおける内面的な平和も望み、「あなたがたの義がパリサイ人や律法学者よりもまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入れません」(マタイ 5章20節)と言われた方に従います。パリサイ人は心が盲目であるため、「鏡の外側」をきよめるからです(マタイ 23章25節)。現代の新しいパリサイ人たちも、彼らと同様、未熟な心で外面を飾り、自らを正当化しますが、聖霊は、彼らが神の子であるという彼らの霊に従おうとはしません。使徒パウロはこう言っています。「"霊"みずからわたしたちの霊に従われます。わたしたちは神の子なのですから」(ローマ8章16節)彼らは、内なる人の聖さが成長していることを自ら示そうとせず、肉の功績だけに頼っています。「王の娘の栄光はすべて内にある」(詩篇45篇14節)ことを彼らは知りません。私たち一人ひとりは、いわば心のいちじくの木のようで、主はその葉の飾りではなく、内なる実を求めておられるのです(マタイ21章19節)。 [p.429] {{Quotation|故に{{r|恥|は}}づべき情慾を弁護して、天然自然なるものとし、{{r|偶然|ぐうぜん}}に人に{{r|入|い}}りしにあらずといふ者は、『{{r|神|かみ}}の真実を己の{{r|偽|いつわり}}に{{r|易|か}}ふるなり』〔{{二重線|ロマ}}一の二十五〕何となれば我が{{r|先|さき}}にいひし如く{{r|無|む}}{{r|玷|てん}}{{r|純潔|じゅんけつ}}なる者は{{r|其|その}}{{r|像|ぞう}}を{{r|己|おのれ}}に{{r|肖|に}}たるものとなしたりしが、『{{r|悪|あく}}{{r|鬼|き}}の{{r|猜|そね}}みにより死は世に{{r|入|い}}りたればなり』〔知恵書二の二十四〕。ゆゑに人間は不法によりて{{r|孕|はら}}まれ、罪に{{r|於|おい}}て{{r|生|うま}}れて、〔[[第七「カフィズマ」#50:7|聖詠五十の七]]〕{{r|母|ぼ}}{{r|腹|ふく}}より離れ遠ざかる者となり、{{r|母|ぼ}}{{r|胎|たい}}より{{r|迷|まよい}}に{{r|居|を}}りて、<u>アダム</u>より以後<u>ハリストス</u>の{{r|来|きた}}るに至るまで罪が王となりしにより神の{{r|羔|こひつじ}}は{{r|憐|あわれみ}}を{{r|垂|た}}れて{{r|来|きた}}り給へり、これ{{r|先|ま}}づ強き者を{{r|縛|ばく}}し、{{r|其後|そののち}}{{r|鹵|ろ}}{{r|獲|かく}}せられたる器物を{{r|奪|うば}}ひ{{r|回|かへ}}して、己の力を以て世の罪を取らん為なり、言ふあり『{{傍点|style=open circle|擄者を{{r|擄|とりこ}}にす}}』と、又いふ『{{r|献物|さゝげもの}}をうく』と〔[[第九「カフィズマ」#67:19|聖詠六十七の十九]]〕。 我等は{{r|俘|ふ}}{{r|虜|りょ}}たるをまぬかれ、『土に属する者の{{r|状|かたち}}を{{r|衣|き}}たる如く、天に属する者の{{r|状|かたち}}』〔{{二重線|コリンフ}}前十五の四十九〕を{{r|衣|き}}『我等の{{r|肢|し}}{{r|体|たい}}を義の{{r|僕|ぼく}}となして、{{r|成聖|せいせい}}に{{r|委|ゆだ}}ぬること罪に{{r|委|ゆだ}}ねし如くせんことを』{{r|慮|おもんぱか}}らざるべからず〔{{二重線|ロマ}}六の十九〕。我等は信ず、われら{{r|躓|つまづ}}かずして光の{{r|中|うち}}を行く者は、神の奇跡を認めんを要するを。録して言ふ所の如し、曰く『我が目を{{r|啓|ひら}}き{{r|給|たま}}へ、{{r|然|しか}}せば{{r|我|われ}}{{r|爾|なんぢ}}が{{r|律法|りっぽう}}の{{r|奇|き}}{{r|跡|せき}}を{{r|観|み}}ん』〔[[第十七「カフィズマ」#118:19|聖詠百十八の十九]]〕。|[p.429]}} [p.429] したがって、恥ずべき情欲を自然なものとして、偶然に人に入り込んだものではないとして擁護する者は、「神の真理を偽りに変えた」(ローマ1章25節)のです。なぜなら、私が先に述べたように、汚れなき清らかな方がご自身の似姿に造られたからです。「しかし、悪魔のねたみによって死が世に入り込んだ」(知恵書2章24節)。したがって、人類は不義のうちに宿り、罪のうちに生まれ(詩篇51篇7節 )、母の胎内から離れ、アダムからキリストの到来まで罪が支配し始めてから、母の胎内から誤りの中にとどまりました。そして、憐れみ深い神の子羊が、ご自身の力で世の罪を取り除くために来られ、まず強い男を縛り、それから彼が戦利品として集めた器を奪い取られました。それは、「あなたは捕虜を捕らえ、また背く者を捕らえた」と言われたとおりです(詩篇68篇19節)。 私たちは、束縛から解放されるよう注意し、「地上の像を着ているように、天の像をも着るようになるのです」(コリント第一 15章49節)、「義のしもべである私たちの肢体を、罪に差し出したように、聖なる姿で差し出す」(ローマ 6章19節)必要があります。私たちは、光の中をつまずくことなく歩む私たちは、神が「私の目を開いてください。そうすれば、あなたの律法からあなたの驚くべき御業を理解できます」(詩篇 119篇18節)と言われたように、神の驚くべき御業を見る運命にあると信じています。 [p.430] {{Quotation|けだし光の{{r|中|うち}}を行く者は五感に{{r|躓|つまづ}}きを{{r|来|きた}}さゞる如く、完全なる{{r|成聖|せいせい}}に{{r|居|を}}る者も心に{{r|奸計|かんけい}}を思はず、{{r|悪|あ}}しく{{r|慮|おもんぱか}}らざるなり。けだし『{{r|光|ひかり}}は{{r|暗|やみ}}と何の{{r|交|まじわ}}ることのあらん、神の{{r|殿|でん}}は偶像と何の同じきことのあらん』〔{{二重線|コリンフ}}後六の十五、十六〕、故に己を神の{{r|殿|でん}}と{{r|認|みと}}むべく、{{r|思|おもい}}の偶像を心中に{{r|画|えが}}かざらんことを{{r|力|つと}}めよ。けだし{{r|霊魂|たましい}}の{{r|中|うち}}に動作する{{r|凡|すべ}}ての{{r|情慾|じょうよく}}は偶像なり、故に『勝たるゝ者は勝つ者の奴隷たり』とは{{r|最|いと}}{{r|善|よ}}く言へるなり〔<u>ペトル</u>後二の十九〕。もし我等は肉体の慾に{{r|勤|つと}}むるならば、{{r|聖|せい}}にして無慾なる{{r|神|しん}}につとめざらんこと{{r|明|あきらか}}なり、何となれば人は『{{r|二人|ふたり}}の主に{{r|事|つか}}ふるあたはず、{{r|神|かみ}}と{{r|財|たから}}とに{{r|兼|かね}}{{r|事|つか}}ふること{{r|能|あた}}はざればなり』〔<u>マトフェイ</u>六の二十四〕。{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}は聖にして『{{r|汚|けがれ}}{{r|或|あるい}}は{{r|此|かく}}の如きもの』を有せず〔{{二重線|エフェス}}五の二十七〕、『けだし{{r|聖神|せいしん}}は{{r|諂|てん}}{{r|媚|び}}を避け、{{r|無智|むち}}{{r|者|しゃ}}の{{r|思念|おもい}}より遠ざかり、{{r|教|おしえ}}は{{r|奸猾|かんかつ}}なる{{r|霊魂|たましい}}に{{r|入|い}}らざるなり』〔知恵書一の四、五〕。 ゆゑに我等が律法はすべて{{r|神|かみ}}の{{r|指|ゆび}}を{{r|以|もつ}}て心にしるさるゝものにて、{{傍点|style=open circle|{{r|墨|すみ}}を以てするにあらず}}、{{r|神|かみ}}の{{r|神|しん}}を{{r|以|もつ}}てする〔{{二重線|コリンフ}}後三の三〕ものなるを確信して、『我は真実なり』〔<u>イオアン</u>十四の七〕との{{r|給|たま}}ひし立法者の真実をうけん、彼は心の割礼を{{r|行|おこな}}ひ、適当なる者の{{r|裁|さい}}{{r|智|ち}}に{{r|其|その}}{{r|仁|じん}}{{r|慈|じ}}の{{r|法|ほう}}をしるすこと、預言者のいへる如し、曰く『われ我が{{r|律法|りっぽう}}を彼等の心に置き、彼等の{{r|思|おもい}}にしるさん』〔<u>イエレミヤ</u>三十一の三十三〕。{{傍点|style=open circle|{{r|凡|およ}}そ選ばれたる族}}と、{{傍点|style=open circle|王たる祭司班}}と、{{傍点|style=open circle|聖なる人民}}と、選ばれたる{{傍点|style=open circle|人}}〔<u>ペトル</u>前二の九〕の{{r|中|うち}}に{{r|入|い}}らんことを苦心する者は、{{r|生活|せいかつ}}を{{r|施|ほどこ}}す{{r|神|しん}}の{{r|効力|こうりょく}}を{{r|便|べん}}{{r|利|り}}に{{r|己|おの}}れにうけん。|[p.430]}} [p.430] 感覚において、光の中を歩む者はつまずかないのと同様に、精神において、完全な聖さの中に留まる者は悪を考えず、悪の理性を働かせません。なぜなら、「光と闇との交わりはなく、教会と偶像との結びつきもない」(コリント第二 6章15-16節)からです。ですから、自分自身を神の神殿であると認識し、心の中に偶像を描かないように努めなさい。魂に働くすべての情欲は偶像です。ですから、「人は何に打ち負かされるかによって、その者のしもべとなる」(ペテロ第二 2章19節)と美しく言われています。もし私たちが肉欲に囚われているなら、明らかに、私たちは聖なる、情欲のない聖霊に囚われていません。なぜなら、「だれも二人の主人に仕えることはできない。あなたがたは、神と富に仕えることはできない」(マタイ 6章24節)と言われているからです。神の神殿は聖なるものであり、「汚れも、しわも、そのようなものは一切ない」(エフェソ 5章27節)のです。「聖霊は欺きから逃げ去り、理性のない考えから遠ざかり、悪しき魂に入り込むことはない」(知恵書 1章4-5節)のです。 したがって、私たちの律法全体が神の指によって、インクではなく神の霊によって心に書かれていることを確信した私たちは、 「わたしは真理である」(ヨハネ14章7節)と言われた律法授与者の真理を受け入れましょう。神は、預言者が言うように、「わたしの律法を彼らの心に与え、わたしはそれを彼らの心に書き記す」(エレミヤ31章33節)ように、ふさわしい者の心に割礼を施し、その善の律法を書き記してくださいます。「選ばれた世代」、「王なる祭司」、「聖なる国民」 、「選ばれた民」(ペテロ第一2章9節)に入ろうとする者は皆、命を与える聖霊の効力を喜んで受け入れます。 [p.431] {{Quotation|故に<u>ハリストス</u>に{{r|於|おけ}}る生活の<u>ハリストス</u>と同形なる公正に{{r|進|すゝ}}むを、{{r|縦|たと}}ひ久しからずと{{r|雖|いへど}}も、我等にも{{r|賜|たま}}はらんことを{{r|願|ねが}}ひ{{r|且|かつ}}祈るべし。けだし{{r|如此|かくのごとき}}の{{r|霊魂|たましい}}は{{傍点|style=open circle|面の恥}}〔[[第六「カフィズマ」#43:16|聖詠四十三の十六]]〕を脱し、{{r|最早|もはや}}汚れたる{{r|思|おもい}}に占領せられず、{{r|悪者|あくしゃ}}と{{r|姦通|かんつう}}せずして、{{r|疑|うたがい}}なく天の{{r|新郎|しんろう}}と{{r|親|しん}}{{r|与|よ}}をなさん、何となれば{{r|自|みづ}}から彼と{{r|同形|どうけい}}なればなり。彼に対するの愛を以て刺激せられたる{{r|霊魂|たましい}}は望みて{{r|絶|たえ}}{{r|入|い}}らん〔[[第十一「カフィズマ」#83:1|聖詠八十三の一]]〕。{{r|我|われ}}{{r|敢|あえ}}ていふ、{{r|成聖|せいせい}}を{{r|享|うく}}ることの{{r|不|ふ}}{{r|朽|きゅう}}なる{{r|契約|けいやく}}により、彼とかくの如く{{r|美|び}}なる{{r|心中|しんちゅう}}{{r|秘|ひ}}{{r|密|みつ}}の{{r|体合|たいごう}}を{{r|為|な}}すを望まん。{{r|如此|かくのごとき}}の{{r|霊魂|たましい}}は実に幸福なり、彼は{{r|霊神|れいしん}}{{r|上|じょう}}の愛に勝たれたつものとして、{{r|神|かみ}}{{r|言|ことば}}に{{r|嫁|か}}すること当然なり、故に彼は{{r|敢|あえ}}て言ふべし、左の如く言ふべし、曰く『我が{{r|霊|たましい}}はわが{{r|神|かみ}}をたのしまん、そは我に{{r|救|すくい}}の{{r|衣|ころも}}をきせ、義の{{r|外服|がいふく}}をまとはせて、{{r|新郎|しんろう}}が{{r|冠|かんむり}}をいたゞき、{{r|新|しん}}{{r|婦|ぷ}}が{{r|玉|たま}}こがねの{{r|飾|かざり}}をつくるが如くしたまへばなり』〔<u>イサイヤ</u>六十一の十〕けだし{{r|王|おう}}は彼の善良を望みて〔[[第六「カフィズマ」#44:12|聖詠四十四の十二]]〕、彼をたゞ{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}と名づくるのみならず、{{r|王|おう}}の{{r|女|むすめ}}及び{{r|皇后|こうごう}}と名づくるを{{r|賜|たま}}へり、{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}と名づくるは{{r|聖神|せいしん}}の{{r|為|ため}}に{{r|領有|りょうゆう}}せられたるによる、{{r|王|おう}}の{{r|女|むすめ}}と名づくるは{{r|父|ちゝ}}より光の子たることをうけたるによる、{{r|又|また}}{{r|皇后|こうごう}}と名づくるは{{r|独生|どくせい}}{{r|者|しゃ}}の{{r|光栄|こうえい}}の{{r|神性|しんせい}}と{{r|配合|はいごう}}せしによるなり。|[p.431]}} [p.431] ですから、たとえほんの短い間であっても、私たちもキリストにおける一貫した正しい生き方に近づくにふさわしい者と認められるよう、祈り求めましょう。そのような魂は、「顔の恥」(詩篇44篇16節)を捨て、もはや不純な思いにとらわれることもなく、もはや悪魔と姦淫を犯すこともなく、疑いなく天の花婿との交わりに入ります。なぜなら、その魂自体が一貫した生き方をしているからです。主への愛によって傷つき、「切望し、そして尽き果てた」(詩篇84篇1節)のです。あえて言えば、聖なる交わりの朽ちることのない絆を通して、主との美しく神秘的な結びつきを切望しているのです。そのような魂は、真に祝福され、幸福です。霊的な愛に打ち勝った魂は、神の言葉にふさわしく婚約しているのです。それゆえ、彼女は大胆に語り、こう言うであろう。「わが魂は主にあって喜びます。主はわたしに救いの衣と喜びの衣を着せ、花婿のようにわたしに冠を授け、花嫁のようにわたしを美しく飾ってくださいました」(イザヤ書61章10節)。王は彼女の美しさを望み(詩篇44:12)、彼女を神の神殿だけでなく、王女、王妃とも呼ぶにふさわしい者とみなした。神の神殿とは、聖霊によって養子とされた者であり、王女とは、光の父から養子とされた者であり、王妃とは、独り子の栄光の神性と結びついた者なのである。 [p.432] {{Quotation|けだし本性に{{r|於|おい}}て{{r|一|いつ}}たる主は、いかんして人間の{{r|救|すくい}}の摂理の為に多くの名を{{r|比喩|ひゆ}}{{r|的|てき}}に{{r|己|おのれ}}にうけしか。{{r|何故|なにゆえ}}{{r|甲処|こうしょ}}には{{r|石|いし}}〔{{二重線|コリンフ}}前十の四〕及び門〔<u>イオアン</u>十の七〕と名づけ、{{r|他|た}}{{r|処|しょ}}には{{r|斧|おの}}〔<u>ルカ</u>十五の一〕及び{{r|餅|ぱん}}と名づけしか〔同六の三十五〕。{{r|石|いし}}と名づけしは{{r|其|その}}{{r|勢力|せいりょく}}の動かすべからざると近づくべからざるとによる、{{r|門|もん}}と名づけしは彼によりて{{r|永世|えいせい}}に{{r|入|い}}るによる、{{r|斧|おの}}とは彼は{{r|悪習|あくしゅう}}の{{r|根|ね}}を{{r|絶|た}}つによる、{{r|路|みち}}とは適当なる者を真実を{{r|識|し}}るにみちびくによる、{{r|葡|ぶ}}{{r|萄|どう}}の{{r|幹|みき}}とは{{r|人心|じんしん}}をたのしましむる{{r|酒|さけ}}が彼によりて{{r|産|さん}}せらるゝによる、また{{r|餅|ぱん}}とは{{r|有言|ゆうげん}}なる{{r|造物|ぞうぶつ}}の{{r|心|こゝろ}}を{{r|堅|かた}}むるによるなり。しかれどもこれと同じく{{r|神|かみ}}{{r|言|ことば}}の為に領有せられたる非難すべからざる{{r|霊魂|たましい}}も、{{r|固|もと}}より{{r|単純|たんじゅん}}なるものなれど、{{r|神的|しんてき}}{{r|道徳|どうとく}}に多くの進歩をなすにしたがひて、{{r|賜|たまもの}}をうけん。我が{{r|此事|このこと}}をいふは{{r|新|しん}}{{r|婦|ぷ}}の名称も{{r|勿論|もちろん}}たゞ{{r|三|みつ}}のみにあらずして、{{r|更|さら}}に{{r|多|おほ}}かるべきによるなり。 ゆゑに{{r|神|かみ}}の{{r|聖所|せいしょ}}に{{r|入|い}}りて、『我等が{{r|年少|ねんしょう}}を{{r|楽|たのし}}ましむる{{r|神|かみ}}に』〔[[第六「カフィズマ」#42:4|聖詠四十二の四]]、{{r|希臘|ギリシャ}}訳文〕{{r|就|つ}}かざらん{{r|間|あいだ}}は、{{r|此|こ}}の{{r|労|ろう}}は我等の面前にあるを知るべし、けだし我等なほ肉体にあるも、{{r|主|しゅ}}の{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}を、たまはり、{{r|成聖|せいせい}}を{{r|遂|と}}げんことは、救世主の{{r|悦|よろこ}}ぶ所にして、{{r|其時|そのとき}}には、{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如くいふを{{r|得|え}}ん、曰く『我等は肉に在りて{{r|行|おこな}}へども、肉に{{r|循|したが}}ひて{{r|戦|たゝか}}はず、我等が{{r|戦|たゝかい}}の{{r|器|うつわ}}は肉に属せず、{{r|乃|すなわち}}{{r|神|かみ}}に{{r|由|よ}}りて{{r|塁|とりで}}を{{r|破|やぶ}}る{{r|能|ちから}}あり、我等{{r|此|これ}}を以て{{r|諸|もろもろ}}の{{r|謀|はかりごと}}と{{r|凡|およ}}そ{{r|神|かみ}}の知識に{{r|逆|さか}}ふ高慢とを破る』〔{{二重線|コリンフ}}後十の三至五〕。|[p.432]}} [p.432] 本質において唯一の主が、人類の救済という摂理のために、いかにして比喩的な意味で多くの名前を身にまとわれたことだろうか。なぜイエスは、ある箇所では岩(コリント第一 10章4節)や戸口(ヨハネ 10章7節)と呼ばれ、別の箇所では斧(ルカ 3章9節)や道(ヨハネ 14章6節)と呼ばれ、またぶどうの木やパン(ヨハネ 6章35節)とも呼ばれるのでしょうか。―岩と呼ばれるのは、イエスの力の揺るぎなさと近づきがたい性質によるものです。―戸口と呼ばれるのは、イエスを通して永遠の命に入ることができるからです。―斧と呼ばれるのは、イエスが悪の根源を断ち切るからです。―道と呼ばれるのは、イエスがふさわしい者を真理の知識へと導くからです。―ぶどうの木と呼ばれるのは、イエスが人の心を喜ばせる実り豊かなぶどう酒を実らせるからです。そして同様に、パンと呼ばれるのは、イエスが理性を持つ被造物の心を強くするからです。同様に、神の言葉に似た、それ自体は単純でありながら、多くの霊的な徳を積むことによって、罪のない魂もまた賜物を受けるに値するとみなされるのです。私がこのように述べたのは、花嫁の称号は三つだけでなく、多くの称号を持つからです。 そして、この労苦は、私たちが神の聖所に入るまで、すなわち「私たちの若さを喜ばれる神のもとへ」(詩篇43章4節)に入るまで、私たちの前に立ちはだかっていることを知っておきなさい。救い主は、私たちがまだ肉体の中にいる間に、主の無情にふさわしく、聖さに満たされることを喜ばれるからです。そして、その時、私たちは大胆にこう言うことができます。「私たちは肉体の中にいる間は、肉に従って戦いません。私たちの戦いの武器は肉的なものではなく、神によって力強く、滅びに強く、あらゆる考えや、神の知識に逆らって高ぶるあらゆる高慢なものを打ち砕くからです」(コリント第二10章3-5節)。 [p.433] {{Quotation|故に{{r|尚|なほ}}{{r|此処|こゝ}}に{{r|於|おい}}ても我等は罪なる{{r|慾|よく}}を十字架に{{r|釘|くぎ}}すること、預言者の{{r|祈祷|きとう}}の如くすべし、曰く『我が肉体を{{r|爾|なんぢ}}を{{r|畏|おそ}}るゝの{{r|畏|おそ}}れに{{r|釘|くぎ}}す』〔[[第十七「カフィズマ」#118:120|聖詠百十八の百二十]]〕。けだし{{r|使徒|しと}}のいはゆる『神の国を{{r|嗣|つ}}ぐあたはざる』〔{{二重線|コリンフ}}前十五の五十〕肉と血とは、{{r|此|こ}}の{{r|見|み}}ゆる{{r|体|からだ}}をいふにあらずして、〔彼は{{r|神|かみ}}の造る所なり〕{{傍点|style=open circle|{{r|悖逆|はいぎゃく}}の子}}〔{{二重線|エフェス}}二の二〕の{{r|中|うち}}に行為する凶悪の{{r|神|しん}}によりて{{r|起|おこ}}さるゝ肉体の{{r|念慮|ねんりょ}}を指す、何となれば<u>ハリストス</u>に{{r|於|お}}ける完全なる苦行者のために『{{r|戦|たゝかい}}は{{r|血肉|けつにく}}に{{r|於|おい}}てするに非ず、{{r|此|こ}}の{{r|暗昧|あんまい}}の{{r|世|せ}}{{r|君|くん}}に{{r|於|おい}}てし、凶悪の{{r|諸神|しょしん}}に{{r|於|おい}}てすればなり』〔{{二重線|エフェス}}六の十二〕。 故にもし{{r|此|こ}}の行為は天性自然の行為にあらずして、反対なる{{r|力|ちから}}の行為なるを{{r|認|みと}}むるならば、彼等に対して<u>ハリストス</u>の{{r|全|まつた}}き{{r|軍|ぐん}}{{r|備|び}}をおのれにうけ、『{{r|其|そ}}の{{r|奸計|はかりごと}}を{{r|禦|ふせ}}ぐを{{r|得|う}}べし』〔{{二重線|エフェス}}六の十一〕何となれば救世主は『{{r|蛇|だ}}{{r|蝎|かつ}}及び{{r|悉|ことごと}}くの{{r|敵|てき}}の{{r|力|ちから}}を{{r|踏|ふ}}む』の{{r|権|けん}}を我等に{{r|賜|たま}}ふによる〔<u>ルカ</u>十一の十九〕。{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}{{r|尚|なほ}}{{r|肉体|にくたい}}に{{r|居|を}}るも{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如く{{r|言|い}}ふを{{r|得|え}}んが為なり、曰く『もしわが心に不法のあるを{{r|見|み}}しならば主はわれに{{r|聴|き}}かざらん』〔[[第九「カフィズマ」#65:18|聖詠六十五の十八]]〕また曰く『{{r|我|われ}}{{r|尤|とが}}なしといへども、彼等は{{r|趨|は}}せ{{r|集|あつ}}まりて{{r|武具|ぶぐ}}をそなふ』〔同上五十八の五〕と、これ{{r|言|いふ}}{{r|意|こゝろ}}は我等は{{r|志|こゝろざ}}す所に進行し、{{r|即|すなわち}}{{r|上|うえ}}より{{r|召|め}}す所の{{r|褒章|ほうしょう}}に{{r|進向|しんこう}}しつゝ、如何なる肉体の慾もあるなうして、天に生涯を送ること{{r|易|やす}}からん。けだし{{r|諸|もろもろ}}の慾に遠ざかりて{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如く{{r|言|い}}ふことを{{r|得|う}}ればなり、曰くたゞに{{傍点|style=open circle|信を守る}}のみならず、{{傍点|style=open circle|{{r|馳|は}}すべき程を尽せり}}〔<u>テモフェイ</u>後四の七〕。|[p.433]}} [p.433] ですから、私たちはここでもなお、預言者の祈りに従って、罪深い情欲を十字架に釘付けにしなければなりません。「あなたへの畏れをもって、私の肉体を釘付けにしてください」(詩篇119篇120節)。使徒が「彼らは神の国を受け継ぐことができない」(コリント第一 15章50節)と言っている肉と血とは、この目に見える体(それは神によって創造されたもの)のことではなく、悪霊によって起こされ、「不従順な者たちのうちに働く」(エフェソ 2章2節)肉の知恵のことである。なぜなら、キリストにおいて完成された禁欲主義者は「肉と血と戦うのではなく、この世の闇の支配者、悪霊と戦う」(エフェソ 6章12節)からである。 したがって、この行為が自然なものではなく、敵対勢力の行為であると認めるならば、キリストの完全な武具を身に着けて敵対勢力に対抗すれば、「彼らの策略に立ち向かう」ことができるでしょう(エフェソ6章11節)。なぜなら、救い主は私たちに「蛇やサソリを踏みつけ、敵対者のあらゆる力に打ち勝つ」力を与えてくださるからです(ルカ10章19節)。そのため、肉体の中にいる間も、「もし私の心に不義を見たなら、主は私の祈りを聞いてくださらないでしょう」(詩篇66篇18節)と大胆に言うことができ、「私は不義なく走り、物事を正しました」(詩篇59篇5節)と言え、つまり、肉欲に駆られることなく、天国での生活を快適に過ごし、「高き召しの賞」(フィリピ3章14節)を目指して努力することができるのです。なぜなら、私たちはあらゆる情欲から遠ざかっているので、「信仰を守り通した」だけでなく、「走るべき道のりを走り終えた」と大胆に言うことができるからです(テモテ第二 4章7節)。 [p.434] {{Quotation|たゞ<u>ハリストス</u>を信ずるのみならず、彼と共に{{r|苦|くるしみ}}をうくることも{{r|肝要|かんよう}}なり、{{r|録|ろく}}していへる如し、『{{r|汝|なんぢ}}{{r|等|ら}}に{{r|賜|たま}}はりしはたゞ彼を信ずるのみならず、{{r|亦|また}}彼の為に{{r|苦|くるしみ}}をうくることなり』〔{{二重線|フィリッピ}}一の二十九〕。たゞ{{r|神|かみ}}を信ずるのみは地上の事を{{r|念|おも}}ふ{{r|者|もの}}に相応するのみならず、不潔の{{r|神|しん}}にさへ相応するは我が{{r|言|ことば}}を{{r|俟|ま}}たざるべし、いへらく『{{r|我|われ}}{{r|爾|なんぢ}}が{{r|誰|たれ}}なるを{{r|知|し}}る、{{r|乃|すなわ}}ち神の子なり』〔<u>マルコ</u>一の二十四、<u>マトフェイ</u>八の二十九〕。『けだし彼も{{r|此|これ}}も<u>ハリストス</u>の十字架の敵なり、彼等が{{r|終|おわり}}は{{r|滅亡|めつぼう}}なり、彼等が{{r|神|かみ}}は{{r|腹|はら}}なり、彼等が{{r|栄|えい}}とする所は{{r|辱|はぢ}}なり、彼等は地上の事を{{r|念|おも}}ふ』〔{{二重線|フィリッピ}}三の十八、十九〕と見るか十字架の敵はたゞ背教者の{{r|力|ちから}}のみにあらず、地上の事を{{r|念|おも}}ふ者も{{r|亦|また}}{{r|然|しか}}るを。しかれども<u>ハリストス</u>と共に{{r|苦|くるし}}みをうけて共に{{r|栄|えい}}せらるゝことはたゞ{{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|於|おい}}て{{r|己|おのれ}}を十字架に{{r|釘|くぎ}}して主の{{r|疵|きず}}を{{r|己|おのれ}}の{{r|体|からだ}}に{{r|負|お}}ふ{{r|者|もの}}のみ{{r|能|よく}}し{{r|得|う}}るなり。|[p.434]}} [p.434] 人はキリストを信じるだけでなく、キリストと共に苦しまなければなりません。聖書にこう書いてあるとおりです。「あなたがたには、キリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことも許されているのです」(フィリピ1章29節)。神だけを信じるというのは、地上のことばかり考える人、あるいは汚れた霊のような人たちの特徴です。彼らは「私たちはあなたが誰であるかを知っています。あなたは神の子です」(マルコ1章24節、マタイ8章29節)と言います。前者も後者も「キリストの十字架の敵であり、その最後は滅びです。彼らの神は腹であり、彼らの栄光は恥辱の中にあります。彼らは地上的な考え方をする者です」 (フィリピ3章18、19節)。背教者だけでなく、地上のことばかり考える人たちも十字架の敵であることがお分かりでしょうか。この世で自らを十字架につけ、主の傷を身に負う者だけが、キリストと共に苦しみ、キリストと共に栄光を受けることができるのです。 [p.435] {{Quotation|哲学を正しく{{r|攻究|こうきゅう}}して、{{r|霊魂|たましい}}を悪の{{r|汚穢|けがれ}}より{{r|救|すく}}ふ者は、哲学の目的を{{r|精確|せいかく}}に知らんこと{{r|肝要|かんよう}}なり、進行の{{r|労|ろう}}と{{r|経|けい}}{{r|過|か}}の{{r|終|おわり}}とを{{r|確|かく}}{{r|知|ち}}して、{{r|高慢|こうまん}}と{{r|功労|こうろう}}のことを{{r|思|おも}}ふ{{r|意思|いし}}とを{{r|全|まつた}}く{{r|斥|しりぞ}}け、聖書の{{r|誡命|かいめい}}にしたがひ、{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|たましい}}と{{r|生命|いのち}}をすてゝ{{r|一|いつ}}の{{r|富|とみ}}に{{r|注目|ちゅうもく}}せん{{r|為|ため}}なり、{{r|即|すなわち}}{{r|神|かみ}}が{{r|凡|およ}}そ{{r|甘|あま}}んじて{{r|苦|く}}{{r|行|ぎょう}}を{{r|自|みづ}}から{{r|任|にな}}はんと決心したる者を呼びて、{{r|其|その}}愛する所の者に<u>ハリストス</u>を愛したる{{r|為|ため}}の{{r|報償|ほうしょう}}として定め給ひしものに注目せん{{r|為|ため}}なり、{{r|此|かく}}の如き苦行の経過に{{r|於|おい}}て彼等に{{r|充分|じゅうぶん}}の{{r|路|ろ}}{{r|用|よう}}を{{r|給|きゅう}}するは<u>ハリストス</u>の十字架なり、されば彼等は{{r|此|これ}}を{{r|負|お}}ふて、{{r|楽|たのし}}みと{{r|善|ぜん}}なる{{r|希|き}}{{r|望|ぼう}}とを以て救世主<u>ハリストス</u>の{{r|跡|あと}}にしたがひ、{{r|其|その}}摂理を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|生命|いのち}}の{{r|法|ほう}}となし、{{r|路|みち}}となさんこと肝要なり、使徒の{{r|自|みづ}}から{{r|言|い}}へる如し、曰く『{{r|爾|なんぢ}}{{r|等|ら}}我に{{r|效|なら}}ふ者となれ、我が<u>ハリストス</u>に{{r|效|なら}}ふが{{r|如|ごと}}し』〔{{二重線|コリンフ}}十一の一〕又いふ『忍耐を以て我等の前にある{{r|馳|はせ}}{{r|場|ば}}を{{r|趨|はし}}りて、我等の{{r|信|しん}}の{{r|首|かしら}}及び{{r|成全|せいぜん}}{{r|者|しゃ}}なる<u>イイスス</u>を{{r|仰|あお}}ぎ{{r|望|のぞ}}むばし、彼は{{r|其|その}}{{r|前|まえ}}に{{r|在|あ}}る{{r|喜|よろこび}}に{{r|易|か}}へて{{r|辱|はぢ}}を{{r|意|い}}とせず、十字架を忍びて{{r|神|かみ}}の{{r|宝|ほう}}{{r|座|ざ}}の右に{{r|坐|ざ}}せり』〔{{二重線|エウレイ}}十二の一、二〕。 われらは{{r|神|かみ}}の{{r|賜|たまもの}}を以て{{r|自|みづ}}から{{r|高|たか}}ぶり、道徳に進むの{{r|或|あ}}る進歩を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|高慢|こうまん}}と{{r|称賛|しょうさん}}の{{r|為|ため}}の{{r|縁|えん}}{{r|由|ゆ}}となして、望む所の{{r|終|おわ}}りに{{r|達|たつ}}せざる{{r|先|さき}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|志|こゝろざし}}の{{r|撓|たわ}}まざらんが{{r|為|ため}}、{{r|高慢|こうまん}}により先になせる勤労を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に無益となさゞらんが{{r|為|ため}}、及び{{r|神|しん}}の{{r|恩寵|おんちょう}}の我等を{{r|引誘|いんゆう}}する{{r|成全|せいぜん}}に{{r|堪|た}}へざるものとならざらんが{{r|為|ため}}に{{r|戦々|せんせん}}{{r|競々|きょうきょう}}たらざるべからざるなり。|[p.435]}} [p.435] 哲学を正しく愛することを学び、悪徳の汚れから魂を解放した人々は、哲学を愛することの目的を正確に知っていなければなりません。旅の苦労と道のりの終わりを学んだ後、彼らはすべての傲慢と功績の考えを捨て、聖書の戒めに従って、魂と命を捨て、キリストを愛する者たちへの報いとして神が定めた一つの富を心に留め、喜んで闘いに挑むことを決めたすべての人をそれに招き入れます。そして、そのような闘いの通過のために、キリストの十字架は十分な別れの贈り物です。彼らはそれを背負い、救い主である神の足跡に従い、使徒自身が言ったように、「わたしがキリストに倣っているように、あなたがたもわたしに倣いなさい」 (コリント第一 11章節1)というように、神の摂理を自分たちの律法と生き方としなければなりません。また、「信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめながら、私たちの前に置かれている戦いに向かって忍耐をもって走り続けましょう。イエスは、ご自身の前に置かれた喜びのために、恥辱を気にせず十字架を耐え忍び、 神の御座の右に座られました」 (ヘブライ12章1-2節)。 私たちは、聖霊の賜物によって高められ、徳における進歩を傲慢と自慢の言い訳にしてしまい、望む終着点に到達する前に努力を怠り、それまでの努力を無益なものにしてしまい、聖霊の恵みによって導かれた完全さにふさわしくない者となってしまうことのないよう、注意しなければなりません。 [p.436] {{Quotation|故に勤労に{{r|於|おけ}}るの{{r|尽力|じんりょく}}を決して{{r|弱|よわ}}むべからず、{{r|眼前|がんぜん}}にある所の苦行を{{r|辞|じ}}するべからず、もし先に何か遂げし所あらんには、それを以て熱心を{{r|劃|かぎ}}るべからず、{{r|乃|すなわち}}{{r|使徒|しと}}の如く{{傍点|style=open circle|後}}を忘れて{{傍点|style=open circle|前}}に進み〔{{二重線|フィリッピ}}三の十三〕、{{r|成全|せいぜん}}を{{r|求|もと}}むる者が{{r|飽|あ}}くを知らずして{{r|独|ひと}}り{{r|飢|き}}{{r|渇|かつ}}する所の義の{{r|願|ねがい}}を{{r|有|ゆう}}し、勤労の為に{{r|慮|おもんぱか}}りて心肝を{{r|摧|くだ}}かんこと{{r|肝要|かんよう}}なり。彼等は{{r|許約|きょやく}}せられたる幸福を{{r|距|さ}}ること{{r|猶|なほ}}遠くして、<u>ハリストス</u>の完全なる愛に多く{{r|達|たつ}}せざる者なるにより、{{r|謙遜|けんそん}}なる者となり、恐れに満てる者とならざるべからず。けだし{{r|此|この}}{{r|愛|あい}}を{{r|切願|せつがん}}して、天の約束を{{r|仰望|ぎょうぼう}}する者は、{{r|禁食|きんしょく}}するか、{{r|儆醒|けいせい}}するか、{{r|或|あるい}}は他のいかなる{{r|徳行|とくこう}}に熱心するも、以前の功労を以て{{r|自|みづか}}ら{{r|高|たか}}ぶらざるべく、{{r|却|かへつ}}て神聖なる{{r|望|のぞみ}}にみたさるゝ彼は{{r|己|おのれ}}を呼ぶ所の者に{{r|間断|かんだん}}なく{{r|眼|め}}を{{r|注|そゝ}}ぎて、いくばく{{r|奮闘|ふんとう}}するも{{r|其|その}}{{r|志|こゝろざ}}す所のものに{{r|比|くら}}ぶれば{{r|全|まつた}}く小なりと{{r|思|おも}}ふべし。されば{{r|其|その}}{{r|行|おこない}}により{{r|己|おのれ}}を{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に尊敬すべき者とあらはさゞらん{{r|間|あいだ}}は、{{r|労|ろう}}に{{r|労|ろう}}を{{r|加|くは}}へ、{{r|徳行|とくこう}}に{{r|徳行|とくこう}}を{{r|重|かさ}}ぬるも、{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に適当なる者となれりとの{{r|意思|いし}}を心に{{r|懐|いだ}}かずして、{{r|此|こ}}の{{r|生命|いのち}}の{{r|終|おわり}}に{{r|至|いた}}るまで{{r|悉|ことごと}}くの{{r|尽力|じんりょく}}を{{r|用|もち}}ひん。