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埃及マカリイ全書
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2026-06-13T15:19:40Z
村田ラジオ
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| title = 埃及マカリイ全書
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| year = 1906
| 年 = 明治三十九
| override_author = [[w:en:Macarius of Egypt|エジプトのマカリオス]]
| override_translator = [[作者:堀江復|堀江 {{r|復|ふく}}]] ( -1914)
| noauthor =
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| notes =
*底本: 堀江復 (薩瓦) 訳『克肖なる神父埃及マカリイ全書』,正教会編輯局,明39.1. {{NDLJP|824086}}
}}
== 目次 ==
・ [[埃及マカリイ全書/埃及マカリイの伝|{{r|克肖|こくしょう}}なる{{r|埃及|エギペト}}マカリイの伝]] / 1p
・ [[埃及マカリイ全書/聖マカリイの著書|聖マカリイの著書]] / 26p
・ 講話
:[[埃及マカリイ全書/第一講話|第一講話]] 預言者イエゼキリが{{r|録|しる}}せる現象の{{r|譬|ひ}}{{r|解|かい}}。 / 31p
:[[埃及マカリイ全書/第二講話|第二講話]] {{r|暗国|あんこく}}、{{r|即|すなはち}}罪の国の事、及び神は独り我等より罪を除きて、我等を{{r|悪王|あくおう}}の奴隷たるより{{r|救|すく}}ひ{{r|得|う}}る事。 / 44p
:[[埃及マカリイ全書/第三講話|第三講話]] {{r|兄弟|けいてい}}は{{r|正直|せいちょく}}と{{r|和平|わへい}}とにより{{r|互|たがい}}に誠実を{{r|以|もつ}}て生存して内部の思念と戦ふべし。 / 49p
:[[埃及マカリイ全書/第四講話|第四講話]] 「ハリステアニン」たる者は神と天使等より天の{{r|頌讃|しょうさん}}をうけんとせば{{r|謹慎|きんしん}}と{{r|勤勉|きんべん}}とを{{r|以|もつ}}て{{r|此|この}}{{r|世|よ}}を{{r|進行|しんこう}}せざるべからず。 / 54p
:[[埃及マカリイ全書/第五講話|第五講話]] 「ハリステアニン」と{{r|此|この}}{{r|世|よ}}の人々との間の差異は{{r|大|おおい}}なり{{r|一|いつ}}は{{r|世|よ}}の{{r|神|しん}}を{{r|己|おの}}れに{{r|有|ゆう}}し、心に{{r|於|おい}}ても智に{{r|於|おい}}ても地上の{{r|械繋|かいけい}}に{{r|縛|しば}}らるれど、{{r|一|いつ}}は{{r|天|てん}}{{r|父|ふ}}の{{r|愛|あい}}を{{r|希|こいねが}}ひ、{{r|独|ひと}}り彼を{{r|以|もつ}}て{{r|其|その}}{{r|悉|ことごと}}くの願望の{{r|所帰|しょき}}と{{r|為|な}}す。 / 77p
:[[埃及マカリイ全書/第六講話|第六講話]] 神に{{r|悦|よろこ}}ばれんと{{r|欲|ほつ}}する者は平安、沈黙、温柔及び{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}を{{r|以|もつ}}て祈祷を行ふべし、{{r|高声|こうせい}}に祈祷して衆人の誘惑とならざらん為なり。{{r|此|こ}}の講話には二問題を{{r|籠|こ}}む、{{r|即|すなはち}}{{r|宝|ほう}}{{r|座|ざ}}と{{r|栄冠|えいかん}}は物質的製造なるか、イズライリの十二位とは{{r|如何|いか}}なるものなるかとの二問題是なり。 / 101p
:[[埃及マカリイ全書/第七講話|第七講話]] ハリストス人に寛容なる事。此講話にも{{r|若干|そこばく}}の問答を含む。 / 107p
:[[埃及マカリイ全書/第八講話|第八講話]] 「ハリステアニン」は祈祷を行ふ時如何なるべきか、完全の程度、{{r|即|すなはち}}「ハリステアニン」は完全なる程度に達し得べきか。 / 112p
:[[埃及マカリイ全書/第九講話|第九講話]] 神の約束と預言とは種々の試練と誘惑の時に応験する事及び独一の神に服従する者は悪者の誘惑より救はるる事。/117p
:[[埃及マカリイ全書/第十講話|第十講話]] 神の恩籠の{{r|賜|たまもの}}は謙遜と熱心とを{{r|以|もつ}}て守られて増殖すべく、高慢と怠惰とにより{{r|失|うしな}}はるべし。 / 126p
:[[埃及マカリイ全書/第十一講話|第十一講話]] {{r|聖神|せいしん}}の{{r|力|ちから}}は{{r|人心|じんしん}}に{{r|於|おい}}て火に似たる事、また心に生ずる思念を区別するが為に必要を有する者の事、モイセイが{{r|樹頭|じゅとう}}に{{r|釘|くぎ}}してハリストスの{{r|象|しょう}}となせる{{r|死蛇|しじゃ}}の事。此講話には{{r|二|ふたつ}}の問答を含む{{r|一|いつ}}はハリストスと悪なるサタナとの問答にして、{{r|一|いつ}}は罪人とサタナとの問答なり。 / 130p
:[[埃及マカリイ全書/第十二講話|第十二講話]] アダムが{{r|神誡|しんかい}}を{{r|犯|おか}}しゝ以前の情況、及び{{r|其後|そののち}}彼は自己の{{r|形像|けいぞう}}をも天に属する{{r|形像|けいぞう}}をもうしなひし事。此講話には{{r|最|もっと}}も有益なる問答{{r|若干|そこばく}}を含有す。 / 142p
:[[埃及マカリイ全書/第十三講話|第十三講話]] 神は「ハリステアニン」よりいかなる結果を要求するか。 / 156p
:[[埃及マカリイ全書/第十四講話|第十四講話]] {{r|思|おもひ}}と{{r|智|ち}}とを神にささぐる者は心の目を{{r|照|てら}}されんとの{{r|望|のぞみ}}と、神が{{r|此|かく}}の{{r|如|ごと}}き者等を聖徳と大なる清潔とにより機密に進ましめて、これに{{r|其|その}}恩寵を分与し給はんことの望みにより{{r|此|これ}}を{{r|為|な}}す事、又或る天の幸福をうけんを願ふ所の我等は{{r|何|なに}}を{{r|為|な}}さんを要する事、{{r|終|つひ}}に使徒及び予言者等は窓に入る太陽の光線に似たる事。{{r|且|かつ}}此講話はサタナの地と天使の地の如何なるものなるかを教ふ、{{r|即|すなはち}}二者は{{r|触|ふ}}るる{{r|能|あた}}はざるもの、又見るべからざるものなることを教ふるなり。 / 157p
:[[埃及マカリイ全書/第十五講話|第十五講話]] 此講話にはいかんせば霊魂が成聖と{{r|無玷|むてん}}と清潔とを{{r|以|もつ}}て{{r|其|その}}新郎の前に{{r|即|すなはち}}イイススハリストスの前に居るべきかといふに関する詳細なる教旨を包含す、また或る{{r|最|もっとも}}教訓となるべき若干の問題を含有す、{{r|例|たと}}へば復活に{{r|於|おい}}て{{r|尽|ことごと}}くの肢体は{{r|起|おこ}}るかといふに関する問題、及び他の多くの問題、{{r|即|すなはち}}悪の事、恩寵の事、自由なる任意の事及び人間の価値に関する問題是なり。 / 163p
:[[埃及マカリイ全書/第十六講話|第十六講話]] {{r|神|しん}}に属する人々も原罪より{{r|流|なが}}るる{{r|試|し}}{{r|惑|わく}}と{{r|患難|かんなん}}とに{{r|属|ぞく}}する事。 / 203p
:[[埃及マカリイ全書/第十七講話|第十七講話]] 「ハリステアニン」の{{r|霊神的|れいしんてき}}{{r|傅膏|ふこう}}と光栄の事、ハリストスなくんば{{r|救|すく}}はれて{{r|永生|えいせい}}に{{r|与|あづ}}かる者となる{{r|能|あた}}はざる事。 / 214p
:[[埃及マカリイ全書/第十八講話|第十八講話]] 「ハリステアニン」の宝の事、即種々なる方法をもて「ハリステアニン」を完全に達せしむるハリストスの事、及び聖神の事。 / 225p
:[[埃及マカリイ全書/第十九講話|第十九講話]] {{r|大|おほい}}に進歩して成長せんと欲する「ハリステアニン」は己を{{r|凡|すべて}}の{{r|善|ぜん}}に{{r|強|し}}ふべし、その在るところの罪より救はれて{{r|聖神|せいしん}}に{{r|満|み}}てられんためなり。 / 233p
:[[埃及マカリイ全書/第二十講話|第二十講話]] 内部の人の{{r|真|しん}}{{r|医|い}}たるハリストスは{{r|独|ひと}}り{{r|霊魂|たましひ}}を{{r|愈|いや}}し、恩寵の衣を{{r|以|もつ}}てこれを飾るを得るなり。 / 241p
:[[埃及マカリイ全書/第二十一講話|第二十一講話]] 「ハリステアニン」には{{r|二|に}}{{r|様|よう}}の{{r|戦|たたかひ}}あり、{{r|即|すなはち}}内部と外部の{{r|戦|たたかひ}}ありて、外部なる者は世の{{r|欝散|うつさん}}より己を遠ざくるにあり、されど内部の{{r|戦|たたかひ}}は凶悪の諸神を{{r|以|もつ}}て{{r|暗|やみ}}に{{r|入|い}}れらるる{{r|意|い}}{{r|念|ねん}}と心中に{{r|於|おい}}て{{r|戦|たたか}}ふにあり。 / 246p
:[[埃及マカリイ全書/第二十二講話|第二十二講話]] 此の生命を去る者の{{r|二|に}}{{r|様|よう}}の状態。 / 250p
:[[埃及マカリイ全書/第二十三講話|第二十三講話]] 高価なる王の真珠は{{r|王種|おうしゅ}}より{{r|生|うま}}れたる者のみ{{r|戴|いただ}}くを{{r|得|う}}る如く、天の真珠も神の子にのみ{{r|戴|いただ}}かしむるを{{r|得|う}}べし。 / 251p
:[[埃及マカリイ全書/第二十四講話|第二十四講話]] 「ハリステアニン」の状態は売買と{{r|醗酵|はっこう}}に似たるあり、{{r|商|しょう}}{{r|賈|こ}}は地上の利益を{{r|集|あつ}}むる如く、「ハリステアニン」も此世に散乱したる思念を集めん。また{{r|醗酵|はっこう}}はすべての混合物を{{r|酸|さん}}{{r|気|き}}あるものとする如く、罪なる醗酵もアダムの全族に{{r|透|とほ}}る、{{r|然|しか}}れどもハリストスは天に属する恩寵の醗酵を{{r|篤信|とくしん}}なる霊魂に入るるなり。 / 253p
:[[埃及マカリイ全書/第二十五講話|第二十五講話]] 此講話はハリストスを{{r|以|もつ}}て固められんずんば{{r|一人|いちにん}}も{{r|悪者|あくしゃ}}の{{r|誘|いざなひ}}に{{r|勝|か}}ち{{r|得|う}}べからざるを教へ、神聖なる光栄を願ふ者の為すべき所を示す、またアダムの{{r|破|は}}{{r|誡|かい}}により肉慾の奴隷に陥りし我等は洗礼の機密を{{r|以|もつ}}て{{r|救|すく}}はるべきを教へ、{{r|終|つひ}}に涙と神聖なる火の力の{{r|大|だい}}なるを示す。 / 258p
:[[埃及マカリイ全書/第二十六講話|第二十六講話]] 不死なる霊魂の価値、貴重、能力及び作用の事、彼がサタナに試みられ誘惑より救はるる事。此講話には{{r|最|もっとも}}教訓となるべき{{r|若干|そこばく}}の問答を添へたり。 / 267p
:[[埃及マカリイ全書/第二十七講話|第二十七講話]] 此講話は「ハリステアニン」たる人の価値と位置とにつきて{{r|説始|ときはじ}}めたる詳細の論説を{{r|終|お}}ふるなり、此講話は自由なる望に関して多くの{{r|最|もっとも}}有益なることを教へてこれに神聖なる智慧をみちみてる{{r|若干|そこばく}}の問題を添ふ。 / 286p
:[[埃及マカリイ全書/第二十八講話|第二十八講話]] 此講話に{{r|於|おい}}ては霊魂の不幸を説きあらはしてこれを{{r|哭|こく}}す、{{r|即|すなはち}}罪の故に主が霊魂に{{r|居|お}}らざること是なり、また{{r|婦|おんな}}の{{r|生|う}}む所の者の{{r|中|うち}}彼より{{r|大|だい}}なるものあらずといはれたる{{r|授洗|じゅせん}}{{ul|イオアン}}の事を言ふ。 / 305p
:[[埃及マカリイ全書/第二十九講話|第二十九講話]] 神は人間に恩寵の分配を成すに{{r|二|に}}{{r|様|よう}}の方法を{{r|以|もつ}}てして、義なる審判において結果を促す。 / 310p
:[[埃及マカリイ全書/第三十講話|第三十講話]] 霊魂は神の国に入らんには{{r|聖神|せいしん}}によりて{{r|生|うま}}れざるべからずして、其状態は如何なるか。 / 316p
:[[埃及マカリイ全書/第三十一講話|第三十一講話]] 信者は己の智を変化し{{r|悉|ことごと}}くの{{r|思|おもい}}を神に集中せんを要す、神に対するすべての{{r|勤|つとめ}}は実にこれにあり。 / 324p
:[[埃及マカリイ全書/第三十二講話|第三十二講話]] 「ハリステアニン」の光栄は今は{{r|其|その}}{{r|霊魂|たましひ}}にあり、されど復活の時には恩寵の量に準じ外にあらはれて身体を表揚せん。 / 329p
:[[埃及マカリイ全書/第三十三講話|第三十三講話]] 不断熱心に神に祈るべし。 / 338p
:[[埃及マカリイ全書/第三十四講話|第三十四講話]] 復活に於て「ハリステアニン」の身体が霊魂と共に照されて受くる所の光栄の事。 / 341p
:[[埃及マカリイ全書/第三十五講話|第三十五講話]] 旧「スボタ」と新「スボタ」の事。 / 344p
:[[埃及マカリイ全書/第三十六講話|第三十六講話]] 霊魂と身体と{{r|二|に}}{{r|様|よう}}の復活及び復活せし者の光栄の不同なる事。 / 346p
:[[埃及マカリイ全書/第三十七講話|第三十七講話]] 楽園の事及び神的律法の事。 / 348p
:[[埃及マカリイ全書/第三十八講話|第三十八講話]] 真の「ハリステアニン」と真の「ハリステアニン」の如何なるとを試み知らんには我等に多くの注意と{{r|瞭解|りょうかい}}とを要す。 / 357p
:[[埃及マカリイ全書/第三十九講話|第三十九講話]] 神が我等に神聖なる書を与へたるは何の為か。 / 361p
:[[埃及マカリイ全書/第四十講話|第四十講話]] すべての{{r|徳行|とくこう}}も又すべての{{r|悪行|あくこう}}も{{r|互|たがひ}}に関連すること{{r|環|たまき}}の{{r|鎖|くさり}}に{{r|於|お}}ける如くして、{{r|一|いつ}}は{{r|他|た}}に{{r|係|かか}}る事。 / 362p
:[[埃及マカリイ全書/第四十一講話|第四十一講話]] 恩寵にも又悪習にも{{r|漸々|ぜんぜん}}生長する{{r|霊魂|たましひ}}の{{r|奥底|おくそこ}}は{{r|甚|はなは}}だ{{r|深|ふか}}し。 / 367p
:[[埃及マカリイ全書/第四十二講話|第四十二講話]] 人を完全にみちびき{{r|或|あるひ}}はこれを{{r|害|そこな}}ふ者は外部に属するものにあらずして、内部に属するものなり、{{r|即|すなはち}}{{r|或|あるひ}}は恩寵の{{r|神|しん}}なり{{r|或|あるひ}}は凶悪の{{r|神|しん}}なり。 / 369p
:[[埃及マカリイ全書/第四十三講話|第四十三講話]] 「ハリステアニン」たる人の進歩と{{r|其|その}}進歩のすべての力とは心に関係するを種々に描写す。 / 372p
:[[埃及マカリイ全書/第四十四講話|第四十四講話]] 心の{{r|慾|よく}}と{{r|病|やまひ}}とを{{r|療|りょう}}するハリストスは「ハリステアニン」たる人に如何なる変化革新を成し給ふか。 / 379p