けだし{{r|行|おこない}}に{{r|於|おい}}て{{r|大|おほい}}なる者は{{r|神|かみ}}を{{r|畏|おそ}}るゝを{{r|以|もつ}}て{{r|自負|じふ}}を{{r|地|ち}}に{{r|擲|なげう}}ちて、心を謙遜し、生活の為に{{r|己|おのれ}}を{{r|罪|つみ}}し、信じて愛するの{{r|度|ど}}により{{r|許約|きょやく}}を{{r|楽|たのし}}みて、{{r|自|みづ}}から{{r|労|ろう}}するの{{r|如何|いかん}}を{{r|以|もつ}}てせざるは、これぞ{{r|哲学|てつがく}}の{{r|最|もつとも}}{{r|卓越|たくえつ}}せる{{r|功労|こうろう}}なる。けだし{{r|賜|たまもの}}は{{r|大|おほい}}なるにより、これに{{r|相応|そうおう}}する{{r|勤労|きんろう}}を{{r|見|み}}{{r|出|いだ}}すことあたはざればなり。|[p.436]}} [p.436] ですから、私たちは決して努力を怠ってはならず、これから待ち受ける苦闘を放棄してはならず、既に達成したことにのみ熱意を限定してはなりません。しかし、使徒によれば、「過去のことは忘れ」、「未来のことに向かって身を伸ばし」(フィリピ3章13節)、努力に対する思いを胸に抱き、完全さを目指す者だけが切望し渇望すべき義への飽くなき渇望を持ち続けなければなりません。彼らは、約束された祝福からまだ遠く離れており、キリストの完全な愛には程遠いので、謙遜になり、畏れを抱かなければなりません。なぜなら、この愛を望み、天の約束を見つめる者は、断食をしたり、徹夜したり、他の徳を積んだりしても、過去の功績によって自分を高めることはなく、神への切なる願いに満たされ、自分を召してくださる方に絶えず目を向け、どんなに努力しても、自分が目指すものに比べれば、すべてを小さなものと考えるからです。彼は生涯の終わりまで、あらゆる努力を尽くし、労苦に労苦を重ね、徳に徳を重ね、自分の行いによって神の前に立派な者として現れるまで努力しますが、自分が神の前にふさわしい者になったとは決して考えません。知恵を愛する者の最も優れた功績は、行いに優れた者が心を低くし、自らの生き方を悔い改め、神への畏れをもって傲慢さを打ち砕き、信じて愛した度合いに応じて約束を享受し、働いた度合いに応じて享受しないことである。賜物は大きいので、それに見合う働きを見出すことは不可能である。 [p.437] {{Quotation|さりながら{{r|信|しん}}と{{r|望|ぼう}}とは{{r|大|おほい}}ならざるべからずして、これを{{r|以|もつ}}て報酬を測るべく、勤労を以てすべからざるなり。{{r|然|しか}}して{{r|信|しん}}の{{r|根本|こんぽん}}は{{r|心神|しんしん}}の{{r|貧|まづ}}しきと{{r|神|かみ}}に対する{{r|無|む}}{{r|量|りょう}}の{{r|愛|あい}}とにあり。 希望の目的に応じ、哲学によりて、生活せんと決心したる者の{{r|為|ため}}に{{r|余|よ}}は{{r|充分|じゅうぶん}}にのべたりと{{r|思|おも}}ふ。{{r|今|いま}}{{r|又|また}}これに{{r|加|くは}}ふるにかくの如き者はいかに{{r|互|たがい}}に{{r|交際|こうさい}}して{{r|如何|いか}}なる{{r|労|ろう}}を{{r|愛|あい}}するを{{r|要|よう}}するかを示すべし、{{r|天|てん}}{{r|都|と}}に{{r|達|たつ}}するに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}{{r|其|その}}進行を協力して{{r|成|な}}さん{{r|為|ため}}なり。 {{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|於|おい}}て尊敬すべきと認めらるゝものを{{r|断|だん}}じて{{r|尊|たつと}}ばず、{{r|親族|しんぞく}}を{{r|棄|す}}て、もろ{{く}}{{r|地下|ちか}}の{{r|栄|さかえ}}を{{r|棄|す}}てゝたゞ{{r|天上|てんじょう}}の{{r|尊栄|そんえい}}に{{r|着眼|ちゃくがん}}し、{{r|神|かみ}}による{{r|兄弟|けいてい}}と{{r|心神|しんしん}}にて{{r|結合|けつごう}}する{{r|者|もの}}は、{{r|世|よ}}と{{r|共|とも}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|たましい}}をも{{r|棄|す}}つること{{r|肝要|かんよう}}なり。{{r|霊魂|たましい}}を{{r|棄|す}}つとは{{r|何|なに}}に{{r|於|おい}}ても{{r|己|おのれ}}の{{r|旨|むね}}を求めずして、{{r|反|かへ}}つて{{r|己|おのれ}}の{{r|旨|むね}}を{{r|矯正|きょうせい}}し、{{r|院長|いんちょう}}を以て己の為に{{r|神|かみ}}の{{r|言|ことば}}となして、これを{{r|益用|えきよう}}すること、{{r|善良|ぜんりょう}}なる{{r|舵師|だし}}の如くし、{{r|兄弟|けいてい}}{{r|社会|しゃかい}}のすべてを{{r|挙|あ}}げて、{{r|同心|どうしん}}{{r|協力|きょうりょく}}して、{{r|神|かみ}}の{{r|旨|むね}}の{{r|湊|みなと}}に{{r|向|むか}}はしむるにあり。|[p.437]}} [p.437] しかし、信仰と希望は大きくなければならない。それによって報いが測られ、働きによって測られるのではない。信仰の土台は、霊的な貧しさと神への計り知れない愛である。 希望の目標に従って、知恵に満ちた人生を送ろうと決意した人々については、すでに十分なことが述べられたと思います。今、私たちは、そのような人々が互いにどのように接し、どのような働きを愛すべきか、そして共に歩みを進めて天の都に到達できるようにすべきことについて、付け加えなければなりません。 この世で尊ばれるとされるものを断固として軽んじ、家族を捨て、地上の栄光を全て捨て去る者であっても、天上の栄誉を心に抱き、神において兄弟たちと霊的に結びついている者は、この世と共に自らの魂をも捨て去らなければならない。魂の放棄とは、何事においても自らの意志を求めず、むしろ自らの意志を正し、神の言葉を自らの長とし、それを良き舵取り役として、兄弟たち全体を神の意志という港へと一斉に導くことにある。 【以下未入力(p.438-457)】 {{DEFAULTSORT:えしふとまかりいせんしよ しよかん2}} <!-- [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:埃及マカリイ全書|52]]--> {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{PD-old}} }} <!-- --> ldpntjfc13nzwxipdxf2jbhd5colc14 243145 243141 2026-06-12T18:20:32Z 村田ラジオ 14210 243145 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|wikisource:宗教|埃及マカリイ全書|hide=1}} {{header |title=埃及マカリイ全書 |section=エジプトマカリオスの大書簡 (現代語訳) |previous=[[埃及マカリイ全書/第五十講話|第五十講話]] |next= |year= |author= |override_author = |override_translator = 堀江 {{r|復|ふく}} ( -1914) |notes= <!--{{Textquality|25%}}--> *ウィキソースによる現代語訳 }} ==エジプトマカリオスの大書簡== {{Quotation|完全にして聖にせられたる人の為に{{r|要用|ようよう}}なるはたゞ{{r|自|みづ}}から{{r|神|かみ}}に{{r|居|を}}らんことのみならず、神も彼に{{r|居|を}}らんことなるは、{{r|汝|なんぢ}}が善智の{{r|明|あきらか}}に知る所なるべし、主のいひ給ふごとし、{{r|曰|いは}}く『我に{{r|居|を}}り、我も彼に{{r|居|を}}る』〔<u>イオアン</u>十五の五〕。されば神の人は神聖なる{{r|幕屋|まくや}}に居り、此の幕屋を至浄なる神性の聖なる山に建てざるべからず、これ暗黒なる{{r|情慾|じょうよく}}の{{r|力|ちから}}の占領するをゆるさゞる者の光栄を{{r|暁|さと}}るのみならず、{{r|其|その}}{{r|擁|よう}}する所とならんためなり。けだし適当なる者には{{r|其|その}}{{r|成聖|せいせい}}とその彼等に属する{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}との為に救世主は住み給ふ、これ主の{{r|自|みづ}}から{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}なる如く主をうけたる{{r|者|もの}}{{r|等|ら}}をも無慾なる者となして如何なる風にも{{r|最早|もはや}}{{r|動乱|どうらん}}{{r|漂漾|ひょうよう}}せられざる者となさん為なり。 しかれども{{r|或者|あるもの}}は{{r|自|みづ}}から<u>ハリストス</u>の{{r|機|き}}{{r|密|みつ}}に遠ざかるのみならず、『{{r|濁|にご}}れる{{r|敗壊|はいかい}}を以て{{r|其|その}}{{r|親友|しんゆう}}を{{r|誘|いざな}}ひ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-hab/2:8-17 <u>アバクム</u>二の十五]〕『神を{{r|識|し}}るべきものゝ彼等に{{r|明|あきらか}}にあらはるる』にも{{r|拘|かか}}はらず、神の真理を不義の{{r|中|うち}}に隠さんとす。けだし『{{r|其|その}}{{r|思念|おもひ}}は{{r|虚|むな}}しくなり』{{r|其|その}}{{r|無智|むち}}の心は{{r|昧|くら}}みしにより〔{{二重線|ロマ}}一の十八至二十一〕。彼等は説を{{r|為|な}}していへり、{{r|恥|は}}づべき{{r|情慾|じょうよく}}は天性自然にして神より我等に付与せられたるものなりと、{{r|是|こ}}れ{{r|即|すなはち}}{{r|敗壊|はいかい}}の{{r|楽|たのし}}み、不正なる{{r|忿怒|いきどほり}}、神の為に発するに{{r|非|あら}}ざる不適当なる{{r|怒|いかり}}、及び{{r|凡|およ}}そ{{r|此|これ}}に類するものをいふなり。|[p.425]}} 《現代語訳》 [p.425] 完全で聖なる人となるためには、彼自身が神の内にいるだけでなく、神が彼の内にいることも必要であることを知りなさい。主はこう言われる。「彼が私の内にいれば、私も彼の内にいる」(ヨハネ15章5節)。神の人間は、神の幕屋に住み、この幕屋を最も純粋な神性の聖なる山に建てなければなりません。それは、情欲の暗い力が彼を支配することを許さない方の栄光を受け入れるだけでなく、その栄光に抱かれるためです。救い主は、ふさわしい人々の中に、聖性と生来の無執着のために住まわれるからです。それは、救い主がご自身が無執着であるように、彼を受け入れた人々をも無執着にし、もはや嵐に巻き込まれず、どんな風にも吹き飛ばされない者とするためです。 また、ある人々はキリストの奥義から遠く離れているだけでなく、「わざわいなるかな、その隣り人に怒りの杯を飲ませて、これを酔わせ、 彼らの隠し所を見ようとする者よ。」(ハバクク書 2章15節)、神の真理を偽りの中に含み、「彼らの中には、神の知恵が明らかに示されている」と言われています。なぜなら、「思いがむなしく」なり、愚かな心によって暗くなった(ローマ 1章18–21節)ため、彼らは、腐敗の快楽、不当な短気、神によらない下品な怒りなど、恥ずべき情欲は神によって私たちに生まれつき備わっているものだと言うからです。 {{Quotation|ゆゑに彼等と{{r|其|そ}}の{{r|言|い}}ふ所とは真理に{{r|違|たが}}ふものとしてこれを{{r|棄|す}}て、我等を造りし者を以て我等にあたへられたる自由自主の主権を{{r|承認|うけみと}}めん、善きことに進むも{{r|悪|あし}}きことを{{r|止|や}}むるも我等に{{r|係|かか}}らんためなり。けだし真実なる審判者は、もし{{r|自|みづ}}から情慾の造物主ならば、これに占領せらるゝ我等を{{r|罰|ばつ}}せざるべし。祈る{{r|此|この}}{{r|教|をしへ}}に離れ遠ざかりて、これを{{r|思|おもひ}}にも{{r|生|しょう}}ぜしめざらんことを。けだし{{r|此|こ}}の{{r|蒙昧|もうまい}}にして{{r|愚|おろか}}なる意見は、{{r|凡|およそ}}の敬虔なる{{r|裁|さい}}{{r|智|ち}}の為に{{r|忌|い}}み{{r|嫌|きら}}ふべきものとす。神は清くして{{r|最|いと}}{{r|美|うつく}}しき天地万物の造成者なることは、世界創造の際に{{r|聖神|せいしん}}の{{r|告|つ}}げ{{r|給|たま}}ひし如し、けだしいへり、『神は{{r|其|その}}造りたる{{r|諸|もろもろ}}の物を見たまへるに{{r|甚|はなは}}だ{{r|善|よ}}かりき』〔創世記一の三十一〕。されば<u>イエレミヤ</u>は{{r|恥|は}}づべき情慾のために{{r|哀|かなし}}み、かつ{{r|惑|まど}}ふていへり、『主の命じ給ふにあらずば、誰か事を述べんに、その事すなはち成らんや、{{r|禍|わざわい}}も{{r|福|さいわい}}も{{r|至|し}}{{r|高者|こうしゃ}}の口より{{r|出|い}}づるにあらずや』〔<u>イエレミヤ</u>哀歌三の三十六‐三十八〕。故に{{r|福音|ふくいん}}{{r|経|きょう}}に聡明なる天軍は主に{{r|問|と}}ふていへり、『主よ{{r|爾|なんぢ}}は{{r|美|よき}}{{r|種|たね}}を{{r|爾|なんぢ}}の{{r|田|た}}に{{r|撒|ま}}きたるに{{r|非|あら}}ずや、{{r|然|しか}}らば何に由りて{{傍点|style=open circle|此の}}{{r|稗|ひえ}}あるか』〔<u>マトフェイ</u>十三の二十七〕。[p.427]また他の所に救世主は{{r|自|みづ}}から彼等の事をいへり、『{{r|凡|およ}}そ我が天の父の{{r|植|うゑ}}ざりし植物は{{r|其|その}}{{r|根|ね}}{{r|絶|たや}}されん』と〔<u>マトフェイ</u>十五の十三〕。しかれどもすべて神の{{r|植|う}}ゑしものゝ{{r|美|び}}なることは、<u>ハリストス</u>これをいひ、<u>パウェル</u>もこれを{{r|証|しょう}}せり、曰く『{{r|蓋|けだし}}神の{{r|悉|ことごと}}くの造物は善なり』〔<u>テモフェイ</u>前四の四〕。故に知るべし我等の{{r|中|うち}}にかくるゝ情慾は本来我等に属するに非ずして、他に属するものなるを。けだし{{r|言|い}}ふあり、『我が{{r|隠|ひそか}}なる{{r|咎|とが}}より我を{{r|浄|きよ}}め{{r|給|たま}}へ、{{r|故|こ}}{{r|犯|はん}}より{{r|爾|なんぢ}}の{{r|僕|ぼく}}を{{r|止|とゞ}}めよ』〔[[第三「カフィズマ」#18:13|聖詠十八の十三、十四]]〕、またいふあり、『外人は{{r|起|た}}ちて我を{{r|攻|せ}}め、強き者は我が{{r|霊|たましい}}を{{r|覓|もと}}む』〔[[第七「カフィズマ」#53:5|同上五十三の五]]〕。またいふあり、『主よ我と{{r|争|あらそ}}ふ者と{{r|争|あらそ}}ひ、我と{{r|戦|たゝか}}ふ者と{{r|戦|たゝか}}ひ給へ』〔[[第五「カフィズマ」#34:1|同上三十四の一]]〕。それ此の{{傍点|style=open circle|{{r|隠|ひそか}}なるもの}}{{r|或|あるい}}は此の{{傍点|style=open circle|争ふ者}}{{r|或|あるい}}は{{傍点|style=open circle|戦ふ者}}{{r|或|あるい}}は此の{{傍点|style=open circle|故犯}}とはこれ<u>ハリストス</u>の徳行に{{r|逆|さから}}ふ凶悪なる{{r|諸神|しょしん}}を示すにあらずして何ぞや。|[p.426]}} [p.426] したがって、彼らや彼らの言葉を真理から逸脱したものとして捨て去り、私たちを創造した方が私たちに与えてくださった自由の専制を認め、最善を目指し、最悪を避けるのは私たち次第であることを認めましょう。真の審判者ご自身が創造主であるならば、情欲にとりつかれた私たちを罰するはずがありません。お願いですから、この教えは捨て去り、頭に浮かばないようにしてください。この不合理で愚かな考えは、すべての敬虔な理解力にとって不快です。神は、創造の時に聖霊が告げたように、純粋で最も美しい自然の創造主です。「見よ、すべてが非常に良い」(創世記 1章31節)と神は言っています。エレミヤは、恥ずべき情欲について嘆き、困惑しながらこう言います。「主は『あなたのものは誰か』と言われたのではない。主が語られたから、そうなったのだ。主は『いと高き者の口からは悪は出ず、善は出る』と命じられたのではない。(哀歌エレミヤ3章36-38節)」。それゆえ、福音書の中で、知性ある者たちは主にこう問いかけます。「主よ、あなたは畑に良い種を蒔かれたではありませんか。では、これらの「毒麦」はどこから来るのでしょうか(マタイ13章27節)。別の箇所では、救い主ご自身がそれらについてこう言っています。「天の父が植えなかった庭は、みな根こそぎにされるであろう」(マタイ15章13節)。そして、神の植えたものはすべて美しいと、パウロはキリストが「神の造られたものはすべて良いものである」(テモテ第一4章4節)と言っているように、パウロもそのことを証言しています。ですから、私たちの中に秘められた情熱は私たち自身のものではなく、私たちとは無関係のものであることを知ってください。「わたしの隠れた罪を清め、あなたのしもべを異邦人の罪からお守りください」(詩篇19篇13-14節)、「異邦人がわたしに立ち向かい、力ある者たちがわたしの命を狙っています」(詩篇54篇5節)、「主よ、わたしを害する者を裁き、わたしと戦う者と戦ってください」(詩篇35篇1節)と書いてあるからです。では、この「隠れた」とは、あるいは「罪を犯す者」や「戦う者」、あるいは「異邦人」とは、キリストの徳に敵対する悪霊ではないとしたら、何を意味するのでしょうか。 {{Quotation|律法も内部の人の{{r|潔浄|けつじょう}}のことを公然と呼ぶを精密に吟味せよ。いふあり、『汝の主、神の名を{{r|妄|みだり}}に口にあぐべからず、けだし主は己の名を{{r|妄|みだ}}りに口にあぐる者の心を清めざるべし』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-deu/5:1-11 {{r|復傳|ふくでん}}{{r|律令|りつれい}}五の十一]〕。ゆゑに使徒も勧めて{{r|明|あきら}}かにいへり、『{{r|己|おのれ}}を{{r|凡|およそ}}の{{r|肉|にく}}と{{r|神|しん}}との{{r|汚|けがれ}}より{{r|潔|きよ}}くせよ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-2cor/7:1-5 {{二重線|コリンフ}}後七の一]〕。また他の処にもいふ『心は{{r|灑|そゝ}}がれて悪しき意念を去れ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-heb/10:16-22 {{二重線|エウレイ}}十の二十二]〕、又いふ『汝等の{{r|神|しん}}と{{r|霊|れい}}と{{r|体|たい}}とは{{r|全|まつと}}うし{{r|護|まも}}られて{{r|疵|きず}}なからん』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-1th/5:16-23 {{二重線|ソルン}}前五の二十三]〕、[p.428]又いふ『{{r|疵|きず}}なき神の子とならん為なり』〔{{二重線|フィリッピ}}二の十五〕。ゆゑに{{r|凡|すべ}}て子たる{{r|位地|いち}}を{{r|賜|たま}}はらんことを願ふ者は{{r|疵|きず}}なき{{r|体|からだ}}を有するのみならず、{{r|疵|きず}}なき{{r|霊|たましい}}をも有すること、{{r|左|さ}}の如くならざるべからず『{{r|願|ねがは}}くは我が心{{r|爾|なんぢ}}の{{r|律|おきて}}に{{r|玷|きず}}なからん、我が{{r|羞|はぢ}}を{{r|得|え}}ざらん為なり』〔[[第十七「カフィズマ」#118:80|聖詠百十八の八十]]〕。けだし律法の{{r|下|もと}}に居る者は、たゞ肉体の{{r|稱|しょう}}{{r|義|ぎ}}を遂げて、外部の{{r|潔浄|けつじょう}}を守れども、{{r|恩寵|おんちょう}}の{{r|下|もと}}に{{r|居|を}}る者は、{{r|成聖|せいせい}}により内部の平安を願ふて、{{r|左|さ}}の如くいひし者にしたがふなり、曰く、『もし汝等の義は学士お呼び<u>ファリセイ</u>等の義に{{r|勝|まさ}}らずば{{r|爾|なんぢ}}{{r|等|ら}}天国に入るを得ず』〔<u>マトフェイ</u>五の二十〕、何となれば<u>ファリセイ</u>等は智を{{r|盲|くら}}まして、{{傍点|style=open circle|杯と皿の外}}を{{r|潔|きよ}}むればなり〔<u>マトフェイ</u>二十三の二十五〕。今も彼等に似たる新<u>ファリセイ</u>は、未熟なる才智を以て外部の人を粉飾し、{{r|自|みづ}}から己を義とせんとす、しかれども{{r|聖神|せいしん}}は彼等の{{r|神|しん}}と共に彼等が神の子たるを{{r|証|しょう}}すること、使徒と共に{{r|証|しょう}}する如くせざるべし、言ふあり、『此の{{r|神|しん}}{{r|自|みづ}}から我等の{{r|神|しん}}と共に我等が神の子たるを{{r|証|しょう}}す』〔{{二重線|ロマ}}八の十六〕。彼等は内部の人の{{r|聖徳|せいとく}}に成長するを自己にあらはさんことを{{r|欲|ほつ}}せずして、たゞ肉体上の功労に信任し、『{{r|王|おう}}の{{r|女|ぢょ}}の光栄は皆内部にある』〔[[第六「カフィズマ」#44:14|聖詠四十四の十四]]〕を知らざるなり。我等各人は{{r|恰|あたか}}も心中の{{r|無花果|いちじく}}の如し、主の{{r|尋|たづ}}ぬるは内部の{{r|果|か}}にありて、{{r|枝|し}}{{r|葉|よう}}の{{r|飾|かざり}}にあるにあらざるなり〔<u>マトフェイ</u>二十一の十九〕。|[p.427-p.428]}} [p.427-p.428] 律法もまた、内なる人の清さをはっきりと求めていることを、より深く考えてみましょう。「主なるあなたの神の名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える心をきよめられないからである」(申命記 5章11節)とあります。それゆえ、使徒パウロもまた、はっきりとこう勧めています。「肉の汚れだけでなく、霊の汚れからも、あらゆる汚れから自分をきよめましょう」(コリント人への手紙二 7章1節 )。また別の箇所では、「心に汚れた良心を清め」(ヘブライ人への手紙 10章22節 )と言い、さらに「体と霊と魂を、完全に清く保ちなさい」(テサロニケ人への手紙一 5章23節)と言い、「あなたがたが、責められるところのない神の子となるためです」(ピリピ人への手紙 2章15節)とも言っています。したがって、養子縁組にふさわしくありたいと願う者は皆、非の打ちどころのない体だけでなく、非の打ちどころのない魂を持たなければなりません。それは、「あなたの戒めの中で、私の心が清くあって、私が恥じることのないようにしてください」(詩篇 119篇80節)と言われた方のようなものです。律法の下に生き、肉の義認だけを満たす人は外面的な清さを保ちますが、恵みの下に生きる人は、聖さにおける内面的な平和も望み、「あなたがたの義がパリサイ人や律法学者よりもまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入れません」(マタイ 5章20節)と言われた方に従います。パリサイ人は心が盲目であるため、「鏡の外側」をきよめるからです(マタイ 23章25節)。現代の新しいパリサイ人たちも、彼らと同様、未熟な心で外面を飾り、自らを正当化しますが、聖霊は、彼らが神の子であるという彼らの霊に従おうとはしません。使徒パウロはこう言っています。「"霊"みずからわたしたちの霊に従われます。わたしたちは神の子なのですから」(ローマ8章16節)彼らは、内なる人の聖さが成長していることを自ら示そうとせず、肉の功績だけに頼っています。「王の娘の栄光はすべて内にある」(詩篇45篇14節)ことを彼らは知りません。私たち一人ひとりは、いわば心のいちじくの木のようで、主はその葉の飾りではなく、内なる実を求めておられるのです(マタイ21章19節)。 [p.429] {{Quotation|故に{{r|恥|は}}づべき情慾を弁護して、天然自然なるものとし、{{r|偶然|ぐうぜん}}に人に{{r|入|い}}りしにあらずといふ者は、『{{r|神|かみ}}の真実を己の{{r|偽|いつわり}}に{{r|易|か}}ふるなり』〔{{二重線|ロマ}}一の二十五〕何となれば我が{{r|先|さき}}にいひし如く{{r|無|む}}{{r|玷|てん}}{{r|純潔|じゅんけつ}}なる者は{{r|其|その}}{{r|像|ぞう}}を{{r|己|おのれ}}に{{r|肖|に}}たるものとなしたりしが、『{{r|悪|あく}}{{r|鬼|き}}の{{r|猜|そね}}みにより死は世に{{r|入|い}}りたればなり』〔知恵書二の二十四〕。ゆゑに人間は不法によりて{{r|孕|はら}}まれ、罪に{{r|於|おい}}て{{r|生|うま}}れて、〔[[第七「カフィズマ」#50:7|聖詠五十の七]]〕{{r|母|ぼ}}{{r|腹|ふく}}より離れ遠ざかる者となり、{{r|母|ぼ}}{{r|胎|たい}}より{{r|迷|まよい}}に{{r|居|を}}りて、<u>アダム</u>より以後<u>ハリストス</u>の{{r|来|きた}}るに至るまで罪が王となりしにより神の{{r|羔|こひつじ}}は{{r|憐|あわれみ}}を{{r|垂|た}}れて{{r|来|きた}}り給へり、これ{{r|先|ま}}づ強き者を{{r|縛|ばく}}し、{{r|其後|そののち}}{{r|鹵|ろ}}{{r|獲|かく}}せられたる器物を{{r|奪|うば}}ひ{{r|回|かへ}}して、己の力を以て世の罪を取らん為なり、言ふあり『{{傍点|style=open circle|擄者を{{r|擄|とりこ}}にす}}』と、又いふ『{{r|献物|さゝげもの}}をうく』と〔[[第九「カフィズマ」#67:19|聖詠六十七の十九]]〕。 我等は{{r|俘|ふ}}{{r|虜|りょ}}たるをまぬかれ、『土に属する者の{{r|状|かたち}}を{{r|衣|き}}たる如く、天に属する者の{{r|状|かたち}}』〔{{二重線|コリンフ}}前十五の四十九〕を{{r|衣|き}}『我等の{{r|肢|し}}{{r|体|たい}}を義の{{r|僕|ぼく}}となして、{{r|成聖|せいせい}}に{{r|委|ゆだ}}ぬること罪に{{r|委|ゆだ}}ねし如くせんことを』{{r|慮|おもんぱか}}らざるべからず〔{{二重線|ロマ}}六の十九〕。我等は信ず、われら{{r|躓|つまづ}}かずして光の{{r|中|うち}}を行く者は、神の奇跡を認めんを要するを。録して言ふ所の如し、曰く『我が目を{{r|啓|ひら}}き{{r|給|たま}}へ、{{r|然|しか}}せば{{r|我|われ}}{{r|爾|なんぢ}}が{{r|律法|りっぽう}}の{{r|奇|き}}{{r|跡|せき}}を{{r|観|み}}ん』〔[[第十七「カフィズマ」#118:19|聖詠百十八の十九]]〕。|[p.429]}} [p.429] したがって、恥ずべき情欲を自然なものとして、偶然に人に入り込んだものではないとして擁護する者は、「神の真理を偽りに変えた」(ローマ1章25節)のです。なぜなら、私が先に述べたように、汚れなき清らかな方がご自身の似姿に造られたからです。「しかし、悪魔のねたみによって死が世に入り込んだ」(知恵書2章24節)。したがって、人類は不義のうちに宿り、罪のうちに生まれ(詩篇51篇7節 )、母の胎内から離れ、アダムからキリストの到来まで罪が支配し始めてから、母の胎内から誤りの中にとどまりました。そして、憐れみ深い神の子羊が、ご自身の力で世の罪を取り除くために来られ、まず強い男を縛り、それから彼が戦利品として集めた器を奪い取られました。それは、「あなたは捕虜を捕らえ、また背く者を捕らえた」と言われたとおりです(詩篇68篇19節)。 私たちは、束縛から解放されるよう注意し、「地上の像を着ているように、天の像をも着るようになるのです」(コリント第一 15章49節)、「義のしもべである私たちの肢体を、罪に差し出したように、聖なる姿で差し出す」(ローマ 6章19節)必要があります。私たちは、光の中をつまずくことなく歩む私たちは、神が「私の目を開いてください。そうすれば、あなたの律法からあなたの驚くべき御業を理解できます」(詩篇 119篇18節)と言われたように、神の驚くべき御業を見る運命にあると信じています。 [p.430] {{Quotation|けだし光の{{r|中|うち}}を行く者は五感に{{r|躓|つまづ}}きを{{r|来|きた}}さゞる如く、完全なる{{r|成聖|せいせい}}に{{r|居|を}}る者も心に{{r|奸計|かんけい}}を思はず、{{r|悪|あ}}しく{{r|慮|おもんぱか}}らざるなり。けだし『{{r|光|ひかり}}は{{r|暗|やみ}}と何の{{r|交|まじわ}}ることのあらん、神の{{r|殿|でん}}は偶像と何の同じきことのあらん』〔{{二重線|コリンフ}}後六の十五、十六〕、故に己を神の{{r|殿|でん}}と{{r|認|みと}}むべく、{{r|思|おもい}}の偶像を心中に{{r|画|えが}}かざらんことを{{r|力|つと}}めよ。けだし{{r|霊魂|たましい}}の{{r|中|うち}}に動作する{{r|凡|すべ}}ての{{r|情慾|じょうよく}}は偶像なり、故に『勝たるゝ者は勝つ者の奴隷たり』とは{{r|最|いと}}{{r|善|よ}}く言へるなり〔<u>ペトル</u>後二の十九〕。もし我等は肉体の慾に{{r|勤|つと}}むるならば、{{r|聖|せい}}にして無慾なる{{r|神|しん}}につとめざらんこと{{r|明|あきらか}}なり、何となれば人は『{{r|二人|ふたり}}の主に{{r|事|つか}}ふるあたはず、{{r|神|かみ}}と{{r|財|たから}}とに{{r|兼|かね}}{{r|事|つか}}ふること{{r|能|あた}}はざればなり』〔<u>マトフェイ</u>六の二十四〕。{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}は聖にして『{{r|汚|けがれ}}{{r|或|あるい}}は{{r|此|かく}}の如きもの』を有せず〔{{二重線|エフェス}}五の二十七〕、『けだし{{r|聖神|せいしん}}は{{r|諂|てん}}{{r|媚|び}}を避け、{{r|無智|むち}}{{r|者|しゃ}}の{{r|思念|おもい}}より遠ざかり、{{r|教|おしえ}}は{{r|奸猾|かんかつ}}なる{{r|霊魂|たましい}}に{{r|入|い}}らざるなり』〔知恵書一の四、五〕。 ゆゑに我等が律法はすべて{{r|神|かみ}}の{{r|指|ゆび}}を{{r|以|もつ}}て心にしるさるゝものにて、{{傍点|style=open circle|{{r|墨|すみ}}を以てするにあらず}}、{{r|神|かみ}}の{{r|神|しん}}を{{r|以|もつ}}てする〔{{二重線|コリンフ}}後三の三〕ものなるを確信して、『我は真実なり』〔<u>イオアン</u>十四の七〕との{{r|給|たま}}ひし立法者の真実をうけん、彼は心の割礼を{{r|行|おこな}}ひ、適当なる者の{{r|裁|さい}}{{r|智|ち}}に{{r|其|その}}{{r|仁|じん}}{{r|慈|じ}}の{{r|法|ほう}}をしるすこと、預言者のいへる如し、曰く『われ我が{{r|律法|りっぽう}}を彼等の心に置き、彼等の{{r|思|おもい}}にしるさん』〔<u>イエレミヤ</u>三十一の三十三〕。{{傍点|style=open circle|{{r|凡|およ}}そ選ばれたる族}}と、{{傍点|style=open circle|王たる祭司班}}と、{{傍点|style=open circle|聖なる人民}}と、選ばれたる{{傍点|style=open circle|人}}〔<u>ペトル</u>前二の九〕の{{r|中|うち}}に{{r|入|い}}らんことを苦心する者は、{{r|生活|せいかつ}}を{{r|施|ほどこ}}す{{r|神|しん}}の{{r|効力|こうりょく}}を{{r|便|べん}}{{r|利|り}}に{{r|己|おの}}れにうけん。|[p.430]}} [p.430] 感覚において、光の中を歩む者はつまずかないのと同様に、精神において、完全な聖さの中に留まる者は悪を考えず、悪の理性を働かせません。なぜなら、「光と闇との交わりはなく、教会と偶像との結びつきもない」(コリント第二 6章15-16節)からです。ですから、自分自身を神の神殿であると認識し、心の中に偶像を描かないように努めなさい。魂に働くすべての情欲は偶像です。ですから、「人は何に打ち負かされるかによって、その者のしもべとなる」(ペテロ第二 2章19節)と美しく言われています。もし私たちが肉欲に囚われているなら、明らかに、私たちは聖なる、情欲のない聖霊に囚われていません。なぜなら、「だれも二人の主人に仕えることはできない。あなたがたは、神と富に仕えることはできない」(マタイ 6章24節)と言われているからです。神の神殿は聖なるものであり、「汚れも、しわも、そのようなものは一切ない」(エフェソ 5章27節)のです。「聖霊は欺きから逃げ去り、理性のない考えから遠ざかり、悪しき魂に入り込むことはない」(知恵書 1章4-5節)のです。 したがって、私たちの律法全体が神の指によって、インクではなく神の霊によって心に書かれていることを確信した私たちは、 「わたしは真理である」(ヨハネ14章7節)と言われた律法授与者の真理を受け入れましょう。神は、預言者が言うように、「わたしの律法を彼らの心に与え、わたしはそれを彼らの心に書き記す」(エレミヤ31章33節)ように、ふさわしい者の心に割礼を施し、その善の律法を書き記してくださいます。「選ばれた世代」、「王なる祭司」、「聖なる国民」 、「選ばれた民」(ペテロ第一2章9節)に入ろうとする者は皆、命を与える聖霊の効力を喜んで受け入れます。 [p.431] {{Quotation|故に<u>ハリストス</u>に{{r|於|おけ}}る生活の<u>ハリストス</u>と同形なる公正に{{r|進|すゝ}}むを、{{r|縦|たと}}ひ久しからずと{{r|雖|いへど}}も、我等にも{{r|賜|たま}}はらんことを{{r|願|ねが}}ひ{{r|且|かつ}}祈るべし。けだし{{r|如此|かくのごとき}}の{{r|霊魂|たましい}}は{{傍点|style=open circle|面の恥}}〔[[第六「カフィズマ」#43:16|聖詠四十三の十六]]〕を脱し、{{r|最早|もはや}}汚れたる{{r|思|おもい}}に占領せられず、{{r|悪者|あくしゃ}}と{{r|姦通|かんつう}}せずして、{{r|疑|うたがい}}なく天の{{r|新郎|しんろう}}と{{r|親|しん}}{{r|与|よ}}をなさん、何となれば{{r|自|みづ}}から彼と{{r|同形|どうけい}}なればなり。彼に対するの愛を以て刺激せられたる{{r|霊魂|たましい}}は望みて{{r|絶|たえ}}{{r|入|い}}らん〔[[第十一「カフィズマ」#83:1|聖詠八十三の一]]〕。{{r|我|われ}}{{r|敢|あえ}}ていふ、{{r|成聖|せいせい}}を{{r|享|うく}}ることの{{r|不|ふ}}{{r|朽|きゅう}}なる{{r|契約|けいやく}}により、彼とかくの如く{{r|美|び}}なる{{r|心中|しんちゅう}}{{r|秘|ひ}}{{r|密|みつ}}の{{r|体合|たいごう}}を{{r|為|な}}すを望まん。{{r|如此|かくのごとき}}の{{r|霊魂|たましい}}は実に幸福なり、彼は{{r|霊神|れいしん}}{{r|上|じょう}}の愛に勝たれたつものとして、{{r|神|かみ}}{{r|言|ことば}}に{{r|嫁|か}}すること当然なり、故に彼は{{r|敢|あえ}}て言ふべし、左の如く言ふべし、曰く『我が{{r|霊|たましい}}はわが{{r|神|かみ}}をたのしまん、そは我に{{r|救|すくい}}の{{r|衣|ころも}}をきせ、義の{{r|外服|がいふく}}をまとはせて、{{r|新郎|しんろう}}が{{r|冠|かんむり}}をいたゞき、{{r|新|しん}}{{r|婦|ぷ}}が{{r|玉|たま}}こがねの{{r|飾|かざり}}をつくるが如くしたまへばなり』〔<u>イサイヤ</u>六十一の十〕けだし{{r|王|おう}}は彼の善良を望みて〔[[第六「カフィズマ」#44:12|聖詠四十四の十二]]〕、彼をたゞ{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}と名づくるのみならず、{{r|王|おう}}の{{r|女|むすめ}}及び{{r|皇后|こうごう}}と名づくるを{{r|賜|たま}}へり、{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}と名づくるは{{r|聖神|せいしん}}の{{r|為|ため}}に{{r|領有|りょうゆう}}せられたるによる、{{r|王|おう}}の{{r|女|むすめ}}と名づくるは{{r|父|ちゝ}}より光の子たることをうけたるによる、{{r|又|また}}{{r|皇后|こうごう}}と名づくるは{{r|独生|どくせい}}{{r|者|しゃ}}の{{r|光栄|こうえい}}の{{r|神性|しんせい}}と{{r|配合|はいごう}}せしによるなり。|[p.431]}} [p.431] ですから、たとえほんの短い間であっても、私たちもキリストにおける一貫した正しい生き方に近づくにふさわしい者と認められるよう、祈り求めましょう。そのような魂は、「顔の恥」(詩篇44篇16節)を捨て、もはや不純な思いにとらわれることもなく、もはや悪魔と姦淫を犯すこともなく、疑いなく天の花婿との交わりに入ります。なぜなら、その魂自体が一貫した生き方をしているからです。主への愛によって傷つき、「切望し、そして尽き果てた」(詩篇84篇1節)のです。あえて言えば、聖なる交わりの朽ちることのない絆を通して、主との美しく神秘的な結びつきを切望しているのです。そのような魂は、真に祝福され、幸福です。霊的な愛に打ち勝った魂は、神の言葉にふさわしく婚約しているのです。それゆえ、彼女は大胆に語り、こう言うであろう。「わが魂は主にあって喜びます。主はわたしに救いの衣と喜びの衣を着せ、花婿のようにわたしに冠を授け、花嫁のようにわたしを美しく飾ってくださいました」(イザヤ書61章10節)。王は彼女の美しさを望み(詩篇44篇12節)、彼女を神の神殿だけでなく、王女、王妃とも呼ぶにふさわしい者とみなした。神の神殿とは、聖霊によって養子とされた者であり、王女とは、光の父から養子とされた者であり、王妃とは、独り子の栄光の神性と結びついた者なのである。 [p.432] {{Quotation|けだし本性に{{r|於|おい}}て{{r|一|いつ}}たる主は、いかんして人間の{{r|救|すくい}}の摂理の為に多くの名を{{r|比喩|ひゆ}}{{r|的|てき}}に{{r|己|おのれ}}にうけしか。{{r|何故|なにゆえ}}{{r|甲処|こうしょ}}には{{r|石|いし}}〔{{二重線|コリンフ}}前十の四〕及び門〔<u>イオアン</u>十の七〕と名づけ、{{r|他|た}}{{r|処|しょ}}には{{r|斧|おの}}〔<u>ルカ</u>十五の一〕及び{{r|餅|ぱん}}と名づけしか〔同六の三十五〕。{{r|石|いし}}と名づけしは{{r|其|その}}{{r|勢力|せいりょく}}の動かすべからざると近づくべからざるとによる、{{r|門|もん}}と名づけしは彼によりて{{r|永世|えいせい}}に{{r|入|い}}るによる、{{r|斧|おの}}とは彼は{{r|悪習|あくしゅう}}の{{r|根|ね}}を{{r|絶|た}}つによる、{{r|路|みち}}とは適当なる者を真実を{{r|識|し}}るにみちびくによる、{{r|葡|ぶ}}{{r|萄|どう}}の{{r|幹|みき}}とは{{r|人心|じんしん}}をたのしましむる{{r|酒|さけ}}が彼によりて{{r|産|さん}}せらるゝによる、また{{r|餅|ぱん}}とは{{r|有言|ゆうげん}}なる{{r|造物|ぞうぶつ}}の{{r|心|こゝろ}}を{{r|堅|かた}}むるによるなり。しかれどもこれと同じく{{r|神|かみ}}{{r|言|ことば}}の為に領有せられたる非難すべからざる{{r|霊魂|たましい}}も、{{r|固|もと}}より{{r|単純|たんじゅん}}なるものなれど、{{r|神的|しんてき}}{{r|道徳|どうとく}}に多くの進歩をなすにしたがひて、{{r|賜|たまもの}}をうけん。我が{{r|此事|このこと}}をいふは{{r|新|しん}}{{r|婦|ぷ}}の名称も{{r|勿論|もちろん}}たゞ{{r|三|みつ}}のみにあらずして、{{r|更|さら}}に{{r|多|おほ}}かるべきによるなり。 ゆゑに{{r|神|かみ}}の{{r|聖所|せいしょ}}に{{r|入|い}}りて、『我等が{{r|年少|ねんしょう}}を{{r|楽|たのし}}ましむる{{r|神|かみ}}に』〔[[第六「カフィズマ」#42:4|聖詠四十二の四]]、{{r|希臘|ギリシャ}}訳文〕{{r|就|つ}}かざらん{{r|間|あいだ}}は、{{r|此|こ}}の{{r|労|ろう}}は我等の面前にあるを知るべし、けだし我等なほ肉体にあるも、{{r|主|しゅ}}の{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}を、たまはり、{{r|成聖|せいせい}}を{{r|遂|と}}げんことは、救世主の{{r|悦|よろこ}}ぶ所にして、{{r|其時|そのとき}}には、{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如くいふを{{r|得|え}}ん、曰く『我等は肉に在りて{{r|行|おこな}}へども、肉に{{r|循|したが}}ひて{{r|戦|たゝか}}はず、我等が{{r|戦|たゝかい}}の{{r|器|うつわ}}は肉に属せず、{{r|乃|すなわち}}{{r|神|かみ}}に{{r|由|よ}}りて{{r|塁|とりで}}を{{r|破|やぶ}}る{{r|能|ちから}}あり、我等{{r|此|これ}}を以て{{r|諸|もろもろ}}の{{r|謀|はかりごと}}と{{r|凡|およ}}そ{{r|神|かみ}}の知識に{{r|逆|さか}}ふ高慢とを破る』〔{{二重線|コリンフ}}後十の三至五〕。|[p.432]}} [p.432] 本質において唯一の主が、人類の救済という摂理のために、いかにして比喩的な意味で多くの名前を身にまとわれたことだろうか。なぜイエスは、ある箇所では岩(コリント第一 10章4節)や戸口(ヨハネ 10章7節)と呼ばれ、別の箇所では斧(ルカ 3章9節)や道(ヨハネ 14章6節)と呼ばれ、またぶどうの木やパン(ヨハネ 6章35節)とも呼ばれるのでしょうか。―岩と呼ばれるのは、イエスの力の揺るぎなさと近づきがたい性質によるものです。―戸口と呼ばれるのは、イエスを通して永遠の命に入ることができるからです。―斧と呼ばれるのは、イエスが悪の根源を断ち切るからです。―道と呼ばれるのは、イエスがふさわしい者を真理の知識へと導くからです。―ぶどうの木と呼ばれるのは、イエスが人の心を喜ばせる実り豊かなぶどう酒を実らせるからです。そして同様に、パンと呼ばれるのは、イエスが理性を持つ被造物の心を強くするからです。同様に、神の言葉に似た、それ自体は単純でありながら、多くの霊的な徳を積むことによって、罪のない魂もまた賜物を受けるに値するとみなされるのです。私がこのように述べたのは、花嫁の称号は三つだけでなく、多くの称号を持つからです。 そして、この労苦は、私たちが神の聖所に入るまで、すなわち「私たちの若さを喜ばれる神のもとへ」(詩篇43章4節)に入るまで、私たちの前に立ちはだかっていることを知っておきなさい。救い主は、私たちがまだ肉体の中にいる間に、主の無情にふさわしく、聖さに満たされることを喜ばれるからです。そして、その時、私たちは大胆にこう言うことができます。「私たちは肉体の中にいる間は、肉に従って戦いません。私たちの戦いの武器は肉的なものではなく、神によって力強く、滅びに強く、あらゆる考えや、神の知識に逆らって高ぶるあらゆる高慢なものを打ち砕くからです」(コリント第二10章3-5節)。 [p.433] {{Quotation|故に{{r|尚|なほ}}{{r|此処|こゝ}}に{{r|於|おい}}ても我等は罪なる{{r|慾|よく}}を十字架に{{r|釘|くぎ}}すること、預言者の{{r|祈祷|きとう}}の如くすべし、曰く『我が肉体を{{r|爾|なんぢ}}を{{r|畏|おそ}}るゝの{{r|畏|おそ}}れに{{r|釘|くぎ}}す』〔[[第十七「カフィズマ」#118:120|聖詠百十八の百二十]]〕。けだし{{r|使徒|しと}}のいはゆる『神の国を{{r|嗣|つ}}ぐあたはざる』〔{{二重線|コリンフ}}前十五の五十〕肉と血とは、{{r|此|こ}}の{{r|見|み}}ゆる{{r|体|からだ}}をいふにあらずして、〔彼は{{r|神|かみ}}の造る所なり〕{{傍点|style=open circle|{{r|悖逆|はいぎゃく}}の子}}〔{{二重線|エフェス}}二の二〕の{{r|中|うち}}に行為する凶悪の{{r|神|しん}}によりて{{r|起|おこ}}さるゝ肉体の{{r|念慮|ねんりょ}}を指す、何となれば<u>ハリストス</u>に{{r|於|お}}ける完全なる苦行者のために『{{r|戦|たゝかい}}は{{r|血肉|けつにく}}に{{r|於|おい}}てするに非ず、{{r|此|こ}}の{{r|暗昧|あんまい}}の{{r|世|せ}}{{r|君|くん}}に{{r|於|おい}}てし、凶悪の{{r|諸神|しょしん}}に{{r|於|おい}}てすればなり』〔{{二重線|エフェス}}六の十二〕。 故にもし{{r|此|こ}}の行為は天性自然の行為にあらずして、反対なる{{r|力|ちから}}の行為なるを{{r|認|みと}}むるならば、彼等に対して<u>ハリストス</u>の{{r|全|まつた}}き{{r|軍|ぐん}}{{r|備|び}}をおのれにうけ、『{{r|其|そ}}の{{r|奸計|はかりごと}}を{{r|禦|ふせ}}ぐを{{r|得|う}}べし』〔{{二重線|エフェス}}六の十一〕何となれば救世主は『{{r|蛇|だ}}{{r|蝎|かつ}}及び{{r|悉|ことごと}}くの{{r|敵|てき}}の{{r|力|ちから}}を{{r|踏|ふ}}む』の{{r|権|けん}}を我等に{{r|賜|たま}}ふによる〔<u>ルカ</u>十一の十九〕。{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}{{r|尚|なほ}}{{r|肉体|にくたい}}に{{r|居|を}}るも{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如く{{r|言|い}}ふを{{r|得|え}}んが為なり、曰く『もしわが心に不法のあるを{{r|見|み}}しならば主はわれに{{r|聴|き}}かざらん』〔[[第九「カフィズマ」#65:18|聖詠六十五の十八]]〕また曰く『{{r|我|われ}}{{r|尤|とが}}なしといへども、彼等は{{r|趨|は}}せ{{r|集|あつ}}まりて{{r|武具|ぶぐ}}をそなふ』〔同上五十八の五〕と、これ{{r|言|いふ}}{{r|意|こゝろ}}は我等は{{r|志|こゝろざ}}す所に進行し、{{r|即|すなわち}}{{r|上|うえ}}より{{r|召|め}}す所の{{r|褒章|ほうしょう}}に{{r|進向|しんこう}}しつゝ、如何なる肉体の慾もあるなうして、天に生涯を送ること{{r|易|やす}}からん。けだし{{r|諸|もろもろ}}の慾に遠ざかりて{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如く{{r|言|い}}ふことを{{r|得|う}}ればなり、曰くたゞに{{傍点|style=open circle|信を守る}}のみならず、{{傍点|style=open circle|{{r|馳|は}}すべき程を尽せり}}〔<u>テモフェイ</u>後四の七〕。|[p.433]}} [p.433] ですから、私たちはここでもなお、預言者の祈りに従って、罪深い情欲を十字架に釘付けにしなければなりません。「あなたへの畏れをもって、私の肉体を釘付けにしてください」(詩篇119篇120節)。使徒が「彼らは神の国を受け継ぐことができない」(コリント第一 15章50節)と言っている肉と血とは、この目に見える体(それは神によって創造されたもの)のことではなく、悪霊によって起こされ、「不従順な者たちのうちに働く」(エフェソ 2章2節)肉の知恵のことである。なぜなら、キリストにおいて完成された禁欲主義者は「肉と血と戦うのではなく、この世の闇の支配者、悪霊と戦う」(エフェソ 6章12節)からである。 したがって、この行為が自然なものではなく、敵対勢力の行為であると認めるならば、キリストの完全な武具を身に着けて敵対勢力に対抗すれば、「彼らの策略に立ち向かう」ことができるでしょう(エフェソ6章11節)。なぜなら、救い主は私たちに「蛇やサソリを踏みつけ、敵対者のあらゆる力に打ち勝つ」力を与えてくださるからです(ルカ10章19節)。そのため、肉体の中にいる間も、「もし私の心に不義を見たなら、主は私の祈りを聞いてくださらないでしょう」(詩篇66篇18節)と大胆に言うことができ、「私は不義なく走り、物事を正しました」(詩篇59篇5節)と言え、つまり、肉欲に駆られることなく、天国での生活を快適に過ごし、「高き召しの賞」(フィリピ3章14節)を目指して努力することができるのです。なぜなら、私たちはあらゆる情欲から遠ざかっているので、「信仰を守り通した」だけでなく、「走るべき道のりを走り終えた」と大胆に言うことができるからです(テモテ第二 4章7節)。 [p.434] {{Quotation|たゞ<u>ハリストス</u>を信ずるのみならず、彼と共に{{r|苦|くるしみ}}をうくることも{{r|肝要|かんよう}}なり、{{r|録|ろく}}していへる如し、『{{r|汝|なんぢ}}{{r|等|ら}}に{{r|賜|たま}}はりしはたゞ彼を信ずるのみならず、{{r|亦|また}}彼の為に{{r|苦|くるしみ}}をうくることなり』〔{{二重線|フィリッピ}}一の二十九〕。たゞ{{r|神|かみ}}を信ずるのみは地上の事を{{r|念|おも}}ふ{{r|者|もの}}に相応するのみならず、不潔の{{r|神|しん}}にさへ相応するは我が{{r|言|ことば}}を{{r|俟|ま}}たざるべし、いへらく『{{r|我|われ}}{{r|爾|なんぢ}}が{{r|誰|たれ}}なるを{{r|知|し}}る、{{r|乃|すなわ}}ち神の子なり』〔<u>マルコ</u>一の二十四、<u>マトフェイ</u>八の二十九〕。『けだし彼も{{r|此|これ}}も<u>ハリストス</u>の十字架の敵なり、彼等が{{r|終|おわり}}は{{r|滅亡|めつぼう}}なり、彼等が{{r|神|かみ}}は{{r|腹|はら}}なり、彼等が{{r|栄|えい}}とする所は{{r|辱|はぢ}}なり、彼等は地上の事を{{r|念|おも}}ふ』〔{{二重線|フィリッピ}}三の十八、十九〕と見るか十字架の敵はたゞ背教者の{{r|力|ちから}}のみにあらず、地上の事を{{r|念|おも}}ふ者も{{r|亦|また}}{{r|然|しか}}るを。しかれども<u>ハリストス</u>と共に{{r|苦|くるし}}みをうけて共に{{r|栄|えい}}せらるゝことはたゞ{{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|於|おい}}て{{r|己|おのれ}}を十字架に{{r|釘|くぎ}}して主の{{r|疵|きず}}を{{r|己|おのれ}}の{{r|体|からだ}}に{{r|負|お}}ふ{{r|者|もの}}のみ{{r|能|よく}}し{{r|得|う}}るなり。|[p.434]}} [p.434] 人はキリストを信じるだけでなく、キリストと共に苦しまなければなりません。聖書にこう書いてあるとおりです。「あなたがたには、キリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことも許されているのです」(フィリピ1章29節)。神だけを信じるというのは、地上のことばかり考える人、あるいは汚れた霊のような人たちの特徴です。彼らは「私たちはあなたが誰であるかを知っています。あなたは神の子です」(マルコ1章24節、マタイ8章29節)と言います。前者も後者も「キリストの十字架の敵であり、その最後は滅びです。彼らの神は腹であり、彼らの栄光は恥辱の中にあります。彼らは地上的な考え方をする者です」 (フィリピ3章18、19節)。背教者だけでなく、地上のことばかり考える人たちも十字架の敵であることがお分かりでしょうか。この世で自らを十字架につけ、主の傷を身に負う者だけが、キリストと共に苦しみ、キリストと共に栄光を受けることができるのです。 [p.435] {{Quotation|哲学を正しく{{r|攻究|こうきゅう}}して、{{r|霊魂|たましい}}を悪の{{r|汚穢|けがれ}}より{{r|救|すく}}ふ者は、哲学の目的を{{r|精確|せいかく}}に知らんこと{{r|肝要|かんよう}}なり、進行の{{r|労|ろう}}と{{r|経|けい}}{{r|過|か}}の{{r|終|おわり}}とを{{r|確|かく}}{{r|知|ち}}して、{{r|高慢|こうまん}}と{{r|功労|こうろう}}のことを{{r|思|おも}}ふ{{r|意思|いし}}とを{{r|全|まつた}}く{{r|斥|しりぞ}}け、聖書の{{r|誡命|かいめい}}にしたがひ、{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|たましい}}と{{r|生命|いのち}}をすてゝ{{r|一|いつ}}の{{r|富|とみ}}に{{r|注目|ちゅうもく}}せん{{r|為|ため}}なり、{{r|即|すなわち}}{{r|神|かみ}}が{{r|凡|およ}}そ{{r|甘|あま}}んじて{{r|苦|く}}{{r|行|ぎょう}}を{{r|自|みづ}}から{{r|任|にな}}はんと決心したる者を呼びて、{{r|其|その}}愛する所の者に<u>ハリストス</u>を愛したる{{r|為|ため}}の{{r|報償|ほうしょう}}として定め給ひしものに注目せん{{r|為|ため}}なり、{{r|此|かく}}の如き苦行の経過に{{r|於|おい}}て彼等に{{r|充分|じゅうぶん}}の{{r|路|ろ}}{{r|用|よう}}を{{r|給|きゅう}}するは<u>ハリストス</u>の十字架なり、されば彼等は{{r|此|これ}}を{{r|負|お}}ふて、{{r|楽|たのし}}みと{{r|善|ぜん}}なる{{r|希|き}}{{r|望|ぼう}}とを以て救世主<u>ハリストス</u>の{{r|跡|あと}}にしたがひ、{{r|其|その}}摂理を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|生命|いのち}}の{{r|法|ほう}}となし、{{r|路|みち}}となさんこと肝要なり、使徒の{{r|自|みづ}}から{{r|言|い}}へる如し、曰く『{{r|爾|なんぢ}}{{r|等|ら}}我に{{r|效|なら}}ふ者となれ、我が<u>ハリストス</u>に{{r|效|なら}}ふが{{r|如|ごと}}し』〔{{二重線|コリンフ}}十一の一〕又いふ『忍耐を以て我等の前にある{{r|馳|はせ}}{{r|場|ば}}を{{r|趨|はし}}りて、我等の{{r|信|しん}}の{{r|首|かしら}}及び{{r|成全|せいぜん}}{{r|者|しゃ}}なる<u>イイスス</u>を{{r|仰|あお}}ぎ{{r|望|のぞ}}むばし、彼は{{r|其|その}}{{r|前|まえ}}に{{r|在|あ}}る{{r|喜|よろこび}}に{{r|易|か}}へて{{r|辱|はぢ}}を{{r|意|い}}とせず、十字架を忍びて{{r|神|かみ}}の{{r|宝|ほう}}{{r|座|ざ}}の右に{{r|坐|ざ}}せり』〔{{二重線|エウレイ}}十二の一、二〕。 われらは{{r|神|かみ}}の{{r|賜|たまもの}}を以て{{r|自|みづ}}から{{r|高|たか}}ぶり、道徳に進むの{{r|或|あ}}る進歩を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|高慢|こうまん}}と{{r|称賛|しょうさん}}の{{r|為|ため}}の{{r|縁|えん}}{{r|由|ゆ}}となして、望む所の{{r|終|おわ}}りに{{r|達|たつ}}せざる{{r|先|さき}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|志|こゝろざし}}の{{r|撓|たわ}}まざらんが{{r|為|ため}}、{{r|高慢|こうまん}}により先になせる勤労を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に無益となさゞらんが{{r|為|ため}}、及び{{r|神|しん}}の{{r|恩寵|おんちょう}}の我等を{{r|引誘|いんゆう}}する{{r|成全|せいぜん}}に{{r|堪|た}}へざるものとならざらんが{{r|為|ため}}に{{r|戦々|せんせん}}{{r|競々|きょうきょう}}たらざるべからざるなり。|[p.435]}} [p.435] 哲学を正しく愛することを学び、悪徳の汚れから魂を解放した人々は、哲学を愛することの目的を正確に知っていなければなりません。旅の苦労と道のりの終わりを学んだ後、彼らはすべての傲慢と功績の考えを捨て、聖書の戒めに従って、魂と命を捨て、キリストを愛する者たちへの報いとして神が定めた一つの富を心に留め、喜んで闘いに挑むことを決めたすべての人をそれに招き入れます。そして、そのような闘いの通過のために、キリストの十字架は十分な別れの贈り物です。彼らはそれを背負い、救い主である神の足跡に従い、使徒自身が言ったように、「わたしがキリストに倣っているように、あなたがたもわたしに倣いなさい」 (コリント第一 11章節1)というように、神の摂理を自分たちの律法と生き方としなければなりません。また、「信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめながら、私たちの前に置かれている戦いに向かって忍耐をもって走り続けましょう。イエスは、ご自身の前に置かれた喜びのために、恥辱を気にせず十字架を耐え忍び、 神の御座の右に座られました」 (ヘブライ12章1-2節)。 私たちは、聖霊の賜物によって高められ、徳における進歩を傲慢と自慢の言い訳にしてしまい、望む終着点に到達する前に努力を怠り、それまでの努力を無益なものにしてしまい、聖霊の恵みによって導かれた完全さにふさわしくない者となってしまうことのないよう、注意しなければなりません。 [p.436] {{Quotation|故に勤労に{{r|於|おけ}}るの{{r|尽力|じんりょく}}を決して{{r|弱|よわ}}むべからず、{{r|眼前|がんぜん}}にある所の苦行を{{r|辞|じ}}するべからず、もし先に何か遂げし所あらんには、それを以て熱心を{{r|劃|かぎ}}るべからず、{{r|乃|すなわち}}{{r|使徒|しと}}の如く{{傍点|style=open circle|後}}を忘れて{{傍点|style=open circle|前}}に進み〔{{二重線|フィリッピ}}三の十三〕、{{r|成全|せいぜん}}を{{r|求|もと}}むる者が{{r|飽|あ}}くを知らずして{{r|独|ひと}}り{{r|飢|き}}{{r|渇|かつ}}する所の義の{{r|願|ねがい}}を{{r|有|ゆう}}し、勤労の為に{{r|慮|おもんぱか}}りて心肝を{{r|摧|くだ}}かんこと{{r|肝要|かんよう}}なり。彼等は{{r|許約|きょやく}}せられたる幸福を{{r|距|さ}}ること{{r|猶|なほ}}遠くして、<u>ハリストス</u>の完全なる愛に多く{{r|達|たつ}}せざる者なるにより、{{r|謙遜|けんそん}}なる者となり、恐れに満てる者とならざるべからず。けだし{{r|此|この}}{{r|愛|あい}}を{{r|切願|せつがん}}して、天の約束を{{r|仰望|ぎょうぼう}}する者は、{{r|禁食|きんしょく}}するか、{{r|儆醒|けいせい}}するか、{{r|或|あるい}}は他のいかなる{{r|徳行|とくこう}}に熱心するも、以前の功労を以て{{r|自|みづか}}ら{{r|高|たか}}ぶらざるべく、{{r|却|かへつ}}て神聖なる{{r|望|のぞみ}}にみたさるゝ彼は{{r|己|おのれ}}を呼ぶ所の者に{{r|間断|かんだん}}なく{{r|眼|め}}を{{r|注|そゝ}}ぎて、いくばく{{r|奮闘|ふんとう}}するも{{r|其|その}}{{r|志|こゝろざ}}す所のものに{{r|比|くら}}ぶれば{{r|全|まつた}}く小なりと{{r|思|おも}}ふべし。されば{{r|其|その}}{{r|行|おこない}}により{{r|己|おのれ}}を{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に尊敬すべき者とあらはさゞらん{{r|間|あいだ}}は、{{r|労|ろう}}に{{r|労|ろう}}を{{r|加|くは}}へ、{{r|徳行|とくこう}}に{{r|徳行|とくこう}}を{{r|重|かさ}}ぬるも、{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に適当なる者となれりとの{{r|意思|いし}}を心に{{r|懐|いだ}}かずして、{{r|此|こ}}の{{r|生命|いのち}}の{{r|終|おわり}}に{{r|至|いた}}るまで{{r|悉|ことごと}}くの{{r|尽力|じんりょく}}を{{r|用|もち}}ひん。けだし{{r|行|おこない}}に{{r|於|おい}}て{{r|大|おほい}}なる者は{{r|神|かみ}}を{{r|畏|おそ}}るゝを{{r|以|もつ}}て{{r|自負|じふ}}を{{r|地|ち}}に{{r|擲|なげう}}ちて、心を謙遜し、生活の為に{{r|己|おのれ}}を{{r|罪|つみ}}し、信じて愛するの{{r|度|ど}}により{{r|許約|きょやく}}を{{r|楽|たのし}}みて、{{r|自|みづ}}から{{r|労|ろう}}するの{{r|如何|いかん}}を{{r|以|もつ}}てせざるは、これぞ{{r|哲学|てつがく}}の{{r|最|もつとも}}{{r|卓越|たくえつ}}せる{{r|功労|こうろう}}なる。けだし{{r|賜|たまもの}}は{{r|大|おほい}}なるにより、これに{{r|相応|そうおう}}する{{r|勤労|きんろう}}を{{r|見|み}}{{r|出|いだ}}すことあたはざればなり。|[p.436]}} [p.436] ですから、私たちは決して努力を怠ってはならず、これから待ち受ける苦闘を放棄してはならず、既に達成したことにのみ熱意を限定してはなりません。しかし、使徒によれば、「過去のことは忘れ」、「未来のことに向かって身を伸ばし」(フィリピ3章13節)、努力に対する思いを胸に抱き、完全さを目指す者だけが切望し渇望すべき義への飽くなき渇望を持ち続けなければなりません。彼らは、約束された祝福からまだ遠く離れており、キリストの完全な愛には程遠いので、謙遜になり、畏れを抱かなければなりません。なぜなら、この愛を望み、天の約束を見つめる者は、断食をしたり、徹夜したり、他の徳を積んだりしても、過去の功績によって自分を高めることはなく、神への切なる願いに満たされ、自分を召してくださる方に絶えず目を向け、どんなに努力しても、自分が目指すものに比べれば、すべてを小さなものと考えるからです。彼は生涯の終わりまで、あらゆる努力を尽くし、労苦に労苦を重ね、徳に徳を重ね、自分の行いによって神の前に立派な者として現れるまで努力しますが、自分が神の前にふさわしい者になったとは決して考えません。知恵を愛する者の最も優れた功績は、行いに優れた者が心を低くし、自らの生き方を悔い改め、神への畏れをもって傲慢さを打ち砕き、信じて愛した度合いに応じて約束を享受し、働いた度合いに応じて享受しないことである。賜物は大きいので、それに見合う働きを見出すことは不可能である。 [p.437] {{Quotation|さりながら{{r|信|しん}}と{{r|望|ぼう}}とは{{r|大|おほい}}ならざるべからずして、これを{{r|以|もつ}}て報酬を測るべく、勤労を以てすべからざるなり。{{r|然|しか}}して{{r|信|しん}}の{{r|根本|こんぽん}}は{{r|心神|しんしん}}の{{r|貧|まづ}}しきと{{r|神|かみ}}に対する{{r|無|む}}{{r|量|りょう}}の{{r|愛|あい}}とにあり。 希望の目的に応じ、哲学によりて、生活せんと決心したる者の{{r|為|ため}}に{{r|余|よ}}は{{r|充分|じゅうぶん}}にのべたりと{{r|思|おも}}ふ。{{r|今|いま}}{{r|又|また}}これに{{r|加|くは}}ふるにかくの如き者はいかに{{r|互|たがい}}に{{r|交際|こうさい}}して{{r|如何|いか}}なる{{r|労|ろう}}を{{r|愛|あい}}するを{{r|要|よう}}するかを示すべし、{{r|天|てん}}{{r|都|と}}に{{r|達|たつ}}するに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}{{r|其|その}}進行を協力して{{r|成|な}}さん{{r|為|ため}}なり。 {{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|於|おい}}て尊敬すべきと認めらるゝものを{{r|断|だん}}じて{{r|尊|たつと}}ばず、{{r|親族|しんぞく}}を{{r|棄|す}}て、もろ{{く}}{{r|地下|ちか}}の{{r|栄|さかえ}}を{{r|棄|す}}てゝたゞ{{r|天上|てんじょう}}の{{r|尊栄|そんえい}}に{{r|着眼|ちゃくがん}}し、{{r|神|かみ}}による{{r|兄弟|けいてい}}と{{r|心神|しんしん}}にて{{r|結合|けつごう}}する{{r|者|もの}}は、{{r|世|よ}}と{{r|共|とも}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|たましい}}をも{{r|棄|す}}つること{{r|肝要|かんよう}}なり。{{r|霊魂|たましい}}を{{r|棄|す}}つとは{{r|何|なに}}に{{r|於|おい}}ても{{r|己|おのれ}}の{{r|旨|むね}}を求めずして、{{r|反|かへ}}つて{{r|己|おのれ}}の{{r|旨|むね}}を{{r|矯正|きょうせい}}し、{{r|院長|いんちょう}}を以て己の為に{{r|神|かみ}}の{{r|言|ことば}}となして、これを{{r|益用|えきよう}}すること、{{r|善良|ぜんりょう}}なる{{r|舵師|だし}}の如くし、{{r|兄弟|けいてい}}{{r|社会|しゃかい}}のすべてを{{r|挙|あ}}げて、{{r|同心|どうしん}}{{r|協力|きょうりょく}}して、{{r|神|かみ}}の{{r|旨|むね}}の{{r|湊|みなと}}に{{r|向|むか}}はしむるにあり。|[p.437]}} [p.437] しかし、信仰と希望は大きくなければならない。それによって報いが測られ、働きによって測られるのではない。信仰の土台は、霊的な貧しさと神への計り知れない愛である。 希望の目標に従って、知恵に満ちた人生を送ろうと決意した人々については、すでに十分なことが述べられたと思います。今、私たちは、そのような人々が互いにどのように接し、どのような働きを愛すべきか、そして共に歩みを進めて天の都に到達できるようにすべきことについて、付け加えなければなりません。 この世で尊ばれるとされるものを断固として軽んじ、家族を捨て、地上の栄光を全て捨て去る者であっても、天上の栄誉を心に抱き、神において兄弟たちと霊的に結びついている者は、この世と共に自らの魂をも捨て去らなければならない。魂の放棄とは、何事においても自らの意志を求めず、むしろ自らの意志を正し、神の言葉を自らの長とし、それを良き舵取り役として、兄弟たち全体を神の意志という港へと一斉に導くことにある。 【以下未入力(p.438-457)】 {{DEFAULTSORT:えしふとまかりいせんしよ しよかん2}} <!-- [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:埃及マカリイ全書|52]]--> {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{PD-old}} }} <!-- --> qswymfsm0ssrdvj7wcewsjshex4ywlp 243146 243145 2026-06-12T18:25:24Z 村田ラジオ 14210 243146 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|wikisource:宗教|埃及マカリイ全書|hide=1}} {{header |title=埃及マカリイ全書 |section=エジプトマカリオスの大書簡 (現代語訳) |previous=[[埃及マカリイ全書/第五十講話|第五十講話]] |next= |year= |author= |override_author = |override_translator = 堀江 {{r|復|ふく}} ( -1914) |notes= <!--{{Textquality|25%}}--> *ウィキソースによる現代語訳 }} ==エジプトマカリオスの大書簡== {{Quotation|完全にして聖にせられたる人の為に{{r|要用|ようよう}}なるはたゞ{{r|自|みづ}}から{{r|神|かみ}}に{{r|居|を}}らんことのみならず、神も彼に{{r|居|を}}らんことなるは、{{r|汝|なんぢ}}が善智の{{r|明|あきらか}}に知る所なるべし、主のいひ給ふごとし、{{r|曰|いは}}く『我に{{r|居|を}}り、我も彼に{{r|居|を}}る』〔<u>イオアン</u>十五の五〕。されば神の人は神聖なる{{r|幕屋|まくや}}に居り、此の幕屋を至浄なる神性の聖なる山に建てざるべからず、これ暗黒なる{{r|情慾|じょうよく}}の{{r|力|ちから}}の占領するをゆるさゞる者の光栄を{{r|暁|さと}}るのみならず、{{r|其|その}}{{r|擁|よう}}する所とならんためなり。けだし適当なる者には{{r|其|その}}{{r|成聖|せいせい}}とその彼等に属する{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}との為に救世主は住み給ふ、これ主の{{r|自|みづ}}から{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}なる如く主をうけたる{{r|者|もの}}{{r|等|ら}}をも無慾なる者となして如何なる風にも{{r|最早|もはや}}{{r|動乱|どうらん}}{{r|漂漾|ひょうよう}}せられざる者となさん為なり。 しかれども{{r|或者|あるもの}}は{{r|自|みづ}}から<u>ハリストス</u>の{{r|機|き}}{{r|密|みつ}}に遠ざかるのみならず、『{{r|濁|にご}}れる{{r|敗壊|はいかい}}を以て{{r|其|その}}{{r|親友|しんゆう}}を{{r|誘|いざな}}ひ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-hab/2:8-17 <u>アバクム</u>二の十五]〕『神を{{r|識|し}}るべきものゝ彼等に{{r|明|あきらか}}にあらはるる』にも{{r|拘|かか}}はらず、神の真理を不義の{{r|中|うち}}に隠さんとす。けだし『{{r|其|その}}{{r|思念|おもひ}}は{{r|虚|むな}}しくなり』{{r|其|その}}{{r|無智|むち}}の心は{{r|昧|くら}}みしにより〔{{二重線|ロマ}}一の十八至二十一〕。彼等は説を{{r|為|な}}していへり、{{r|恥|は}}づべき{{r|情慾|じょうよく}}は天性自然にして神より我等に付与せられたるものなりと、{{r|是|こ}}れ{{r|即|すなはち}}{{r|敗壊|はいかい}}の{{r|楽|たのし}}み、不正なる{{r|忿怒|いきどほり}}、神の為に発するに{{r|非|あら}}ざる不適当なる{{r|怒|いかり}}、及び{{r|凡|およ}}そ{{r|此|これ}}に類するものをいふなり。|[p.425]}} 《現代語訳》 [p.425] 完全で聖なる人となるためには、彼自身が神の内にいるだけでなく、神が彼の内にいることも必要であることを知りなさい。主はこう言われる。「彼が私の内にいれば、私も彼の内にいる」(ヨハネ15章5節)。神の人間は、神の幕屋に住み、この幕屋を最も純粋な神性の聖なる山に建てなければなりません。それは、情欲の暗い力が彼を支配することを許さない方の栄光を受け入れるだけでなく、その栄光に抱かれるためです。救い主は、ふさわしい人々の中に、聖性と生来の無執着のために住まわれるからです。それは、救い主がご自身が無執着であるように、彼を受け入れた人々をも無執着にし、もはや嵐に巻き込まれず、どんな風にも吹き飛ばされない者とするためです。 また、ある人々はキリストの奥義から遠く離れているだけでなく、「わざわいなるかな、その隣り人に怒りの杯を飲ませて、これを酔わせ、 彼らの隠し所を見ようとする者よ。」(ハバクク書 2章15節)、神の真理を偽りの中に含み、「彼らの中には、神の知恵が明らかに示されている」と言われています。なぜなら、「思いがむなしく」なり、愚かな心によって暗くなった(ローマ 1章18–21節)ため、彼らは、腐敗の快楽、不当な短気、神によらない下品な怒りなど、恥ずべき情欲は神によって私たちに生まれつき備わっているものだと言うからです。 {{Quotation|ゆゑに彼等と{{r|其|そ}}の{{r|言|い}}ふ所とは真理に{{r|違|たが}}ふものとしてこれを{{r|棄|す}}て、我等を造りし者を以て我等にあたへられたる自由自主の主権を{{r|承認|うけみと}}めん、善きことに進むも{{r|悪|あし}}きことを{{r|止|や}}むるも我等に{{r|係|かか}}らんためなり。けだし真実なる審判者は、もし{{r|自|みづ}}から情慾の造物主ならば、これに占領せらるゝ我等を{{r|罰|ばつ}}せざるべし。祈る{{r|此|この}}{{r|教|をしへ}}に離れ遠ざかりて、これを{{r|思|おもひ}}にも{{r|生|しょう}}ぜしめざらんことを。けだし{{r|此|こ}}の{{r|蒙昧|もうまい}}にして{{r|愚|おろか}}なる意見は、{{r|凡|およそ}}の敬虔なる{{r|裁|さい}}{{r|智|ち}}の為に{{r|忌|い}}み{{r|嫌|きら}}ふべきものとす。