:[[埃及マカリイ全書/第四十五講話|第四十五講話]] 人を{{r|医|いや}}すを{{r|得|う}}るは{{r|或|あ}}る芸術にあらず、又此世の富にも非ずして、ただハリストスの{{r|来|きた}}ること{{r|是|これ}}なり。此講話に{{r|於|おい}}ては人と神との最大関係を示す。 / 387p
:[[埃及マカリイ全書/第四十六講話|第四十六講話]] {{r|神|かみ}}の{{r|言|ことば}}と{{r|世|よ}}の{{r|言|ことば}}と神の子と{{r|此|この}}{{r|世|よ}}の子との{{r|間|あひだ}}の差別。 / 393p
:[[埃及マカリイ全書/第四十七講話|第四十七講話]] {{r|法|ほう}}{{r|下|か}}にありし事の{{r|譬|ひ}}{{r|解|かい}}。 / 398p
:[[埃及マカリイ全書/第四十八講話|第四十八講話]] 神における完全なる信仰。 / 409p
:[[埃及マカリイ全書/第四十九講話|第四十九講話]] 人もし他の世の福楽に{{r|与|あづ}}かるを得ずんば此世の快楽を辞する充分の理由あらず。 / 414p
:[[埃及マカリイ全書/第五十講話|第五十講話]] 神はその諸聖人に{{r|於|おい}}て{{r|奇|き}}{{r|跡|せき}}を{{r|行|おこな}}ふ。 / 418p
:[[埃及マカリイ全書/書簡|{{r|克肖|こくしょう}}なる我等が父{{r|埃及|エギペト}}マカリイの{{r|書翰|しょかん}}]] / 425p ‐ 457p
・ 説教
:[[埃及マカリイ全書/第一説教|第一説教]] 心を守る事。 / 459p
:[[埃及マカリイ全書/第二説教|第二説教]] 霊神上の完全。 / 480p
:[[埃及マカリイ全書/第三説教|第三説教]] 祈祷の事。 / 493p
:[[埃及マカリイ全書/第四説教|第四説教]] 忍耐と細心。 / 507p
:[[埃及マカリイ全書/第五説教|第五説教]] 智を高尚にする事。 / 533p
:[[埃及マカリイ全書/第六説教|第六説教]] 愛の事。 / 553p
:[[埃及マカリイ全書/第七説教|第七説教]] 智の自由の事。 / 585p - 619p
== 出典 ==
: [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/824086/1 克肖なる神父埃及マカリイ全書] 国立国会図書館 デジタルコレクション
==関連項目==
*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教]]
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[[Category:キリスト教]]
[[Category:埃及マカリイ全書|*]]
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{{rbcmnt|成吉思 汗 實錄|チンギス カン ジツロク}} {{rbcmnt|卷|マキ}}の{{rbcmnt|一|イチ}}。({{:成吉思汗実録/站|割=蒙古語の原の名は、|割り注終わり=}}{{rbcmnt|忙豁侖 紐察 脫卜察安|モンゴルン ニウチヤ トブチヤアン}}、{{:成吉思汗実録/站|割=譯すれば蒙古の祕史。忙豁侖は蒙古の、紐察は祕密、脫卜察安は實錄なり。委しくは序論の初に言へり。明譯本には、元朝 祕史と題して、その下に分注 二行あり。右は、忙豁侖 紐察の五字なり。左は、脫卜察安の四字なるべきを、今の鈔本には、卜の字を脫せり。卜は、母音なき巴行の音を譯せる字にて、細字 旁書なるが故に、影寫の際 脫し易し。本文にも、トの字の脫ちたるは、屢あり。二行の分注に、右 五字にて左 三字なる筈なければ、トの脫ちたりけんこと疑ひなし。|割り注終わり=}})
{{left|{{rbcmnt|元|ゲンノ}} {{rbcmnt|太祖︀|タイソノ}} {{rbcmnt|在時|イマセルトキ}}、{{rbcmnt|漠北|バクホクノ}}{{rbcmnt|文臣|バクホクノブンシン}}{{rbcmnt|無名氏|ムメイシ}}、{{rbcmnt|以|モテ}}{{二}}{{rbcmnt|蒙古文|モウコブン}}{{rbcmnt|委兀兒字|ウイウルモジヲ}}{{一}}{{rbcmnt|撰述|センジユツス}}。|2em}}
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温厚知新
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{{rbcmnt|成吉思 汗 實錄|チンギス カン ジツロク}} {{rbcmnt|卷|マキ}}の{{rbcmnt|一|イチ}}。({{:成吉思汗実録/站|割=蒙古語の原の名は、|割り注終わり=}}{{rbcmnt|忙豁侖 紐察 脫卜察安|モンゴルン ニウチヤ トブチヤアン}}、{{:成吉思汗実録/站|割=譯すれば蒙古の祕史。忙豁侖は蒙古の、紐察は祕密、脫卜察安は實錄なり。委しくは序論の初に言へり。明譯本には、元朝 祕史と題して、その下に分注 二行あり。右は、忙豁侖 紐察の五字なり。左は、脫卜察安の四字なるべきを、今の鈔本には、卜の字を脫せり。卜は、母音なき巴行の音を譯せる字にて、細字 旁書なるが故に、影寫の際 脫し易し。本文にも、トの字の脫ちたるは、屢あり。二行の分注に、右 五字にて左 三字なる筈なければ、トの脫ちたりけんこと疑ひなし。|割り注終わり=}})
{{left|{{rbcmnt|元|ゲンノ}} {{rbcmnt|太祖︀|タイソノ}} {{rbcmnt|在時|イマセルトキ}}、{{rbcmnt|漠北|バクホクノ}}{{rbcmnt|文臣|ブンシン}}{{rbcmnt|無名氏|ムメイシ}}、{{rbcmnt|以|モテ}}{{二}}{{rbcmnt|蒙古文|モウコブン}}{{rbcmnt|委兀兒字|ウイウルモジヲ}}{{一}}{{rbcmnt|撰述|センジユツス}}。|2em}}
{{left|{{rbcmnt|明|ミンノ}} {{rbcmnt|洪武|コウブ}}{{rbcmnt|十五年|ジフゴネン}}、{{rbcmnt|翰林|カンリン}}{{rbcmnt|侍講|ジコウ}}{{rbcmnt|火原潔|クワゲンケツ}}{{rbcmnt|等|ラ}}、{{rbcmnt|漢︀字|カンジニテ}} {{rbcmnt|音譯|オンヤクシ}}、{{rbcmnt|俗語|ゾクゴニテ}} {{rbcmnt|旁譯|ハウヤクス}}。|2em}}
{{left|{{rbcmnt|日本|ニツポン}}{{rbcmnt|明治|メイヂ}}{{rbcmnt|三十九年|サンジフクネン}}、{{rbcmnt|盛岡|モリヲカノ}}{{rbcmnt|那珂通世|ナカミチヨ}}、{{rbcmnt|以|モテ}}{{二}}{{rbcmnt|和文|ワブンヲ}}{{一}}{{rbcmnt|直譯|チヨクヤクシ}} {{rbcmnt|附|フス}}{{二}}{{rbcmnt|校注|カウチウヲ}}{{一}}。|2em}}
{{:成吉思汗実録/站|大=§1(01:01:02)|我=1-1|彼=mokuroku-noname52-2|音=18}}
{{rbcmnt|成吉思 合罕|チンギス カガン}}の{{rbcmnt|根原|オホモト}}。
{{:成吉思汗実録/站|小=元祖︀なる狼 鹿|我=1-1-1|彼=mokuroku-noname52-2|上段見出し=}}
{{rbcmnt|上天|タカマノハラ}}より{{rbcmnt|命|ミコト}}ありて{{rbcmnt|生|ウマ}}れたる{{rbcmnt|蒼|アヲ}}き{{rbcmnt|狼|オホカミ}}ありき。({{:成吉思汗実録/站|割=蒙語|割り注終わり=}}{{rbcmnt|孛兒帖 赤那|ボルテ チノ}}、{{:成吉思汗実録/站|割=蒙古 源流|割り注終わり=}}{{rbcmnt|布爾特 齊諾|ブルテ チノ}}。{{:成吉思汗実録/站|割=この注に引ける蒙古 源流は、乾隆︀の史臣の飜譯せる漢︀文の本なり。昨年 乙巳の九月、我が友 內藤 湖南は、盛|割り注終わり=}}<noinclude></noinclude>
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Page:成吉思汗実録.pdf/59
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温厚知新
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text/x-wiki
<noinclude><pagequality level="3" user="温厚知新" /></noinclude>{{left|{{:成吉思汗実録/站|送=太宗の卽位、(注、{{rbcmnt|多遜|ドーソン}}の述べたる卽位の禮、幼子に產を讓る北狄の俗、元史の<!-- ここまで前ページ -->{{:成吉思汗実録/站|📕PDF頁=59}}{{:成吉思汗実録/站|📘原書頁=m-14}}考證)、番士 國民の交付|我=mokuroku-noname52-13-4|彼=12-269|後={{right|五八三}}}}|2em}}
{{left|{{:成吉思汗実録/站|送={{rbcmnt|巴黑塔惕|バクタト}}の再征、十一部落の再征、長子 出征の定め|我=mokuroku-noname52-13-5|彼=12-270|後={{right|五八八}}}}|2em}}
{{left|{{:成吉思汗実録/站|送=金國 征伐の議|我=mokuroku-noname52-13-6|彼=12-271|後={{right|五九四}}}}|2em}}
{{left|{{:成吉思汗実録/站|送=太宗の親征、(注、金史 哀宗紀 元史 太祖︀紀の摘錄)、山川の神︀の祟、{{rbcmnt|拖雷|トルイ}}の身替り|我=mokuroku-noname52-13-7|彼=12-272|後={{right|五九五}}}}|2em}}
{{left|{{:成吉思汗実録/站|送=金國の平定、(注、{{rbcmnt|探馬臣|タンマチン}}の解、金元 兩紀の摘錄の續、{{rbcmnt|合喇 豁嚕木|カラ ゴルム}}の考證)|我=mokuroku-noname52-13-8|彼=12-273|後={{right|六〇二}}}}|2em}}
{{left|{{:成吉思汗実録/站|送={{rbcmnt|巴黑塔惕|バクタト}}の征服 貢賦、十一部落の平定、(注、西史なる{{rbcmnt|巴禿|バト}} 西征の摘錄)、{{rbcmnt|女眞|ヂユチン}} 高麗の征定、(注、{{rbcmnt|莎郞合思|シヨランガス}}の稱、元史 高麗史の摘錄)|我=mokuroku-noname52-13-9|彼=12-274|後={{right|六二〇}}}}|2em}}
{{left|{{:成吉思汗実録/站|送=主帥 {{rbcmnt|巴禿|バト}}を{{rbcmnt|不哩|ブリ}} {{rbcmnt|古余克|グユク}}の罵り、二人を太宗の怒り、諸︀王 官人の奏議、二人を太宗の叱り、(注、{{rbcmnt|巴禿|バト}}と{{rbcmnt|古余克|グユク}} {{rbcmnt|不哩|ブリ}}との永き不和)|我=mokuroku-noname52-13-10|彼=12-275|後={{right|六三五}}}}|2em}}
{{left|{{:成吉思汗実録/站|送=宿衞 箭筒士 侍衞の舊制の申飭|我=mokuroku-noname52-13-11|彼=12-278|後={{right|六四三}}}}|2em}}
{{left|{{:成吉思汗実録/站|送=羊 牝馬の賦、倉庫の設け、營盤の分與、{{rbcmnt|徹勒|チエル}} 地方の井掘り、{{rbcmnt|站|ヂヤム}}の設け、{{rbcmnt|察阿歹|チヤアダイ}}の協贊、諸︀王 羣臣の大同、(注、元史 {{rbcmnt|站赤|ヂヤムチ}}の制)|我=mokuroku-noname52-13-12|彼=12-279|後={{right|六五二}}}}|2em}}
{{left|{{:成吉思汗実録/站|送=太宗の四功 四過、(注、{{rbcmnt|訶倭兒思|ホヲルス}}の引ける太宗の逸︀事、西人の批評){{:成吉思汗実録/站|📘原書頁=m-15}}|我=mokuroku-noname52-13-13|彼=12-281|後={{right|六六一}}}}|2em}}
{{left|{{:成吉思汗実録/站|送=庚子の大 {{rbcmnt|忽哩勒台|クリルタイ}}、(注、太祖︀の四つの{{rbcmnt|斡兒朶|オルド}}、遊牧の民に行はるゝ聚會、定宗 卽位の大會の盛況)|我=mokuroku-noname52-13-14|彼=12-282|後={{right|六七一}}}}|2em}}
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{{:成吉思汗実録/站|📘原書頁=m-16}}成吉思 汗 實錄の目錄 終り。
<section end="toc" />
{{nop}}<noinclude></noinclude>
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Page:NDL2959403 官報 1936年09月25日.pdf/4
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特急いよのたみ
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<noinclude><pagequality level="3" user="特急いよのたみ" /></noinclude>:變更前 東京府東京市日本橋區兜町二丁目四十七番地
:變更後 東京府東京市日本橋區本町二丁目一番地ノ一
<section begin="naimu-514"/>'''◉內務省吿示第五百十四號'''
[[w:富士瓦斯紡績|富士瓦斯紡績]]保土ケ谷工場健康保險組合ノ設立アル事業ノ所󠄁在地左ノ通󠄁變更セリ
{{left|昭和十一年九月二十五日|1em}}
{{right|內務大臣 [[w:潮恵之輔|潮 惠之輔]]|1em}}
:變更前 東京府東京市日本橋區兜町二丁目四十七番地
:變更後 東京府東京市日本橋區本町二丁目一番地ノ一
<section end="naimu-514"/>
<section begin="naimu-515"/>'''◉內務省吿示第五百十五號'''
[[w:富士瓦斯紡績|富士瓦斯紡績]]名古屋工場健康保險組合ノ設立アル事業ノ所󠄁在地左ノ通󠄁變更セリ
{{left|昭和十一年九月二十五日|1em}}
{{right|內務大臣 [[w:潮恵之輔|潮 惠之輔]]|1em}}
:變更前 東京府東京市日本橋區兜町二丁目四十七番地
:變更後 東京府東京市日本橋區本町二丁目一番地ノ一
<section end="naimu-515"/>
<section begin="naimu-516"/>'''◉內務省吿示第五百十六號'''
大正九年{{分註|三|月|type=kumimoji}}內務省令第六號第一條第五號竝同第四條ノ規定ニ依リ左ノ府縣道󠄁󠄁及地方費道󠄁ヲ指定ス
{{left|昭和十一年九月二十五日|1em}}
{{right|內務大臣 [[w:潮恵之輔|潮 惠之輔]]|1em}}
{{left|靑森縣|3em}}
一號 上北郡三本木町ヨリ八戶市ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:上北郡六戶村、下田村、三戶郡下長苗代村
二號 靑森市ヨリ浦町停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
三號 靑森市ヨリ靑森停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
四號 八戶市ヨリ八戶停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
五號 弘前市ヨリ弘前停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