神は清くして{{r|最|いと}}{{r|美|うつく}}しき天地万物の造成者なることは、世界創造の際に{{r|聖神|せいしん}}の{{r|告|つ}}げ{{r|給|たま}}ひし如し、けだしいへり、『神は{{r|其|その}}造りたる{{r|諸|もろもろ}}の物を見たまへるに{{r|甚|はなは}}だ{{r|善|よ}}かりき』〔創世記一の三十一〕。されば<u>イエレミヤ</u>は{{r|恥|は}}づべき情慾のために{{r|哀|かなし}}み、かつ{{r|惑|まど}}ふていへり、『主の命じ給ふにあらずば、誰か事を述べんに、その事すなはち成らんや、{{r|禍|わざわい}}も{{r|福|さいわい}}も{{r|至|し}}{{r|高者|こうしゃ}}の口より{{r|出|い}}づるにあらずや』〔<u>イエレミヤ</u>哀歌三の三十六‐三十八〕。故に{{r|福音|ふくいん}}{{r|経|きょう}}に聡明なる天軍は主に{{r|問|と}}ふていへり、『主よ{{r|爾|なんぢ}}は{{r|美|よき}}{{r|種|たね}}を{{r|爾|なんぢ}}の{{r|田|た}}に{{r|撒|ま}}きたるに{{r|非|あら}}ずや、{{r|然|しか}}らば何に由りて{{傍点|style=open circle|此の}}{{r|稗|ひえ}}あるか』〔<u>マトフェイ</u>十三の二十七〕。[p.427]また他の所に救世主は{{r|自|みづ}}から彼等の事をいへり、『{{r|凡|およ}}そ我が天の父の{{r|植|うゑ}}ざりし植物は{{r|其|その}}{{r|根|ね}}{{r|絶|たや}}されん』と〔<u>マトフェイ</u>十五の十三〕。しかれどもすべて神の{{r|植|う}}ゑしものゝ{{r|美|び}}なることは、<u>ハリストス</u>これをいひ、<u>パウェル</u>もこれを{{r|証|しょう}}せり、曰く『{{r|蓋|けだし}}神の{{r|悉|ことごと}}くの造物は善なり』〔<u>テモフェイ</u>前四の四〕。故に知るべし我等の{{r|中|うち}}にかくるゝ情慾は本来我等に属するに非ずして、他に属するものなるを。けだし{{r|言|い}}ふあり、『我が{{r|隠|ひそか}}なる{{r|咎|とが}}より我を{{r|浄|きよ}}め{{r|給|たま}}へ、{{r|故|こ}}{{r|犯|はん}}より{{r|爾|なんぢ}}の{{r|僕|ぼく}}を{{r|止|とゞ}}めよ』〔[[第三「カフィズマ」#18:13|聖詠十八の十三、十四]]〕、またいふあり、『外人は{{r|起|た}}ちて我を{{r|攻|せ}}め、強き者は我が{{r|霊|たましい}}を{{r|覓|もと}}む』〔[[第七「カフィズマ」#53:5|同上五十三の五]]〕。またいふあり、『主よ我と{{r|争|あらそ}}ふ者と{{r|争|あらそ}}ひ、我と{{r|戦|たゝか}}ふ者と{{r|戦|たゝか}}ひ給へ』〔[[第五「カフィズマ」#34:1|同上三十四の一]]〕。それ此の{{傍点|style=open circle|{{r|隠|ひそか}}なるもの}}{{r|或|あるい}}は此の{{傍点|style=open circle|争ふ者}}{{r|或|あるい}}は{{傍点|style=open circle|戦ふ者}}{{r|或|あるい}}は此の{{傍点|style=open circle|故犯}}とはこれ<u>ハリストス</u>の徳行に{{r|逆|さから}}ふ凶悪なる{{r|諸神|しょしん}}を示すにあらずして何ぞや。|[p.426]}} [p.426] したがって、彼らや彼らの言葉を真理から逸脱したものとして捨て去り、私たちを創造した方が私たちに与えてくださった自由の専制を認め、最善を目指し、最悪を避けるのは私たち次第であることを認めましょう。真の審判者ご自身が創造主であるならば、情欲にとりつかれた私たちを罰するはずがありません。お願いですから、この教えは捨て去り、頭に浮かばないようにしてください。この不合理で愚かな考えは、すべての敬虔な理解力にとって不快です。神は、創造の時に聖霊が告げたように、純粋で最も美しい自然の創造主です。「見よ、すべてが非常に良い」(創世記 1章31節)と神は言っています。エレミヤは、恥ずべき情欲について嘆き、困惑しながらこう言います。「主は『あなたのものは誰か』と言われたのではない。主が語られたから、そうなったのだ。主は『いと高き者の口からは悪は出ず、善は出る』と命じられたのではない。(哀歌エレミヤ3章36-38節)」。それゆえ、福音書の中で、知性ある者たちは主にこう問いかけます。「主よ、あなたは畑に良い種を蒔かれたではありませんか。では、これらの「毒麦」はどこから来るのでしょうか(マタイ13章27節)。別の箇所では、救い主ご自身がそれらについてこう言っています。「天の父が植えなかった庭は、みな根こそぎにされるであろう」(マタイ15章13節)。そして、神の植えたものはすべて美しいと、パウロはキリストが「神の造られたものはすべて良いものである」(テモテ第一4章4節)と言っているように、パウロもそのことを証言しています。ですから、私たちの中に秘められた情熱は私たち自身のものではなく、私たちとは無関係のものであることを知ってください。「わたしの隠れた罪を清め、あなたのしもべを異邦人の罪からお守りください」(詩篇19篇13-14節)、「異邦人がわたしに立ち向かい、力ある者たちがわたしの命を狙っています」(詩篇54篇5節)、「主よ、わたしを害する者を裁き、わたしと戦う者と戦ってください」(詩篇35篇1節)と書いてあるからです。では、この「隠れた」とは、あるいは「罪を犯す者」や「戦う者」、あるいは「異邦人」とは、キリストの徳に敵対する悪霊ではないとしたら、何を意味するのでしょうか。 {{Quotation|律法も内部の人の{{r|潔浄|けつじょう}}のことを公然と呼ぶを精密に吟味せよ。いふあり、『汝の主、神の名を{{r|妄|みだり}}に口にあぐべからず、けだし主は己の名を{{r|妄|みだ}}りに口にあぐる者の心を清めざるべし』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-deu/5:1-11 {{r|復傳|ふくでん}}{{r|律令|りつれい}}五の十一]〕。ゆゑに使徒も勧めて{{r|明|あきら}}かにいへり、『{{r|己|おのれ}}を{{r|凡|およそ}}の{{r|肉|にく}}と{{r|神|しん}}との{{r|汚|けがれ}}より{{r|潔|きよ}}くせよ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-2cor/7:1-5 {{二重線|コリンフ}}後七の一]〕。また他の処にもいふ『心は{{r|灑|そゝ}}がれて悪しき意念を去れ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-heb/10:16-22 {{二重線|エウレイ}}十の二十二]〕、又いふ『汝等の{{r|神|しん}}と{{r|霊|れい}}と{{r|体|たい}}とは{{r|全|まつと}}うし{{r|護|まも}}られて{{r|疵|きず}}なからん』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-1th/5:16-23 {{二重線|ソルン}}前五の二十三]〕、[p.428]又いふ『{{r|疵|きず}}なき神の子とならん為なり』〔{{二重線|フィリッピ}}二の十五〕。ゆゑに{{r|凡|すべ}}て子たる{{r|位地|いち}}を{{r|賜|たま}}はらんことを願ふ者は{{r|疵|きず}}なき{{r|体|からだ}}を有するのみならず、{{r|疵|きず}}なき{{r|霊|たましい}}をも有すること、{{r|左|さ}}の如くならざるべからず『{{r|願|ねがは}}くは我が心{{r|爾|なんぢ}}の{{r|律|おきて}}に{{r|玷|きず}}なからん、我が{{r|羞|はぢ}}を{{r|得|え}}ざらん為なり』〔[[第十七「カフィズマ」#118:80|聖詠百十八の八十]]〕。けだし律法の{{r|下|もと}}に居る者は、たゞ肉体の{{r|稱|しょう}}{{r|義|ぎ}}を遂げて、外部の{{r|潔浄|けつじょう}}を守れども、{{r|恩寵|おんちょう}}の{{r|下|もと}}に{{r|居|を}}る者は、{{r|成聖|せいせい}}により内部の平安を願ふて、{{r|左|さ}}の如くいひし者にしたがふなり、曰く、『もし汝等の義は学士お呼び<u>ファリセイ</u>等の義に{{r|勝|まさ}}らずば{{r|爾|なんぢ}}{{r|等|ら}}天国に入るを得ず』〔<u>マトフェイ</u>五の二十〕、何となれば<u>ファリセイ</u>等は智を{{r|盲|くら}}まして、{{傍点|style=open circle|杯と皿の外}}を{{r|潔|きよ}}むればなり〔<u>マトフェイ</u>二十三の二十五〕。今も彼等に似たる新<u>ファリセイ</u>は、未熟なる才智を以て外部の人を粉飾し、{{r|自|みづ}}から己を義とせんとす、しかれども{{r|聖神|せいしん}}は彼等の{{r|神|しん}}と共に彼等が神の子たるを{{r|証|しょう}}すること、使徒と共に{{r|証|しょう}}する如くせざるべし、言ふあり、『此の{{r|神|しん}}{{r|自|みづ}}から我等の{{r|神|しん}}と共に我等が神の子たるを{{r|証|しょう}}す』〔{{二重線|ロマ}}八の十六〕。彼等は内部の人の{{r|聖徳|せいとく}}に成長するを自己にあらはさんことを{{r|欲|ほつ}}せずして、たゞ肉体上の功労に信任し、『{{r|王|おう}}の{{r|女|ぢょ}}の光栄は皆内部にある』〔[[第六「カフィズマ」#44:14|聖詠四十四の十四]]〕を知らざるなり。我等各人は{{r|恰|あたか}}も心中の{{r|無花果|いちじく}}の如し、主の{{r|尋|たづ}}ぬるは内部の{{r|果|か}}にありて、{{r|枝|し}}{{r|葉|よう}}の{{r|飾|かざり}}にあるにあらざるなり〔<u>マトフェイ</u>二十一の十九〕。|[p.427-p.428]}} [p.427-p.428] 律法もまた、内なる人の清さをはっきりと求めていることを、より深く考えてみましょう。「主なるあなたの神の名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える心をきよめられないからである」(申命記 5章11節)とあります。それゆえ、使徒パウロもまた、はっきりとこう勧めています。「肉の汚れだけでなく、霊の汚れからも、あらゆる汚れから自分をきよめましょう」(コリント人への手紙二 7章1節 )。また別の箇所では、「心に汚れた良心を清め」(ヘブライ人への手紙 10章22節 )と言い、さらに「体と霊と魂を、完全に清く保ちなさい」(テサロニケ人への手紙一 5章23節)と言い、「あなたがたが、責められるところのない神の子となるためです」(ピリピ人への手紙 2章15節)とも言っています。したがって、養子縁組にふさわしくありたいと願う者は皆、非の打ちどころのない体だけでなく、非の打ちどころのない魂を持たなければなりません。それは、「あなたの戒めの中で、私の心が清くあって、私が恥じることのないようにしてください」(詩篇 119篇80節)と言われた方のようなものです。律法の下に生き、肉の義認だけを満たす人は外面的な清さを保ちますが、恵みの下に生きる人は、聖さにおける内面的な平和も望み、「あなたがたの義がパリサイ人や律法学者よりもまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入れません」(マタイ 5章20節)と言われた方に従います。パリサイ人は心が盲目であるため、「鏡の外側」をきよめるからです(マタイ 23章25節)。現代の新しいパリサイ人たちも、彼らと同様、未熟な心で外面を飾り、自らを正当化しますが、聖霊は、彼らが神の子であるという彼らの霊に従おうとはしません。使徒パウロはこう言っています。「"霊"みずからわたしたちの霊に従われます。わたしたちは神の子なのですから」(ローマ8章16節)彼らは、内なる人の聖さが成長していることを自ら示そうとせず、肉の功績だけに頼っています。「王の娘の栄光はすべて内にある」(詩篇45篇14節)ことを彼らは知りません。私たち一人ひとりは、いわば心のいちじくの木のようで、主はその葉の飾りではなく、内なる実を求めておられるのです(マタイ21章19節)。 [p.429] {{Quotation|故に{{r|恥|は}}づべき情慾を弁護して、天然自然なるものとし、{{r|偶然|ぐうぜん}}に人に{{r|入|い}}りしにあらずといふ者は、『{{r|神|かみ}}の真実を己の{{r|偽|いつわり}}に{{r|易|か}}ふるなり』〔{{二重線|ロマ}}一の二十五〕何となれば我が{{r|先|さき}}にいひし如く{{r|無|む}}{{r|玷|てん}}{{r|純潔|じゅんけつ}}なる者は{{r|其|その}}{{r|像|ぞう}}を{{r|己|おのれ}}に{{r|肖|に}}たるものとなしたりしが、『{{r|悪|あく}}{{r|鬼|き}}の{{r|猜|そね}}みにより死は世に{{r|入|い}}りたればなり』〔知恵書二の二十四〕。ゆゑに人間は不法によりて{{r|孕|はら}}まれ、罪に{{r|於|おい}}て{{r|生|うま}}れて、〔[[第七「カフィズマ」#50:7|聖詠五十の七]]〕{{r|母|ぼ}}{{r|腹|ふく}}より離れ遠ざかる者となり、{{r|母|ぼ}}{{r|胎|たい}}より{{r|迷|まよい}}に{{r|居|を}}りて、<u>アダム</u>より以後<u>ハリストス</u>の{{r|来|きた}}るに至るまで罪が王となりしにより神の{{r|羔|こひつじ}}は{{r|憐|あわれみ}}を{{r|垂|た}}れて{{r|来|きた}}り給へり、これ{{r|先|ま}}づ強き者を{{r|縛|ばく}}し、{{r|其後|そののち}}{{r|鹵|ろ}}{{r|獲|かく}}せられたる器物を{{r|奪|うば}}ひ{{r|回|かへ}}して、己の力を以て世の罪を取らん為なり、言ふあり『{{傍点|style=open circle|擄者を{{r|擄|とりこ}}にす}}』と、又いふ『{{r|献物|さゝげもの}}をうく』と〔[[第九「カフィズマ」#67:19|聖詠六十七の十九]]〕。 我等は{{r|俘|ふ}}{{r|虜|りょ}}たるをまぬかれ、『土に属する者の{{r|状|かたち}}を{{r|衣|き}}たる如く、天に属する者の{{r|状|かたち}}』〔{{二重線|コリンフ}}前十五の四十九〕を{{r|衣|き}}『我等の{{r|肢|し}}{{r|体|たい}}を義の{{r|僕|ぼく}}となして、{{r|成聖|せいせい}}に{{r|委|ゆだ}}ぬること罪に{{r|委|ゆだ}}ねし如くせんことを』{{r|慮|おもんぱか}}らざるべからず〔{{二重線|ロマ}}六の十九〕。我等は信ず、われら{{r|躓|つまづ}}かずして光の{{r|中|うち}}を行く者は、神の奇跡を認めんを要するを。録して言ふ所の如し、曰く『我が目を{{r|啓|ひら}}き{{r|給|たま}}へ、{{r|然|しか}}せば{{r|我|われ}}{{r|爾|なんぢ}}が{{r|律法|りっぽう}}の{{r|奇|き}}{{r|跡|せき}}を{{r|観|み}}ん』〔[[第十七「カフィズマ」#118:19|聖詠百十八の十九]]〕。|[p.429]}} [p.429] したがって、恥ずべき情欲を自然なものとして、偶然に人に入り込んだものではないとして擁護する者は、「神の真理を偽りに変えた」(ローマ1章25節)のです。なぜなら、私が先に述べたように、汚れなき清らかな方がご自身の似姿に造られたからです。「しかし、悪魔のねたみによって死が世に入り込んだ」(知恵書2章24節)。したがって、人類は不義のうちに宿り、罪のうちに生まれ(詩篇51篇7節 )、母の胎内から離れ、アダムからキリストの到来まで罪が支配し始めてから、母の胎内から誤りの中にとどまりました。そして、憐れみ深い神の子羊が、ご自身の力で世の罪を取り除くために来られ、まず強い男を縛り、それから彼が戦利品として集めた器を奪い取られました。それは、「あなたは捕虜を捕らえ、また背く者を捕らえた」と言われたとおりです(詩篇68篇19節)。 私たちは、束縛から解放されるよう注意し、「地上の像を着ているように、天の像をも着るようになるのです」(コリント第一 15章49節)、「義のしもべである私たちの肢体を、罪に差し出したように、聖なる姿で差し出す」(ローマ 6章19節)必要があります。私たちは、光の中をつまずくことなく歩む私たちは、神が「私の目を開いてください。そうすれば、あなたの律法からあなたの驚くべき御業を理解できます」(詩篇 119篇18節)と言われたように、神の驚くべき御業を見る運命にあると信じています。 [p.430] {{Quotation|けだし光の{{r|中|うち}}を行く者は五感に{{r|躓|つまづ}}きを{{r|来|きた}}さゞる如く、完全なる{{r|成聖|せいせい}}に{{r|居|を}}る者も心に{{r|奸計|かんけい}}を思はず、{{r|悪|あ}}しく{{r|慮|おもんぱか}}らざるなり。けだし『{{r|光|ひかり}}は{{r|暗|やみ}}と何の{{r|交|まじわ}}ることのあらん、神の{{r|殿|でん}}は偶像と何の同じきことのあらん』〔{{二重線|コリンフ}}後六の十五、十六〕、故に己を神の{{r|殿|でん}}と{{r|認|みと}}むべく、{{r|思|おもい}}の偶像を心中に{{r|画|えが}}かざらんことを{{r|力|つと}}めよ。けだし{{r|霊魂|たましい}}の{{r|中|うち}}に動作する{{r|凡|すべ}}ての{{r|情慾|じょうよく}}は偶像なり、故に『勝たるゝ者は勝つ者の奴隷たり』とは{{r|最|いと}}{{r|善|よ}}く言へるなり〔<u>ペトル</u>後二の十九〕。もし我等は肉体の慾に{{r|勤|つと}}むるならば、{{r|聖|せい}}にして無慾なる{{r|神|しん}}につとめざらんこと{{r|明|あきらか}}なり、何となれば人は『{{r|二人|ふたり}}の主に{{r|事|つか}}ふるあたはず、{{r|神|かみ}}と{{r|財|たから}}とに{{r|兼|かね}}{{r|事|つか}}ふること{{r|能|あた}}はざればなり』〔<u>マトフェイ</u>六の二十四〕。{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}は聖にして『{{r|汚|けがれ}}{{r|或|あるい}}は{{r|此|かく}}の如きもの』を有せず〔{{二重線|エフェス}}五の二十七〕、『けだし{{r|聖神|せいしん}}は{{r|諂|てん}}{{r|媚|び}}を避け、{{r|無智|むち}}{{r|者|しゃ}}の{{r|思念|おもい}}より遠ざかり、{{r|教|おしえ}}は{{r|奸猾|かんかつ}}なる{{r|霊魂|たましい}}に{{r|入|い}}らざるなり』〔知恵書一の四、五〕。 ゆゑに我等が律法はすべて{{r|神|かみ}}の{{r|指|ゆび}}を{{r|以|もつ}}て心にしるさるゝものにて、{{傍点|style=open circle|{{r|墨|すみ}}を以てするにあらず}}、{{r|神|かみ}}の{{r|神|しん}}を{{r|以|もつ}}てする〔{{二重線|コリンフ}}後三の三〕ものなるを確信して、『我は真実なり』〔<u>イオアン</u>十四の七〕との{{r|給|たま}}ひし立法者の真実をうけん、彼は心の割礼を{{r|行|おこな}}ひ、適当なる者の{{r|裁|さい}}{{r|智|ち}}に{{r|其|その}}{{r|仁|じん}}{{r|慈|じ}}の{{r|法|ほう}}をしるすこと、預言者のいへる如し、曰く『われ我が{{r|律法|りっぽう}}を彼等の心に置き、彼等の{{r|思|おもい}}にしるさん』〔<u>イエレミヤ</u>三十一の三十三〕。{{傍点|style=open circle|{{r|凡|およ}}そ選ばれたる族}}と、{{傍点|style=open circle|王たる祭司班}}と、{{傍点|style=open circle|聖なる人民}}と、選ばれたる{{傍点|style=open circle|人}}〔<u>ペトル</u>前二の九〕の{{r|中|うち}}に{{r|入|い}}らんことを苦心する者は、{{r|生活|せいかつ}}を{{r|施|ほどこ}}す{{r|神|しん}}の{{r|効力|こうりょく}}を{{r|便|べん}}{{r|利|り}}に{{r|己|おの}}れにうけん。|[p.430]}} [p.430] 感覚において、光の中を歩む者はつまずかないのと同様に、精神において、完全な聖さの中に留まる者は悪を考えず、悪の理性を働かせません。なぜなら、「光と闇との交わりはなく、教会と偶像との結びつきもない」(コリント第二 6章15-16節)からです。ですから、自分自身を神の神殿であると認識し、心の中に偶像を描かないように努めなさい。魂に働くすべての情欲は偶像です。ですから、「人は何に打ち負かされるかによって、その者のしもべとなる」(ペテロ第二 2章19節)と美しく言われています。もし私たちが肉欲に囚われているなら、明らかに、私たちは聖なる、情欲のない聖霊に囚われていません。なぜなら、「だれも二人の主人に仕えることはできない。あなたがたは、神と富に仕えることはできない」(マタイ 6章24節)と言われているからです。神の神殿は聖なるものであり、「汚れも、しわも、そのようなものは一切ない」(エフェソ 5章27節)のです。「聖霊は欺きから逃げ去り、理性のない考えから遠ざかり、悪しき魂に入り込むことはない」(知恵書 1章4-5節)のです。 したがって、私たちの律法全体が神の指によって、インクではなく神の霊によって心に書かれていることを確信した私たちは、 「わたしは真理である」(ヨハネ14章7節)と言われた律法授与者の真理を受け入れましょう。神は、預言者が言うように、「わたしの律法を彼らの心に与え、わたしはそれを彼らの心に書き記す」(エレミヤ31章33節)ように、ふさわしい者の心に割礼を施し、その善の律法を書き記してくださいます。「選ばれた世代」、「王なる祭司」、「聖なる国民」 、「選ばれた民」(ペテロ第一2章9節)に入ろうとする者は皆、命を与える聖霊の効力を喜んで受け入れます。 [p.431] {{Quotation|故に<u>ハリストス</u>に{{r|於|おけ}}る生活の<u>ハリストス</u>と同形なる公正に{{r|進|すゝ}}むを、{{r|縦|たと}}ひ久しからずと{{r|雖|いへど}}も、我等にも{{r|賜|たま}}はらんことを{{r|願|ねが}}ひ{{r|且|かつ}}祈るべし。けだし{{r|如此|かくのごとき}}の{{r|霊魂|たましい}}は{{傍点|style=open circle|面の恥}}〔[[第六「カフィズマ」#43:16|聖詠四十三の十六]]〕を脱し、{{r|最早|もはや}}汚れたる{{r|思|おもい}}に占領せられず、{{r|悪者|あくしゃ}}と{{r|姦通|かんつう}}せずして、{{r|疑|うたがい}}なく天の{{r|新郎|しんろう}}と{{r|親|しん}}{{r|与|よ}}をなさん、何となれば{{r|自|みづ}}から彼と{{r|同形|どうけい}}なればなり。彼に対するの愛を以て刺激せられたる{{r|霊魂|たましい}}は望みて{{r|絶|たえ}}{{r|入|い}}らん〔[[第十一「カフィズマ」#83:1|聖詠八十三の一]]〕。{{r|我|われ}}{{r|敢|あえ}}ていふ、{{r|成聖|せいせい}}を{{r|享|うく}}ることの{{r|不|ふ}}{{r|朽|きゅう}}なる{{r|契約|けいやく}}により、彼とかくの如く{{r|美|び}}なる{{r|心中|しんちゅう}}{{r|秘|ひ}}{{r|密|みつ}}の{{r|体合|たいごう}}を{{r|為|な}}すを望まん。{{r|如此|かくのごとき}}の{{r|霊魂|たましい}}は実に幸福なり、彼は{{r|霊神|れいしん}}{{r|上|じょう}}の愛に勝たれたつものとして、{{r|神|かみ}}{{r|言|ことば}}に{{r|嫁|か}}すること当然なり、故に彼は{{r|敢|あえ}}て言ふべし、左の如く言ふべし、曰く『我が{{r|霊|たましい}}はわが{{r|神|かみ}}をたのしまん、そは我に{{r|救|すくい}}の{{r|衣|ころも}}をきせ、義の{{r|外服|がいふく}}をまとはせて、{{r|新郎|しんろう}}が{{r|冠|かんむり}}をいたゞき、{{r|新|しん}}{{r|婦|ぷ}}が{{r|玉|たま}}こがねの{{r|飾|かざり}}をつくるが如くしたまへばなり』〔<u>イサイヤ</u>六十一の十〕けだし{{r|王|おう}}は彼の善良を望みて〔[[第六「カフィズマ」#44:12|聖詠四十四の十二]]〕、彼をたゞ{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}と名づくるのみならず、{{r|王|おう}}の{{r|女|むすめ}}及び{{r|皇后|こうごう}}と名づくるを{{r|賜|たま}}へり、{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}と名づくるは{{r|聖神|せいしん}}の{{r|為|ため}}に{{r|領有|りょうゆう}}せられたるによる、{{r|王|おう}}の{{r|女|むすめ}}と名づくるは{{r|父|ちゝ}}より光の子たることをうけたるによる、{{r|又|また}}{{r|皇后|こうごう}}と名づくるは{{r|独生|どくせい}}{{r|者|しゃ}}の{{r|光栄|こうえい}}の{{r|神性|しんせい}}と{{r|配合|はいごう}}せしによるなり。|[p.431]}} [p.431] ですから、たとえほんの短い間であっても、私たちもキリストにおける一貫した正しい生き方に近づくにふさわしい者と認められるよう、祈り求めましょう。そのような魂は、「顔の恥」(詩篇44篇16節)を捨て、もはや不純な思いにとらわれることもなく、もはや悪魔と姦淫を犯すこともなく、疑いなく天の花婿との交わりに入ります。なぜなら、その魂自体が一貫した生き方をしているからです。主への愛によって傷つき、「切望し、そして尽き果てた」(詩篇84篇1節)のです。あえて言えば、聖なる交わりの朽ちることのない絆を通して、主との美しく神秘的な結びつきを切望しているのです。そのような魂は、真に祝福され、幸福です。霊的な愛に打ち勝った魂は、神の言葉にふさわしく婚約しているのです。それゆえ、彼女は大胆に語り、こう言うであろう。「わが魂は主にあって喜びます。主はわたしに救いの衣と喜びの衣を着せ、花婿のようにわたしに冠を授け、花嫁のようにわたしを美しく飾ってくださいました」(イザヤ書61章10節)。王は彼女の美しさを望み(詩篇44篇12節)、彼女を神の神殿だけでなく、王女、王妃とも呼ぶにふさわしい者とみなした。神の神殿とは、聖霊によって養子とされた者であり、王女とは、光の父から養子とされた者であり、王妃とは、独り子の栄光の神性と結びついた者なのである。 [p.432] {{Quotation|けだし本性に{{r|於|おい}}て{{r|一|いつ}}たる主は、いかんして人間の{{r|救|すくい}}の摂理の為に多くの名を{{r|比喩|ひゆ}}{{r|的|てき}}に{{r|己|おのれ}}にうけしか。{{r|何故|なにゆえ}}{{r|甲処|こうしょ}}には{{r|石|いし}}〔{{二重線|コリンフ}}前十の四〕及び門〔<u>イオアン</u>十の七〕と名づけ、{{r|他|た}}{{r|処|しょ}}には{{r|斧|おの}}〔<u>ルカ</u>十五の一〕及び{{r|餅|ぱん}}と名づけしか〔同六の三十五〕。{{r|石|いし}}と名づけしは{{r|其|その}}{{r|勢力|せいりょく}}の動かすべからざると近づくべからざるとによる、{{r|門|もん}}と名づけしは彼によりて{{r|永世|えいせい}}に{{r|入|い}}るによる、{{r|斧|おの}}とは彼は{{r|悪習|あくしゅう}}の{{r|根|ね}}を{{r|絶|た}}つによる、{{r|路|みち}}とは適当なる者を真実を{{r|識|し}}るにみちびくによる、{{r|葡|ぶ}}{{r|萄|どう}}の{{r|幹|みき}}とは{{r|人心|じんしん}}をたのしましむる{{r|酒|さけ}}が彼によりて{{r|産|さん}}せらるゝによる、また{{r|餅|ぱん}}とは{{r|有言|ゆうげん}}なる{{r|造物|ぞうぶつ}}の{{r|心|こゝろ}}を{{r|堅|かた}}むるによるなり。しかれどもこれと同じく{{r|神|かみ}}{{r|言|ことば}}の為に領有せられたる非難すべからざる{{r|霊魂|たましい}}も、{{r|固|もと}}より{{r|単純|たんじゅん}}なるものなれど、{{r|神的|しんてき}}{{r|道徳|どうとく}}に多くの進歩をなすにしたがひて、{{r|賜|たまもの}}をうけん。我が{{r|此事|このこと}}をいふは{{r|新|しん}}{{r|婦|ぷ}}の名称も{{r|勿論|もちろん}}たゞ{{r|三|みつ}}のみにあらずして、{{r|更|さら}}に{{r|多|おほ}}かるべきによるなり。 ゆゑに{{r|神|かみ}}の{{r|聖所|せいしょ}}に{{r|入|い}}りて、『我等が{{r|年少|ねんしょう}}を{{r|楽|たのし}}ましむる{{r|神|かみ}}に』〔[[第六「カフィズマ」#42:4|聖詠四十二の四]]、{{r|希臘|ギリシャ}}訳文〕{{r|就|つ}}かざらん{{r|間|あいだ}}は、{{r|此|こ}}の{{r|労|ろう}}は我等の面前にあるを知るべし、けだし我等なほ肉体にあるも、{{r|主|しゅ}}の{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}を、たまはり、{{r|成聖|せいせい}}を{{r|遂|と}}げんことは、救世主の{{r|悦|よろこ}}ぶ所にして、{{r|其時|そのとき}}には、{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如くいふを{{r|得|え}}ん、曰く『我等は肉に在りて{{r|行|おこな}}へども、肉に{{r|循|したが}}ひて{{r|戦|たゝか}}はず、我等が{{r|戦|たゝかい}}の{{r|器|うつわ}}は肉に属せず、{{r|乃|すなわち}}{{r|神|かみ}}に{{r|由|よ}}りて{{r|塁|とりで}}を{{r|破|やぶ}}る{{r|能|ちから}}あり、我等{{r|此|これ}}を以て{{r|諸|もろもろ}}の{{r|謀|はかりごと}}と{{r|凡|およ}}そ{{r|神|かみ}}の知識に{{r|逆|さか}}ふ高慢とを破る』〔{{二重線|コリンフ}}後十の三至五〕。|[p.432]}} [p.432] 本質において唯一の主が、人類の救済という摂理のために、いかにして比喩的な意味で多くの名前を身にまとわれたことだろうか。なぜイエスは、ある箇所では岩(コリント第一 10章4節)や戸口(ヨハネ 10章7節)と呼ばれ、別の箇所では斧(ルカ 3章9節)や道(ヨハネ 14章6節)と呼ばれ、またぶどうの木やパン(ヨハネ 6章35節)とも呼ばれるのでしょうか。―岩と呼ばれるのは、イエスの力の揺るぎなさと近づきがたい性質によるものです。―戸口と呼ばれるのは、イエスを通して永遠の命に入ることができるからです。―斧と呼ばれるのは、イエスが悪の根源を断ち切るからです。―道と呼ばれるのは、イエスがふさわしい者を真理の知識へと導くからです。―ぶどうの木と呼ばれるのは、イエスが人の心を喜ばせる実り豊かなぶどう酒を実らせるからです。そして同様に、パンと呼ばれるのは、イエスが理性を持つ被造物の心を強くするからです。同様に、神の言葉に似た、それ自体は単純でありながら、多くの霊的な徳を積むことによって、罪のない魂もまた賜物を受けるに値するとみなされるのです。私がこのように述べたのは、花嫁の称号は三つだけでなく、多くの称号を持つからです。 そして、この労苦は、私たちが神の聖所に入るまで、すなわち「私たちの若さを喜ばれる神のもとへ」(詩篇43章4節)に入るまで、私たちの前に立ちはだかっていることを知っておきなさい。救い主は、私たちがまだ肉体の中にいる間に、主の無情にふさわしく、聖さに満たされることを喜ばれるからです。そして、その時、私たちは大胆にこう言うことができます。「私たちは肉体の中にいる間は、肉に従って戦いません。私たちの戦いの武器は肉的なものではなく、神によって力強く、滅びに強く、あらゆる考えや、神の知識に逆らって高ぶるあらゆる高慢なものを打ち砕くからです」(コリント第二10章3-5節)。 [p.433] {{Quotation|故に{{r|尚|なほ}}{{r|此処|こゝ}}に{{r|於|おい}}ても我等は罪なる{{r|慾|よく}}を十字架に{{r|釘|くぎ}}すること、預言者の{{r|祈祷|きとう}}の如くすべし、曰く『我が肉体を{{r|爾|なんぢ}}を{{r|畏|おそ}}るゝの{{r|畏|おそ}}れに{{r|釘|くぎ}}す』〔[[第十七「カフィズマ」#118:120|聖詠百十八の百二十]]〕。けだし{{r|使徒|しと}}のいはゆる『神の国を{{r|嗣|つ}}ぐあたはざる』〔{{二重線|コリンフ}}前十五の五十〕肉と血とは、{{r|此|こ}}の{{r|見|み}}ゆる{{r|体|からだ}}をいふにあらずして、〔彼は{{r|神|かみ}}の造る所なり〕{{傍点|style=open circle|{{r|悖逆|はいぎゃく}}の子}}〔{{二重線|エフェス}}二の二〕の{{r|中|うち}}に行為する凶悪の{{r|神|しん}}によりて{{r|起|おこ}}さるゝ肉体の{{r|念慮|ねんりょ}}を指す、何となれば<u>ハリストス</u>に{{r|於|お}}ける完全なる苦行者のために『{{r|戦|たゝかい}}は{{r|血肉|けつにく}}に{{r|於|おい}}てするに非ず、{{r|此|こ}}の{{r|暗昧|あんまい}}の{{r|世|せ}}{{r|君|くん}}に{{r|於|おい}}てし、凶悪の{{r|諸神|しょしん}}に{{r|於|おい}}てすればなり』〔{{二重線|エフェス}}六の十二〕。 故にもし{{r|此|こ}}の行為は天性自然の行為にあらずして、反対なる{{r|力|ちから}}の行為なるを{{r|認|みと}}むるならば、彼等に対して<u>ハリストス</u>の{{r|全|まつた}}き{{r|軍|ぐん}}{{r|備|び}}をおのれにうけ、『{{r|其|そ}}の{{r|奸計|はかりごと}}を{{r|禦|ふせ}}ぐを{{r|得|う}}べし』〔{{二重線|エフェス}}六の十一〕何となれば救世主は『{{r|蛇|だ}}{{r|蝎|かつ}}及び{{r|悉|ことごと}}くの{{r|敵|てき}}の{{r|力|ちから}}を{{r|踏|ふ}}む』の{{r|権|けん}}を我等に{{r|賜|たま}}ふによる〔<u>ルカ</u>十一の十九〕。{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}{{r|尚|なほ}}{{r|肉体|にくたい}}に{{r|居|を}}るも{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如く{{r|言|い}}ふを{{r|得|え}}んが為なり、曰く『もしわが心に不法のあるを{{r|見|み}}しならば主はわれに{{r|聴|き}}かざらん』〔[[第九「カフィズマ」#65:18|聖詠六十五の十八]]〕また曰く『{{r|我|われ}}{{r|尤|とが}}なしといへども、彼等は{{r|趨|は}}せ{{r|集|あつ}}まりて{{r|武具|ぶぐ}}をそなふ』〔同上五十八の五〕と、これ{{r|言|いふ}}{{r|意|こゝろ}}は我等は{{r|志|こゝろざ}}す所に進行し、{{r|即|すなわち}}{{r|上|うえ}}より{{r|召|め}}す所の{{r|褒章|ほうしょう}}に{{r|進向|しんこう}}しつゝ、如何なる肉体の慾もあるなうして、天に生涯を送ること{{r|易|やす}}からん。けだし{{r|諸|もろもろ}}の慾に遠ざかりて{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如く{{r|言|い}}ふことを{{r|得|う}}ればなり、曰くたゞに{{傍点|style=open circle|信を守る}}のみならず、{{傍点|style=open circle|{{r|馳|は}}すべき程を尽せり}}〔<u>テモフェイ</u>後四の七〕。|[p.433]}} [p.433] ですから、私たちはここでもなお、預言者の祈りに従って、罪深い情欲を十字架に釘付けにしなければなりません。「あなたへの畏れをもって、私の肉体を釘付けにしてください」(詩篇119篇120節)。使徒が「彼らは神の国を受け継ぐことができない」(コリント第一 15章50節)と言っている肉と血とは、この目に見える体(それは神によって創造されたもの)のことではなく、悪霊によって起こされ、「不従順な者たちのうちに働く」(エフェソ 2章2節)肉の知恵のことである。なぜなら、キリストにおいて完成された禁欲主義者は「肉と血と戦うのではなく、この世の闇の支配者、悪霊と戦う」(エフェソ 6章12節)からである。 したがって、この行為が自然なものではなく、敵対勢力の行為であると認めるならば、キリストの完全な武具を身に着けて敵対勢力に対抗すれば、「彼らの策略に立ち向かう」ことができるでしょう(エフェソ6章11節)。なぜなら、救い主は私たちに「蛇やサソリを踏みつけ、敵対者のあらゆる力に打ち勝つ」力を与えてくださるからです(ルカ10章19節)。そのため、肉体の中にいる間も、「もし私の心に不義を見たなら、主は私の祈りを聞いてくださらないでしょう」(詩篇66篇18節)と大胆に言うことができ、「私は不義なく走り、物事を正しました」(詩篇59篇5節)と言え、つまり、肉欲に駆られることなく、天国での生活を快適に過ごし、「高き召しの賞」(フィリピ3章14節)を目指して努力することができるのです。なぜなら、私たちはあらゆる情欲から遠ざかっているので、「信仰を守り通した」だけでなく、「走るべき道のりを走り終えた」と大胆に言うことができるからです(テモテ第二 4章7節)。 [p.434] {{Quotation|たゞ<u>ハリストス</u>を信ずるのみならず、彼と共に{{r|苦|くるしみ}}をうくることも{{r|肝要|かんよう}}なり、{{r|録|ろく}}していへる如し、『{{r|汝|なんぢ}}{{r|等|ら}}に{{r|賜|たま}}はりしはたゞ彼を信ずるのみならず、{{r|亦|また}}彼の為に{{r|苦|くるしみ}}をうくることなり』〔{{二重線|フィリッピ}}一の二十九〕。