六號 上北郡三本木町ヨリ秋田縣北秋田郡大館町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:上北郡十和田村秋田縣界
七號 靑森市ヨリ秋田縣山本郡能代港󠄁町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:國道󠄁五號線(南津輕郡大杉村二於テ分󠄁岐)、北津輕郡五所川原町、西津輕郡木造町、鰺ヶ澤町、深浦町、岩崎村秋田縣界
八號 上北郡野邊地町ヨリ大湊港󠄁ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:上北郡横濱村、下北郡田名部町
九號 八戶市ヨリ岩手縣下閉伊郡宮古町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:三戶郡階上村岩手縣界
十號 靑森市ヨリ秋田縣北秋田郡大館町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:東津輕郡横內村、上北郡十和田村、六號線
十一號 八戶市ヨリ八戶港󠄁ニ達󠄁スル道󠄁路
十二號 三戶郡三戶町ヨリ八戶港󠄁ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:三戶郡向村、地引村、八戶市、十一號線
十三號 南津輕郡石川町ヨリ靑森市ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:南津輕郡大光寺村、黑石町、中鄕村、浪岡村、國道󠄁五號線
十四號 南津輕郡黑石町ヨリ弘前市ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:南津輕郡田舎館村
十五號 弘前市ヨリ小泊港󠄁ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:國道󠄁五號線(南津輕郡藤崎町二於テ分󠄁岐)、北津輕郡板柳町、鶴田村、五所川原町、金木町、內潟村
十六號 靑森市ヨリ東津輕郡油川町ニ達󠄁スル道󠄁路
{{left|岩手縣|3em}}
一號 盛岡市ヨリ秋田市ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:國道󠄁四號線(岩手郡厨川村二於テ分󠄁岐)、雫石村、御明神村秋田縣界
二號 盛岡市ヨリ九戶郡久慈町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:國道󠄁四號線(岩手郡沼宮內町ニ於テ分󠄁岐〕、九戶郡葛巻村、山形村
三號 盛岡市ヨリ秋田縣北秋田郡大館町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:國道󠄁四號線(岩手郡瀧澤村二於テ分󠄁岐)、平館村、二戶郡荒澤村、田山村秋田縣界
四號 盛岡市ヨリ下閉伊郡宮古町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:下閉伊郡門馬村、川井村、茂市村
五號 下閉伊郡宮古村ヨリ盛岡停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
六號 下閉伊郡宮古町ヨリ八戶市ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:下閉伊郡田老村、小本村、普代村、九戶郡久慈町、侍濱村、種市村靑森縣界
七號 盛岡市ヨリ上閉伊郡釜石町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:國道󠄁四號線(紫波郡日詰町三於テ分󠄁岐)、稗貫郡大迫町、上閉伊郡宮守村、遠野町、靑笹村、栗橋村、鵜住居村
八號 和賀郡黑澤尻町ヨリ秋田縣平鹿郡横手町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:和賀郡横目町、湯田村秋田縣界
九號上 上閉伊郡釜石町ヨリ下閉伊郡宮古町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:七號線(上閉伊郡鵜住居村ニ於テ分󠄁岐)、大槌町、下閉伊郡山田町、津輕石村
十號 上閉伊郡釜石町ヨリ宮城縣本吉郡氣仙沼町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:氣仙郡吉濱村、盛町、小友村、高田町、氣仙町宮城縣界
十一號 盛岡市ヨリ秋田縣平鹿郡横手町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:一號線(岩手郡雫石村ニ於テ分󠄁岐)、和賀郡澤內村、湯田村、八號線
十二號 謄澤郡水澤町ヨリ水澤停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
十三號 西磐井郡一關町ヨリ一關停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
十四號 西磐井郡一關町ヨリ石巻市ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:西磐井郡金澤村、永丼村宮城縣界
十五號 西磐井郡一關町ヨリ宮城縣本吉郡氣仙沼町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:東磐井郡薄衣町、千厩町、折壁村宮城縣界
十六號 謄澤郡水澤町ヨリ秋田縣平鹿郡横手町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:謄澤郡若柳村秋田縣界
十七號 和賀郡黑澤尻町ヨリ宮城縣本吉郡氣仙沼町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:江刺郡福岡村、和賀郡谷內村、上閉伊郡鱒澤村、遠野町、七號線(靑笹村二於テ分󠄁岐)、上鄕村、氣仙郡世田米村、横田村、高田町、十號線
十八號 謄澤郡水澤町ヨリ宮城縣本吉郡氣仙沼町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:江刺郡岩谷堂町、米里村、氣仙郡世田米村、十七號線
十九號 宮城縣本吉郡氣仙沼町ヨリ同縣志田郡古川町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:東磐井郡大津保村
{{left|宮城縣|3em}}
一號 仙臺市ヨリ山形市ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:宮城郡廣瀬村山形縣界
二號 仙臺市ヨリ秋田縣雄勝郡湯澤町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:國道󠄁四號線(黑川郡大衡村二於テ分󠄁岐)、加美郡中新田町、玉造郡岩出山町、鳴子町、鬼首村秋田縣界
三號 仙臺市ヨリ石巻市ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:宮城郡岩切村、松󠄁島町、桃生郡小野村
四號 仙臺市ヨリ鹽釜港󠄁ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:宮城郡高砂村
五號 石巻市ヨリ秋田縣雄勝郡湯澤町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:牡鹿郡蛇田村、桃生郡廣淵村、遠田郡涌谷町、小牛田町、志田郡古川町、玉造郡岩出山町、二號線
六號 石巻市ヨリ女川港󠄁ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:牡鹿郡渡波町、稻井村
七號 本吉郡氣仙沼町ヨリ岩手縣西磐井郡一關町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:本吉郡新月村岩手縣界
八號 本吉郡氣仙沼町ヨリ志田郡古川町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:本吉郡大谷村、御嶽村、登米郡米川村、上沼村、佐沼町、栗原郡若柳町、志波姫村、築館町、國道󠄁四號線
九號 刈田郡白石町ヨリ白石停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
十號 仙臺市ヨリ仙臺停車場ニ達󠄁スル置路
十一號 志田郡古川町ヨリ古川停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
十二號 石巻市ヨリ石巻停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
十三號 宮城縣鹽釜町ヨリ鹽釜停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
十四號 石巻市ヨリ石巻港󠄁ニ達󠄁スル道󠄁路
十五號 本吉郡氣仙沼町ヨリ岩手縣上閉伊郡釜石町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:本吉郡唐桑村岩手縣界
十六號 石巻市ヨリ岩手縣西磐井郡一關町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:五號線(牡鹿郡蛇田材ニ於テ分󠄁岐)、桃生郡飯野川町、本吉郡柳津町、登米郡登米町、淺水村、上沼付岩手縣界
十七號 登米郡佐沼町ヨリ仙臺市ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:登米郡米山村、遠田郡涌谷町、志田郡鹿島臺村、宮城郡松󠄁島町、三號線
十八號 刈田郡白石町ヨリ米澤市ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:刈田郡小原村、七ヶ宿村山形縣界
{{left|秋田縣|3em}}
一號 雄勝郡湯澤町ヨリ仙臺市達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:國道󠄁五號線(雄勝郡湯澤町二於テ分󠄁岐)、秋ノ宮村剖宮城縣界
二號 秋田市ヨリ盛岡市ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:國道󠄁五號線(仙北郡荒川村ニ於テ分󠄁岐)、角館町、神代村、生保內村岩手縣界
三號 仙北郡大曲町ヨリ雄勝郡湯澤町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:平鹿郡角間川町、阿氣村、沼館町、里見村、植田村
四號 平鹿郡横手町ヨリ由利郡本莊町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:平鹿郡淺舞町、里見村、雄勝郡明治村、由利郡下鄕村、石澤村
五號 秋田市ヨリヨ船川港󠄁ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:國道󠄁五號線(南秋田郡天王村二於テ分󠄁岐)、船越町
六號 北浦港󠄁ヨリ船川停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:南秋田郡男鹿中村
七號 北秋田郡大館町ヨリ盛岡市ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:北秋田郡扇田町、鹿角郡錦木村、花輪町、宮川村岩手縣界
八號 南秋田郡一日市町ヨリ北秋田郡大館ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:南秋田郡五城目町、北秋田郡上小阿仁村、米內澤町、七日市村、鷹巣町、綴子村、國道󠄁五號線
九號 雄勝郡湯澤町ヨリ湯澤停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
十號 平鹿郡横手町ヨリ横手停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
十一號 秋田市ヨリ秋田停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
十二號 南秋田郡土崎港󠄁町ヨリ土崎港󠄁ニ達󠄁スル道󠄁路
十三號 南秋田郡土崎港󠄁町ヨリ土崎停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
十四號 北秋田郡大館町ヨリ大館停車場場ニ達󠄁スル道󠄁路
十五號 由利郡本莊町ヨリ停車場場ニ達󠄁スル道󠄁路
十六號 平鹿郡横手町ヨリ岩手縣膽澤郡水澤町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:國道󠄁五號線(平鹿郡十文宇町二於テ分󠄁岐)、增田町、雄勝郡東成瀬村岩手縣界
十七號 北秋田郡大館町ヨリ仙北郡大曲ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:國道󠄁五號線、八號線(北秋田郡米內澤町ニ於テ分󠄁岐)、阿仁合町、仙北郡?木內村、角館町、長野町
十八號 北秋田郡大館町ヨリ靑森縣上北郡三本木町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:七號線(鹿角郡錦木村ニ於テ分󠄁岐)、毛馬內町、大湯町、七瀧村靑森縣界
十九號 山本郡能代港󠄁町ヨリ靑森市ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:山本郡八森村、岩館村靑森縣界
二十號 平鹿郡横手村ヨリ岩手縣和賀郡黑澤尻町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:平鹿郡山內村岩手縣界
二十一號 仙北郡大曲町ヨリ由利郡本莊町達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:仙北郡外小友村、由利郡下川大內村、岩谷村
{{left|山形縣|3em}}
一號 山形市ヨリ新潟縣岩船郡村上町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:國道󠄁五號線(東置賜郡赤湯町二於テ分󠄁岐)、宮內町、西置賜郡豐田村、豐川村、小國本村新潟縣界
二號 山形市ヨリ仙臺市ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:國道󠄁五號線(東村山郡天童町ニ於テ分󠄁岐)、北村山郡高崎村宮域縣界
三號 山形市ヨリ山形停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
四號 米澤市ヨリ米澤停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
五號 最上郡新庄町ヨリ新庄停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
六號 鶴岡市ヨリ鶴岡停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
七號 酒田市ヨリ酒田停車場ニ達󠄁スル道󠄁路
八號 最上郡新庄町ヨリ鶴岡市ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:最上郡古口村、東田川郡淸川村、狩川村、藤島町
九號 最上郡新庄町ヨリ酒田市ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:八號線(東田川郡狩川村ニ於テ分󠄁岐)、余目町、新堀村、國道󠄁十號線
十號 北村山郡楯岡町ヨリ米澤町ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:西村山郡谷地町、寒河江町、佐澤町、宮宿町、西置賜郡荒砥町、長井町、豐田村、東置賜郡小松󠄁村
十一號 米澤市ヨリ若松󠄁市ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:南置賜郡三澤村福島縣界
十二號 山形市ヨリ鶴岡市ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:酒村山郡寒河江町、白岩町、本道󠄁寺村、東田川郡東村、山添村
十三號 鶴岡市ヨリ加茂港󠄁ニ達󠄁スル道󠄁路
:經過󠄁地
:西田川郡大山町
十四號 酒田市ヨリ酒田港󠄁ニ達󠄁スル道󠄁路
十五號 米澤市ヨリ宮城縣刈田郡白石町ニ達󠄁スル道󠄁路<section end="naimu-516"/><noinclude></noinclude>
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Page:NDL2959403 官報 1936年09月25日.pdf/6
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227626
2026-06-13T13:04:46Z
特急いよのたみ
34488
243151
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<noinclude><pagequality level="1" user="特急いよのたみ" /></noinclude><section begin="teishin-2416"/>;一、使用方法
:料金ヲ完納󠄁シタル書狀{{分註2|無封ノ書|狀ヲ除ク|type=bunchu|bracket=no}}及郵便繪葉書ノ引受ニ使用ス但シ其ノ希望ヲ以テ郵便局窓口ニ差出シタルモノニ限ル
:使用期間中料金完納󠄁ノ郵便葉書竝記念ノ目的ヲ以テ一錢五厘以上ノ郵便切手ヲ貼附シタル物件ニ對シ消󠄁印ノ需ニ應ズ
;一、形式
:左ノ通󠄁
:局名ハ各別ノモノヲ使用ス但シ札幌郵便局賜饌場內臨時出張所󠄁ニ於テ使用スルモノニ限リ「札幌賜饌場內」ト表示ス
[[File:陸軍特別大演習日附印.png|300px]]
<section end="teishin-2416"/>
<section begin="teishin-2417"/>'''◉遞信省吿示第二千四百十七號'''
昭和六年{{分註|七|月|type=kumimoji}}遞信省吿示第千四百號中左記第二號「使用ニ期間アルモノ」ニ左ノ通󠄁追󠄁加ス
{{left|昭和十一年九月二十五日|2em}}
{{right|遞信大臣 [[w:頼母木桂吉|賴母木桂吉]]|2em}}
{|
|- style="text-align:center;"
| 使用局所󠄁
| 日附印形式
| 使用期限
|-
| 四谷郵便局國立公園展覽會場內臨時出張所󠄁
| [[File:四谷郵便局国立公園展覧会場内臨時出張所日附印.png|300px]]
| 自昭和十一年九月二十六日<br>至同 年十月十 一 日
|-
| 岩手縣大船󠄁渡郵便局
| [[File:岩手県大船渡郵便局日附印.png|300px]]
| 自昭和十一年九月二十七日<br>至同 年同月二十八日
|}
〔參照〕
昭和六年{{分註|七月|七日|type=kumimoji}}遞信省吿示第千四百號ハ圖案文字ヲ挿入セル通󠄁信日附印使用ノ件ナリ
<section end="teishin-2417"/>
<section begin="teishin-2418"/>◉遞信省吿示第二千四百十八號
左記私設無線電信ノ空󠄁中線電力等ヲ左ノ通󠄁變更ヲ許可セリ
{{left|昭和十一年九月二十五日|1em}}
{{right|遞信大臣 [[w:頼母木桂吉|賴母木桂吉]]|2em}}
{|
|- style="text-align:center;"
| 關係吿示 || 施設者名󠄁 || 機器裝置場所󠄁
|-
| 大正九年{{分註|十|月|type=kumimoji}}遞信省吿示第千五百九號
| 共同漁業株式會社
| 汽船󠄂宇品丸
|}
;一、空󠄁中線電力
:二〇〇「ワット」
;二、使用電波ノ型式及周波數
:A1四一四〇 六二一〇 八二八〇及一二四二〇kc A2三七五 四一〇 四二五 五〇〇及一三六四kc<section end="teishin-2418"/><noinclude></noinclude>
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陸軍特別大演習記念特殊通信日附印使用
0
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2026-06-13T12:54:36Z
特急いよのたみ
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|title = 陸軍特別大演習記念特殊通信日附印使用
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* 底本:{{NDLJP|2959403/5}}
* 註:原文は縦書きで記載されている。
* {{異体字使用リスト|内|告|清|状|頼}}
{{DEFAULTSORT:りくくんとくへつたいえんしゆうきねんとくしゆつうしんひつけいんしよう}}
[[Category:昭和11年の告示]]
[[Category:逓信省告示]]
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50の霊的講話
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2026-06-13T20:12:30Z
村田ラジオ
14210
校正
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*底本: [https://azbyka.ru/otechnik/Makarij_Velikij/duhovnye-besedy-1-50/ Духовные беседы (1–50)]
*ウィキソースによる日本語訳
}}
== マカリオス50の霊的講話 ==
*[[/講話1|講話1]] 預言者エゼキエルが描写した幻の寓話的解釈
*[[/講話2|講話2]] 闇の王国、すなわち罪について、そして神だけが私たちから罪を取り除き、私たちを悪の君主による奴隷状態から解放することができるという事実について
*[[/講話3|講話3]]
*[[/講話4|講話4]]
*[[/講話5|講話5]]
*[[/講話6|講話6]]
*[[/講話7|講話7]]
*[[/講話8|講話8]]
*[[/講話9|講話9]]
*[[/講話10|講話10]]
*[[/講話11|講話11]]
*[[/講話12|講話12]]
*[[/講話13|講話13]]
*[[/講話14|講話14]]
*[[/講話15|講話15]]
*[[/講話16|講話16]]
*[[/講話17|講話17]]
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*[[/講話22|講話22]]
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*[[/講話31|講話31]]
*[[/講話32|講話32]]
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*[[/講話45|講話45]]
*[[/講話46|講話46]]
*[[/講話47|講話47]]
*[[/講話48|講話48]]
*[[/講話49|講話49]]
*[[/講話50|講話50]]
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[[Category:1880年]]
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[[Category:50の霊的講話|*]]
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<!--
モスクワ神学アカデミー訳、Духовные беседы (1–50) を翻訳。
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鐵道開業免許狀下付
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2026-06-13T13:16:12Z
特急いよのたみ
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ページの作成:「{{Header |title = 鐵道󠄁開業免許狀下付 |year = 1888 |month = 10 |day = 30 |author = |notes = {{Wikipedia|伊予鉄道|伊予鉄道}} {{Wikipedia|伊予鉄道高浜線|高浜線}} * 底本:{{NDLJP|2944840/4}} * 註:原文は縦書きで記載されている。 * {{異体字使用リスト|状|免|社}} {{DEFAULTSORT:てつとうかいきようめんきよしようかふ}} [[Category:伊予鉄道]] }} ○鐵道󠄁開業免…」
243152
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|title = 鐵道󠄁開業免許狀下付
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* 註:原文は縦書きで記載されている。
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[[Category:伊予鉄道]]
}}
○鐵道󠄁開業免許狀下付 伊豫鐵道󠄁會社鐵道󠄁松󠄁山三津ケ濱問線路落成󠄁ニ付キ監査ノ上去ル二十六日開業免許狀ヲ下付セリ(鐵道󠄁局)
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カテゴリ:伊予鉄道
14
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2026-06-13T13:17:21Z
特急いよのたみ
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ページの作成:「{{Plain sister}} {{カテゴリ検索}} {{DEFAULTSORT:いよてつとう}} [[Category:日本の鉄道]] [[Category:愛媛県]]」
243153
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[[Category:日本の鉄道]]
[[Category:愛媛県]]
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50の霊的講話/講話1
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2026-06-13T14:10:50Z
村田ラジオ
14210
モスクワ神学アカデミー訳、Духовные беседы (1–50) の講話1を翻訳。
243154
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| title = 50の霊的講話
| section = 講話1
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| next = [[/講話2|講話2]]
| year = 1880
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| override_translator = モスクワ神学アカデミー
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*底本: [https://azbyka.ru/otechnik/Makarij_Velikij/duhovnye-besedy-1-50/ Духовные беседы (1–50)]
*ウィキソースによる日本語訳
}}
マカリオス50の霊的講話
==講話1==
<< 預言者エゼキエルが描写した幻の寓話的解釈 >>
1. 預言者エゼキエルは、彼が見た神聖で栄光に満ちた幻と幻について語り、それを言葉では言い表せない神秘に満ちた幻と表現した。彼は野原でケルビムの戦車と四つの霊的な獣を見た。それぞれの獣には四つの顔があり、一つは獅子、一つは{{r|鷲|わし}}、一つは子牛、そして一つは人間のようであった。それぞれの顔には翼があり、どれが前でどれが後ろかを見分けることは不可能であった。 「彼らの肩は目」で満ちており、胸も目で満ちており、目のない場所はなかった。それぞれの顔には、いわば車輪の中に車輪があるように三つの車輪があり、その車輪の中に霊があった。預言者はまた、人の姿に似たものを見たが、その足台はサファイアのようであった。この戦車(すなわちケルビムと獣)には、玉座に座る主が乗っていた。彼がどこへ行こうとも、動物たちはいつも背を向けていた。そして預言者はケルビムの下に、動物たちを支え、運ぶ「人間の手」のようなものを見た(エゼキエル書1章5-28節)。
2. 預言者が恍惚の中で見たものは真実で確かなものでしたが、それは何か別のものを指し示していました。それは神秘的で神聖な何か、世代から世代へと真に隠されてきた神秘であり、終わりの時、キリストの到来の時に明らかにされる神秘です。預言者は、主を受け入れ、その栄光の玉座となる運命にある魂の神秘を深く考えました。聖霊がそれを御自身の座と住まいとして備え、その光にあずかるにふさわしいとみなし、言い表せない栄光の美しさで照らした魂は、光、顔、目すべてとなります。霊的な光の目で満たされていない部分は一つもなく、つまり、暗いところは何もありません。魂は完全に光と霊でできており、目に満ち溢れ、後ろ側も後ろ側もなく、あらゆる方向から顔を合わせて現れます。なぜなら、キリストの光の栄光の言い表せない美しさが魂の上に降り注ぎ、魂の上に座っているからです。太陽はどこにあってもそれ自身に似ており、最後の部分や不十分な部分はなく、等しい部分から成り、全体が光で輝き、すべてが光である。あるいは、火、すなわち火の光そのもののように、完全にそれ自身に似ており、それ自体の中に最初も最後もなく、大きいものも小さいものもない。同様に、キリストの顔から発せられる光の栄光の言い表せない美しさによって完全に照らされ、聖霊と完全に交わり、神の住まいと玉座となるにふさわしいとみなされた魂は、キリストがそれを支え、導き、支え、持ち上げ、霊的な美しさで準備し、整え、飾ったように、すべての目、すべての光、すべての顔、すべての栄光、すべての霊となる。なぜなら、「人の手」がケルビムの下にあったと言われているからである(エゼキエル書1章7節)。キリストご自身が魂に運ばれ、また魂を導いているのである。
3. 戦車を{{r|担|かつ}}ぐ四つの{{r|獣|けもの}}は、理性的な魂の支配的な力を象徴している。{{r|鷲|わし}}が鳥を支配し、獅子が野獣を支配し、牛がおとなしい動物を支配し、人間がすべての生き物を支配するように、理性的な魂にも意志、良心、知性、愛の力という、より高貴な力がある。魂の戦車はそれらによって導かれ、神はそれらに宿る。別の解釈によれば、これは聖徒たちの天上の教会を指している。預言者は獣について、その高さが非常に高く、目が満ち溢れており、その目の数や高さを理解することは誰にも不可能であったと述べている。なぜなら、その知識は与えられていなかったからである。 「天の星々は、すべての人が見て驚嘆するために与えられているが、その数を知ることは誰にも不可能である。同様に、聖徒たちの天の教会に入り、それを享受することは、努力を望むすべての人に与えられているが、聖徒の数を知り理解することは、神のみに属する。すべてを見通す生き物の戦車と玉座に座る方、すなわち、御自身の玉座と座所となった各魂の中に、目と光となった方が、その上に歩み、運ばれ、座り、霊の手綱を支配し、御自身が知っているようにそれを導く。霊的な生き物が、自ら行きたいところではなく、その上に座って導く方が知っていて望んだところへ歩いたように、御自身も魂を支配し、"霊"によって道を示して導く。このように、魂は自らの自由意志で、望むときに天に昇るのではなく、神が魂を導き、肉体を捨てて天に昇るのである。」魂は心で天を目指して努力し、また、神の御心にかなうときには肉体と思考の中で歩み、そして神の意志によって地の果てまで行き、神は魂に神秘の啓示を啓示される。おお、真に優れた、善なる、唯一にして真実のリネホルダーよ!このように、魂がすでに栄光を受け、霊と合一しているならば、肉体もまた復活にあずかるにふさわしいものとみなされるであろう。