たゞ{{r|神|かみ}}を信ずるのみは地上の事を{{r|念|おも}}ふ{{r|者|もの}}に相応するのみならず、不潔の{{r|神|しん}}にさへ相応するは我が{{r|言|ことば}}を{{r|俟|ま}}たざるべし、いへらく『{{r|我|われ}}{{r|爾|なんぢ}}が{{r|誰|たれ}}なるを{{r|知|し}}る、{{r|乃|すなわ}}ち神の子なり』〔<u>マルコ</u>一の二十四、<u>マトフェイ</u>八の二十九〕。『けだし彼も{{r|此|これ}}も<u>ハリストス</u>の十字架の敵なり、彼等が{{r|終|おわり}}は{{r|滅亡|めつぼう}}なり、彼等が{{r|神|かみ}}は{{r|腹|はら}}なり、彼等が{{r|栄|えい}}とする所は{{r|辱|はぢ}}なり、彼等は地上の事を{{r|念|おも}}ふ』〔{{二重線|フィリッピ}}三の十八、十九〕と見るか十字架の敵はたゞ背教者の{{r|力|ちから}}のみにあらず、地上の事を{{r|念|おも}}ふ者も{{r|亦|また}}{{r|然|しか}}るを。しかれども<u>ハリストス</u>と共に{{r|苦|くるし}}みをうけて共に{{r|栄|えい}}せらるゝことはたゞ{{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|於|おい}}て{{r|己|おのれ}}を十字架に{{r|釘|くぎ}}して主の{{r|疵|きず}}を{{r|己|おのれ}}の{{r|体|からだ}}に{{r|負|お}}ふ{{r|者|もの}}のみ{{r|能|よく}}し{{r|得|う}}るなり。|[p.434]}} [p.434] 人はキリストを信じるだけでなく、キリストと共に苦しまなければなりません。聖書にこう書いてあるとおりです。「あなたがたには、キリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことも許されているのです」(フィリピ1章29節)。神だけを信じるというのは、地上のことばかり考える人、あるいは汚れた霊のような人たちの特徴です。彼らは「私たちはあなたが誰であるかを知っています。あなたは神の子です」(マルコ1章24節、マタイ8章29節)と言います。前者も後者も「キリストの十字架の敵であり、その最後は滅びです。彼らの神は腹であり、彼らの栄光は恥辱の中にあります。彼らは地上的な考え方をする者です」 (フィリピ3章18、19節)。背教者だけでなく、地上のことばかり考える人たちも十字架の敵であることがお分かりでしょうか。この世で自らを十字架につけ、主の傷を身に負う者だけが、キリストと共に苦しみ、キリストと共に栄光を受けることができるのです。 [p.435] {{Quotation|哲学を正しく{{r|攻究|こうきゅう}}して、{{r|霊魂|たましい}}を悪の{{r|汚穢|けがれ}}より{{r|救|すく}}ふ者は、哲学の目的を{{r|精確|せいかく}}に知らんこと{{r|肝要|かんよう}}なり、進行の{{r|労|ろう}}と{{r|経|けい}}{{r|過|か}}の{{r|終|おわり}}とを{{r|確|かく}}{{r|知|ち}}して、{{r|高慢|こうまん}}と{{r|功労|こうろう}}のことを{{r|思|おも}}ふ{{r|意思|いし}}とを{{r|全|まつた}}く{{r|斥|しりぞ}}け、聖書の{{r|誡命|かいめい}}にしたがひ、{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|たましい}}と{{r|生命|いのち}}をすてゝ{{r|一|いつ}}の{{r|富|とみ}}に{{r|注目|ちゅうもく}}せん{{r|為|ため}}なり、{{r|即|すなわち}}{{r|神|かみ}}が{{r|凡|およ}}そ{{r|甘|あま}}んじて{{r|苦|く}}{{r|行|ぎょう}}を{{r|自|みづ}}から{{r|任|にな}}はんと決心したる者を呼びて、{{r|其|その}}愛する所の者に<u>ハリストス</u>を愛したる{{r|為|ため}}の{{r|報償|ほうしょう}}として定め給ひしものに注目せん{{r|為|ため}}なり、{{r|此|かく}}の如き苦行の経過に{{r|於|おい}}て彼等に{{r|充分|じゅうぶん}}の{{r|路|ろ}}{{r|用|よう}}を{{r|給|きゅう}}するは<u>ハリストス</u>の十字架なり、されば彼等は{{r|此|これ}}を{{r|負|お}}ふて、{{r|楽|たのし}}みと{{r|善|ぜん}}なる{{r|希|き}}{{r|望|ぼう}}とを以て救世主<u>ハリストス</u>の{{r|跡|あと}}にしたがひ、{{r|其|その}}摂理を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|生命|いのち}}の{{r|法|ほう}}となし、{{r|路|みち}}となさんこと肝要なり、使徒の{{r|自|みづ}}から{{r|言|い}}へる如し、曰く『{{r|爾|なんぢ}}{{r|等|ら}}我に{{r|效|なら}}ふ者となれ、我が<u>ハリストス</u>に{{r|效|なら}}ふが{{r|如|ごと}}し』〔{{二重線|コリンフ}}十一の一〕又いふ『忍耐を以て我等の前にある{{r|馳|はせ}}{{r|場|ば}}を{{r|趨|はし}}りて、我等の{{r|信|しん}}の{{r|首|かしら}}及び{{r|成全|せいぜん}}{{r|者|しゃ}}なる<u>イイスス</u>を{{r|仰|あお}}ぎ{{r|望|のぞ}}むばし、彼は{{r|其|その}}{{r|前|まえ}}に{{r|在|あ}}る{{r|喜|よろこび}}に{{r|易|か}}へて{{r|辱|はぢ}}を{{r|意|い}}とせず、十字架を忍びて{{r|神|かみ}}の{{r|宝|ほう}}{{r|座|ざ}}の右に{{r|坐|ざ}}せり』〔{{二重線|エウレイ}}十二の一、二〕。 われらは{{r|神|かみ}}の{{r|賜|たまもの}}を以て{{r|自|みづ}}から{{r|高|たか}}ぶり、道徳に進むの{{r|或|あ}}る進歩を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|高慢|こうまん}}と{{r|称賛|しょうさん}}の{{r|為|ため}}の{{r|縁|えん}}{{r|由|ゆ}}となして、望む所の{{r|終|おわ}}りに{{r|達|たつ}}せざる{{r|先|さき}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|志|こゝろざし}}の{{r|撓|たわ}}まざらんが{{r|為|ため}}、{{r|高慢|こうまん}}により先になせる勤労を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に無益となさゞらんが{{r|為|ため}}、及び{{r|神|しん}}の{{r|恩寵|おんちょう}}の我等を{{r|引誘|いんゆう}}する{{r|成全|せいぜん}}に{{r|堪|た}}へざるものとならざらんが{{r|為|ため}}に{{r|戦々|せんせん}}{{r|競々|きょうきょう}}たらざるべからざるなり。|[p.435]}} [p.435] 哲学を正しく愛することを学び、悪徳の汚れから魂を解放した人々は、哲学を愛することの目的を正確に知っていなければなりません。旅の苦労と道のりの終わりを学んだ後、彼らはすべての傲慢と功績の考えを捨て、聖書の戒めに従って、魂と命を捨て、キリストを愛する者たちへの報いとして神が定めた一つの富を心に留め、喜んで闘いに挑むことを決めたすべての人をそれに招き入れます。そして、そのような闘いの通過のために、キリストの十字架は十分な別れの贈り物です。彼らはそれを背負い、救い主である神の足跡に従い、使徒自身が言ったように、「わたしがキリストに倣っているように、あなたがたもわたしに倣いなさい」 (コリント第一 11章節1)というように、神の摂理を自分たちの律法と生き方としなければなりません。また、「信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめながら、私たちの前に置かれている戦いに向かって忍耐をもって走り続けましょう。イエスは、ご自身の前に置かれた喜びのために、恥辱を気にせず十字架を耐え忍び、 神の御座の右に座られました」 (ヘブライ12章1-2節)。 私たちは、聖霊の賜物によって高められ、徳における進歩を傲慢と自慢の言い訳にしてしまい、望む終着点に到達する前に努力を怠り、それまでの努力を無益なものにしてしまい、聖霊の恵みによって導かれた完全さにふさわしくない者となってしまうことのないよう、注意しなければなりません。 [p.436] {{Quotation|故に勤労に{{r|於|おけ}}るの{{r|尽力|じんりょく}}を決して{{r|弱|よわ}}むべからず、{{r|眼前|がんぜん}}にある所の苦行を{{r|辞|じ}}するべからず、もし先に何か遂げし所あらんには、それを以て熱心を{{r|劃|かぎ}}るべからず、{{r|乃|すなわち}}{{r|使徒|しと}}の如く{{傍点|style=open circle|後}}を忘れて{{傍点|style=open circle|前}}に進み〔{{二重線|フィリッピ}}三の十三〕、{{r|成全|せいぜん}}を{{r|求|もと}}むる者が{{r|飽|あ}}くを知らずして{{r|独|ひと}}り{{r|飢|き}}{{r|渇|かつ}}する所の義の{{r|願|ねがい}}を{{r|有|ゆう}}し、勤労の為に{{r|慮|おもんぱか}}りて心肝を{{r|摧|くだ}}かんこと{{r|肝要|かんよう}}なり。彼等は{{r|許約|きょやく}}せられたる幸福を{{r|距|さ}}ること{{r|猶|なほ}}遠くして、<u>ハリストス</u>の完全なる愛に多く{{r|達|たつ}}せざる者なるにより、{{r|謙遜|けんそん}}なる者となり、恐れに満てる者とならざるべからず。けだし{{r|此|この}}{{r|愛|あい}}を{{r|切願|せつがん}}して、天の約束を{{r|仰望|ぎょうぼう}}する者は、{{r|禁食|きんしょく}}するか、{{r|儆醒|けいせい}}するか、{{r|或|あるい}}は他のいかなる{{r|徳行|とくこう}}に熱心するも、以前の功労を以て{{r|自|みづか}}ら{{r|高|たか}}ぶらざるべく、{{r|却|かへつ}}て神聖なる{{r|望|のぞみ}}にみたさるゝ彼は{{r|己|おのれ}}を呼ぶ所の者に{{r|間断|かんだん}}なく{{r|眼|め}}を{{r|注|そゝ}}ぎて、いくばく{{r|奮闘|ふんとう}}するも{{r|其|その}}{{r|志|こゝろざ}}す所のものに{{r|比|くら}}ぶれば{{r|全|まつた}}く小なりと{{r|思|おも}}ふべし。されば{{r|其|その}}{{r|行|おこない}}により{{r|己|おのれ}}を{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に尊敬すべき者とあらはさゞらん{{r|間|あいだ}}は、{{r|労|ろう}}に{{r|労|ろう}}を{{r|加|くは}}へ、{{r|徳行|とくこう}}に{{r|徳行|とくこう}}を{{r|重|かさ}}ぬるも、{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に適当なる者となれりとの{{r|意思|いし}}を心に{{r|懐|いだ}}かずして、{{r|此|こ}}の{{r|生命|いのち}}の{{r|終|おわり}}に{{r|至|いた}}るまで{{r|悉|ことごと}}くの{{r|尽力|じんりょく}}を{{r|用|もち}}ひん。けだし{{r|行|おこない}}に{{r|於|おい}}て{{r|大|おほい}}なる者は{{r|神|かみ}}を{{r|畏|おそ}}るゝを{{r|以|もつ}}て{{r|自負|じふ}}を{{r|地|ち}}に{{r|擲|なげう}}ちて、心を謙遜し、生活の為に{{r|己|おのれ}}を{{r|罪|つみ}}し、信じて愛するの{{r|度|ど}}により{{r|許約|きょやく}}を{{r|楽|たのし}}みて、{{r|自|みづ}}から{{r|労|ろう}}するの{{r|如何|いかん}}を{{r|以|もつ}}てせざるは、これぞ{{r|哲学|てつがく}}の{{r|最|もつとも}}{{r|卓越|たくえつ}}せる{{r|功労|こうろう}}なる。けだし{{r|賜|たまもの}}は{{r|大|おほい}}なるにより、これに{{r|相応|そうおう}}する{{r|勤労|きんろう}}を{{r|見|み}}{{r|出|いだ}}すことあたはざればなり。|[p.436]}} [p.436] ですから、私たちは決して努力を怠ってはならず、これから待ち受ける苦闘を放棄してはならず、既に達成したことにのみ熱意を限定してはなりません。しかし、使徒によれば、「過去のことは忘れ」、「未来のことに向かって身を伸ばし」(フィリピ3章13節)、努力に対する思いを胸に抱き、完全さを目指す者だけが切望し渇望すべき義への飽くなき渇望を持ち続けなければなりません。彼らは、約束された祝福からまだ遠く離れており、キリストの完全な愛には程遠いので、謙遜になり、畏れを抱かなければなりません。なぜなら、この愛を望み、天の約束を見つめる者は、断食をしたり、徹夜したり、他の徳を積んだりしても、過去の功績によって自分を高めることはなく、神への切なる願いに満たされ、自分を召してくださる方に絶えず目を向け、どんなに努力しても、自分が目指すものに比べれば、すべてを小さなものと考えるからです。彼は生涯の終わりまで、あらゆる努力を尽くし、労苦に労苦を重ね、徳に徳を重ね、自分の行いによって神の前に立派な者として現れるまで努力しますが、自分が神の前にふさわしい者になったとは決して考えません。知恵を愛する者の最も優れた功績は、行いに優れた者が心を低くし、自らの生き方を悔い改め、神への畏れをもって傲慢さを打ち砕き、信じて愛した度合いに応じて約束を享受し、働いた度合いに応じて享受しないことである。賜物は大きいので、それに見合う働きを見出すことは不可能である。 [p.437] {{Quotation|さりながら{{r|信|しん}}と{{r|望|ぼう}}とは{{r|大|おほい}}ならざるべからずして、これを{{r|以|もつ}}て報酬を測るべく、勤労を以てすべからざるなり。{{r|然|しか}}して{{r|信|しん}}の{{r|根本|こんぽん}}は{{r|心神|しんしん}}の{{r|貧|まづ}}しきと{{r|神|かみ}}に対する{{r|無|む}}{{r|量|りょう}}の{{r|愛|あい}}とにあり。 希望の目的に応じ、哲学によりて、生活せんと決心したる者の{{r|為|ため}}に{{r|余|よ}}は{{r|充分|じゅうぶん}}にのべたりと{{r|思|おも}}ふ。{{r|今|いま}}{{r|又|また}}これに{{r|加|くは}}ふるにかくの如き者はいかに{{r|互|たがい}}に{{r|交際|こうさい}}して{{r|如何|いか}}なる{{r|労|ろう}}を{{r|愛|あい}}するを{{r|要|よう}}するかを示すべし、{{r|天|てん}}{{r|都|と}}に{{r|達|たつ}}するに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}{{r|其|その}}進行を協力して{{r|成|な}}さん{{r|為|ため}}なり。 {{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|於|おい}}て尊敬すべきと認めらるゝものを{{r|断|だん}}じて{{r|尊|たつと}}ばず、{{r|親族|しんぞく}}を{{r|棄|す}}て、もろ{{く}}{{r|地下|ちか}}の{{r|栄|さかえ}}を{{r|棄|す}}てゝたゞ{{r|天上|てんじょう}}の{{r|尊栄|そんえい}}に{{r|着眼|ちゃくがん}}し、{{r|神|かみ}}による{{r|兄弟|けいてい}}と{{r|心神|しんしん}}にて{{r|結合|けつごう}}する{{r|者|もの}}は、{{r|世|よ}}と{{r|共|とも}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|たましい}}をも{{r|棄|す}}つること{{r|肝要|かんよう}}なり。{{r|霊魂|たましい}}を{{r|棄|す}}つとは{{r|何|なに}}に{{r|於|おい}}ても{{r|己|おのれ}}の{{r|旨|むね}}を求めずして、{{r|反|かへ}}つて{{r|己|おのれ}}の{{r|旨|むね}}を{{r|矯正|きょうせい}}し、{{r|院長|いんちょう}}を以て己の為に{{r|神|かみ}}の{{r|言|ことば}}となして、これを{{r|益用|えきよう}}すること、{{r|善良|ぜんりょう}}なる{{r|舵師|だし}}の如くし、{{r|兄弟|けいてい}}{{r|社会|しゃかい}}のすべてを{{r|挙|あ}}げて、{{r|同心|どうしん}}{{r|協力|きょうりょく}}して、{{r|神|かみ}}の{{r|旨|むね}}の{{r|湊|みなと}}に{{r|向|むか}}はしむるにあり。|[p.437]}} [p.437] しかし、信仰と希望は大きくなければならない。それによって報いが測られ、働きによって測られるのではない。信仰の土台は、霊的な貧しさと神への計り知れない愛である。 希望の目標に従って、知恵に満ちた人生を送ろうと決意した人々については、すでに十分なことが述べられたと思います。今、私たちは、そのような人々が互いにどのように接し、どのような働きを愛すべきか、そして共に歩みを進めて天の都に到達できるようにすべきことについて、付け加えなければなりません。 この世で尊ばれるとされるものを断固として軽んじ、家族を捨て、地上の栄光を全て捨て去る者であっても、天上の栄誉を心に抱き、神において兄弟たちと霊的に結びついている者は、この世と共に自らの魂をも捨て去らなければならない。魂の放棄とは、何事においても自らの意志を求めず、むしろ自らの意志を正し、神の言葉を自らの長とし、それを良き舵取り役として、兄弟たち全体を神の意志という港へと一斉に導くことにある。 【以下未入力(p.438-457)】 {{DEFAULTSORT:えしふとまかりいせんしよ しよかん2}} <!-- [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:埃及マカリイ全書|52]]--> {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- --> qdich8qo8jv89q8dfehnxc3o0u8h3op 埃及マカリイ全書/書簡 0 51263 243142 231256 2026-06-12T17:01:36Z 村田ラジオ 14210 現代語訳を加筆。 243142 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|wikisource:宗教|埃及マカリイ全書|hide=1}} {{header |title=埃及マカリイ全書 |section=克肖なる我等が父埃及マカリイの書翰 |previous=[[埃及マカリイ全書/第五十講話|第五十講話]] |next=[[埃及マカリイ全書/第一説教|第一説教]] |year= |author= |override_author = |override_translator = 堀江 {{r|復|ふく}} ( -1914) |notes= {{Textquality|25%}} *ウィキソースによる現代語訳 }} ==エジプトマカリオスの大書簡== {{Quotation|完全にして聖にせられたる人の為に{{r|要用|ようよう}}なるはたゞ{{r|自|みづ}}から{{r|神|かみ}}に{{r|居|を}}らんことのみならず、神も彼に{{r|居|を}}らんことなるは、{{r|汝|なんぢ}}が善智の{{r|明|あきらか}}に知る所なるべし、主のいひ給ふごとし、{{r|曰|いは}}く『我に{{r|居|を}}り、我も彼に{{r|居|を}}る』〔<u>イオアン</u>十五の五〕。されば神の人は神聖なる{{r|幕屋|まくや}}に居り、此の幕屋を至浄なる神性の聖なる山に建てざるべからず、これ暗黒なる{{r|情慾|じょうよく}}の{{r|力|ちから}}の占領するをゆるさゞる者の光栄を{{r|暁|さと}}るのみならず、{{r|其|その}}{{r|擁|よう}}する所とならんためなり。けだし適当なる者には{{r|其|その}}{{r|成聖|せいせい}}とその彼等に属する{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}との為に救世主は住み給ふ、これ主の{{r|自|みづ}}から{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}なる如く主をうけたる{{r|者|もの}}{{r|等|ら}}をも無慾なる者となして如何なる風にも{{r|最早|もはや}}{{r|動乱|どうらん}}{{r|漂漾|ひょうよう}}せられざる者となさん為なり。 しかれども{{r|或者|あるもの}}は{{r|自|みづ}}から<u>ハリストス</u>の{{r|機|き}}{{r|密|みつ}}に遠ざかるのみならず、『{{r|濁|にご}}れる{{r|敗壊|はいかい}}を以て{{r|其|その}}{{r|親友|しんゆう}}を{{r|誘|いざな}}ひ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-hab/2:8-17 <u>アバクム</u>二の十五]〕『神を{{r|識|し}}るべきものゝ彼等に{{r|明|あきらか}}にあらはるる』にも{{r|拘|かか}}はらず、神の真理を不義の{{r|中|うち}}に隠さんとす。けだし『{{r|其|その}}{{r|思念|おもひ}}は{{r|虚|むな}}しくなり』{{r|其|その}}{{r|無智|むち}}の心は{{r|昧|くら}}みしにより〔{{二重線|ロマ}}一の十八至二十一〕。彼等は説を{{r|為|な}}していへり、{{r|恥|は}}づべき{{r|情慾|じょうよく}}は天性自然にして神より我等に付与せられたるものなりと、{{r|是|こ}}れ{{r|即|すなはち}}{{r|敗壊|はいかい}}の{{r|楽|たのし}}み、不正なる{{r|忿怒|いきどほり}}、神の為に発するに{{r|非|あら}}ざる不適当なる{{r|怒|いかり}}、及び{{r|凡|およ}}そ{{r|此|これ}}に類するものをいふなり。|[p.425]}} 《現代語訳》 [p.425] 完全で聖なる人となるためには、彼自身が神の内にいるだけでなく、神が彼の内にいることも必要であることを知りなさい。主はこう言われる。「彼が私の内にいれば、私も彼の内にいる」(ヨハネ15章5節)。神の人間は、神の幕屋に住み、この幕屋を最も純粋な神性の聖なる山に建てなければなりません。それは、情欲の暗い力が彼を支配することを許さない方の栄光を受け入れるだけでなく、その栄光に抱かれるためです。救い主は、ふさわしい人々の中に、聖性と生来の無執着のために住まわれるからです。それは、救い主がご自身が無執着であるように、彼を受け入れた人々をも無執着にし、もはや嵐に巻き込まれず、どんな風にも吹き飛ばされない者とするためです。 また、ある人々はキリストの奥義から遠く離れているだけでなく、「わざわいなるかな、その隣り人に怒りの杯を飲ませて、これを酔わせ、 彼らの隠し所を見ようとする者よ。」(ハバクク書 2章15節)、神の真理を偽りの中に含み、「彼らの中には、神の知恵が明らかに示されている」と言われています。なぜなら、「思いがむなしく」なり、愚かな心によって暗くなった(ローマ 1章18–21節)ため、彼らは、腐敗の快楽、不当な短気、神によらない下品な怒りなど、恥ずべき情欲は神によって私たちに生まれつき備わっているものだと言うからです。 {{Quotation|ゆゑに彼等と{{r|其|そ}}の{{r|言|い}}ふ所とは真理に{{r|違|たが}}ふものとしてこれを{{r|棄|す}}て、我等を造りし者を以て我等にあたへられたる自由自主の主権を{{r|承認|うけみと}}めん、善きことに進むも{{r|悪|あし}}きことを{{r|止|や}}むるも我等に{{r|係|かか}}らんためなり。けだし真実なる審判者は、もし{{r|自|みづ}}から情慾の造物主ならば、これに占領せらるゝ我等を{{r|罰|ばつ}}せざるべし。祈る{{r|此|この}}{{r|教|をしへ}}に離れ遠ざかりて、これを{{r|思|おもひ}}にも{{r|生|しょう}}ぜしめざらんことを。けだし{{r|此|こ}}の{{r|蒙昧|もうまい}}にして{{r|愚|おろか}}なる意見は、{{r|凡|およそ}}の敬虔なる{{r|裁|さい}}{{r|智|ち}}の為に{{r|忌|い}}み{{r|嫌|きら}}ふべきものとす。神は清くして{{r|最|いと}}{{r|美|うつく}}しき天地万物の造成者なることは、世界創造の際に{{r|聖神|せいしん}}の{{r|告|つ}}げ{{r|給|たま}}ひし如し、けだしいへり、『神は{{r|其|その}}造りたる{{r|諸|もろもろ}}の物を見たまへるに{{r|甚|はなは}}だ{{r|善|よ}}かりき』〔創世記一の三十一〕。されば<u>イエレミヤ</u>は{{r|恥|は}}づべき情慾のために{{r|哀|かなし}}み、かつ{{r|惑|まど}}ふていへり、『主の命じ給ふにあらずば、誰か事を述べんに、その事すなはち成らんや、{{r|禍|わざわい}}も{{r|福|さいわい}}も{{r|至|し}}{{r|高者|こうしゃ}}の口より{{r|出|い}}づるにあらずや』〔<u>イエレミヤ</u>哀歌三の三十六‐三十八〕。故に{{r|福音|ふくいん}}{{r|経|きょう}}に聡明なる天軍は主に{{r|問|と}}ふていへり、『主よ{{r|爾|なんぢ}}は{{r|美|よき}}{{r|種|たね}}を{{r|爾|なんぢ}}の{{r|田|た}}に{{r|撒|ま}}きたるに{{r|非|あら}}ずや、{{r|然|しか}}らば何に由りて{{傍点|style=open circle|此の}}{{r|稗|ひえ}}あるか』〔<u>マトフェイ</u>十三の二十七〕。[p.427]また他の所に救世主は{{r|自|みづ}}から彼等の事をいへり、『{{r|凡|およ}}そ我が天の父の{{r|植|うゑ}}ざりし植物は{{r|其|その}}{{r|根|ね}}{{r|絶|たや}}されん』と〔<u>マトフェイ</u>十五の十三〕。しかれどもすべて神の{{r|植|う}}ゑしものゝ{{r|美|び}}なることは、<u>ハリストス</u>これをいひ、<u>パウェル</u>もこれを{{r|証|しょう}}せり、曰く『{{r|蓋|けだし}}神の{{r|悉|ことごと}}くの造物は善なり』〔<u>テモフェイ</u>前四の四〕。故に知るべし我等の{{r|中|うち}}にかくるゝ情慾は本来我等に属するに非ずして、他に属するものなるを。けだし{{r|言|い}}ふあり、『我が{{r|隠|ひそか}}なる{{r|咎|とが}}より我を{{r|浄|きよ}}め{{r|給|たま}}へ、{{r|故|こ}}{{r|犯|はん}}より{{r|爾|なんぢ}}の{{r|僕|ぼく}}を{{r|止|とゞ}}めよ』〔[[第三「カフィズマ」#18:13|聖詠十八の十三、十四]]〕、またいふあり、『外人は{{r|起|た}}ちて我を{{r|攻|せ}}め、強き者は我が{{r|霊|たましい}}を{{r|覓|もと}}む』〔[[第七「カフィズマ」#53:5|同上五十三の五]]〕。またいふあり、『主よ我と{{r|争|あらそ}}ふ者と{{r|争|あらそ}}ひ、我と{{r|戦|たゝか}}ふ者と{{r|戦|たゝか}}ひ給へ』〔[[第五「カフィズマ」#34:1|同上三十四の一]]〕。それ此の{{傍点|style=open circle|{{r|隠|ひそか}}なるもの}}{{r|或|あるい}}は此の{{傍点|style=open circle|争ふ者}}{{r|或|あるい}}は{{傍点|style=open circle|戦ふ者}}{{r|或|あるい}}は此の{{傍点|style=open circle|故犯}}とはこれ<u>ハリストス</u>の徳行に{{r|逆|さから}}ふ凶悪なる{{r|諸神|しょしん}}を示すにあらずして何ぞや。|[p.426]}} [p.426] したがって、彼らや彼らの言葉を真理から逸脱したものとして捨て去り、私たちを創造した方が私たちに与えてくださった自由の専制を認め、最善を目指し、最悪を避けるのは私たち次第であることを認めましょう。真の審判者ご自身が創造主であるならば、情欲にとりつかれた私たちを罰するはずがありません。お願いですから、この教えは捨て去り、頭に浮かばないようにしてください。この不合理で愚かな考えは、すべての敬虔な理解力にとって不快です。神は、創造の時に聖霊が告げたように、純粋で最も美しい自然の創造主です。「見よ、すべてが非常に良い」(創世記 1章31節)と神は言っています。エレミヤは、恥ずべき情欲について嘆き、困惑しながらこう言います。「主は『あなたのものは誰か』と言われたのではない。主が語られたから、そうなったのだ。主は『いと高き者の口からは悪は出ず、善は出る』と命じられたのではない。(哀歌エレミヤ3章36-38節)」。それゆえ、福音書の中で、知性ある者たちは主にこう問いかけます。「主よ、あなたは畑に良い種を蒔かれたではありませんか。では、これらの「毒麦」はどこから来るのでしょうか(マタイ13章27節)。別の箇所では、救い主ご自身がそれらについてこう言っています。「天の父が植えなかった庭は、みな根こそぎにされるであろう」(マタイ15章13節)。そして、神の植えたものはすべて美しいと、パウロはキリストが「神の造られたものはすべて良いものである」(テモテ第一4章4節)と言っているように、パウロもそのことを証言しています。ですから、私たちの中に秘められた情熱は私たち自身のものではなく、私たちとは無関係のものであることを知ってください。「わたしの隠れた罪を清め、あなたのしもべを異邦人の罪からお守りください」(詩篇19篇13-14節)、「異邦人がわたしに立ち向かい、力ある者たちがわたしの命を狙っています」(詩篇54篇5節)、「主よ、わたしを害する者を裁き、わたしと戦う者と戦ってください」(詩篇35篇1節)と書いてあるからです。では、この「隠れた」とは、あるいは「罪を犯す者」や「戦う者」、あるいは「異邦人」とは、キリストの徳に敵対する悪霊ではないとしたら、何を意味するのでしょうか。 {{Quotation|律法も内部の人の{{r|潔浄|けつじょう}}のことを公然と呼ぶを精密に吟味せよ。いふあり、『汝の主、神の名を{{r|妄|みだり}}に口にあぐべからず、けだし主は己の名を{{r|妄|みだ}}りに口にあぐる者の心を清めざるべし』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-deu/5:1-11 {{r|復傳|ふくでん}}{{r|律令|りつれい}}五の十一]〕。ゆゑに使徒も勧めて{{r|明|あきら}}かにいへり、『{{r|己|おのれ}}を{{r|凡|およそ}}の{{r|肉|にく}}と{{r|神|しん}}との{{r|汚|けがれ}}より{{r|潔|きよ}}くせよ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-2cor/7:1-5 {{二重線|コリンフ}}後七の一]〕。また他の処にもいふ『心は{{r|灑|そゝ}}がれて悪しき意念を去れ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-heb/10:16-22 {{二重線|エウレイ}}十の二十二]〕、又いふ『汝等の{{r|神|しん}}と{{r|霊|れい}}と{{r|体|たい}}とは{{r|全|まつと}}うし{{r|護|まも}}られて{{r|疵|きず}}なからん』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-1th/5:16-23 {{二重線|ソルン}}前五の二十三]〕、[p.428]又いふ『{{r|疵|きず}}なき神の子とならん為なり』〔{{二重線|フィリッピ}}二の十五〕。ゆゑに{{r|凡|すべ}}て子たる{{r|位地|いち}}を{{r|賜|たま}}はらんことを願ふ者は{{r|疵|きず}}なき{{r|体|からだ}}を有するのみならず、{{r|疵|きず}}なき{{r|霊|たましい}}をも有すること、{{r|左|さ}}の如くならざるべからず『{{r|願|ねがは}}くは我が心{{r|爾|なんぢ}}の{{r|律|おきて}}に{{r|玷|きず}}なからん、我が{{r|羞|はぢ}}を{{r|得|え}}ざらん為なり』〔[[第十七「カフィズマ」#118:80|聖詠百十八の八十]]〕。けだし律法の{{r|下|もと}}に居る者は、たゞ肉体の{{r|稱|しょう}}{{r|義|ぎ}}を遂げて、外部の{{r|潔浄|けつじょう}}を守れども、{{r|恩寵|おんちょう}}の{{r|下|もと}}に{{r|居|を}}る者は、{{r|成聖|せいせい}}により内部の平安を願ふて、{{r|左|さ}}の如くいひし者にしたがふなり、曰く、『もし汝等の義は学士お呼び<u>ファリセイ</u>等の義に{{r|勝|まさ}}らずば{{r|爾|なんぢ}}{{r|等|ら}}天国に入るを得ず』〔<u>マトフェイ</u>五の二十〕、何となれば<u>ファリセイ</u>等は智を{{r|盲|くら}}まして、{{傍点|style=open circle|杯と皿の外}}を{{r|潔|きよ}}むればなり〔<u>マトフェイ</u>二十三の二十五〕。今も彼等に似たる新<u>ファリセイ</u>は、未熟なる才智を以て外部の人を粉飾し、{{r|自|みづ}}から己を義とせんとす、しかれども{{r|聖神|せいしん}}は彼等の{{r|神|しん}}と共に彼等が神の子たるを{{r|証|しょう}}すること、使徒と共に{{r|証|しょう}}する如くせざるべし、言ふあり、『此の{{r|神|しん}}{{r|自|みづ}}から我等の{{r|神|しん}}と共に我等が神の子たるを{{r|証|しょう}}す』〔{{二重線|ロマ}}八の十六〕。彼等は内部の人の{{r|聖徳|せいとく}}に成長するを自己にあらはさんことを{{r|欲|ほつ}}せずして、たゞ肉体上の功労に信任し、『{{r|王|おう}}の{{r|女|ぢょ}}の光栄は皆内部にある』〔[[第六「カフィズマ」#44:14|聖詠四十四の十四]]〕を知らざるなり。我等各人は{{r|恰|あたか}}も心中の{{r|無花果|いちじく}}の如し、主の{{r|尋|たづ}}ぬるは内部の{{r|果|か}}にありて、{{r|枝|し}}{{r|葉|よう}}の{{r|飾|かざり}}にあるにあらざるなり〔<u>マトフェイ</u>二十一の十九〕。|[p.427-p.428]}} [p.427-p.428] 律法もまた、内なる人の清さをはっきりと求めていることを、より深く考えてみましょう。「主なるあなたの神の名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える心をきよめられないからである」(申命記 5章11節)とあります。それゆえ、使徒パウロもまた、はっきりとこう勧めています。「肉の汚れだけでなく、霊の汚れからも、あらゆる汚れから自分をきよめましょう」(コリント人への手紙二 7章1節 )。また別の箇所では、「心に汚れた良心を清め」(ヘブライ人への手紙 10章22節 )と言い、さらに「体と霊と魂を、完全に清く保ちなさい」(テサロニケ人への手紙一 5章23節)と言い、「あなたがたが、責められるところのない神の子となるためです」(ピリピ人への手紙 2章15節)とも言っています。したがって、養子縁組にふさわしくありたいと願う者は皆、非の打ちどころのない体だけでなく、非の打ちどころのない魂を持たなければなりません。それは、「あなたの戒めの中で、私の心が清くあって、私が恥じることのないようにしてください」(詩篇 119篇80節)と言われた方のようなものです。律法の下に生き、肉の義認だけを満たす人は外面的な清さを保ちますが、恵みの下に生きる人は、聖さにおける内面的な平和も望み、「あなたがたの義がパリサイ人や律法学者よりもまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入れません」(マタイ 5章20節)と言われた方に従います。パリサイ人は心が盲目であるため、「鏡の外側」をきよめるからです(マタイ 23章25節)。現代の新しいパリサイ人たちも、彼らと同様、未熟な心で外面を飾り、自らを正当化しますが、聖霊は、彼らが神の子であるという彼らの霊に従おうとはしません。使徒パウロはこう言っています。「"霊"みずからわたしたちの霊に従われます。わたしたちは神の子なのですから」(ローマ8章16節)彼らは、内なる人の聖さが成長していることを自ら示そうとせず、肉の功績だけに頼っています。「王の娘の栄光はすべて内にある」(詩篇45篇14節)ことを彼らは知りません。私たち一人ひとりは、いわば心のいちじくの木のようで、主はその葉の飾りではなく、内なる実を求めておられるのです(マタイ21章19節)。 [p.429] {{Quotation|故に{{r|恥|は}}づべき情慾を弁護して、天然自然なるものとし、{{r|偶然|ぐうぜん}}に人に{{r|入|い}}りしにあらずといふ者は、『{{r|神|かみ}}の真実を己の{{r|偽|いつわり}}に{{r|易|か}}ふるなり』〔{{二重線|ロマ}}一の二十五〕何となれば我が{{r|先|さき}}にいひし如く{{r|無|む}}{{r|玷|てん}}{{r|純潔|じゅんけつ}}なる者は{{r|其|その}}{{r|像|ぞう}}を{{r|己|おのれ}}に{{r|肖|に}}たるものとなしたりしが、『{{r|悪|あく}}{{r|鬼|き}}の{{r|猜|そね}}みにより死は世に{{r|入|い}}りたればなり』〔知恵書二の二十四〕。