4. そして、義人の魂が天の光となること――これについて主ご自身が使徒たちにこう言われました。「あなたがたは世の光である」(マタイ5章14節)。主は彼らを光とした後、彼らを通して世が照らされるようにと命じ、こう言われました。「人はともしびをともして升の下に置くのではなく、燭台の上に置く。そうすれば、家の中にいるすべての人を照らす。あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」(マタイ5章15-16節)。これはつまり、わたしから受けた賜物を隠さず、それを求めるすべての人に伝えなさいということです。また、「体のともしびは目である。もしあなたの目が明ければ、あなたの体全体が明るくなる。しかし、もしあなたの目が悪ければ、あなたの体全体が暗くなる。もしあなたの中にある光が暗ければ、その暗さはなおさらだ」(マタイ6章22-23節)。目は体の光であり、目が健康であれば体全体が照らされますが、目に何かが入り目が暗くなると、体全体が暗くなります。このように、使徒たちは全世界の目、光として任命されました。そこで主は彼らに命じて言われました。「あなたがたは世の光であるから、耐え忍び、背を向けなければ、世全体が照らされるでしょう。しかし、あなたがた、世の光が暗くなるなら、闇、すなわち世は、なおさら暗くなるでしょう。」このように、使徒たちは光となり、信じる者たちの光として仕え、彼ら自身が照らされた聖霊の天の光で彼らの心を照らしました。
5. そして、彼らもまた塩であったので、聖霊の塩で信じるすべての魂を溶かし、塩味をつけた。主は彼らに「あなたがたは地の塩である」(マタイ5章13節)と言われた。これは、人の魂を地と呼んだからである。彼らは聖霊という天の塩で人の魂に仕え、それを溶かし、腐敗させず、ひどい悪臭に汚染されないようにした。塩のない肉は腐り、ひどい悪臭を放ち、その耐え難い悪臭のために誰もが顔を背ける。腐った肉には虫が這い回り、そこで餌を見つけて食べ、巣を作る。しかし、塩を振りかけるとすぐに、肉を食べていた虫は死に、悪臭は消える。塩はその性質上、虫を殺し、悪臭を取り除くので、聖霊によって塩味を与えられていない魂、すなわち天の塩、すなわち神の力にあずからない魂は、腐敗し、悪しき思いのひどい悪臭に満たされます。それゆえ、神は、そのような魂に宿る闇の空しい思いや情欲の恐ろしい悪臭から顔を背けられます。邪悪で恐ろしい虫、すなわち悪霊や闇の力が、その魂に忍び込み、養分を吸い、巣を作り、這い回り、食い尽くし、腐敗させます。「私の傷は悪臭を放ち、腐敗している」(詩篇38篇6節)とあるように。しかし、魂が神に立ち返り、信じ、命の塩、善き博愛の霊を求めると、降りてくる天の塩が、その魂の中にいる卑劣な虫を殺し、有害な悪臭を取り除き、その力強い働きによって魂を清めます。こうして、真の塩がそれを完全なものにするとき、それは天の主の御用に再び用いられるようになる。したがって、律法において、神はこれを象徴するために、すべてのいけにえに塩を加えるよう命じられた(レビ記2章13節)。
6. それゆえ、祭司はまずそれを{{r|屠|ほふ}}り、死なせ、それから切り分けて塩をまぶし、最後に火にかける必要がある。祭司がまず子羊を屠り、死なせなければ、それは塩をまぶされず、主の益のために捧げられることもない。同様に、私たちの魂も、真の祭司であるキリストに近づくためには、キリストによって屠られ、自らの知恵と、これまで生きてきた悪しき生活、すなわち罪に対して死ななければならない。そして、命が犠牲を捨てるように、魂もまた情欲の悪を捨てなければならない。肉体が魂から離れると、魂は死んで、もはや生きていた生活を送ることはなく、聞くことも歩くこともなくなります。同様に、天の大祭司キリストが、その力の恵みによって、魂の中で世の生活を滅ぼし、死に至らせると、魂はかつて生きていた悪しき生活のために死に、もはや聞くことも話すことも、罪深い闇の中で生きることもなくなります。なぜなら、情欲の悪は、魂と同様に、恵みによってそこから出てくるからです。そして使徒は叫んで言います。「世は私にとって十字架につけられ、私も世にとって十字架につけられたのです」(ガラテヤ6章14節)。魂は、この世に生き、罪深い闇の中にあり、キリストによって滅ぼされず、なおも悪徳の魂、すなわち罪深い情欲の闇の働きを内に持ち、それによって養われている限り、キリストの体にも、光の体にも属さず、闇の体であり、今日に至るまで闇の側に立っている。逆に、光の魂、すなわち聖霊の力を内に持つ者は、光の側に立っている。
7.しかし、ある人は言うでしょう。「魂は闇の働きではないのに、なぜ闇の体と呼ぶのですか?」―これに注意を払い、正しく理解しなさい。あなたが毎日着る衣服は他の人が用意し、あなたがそれを着るように、家も他の人が建て、あなたがそこに住むように、アダムは神の戒めを破り、邪悪な蛇の言葉に耳を傾け、自分自身を悪魔に売り渡し、神がご自身の姿に似せて創造されたこの美しい被造物である魂は、悪魔によって覆われてしまいました。使徒が言うように、「彼は支配者と権威を剥ぎ取り、十字架の上で彼らに打ち勝ったのです」(コロサイ2章15節)。主が来られた目的は、彼らを追い出し、ご自身の家であり神殿である人間を回復することでした。ですから、罪深い闇が魂の中に宿っている限り、魂は邪悪な闇の体と呼ばれるのです。なぜなら、魂は暗黒の悪の時代にそこに住み、維持されているからです。使徒が罪の体と死の体について語る際に、「罪の体が滅ぼされるように」(ローマ6章6節)と言い、また「だれがわたしをこの死の体から救い出してくれるだろうか」(ローマ7章24節)と言っているようにです。同様に、逆に、神を信じ、罪から解放され、暗黒の生活に対して死に、聖霊の光を命として受け入れ、その中で生き生きとした魂は、すでにそこで生活しています。なぜなら、魂は神性の光によってそこに維持されているからです。魂は神の性質でも、悪の闇の性質でもなく、美に満ち、偉大で驚くべき理性的な被造物であり、神の美しい似姿であり、罪の結果として暗黒の情欲の悪が魂に入り込んだのです。
8.最後に、魂は、その欲望と交わり、結びついている存在に属する。したがって、魂は、自らの内に神の光を宿し、その中で生き、あらゆる徳で身を飾るならば、安息の光にあずかる。あるいは、自らの内に罪深い闇を宿すならば、断罪される。先に述べたように、永遠の安息と光の中で神と共に生きたいと願う魂は、真の至高の祭司であるキリストに近づき、屠殺に耐え、この世と、かつての邪悪な闇の生活に対して死に、神の教育を受けるための別の人生へと旅立たなければならない。人が都市で死んだ場合、そこに住む人々の声も、話し声も、騒音も聞こえません。死んだ途端、その都市の声も叫び声もない別の場所に移されます。同様に、魂も、かつて住み、時間を過ごした有害な情欲の都市で殺戮に身を委ね、死んだ途端、もはや闇の会話の声を聞くことはなく、無益な会話や闇の霊の反逆の叫びも聞こえなくなります。そして、善と平和に満ちた都市、神の光に満ちた都市へと移り、そこで生き、聞き、市民となり、話し、会話をし、神にふさわしい霊的な行いをするのです。
9.ですから、主の力によって、私たちが屠殺を受け入れ、暗黒の悪しき時代に死に、罪の霊が私たちの内に滅ぼされ、魂が天の"霊"を受け、"霊"に覆われ、罪の闇からキリストの光へと移され、世々限りなく安らかな命を得られるように祈りましょう。競馬場で戦車が競走し、先行する戦車が後続の戦車を遅らせ、その進行と勝利を妨げ、阻害するように、霊的で罪深い思いが人の中を駆け巡り、もし罪深い思いがそれを先取りすれば、魂は遅れ、神に近づき、罪に勝利することを妨げられ、阻害されます。しかし、主ご自身が座って魂を支配されるところでは、主は常に勝利を収め、巧みに絶えず手綱を導き、魂の戦車を天上的で神聖な考え方へと導いてくださいます。主は罪と戦うのではなく、権威と主権を持つ者として、常に自ら勝利を決定されます。したがって、ケルビムは自ら行きたい場所ではなく、彼らの上に座り、彼らを統治する方が指示する場所へと運ばれます。神がお望みになるところへ彼らは進み、神ご自身が彼らを運ばれます。なぜなら、「人の手」が彼らの下にあったと記されているからです。聖なる魂は、キリストの"霊"によって運ばれ、導かれます。"霊"は、お望みになるところへと導いてくださいます。そして、"霊"がお望みになるときには、彼らは天上の思いの中で運ばれ、また、お望みになるときには、肉体においても運ばれます。"霊"がお望みになるところへ行き、彼らはそこで主にお仕えします。鳥の翼が足の役割を果たすように、聖霊の天上の光は、ふさわしい魂の思いの翼を受け入れ、聖霊が最もよく知るところへと彼らを導き、指示します。
10.ですから、これを聞いたらすぐに、自分の魂がこれを真に、そして心から獲得したかどうか、自分自身に注意を払いなさい。これらは単に口にした言葉ではなく、魂の中で真に成し遂げられた行いだからです。もしあなたがこのような霊的な祝福を獲得しておらず、なお貧しいままであるならば、あなたは絶えず嘆き、泣き、苦しまなければなりません。王国に対して死んだ者、傷ついた者として、常に主に叫び求め、あなたもこの真の命にふさわしい者と認められるよう、信仰をもって祈りなさい。神はこの体を創造されたとき、生命、食物、飲み物、衣服、履物を、その本性から、あるいは体そのものから得るのではなく、むしろ裸の体として創造し、生命に必要なすべてを外から得るように定められました。そして、体は外にあるもの、すなわち食物、飲み物、衣服なしには生きることができません。しかし、もし体が自分の本性に内在するものだけに頼り、外から何も借りないならば、滅びて死んでしまいます。同様に、魂は、神の形に創造されたにもかかわらず(神は魂が永遠の命を得ることを計画し、喜ばれた)、それ自体の中に神の光を欠いているため、魂自身の本性からではなく、神の神性、神自身の霊、神自身の光から霊的な食物、霊的な飲み物、天上の衣を受け取ります。これこそが魂の真の生命を構成するものです。
11.先に述べたように、肉体において生命はそれ自体からではなく、その外にあるもの、すなわち大地から生じるのと同様に、外にあるものがなければ、肉体は生きることができない。同様に、魂がまだ生者の地に生まれ変わっておらず、そこで霊的に養われて霊的に成長し、主の御前で前進しておらず、その神性が天上の美しさという言い表せない衣をまとっていないならば、その糧がなければ、魂はそれ自体で喜びと平和のうちに生きることはできない。神の本質は命のパン、すなわち「わたしは命のパンである」(ヨハネ6章35節)と言われた方、また「生ける水」(ヨハネ4章10節)、「人の心を喜ばせるぶどう酒」(詩篇104篇15節)、「喜びの油」(詩篇45篇8節)であり、天の霊の多様な糧であり、神から授けられた輝く天の衣である。これこそが魂の天上の命である。肉体が自らの本性に安住するならば、それは災いである。なぜなら、肉体は衰え、死ぬからである。魂もまた、自らの本性に安住し、神の霊との交わりを持たずに自らの行いだけに頼るならば、それは災いである。なぜなら、魂は永遠の神の命に値しないとみなされることなく死ぬからである。病人がもはや食物を受け付けなくなった時、人々が絶望し、愛する人々、友人、親戚、そして家族全員が涙を流すように、神と聖なる天使たちは、霊の天の糧にあずからず、不朽の精神に生きることのできない魂を、涙に値する存在として認めます。そして、これは単なる言葉の問題ではなく、霊的な生活、真理の営みそのものが、ふさわしく忠実な魂の中で成し遂げられることなのです。
12.ですから、もしあなたが神の玉座となり、天のトナカイの持ち主があなたの内に座り、あなたの魂が完全に霊的な目となり、完全に光となったならば、もしあなたが霊の天の食物で養われ、生ける水を飲まされたならば、もしあなたが言い表せない光の衣を身にまとったならば、もしあなたの内なる人がこれらすべてを経験し、疑いなく知っているならば、見よ、あなたは真に永遠の命を生き、あなたの魂は今まさに主と共に安息している。見よ、あなたは真に主からこれを得て、真の命を生きることができる。しかし、もしあなたが自分の中にそのようなことを何も知らないならば、泣き、嘆き、悲しむ。なぜなら、あなたはまだ永遠の霊的な富を得ておらず、まだ真の命を受けていないからである。それゆえ、昼も夜も主に懇願して、あなたの貧しさを嘆きなさい。あなたは恐ろしい罪深い貧しさの中にいることに気づくからである。ああ、もし誰かが自分の貧しさに対してこの悲しみを得ることができたなら!ああ、満ち足りた者のように、無頓着に時間を浪費しなければいいのに!悲しんで、求め、しつこく主に祈る者は、主が不正な裁判官とやもめについての説教を締めくくる際に言われたように、より早く救いと天の富を受けるでしょう。「まして神は、昼も夜も神に叫び求める者たちに、どれほど報復されることでしょう。まことに、神は速やかに報復されるでしょう」(ルカ18章7-8節)。栄光と支配が永遠に神にありますように!アーメン。
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モスクワ神学アカデミー訳、Духовные беседы (1–50) の講話1を翻訳。
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*ウィキソースによる日本語訳
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マカリオス50の霊的講話
==講話1==
<< 預言者エゼキエルが描写した幻の寓話的解釈 >>
1. 預言者エゼキエルは、彼が見た神聖で栄光に満ちた幻と幻について語り、それを言葉では言い表せない神秘に満ちた幻と表現した。彼は野原でケルビムの戦車と四つの霊的な獣を見た。それぞれの獣には四つの顔があり、一つは獅子、一つは{{r|鷲|わし}}、一つは子牛、そして一つは人間のようであった。それぞれの顔には翼があり、どれが前でどれが後ろかを見分けることは不可能であった。 「彼らの肩は目」で満ちており、胸も目で満ちており、目のない場所はなかった。それぞれの顔には、いわば車輪の中に車輪があるように三つの車輪があり、その車輪の中に霊があった。預言者はまた、人の姿に似たものを見たが、その足台はサファイアのようであった。この戦車(すなわちケルビムと獣)には、玉座に座る主が乗っていた。彼がどこへ行こうとも、動物たちはいつも背を向けていた。そして預言者はケルビムの下に、動物たちを支え、運ぶ「人間の手」のようなものを見た(エゼキエル書1章5-28節)。
2. 預言者が恍惚の中で見たものは真実で確かなものでしたが、それは何か別のものを指し示していました。それは神秘的で神聖な何か、世代から世代へと真に隠されてきた神秘であり、終わりの時、キリストの到来の時に明らかにされる神秘です。預言者は、主を受け入れ、その栄光の玉座となる運命にある魂の神秘を深く考えました。聖霊がそれを御自身の座と住まいとして備え、その光にあずかるにふさわしいとみなし、言い表せない栄光の美しさで照らした魂は、光、顔、目すべてとなります。霊的な光の目で満たされていない部分は一つもなく、つまり、暗いところは何もありません。魂は完全に光と霊でできており、目に満ち溢れ、後ろ側も後ろ側もなく、あらゆる方向から顔を合わせて現れます。なぜなら、キリストの光の栄光の言い表せない美しさが魂の上に降り注ぎ、魂の上に座っているからです。太陽はどこにあってもそれ自身に似ており、最後の部分や不十分な部分はなく、等しい部分から成り、全体が光で輝き、すべてが光である。あるいは、火、すなわち火の光そのもののように、完全にそれ自身に似ており、それ自体の中に最初も最後もなく、大きいものも小さいものもない。同様に、キリストの顔から発せられる光の栄光の言い表せない美しさによって完全に照らされ、聖霊と完全に交わり、神の住まいと玉座となるにふさわしいとみなされた魂は、キリストがそれを支え、導き、支え、持ち上げ、霊的な美しさで準備し、整え、飾ったように、すべての目、すべての光、すべての顔、すべての栄光、すべての霊となる。なぜなら、「人の手」がケルビムの下にあったと言われているからである(エゼキエル書1章7節)。キリストご自身が魂に運ばれ、また魂を導いているのである。