ゆゑに人間は不法によりて{{r|孕|はら}}まれ、罪に{{r|於|おい}}て{{r|生|うま}}れて、〔[[第七「カフィズマ」#50:7|聖詠五十の七]]〕{{r|母|ぼ}}{{r|腹|ふく}}より離れ遠ざかる者となり、{{r|母|ぼ}}{{r|胎|たい}}より{{r|迷|まよい}}に{{r|居|を}}りて、<u>アダム</u>より以後<u>ハリストス</u>の{{r|来|きた}}るに至るまで罪が王となりしにより神の{{r|羔|こひつじ}}は{{r|憐|あわれみ}}を{{r|垂|た}}れて{{r|来|きた}}り給へり、これ{{r|先|ま}}づ強き者を{{r|縛|ばく}}し、{{r|其後|そののち}}{{r|鹵|ろ}}{{r|獲|かく}}せられたる器物を{{r|奪|うば}}ひ{{r|回|かへ}}して、己の力を以て世の罪を取らん為なり、言ふあり『{{傍点|style=open circle|擄者を{{r|擄|とりこ}}にす}}』と、又いふ『{{r|献物|さゝげもの}}をうく』と〔[[第九「カフィズマ」#67:19|聖詠六十七の十九]]〕。 我等は{{r|俘|ふ}}{{r|虜|りょ}}たるをまぬかれ、『土に属する者の{{r|状|かたち}}を{{r|衣|き}}たる如く、天に属する者の{{r|状|かたち}}』〔{{二重線|コリンフ}}前十五の四十九〕を{{r|衣|き}}『我等の{{r|肢|し}}{{r|体|たい}}を義の{{r|僕|ぼく}}となして、{{r|成聖|せいせい}}に{{r|委|ゆだ}}ぬること罪に{{r|委|ゆだ}}ねし如くせんことを』{{r|慮|おもんぱか}}らざるべからず〔{{二重線|ロマ}}六の十九〕。我等は信ず、われら{{r|躓|つまづ}}かずして光の{{r|中|うち}}を行く者は、神の奇跡を認めんを要するを。録して言ふ所の如し、曰く『我が目を{{r|啓|ひら}}き{{r|給|たま}}へ、{{r|然|しか}}せば{{r|我|われ}}{{r|爾|なんぢ}}が{{r|律法|りっぽう}}の{{r|奇|き}}{{r|跡|せき}}を{{r|観|み}}ん』〔[[第十七「カフィズマ」#118:19|聖詠百十八の十九]]〕。|[p.429]}} [p.429] したがって、恥ずべき情欲を自然なものとして、偶然に人に入り込んだものではないとして擁護する者は、「神の真理を偽りに変えた」(ローマ1章25節)のです。なぜなら、私が先に述べたように、汚れなき清らかな方がご自身の似姿に造られたからです。「しかし、悪魔のねたみによって死が世に入り込んだ」(知恵書2章24節)。したがって、人類は不義のうちに宿り、罪のうちに生まれ(詩篇51篇7節 )、母の胎内から離れ、アダムからキリストの到来まで罪が支配し始めてから、母の胎内から誤りの中にとどまりました。そして、憐れみ深い神の子羊が、ご自身の力で世の罪を取り除くために来られ、まず強い男を縛り、それから彼が戦利品として集めた器を奪い取られました。それは、「あなたは捕虜を捕らえ、また背く者を捕らえた」と言われたとおりです(詩篇68篇19節)。 私たちは、束縛から解放されるよう注意し、「地上の像を着ているように、天の像をも着るようになるのです」(コリント第一 15章49節)、「義のしもべである私たちの肢体を、罪に差し出したように、聖なる姿で差し出す」(ローマ 6章19節)必要があります。私たちは、光の中をつまずくことなく歩む私たちは、神が「私の目を開いてください。そうすれば、あなたの律法からあなたの驚くべき御業を理解できます」(詩篇 119篇18節)と言われたように、神の驚くべき御業を見る運命にあると信じています。 [p.430] {{Quotation|けだし光の{{r|中|うち}}を行く者は五感に{{r|躓|つまづ}}きを{{r|来|きた}}さゞる如く、完全なる{{r|成聖|せいせい}}に{{r|居|を}}る者も心に{{r|奸計|かんけい}}を思はず、{{r|悪|あ}}しく{{r|慮|おもんぱか}}らざるなり。けだし『{{r|光|ひかり}}は{{r|暗|やみ}}と何の{{r|交|まじわ}}ることのあらん、神の{{r|殿|でん}}は偶像と何の同じきことのあらん』〔{{二重線|コリンフ}}後六の十五、十六〕、故に己を神の{{r|殿|でん}}と{{r|認|みと}}むべく、{{r|思|おもい}}の偶像を心中に{{r|画|えが}}かざらんことを{{r|力|つと}}めよ。けだし{{r|霊魂|たましい}}の{{r|中|うち}}に動作する{{r|凡|すべ}}ての{{r|情慾|じょうよく}}は偶像なり、故に『勝たるゝ者は勝つ者の奴隷たり』とは{{r|最|いと}}{{r|善|よ}}く言へるなり〔<u>ペトル</u>後二の十九〕。もし我等は肉体の慾に{{r|勤|つと}}むるならば、{{r|聖|せい}}にして無慾なる{{r|神|しん}}につとめざらんこと{{r|明|あきらか}}なり、何となれば人は『{{r|二人|ふたり}}の主に{{r|事|つか}}ふるあたはず、{{r|神|かみ}}と{{r|財|たから}}とに{{r|兼|かね}}{{r|事|つか}}ふること{{r|能|あた}}はざればなり』〔<u>マトフェイ</u>六の二十四〕。{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}は聖にして『{{r|汚|けがれ}}{{r|或|あるい}}は{{r|此|かく}}の如きもの』を有せず〔{{二重線|エフェス}}五の二十七〕、『けだし{{r|聖神|せいしん}}は{{r|諂|てん}}{{r|媚|び}}を避け、{{r|無智|むち}}{{r|者|しゃ}}の{{r|思念|おもい}}より遠ざかり、{{r|教|おしえ}}は{{r|奸猾|かんかつ}}なる{{r|霊魂|たましい}}に{{r|入|い}}らざるなり』〔知恵書一の四、五〕。 ゆゑに我等が律法はすべて{{r|神|かみ}}の{{r|指|ゆび}}を{{r|以|もつ}}て心にしるさるゝものにて、{{傍点|style=open circle|{{r|墨|すみ}}を以てするにあらず}}、{{r|神|かみ}}の{{r|神|しん}}を{{r|以|もつ}}てする〔{{二重線|コリンフ}}後三の三〕ものなるを確信して、『我は真実なり』〔<u>イオアン</u>十四の七〕との{{r|給|たま}}ひし立法者の真実をうけん、彼は心の割礼を{{r|行|おこな}}ひ、適当なる者の{{r|裁|さい}}{{r|智|ち}}に{{r|其|その}}{{r|仁|じん}}{{r|慈|じ}}の{{r|法|ほう}}をしるすこと、預言者のいへる如し、曰く『われ我が{{r|律法|りっぽう}}を彼等の心に置き、彼等の{{r|思|おもい}}にしるさん』〔<u>イエレミヤ</u>三十一の三十三〕。{{傍点|style=open circle|{{r|凡|およ}}そ選ばれたる族}}と、{{傍点|style=open circle|王たる祭司班}}と、{{傍点|style=open circle|聖なる人民}}と、選ばれたる{{傍点|style=open circle|人}}〔<u>ペトル</u>前二の九〕の{{r|中|うち}}に{{r|入|い}}らんことを苦心する者は、{{r|生活|せいかつ}}を{{r|施|ほどこ}}す{{r|神|しん}}の{{r|効力|こうりょく}}を{{r|便|べん}}{{r|利|り}}に{{r|己|おの}}れにうけん。|[p.430]}} [p.430] 感覚において、光の中を歩む者はつまずかないのと同様に、精神において、完全な聖さの中に留まる者は悪を考えず、悪の理性を働かせません。なぜなら、「光と闇との交わりはなく、教会と偶像との結びつきもない」(コリント第二 6章15-16節)からです。ですから、自分自身を神の神殿であると認識し、心の中に偶像を描かないように努めなさい。魂に働くすべての情欲は偶像です。ですから、「人は何に打ち負かされるかによって、その者のしもべとなる」(ペテロ第二 2章19節)と美しく言われています。もし私たちが肉欲に囚われているなら、明らかに、私たちは聖なる、情欲のない聖霊に囚われていません。なぜなら、「だれも二人の主人に仕えることはできない。あなたがたは、神と富に仕えることはできない」(マタイ 6章24節)と言われているからです。神の神殿は聖なるものであり、「汚れも、しわも、そのようなものは一切ない」(エフェソ 5章27節)のです。「聖霊は欺きから逃げ去り、理性のない考えから遠ざかり、悪しき魂に入り込むことはない」(知恵書 1章4-5節)のです。 したがって、私たちの律法全体が神の指によって、インクではなく神の霊によって心に書かれていることを確信した私たちは、 「わたしは真理である」(ヨハネ14章7節)と言われた律法授与者の真理を受け入れましょう。神は、預言者が言うように、「わたしの律法を彼らの心に与え、わたしはそれを彼らの心に書き記す」(エレミヤ31章33節)ように、ふさわしい者の心に割礼を施し、その善の律法を書き記してくださいます。「選ばれた世代」、「王なる祭司」、「聖なる国民」 、「選ばれた民」(ペテロ第一2章9節)に入ろうとする者は皆、命を与える聖霊の効力を喜んで受け入れます。 [p.431] {{Quotation|故に<u>ハリストス</u>に{{r|於|おけ}}る生活の<u>ハリストス</u>と同形なる公正に{{r|進|すゝ}}むを、{{r|縦|たと}}ひ久しからずと{{r|雖|いへど}}も、我等にも{{r|賜|たま}}はらんことを{{r|願|ねが}}ひ{{r|且|かつ}}祈るべし。けだし{{r|如此|かくのごとき}}の{{r|霊魂|たましい}}は{{傍点|style=open circle|面の恥}}〔[[第六「カフィズマ」#43:16|聖詠四十三の十六]]〕を脱し、{{r|最早|もはや}}汚れたる{{r|思|おもい}}に占領せられず、{{r|悪者|あくしゃ}}と{{r|姦通|かんつう}}せずして、{{r|疑|うたがい}}なく天の{{r|新郎|しんろう}}と{{r|親|しん}}{{r|与|よ}}をなさん、何となれば{{r|自|みづ}}から彼と{{r|同形|どうけい}}なればなり。彼に対するの愛を以て刺激せられたる{{r|霊魂|たましい}}は望みて{{r|絶|たえ}}{{r|入|い}}らん〔[[第十一「カフィズマ」#83:1|聖詠八十三の一]]〕。{{r|我|われ}}{{r|敢|あえ}}ていふ、{{r|成聖|せいせい}}を{{r|享|うく}}ることの{{r|不|ふ}}{{r|朽|きゅう}}なる{{r|契約|けいやく}}により、彼とかくの如く{{r|美|び}}なる{{r|心中|しんちゅう}}{{r|秘|ひ}}{{r|密|みつ}}の{{r|体合|たいごう}}を{{r|為|な}}すを望まん。{{r|如此|かくのごとき}}の{{r|霊魂|たましい}}は実に幸福なり、彼は{{r|霊神|れいしん}}{{r|上|じょう}}の愛に勝たれたつものとして、{{r|神|かみ}}{{r|言|ことば}}に{{r|嫁|か}}すること当然なり、故に彼は{{r|敢|あえ}}て言ふべし、左の如く言ふべし、曰く『我が{{r|霊|たましい}}はわが{{r|神|かみ}}をたのしまん、そは我に{{r|救|すくい}}の{{r|衣|ころも}}をきせ、義の{{r|外服|がいふく}}をまとはせて、{{r|新郎|しんろう}}が{{r|冠|かんむり}}をいたゞき、{{r|新|しん}}{{r|婦|ぷ}}が{{r|玉|たま}}こがねの{{r|飾|かざり}}をつくるが如くしたまへばなり』〔<u>イサイヤ</u>六十一の十〕けだし{{r|王|おう}}は彼の善良を望みて〔[[第六「カフィズマ」#44:12|聖詠四十四の十二]]〕、彼をたゞ{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}と名づくるのみならず、{{r|王|おう}}の{{r|女|むすめ}}及び{{r|皇后|こうごう}}と名づくるを{{r|賜|たま}}へり、{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}と名づくるは{{r|聖神|せいしん}}の{{r|為|ため}}に{{r|領有|りょうゆう}}せられたるによる、{{r|王|おう}}の{{r|女|むすめ}}と名づくるは{{r|父|ちゝ}}より光の子たることをうけたるによる、{{r|又|また}}{{r|皇后|こうごう}}と名づくるは{{r|独生|どくせい}}{{r|者|しゃ}}の{{r|光栄|こうえい}}の{{r|神性|しんせい}}と{{r|配合|はいごう}}せしによるなり。|[p.431]}} [p.431] ですから、たとえほんの短い間であっても、私たちもキリストにおける一貫した正しい生き方に近づくにふさわしい者と認められるよう、祈り求めましょう。そのような魂は、「顔の恥」(詩篇44篇16節)を捨て、もはや不純な思いにとらわれることもなく、もはや悪魔と姦淫を犯すこともなく、疑いなく天の花婿との交わりに入ります。なぜなら、その魂自体が一貫した生き方をしているからです。主への愛によって傷つき、「切望し、そして尽き果てた」(詩篇84篇1節)のです。あえて言えば、聖なる交わりの朽ちることのない絆を通して、主との美しく神秘的な結びつきを切望しているのです。そのような魂は、真に祝福され、幸福です。霊的な愛に打ち勝った魂は、神の言葉にふさわしく婚約しているのです。それゆえ、彼女は大胆に語り、こう言うであろう。「わが魂は主にあって喜びます。主はわたしに救いの衣と喜びの衣を着せ、花婿のようにわたしに冠を授け、花嫁のようにわたしを美しく飾ってくださいました」(イザヤ書61章10節)。王は彼女の美しさを望み(詩篇44篇12節)、彼女を神の神殿だけでなく、王女、王妃とも呼ぶにふさわしい者とみなした。神の神殿とは、聖霊によって養子とされた者であり、王女とは、光の父から養子とされた者であり、王妃とは、独り子の栄光の神性と結びついた者なのである。 [p.432] {{Quotation|けだし本性に{{r|於|おい}}て{{r|一|いつ}}たる主は、いかんして人間の{{r|救|すくい}}の摂理の為に多くの名を{{r|比喩|ひゆ}}{{r|的|てき}}に{{r|己|おのれ}}にうけしか。{{r|何故|なにゆえ}}{{r|甲処|こうしょ}}には{{r|石|いし}}〔{{二重線|コリンフ}}前十の四〕及び門〔<u>イオアン</u>十の七〕と名づけ、{{r|他|た}}{{r|処|しょ}}には{{r|斧|おの}}〔<u>ルカ</u>十五の一〕及び{{r|餅|ぱん}}と名づけしか〔同六の三十五〕。{{r|石|いし}}と名づけしは{{r|其|その}}{{r|勢力|せいりょく}}の動かすべからざると近づくべからざるとによる、{{r|門|もん}}と名づけしは彼によりて{{r|永世|えいせい}}に{{r|入|い}}るによる、{{r|斧|おの}}とは彼は{{r|悪習|あくしゅう}}の{{r|根|ね}}を{{r|絶|た}}つによる、{{r|路|みち}}とは適当なる者を真実を{{r|識|し}}るにみちびくによる、{{r|葡|ぶ}}{{r|萄|どう}}の{{r|幹|みき}}とは{{r|人心|じんしん}}をたのしましむる{{r|酒|さけ}}が彼によりて{{r|産|さん}}せらるゝによる、また{{r|餅|ぱん}}とは{{r|有言|ゆうげん}}なる{{r|造物|ぞうぶつ}}の{{r|心|こゝろ}}を{{r|堅|かた}}むるによるなり。しかれどもこれと同じく{{r|神|かみ}}{{r|言|ことば}}の為に領有せられたる非難すべからざる{{r|霊魂|たましい}}も、{{r|固|もと}}より{{r|単純|たんじゅん}}なるものなれど、{{r|神的|しんてき}}{{r|道徳|どうとく}}に多くの進歩をなすにしたがひて、{{r|賜|たまもの}}をうけん。我が{{r|此事|このこと}}をいふは{{r|新|しん}}{{r|婦|ぷ}}の名称も{{r|勿論|もちろん}}たゞ{{r|三|みつ}}のみにあらずして、{{r|更|さら}}に{{r|多|おほ}}かるべきによるなり。 ゆゑに{{r|神|かみ}}の{{r|聖所|せいしょ}}に{{r|入|い}}りて、『我等が{{r|年少|ねんしょう}}を{{r|楽|たのし}}ましむる{{r|神|かみ}}に』〔[[第六「カフィズマ」#42:4|聖詠四十二の四]]、{{r|希臘|ギリシャ}}訳文〕{{r|就|つ}}かざらん{{r|間|あいだ}}は、{{r|此|こ}}の{{r|労|ろう}}は我等の面前にあるを知るべし、けだし我等なほ肉体にあるも、{{r|主|しゅ}}の{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}を、たまはり、{{r|成聖|せいせい}}を{{r|遂|と}}げんことは、救世主の{{r|悦|よろこ}}ぶ所にして、{{r|其時|そのとき}}には、{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如くいふを{{r|得|え}}ん、曰く『我等は肉に在りて{{r|行|おこな}}へども、肉に{{r|循|したが}}ひて{{r|戦|たゝか}}はず、我等が{{r|戦|たゝかい}}の{{r|器|うつわ}}は肉に属せず、{{r|乃|すなわち}}{{r|神|かみ}}に{{r|由|よ}}りて{{r|塁|とりで}}を{{r|破|やぶ}}る{{r|能|ちから}}あり、我等{{r|此|これ}}を以て{{r|諸|もろもろ}}の{{r|謀|はかりごと}}と{{r|凡|およ}}そ{{r|神|かみ}}の知識に{{r|逆|さか}}ふ高慢とを破る』〔{{二重線|コリンフ}}後十の三至五〕。|[p.432]}} [p.432] 本質において唯一の主が、人類の救済という摂理のために、いかにして比喩的な意味で多くの名前を身にまとわれたことだろうか。なぜイエスは、ある箇所では岩(コリント第一 10章4節)や戸口(ヨハネ 10章7節)と呼ばれ、別の箇所では斧(ルカ 3章9節)や道(ヨハネ 14章6節)と呼ばれ、またぶどうの木やパン(ヨハネ 6章35節)とも呼ばれるのでしょうか。―岩と呼ばれるのは、イエスの力の揺るぎなさと近づきがたい性質によるものです。―戸口と呼ばれるのは、イエスを通して永遠の命に入ることができるからです。―斧と呼ばれるのは、イエスが悪の根源を断ち切るからです。―道と呼ばれるのは、イエスがふさわしい者を真理の知識へと導くからです。―ぶどうの木と呼ばれるのは、イエスが人の心を喜ばせる実り豊かなぶどう酒を実らせるからです。そして同様に、パンと呼ばれるのは、イエスが理性を持つ被造物の心を強くするからです。同様に、神の言葉に似た、それ自体は単純でありながら、多くの霊的な徳を積むことによって、罪のない魂もまた賜物を受けるに値するとみなされるのです。私がこのように述べたのは、花嫁の称号は三つだけでなく、多くの称号を持つからです。 そして、この労苦は、私たちが神の聖所に入るまで、すなわち「私たちの若さを喜ばれる神のもとへ」(詩篇43章4節)に入るまで、私たちの前に立ちはだかっていることを知っておきなさい。救い主は、私たちがまだ肉体の中にいる間に、主の無情にふさわしく、聖さに満たされることを喜ばれるからです。そして、その時、私たちは大胆にこう言うことができます。「私たちは肉体の中にいる間は、肉に従って戦いません。私たちの戦いの武器は肉的なものではなく、神によって力強く、滅びに強く、あらゆる考えや、神の知識に逆らって高ぶるあらゆる高慢なものを打ち砕くからです」(コリント第二10章3-5節)。 [p.433] {{Quotation|故に{{r|尚|なほ}}{{r|此処|こゝ}}に{{r|於|おい}}ても我等は罪なる{{r|慾|よく}}を十字架に{{r|釘|くぎ}}すること、預言者の{{r|祈祷|きとう}}の如くすべし、曰く『我が肉体を{{r|爾|なんぢ}}を{{r|畏|おそ}}るゝの{{r|畏|おそ}}れに{{r|釘|くぎ}}す』〔[[第十七「カフィズマ」#118:120|聖詠百十八の百二十]]〕。けだし{{r|使徒|しと}}のいはゆる『神の国を{{r|嗣|つ}}ぐあたはざる』〔{{二重線|コリンフ}}前十五の五十〕肉と血とは、{{r|此|こ}}の{{r|見|み}}ゆる{{r|体|からだ}}をいふにあらずして、〔彼は{{r|神|かみ}}の造る所なり〕{{傍点|style=open circle|{{r|悖逆|はいぎゃく}}の子}}〔{{二重線|エフェス}}二の二〕の{{r|中|うち}}に行為する凶悪の{{r|神|しん}}によりて{{r|起|おこ}}さるゝ肉体の{{r|念慮|ねんりょ}}を指す、何となれば<u>ハリストス</u>に{{r|於|お}}ける完全なる苦行者のために『{{r|戦|たゝかい}}は{{r|血肉|けつにく}}に{{r|於|おい}}てするに非ず、{{r|此|こ}}の{{r|暗昧|あんまい}}の{{r|世|せ}}{{r|君|くん}}に{{r|於|おい}}てし、凶悪の{{r|諸神|しょしん}}に{{r|於|おい}}てすればなり』〔{{二重線|エフェス}}六の十二〕。 故にもし{{r|此|こ}}の行為は天性自然の行為にあらずして、反対なる{{r|力|ちから}}の行為なるを{{r|認|みと}}むるならば、彼等に対して<u>ハリストス</u>の{{r|全|まつた}}き{{r|軍|ぐん}}{{r|備|び}}をおのれにうけ、『{{r|其|そ}}の{{r|奸計|はかりごと}}を{{r|禦|ふせ}}ぐを{{r|得|う}}べし』〔{{二重線|エフェス}}六の十一〕何となれば救世主は『{{r|蛇|だ}}{{r|蝎|かつ}}及び{{r|悉|ことごと}}くの{{r|敵|てき}}の{{r|力|ちから}}を{{r|踏|ふ}}む』の{{r|権|けん}}を我等に{{r|賜|たま}}ふによる〔<u>ルカ</u>十一の十九〕。{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}{{r|尚|なほ}}{{r|肉体|にくたい}}に{{r|居|を}}るも{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如く{{r|言|い}}ふを{{r|得|え}}んが為なり、曰く『もしわが心に不法のあるを{{r|見|み}}しならば主はわれに{{r|聴|き}}かざらん』〔[[第九「カフィズマ」#65:18|聖詠六十五の十八]]〕また曰く『{{r|我|われ}}{{r|尤|とが}}なしといへども、彼等は{{r|趨|は}}せ{{r|集|あつ}}まりて{{r|武具|ぶぐ}}をそなふ』〔同上五十八の五〕と、これ{{r|言|いふ}}{{r|意|こゝろ}}は我等は{{r|志|こゝろざ}}す所に進行し、{{r|即|すなわち}}{{r|上|うえ}}より{{r|召|め}}す所の{{r|褒章|ほうしょう}}に{{r|進向|しんこう}}しつゝ、如何なる肉体の慾もあるなうして、天に生涯を送ること{{r|易|やす}}からん。けだし{{r|諸|もろもろ}}の慾に遠ざかりて{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如く{{r|言|い}}ふことを{{r|得|う}}ればなり、曰くたゞに{{傍点|style=open circle|信を守る}}のみならず、{{傍点|style=open circle|{{r|馳|は}}すべき程を尽せり}}〔<u>テモフェイ</u>後四の七〕。|[p.433]}} [p.433] ですから、私たちはここでもなお、預言者の祈りに従って、罪深い情欲を十字架に釘付けにしなければなりません。「あなたへの畏れをもって、私の肉体を釘付けにしてください」(詩篇119篇120節)。使徒が「彼らは神の国を受け継ぐことができない」(コリント第一 15章50節)と言っている肉と血とは、この目に見える体(それは神によって創造されたもの)のことではなく、悪霊によって起こされ、「不従順な者たちのうちに働く」(エフェソ 2章2節)肉の知恵のことである。なぜなら、キリストにおいて完成された禁欲主義者は「肉と血と戦うのではなく、この世の闇の支配者、悪霊と戦う」(エフェソ 6章12節)からである。 したがって、この行為が自然なものではなく、敵対勢力の行為であると認めるならば、キリストの完全な武具を身に着けて敵対勢力に対抗すれば、「彼らの策略に立ち向かう」ことができるでしょう(エフェソ6章11節)。なぜなら、救い主は私たちに「蛇やサソリを踏みつけ、敵対者のあらゆる力に打ち勝つ」力を与えてくださるからです(ルカ10章19節)。そのため、肉体の中にいる間も、「もし私の心に不義を見たなら、主は私の祈りを聞いてくださらないでしょう」(詩篇66篇18節)と大胆に言うことができ、「私は不義なく走り、物事を正しました」(詩篇59篇5節)と言え、つまり、肉欲に駆られることなく、天国での生活を快適に過ごし、「高き召しの賞」(フィリピ3章14節)を目指して努力することができるのです。なぜなら、私たちはあらゆる情欲から遠ざかっているので、「信仰を守り通した」だけでなく、「走るべき道のりを走り終えた」と大胆に言うことができるからです(テモテ第二 4章7節)。 [p.434] {{Quotation|たゞ<u>ハリストス</u>を信ずるのみならず、彼と共に{{r|苦|くるしみ}}をうくることも{{r|肝要|かんよう}}なり、{{r|録|ろく}}していへる如し、『{{r|汝|なんぢ}}{{r|等|ら}}に{{r|賜|たま}}はりしはたゞ彼を信ずるのみならず、{{r|亦|また}}彼の為に{{r|苦|くるしみ}}をうくることなり』〔{{二重線|フィリッピ}}一の二十九〕。たゞ{{r|神|かみ}}を信ずるのみは地上の事を{{r|念|おも}}ふ{{r|者|もの}}に相応するのみならず、不潔の{{r|神|しん}}にさへ相応するは我が{{r|言|ことば}}を{{r|俟|ま}}たざるべし、いへらく『{{r|我|われ}}{{r|爾|なんぢ}}が{{r|誰|たれ}}なるを{{r|知|し}}る、{{r|乃|すなわ}}ち神の子なり』〔<u>マルコ</u>一の二十四、<u>マトフェイ</u>八の二十九〕。『けだし彼も{{r|此|これ}}も<u>ハリストス</u>の十字架の敵なり、彼等が{{r|終|おわり}}は{{r|滅亡|めつぼう}}なり、彼等が{{r|神|かみ}}は{{r|腹|はら}}なり、彼等が{{r|栄|えい}}とする所は{{r|辱|はぢ}}なり、彼等は地上の事を{{r|念|おも}}ふ』〔{{二重線|フィリッピ}}三の十八、十九〕と見るか十字架の敵はたゞ背教者の{{r|力|ちから}}のみにあらず、地上の事を{{r|念|おも}}ふ者も{{r|亦|また}}{{r|然|しか}}るを。しかれども<u>ハリストス</u>と共に{{r|苦|くるし}}みをうけて共に{{r|栄|えい}}せらるゝことはたゞ{{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|於|おい}}て{{r|己|おのれ}}を十字架に{{r|釘|くぎ}}して主の{{r|疵|きず}}を{{r|己|おのれ}}の{{r|体|からだ}}に{{r|負|お}}ふ{{r|者|もの}}のみ{{r|能|よく}}し{{r|得|う}}るなり。|[p.434]}} [p.434] 人はキリストを信じるだけでなく、キリストと共に苦しまなければなりません。聖書にこう書いてあるとおりです。「あなたがたには、キリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことも許されているのです」(フィリピ1章29節)。神だけを信じるというのは、地上のことばかり考える人、あるいは汚れた霊のような人たちの特徴です。彼らは「私たちはあなたが誰であるかを知っています。あなたは神の子です」(マルコ1章24節、マタイ8章29節)と言います。前者も後者も「キリストの十字架の敵であり、その最後は滅びです。彼らの神は腹であり、彼らの栄光は恥辱の中にあります。彼らは地上的な考え方をする者です」 (フィリピ3章18、19節)。背教者だけでなく、地上のことばかり考える人たちも十字架の敵であることがお分かりでしょうか。この世で自らを十字架につけ、主の傷を身に負う者だけが、キリストと共に苦しみ、キリストと共に栄光を受けることができるのです。 [p.435] {{Quotation|哲学を正しく{{r|攻究|こうきゅう}}して、{{r|霊魂|たましい}}を悪の{{r|汚穢|けがれ}}より{{r|救|すく}}ふ者は、哲学の目的を{{r|精確|せいかく}}に知らんこと{{r|肝要|かんよう}}なり、進行の{{r|労|ろう}}と{{r|経|けい}}{{r|過|か}}の{{r|終|おわり}}とを{{r|確|かく}}{{r|知|ち}}して、{{r|高慢|こうまん}}と{{r|功労|こうろう}}のことを{{r|思|おも}}ふ{{r|意思|いし}}とを{{r|全|まつた}}く{{r|斥|しりぞ}}け、聖書の{{r|誡命|かいめい}}にしたがひ、{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|たましい}}と{{r|生命|いのち}}をすてゝ{{r|一|いつ}}の{{r|富|とみ}}に{{r|注目|ちゅうもく}}せん{{r|為|ため}}なり、{{r|即|すなわち}}{{r|神|かみ}}が{{r|凡|およ}}そ{{r|甘|あま}}んじて{{r|苦|く}}{{r|行|ぎょう}}を{{r|自|みづ}}から{{r|任|にな}}はんと決心したる者を呼びて、{{r|其|その}}愛する所の者に<u>ハリストス</u>を愛したる{{r|為|ため}}の{{r|報償|ほうしょう}}として定め給ひしものに注目せん{{r|為|ため}}なり、{{r|此|かく}}の如き苦行の経過に{{r|於|おい}}て彼等に{{r|充分|じゅうぶん}}の{{r|路|ろ}}{{r|用|よう}}を{{r|給|きゅう}}するは<u>ハリストス</u>の十字架なり、されば彼等は{{r|此|これ}}を{{r|負|お}}ふて、{{r|楽|たのし}}みと{{r|善|ぜん}}なる{{r|希|き}}{{r|望|ぼう}}とを以て救世主<u>ハリストス</u>の{{r|跡|あと}}にしたがひ、{{r|其|その}}摂理を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|生命|いのち}}の{{r|法|ほう}}となし、{{r|路|みち}}となさんこと肝要なり、使徒の{{r|自|みづ}}から{{r|言|い}}へる如し、曰く『{{r|爾|なんぢ}}{{r|等|ら}}我に{{r|效|なら}}ふ者となれ、我が<u>ハリストス</u>に{{r|效|なら}}ふが{{r|如|ごと}}し』〔{{二重線|コリンフ}}十一の一〕又いふ『忍耐を以て我等の前にある{{r|馳|はせ}}{{r|場|ば}}を{{r|趨|はし}}りて、我等の{{r|信|しん}}の{{r|首|かしら}}及び{{r|成全|せいぜん}}{{r|者|しゃ}}なる<u>イイスス</u>を{{r|仰|あお}}ぎ{{r|望|のぞ}}むばし、彼は{{r|其|その}}{{r|前|まえ}}に{{r|在|あ}}る{{r|喜|よろこび}}に{{r|易|か}}へて{{r|辱|はぢ}}を{{r|意|い}}とせず、十字架を忍びて{{r|神|かみ}}の{{r|宝|ほう}}{{r|座|ざ}}の右に{{r|坐|ざ}}せり』〔{{二重線|エウレイ}}十二の一、二〕。 われらは{{r|神|かみ}}の{{r|賜|たまもの}}を以て{{r|自|みづ}}から{{r|高|たか}}ぶり、道徳に進むの{{r|或|あ}}る進歩を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|高慢|こうまん}}と{{r|称賛|しょうさん}}の{{r|為|ため}}の{{r|縁|えん}}{{r|由|ゆ}}となして、望む所の{{r|終|おわ}}りに{{r|達|たつ}}せざる{{r|先|さき}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|志|こゝろざし}}の{{r|撓|たわ}}まざらんが{{r|為|ため}}、{{r|高慢|こうまん}}により先になせる勤労を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に無益となさゞらんが{{r|為|ため}}、及び{{r|神|しん}}の{{r|恩寵|おんちょう}}の我等を{{r|引誘|いんゆう}}する{{r|成全|せいぜん}}に{{r|堪|た}}へざるものとならざらんが{{r|為|ため}}に{{r|戦々|せんせん}}{{r|競々|きょうきょう}}たらざるべからざるなり。|[p.435]}} [p.435] 哲学を正しく愛することを学び、悪徳の汚れから魂を解放した人々は、哲学を愛することの目的を正確に知っていなければなりません。旅の苦労と道のりの終わりを学んだ後、彼らはすべての傲慢と功績の考えを捨て、聖書の戒めに従って、魂と命を捨て、キリストを愛する者たちへの報いとして神が定めた一つの富を心に留め、喜んで闘いに挑むことを決めたすべての人をそれに招き入れます。そして、そのような闘いの通過のために、キリストの十字架は十分な別れの贈り物です。彼らはそれを背負い、救い主である神の足跡に従い、使徒自身が言ったように、「わたしがキリストに倣っているように、あなたがたもわたしに倣いなさい」 (コリント第一 11章節1)というように、神の摂理を自分たちの律法と生き方としなければなりません。また、「信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめながら、私たちの前に置かれている戦いに向かって忍耐をもって走り続けましょう。イエスは、ご自身の前に置かれた喜びのために、恥辱を気にせず十字架を耐え忍び、 神の御座の右に座られました」 (ヘブライ12章1-2節)。 私たちは、聖霊の賜物によって高められ、徳における進歩を傲慢と自慢の言い訳にしてしまい、望む終着点に到達する前に努力を怠り、それまでの努力を無益なものにしてしまい、聖霊の恵みによって導かれた完全さにふさわしくない者となってしまうことのないよう、注意しなければなりません。 [p.436] {{Quotation|故に勤労に{{r|於|おけ}}るの{{r|尽力|じんりょく}}を決して{{r|弱|よわ}}むべからず、{{r|眼前|がんぜん}}にある所の苦行を{{r|辞|じ}}するべからず、もし先に何か遂げし所あらんには、それを以て熱心を{{r|劃|かぎ}}るべからず、{{r|乃|すなわち}}{{r|使徒|しと}}の如く{{傍点|style=open circle|後}}を忘れて{{傍点|style=open circle|前}}に進み〔{{二重線|フィリッピ}}三の十三〕、{{r|成全|せいぜん}}を{{r|求|もと}}むる者が{{r|飽|あ}}くを知らずして{{r|独|ひと}}り{{r|飢|き}}{{r|渇|かつ}}する所の義の{{r|願|ねがい}}を{{r|有|ゆう}}し、勤労の為に{{r|慮|おもんぱか}}りて心肝を{{r|摧|くだ}}かんこと{{r|肝要|かんよう}}なり。彼等は{{r|許約|きょやく}}せられたる幸福を{{r|距|さ}}ること{{r|猶|なほ}}遠くして、<u>ハリストス</u>の完全なる愛に多く{{r|達|たつ}}せざる者なるにより、{{r|謙遜|けんそん}}なる者となり、恐れに満てる者とならざるべからず。けだし{{r|此|この}}{{r|愛|あい}}を{{r|切願|せつがん}}して、天の約束を{{r|仰望|ぎょうぼう}}する者は、{{r|禁食|きんしょく}}するか、{{r|儆醒|けいせい}}するか、{{r|或|あるい}}は他のいかなる{{r|徳行|とくこう}}に熱心するも、以前の功労を以て{{r|自|みづか}}ら{{r|高|たか}}ぶらざるべく、{{r|却|かへつ}}て神聖なる{{r|望|のぞみ}}にみたさるゝ彼は{{r|己|おのれ}}を呼ぶ所の者に{{r|間断|かんだん}}なく{{r|眼|め}}を{{r|注|そゝ}}ぎて、いくばく{{r|奮闘|ふんとう}}するも{{r|其|その}}{{r|志|こゝろざ}}す所のものに{{r|比|くら}}ぶれば{{r|全|まつた}}く小なりと{{r|思|おも}}ふべし。されば{{r|其|その}}{{r|行|おこない}}により{{r|己|おのれ}}を{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に尊敬すべき者とあらはさゞらん{{r|間|あいだ}}は、{{r|労|ろう}}に{{r|労|ろう}}を{{r|加|くは}}へ、{{r|徳行|とくこう}}に{{r|徳行|とくこう}}を{{r|重|かさ}}ぬるも、{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に適当なる者となれりとの{{r|意思|いし}}を心に{{r|懐|いだ}}かずして、{{r|此|こ}}の{{r|生命|いのち}}の{{r|終|おわり}}に{{r|至|いた}}るまで{{r|悉|ことごと}}くの{{r|尽力|じんりょく}}を{{r|用|もち}}ひん。けだし{{r|行|おこない}}に{{r|於|おい}}て{{r|大|おほい}}なる者は{{r|神|かみ}}を{{r|畏|おそ}}るゝを{{r|以|もつ}}て{{r|自負|じふ}}を{{r|地|ち}}に{{r|擲|なげう}}ちて、心を謙遜し、生活の為に{{r|己|おのれ}}を{{r|罪|つみ}}し、信じて愛するの{{r|度|ど}}により{{r|許約|きょやく}}を{{r|楽|たのし}}みて、{{r|自|みづ}}から{{r|労|ろう}}するの{{r|如何|いかん}}を{{r|以|もつ}}てせざるは、これぞ{{r|哲学|てつがく}}の{{r|最|もつとも}}{{r|卓越|たくえつ}}せる{{r|功労|こうろう}}なる。けだし{{r|賜|たまもの}}は{{r|大|おほい}}なるにより、これに{{r|相応|そうおう}}する{{r|勤労|きんろう}}を{{r|見|み}}{{r|出|いだ}}すことあたはざればなり。|[p.436]}} [p.436] ですから、私たちは決して努力を怠ってはならず、これから待ち受ける苦闘を放棄してはならず、既に達成したことにのみ熱意を限定してはなりません。しかし、使徒によれば、「過去のことは忘れ」、「未来のことに向かって身を伸ばし」(フィリピ3章13節)、努力に対する思いを胸に抱き、完全さを目指す者だけが切望し渇望すべき義への飽くなき渇望を持ち続けなければなりません。彼らは、約束された祝福からまだ遠く離れており、キリストの完全な愛には程遠いので、謙遜になり、畏れを抱かなければなりません。なぜなら、この愛を望み、天の約束を見つめる者は、断食をしたり、徹夜したり、他の徳を積んだりしても、過去の功績によって自分を高めることはなく、神への切なる願いに満たされ、自分を召してくださる方に絶えず目を向け、どんなに努力しても、自分が目指すものに比べれば、すべてを小さなものと考えるからです。