3. 戦車を{{r|担|かつ}}ぐ四つの{{r|獣|けもの}}は、理性的な魂の支配的な力を象徴している。{{r|鷲|わし}}が鳥を支配し、獅子が野獣を支配し、牛がおとなしい動物を支配し、人間がすべての生き物を支配するように、理性的な魂にも意志、良心、知性、愛の力という、より高貴な力がある。魂の戦車はそれらによって導かれ、神はそれらに宿る。別の解釈によれば、これは聖徒たちの天上の教会を指している。預言者は獣について、その高さが非常に高く、目が満ち溢れており、その目の数や高さを理解することは誰にも不可能であったと述べている。なぜなら、その知識は与えられていなかったからである。 「天の星々は、すべての人が見て驚嘆するために与えられているが、その数を知ることは誰にも不可能である。同様に、聖徒たちの天の教会に入り、それを享受することは、努力を望むすべての人に与えられているが、聖徒の数を知り理解することは、神のみに属する。すべてを見通す生き物の戦車と玉座に座る方、すなわち、御自身の玉座と座所となった各魂の中に、目と光となった方が、その上に歩み、運ばれ、座り、霊の手綱を支配し、御自身が知っているようにそれを導く。霊的な生き物が、自ら行きたいところではなく、その上に座って導く方が知っていて望んだところへ歩いたように、御自身も魂を支配し、"霊"によって道を示して導く。このように、魂は自らの自由意志で、望むときに天に昇るのではなく、神が魂を導き、肉体を捨てて天に昇るのである。」魂は心で天を目指して努力し、また、神の御心にかなうときには肉体と思考の中で歩み、そして神の意志によって地の果てまで行き、神は魂に神秘の啓示を啓示される。おお、真に優れた、善なる、唯一にして真実のリネホルダーよ!このように、魂がすでに栄光を受け、霊と合一しているならば、肉体もまた復活にあずかるにふさわしいものとみなされるであろう。
4. そして、義人の魂が天の光となること――これについて主ご自身が使徒たちにこう言われました。「あなたがたは世の光である」(マタイ5章14節)。主は彼らを光とした後、彼らを通して世が照らされるようにと命じ、こう言われました。「人はともしびをともして升の下に置くのではなく、燭台の上に置く。そうすれば、家の中にいるすべての人を照らす。あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」(マタイ5章15-16節)。これはつまり、わたしから受けた賜物を隠さず、それを求めるすべての人に伝えなさいということです。また、「体のともしびは目である。もしあなたの目が明ければ、あなたの体全体が明るくなる。しかし、もしあなたの目が悪ければ、あなたの体全体が暗くなる。もしあなたの中にある光が暗ければ、その暗さはなおさらだ」(マタイ6章22-23節)。目は体の光であり、目が健康であれば体全体が照らされますが、目に何かが入り目が暗くなると、体全体が暗くなります。このように、使徒たちは全世界の目、光として任命されました。そこで主は彼らに命じて言われました。「あなたがたは世の光であるから、耐え忍び、背を向けなければ、世全体が照らされるでしょう。しかし、あなたがた、世の光が暗くなるなら、闇、すなわち世は、なおさら暗くなるでしょう。」このように、使徒たちは光となり、信じる者たちの光として仕え、彼ら自身が照らされた聖霊の天の光で彼らの心を照らしました。
5. そして、彼らもまた塩であったので、聖霊の塩で信じるすべての魂を溶かし、塩味をつけた。主は彼らに「あなたがたは地の塩である」(マタイ5章13節)と言われた。これは、人の魂を地と呼んだからである。彼らは聖霊という天の塩で人の魂に仕え、それを溶かし、腐敗させず、ひどい悪臭に汚染されないようにした。塩のない肉は腐り、ひどい悪臭を放ち、その耐え難い悪臭のために誰もが顔を背ける。腐った肉には虫が這い回り、そこで餌を見つけて食べ、巣を作る。しかし、塩を振りかけるとすぐに、肉を食べていた虫は死に、悪臭は消える。塩はその性質上、虫を殺し、悪臭を取り除くので、聖霊によって塩味を与えられていない魂、すなわち天の塩、すなわち神の力にあずからない魂は、腐敗し、悪しき思いのひどい悪臭に満たされます。それゆえ、神は、そのような魂に宿る闇の空しい思いや情欲の恐ろしい悪臭から顔を背けられます。邪悪で恐ろしい虫、すなわち悪霊や闇の力が、その魂に忍び込み、養分を吸い、巣を作り、這い回り、食い尽くし、腐敗させます。「私の傷は悪臭を放ち、腐敗している」(詩篇38篇6節)とあるように。しかし、魂が神に立ち返り、信じ、命の塩、善き博愛の霊を求めると、降りてくる天の塩が、その魂の中にいる卑劣な虫を殺し、有害な悪臭を取り除き、その力強い働きによって魂を清めます。こうして、真の塩がそれを完全なものにするとき、それは天の主の御用に再び用いられるようになる。したがって、律法において、神はこれを象徴するために、すべてのいけにえに塩を加えるよう命じられた(レビ記2章13節)。
6. それゆえ、祭司はまずそれを{{r|屠|ほふ}}り、死なせ、それから切り分けて塩をまぶし、最後に火にかける必要がある。祭司がまず子羊を屠り、死なせなければ、それは塩をまぶされず、主の益のために捧げられることもない。同様に、私たちの魂も、真の祭司であるキリストに近づくためには、キリストによって屠られ、自らの知恵と、これまで生きてきた悪しき生活、すなわち罪に対して死ななければならない。そして、命が犠牲を捨てるように、魂もまた情欲の悪を捨てなければならない。肉体が魂から離れると、魂は死んで、もはや生きていた生活を送ることはなく、聞くことも歩くこともなくなります。同様に、天の大祭司キリストが、その力の恵みによって、魂の中で世の生活を滅ぼし、死に至らせると、魂はかつて生きていた悪しき生活のために死に、もはや聞くことも話すことも、罪深い闇の中で生きることもなくなります。なぜなら、情欲の悪は、魂と同様に、恵みによってそこから出てくるからです。そして使徒は叫んで言います。「世は私にとって十字架につけられ、私も世にとって十字架につけられたのです」(ガラテヤ6章14節)。魂は、この世に生き、罪深い闇の中にあり、キリストによって滅ぼされず、なおも悪徳の魂、すなわち罪深い情欲の闇の働きを内に持ち、それによって養われている限り、キリストの体にも、光の体にも属さず、闇の体であり、今日に至るまで闇の側に立っている。逆に、光の魂、すなわち聖霊の力を内に持つ者は、光の側に立っている。
7. しかし、ある人は言うでしょう。「魂は闇の働きではないのに、なぜ闇の体と呼ぶのですか?」―これに注意を払い、正しく理解しなさい。あなたが毎日着る衣服は他の人が用意し、あなたがそれを着るように、家も他の人が建て、あなたがそこに住むように、アダムは神の戒めを破り、邪悪な蛇の言葉に耳を傾け、自分自身を悪魔に売り渡し、神がご自身の姿に似せて創造されたこの美しい被造物である魂は、悪魔によって覆われてしまいました。使徒が言うように、「彼は支配者と権威を剥ぎ取り、十字架の上で彼らに打ち勝ったのです」(コロサイ2章15節)。主が来られた目的は、彼らを追い出し、ご自身の家であり神殿である人間を回復することでした。ですから、罪深い闇が魂の中に宿っている限り、魂は邪悪な闇の体と呼ばれるのです。なぜなら、魂は暗黒の悪の時代にそこに住み、維持されているからです。使徒が罪の体と死の体について語る際に、「罪の体が滅ぼされるように」(ローマ6章6節)と言い、また「だれがわたしをこの死の体から救い出してくれるだろうか」(ローマ7章24節)と言っているようにです。同様に、逆に、神を信じ、罪から解放され、暗黒の生活に対して死に、聖霊の光を命として受け入れ、その中で生き生きとした魂は、すでにそこで生活しています。なぜなら、魂は神性の光によってそこに維持されているからです。魂は神の性質でも、悪の闇の性質でもなく、美に満ち、偉大で驚くべき理性的な被造物であり、神の美しい似姿であり、罪の結果として暗黒の情欲の悪が魂に入り込んだのです。
8. 最後に、魂は、その欲望と交わり、結びついている存在に属する。したがって、魂は、自らの内に神の光を宿し、その中で生き、あらゆる徳で身を飾るならば、安息の光にあずかる。あるいは、自らの内に罪深い闇を宿すならば、断罪される。先に述べたように、永遠の安息と光の中で神と共に生きたいと願う魂は、真の至高の祭司であるキリストに近づき、屠殺に耐え、この世と、かつての邪悪な闇の生活に対して死に、神の教育を受けるための別の人生へと旅立たなければならない。人が都市で死んだ場合、そこに住む人々の声も、話し声も、騒音も聞こえません。死んだ途端、その都市の声も叫び声もない別の場所に移されます。同様に、魂も、かつて住み、時間を過ごした有害な情欲の都市で殺戮に身を委ね、死んだ途端、もはや闇の会話の声を聞くことはなく、無益な会話や闇の霊の反逆の叫びも聞こえなくなります。そして、善と平和に満ちた都市、神の光に満ちた都市へと移り、そこで生き、聞き、市民となり、話し、会話をし、神にふさわしい霊的な行いをするのです。
9. ですから、主の力によって、私たちが屠殺を受け入れ、暗黒の悪しき時代に死に、罪の霊が私たちの内に滅ぼされ、魂が天の"霊"を受け、"霊"に覆われ、罪の闇からキリストの光へと移され、世々限りなく安らかな命を得られるように祈りましょう。競馬場で戦車が競走し、先行する戦車が後続の戦車を遅らせ、その進行と勝利を妨げ、阻害するように、霊的で罪深い思いが人の中を駆け巡り、もし罪深い思いがそれを先取りすれば、魂は遅れ、神に近づき、罪に勝利することを妨げられ、阻害されます。しかし、主ご自身が座って魂を支配されるところでは、主は常に勝利を収め、巧みに絶えず手綱を導き、魂の戦車を天上的で神聖な考え方へと導いてくださいます。主は罪と戦うのではなく、権威と主権を持つ者として、常に自ら勝利を決定されます。したがって、ケルビムは自ら行きたい場所ではなく、彼らの上に座り、彼らを統治する方が指示する場所へと運ばれます。神がお望みになるところへ彼らは進み、神ご自身が彼らを運ばれます。なぜなら、「人の手」が彼らの下にあったと記されているからです。聖なる魂は、キリストの"霊"によって運ばれ、導かれます。"霊"は、お望みになるところへと導いてくださいます。そして、"霊"がお望みになるときには、彼らは天上の思いの中で運ばれ、また、お望みになるときには、肉体においても運ばれます。"霊"がお望みになるところへ行き、彼らはそこで主にお仕えします。鳥の翼が足の役割を果たすように、聖霊の天上の光は、ふさわしい魂の思いの翼を受け入れ、聖霊が最もよく知るところへと彼らを導き、指示します。
10. ですから、これを聞いたらすぐに、自分の魂がこれを真に、そして心から獲得したかどうか、自分自身に注意を払いなさい。これらは単に口にした言葉ではなく、魂の中で真に成し遂げられた行いだからです。もしあなたがこのような霊的な祝福を獲得しておらず、なお貧しいままであるならば、あなたは絶えず嘆き、泣き、苦しまなければなりません。王国に対して死んだ者、傷ついた者として、常に主に叫び求め、あなたもこの真の命にふさわしい者と認められるよう、信仰をもって祈りなさい。神はこの体を創造されたとき、生命、食物、飲み物、衣服、履物を、その本性から、あるいは体そのものから得るのではなく、むしろ裸の体として創造し、生命に必要なすべてを外から得るように定められました。そして、体は外にあるもの、すなわち食物、飲み物、衣服なしには生きることができません。しかし、もし体が自分の本性に内在するものだけに頼り、外から何も借りないならば、滅びて死んでしまいます。同様に、魂は、神の形に創造されたにもかかわらず(神は魂が永遠の命を得ることを計画し、喜ばれた)、それ自体の中に神の光を欠いているため、魂自身の本性からではなく、神の神性、神自身の霊、神自身の光から霊的な食物、霊的な飲み物、天上の衣を受け取ります。これこそが魂の真の生命を構成するものです。
11. 先に述べたように、肉体において生命はそれ自体からではなく、その外にあるもの、すなわち大地から生じるのと同様に、外にあるものがなければ、肉体は生きることができない。同様に、魂がまだ生者の地に生まれ変わっておらず、そこで霊的に養われて霊的に成長し、主の御前で前進しておらず、その神性が天上の美しさという言い表せない衣をまとっていないならば、その糧がなければ、魂はそれ自体で喜びと平和のうちに生きることはできない。神の本質は命のパン、すなわち「わたしは命のパンである」(ヨハネ6章35節)と言われた方、また「生ける水」(ヨハネ4章10節)、「人の心を喜ばせるぶどう酒」(詩篇104篇15節)、「喜びの油」(詩篇45篇8節)であり、天の霊の多様な糧であり、神から授けられた輝く天の衣である。これこそが魂の天上の命である。肉体が自らの本性に安住するならば、それは災いである。なぜなら、肉体は衰え、死ぬからである。魂もまた、自らの本性に安住し、神の霊との交わりを持たずに自らの行いだけに頼るならば、それは災いである。なぜなら、魂は永遠の神の命に値しないとみなされることなく死ぬからである。病人がもはや食物を受け付けなくなった時、人々が絶望し、愛する人々、友人、親戚、そして家族全員が涙を流すように、神と聖なる天使たちは、霊の天の糧にあずからず、不朽の精神に生きることのできない魂を、涙に値する存在として認めます。そして、これは単なる言葉の問題ではなく、霊的な生活、真理の営みそのものが、ふさわしく忠実な魂の中で成し遂げられることなのです。
12. ですから、もしあなたが神の玉座となり、天のトナカイの持ち主があなたの内に座り、あなたの魂が完全に霊的な目となり、完全に光となったならば、もしあなたが霊の天の食物で養われ、生ける水を飲まされたならば、もしあなたが言い表せない光の衣を身にまとったならば、もしあなたの内なる人がこれらすべてを経験し、疑いなく知っているならば、見よ、あなたは真に永遠の命を生き、あなたの魂は今まさに主と共に安息している。見よ、あなたは真に主からこれを得て、真の命を生きることができる。しかし、もしあなたが自分の中にそのようなことを何も知らないならば、泣き、嘆き、悲しむ。なぜなら、あなたはまだ永遠の霊的な富を得ておらず、まだ真の命を受けていないからである。それゆえ、昼も夜も主に懇願して、あなたの貧しさを嘆きなさい。あなたは恐ろしい罪深い貧しさの中にいることに気づくからである。ああ、もし誰かが自分の貧しさに対してこの悲しみを得ることができたなら!ああ、満ち足りた者のように、無頓着に時間を浪費しなければいいのに!悲しんで、求め、しつこく主に祈る者は、主が不正な裁判官とやもめについての説教を締めくくる際に言われたように、より早く救いと天の富を受けるでしょう。「まして神は、昼も夜も神に叫び求める者たちに、どれほど報復されることでしょう。まことに、神は速やかに報復されるでしょう」(ルカ18章7-8節)。栄光と支配が永遠に神にありますように!アーメン。
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マカリオス50の霊的講話
==講話1==
<< 預言者エゼキエルが描写した幻の寓話的解釈 >>
1. 預言者エゼキエルは、彼が見た神聖で栄光に満ちた幻と幻について語り、それを言葉では言い表せない神秘に満ちた幻と表現した。彼は野原でケルビムの戦車と四つの霊的な獣を見た。それぞれの獣には四つの顔があり、一つは獅子、一つは{{r|鷲|わし}}、一つは子牛、そして一つは人間のようであった。それぞれの顔には翼があり、どれが前でどれが後ろかを見分けることは不可能であった。 「彼らの肩は目」で満ちており、胸も目で満ちており、目のない場所はなかった。それぞれの顔には、いわば車輪の中に車輪があるように三つの車輪があり、その車輪の中に霊があった。預言者はまた、人の姿に似たものを見たが、その足台はサファイアのようであった。この戦車(すなわちケルビムと獣)には、玉座に座る主が乗っていた。彼がどこへ行こうとも、動物たちはいつも背を向けていた。そして預言者はケルビムの下に、動物たちを支え、運ぶ「人間の手」のようなものを見た(エゼキエル書1章5-28節)。
2. 預言者が恍惚の中で見たものは真実で確かなものでしたが、それは何か別のものを指し示していました。それは神秘的で神聖な何か、世代から世代へと真に隠されてきた神秘であり、終わりの時、キリストの到来の時に明らかにされる神秘です。預言者は、主を受け入れ、その栄光の玉座となる運命にある魂の神秘を深く考えました。聖霊がそれを御自身の座と住まいとして備え、その光にあずかるにふさわしいとみなし、言い表せない栄光の美しさで照らした魂は、光、顔、目すべてとなります。霊的な光の目で満たされていない部分は一つもなく、つまり、暗いところは何もありません。魂は完全に光と霊でできており、目に満ち溢れ、後ろ側も後ろ側もなく、あらゆる方向から顔を合わせて現れます。なぜなら、キリストの光の栄光の言い表せない美しさが魂の上に降り注ぎ、魂の上に座っているからです。太陽はどこにあってもそれ自身に似ており、最後の部分や不十分な部分はなく、等しい部分から成り、全体が光で輝き、すべてが光である。あるいは、火、すなわち火の光そのもののように、完全にそれ自身に似ており、それ自体の中に最初も最後もなく、大きいものも小さいものもない。同様に、キリストの顔から発せられる光の栄光の言い表せない美しさによって完全に照らされ、聖霊と完全に交わり、神の住まいと玉座となるにふさわしいとみなされた魂は、キリストがそれを支え、導き、支え、持ち上げ、霊的な美しさで準備し、整え、飾ったように、すべての目、すべての光、すべての顔、すべての栄光、すべての霊となる。なぜなら、「人の手」がケルビムの下にあったと言われているからである(エゼキエル書1章7節)。キリストご自身が魂に運ばれ、また魂を導いているのである。
3. 戦車を{{r|担|かつ}}ぐ四つの{{r|獣|けもの}}は、理性的な魂の支配的な力を象徴している。{{r|鷲|わし}}が鳥を支配し、獅子が野獣を支配し、牛がおとなしい動物を支配し、人間がすべての生き物を支配するように、理性的な魂にも意志、良心、知性、愛の力という、より高貴な力がある。魂の戦車はそれらによって導かれ、神はそれらに宿る。別の解釈によれば、これは聖徒たちの天上の教会を指している。預言者は獣について、その高さが非常に高く、目が満ち溢れており、その目の数や高さを理解することは誰にも不可能であったと述べている。なぜなら、その知識は与えられていなかったからである。 「天の星々は、すべての人が見て驚嘆するために与えられているが、その数を知ることは誰にも不可能である。同様に、聖徒たちの天の教会に入り、それを享受することは、努力を望むすべての人に与えられているが、聖徒の数を知り理解することは、神のみに属する。すべてを見通す生き物の戦車と玉座に座る方、すなわち、御自身の玉座と座所となった各魂の中に、目と光となった方が、その上に歩み、運ばれ、座り、霊の手綱を支配し、御自身が知っているようにそれを導く。霊的な生き物が、自ら行きたいところではなく、その上に座って導く方が知っていて望んだところへ歩いたように、御自身も魂を支配し、"霊"によって道を示して導く。このように、魂は自らの自由意志で、望むときに天に昇るのではなく、神が魂を導き、肉体を捨てて天に昇るのである。」魂は心で天を目指して努力し、また、神の御心にかなうときには肉体と思考の中で歩み、そして神の意志によって地の果てまで行き、神は魂に神秘の啓示を啓示される。おお、真に優れた、善なる、唯一にして真実の{{r|御者|ぎょしゃ}}よ!このように、魂がすでに栄光を受け、霊と合一しているならば、肉体もまた復活にあずかるにふさわしいものとみなされるであろう。
4. そして、義人の魂が天の光となること――これについて主ご自身が使徒たちにこう言われました。「あなたがたは世の光である」(マタイ5章14節)。主は彼らを光とした後、彼らを通して世が照らされるようにと命じ、こう言われました。「人はともしびをともして升の下に置くのではなく、燭台の上に置く。そうすれば、家の中にいるすべての人を照らす。あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」(マタイ5章15-16節)。これはつまり、わたしから受けた賜物を隠さず、それを求めるすべての人に伝えなさいということです。また、「体のともしびは目である。もしあなたの目が明ければ、あなたの体全体が明るくなる。しかし、もしあなたの目が悪ければ、あなたの体全体が暗くなる。もしあなたの中にある光が暗ければ、その暗さはなおさらだ」(マタイ6章22-23節)。目は体の光であり、目が健康であれば体全体が照らされますが、目に何かが入り目が暗くなると、体全体が暗くなります。このように、使徒たちは全世界の目、光として任命されました。そこで主は彼らに命じて言われました。「あなたがたは世の光であるから、耐え忍び、背を向けなければ、世全体が照らされるでしょう。しかし、あなたがた、世の光が暗くなるなら、闇、すなわち世は、なおさら暗くなるでしょう。」このように、使徒たちは光となり、信じる者たちの光として仕え、彼ら自身が照らされた聖霊の天の光で彼らの心を照らしました。
5. そして、彼らもまた塩であったので、聖霊の塩で信じるすべての魂を溶かし、塩味をつけた。主は彼らに「あなたがたは地の塩である」(マタイ5章13節)と言われた。これは、人の魂を地と呼んだからである。彼らは聖霊という天の塩で人の魂に仕え、それを溶かし、腐敗させず、ひどい悪臭に汚染されないようにした。塩のない肉は腐り、ひどい悪臭を放ち、その耐え難い悪臭のために誰もが顔を背ける。腐った肉には虫が這い回り、そこで餌を見つけて食べ、巣を作る。しかし、塩を振りかけるとすぐに、肉を食べていた虫は死に、悪臭は消える。塩はその性質上、虫を殺し、悪臭を取り除くので、聖霊によって塩味を与えられていない魂、すなわち天の塩、すなわち神の力にあずからない魂は、腐敗し、悪しき思いのひどい悪臭に満たされます。それゆえ、神は、そのような魂に宿る闇の空しい思いや情欲の恐ろしい悪臭から顔を背けられます。邪悪で恐ろしい虫、すなわち悪霊や闇の力が、その魂に忍び込み、養分を吸い、巣を作り、這い回り、食い尽くし、腐敗させます。「私の傷は悪臭を放ち、腐敗している」(詩篇38篇6節)とあるように。しかし、魂が神に立ち返り、信じ、命の塩、善き博愛の霊を求めると、降りてくる天の塩が、その魂の中にいる卑劣な虫を殺し、有害な悪臭を取り除き、その力強い働きによって魂を清めます。こうして、真の塩がそれを完全なものにするとき、それは天の主の御用に再び用いられるようになる。したがって、律法において、神はこれを象徴するために、すべてのいけにえに塩を加えるよう命じられた(レビ記2章13節)。
6. それゆえ、祭司はまずそれを{{r|屠|ほふ}}り、死なせ、それから切り分けて塩をまぶし、最後に火にかける必要がある。祭司がまず子羊を屠り、死なせなければ、それは塩をまぶされず、主の益のために捧げられることもない。同様に、私たちの魂も、真の祭司であるキリストに近づくためには、キリストによって屠られ、自らの知恵と、これまで生きてきた悪しき生活、すなわち罪に対して死ななければならない。そして、命が犠牲を捨てるように、魂もまた情欲の悪を捨てなければならない。肉体が魂から離れると、魂は死んで、もはや生きていた生活を送ることはなく、聞くことも歩くこともなくなります。同様に、天の大祭司キリストが、その力の恵みによって、魂の中で世の生活を滅ぼし、死に至らせると、魂はかつて生きていた悪しき生活のために死に、もはや聞くことも話すことも、罪深い闇の中で生きることもなくなります。なぜなら、情欲の悪は、魂と同様に、恵みによってそこから出てくるからです。そして使徒は叫んで言います。「世は私にとって十字架につけられ、私も世にとって十字架につけられたのです」(ガラテヤ6章14節)。魂は、この世に生き、罪深い闇の中にあり、キリストによって滅ぼされず、なおも悪徳の魂、すなわち罪深い情欲の闇の働きを内に持ち、それによって養われている限り、キリストの体にも、光の体にも属さず、闇の体であり、今日に至るまで闇の側に立っている。逆に、光の魂、すなわち聖霊の力を内に持つ者は、光の側に立っている。
7. しかし、ある人は言うでしょう。「魂は闇の働きではないのに、なぜ闇の体と呼ぶのですか?」―これに注意を払い、正しく理解しなさい。あなたが毎日着る衣服は他の人が用意し、あなたがそれを着るように、家も他の人が建て、あなたがそこに住むように、アダムは神の戒めを破り、邪悪な蛇の言葉に耳を傾け、自分自身を悪魔に売り渡し、神がご自身の姿に似せて創造されたこの美しい被造物である魂は、悪魔によって覆われてしまいました。使徒が言うように、「彼は支配者と権威を剥ぎ取り、十字架の上で彼らに打ち勝ったのです」(コロサイ2章15節)。主が来られた目的は、彼らを追い出し、ご自身の家であり神殿である人間を回復することでした。ですから、罪深い闇が魂の中に宿っている限り、魂は邪悪な闇の体と呼ばれるのです。なぜなら、魂は暗黒の悪の時代にそこに住み、維持されているからです。使徒が罪の体と死の体について語る際に、「罪の体が滅ぼされるように」(ローマ6章6節)と言い、また「だれがわたしをこの死の体から救い出してくれるだろうか」(ローマ7章24節)と言っているようにです。同様に、逆に、神を信じ、罪から解放され、暗黒の生活に対して死に、聖霊の光を命として受け入れ、その中で生き生きとした魂は、すでにそこで生活しています。なぜなら、魂は神性の光によってそこに維持されているからです。魂は神の性質でも、悪の闇の性質でもなく、美に満ち、偉大で驚くべき理性的な被造物であり、神の美しい似姿であり、罪の結果として暗黒の情欲の悪が魂に入り込んだのです。
8. 最後に、魂は、その欲望と交わり、結びついている存在に属する。したがって、魂は、自らの内に神の光を宿し、その中で生き、あらゆる徳で身を飾るならば、安息の光にあずかる。あるいは、自らの内に罪深い闇を宿すならば、断罪される。先に述べたように、永遠の安息と光の中で神と共に生きたいと願う魂は、真の至高の祭司であるキリストに近づき、屠殺に耐え、この世と、かつての邪悪な闇の生活に対して死に、神の教育を受けるための別の人生へと旅立たなければならない。人が都市で死んだ場合、そこに住む人々の声も、話し声も、騒音も聞こえません。死んだ途端、その都市の声も叫び声もない別の場所に移されます。同様に、魂も、かつて住み、時間を過ごした有害な情欲の都市で殺戮に身を委ね、死んだ途端、もはや闇の会話の声を聞くことはなく、無益な会話や闇の霊の反逆の叫びも聞こえなくなります。そして、善と平和に満ちた都市、神の光に満ちた都市へと移り、そこで生き、聞き、市民となり、話し、会話をし、神にふさわしい霊的な行いをするのです。
9. ですから、主の力によって、私たちが屠殺を受け入れ、暗黒の悪しき時代に死に、罪の霊が私たちの内に滅ぼされ、魂が天の"霊"を受け、"霊"に覆われ、罪の闇からキリストの光へと移され、世々限りなく安らかな命を得られるように祈りましょう。競馬場で戦車が競走し、先行する戦車が後続の戦車を遅らせ、その進行と勝利を妨げ、阻害するように、霊的で罪深い思いが人の中を駆け巡り、もし罪深い思いがそれを先取りすれば、魂は遅れ、神に近づき、罪に勝利することを妨げられ、阻害されます。しかし、主ご自身が座って魂を支配されるところでは、主は常に勝利を収め、巧みに絶えず手綱を導き、魂の戦車を天上的で神聖な考え方へと導いてくださいます。主は罪と戦うのではなく、権威と主権を持つ者として、常に自ら勝利を決定されます。したがって、ケルビムは自ら行きたい場所ではなく、彼らの上に座り、彼らを統治する方が指示する場所へと運ばれます。神がお望みになるところへ彼らは進み、神ご自身が彼らを運ばれます。なぜなら、「人の手」が彼らの下にあったと記されているからです。聖なる魂は、キリストの"霊"によって運ばれ、導かれます。"霊"は、お望みになるところへと導いてくださいます。そして、"霊"がお望みになるときには、彼らは天上の思いの中で運ばれ、また、お望みになるときには、肉体においても運ばれます。"霊"がお望みになるところへ行き、彼らはそこで主にお仕えします。鳥の翼が足の役割を果たすように、聖霊の天上の光は、ふさわしい魂の思いの翼を受け入れ、聖霊が最もよく知るところへと彼らを導き、指示します。
10. ですから、これを聞いたらすぐに、自分の魂がこれを真に、そして心から獲得したかどうか、自分自身に注意を払いなさい。これらは単に口にした言葉ではなく、魂の中で真に成し遂げられた行いだからです。もしあなたがこのような霊的な祝福を獲得しておらず、なお貧しいままであるならば、あなたは絶えず嘆き、泣き、苦しまなければなりません。王国に対して死んだ者、傷ついた者として、常に主に叫び求め、あなたもこの真の命にふさわしい者と認められるよう、信仰をもって祈りなさい。神はこの体を創造されたとき、生命、食物、飲み物、衣服、履物を、その本性から、あるいは体そのものから得るのではなく、むしろ裸の体として創造し、生命に必要なすべてを外から得るように定められました。そして、体は外にあるもの、すなわち食物、飲み物、衣服なしには生きることができません。しかし、もし体が自分の本性に内在するものだけに頼り、外から何も借りないならば、滅びて死んでしまいます。同様に、魂は、神の形に創造されたにもかかわらず(神は魂が永遠の命を得ることを計画し、喜ばれた)、それ自体の中に神の光を欠いているため、魂自身の本性からではなく、神の神性、神自身の霊、神自身の光から霊的な食物、霊的な飲み物、天上の衣を受け取ります。これこそが魂の真の生命を構成するものです。
11. 先に述べたように、肉体において生命はそれ自体からではなく、その外にあるもの、すなわち大地から生じるのと同様に、外にあるものがなければ、肉体は生きることができない。同様に、魂がまだ生者の地に生まれ変わっておらず、そこで霊的に養われて霊的に成長し、主の御前で前進しておらず、その神性が天上の美しさという言い表せない衣をまとっていないならば、その糧がなければ、魂はそれ自体で喜びと平和のうちに生きることはできない。神の本質は命のパン、すなわち「わたしは命のパンである」(ヨハネ6章35節)と言われた方、また「生ける水」(ヨハネ4章10節)、「人の心を喜ばせるぶどう酒」(詩篇104篇15節)、「喜びの油」(詩篇45篇8節)であり、天の霊の多様な糧であり、神から授けられた輝く天の衣である。これこそが魂の天上の命である。肉体が自らの本性に安住するならば、それは災いである。なぜなら、肉体は衰え、死ぬからである。魂もまた、自らの本性に安住し、神の霊との交わりを持たずに自らの行いだけに頼るならば、それは災いである。なぜなら、魂は永遠の神の命に値しないとみなされることなく死ぬからである。病人がもはや食物を受け付けなくなった時、人々が絶望し、愛する人々、友人、親戚、そして家族全員が涙を流すように、神と聖なる天使たちは、霊の天の糧にあずからず、不朽の精神に生きることのできない魂を、涙に値する存在として認めます。そして、これは単なる言葉の問題ではなく、霊的な生活、真理の営みそのものが、ふさわしく忠実な魂の中で成し遂げられることなのです。
12. ですから、もしあなたが神の玉座となり、天のトナカイの持ち主があなたの内に座り、あなたの魂が完全に霊的な目となり、完全に光となったならば、もしあなたが霊の天の食物で養われ、生ける水を飲まされたならば、もしあなたが言い表せない光の衣を身にまとったならば、もしあなたの内なる人がこれらすべてを経験し、疑いなく知っているならば、見よ、あなたは真に永遠の命を生き、あなたの魂は今まさに主と共に安息している。見よ、あなたは真に主からこれを得て、真の命を生きることができる。しかし、もしあなたが自分の中にそのようなことを何も知らないならば、泣き、嘆き、悲しむ。なぜなら、あなたはまだ永遠の霊的な富を得ておらず、まだ真の命を受けていないからである。それゆえ、昼も夜も主に懇願して、あなたの貧しさを嘆きなさい。あなたは恐ろしい罪深い貧しさの中にいることに気づくからである。ああ、もし誰かが自分の貧しさに対してこの悲しみを得ることができたなら!ああ、満ち足りた者のように、無頓着に時間を浪費しなければいいのに!悲しんで、求め、しつこく主に祈る者は、主が不正な裁判官とやもめについての説教を締めくくる際に言われたように、より早く救いと天の富を受けるでしょう。「まして神は、昼も夜も神に叫び求める者たちに、どれほど報復されることでしょう。まことに、神は速やかに報復されるでしょう」(ルカ18章7-8節)。栄光と支配が永遠に神にありますように!アーメン。