彼は生涯の終わりまで、あらゆる努力を尽くし、労苦に労苦を重ね、徳に徳を重ね、自分の行いによって神の前に立派な者として現れるまで努力しますが、自分が神の前にふさわしい者になったとは決して考えません。知恵を愛する者の最も優れた功績は、行いに優れた者が心を低くし、自らの生き方を悔い改め、神への畏れをもって傲慢さを打ち砕き、信じて愛した度合いに応じて約束を享受し、働いた度合いに応じて享受しないことである。賜物は大きいので、それに見合う働きを見出すことは不可能である。 [p.437] {{Quotation|さりながら{{r|信|しん}}と{{r|望|ぼう}}とは{{r|大|おほい}}ならざるべからずして、これを{{r|以|もつ}}て報酬を測るべく、勤労を以てすべからざるなり。{{r|然|しか}}して{{r|信|しん}}の{{r|根本|こんぽん}}は{{r|心神|しんしん}}の{{r|貧|まづ}}しきと{{r|神|かみ}}に対する{{r|無|む}}{{r|量|りょう}}の{{r|愛|あい}}とにあり。 希望の目的に応じ、哲学によりて、生活せんと決心したる者の{{r|為|ため}}に{{r|余|よ}}は{{r|充分|じゅうぶん}}にのべたりと{{r|思|おも}}ふ。{{r|今|いま}}{{r|又|また}}これに{{r|加|くは}}ふるにかくの如き者はいかに{{r|互|たがい}}に{{r|交際|こうさい}}して{{r|如何|いか}}なる{{r|労|ろう}}を{{r|愛|あい}}するを{{r|要|よう}}するかを示すべし、{{r|天|てん}}{{r|都|と}}に{{r|達|たつ}}するに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}{{r|其|その}}進行を協力して{{r|成|な}}さん{{r|為|ため}}なり。 {{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|於|おい}}て尊敬すべきと認めらるゝものを{{r|断|だん}}じて{{r|尊|たつと}}ばず、{{r|親族|しんぞく}}を{{r|棄|す}}て、もろ{{く}}{{r|地下|ちか}}の{{r|栄|さかえ}}を{{r|棄|す}}てゝたゞ{{r|天上|てんじょう}}の{{r|尊栄|そんえい}}に{{r|着眼|ちゃくがん}}し、{{r|神|かみ}}による{{r|兄弟|けいてい}}と{{r|心神|しんしん}}にて{{r|結合|けつごう}}する{{r|者|もの}}は、{{r|世|よ}}と{{r|共|とも}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|たましい}}をも{{r|棄|す}}つること{{r|肝要|かんよう}}なり。{{r|霊魂|たましい}}を{{r|棄|す}}つとは{{r|何|なに}}に{{r|於|おい}}ても{{r|己|おのれ}}の{{r|旨|むね}}を求めずして、{{r|反|かへ}}つて{{r|己|おのれ}}の{{r|旨|むね}}を{{r|矯正|きょうせい}}し、{{r|院長|いんちょう}}を以て己の為に{{r|神|かみ}}の{{r|言|ことば}}となして、これを{{r|益用|えきよう}}すること、{{r|善良|ぜんりょう}}なる{{r|舵師|だし}}の如くし、{{r|兄弟|けいてい}}{{r|社会|しゃかい}}のすべてを{{r|挙|あ}}げて、{{r|同心|どうしん}}{{r|協力|きょうりょく}}して、{{r|神|かみ}}の{{r|旨|むね}}の{{r|湊|みなと}}に{{r|向|むか}}はしむるにあり。|[p.437]}} [p.437] しかし、信仰と希望は大きくなければならない。それによって報いが測られ、働きによって測られるのではない。信仰の土台は、霊的な貧しさと神への計り知れない愛である。 希望の目標に従って、知恵に満ちた人生を送ろうと決意した人々については、すでに十分なことが述べられたと思います。今、私たちは、そのような人々が互いにどのように接し、どのような働きを愛すべきか、そして共に歩みを進めて天の都に到達できるようにすべきことについて、付け加えなければなりません。 この世で尊ばれるとされるものを断固として軽んじ、家族を捨て、地上の栄光を全て捨て去る者であっても、天上の栄誉を心に抱き、神において兄弟たちと霊的に結びついている者は、この世と共に自らの魂をも捨て去らなければならない。魂の放棄とは、何事においても自らの意志を求めず、むしろ自らの意志を正し、神の言葉を自らの長とし、それを良き舵取り役として、兄弟たち全体を神の意志という港へと一斉に導くことにある。 【以下未入力(p.438-457)】 :::[[埃及マカリイ全書/書簡#エジプトマカリオスの大書簡|先頭に戻る↑]] {{DEFAULTSORT:えしふとまかりいせんしよ しよかん}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:埃及マカリイ全書|51]] {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- 底本:埃及マカリイ全書|section=克肖なる我等が父埃及マカリイの書翰 --> ib0wdeoc1x7axp24g77mawp0vjs96hy 243144 243142 2026-06-12T18:02:04Z 村田ラジオ 14210 ヘッダー:底本 243144 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|wikisource:宗教|埃及マカリイ全書|hide=1}} {{header |title=埃及マカリイ全書 |section=克肖なる我等が父埃及マカリイの書翰 |previous=[[埃及マカリイ全書/第五十講話|第五十講話]] |next=[[埃及マカリイ全書/第一説教|第一説教]] |year= |author= |override_author = |override_translator = 堀江 {{r|復|ふく}} ( -1914) |notes= {{Textquality|25%}} *底本: 堀江復 (薩瓦) 訳『克肖なる神父埃及マカリイ全書』,正教会編輯局,明39.1. {{NDLJP|824086/1/219}} *ウィキソースによる現代語訳 }} ==エジプトマカリオスの大書簡== {{Quotation|完全にして聖にせられたる人の為に{{r|要用|ようよう}}なるはたゞ{{r|自|みづ}}から{{r|神|かみ}}に{{r|居|を}}らんことのみならず、神も彼に{{r|居|を}}らんことなるは、{{r|汝|なんぢ}}が善智の{{r|明|あきらか}}に知る所なるべし、主のいひ給ふごとし、{{r|曰|いは}}く『我に{{r|居|を}}り、我も彼に{{r|居|を}}る』〔<u>イオアン</u>十五の五〕。されば神の人は神聖なる{{r|幕屋|まくや}}に居り、此の幕屋を至浄なる神性の聖なる山に建てざるべからず、これ暗黒なる{{r|情慾|じょうよく}}の{{r|力|ちから}}の占領するをゆるさゞる者の光栄を{{r|暁|さと}}るのみならず、{{r|其|その}}{{r|擁|よう}}する所とならんためなり。けだし適当なる者には{{r|其|その}}{{r|成聖|せいせい}}とその彼等に属する{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}との為に救世主は住み給ふ、これ主の{{r|自|みづ}}から{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}なる如く主をうけたる{{r|者|もの}}{{r|等|ら}}をも無慾なる者となして如何なる風にも{{r|最早|もはや}}{{r|動乱|どうらん}}{{r|漂漾|ひょうよう}}せられざる者となさん為なり。 しかれども{{r|或者|あるもの}}は{{r|自|みづ}}から<u>ハリストス</u>の{{r|機|き}}{{r|密|みつ}}に遠ざかるのみならず、『{{r|濁|にご}}れる{{r|敗壊|はいかい}}を以て{{r|其|その}}{{r|親友|しんゆう}}を{{r|誘|いざな}}ひ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-hab/2:8-17 <u>アバクム</u>二の十五]〕『神を{{r|識|し}}るべきものゝ彼等に{{r|明|あきらか}}にあらはるる』にも{{r|拘|かか}}はらず、神の真理を不義の{{r|中|うち}}に隠さんとす。けだし『{{r|其|その}}{{r|思念|おもひ}}は{{r|虚|むな}}しくなり』{{r|其|その}}{{r|無智|むち}}の心は{{r|昧|くら}}みしにより〔{{二重線|ロマ}}一の十八至二十一〕。彼等は説を{{r|為|な}}していへり、{{r|恥|は}}づべき{{r|情慾|じょうよく}}は天性自然にして神より我等に付与せられたるものなりと、{{r|是|こ}}れ{{r|即|すなはち}}{{r|敗壊|はいかい}}の{{r|楽|たのし}}み、不正なる{{r|忿怒|いきどほり}}、神の為に発するに{{r|非|あら}}ざる不適当なる{{r|怒|いかり}}、及び{{r|凡|およ}}そ{{r|此|これ}}に類するものをいふなり。|[p.425]}} 《現代語訳》 [p.425] 完全で聖なる人となるためには、彼自身が神の内にいるだけでなく、神が彼の内にいることも必要であることを知りなさい。主はこう言われる。「彼が私の内にいれば、私も彼の内にいる」(ヨハネ15章5節)。神の人間は、神の幕屋に住み、この幕屋を最も純粋な神性の聖なる山に建てなければなりません。それは、情欲の暗い力が彼を支配することを許さない方の栄光を受け入れるだけでなく、その栄光に抱かれるためです。救い主は、ふさわしい人々の中に、聖性と生来の無執着のために住まわれるからです。それは、救い主がご自身が無執着であるように、彼を受け入れた人々をも無執着にし、もはや嵐に巻き込まれず、どんな風にも吹き飛ばされない者とするためです。 また、ある人々はキリストの奥義から遠く離れているだけでなく、「わざわいなるかな、その隣り人に怒りの杯を飲ませて、これを酔わせ、 彼らの隠し所を見ようとする者よ。」(ハバクク書 2章15節)、神の真理を偽りの中に含み、「彼らの中には、神の知恵が明らかに示されている」と言われています。なぜなら、「思いがむなしく」なり、愚かな心によって暗くなった(ローマ 1章18–21節)ため、彼らは、腐敗の快楽、不当な短気、神によらない下品な怒りなど、恥ずべき情欲は神によって私たちに生まれつき備わっているものだと言うからです。 {{Quotation|ゆゑに彼等と{{r|其|そ}}の{{r|言|い}}ふ所とは真理に{{r|違|たが}}ふものとしてこれを{{r|棄|す}}て、我等を造りし者を以て我等にあたへられたる自由自主の主権を{{r|承認|うけみと}}めん、善きことに進むも{{r|悪|あし}}きことを{{r|止|や}}むるも我等に{{r|係|かか}}らんためなり。けだし真実なる審判者は、もし{{r|自|みづ}}から情慾の造物主ならば、これに占領せらるゝ我等を{{r|罰|ばつ}}せざるべし。祈る{{r|此|この}}{{r|教|をしへ}}に離れ遠ざかりて、これを{{r|思|おもひ}}にも{{r|生|しょう}}ぜしめざらんことを。けだし{{r|此|こ}}の{{r|蒙昧|もうまい}}にして{{r|愚|おろか}}なる意見は、{{r|凡|およそ}}の敬虔なる{{r|裁|さい}}{{r|智|ち}}の為に{{r|忌|い}}み{{r|嫌|きら}}ふべきものとす。神は清くして{{r|最|いと}}{{r|美|うつく}}しき天地万物の造成者なることは、世界創造の際に{{r|聖神|せいしん}}の{{r|告|つ}}げ{{r|給|たま}}ひし如し、けだしいへり、『神は{{r|其|その}}造りたる{{r|諸|もろもろ}}の物を見たまへるに{{r|甚|はなは}}だ{{r|善|よ}}かりき』〔創世記一の三十一〕。されば<u>イエレミヤ</u>は{{r|恥|は}}づべき情慾のために{{r|哀|かなし}}み、かつ{{r|惑|まど}}ふていへり、『主の命じ給ふにあらずば、誰か事を述べんに、その事すなはち成らんや、{{r|禍|わざわい}}も{{r|福|さいわい}}も{{r|至|し}}{{r|高者|こうしゃ}}の口より{{r|出|い}}づるにあらずや』〔<u>イエレミヤ</u>哀歌三の三十六‐三十八〕。故に{{r|福音|ふくいん}}{{r|経|きょう}}に聡明なる天軍は主に{{r|問|と}}ふていへり、『主よ{{r|爾|なんぢ}}は{{r|美|よき}}{{r|種|たね}}を{{r|爾|なんぢ}}の{{r|田|た}}に{{r|撒|ま}}きたるに{{r|非|あら}}ずや、{{r|然|しか}}らば何に由りて{{傍点|style=open circle|此の}}{{r|稗|ひえ}}あるか』〔<u>マトフェイ</u>十三の二十七〕。[p.427]また他の所に救世主は{{r|自|みづ}}から彼等の事をいへり、『{{r|凡|およ}}そ我が天の父の{{r|植|うゑ}}ざりし植物は{{r|其|その}}{{r|根|ね}}{{r|絶|たや}}されん』と〔<u>マトフェイ</u>十五の十三〕。しかれどもすべて神の{{r|植|う}}ゑしものゝ{{r|美|び}}なることは、<u>ハリストス</u>これをいひ、<u>パウェル</u>もこれを{{r|証|しょう}}せり、曰く『{{r|蓋|けだし}}神の{{r|悉|ことごと}}くの造物は善なり』〔<u>テモフェイ</u>前四の四〕。故に知るべし我等の{{r|中|うち}}にかくるゝ情慾は本来我等に属するに非ずして、他に属するものなるを。けだし{{r|言|い}}ふあり、『我が{{r|隠|ひそか}}なる{{r|咎|とが}}より我を{{r|浄|きよ}}め{{r|給|たま}}へ、{{r|故|こ}}{{r|犯|はん}}より{{r|爾|なんぢ}}の{{r|僕|ぼく}}を{{r|止|とゞ}}めよ』〔[[第三「カフィズマ」#18:13|聖詠十八の十三、十四]]〕、またいふあり、『外人は{{r|起|た}}ちて我を{{r|攻|せ}}め、強き者は我が{{r|霊|たましい}}を{{r|覓|もと}}む』〔[[第七「カフィズマ」#53:5|同上五十三の五]]〕。またいふあり、『主よ我と{{r|争|あらそ}}ふ者と{{r|争|あらそ}}ひ、我と{{r|戦|たゝか}}ふ者と{{r|戦|たゝか}}ひ給へ』〔[[第五「カフィズマ」#34:1|同上三十四の一]]〕。それ此の{{傍点|style=open circle|{{r|隠|ひそか}}なるもの}}{{r|或|あるい}}は此の{{傍点|style=open circle|争ふ者}}{{r|或|あるい}}は{{傍点|style=open circle|戦ふ者}}{{r|或|あるい}}は此の{{傍点|style=open circle|故犯}}とはこれ<u>ハリストス</u>の徳行に{{r|逆|さから}}ふ凶悪なる{{r|諸神|しょしん}}を示すにあらずして何ぞや。|[p.426]}} [p.426] したがって、彼らや彼らの言葉を真理から逸脱したものとして捨て去り、私たちを創造した方が私たちに与えてくださった自由の専制を認め、最善を目指し、最悪を避けるのは私たち次第であることを認めましょう。真の審判者ご自身が創造主であるならば、情欲にとりつかれた私たちを罰するはずがありません。お願いですから、この教えは捨て去り、頭に浮かばないようにしてください。この不合理で愚かな考えは、すべての敬虔な理解力にとって不快です。神は、創造の時に聖霊が告げたように、純粋で最も美しい自然の創造主です。「見よ、すべてが非常に良い」(創世記 1章31節)と神は言っています。エレミヤは、恥ずべき情欲について嘆き、困惑しながらこう言います。「主は『あなたのものは誰か』と言われたのではない。主が語られたから、そうなったのだ。主は『いと高き者の口からは悪は出ず、善は出る』と命じられたのではない。(哀歌エレミヤ3章36-38節)」。それゆえ、福音書の中で、知性ある者たちは主にこう問いかけます。「主よ、あなたは畑に良い種を蒔かれたではありませんか。では、これらの「毒麦」はどこから来るのでしょうか(マタイ13章27節)。別の箇所では、救い主ご自身がそれらについてこう言っています。「天の父が植えなかった庭は、みな根こそぎにされるであろう」(マタイ15章13節)。そして、神の植えたものはすべて美しいと、パウロはキリストが「神の造られたものはすべて良いものである」(テモテ第一4章4節)と言っているように、パウロもそのことを証言しています。ですから、私たちの中に秘められた情熱は私たち自身のものではなく、私たちとは無関係のものであることを知ってください。「わたしの隠れた罪を清め、あなたのしもべを異邦人の罪からお守りください」(詩篇19篇13-14節)、「異邦人がわたしに立ち向かい、力ある者たちがわたしの命を狙っています」(詩篇54篇5節)、「主よ、わたしを害する者を裁き、わたしと戦う者と戦ってください」(詩篇35篇1節)と書いてあるからです。では、この「隠れた」とは、あるいは「罪を犯す者」や「戦う者」、あるいは「異邦人」とは、キリストの徳に敵対する悪霊ではないとしたら、何を意味するのでしょうか。 {{Quotation|律法も内部の人の{{r|潔浄|けつじょう}}のことを公然と呼ぶを精密に吟味せよ。いふあり、『汝の主、神の名を{{r|妄|みだり}}に口にあぐべからず、けだし主は己の名を{{r|妄|みだ}}りに口にあぐる者の心を清めざるべし』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-deu/5:1-11 {{r|復傳|ふくでん}}{{r|律令|りつれい}}五の十一]〕。ゆゑに使徒も勧めて{{r|明|あきら}}かにいへり、『{{r|己|おのれ}}を{{r|凡|およそ}}の{{r|肉|にく}}と{{r|神|しん}}との{{r|汚|けがれ}}より{{r|潔|きよ}}くせよ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-2cor/7:1-5 {{二重線|コリンフ}}後七の一]〕。また他の処にもいふ『心は{{r|灑|そゝ}}がれて悪しき意念を去れ』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-heb/10:16-22 {{二重線|エウレイ}}十の二十二]〕、又いふ『汝等の{{r|神|しん}}と{{r|霊|れい}}と{{r|体|たい}}とは{{r|全|まつと}}うし{{r|護|まも}}られて{{r|疵|きず}}なからん』〔[http://ibibles.net/quote.php?jco-1th/5:16-23 {{二重線|ソルン}}前五の二十三]〕、[p.428]又いふ『{{r|疵|きず}}なき神の子とならん為なり』〔{{二重線|フィリッピ}}二の十五〕。ゆゑに{{r|凡|すべ}}て子たる{{r|位地|いち}}を{{r|賜|たま}}はらんことを願ふ者は{{r|疵|きず}}なき{{r|体|からだ}}を有するのみならず、{{r|疵|きず}}なき{{r|霊|たましい}}をも有すること、{{r|左|さ}}の如くならざるべからず『{{r|願|ねがは}}くは我が心{{r|爾|なんぢ}}の{{r|律|おきて}}に{{r|玷|きず}}なからん、我が{{r|羞|はぢ}}を{{r|得|え}}ざらん為なり』〔[[第十七「カフィズマ」#118:80|聖詠百十八の八十]]〕。けだし律法の{{r|下|もと}}に居る者は、たゞ肉体の{{r|稱|しょう}}{{r|義|ぎ}}を遂げて、外部の{{r|潔浄|けつじょう}}を守れども、{{r|恩寵|おんちょう}}の{{r|下|もと}}に{{r|居|を}}る者は、{{r|成聖|せいせい}}により内部の平安を願ふて、{{r|左|さ}}の如くいひし者にしたがふなり、曰く、『もし汝等の義は学士お呼び<u>ファリセイ</u>等の義に{{r|勝|まさ}}らずば{{r|爾|なんぢ}}{{r|等|ら}}天国に入るを得ず』〔<u>マトフェイ</u>五の二十〕、何となれば<u>ファリセイ</u>等は智を{{r|盲|くら}}まして、{{傍点|style=open circle|杯と皿の外}}を{{r|潔|きよ}}むればなり〔<u>マトフェイ</u>二十三の二十五〕。今も彼等に似たる新<u>ファリセイ</u>は、未熟なる才智を以て外部の人を粉飾し、{{r|自|みづ}}から己を義とせんとす、しかれども{{r|聖神|せいしん}}は彼等の{{r|神|しん}}と共に彼等が神の子たるを{{r|証|しょう}}すること、使徒と共に{{r|証|しょう}}する如くせざるべし、言ふあり、『此の{{r|神|しん}}{{r|自|みづ}}から我等の{{r|神|しん}}と共に我等が神の子たるを{{r|証|しょう}}す』〔{{二重線|ロマ}}八の十六〕。彼等は内部の人の{{r|聖徳|せいとく}}に成長するを自己にあらはさんことを{{r|欲|ほつ}}せずして、たゞ肉体上の功労に信任し、『{{r|王|おう}}の{{r|女|ぢょ}}の光栄は皆内部にある』〔[[第六「カフィズマ」#44:14|聖詠四十四の十四]]〕を知らざるなり。我等各人は{{r|恰|あたか}}も心中の{{r|無花果|いちじく}}の如し、主の{{r|尋|たづ}}ぬるは内部の{{r|果|か}}にありて、{{r|枝|し}}{{r|葉|よう}}の{{r|飾|かざり}}にあるにあらざるなり〔<u>マトフェイ</u>二十一の十九〕。|[p.427-p.428]}} [p.427-p.428] 律法もまた、内なる人の清さをはっきりと求めていることを、より深く考えてみましょう。「主なるあなたの神の名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える心をきよめられないからである」(申命記 5章11節)とあります。それゆえ、使徒パウロもまた、はっきりとこう勧めています。「肉の汚れだけでなく、霊の汚れからも、あらゆる汚れから自分をきよめましょう」(コリント人への手紙二 7章1節 )。また別の箇所では、「心に汚れた良心を清め」(ヘブライ人への手紙 10章22節 )と言い、さらに「体と霊と魂を、完全に清く保ちなさい」(テサロニケ人への手紙一 5章23節)と言い、「あなたがたが、責められるところのない神の子となるためです」(ピリピ人への手紙 2章15節)とも言っています。したがって、養子縁組にふさわしくありたいと願う者は皆、非の打ちどころのない体だけでなく、非の打ちどころのない魂を持たなければなりません。それは、「あなたの戒めの中で、私の心が清くあって、私が恥じることのないようにしてください」(詩篇 119篇80節)と言われた方のようなものです。律法の下に生き、肉の義認だけを満たす人は外面的な清さを保ちますが、恵みの下に生きる人は、聖さにおける内面的な平和も望み、「あなたがたの義がパリサイ人や律法学者よりもまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入れません」(マタイ 5章20節)と言われた方に従います。パリサイ人は心が盲目であるため、「鏡の外側」をきよめるからです(マタイ 23章25節)。現代の新しいパリサイ人たちも、彼らと同様、未熟な心で外面を飾り、自らを正当化しますが、聖霊は、彼らが神の子であるという彼らの霊に従おうとはしません。使徒パウロはこう言っています。「"霊"みずからわたしたちの霊に従われます。わたしたちは神の子なのですから」(ローマ8章16節)彼らは、内なる人の聖さが成長していることを自ら示そうとせず、肉の功績だけに頼っています。「王の娘の栄光はすべて内にある」(詩篇45篇14節)ことを彼らは知りません。私たち一人ひとりは、いわば心のいちじくの木のようで、主はその葉の飾りではなく、内なる実を求めておられるのです(マタイ21章19節)。 [p.429] {{Quotation|故に{{r|恥|は}}づべき情慾を弁護して、天然自然なるものとし、{{r|偶然|ぐうぜん}}に人に{{r|入|い}}りしにあらずといふ者は、『{{r|神|かみ}}の真実を己の{{r|偽|いつわり}}に{{r|易|か}}ふるなり』〔{{二重線|ロマ}}一の二十五〕何となれば我が{{r|先|さき}}にいひし如く{{r|無|む}}{{r|玷|てん}}{{r|純潔|じゅんけつ}}なる者は{{r|其|その}}{{r|像|ぞう}}を{{r|己|おのれ}}に{{r|肖|に}}たるものとなしたりしが、『{{r|悪|あく}}{{r|鬼|き}}の{{r|猜|そね}}みにより死は世に{{r|入|い}}りたればなり』〔知恵書二の二十四〕。ゆゑに人間は不法によりて{{r|孕|はら}}まれ、罪に{{r|於|おい}}て{{r|生|うま}}れて、〔[[第七「カフィズマ」#50:7|聖詠五十の七]]〕{{r|母|ぼ}}{{r|腹|ふく}}より離れ遠ざかる者となり、{{r|母|ぼ}}{{r|胎|たい}}より{{r|迷|まよい}}に{{r|居|を}}りて、<u>アダム</u>より以後<u>ハリストス</u>の{{r|来|きた}}るに至るまで罪が王となりしにより神の{{r|羔|こひつじ}}は{{r|憐|あわれみ}}を{{r|垂|た}}れて{{r|来|きた}}り給へり、これ{{r|先|ま}}づ強き者を{{r|縛|ばく}}し、{{r|其後|そののち}}{{r|鹵|ろ}}{{r|獲|かく}}せられたる器物を{{r|奪|うば}}ひ{{r|回|かへ}}して、己の力を以て世の罪を取らん為なり、言ふあり『{{傍点|style=open circle|擄者を{{r|擄|とりこ}}にす}}』と、又いふ『{{r|献物|さゝげもの}}をうく』と〔[[第九「カフィズマ」#67:19|聖詠六十七の十九]]〕。 我等は{{r|俘|ふ}}{{r|虜|りょ}}たるをまぬかれ、『土に属する者の{{r|状|かたち}}を{{r|衣|き}}たる如く、天に属する者の{{r|状|かたち}}』〔{{二重線|コリンフ}}前十五の四十九〕を{{r|衣|き}}『我等の{{r|肢|し}}{{r|体|たい}}を義の{{r|僕|ぼく}}となして、{{r|成聖|せいせい}}に{{r|委|ゆだ}}ぬること罪に{{r|委|ゆだ}}ねし如くせんことを』{{r|慮|おもんぱか}}らざるべからず〔{{二重線|ロマ}}六の十九〕。我等は信ず、われら{{r|躓|つまづ}}かずして光の{{r|中|うち}}を行く者は、神の奇跡を認めんを要するを。録して言ふ所の如し、曰く『我が目を{{r|啓|ひら}}き{{r|給|たま}}へ、{{r|然|しか}}せば{{r|我|われ}}{{r|爾|なんぢ}}が{{r|律法|りっぽう}}の{{r|奇|き}}{{r|跡|せき}}を{{r|観|み}}ん』〔[[第十七「カフィズマ」#118:19|聖詠百十八の十九]]〕。|[p.429]}} [p.429] したがって、恥ずべき情欲を自然なものとして、偶然に人に入り込んだものではないとして擁護する者は、「神の真理を偽りに変えた」(ローマ1章25節)のです。なぜなら、私が先に述べたように、汚れなき清らかな方がご自身の似姿に造られたからです。「しかし、悪魔のねたみによって死が世に入り込んだ」(知恵書2章24節)。したがって、人類は不義のうちに宿り、罪のうちに生まれ(詩篇51篇7節 )、母の胎内から離れ、アダムからキリストの到来まで罪が支配し始めてから、母の胎内から誤りの中にとどまりました。そして、憐れみ深い神の子羊が、ご自身の力で世の罪を取り除くために来られ、まず強い男を縛り、それから彼が戦利品として集めた器を奪い取られました。それは、「あなたは捕虜を捕らえ、また背く者を捕らえた」と言われたとおりです(詩篇68篇19節)。 私たちは、束縛から解放されるよう注意し、「地上の像を着ているように、天の像をも着るようになるのです」(コリント第一 15章49節)、「義のしもべである私たちの肢体を、罪に差し出したように、聖なる姿で差し出す」(ローマ 6章19節)必要があります。私たちは、光の中をつまずくことなく歩む私たちは、神が「私の目を開いてください。そうすれば、あなたの律法からあなたの驚くべき御業を理解できます」(詩篇 119篇18節)と言われたように、神の驚くべき御業を見る運命にあると信じています。 [p.430] {{Quotation|けだし光の{{r|中|うち}}を行く者は五感に{{r|躓|つまづ}}きを{{r|来|きた}}さゞる如く、完全なる{{r|成聖|せいせい}}に{{r|居|を}}る者も心に{{r|奸計|かんけい}}を思はず、{{r|悪|あ}}しく{{r|慮|おもんぱか}}らざるなり。けだし『{{r|光|ひかり}}は{{r|暗|やみ}}と何の{{r|交|まじわ}}ることのあらん、神の{{r|殿|でん}}は偶像と何の同じきことのあらん』〔{{二重線|コリンフ}}後六の十五、十六〕、故に己を神の{{r|殿|でん}}と{{r|認|みと}}むべく、{{r|思|おもい}}の偶像を心中に{{r|画|えが}}かざらんことを{{r|力|つと}}めよ。けだし{{r|霊魂|たましい}}の{{r|中|うち}}に動作する{{r|凡|すべ}}ての{{r|情慾|じょうよく}}は偶像なり、故に『勝たるゝ者は勝つ者の奴隷たり』とは{{r|最|いと}}{{r|善|よ}}く言へるなり〔<u>ペトル</u>後二の十九〕。もし我等は肉体の慾に{{r|勤|つと}}むるならば、{{r|聖|せい}}にして無慾なる{{r|神|しん}}につとめざらんこと{{r|明|あきらか}}なり、何となれば人は『{{r|二人|ふたり}}の主に{{r|事|つか}}ふるあたはず、{{r|神|かみ}}と{{r|財|たから}}とに{{r|兼|かね}}{{r|事|つか}}ふること{{r|能|あた}}はざればなり』〔<u>マトフェイ</u>六の二十四〕。{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}は聖にして『{{r|汚|けがれ}}{{r|或|あるい}}は{{r|此|かく}}の如きもの』を有せず〔{{二重線|エフェス}}五の二十七〕、『けだし{{r|聖神|せいしん}}は{{r|諂|てん}}{{r|媚|び}}を避け、{{r|無智|むち}}{{r|者|しゃ}}の{{r|思念|おもい}}より遠ざかり、{{r|教|おしえ}}は{{r|奸猾|かんかつ}}なる{{r|霊魂|たましい}}に{{r|入|い}}らざるなり』〔知恵書一の四、五〕。 ゆゑに我等が律法はすべて{{r|神|かみ}}の{{r|指|ゆび}}を{{r|以|もつ}}て心にしるさるゝものにて、{{傍点|style=open circle|{{r|墨|すみ}}を以てするにあらず}}、{{r|神|かみ}}の{{r|神|しん}}を{{r|以|もつ}}てする〔{{二重線|コリンフ}}後三の三〕ものなるを確信して、『我は真実なり』〔<u>イオアン</u>十四の七〕との{{r|給|たま}}ひし立法者の真実をうけん、彼は心の割礼を{{r|行|おこな}}ひ、適当なる者の{{r|裁|さい}}{{r|智|ち}}に{{r|其|その}}{{r|仁|じん}}{{r|慈|じ}}の{{r|法|ほう}}をしるすこと、預言者のいへる如し、曰く『われ我が{{r|律法|りっぽう}}を彼等の心に置き、彼等の{{r|思|おもい}}にしるさん』〔<u>イエレミヤ</u>三十一の三十三〕。{{傍点|style=open circle|{{r|凡|およ}}そ選ばれたる族}}と、{{傍点|style=open circle|王たる祭司班}}と、{{傍点|style=open circle|聖なる人民}}と、選ばれたる{{傍点|style=open circle|人}}〔<u>ペトル</u>前二の九〕の{{r|中|うち}}に{{r|入|い}}らんことを苦心する者は、{{r|生活|せいかつ}}を{{r|施|ほどこ}}す{{r|神|しん}}の{{r|効力|こうりょく}}を{{r|便|べん}}{{r|利|り}}に{{r|己|おの}}れにうけん。|[p.430]}} [p.430] 感覚において、光の中を歩む者はつまずかないのと同様に、精神において、完全な聖さの中に留まる者は悪を考えず、悪の理性を働かせません。なぜなら、「光と闇との交わりはなく、教会と偶像との結びつきもない」(コリント第二 6章15-16節)からです。ですから、自分自身を神の神殿であると認識し、心の中に偶像を描かないように努めなさい。魂に働くすべての情欲は偶像です。ですから、「人は何に打ち負かされるかによって、その者のしもべとなる」(ペテロ第二 2章19節)と美しく言われています。もし私たちが肉欲に囚われているなら、明らかに、私たちは聖なる、情欲のない聖霊に囚われていません。なぜなら、「だれも二人の主人に仕えることはできない。あなたがたは、神と富に仕えることはできない」(マタイ 6章24節)と言われているからです。神の神殿は聖なるものであり、「汚れも、しわも、そのようなものは一切ない」(エフェソ 5章27節)のです。「聖霊は欺きから逃げ去り、理性のない考えから遠ざかり、悪しき魂に入り込むことはない」(知恵書 1章4-5節)のです。 したがって、私たちの律法全体が神の指によって、インクではなく神の霊によって心に書かれていることを確信した私たちは、 「わたしは真理である」(ヨハネ14章7節)と言われた律法授与者の真理を受け入れましょう。神は、預言者が言うように、「わたしの律法を彼らの心に与え、わたしはそれを彼らの心に書き記す」(エレミヤ31章33節)ように、ふさわしい者の心に割礼を施し、その善の律法を書き記してくださいます。「選ばれた世代」、「王なる祭司」、「聖なる国民」 、「選ばれた民」(ペテロ第一2章9節)に入ろうとする者は皆、命を与える聖霊の効力を喜んで受け入れます。 [p.431] {{Quotation|故に<u>ハリストス</u>に{{r|於|おけ}}る生活の<u>ハリストス</u>と同形なる公正に{{r|進|すゝ}}むを、{{r|縦|たと}}ひ久しからずと{{r|雖|いへど}}も、我等にも{{r|賜|たま}}はらんことを{{r|願|ねが}}ひ{{r|且|かつ}}祈るべし。けだし{{r|如此|かくのごとき}}の{{r|霊魂|たましい}}は{{傍点|style=open circle|面の恥}}〔[[第六「カフィズマ」#43:16|聖詠四十三の十六]]〕を脱し、{{r|最早|もはや}}汚れたる{{r|思|おもい}}に占領せられず、{{r|悪者|あくしゃ}}と{{r|姦通|かんつう}}せずして、{{r|疑|うたがい}}なく天の{{r|新郎|しんろう}}と{{r|親|しん}}{{r|与|よ}}をなさん、何となれば{{r|自|みづ}}から彼と{{r|同形|どうけい}}なればなり。彼に対するの愛を以て刺激せられたる{{r|霊魂|たましい}}は望みて{{r|絶|たえ}}{{r|入|い}}らん〔[[第十一「カフィズマ」#83:1|聖詠八十三の一]]〕。{{r|我|われ}}{{r|敢|あえ}}ていふ、{{r|成聖|せいせい}}を{{r|享|うく}}ることの{{r|不|ふ}}{{r|朽|きゅう}}なる{{r|契約|けいやく}}により、彼とかくの如く{{r|美|び}}なる{{r|心中|しんちゅう}}{{r|秘|ひ}}{{r|密|みつ}}の{{r|体合|たいごう}}を{{r|為|な}}すを望まん。{{r|如此|かくのごとき}}の{{r|霊魂|たましい}}は実に幸福なり、彼は{{r|霊神|れいしん}}{{r|上|じょう}}の愛に勝たれたつものとして、{{r|神|かみ}}{{r|言|ことば}}に{{r|嫁|か}}すること当然なり、故に彼は{{r|敢|あえ}}て言ふべし、左の如く言ふべし、曰く『我が{{r|霊|たましい}}はわが{{r|神|かみ}}をたのしまん、そは我に{{r|救|すくい}}の{{r|衣|ころも}}をきせ、義の{{r|外服|がいふく}}をまとはせて、{{r|新郎|しんろう}}が{{r|冠|かんむり}}をいたゞき、{{r|新|しん}}{{r|婦|ぷ}}が{{r|玉|たま}}こがねの{{r|飾|かざり}}をつくるが如くしたまへばなり』〔<u>イサイヤ</u>六十一の十〕けだし{{r|王|おう}}は彼の善良を望みて〔[[第六「カフィズマ」#44:12|聖詠四十四の十二]]〕、彼をたゞ{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}と名づくるのみならず、{{r|王|おう}}の{{r|女|むすめ}}及び{{r|皇后|こうごう}}と名づくるを{{r|賜|たま}}へり、{{r|神|かみ}}の{{r|殿|でん}}と名づくるは{{r|聖神|せいしん}}の{{r|為|ため}}に{{r|領有|りょうゆう}}せられたるによる、{{r|王|おう}}の{{r|女|むすめ}}と名づくるは{{r|父|ちゝ}}より光の子たることをうけたるによる、{{r|又|また}}{{r|皇后|こうごう}}と名づくるは{{r|独生|どくせい}}{{r|者|しゃ}}の{{r|光栄|こうえい}}の{{r|神性|しんせい}}と{{r|配合|はいごう}}せしによるなり。|[p.431]}} [p.431] ですから、たとえほんの短い間であっても、私たちもキリストにおける一貫した正しい生き方に近づくにふさわしい者と認められるよう、祈り求めましょう。そのような魂は、「顔の恥」(詩篇44篇16節)を捨て、もはや不純な思いにとらわれることもなく、もはや悪魔と姦淫を犯すこともなく、疑いなく天の花婿との交わりに入ります。なぜなら、その魂自体が一貫した生き方をしているからです。主への愛によって傷つき、「切望し、そして尽き果てた」(詩篇84篇1節)のです。あえて言えば、聖なる交わりの朽ちることのない絆を通して、主との美しく神秘的な結びつきを切望しているのです。そのような魂は、真に祝福され、幸福です。霊的な愛に打ち勝った魂は、神の言葉にふさわしく婚約しているのです。それゆえ、彼女は大胆に語り、こう言うであろう。「わが魂は主にあって喜びます。主はわたしに救いの衣と喜びの衣を着せ、花婿のようにわたしに冠を授け、花嫁のようにわたしを美しく飾ってくださいました」(イザヤ書61章10節)。王は彼女の美しさを望み(詩篇44篇12節)、彼女を神の神殿だけでなく、王女、王妃とも呼ぶにふさわしい者とみなした。神の神殿とは、聖霊によって養子とされた者であり、王女とは、光の父から養子とされた者であり、王妃とは、独り子の栄光の神性と結びついた者なのである。 [p.432] {{Quotation|けだし本性に{{r|於|おい}}て{{r|一|いつ}}たる主は、いかんして人間の{{r|救|すくい}}の摂理の為に多くの名を{{r|比喩|ひゆ}}{{r|的|てき}}に{{r|己|おのれ}}にうけしか。{{r|何故|なにゆえ}}{{r|甲処|こうしょ}}には{{r|石|いし}}〔{{二重線|コリンフ}}前十の四〕及び門〔<u>イオアン</u>十の七〕と名づけ、{{r|他|た}}{{r|処|しょ}}には{{r|斧|おの}}〔<u>ルカ</u>十五の一〕及び{{r|餅|ぱん}}と名づけしか〔同六の三十五〕。{{r|石|いし}}と名づけしは{{r|其|その}}{{r|勢力|せいりょく}}の動かすべからざると近づくべからざるとによる、{{r|門|もん}}と名づけしは彼によりて{{r|永世|えいせい}}に{{r|入|い}}るによる、{{r|斧|おの}}とは彼は{{r|悪習|あくしゅう}}の{{r|根|ね}}を{{r|絶|た}}つによる、{{r|路|みち}}とは適当なる者を真実を{{r|識|し}}るにみちびくによる、{{r|葡|ぶ}}{{r|萄|どう}}の{{r|幹|みき}}とは{{r|人心|じんしん}}をたのしましむる{{r|酒|さけ}}が彼によりて{{r|産|さん}}せらるゝによる、また{{r|餅|ぱん}}とは{{r|有言|ゆうげん}}なる{{r|造物|ぞうぶつ}}の{{r|心|こゝろ}}を{{r|堅|かた}}むるによるなり。しかれどもこれと同じく{{r|神|かみ}}{{r|言|ことば}}の為に領有せられたる非難すべからざる{{r|霊魂|たましい}}も、{{r|固|もと}}より{{r|単純|たんじゅん}}なるものなれど、{{r|神的|しんてき}}{{r|道徳|どうとく}}に多くの進歩をなすにしたがひて、{{r|賜|たまもの}}をうけん。我が{{r|此事|このこと}}をいふは{{r|新|しん}}{{r|婦|ぷ}}の名称も{{r|勿論|もちろん}}たゞ{{r|三|みつ}}のみにあらずして、{{r|更|さら}}に{{r|多|おほ}}かるべきによるなり。 ゆゑに{{r|神|かみ}}の{{r|聖所|せいしょ}}に{{r|入|い}}りて、『我等が{{r|年少|ねんしょう}}を{{r|楽|たのし}}ましむる{{r|神|かみ}}に』〔[[第六「カフィズマ」#42:4|聖詠四十二の四]]、{{r|希臘|ギリシャ}}訳文〕{{r|就|つ}}かざらん{{r|間|あいだ}}は、{{r|此|こ}}の{{r|労|ろう}}は我等の面前にあるを知るべし、けだし我等なほ肉体にあるも、{{r|主|しゅ}}の{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}を、たまはり、{{r|成聖|せいせい}}を{{r|遂|と}}げんことは、救世主の{{r|悦|よろこ}}ぶ所にして、{{r|其時|そのとき}}には、{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如くいふを{{r|得|え}}ん、曰く『我等は肉に在りて{{r|行|おこな}}へども、肉に{{r|循|したが}}ひて{{r|戦|たゝか}}はず、我等が{{r|戦|たゝかい}}の{{r|器|うつわ}}は肉に属せず、{{r|乃|すなわち}}{{r|神|かみ}}に{{r|由|よ}}りて{{r|塁|とりで}}を{{r|破|やぶ}}る{{r|能|ちから}}あり、我等{{r|此|これ}}を以て{{r|諸|もろもろ}}の{{r|謀|はかりごと}}と{{r|凡|およ}}そ{{r|神|かみ}}の知識に{{r|逆|さか}}ふ高慢とを破る』〔{{二重線|コリンフ}}後十の三至五〕。|[p.432]}} [p.432] 本質において唯一の主が、人類の救済という摂理のために、いかにして比喩的な意味で多くの名前を身にまとわれたことだろうか。なぜイエスは、ある箇所では岩(コリント第一 10章4節)や戸口(ヨハネ 10章7節)と呼ばれ、別の箇所では斧(ルカ 3章9節)や道(ヨハネ 14章6節)と呼ばれ、またぶどうの木やパン(ヨハネ 6章35節)とも呼ばれるのでしょうか。―岩と呼ばれるのは、イエスの力の揺るぎなさと近づきがたい性質によるものです。―戸口と呼ばれるのは、イエスを通して永遠の命に入ることができるからです。―斧と呼ばれるのは、イエスが悪の根源を断ち切るからです。―道と呼ばれるのは、イエスがふさわしい者を真理の知識へと導くからです。―ぶどうの木と呼ばれるのは、イエスが人の心を喜ばせる実り豊かなぶどう酒を実らせるからです。そして同様に、パンと呼ばれるのは、イエスが理性を持つ被造物の心を強くするからです。同様に、神の言葉に似た、それ自体は単純でありながら、多くの霊的な徳を積むことによって、罪のない魂もまた賜物を受けるに値するとみなされるのです。私がこのように述べたのは、花嫁の称号は三つだけでなく、多くの称号を持つからです。 そして、この労苦は、私たちが神の聖所に入るまで、すなわち「私たちの若さを喜ばれる神のもとへ」(詩篇43章4節)に入るまで、私たちの前に立ちはだかっていることを知っておきなさい。救い主は、私たちがまだ肉体の中にいる間に、主の無情にふさわしく、聖さに満たされることを喜ばれるからです。そして、その時、私たちは大胆にこう言うことができます。「私たちは肉体の中にいる間は、肉に従って戦いません。私たちの戦いの武器は肉的なものではなく、神によって力強く、滅びに強く、あらゆる考えや、神の知識に逆らって高ぶるあらゆる高慢なものを打ち砕くからです」(コリント第二10章3-5節)。 [p.433] {{Quotation|故に{{r|尚|なほ}}{{r|此処|こゝ}}に{{r|於|おい}}ても我等は罪なる{{r|慾|よく}}を十字架に{{r|釘|くぎ}}すること、預言者の{{r|祈祷|きとう}}の如くすべし、曰く『我が肉体を{{r|爾|なんぢ}}を{{r|畏|おそ}}るゝの{{r|畏|おそ}}れに{{r|釘|くぎ}}す』〔[[第十七「カフィズマ」#118:120|聖詠百十八の百二十]]〕。けだし{{r|使徒|しと}}のいはゆる『神の国を{{r|嗣|つ}}ぐあたはざる』〔{{二重線|コリンフ}}前十五の五十〕肉と血とは、{{r|此|こ}}の{{r|見|み}}ゆる{{r|体|からだ}}をいふにあらずして、〔彼は{{r|神|かみ}}の造る所なり〕{{傍点|style=open circle|{{r|悖逆|はいぎゃく}}の子}}〔{{二重線|エフェス}}二の二〕の{{r|中|うち}}に行為する凶悪の{{r|神|しん}}によりて{{r|起|おこ}}さるゝ肉体の{{r|念慮|ねんりょ}}を指す、何となれば<u>ハリストス</u>に{{r|於|お}}ける完全なる苦行者のために『{{r|戦|たゝかい}}は{{r|血肉|けつにく}}に{{r|於|おい}}てするに非ず、{{r|此|こ}}の{{r|暗昧|あんまい}}の{{r|世|せ}}{{r|君|くん}}に{{r|於|おい}}てし、凶悪の{{r|諸神|しょしん}}に{{r|於|おい}}てすればなり』〔{{二重線|エフェス}}六の十二〕。 故にもし{{r|此|こ}}の行為は天性自然の行為にあらずして、反対なる{{r|力|ちから}}の行為なるを{{r|認|みと}}むるならば、彼等に対して<u>ハリストス</u>の{{r|全|まつた}}き{{r|軍|ぐん}}{{r|備|び}}をおのれにうけ、『{{r|其|そ}}の{{r|奸計|はかりごと}}を{{r|禦|ふせ}}ぐを{{r|得|う}}べし』〔{{二重線|エフェス}}六の十一〕何となれば救世主は『{{r|蛇|だ}}{{r|蝎|かつ}}及び{{r|悉|ことごと}}くの{{r|敵|てき}}の{{r|力|ちから}}を{{r|踏|ふ}}む』の{{r|権|けん}}を我等に{{r|賜|たま}}ふによる〔<u>ルカ</u>十一の十九〕。{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}{{r|尚|なほ}}{{r|肉体|にくたい}}に{{r|居|を}}るも{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如く{{r|言|い}}ふを{{r|得|え}}んが為なり、曰く『もしわが心に不法のあるを{{r|見|み}}しならば主はわれに{{r|聴|き}}かざらん』〔[[第九「カフィズマ」#65:18|聖詠六十五の十八]]〕また曰く『{{r|我|われ}}{{r|尤|とが}}なしといへども、彼等は{{r|趨|は}}せ{{r|集|あつ}}まりて{{r|武具|ぶぐ}}をそなふ』〔同上五十八の五〕と、これ{{r|言|いふ}}{{r|意|こゝろ}}は我等は{{r|志|こゝろざ}}す所に進行し、{{r|即|すなわち}}{{r|上|うえ}}より{{r|召|め}}す所の{{r|褒章|ほうしょう}}に{{r|進向|しんこう}}しつゝ、如何なる肉体の慾もあるなうして、天に生涯を送ること{{r|易|やす}}からん。けだし{{r|諸|もろもろ}}の慾に遠ざかりて{{r|敢|あえ}}て{{r|左|さ}}の如く{{r|言|い}}ふことを{{r|得|う}}ればなり、曰くたゞに{{傍点|style=open circle|信を守る}}のみならず、{{傍点|style=open circle|{{r|馳|は}}すべき程を尽せり}}〔<u>テモフェイ</u>後四の七〕。|[p.433]}} [p.433] ですから、私たちはここでもなお、預言者の祈りに従って、罪深い情欲を十字架に釘付けにしなければなりません。「あなたへの畏れをもって、私の肉体を釘付けにしてください」(詩篇119篇120節)。使徒が「彼らは神の国を受け継ぐことができない」(コリント第一 15章50節)と言っている肉と血とは、この目に見える体(それは神によって創造されたもの)のことではなく、悪霊によって起こされ、「不従順な者たちのうちに働く」(エフェソ 2章2節)肉の知恵のことである。なぜなら、キリストにおいて完成された禁欲主義者は「肉と血と戦うのではなく、この世の闇の支配者、悪霊と戦う」(エフェソ 6章12節)からである。 したがって、この行為が自然なものではなく、敵対勢力の行為であると認めるならば、キリストの完全な武具を身に着けて敵対勢力に対抗すれば、「彼らの策略に立ち向かう」ことができるでしょう(エフェソ6章11節)。なぜなら、救い主は私たちに「蛇やサソリを踏みつけ、敵対者のあらゆる力に打ち勝つ」力を与えてくださるからです(ルカ10章19節)。そのため、肉体の中にいる間も、「もし私の心に不義を見たなら、主は私の祈りを聞いてくださらないでしょう」(詩篇66篇18節)と大胆に言うことができ、「私は不義なく走り、物事を正しました」(詩篇59篇5節)と言え、つまり、肉欲に駆られることなく、天国での生活を快適に過ごし、「高き召しの賞」(フィリピ3章14節)を目指して努力することができるのです。なぜなら、私たちはあらゆる情欲から遠ざかっているので、「信仰を守り通した」だけでなく、「走るべき道のりを走り終えた」と大胆に言うことができるからです(テモテ第二 4章7節)。 [p.434] {{Quotation|たゞ<u>ハリストス</u>を信ずるのみならず、彼と共に{{r|苦|くるしみ}}をうくることも{{r|肝要|かんよう}}なり、{{r|録|ろく}}していへる如し、『{{r|汝|なんぢ}}{{r|等|ら}}に{{r|賜|たま}}はりしはたゞ彼を信ずるのみならず、{{r|亦|また}}彼の為に{{r|苦|くるしみ}}をうくることなり』〔{{二重線|フィリッピ}}一の二十九〕。たゞ{{r|神|かみ}}を信ずるのみは地上の事を{{r|念|おも}}ふ{{r|者|もの}}に相応するのみならず、不潔の{{r|神|しん}}にさへ相応するは我が{{r|言|ことば}}を{{r|俟|ま}}たざるべし、いへらく『{{r|我|われ}}{{r|爾|なんぢ}}が{{r|誰|たれ}}なるを{{r|知|し}}る、{{r|乃|すなわ}}ち神の子なり』〔<u>マルコ</u>一の二十四、<u>マトフェイ</u>八の二十九〕。『けだし彼も{{r|此|これ}}も<u>ハリストス</u>の十字架の敵なり、彼等が{{r|終|おわり}}は{{r|滅亡|めつぼう}}なり、彼等が{{r|神|かみ}}は{{r|腹|はら}}なり、彼等が{{r|栄|えい}}とする所は{{r|辱|はぢ}}なり、彼等は地上の事を{{r|念|おも}}ふ』〔{{二重線|フィリッピ}}三の十八、十九〕と見るか十字架の敵はたゞ背教者の{{r|力|ちから}}のみにあらず、地上の事を{{r|念|おも}}ふ者も{{r|亦|また}}{{r|然|しか}}るを。しかれども<u>ハリストス</u>と共に{{r|苦|くるし}}みをうけて共に{{r|栄|えい}}せらるゝことはたゞ{{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|於|おい}}て{{r|己|おのれ}}を十字架に{{r|釘|くぎ}}して主の{{r|疵|きず}}を{{r|己|おのれ}}の{{r|体|からだ}}に{{r|負|お}}ふ{{r|者|もの}}のみ{{r|能|よく}}し{{r|得|う}}るなり。|[p.434]}} [p.434] 人はキリストを信じるだけでなく、キリストと共に苦しまなければなりません。聖書にこう書いてあるとおりです。「あなたがたには、キリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことも許されているのです」(フィリピ1章29節)。神だけを信じるというのは、地上のことばかり考える人、あるいは汚れた霊のような人たちの特徴です。彼らは「私たちはあなたが誰であるかを知っています。あなたは神の子です」(マルコ1章24節、マタイ8章29節)と言います。前者も後者も「キリストの十字架の敵であり、その最後は滅びです。彼らの神は腹であり、彼らの栄光は恥辱の中にあります。彼らは地上的な考え方をする者です」 (フィリピ3章18、19節)。背教者だけでなく、地上のことばかり考える人たちも十字架の敵であることがお分かりでしょうか。この世で自らを十字架につけ、主の傷を身に負う者だけが、キリストと共に苦しみ、キリストと共に栄光を受けることができるのです。 [p.435] {{Quotation|哲学を正しく{{r|攻究|こうきゅう}}して、{{r|霊魂|たましい}}を悪の{{r|汚穢|けがれ}}より{{r|救|すく}}ふ者は、哲学の目的を{{r|精確|せいかく}}に知らんこと{{r|肝要|かんよう}}なり、進行の{{r|労|ろう}}と{{r|経|けい}}{{r|過|か}}の{{r|終|おわり}}とを{{r|確|かく}}{{r|知|ち}}して、{{r|高慢|こうまん}}と{{r|功労|こうろう}}のことを{{r|思|おも}}ふ{{r|意思|いし}}とを{{r|全|まつた}}く{{r|斥|しりぞ}}け、聖書の{{r|誡命|かいめい}}にしたがひ、{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|たましい}}と{{r|生命|いのち}}をすてゝ{{r|一|いつ}}の{{r|富|とみ}}に{{r|注目|ちゅうもく}}せん{{r|為|ため}}なり、{{r|即|すなわち}}{{r|神|かみ}}が{{r|凡|およ}}そ{{r|甘|あま}}んじて{{r|苦|く}}{{r|行|ぎょう}}を{{r|自|みづ}}から{{r|任|にな}}はんと決心したる者を呼びて、{{r|其|その}}愛する所の者に<u>ハリストス</u>を愛したる{{r|為|ため}}の{{r|報償|ほうしょう}}として定め給ひしものに注目せん{{r|為|ため}}なり、{{r|此|かく}}の如き苦行の経過に{{r|於|おい}}て彼等に{{r|充分|じゅうぶん}}の{{r|路|ろ}}{{r|用|よう}}を{{r|給|きゅう}}するは<u>ハリストス</u>の十字架なり、されば彼等は{{r|此|これ}}を{{r|負|お}}ふて、{{r|楽|たのし}}みと{{r|善|ぜん}}なる{{r|希|き}}{{r|望|ぼう}}とを以て救世主<u>ハリストス</u>の{{r|跡|あと}}にしたがひ、{{r|其|その}}摂理を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|生命|いのち}}の{{r|法|ほう}}となし、{{r|路|みち}}となさんこと肝要なり、使徒の{{r|自|みづ}}から{{r|言|い}}へる如し、曰く『{{r|爾|なんぢ}}{{r|等|ら}}我に{{r|效|なら}}ふ者となれ、我が<u>ハリストス</u>に{{r|效|なら}}ふが{{r|如|ごと}}し』〔{{二重線|コリンフ}}十一の一〕又いふ『忍耐を以て我等の前にある{{r|馳|はせ}}{{r|場|ば}}を{{r|趨|はし}}りて、我等の{{r|信|しん}}の{{r|首|かしら}}及び{{r|成全|せいぜん}}{{r|者|しゃ}}なる<u>イイスス</u>を{{r|仰|あお}}ぎ{{r|望|のぞ}}むばし、彼は{{r|其|その}}{{r|前|まえ}}に{{r|在|あ}}る{{r|喜|よろこび}}に{{r|易|か}}へて{{r|辱|はぢ}}を{{r|意|い}}とせず、十字架を忍びて{{r|神|かみ}}の{{r|宝|ほう}}{{r|座|ざ}}の右に{{r|坐|ざ}}せり』〔{{二重線|エウレイ}}十二の一、二〕。 われらは{{r|神|かみ}}の{{r|賜|たまもの}}を以て{{r|自|みづ}}から{{r|高|たか}}ぶり、道徳に進むの{{r|或|あ}}る進歩を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|高慢|こうまん}}と{{r|称賛|しょうさん}}の{{r|為|ため}}の{{r|縁|えん}}{{r|由|ゆ}}となして、望む所の{{r|終|おわ}}りに{{r|達|たつ}}せざる{{r|先|さき}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|志|こゝろざし}}の{{r|撓|たわ}}まざらんが{{r|為|ため}}、{{r|高慢|こうまん}}により先になせる勤労を{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に無益となさゞらんが{{r|為|ため}}、及び{{r|神|しん}}の{{r|恩寵|おんちょう}}の我等を{{r|引誘|いんゆう}}する{{r|成全|せいぜん}}に{{r|堪|た}}へざるものとならざらんが{{r|為|ため}}に{{r|戦々|せんせん}}{{r|競々|きょうきょう}}たらざるべからざるなり。|[p.435]}} [p.435] 哲学を正しく愛することを学び、悪徳の汚れから魂を解放した人々は、哲学を愛することの目的を正確に知っていなければなりません。旅の苦労と道のりの終わりを学んだ後、彼らはすべての傲慢と功績の考えを捨て、聖書の戒めに従って、魂と命を捨て、キリストを愛する者たちへの報いとして神が定めた一つの富を心に留め、喜んで闘いに挑むことを決めたすべての人をそれに招き入れます。そして、そのような闘いの通過のために、キリストの十字架は十分な別れの贈り物です。彼らはそれを背負い、救い主である神の足跡に従い、使徒自身が言ったように、「わたしがキリストに倣っているように、あなたがたもわたしに倣いなさい」 (コリント第一 11章節1)というように、神の摂理を自分たちの律法と生き方としなければなりません。また、「信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめながら、私たちの前に置かれている戦いに向かって忍耐をもって走り続けましょう。イエスは、ご自身の前に置かれた喜びのために、恥辱を気にせず十字架を耐え忍び、 神の御座の右に座られました」 (ヘブライ12章1-2節)。 私たちは、聖霊の賜物によって高められ、徳における進歩を傲慢と自慢の言い訳にしてしまい、望む終着点に到達する前に努力を怠り、それまでの努力を無益なものにしてしまい、聖霊の恵みによって導かれた完全さにふさわしくない者となってしまうことのないよう、注意しなければなりません。 [p.436] {{Quotation|故に勤労に{{r|於|おけ}}るの{{r|尽力|じんりょく}}を決して{{r|弱|よわ}}むべからず、{{r|眼前|がんぜん}}にある所の苦行を{{r|辞|じ}}するべからず、もし先に何か遂げし所あらんには、それを以て熱心を{{r|劃|かぎ}}るべからず、{{r|乃|すなわち}}{{r|使徒|しと}}の如く{{傍点|style=open circle|後}}を忘れて{{傍点|style=open circle|前}}に進み〔{{二重線|フィリッピ}}三の十三〕、{{r|成全|せいぜん}}を{{r|求|もと}}むる者が{{r|飽|あ}}くを知らずして{{r|独|ひと}}り{{r|飢|き}}{{r|渇|かつ}}する所の義の{{r|願|ねがい}}を{{r|有|ゆう}}し、勤労の為に{{r|慮|おもんぱか}}りて心肝を{{r|摧|くだ}}かんこと{{r|肝要|かんよう}}なり。彼等は{{r|許約|きょやく}}せられたる幸福を{{r|距|さ}}ること{{r|猶|なほ}}遠くして、<u>ハリストス</u>の完全なる愛に多く{{r|達|たつ}}せざる者なるにより、{{r|謙遜|けんそん}}なる者となり、恐れに満てる者とならざるべからず。けだし{{r|此|この}}{{r|愛|あい}}を{{r|切願|せつがん}}して、天の約束を{{r|仰望|ぎょうぼう}}する者は、{{r|禁食|きんしょく}}するか、{{r|儆醒|けいせい}}するか、{{r|或|あるい}}は他のいかなる{{r|徳行|とくこう}}に熱心するも、以前の功労を以て{{r|自|みづか}}ら{{r|高|たか}}ぶらざるべく、{{r|却|かへつ}}て神聖なる{{r|望|のぞみ}}にみたさるゝ彼は{{r|己|おのれ}}を呼ぶ所の者に{{r|間断|かんだん}}なく{{r|眼|め}}を{{r|注|そゝ}}ぎて、いくばく{{r|奮闘|ふんとう}}するも{{r|其|その}}{{r|志|こゝろざ}}す所のものに{{r|比|くら}}ぶれば{{r|全|まつた}}く小なりと{{r|思|おも}}ふべし。されば{{r|其|その}}{{r|行|おこない}}により{{r|己|おのれ}}を{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に尊敬すべき者とあらはさゞらん{{r|間|あいだ}}は、{{r|労|ろう}}に{{r|労|ろう}}を{{r|加|くは}}へ、{{r|徳行|とくこう}}に{{r|徳行|とくこう}}を{{r|重|かさ}}ぬるも、{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に適当なる者となれりとの{{r|意思|いし}}を心に{{r|懐|いだ}}かずして、{{r|此|こ}}の{{r|生命|いのち}}の{{r|終|おわり}}に{{r|至|いた}}るまで{{r|悉|ことごと}}くの{{r|尽力|じんりょく}}を{{r|用|もち}}ひん。けだし{{r|行|おこない}}に{{r|於|おい}}て{{r|大|おほい}}なる者は{{r|神|かみ}}を{{r|畏|おそ}}るゝを{{r|以|もつ}}て{{r|自負|じふ}}を{{r|地|ち}}に{{r|擲|なげう}}ちて、心を謙遜し、生活の為に{{r|己|おのれ}}を{{r|罪|つみ}}し、信じて愛するの{{r|度|ど}}により{{r|許約|きょやく}}を{{r|楽|たのし}}みて、{{r|自|みづ}}から{{r|労|ろう}}するの{{r|如何|いかん}}を{{r|以|もつ}}てせざるは、これぞ{{r|哲学|てつがく}}の{{r|最|もつとも}}{{r|卓越|たくえつ}}せる{{r|功労|こうろう}}なる。けだし{{r|賜|たまもの}}は{{r|大|おほい}}なるにより、これに{{r|相応|そうおう}}する{{r|勤労|きんろう}}を{{r|見|み}}{{r|出|いだ}}すことあたはざればなり。|[p.436]}} [p.436] ですから、私たちは決して努力を怠ってはならず、これから待ち受ける苦闘を放棄してはならず、既に達成したことにのみ熱意を限定してはなりません。しかし、使徒によれば、「過去のことは忘れ」、「未来のことに向かって身を伸ばし」(フィリピ3章13節)、努力に対する思いを胸に抱き、完全さを目指す者だけが切望し渇望すべき義への飽くなき渇望を持ち続けなければなりません。彼らは、約束された祝福からまだ遠く離れており、キリストの完全な愛には程遠いので、謙遜になり、畏れを抱かなければなりません。なぜなら、この愛を望み、天の約束を見つめる者は、断食をしたり、徹夜したり、他の徳を積んだりしても、過去の功績によって自分を高めることはなく、神への切なる願いに満たされ、自分を召してくださる方に絶えず目を向け、どんなに努力しても、自分が目指すものに比べれば、すべてを小さなものと考えるからです。彼は生涯の終わりまで、あらゆる努力を尽くし、労苦に労苦を重ね、徳に徳を重ね、自分の行いによって神の前に立派な者として現れるまで努力しますが、自分が神の前にふさわしい者になったとは決して考えません。知恵を愛する者の最も優れた功績は、行いに優れた者が心を低くし、自らの生き方を悔い改め、神への畏れをもって傲慢さを打ち砕き、信じて愛した度合いに応じて約束を享受し、働いた度合いに応じて享受しないことである。賜物は大きいので、それに見合う働きを見出すことは不可能である。 [p.437] {{Quotation|さりながら{{r|信|しん}}と{{r|望|ぼう}}とは{{r|大|おほい}}ならざるべからずして、これを{{r|以|もつ}}て報酬を測るべく、勤労を以てすべからざるなり。{{r|然|しか}}して{{r|信|しん}}の{{r|根本|こんぽん}}は{{r|心神|しんしん}}の{{r|貧|まづ}}しきと{{r|神|かみ}}に対する{{r|無|む}}{{r|量|りょう}}の{{r|愛|あい}}とにあり。 希望の目的に応じ、哲学によりて、生活せんと決心したる者の{{r|為|ため}}に{{r|余|よ}}は{{r|充分|じゅうぶん}}にのべたりと{{r|思|おも}}ふ。{{r|今|いま}}{{r|又|また}}これに{{r|加|くは}}ふるにかくの如き者はいかに{{r|互|たがい}}に{{r|交際|こうさい}}して{{r|如何|いか}}なる{{r|労|ろう}}を{{r|愛|あい}}するを{{r|要|よう}}するかを示すべし、{{r|天|てん}}{{r|都|と}}に{{r|達|たつ}}するに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}{{r|其|その}}進行を協力して{{r|成|な}}さん{{r|為|ため}}なり。 {{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|於|おい}}て尊敬すべきと認めらるゝものを{{r|断|だん}}じて{{r|尊|たつと}}ばず、{{r|親族|しんぞく}}を{{r|棄|す}}て、もろ{{く}}{{r|地下|ちか}}の{{r|栄|さかえ}}を{{r|棄|す}}てゝたゞ{{r|天上|てんじょう}}の{{r|尊栄|そんえい}}に{{r|着眼|ちゃくがん}}し、{{r|神|かみ}}による{{r|兄弟|けいてい}}と{{r|心神|しんしん}}にて{{r|結合|けつごう}}する{{r|者|もの}}は、{{r|世|よ}}と{{r|共|とも}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|たましい}}をも{{r|棄|す}}つること{{r|肝要|かんよう}}なり。{{r|霊魂|たましい}}を{{r|棄|す}}つとは{{r|何|なに}}に{{r|於|おい}}ても{{r|己|おのれ}}の{{r|旨|むね}}を求めずして、{{r|反|かへ}}つて{{r|己|おのれ}}の{{r|旨|むね}}を{{r|矯正|きょうせい}}し、{{r|院長|いんちょう}}を以て己の為に{{r|神|かみ}}の{{r|言|ことば}}となして、これを{{r|益用|えきよう}}すること、{{r|善良|ぜんりょう}}なる{{r|舵師|だし}}の如くし、{{r|兄弟|けいてい}}{{r|社会|しゃかい}}のすべてを{{r|挙|あ}}げて、{{r|同心|どうしん}}{{r|協力|きょうりょく}}して、{{r|神|かみ}}の{{r|旨|むね}}の{{r|湊|みなと}}に{{r|向|むか}}はしむるにあり。|[p.437]}} [p.437] しかし、信仰と希望は大きくなければならない。それによって報いが測られ、働きによって測られるのではない。信仰の土台は、霊的な貧しさと神への計り知れない愛である。 希望の目標に従って、知恵に満ちた人生を送ろうと決意した人々については、すでに十分なことが述べられたと思います。今、私たちは、そのような人々が互いにどのように接し、どのような働きを愛すべきか、そして共に歩みを進めて天の都に到達できるようにすべきことについて、付け加えなければなりません。 この世で尊ばれるとされるものを断固として軽んじ、家族を捨て、地上の栄光を全て捨て去る者であっても、天上の栄誉を心に抱き、神において兄弟たちと霊的に結びついている者は、この世と共に自らの魂をも捨て去らなければならない。魂の放棄とは、何事においても自らの意志を求めず、むしろ自らの意志を正し、神の言葉を自らの長とし、それを良き舵取り役として、兄弟たち全体を神の意志という港へと一斉に導くことにある。 【以下未入力(p.438-457)】 :::[[埃及マカリイ全書/書簡#エジプトマカリオスの大書簡|先頭に戻る↑]] {{DEFAULTSORT:えしふとまかりいせんしよ しよかん}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:埃及マカリイ全書|51]] {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- 底本:埃及マカリイ全書|section=克肖なる我等が父埃及マカリイの書翰 --> ptbfobrzlivxwa5231via7whkb6ui06 輕便鐵道指定名古屋電氣鐵道株式會社線 0 56800 243133 243128 2026-06-12T12:26:58Z 特急いよのたみ 34488 243133 wikitext text/x-wiki {{Header |title = 輕便鐵道&#xE0101;指定名古屋電氣鐵道&#xE0101;株式會&#xFA4C;線 |year = 1912 |month = 3 |day = 16 |author = |notes = {{Wikipedia|名古屋電気鉄道|名古屋電気鉄道}} {{Wikipedia|名鉄津島線|津島線}} * 底本:{{NDLJP|2951977/8}} * 註:原文は縦書きで記載されている。 * {{異体字使用リスト|概|海|社}} {{DEFAULTSORT:けいへんてつとうしていなこやてんききとうかふしきかいしやせん}} [[Category:名古屋電気鉄道]] }} ○輕便鐵道&#xE0101;指定 明&#xE0101;治四十年十二月十日軌道&#xE0101;敷設ヲ特許シタル名古屋電氣鐵道&#xE0101;株式會&#xFA4C;線路愛知縣西春日井郡西枇杷島町大字下小田井字川口ヨリ同縣&#xFA45;東郡津島町大字津島字小沼口ニ至ル間ハ本月十二日[[輕便鐵道法|輕便鐵道&#xE0101;法]]ニ依ルヘキモノト指定セリ其起&#xE0101;業目論見ノ槪要左ノ如シ(鐵道&#xE0101;院) {| |- style="text-align:center;" | 鐵道&#xE0101;種別 || 軌道&#xE0101;幅員 || 延長哩數 || 資&#xE0101;本金 |- | 電氣鐵道&#xE0101; || 三{{ママ|吋|呎}}六吋 || 八哩五十四鎖&#xE0101; || 八十五万圓 |} {{PD-JapanGov-old}} 2nb1anbgn72mmce5y2mylw86yr12c2u 輕便鐵道指定名古屋電氣鐵道株式會社所屬軌道一宮線及犬山線 0 56818 243132 243126 2026-06-12T12:22:15Z 特急いよのたみ 34488 243132 wikitext text/x-wiki {{Header |title = 輕便鐵道&#xE0101;指定名古屋電氣鐵道&#xE0101;株式會&#xFA4C;所&#xE0101;屬軌道&#xE0101;一宮線及犬山線 |year = 1912 |month = 4 |day = 5 |author = |notes = {{Wikipedia|名古屋電気鉄道|名古屋電気鉄道}} {{Wikipedia|名鉄一宮線|一宮線}} {{Wikipedia|名鉄犬山線|犬山線}} * 底本:{{NDLJP|2951992/6}} * 註:原文は縦書きで記載されている。 * {{異体字使用リスト|内|概|社}} {{DEFAULTSORT:けいへんてつとうしていなこやてんききとうかふしきかいしやしよそくいちのみやせんおよひいぬやません}} [[Category:名古屋電気鉄道]] }} ○輕便鐵道&#xE0101;指定 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輕便鐵道&#xE0101;運&#xE0101;輸開始竝停車場名稱、哩程變更名古屋電氣鐵道&#xE0101;株式會&#xFA4C; |year = 1912 |month = 9 |day = 11 |author = |notes = {{Wikipedia|名古屋電気鉄道|名古屋電気鉄道}} {{Wikipedia|名鉄一宮線|一宮線}} {{Wikipedia|名鉄犬山線|犬山線}} * 底本:{{NDLJP|2952131/8}} * 註:原文は縦書きで記載されている。 * {{異体字使用リスト|徳|羽|社}} {{DEFAULTSORT:けいへんてつとうしていなこやてんききとうかふしきかいしやしよそくいちのみやせんおよひいぬやません}} [[Category:名古屋電気鉄道]] }} ○輕便鐵道&#xE0101;運&#xE0101;輸開始竝停車場名稱、哩程變更 去月三日名古屋電氣鐵道株式會社一宮線中枇杷島橋西印田間、犬山線岩倉犬山間運&#xE0101;輸開始ヲ許可セシニ同六日ヨリ運&#xE0101;輸開始ノ旨屆出テタリ其驛名、哩程左ノ如シ 又從來開業中ノ押切町枇杷島橋間ハ右開業ト同時ニ名稱及哩程ヲ左ノ通&#xE0101;變更セリ(鐵道&#xE0101;院) {| |- | style="text-align:center;" | 一宮線 || style="text-align:center;" | 哩分 | style="border-left:1px solid #000;" | 德重稻荷間 || 一・一 | style="border-left:1px solid #000;" | 石佛小折間 || 〇・八 |- | 西押切八阪町間 || 〇・四 | style="border-left:1px solid #000;" | 稻荷岩倉間 || 〇・五 | style="border-left:1px solid #000;" | 小折布袋間 || 〇・七 |- | 八阪町東枇杷島間 || 〇・四 | style="border-left:1px solid #000;" | 岩倉小山間 || 一・四 | style="border-left:1px solid #000;" | 布袋古知野間 || 一・二 |- | 東枇杷島枇杷島橋間 || 〇・五 | 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{{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = 50の霊的講話 | section = | previous = | next = [[/講話1|講話1]] | year = 1880 | 年 = | override_author = [[w:en:Macarius of Egypt|マカリオス]] | override_translator = モスクワ神学アカデミー | noauthor = | notes = *底本: [https://azbyka.ru/otechnik/Makarij_Velikij/duhovnye-besedy-1-50/ Духовные беседы (1–50)] *ウィキソースによる日本語訳 }} == マカリオス50の霊的講話 == *[[/講話1|講話1]] 預言者エゼキエルが描写した幻の寓話的解釈 *[[/講話2|講話2]] *[[/講話3|講話3]] *[[/講話4|講話4]] *[[/講話5|講話5]] *[[/講話6|講話6]] *[[/講話7|講話7]] *[[/講話8|講話8]] *[[/講話9|講話9]] *[[/講話10|講話10]] *[[/講話11|講話11]] *[[/講話12|講話12]] *[[/講話13|講話13]] *[[/講話14|講話14]] *[[/講話15|講話15]] *[[/講話16|講話16]] *[[/講話17|講話17]] *[[/講話18|講話18]] *[[/講話19|講話19]] *[[/講話20|講話20]] *[[/講話21|講話21]] *[[/講話22|講話22]] *[[/講話23|講話23]] *[[/講話24|講話24]] *[[/講話25|講話25]] *[[/講話26|講話26]] *[[/講話27|講話27]] *[[/講話28|講話28]] *[[/講話29|講話29]] *[[/講話30|講話30]] *[[/講話31|講話31]] *[[/講話32|講話32]] *[[/講話33|講話33]] *[[/講話34|講話34]] *[[/講話35|講話35]] *[[/講話36|講話36]] *[[/講話37|講話37]] *[[/講話38|講話38]] *[[/講話39|講話39]] 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