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モスクワ神学アカデミー訳、Духовные беседы (1–50) の講話1を翻訳。
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*ウィキソースによる日本語訳
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マカリオス50の霊的講話
==講話1==
<< 預言者エゼキエルが描写した幻の寓話的解釈 >>
1. 預言者エゼキエルは、彼が見た神聖で栄光に満ちた幻と幻影について語り、それを言葉では言い表せない神秘に満ちた幻と表現した。彼は野原でケルビムの戦車と四つの霊的な生き物を見た。それぞれの生き物には四つの顔があり、一つは獅子、一つは{{r|鷲|わし}}、一つは子牛、そして一つは人間のようであった。それぞれの顔には翼があり、どれが前でどれが後ろかを見分けることは不可能であった。 「彼らの肩は目」で満ちており、胸も目で満ちており、目のない場所はなかった。それぞれの顔には、いわば車輪の中に車輪があるように三つの車輪があり、その車輪の中に霊があった。預言者はまた、人の姿に似たものを見たが、その足台はサファイアのようであった。この戦車(すなわちケルビムと生き物)には、玉座に座る主が乗っていた。彼がどこへ行こうとも、動物たちはいつも背を向けていた。そして預言者はケルビムの下に、動物たちを支え、運ぶ「人間の手」のようなものを見た(エゼキエル書1章5-28節)。
2. 預言者が恍惚の中で見たものは真実で確かなものでしたが、それは何か別のものを指し示していました。それは神秘的で神聖な何か、世代から世代へと真に隠されてきた神秘であり、終わりの時、キリストの到来の時に明らかにされる神秘です。預言者は、主を受け入れ、その栄光の玉座となる運命にある魂の神秘を深く考えました。聖霊がそれを御自身の座と住まいとして備え、その光にあずかるにふさわしいとみなし、言い表せない栄光の美しさで照らした魂は、光、顔、目すべてとなります。霊的な光の目で満たされていない部分は一つもなく、つまり、暗いところは何もありません。魂は完全に光と霊でできており、目に満ち溢れ、後ろ側も後ろ側もなく、あらゆる方向から顔を合わせて現れます。なぜなら、キリストの光の栄光の言い表せない美しさが魂の上に降り注ぎ、魂の上に座っているからです。太陽はどこにあってもそれ自身に似ており、最後の部分や不十分な部分はなく、等しい部分から成り、全体が光で輝き、すべてが光である。あるいは、火、すなわち火の光そのもののように、完全にそれ自身に似ており、それ自体の中に最初も最後もなく、大きいものも小さいものもない。同様に、キリストの顔から発せられる光の栄光の言い表せない美しさによって完全に照らされ、聖霊と完全に交わり、神の住まいと玉座となるにふさわしいとみなされた魂は、キリストがそれを支え、導き、支え、持ち上げ、霊的な美しさで準備し、整え、飾ったように、すべての目、すべての光、すべての顔、すべての栄光、すべての霊となる。なぜなら、「人の手」がケルビムの下にあったと言われているからである(エゼキエル書1章7節)。キリストご自身が魂に運ばれ、また魂を導いているのである。
3. 戦車を{{r|担|かつ}}ぐ四つの生き物は、理性的な魂の支配的な力を象徴している。{{r|鷲|わし}}が鳥を支配し、獅子が野獣を支配し、牛がおとなしい動物を支配し、人間がすべての生き物を支配するように、理性的な魂にも意志、良心、知性、愛の力という、より高貴な力がある。魂の戦車はそれらによって導かれ、神はそれらに宿る。別の解釈によれば、これは聖徒たちの天上の教会を指している。預言者はそれら生き物について、その高さが非常に高く、目が満ち溢れており、その目の数や高さを理解することは誰にも不可能であったと述べている。なぜなら、その知識は与えられていなかったからである。 「天の星々は、すべての人が見て驚嘆するために与えられているが、その数を知ることは誰にも不可能である。同様に、聖徒たちの天の教会に入り、それを享受することは、努力を望むすべての人に与えられているが、聖徒の数を知り理解することは、神のみに属する。すべてを見通す生き物の戦車と玉座に座る方、すなわち、御自身の玉座と座所となった各魂の中に、目と光となった方が、その上に歩み、運ばれ、座り、霊の手綱を支配し、御自身が知っているようにそれを導く。霊的な生き物が、自ら行きたいところではなく、その上に座って導く方が知っていて望んだところへ歩いたように、御自身も魂を支配し、"霊"によって道を示して導く。このように、魂は自らの自由意志で、望むときに天に昇るのではなく、神が魂を導き、肉体を捨てて天に昇るのである。」魂は心で天を目指して努力し、また、神の御心にかなうときには肉体と思考の中で歩み、そして神の意志によって地の果てまで行き、神は魂に神秘の啓示を啓示される。おお、真に優れた、善なる、唯一にして真実の{{r|御者|ぎょしゃ}}よ!このように、魂がすでに栄光を受け、霊と合一しているならば、肉体もまた復活にあずかるにふさわしいものとみなされるであろう。
4. そして、義人の魂が天の光となること――これについて主ご自身が使徒たちにこう言われました。「あなたがたは世の光である」(マタイ5章14節)。主は彼らを光とした後、彼らを通して世が照らされるようにと命じ、こう言われました。「人はともしびをともして升の下に置くのではなく、燭台の上に置く。そうすれば、家の中にいるすべての人を照らす。あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」(マタイ5章15-16節)。これはつまり、わたしから受けた賜物を隠さず、それを求めるすべての人に伝えなさいということです。また、「体のともしびは目である。もしあなたの目が明ければ、あなたの体全体が明るくなる。しかし、もしあなたの目が悪ければ、あなたの体全体が暗くなる。もしあなたの中にある光が暗ければ、その暗さはなおさらだ」(マタイ6章22-23節)。目は体の光であり、目が健康であれば体全体が照らされますが、目に何かが入り目が暗くなると、体全体が暗くなります。このように、使徒たちは全世界の目、光として任命されました。そこで主は彼らに命じて言われました。「あなたがたは世の光であるから、耐え忍び、背を向けなければ、世全体が照らされるでしょう。しかし、あなたがた、世の光が暗くなるなら、闇、すなわち世は、なおさら暗くなるでしょう。」このように、使徒たちは光となり、信じる者たちの光として仕え、彼ら自身が照らされた聖霊の天の光で彼らの心を照らしました。
5. そして、彼らもまた塩であったので、聖霊の塩で信じるすべての魂を溶かし、塩味をつけた。主は彼らに「あなたがたは地の塩である」(マタイ5章13節)と言われた。これは、人の魂を地と呼んだからである。彼らは聖霊という天の塩で人の魂に仕え、それを溶かし、腐敗させず、ひどい悪臭に汚染されないようにした。塩のない肉は腐り、ひどい悪臭を放ち、その耐え難い悪臭のために誰もが顔を背ける。腐った肉には虫が這い回り、そこで餌を見つけて食べ、巣を作る。しかし、塩を振りかけるとすぐに、肉を食べていた虫は死に、悪臭は消える。塩はその性質上、虫を殺し、悪臭を取り除くので、聖霊によって塩味を与えられていない魂、すなわち天の塩、すなわち神の力にあずからない魂は、腐敗し、悪しき思いのひどい悪臭に満たされます。それゆえ、神は、そのような魂に宿る闇の空しい思いや情欲の恐ろしい悪臭から顔を背けられます。邪悪で恐ろしい虫、すなわち悪霊や闇の力が、その魂に忍び込み、養分を吸い、巣を作り、這い回り、食い尽くし、腐敗させます。「私の傷は悪臭を放ち、腐敗している」(詩篇38篇6節)とあるように。しかし、魂が神に立ち返り、信じ、命の塩、善き博愛の霊を求めると、降りてくる天の塩が、その魂の中にいる卑劣な虫を殺し、有害な悪臭を取り除き、その力強い働きによって魂を清めます。こうして、真の塩がそれを完全なものにするとき、それは天の主の御用に再び用いられるようになる。したがって、律法において、神はこれを象徴するために、すべてのいけにえに塩を加えるよう命じられた(レビ記2章13節)。
6. それゆえ、祭司はまずそれを{{r|屠|ほふ}}り、死なせ、それから切り分けて塩をまぶし、最後に火にかける必要がある。祭司がまず子羊を屠り、死なせなければ、それは塩をまぶされず、主の益のために捧げられることもない。同様に、私たちの魂も、真の祭司であるキリストに近づくためには、キリストによって屠られ、自らの知恵と、これまで生きてきた悪しき生活、すなわち罪に対して死ななければならない。そして、命が犠牲を捨てるように、魂もまた情欲の悪を捨てなければならない。肉体が魂から離れると、魂は死んで、もはや生きていた生活を送ることはなく、聞くことも歩くこともなくなります。同様に、天の大祭司キリストが、その力の恵みによって、魂の中で世の生活を滅ぼし、死に至らせると、魂はかつて生きていた悪しき生活のために死に、もはや聞くことも話すことも、罪深い闇の中で生きることもなくなります。なぜなら、情欲の悪は、魂と同様に、恵みによってそこから出てくるからです。そして使徒は叫んで言います。「世は私にとって十字架につけられ、私も世にとって十字架につけられたのです」(ガラテヤ6章14節)。魂は、この世に生き、罪深い闇の中にあり、キリストによって滅ぼされず、なおも悪徳の魂、すなわち罪深い情欲の闇の働きを内に持ち、それによって養われている限り、キリストの体にも、光の体にも属さず、闇の体であり、今日に至るまで闇の側に立っている。逆に、光の魂、すなわち聖霊の力を内に持つ者は、光の側に立っている。
7. しかし、ある人は言うでしょう。「魂は闇の働きではないのに、なぜ闇の体と呼ぶのですか?」―これに注意を払い、正しく理解しなさい。あなたが毎日着る衣服は他の人が用意し、あなたがそれを着るように、家も他の人が建て、あなたがそこに住むように、アダムは神の戒めを破り、邪悪な蛇の言葉に耳を傾け、自分自身を悪魔に売り渡し、神がご自身の姿に似せて創造されたこの美しい被造物である魂は、悪魔によって覆われてしまいました。使徒が言うように、「彼は支配者と権威を剥ぎ取り、十字架の上で彼らに打ち勝ったのです」(コロサイ2章15節)。主が来られた目的は、彼らを追い出し、ご自身の家であり神殿である人間を回復することでした。ですから、罪深い闇が魂の中に宿っている限り、魂は邪悪な闇の体と呼ばれるのです。なぜなら、魂は暗黒の悪の時代にそこに住み、維持されているからです。使徒が罪の体と死の体について語る際に、「罪の体が滅ぼされるように」(ローマ6章6節)と言い、また「だれがわたしをこの死の体から救い出してくれるだろうか」(ローマ7章24節)と言っているようにです。同様に、逆に、神を信じ、罪から解放され、暗黒の生活に対して死に、聖霊の光を命として受け入れ、その中で生き生きとした魂は、すでにそこで生活しています。なぜなら、魂は神性の光によってそこに維持されているからです。魂は神の性質でも、悪の闇の性質でもなく、美に満ち、偉大で驚くべき理性的な被造物であり、神の美しい似姿であり、罪の結果として暗黒の情欲の悪が魂に入り込んだのです。
8. 最後に、魂は、その欲望と交わり、結びついている存在に属する。したがって、魂は、自らの内に神の光を宿し、その中で生き、あらゆる徳で身を飾るならば、安息の光にあずかる。あるいは、自らの内に罪深い闇を宿すならば、断罪される。先に述べたように、永遠の安息と光の中で神と共に生きたいと願う魂は、真の至高の祭司であるキリストに近づき、屠殺に耐え、この世と、かつての邪悪な闇の生活に対して死に、神の教育を受けるための別の人生へと旅立たなければならない。人が都市で死んだ場合、そこに住む人々の声も、話し声も、騒音も聞こえません。死んだ途端、その都市の声も叫び声もない別の場所に移されます。同様に、魂も、かつて住み、時間を過ごした有害な情欲の都市で殺戮に身を委ね、死んだ途端、もはや闇の会話の声を聞くことはなく、無益な会話や闇の霊の反逆の叫びも聞こえなくなります。そして、善と平和に満ちた都市、神の光に満ちた都市へと移り、そこで生き、聞き、市民となり、話し、会話をし、神にふさわしい霊的な行いをするのです。
9. ですから、主の力によって、私たちが屠殺を受け入れ、暗黒の悪しき時代に死に、罪の霊が私たちの内に滅ぼされ、魂が天の"霊"を受け、"霊"に覆われ、罪の闇からキリストの光へと移され、世々限りなく安らかな命を得られるように祈りましょう。競馬場で戦車が競走し、先行する戦車が後続の戦車を遅らせ、その進行と勝利を妨げ、阻害するように、霊的で罪深い思いが人の中を駆け巡り、もし罪深い思いがそれを先取りすれば、魂は遅れ、神に近づき、罪に勝利することを妨げられ、阻害されます。しかし、主ご自身が座って魂を支配されるところでは、主は常に勝利を収め、巧みに絶えず手綱を導き、魂の戦車を天上的で神聖な考え方へと導いてくださいます。主は罪と戦うのではなく、権威と主権を持つ者として、常に自ら勝利を決定されます。したがって、ケルビムは自ら行きたい場所ではなく、彼らの上に座り、彼らを統治する方が指示する場所へと運ばれます。神がお望みになるところへ彼らは進み、神ご自身が彼らを運ばれます。なぜなら、「人の手」が彼らの下にあったと記されているからです。聖なる魂は、キリストの"霊"によって運ばれ、導かれます。"霊"は、お望みになるところへと導いてくださいます。そして、"霊"がお望みになるときには、彼らは天上の思いの中で運ばれ、また、お望みになるときには、肉体においても運ばれます。"霊"がお望みになるところへ行き、彼らはそこで主にお仕えします。鳥の翼が足の役割を果たすように、聖霊の天上の光は、ふさわしい魂の思いの翼を受け入れ、聖霊が最もよく知るところへと彼らを導き、指示します。
10. ですから、これを聞いたらすぐに、自分の魂がこれを真に、そして心から獲得したかどうか、自分自身に注意を払いなさい。これらは単に口にした言葉ではなく、魂の中で真に成し遂げられた行いだからです。もしあなたがこのような霊的な祝福を獲得しておらず、なお貧しいままであるならば、あなたは絶えず嘆き、泣き、苦しまなければなりません。王国に対して死んだ者、傷ついた者として、常に主に叫び求め、あなたもこの真の命にふさわしい者と認められるよう、信仰をもって祈りなさい。神はこの体を創造されたとき、生命、食物、飲み物、衣服、履物を、その本性から、あるいは体そのものから得るのではなく、むしろ裸の体として創造し、生命に必要なすべてを外から得るように定められました。そして、体は外にあるもの、すなわち食物、飲み物、衣服なしには生きることができません。しかし、もし体が自分の本性に内在するものだけに頼り、外から何も借りないならば、滅びて死んでしまいます。同様に、魂は、神の形に創造されたにもかかわらず(神は魂が永遠の命を得ることを計画し、喜ばれた)、それ自体の中に神の光を欠いているため、魂自身の本性からではなく、神の神性、神自身の霊、神自身の光から霊的な食物、霊的な飲み物、天上の衣を受け取ります。これこそが魂の真の生命を構成するものです。
11. 先に述べたように、肉体において生命はそれ自体からではなく、その外にあるもの、すなわち大地から生じるのと同様に、外にあるものがなければ、肉体は生きることができない。同様に、魂がまだ生者の地に生まれ変わっておらず、そこで霊的に養われて霊的に成長し、主の御前で前進しておらず、その神性が天上の美しさという言い表せない衣をまとっていないならば、その糧がなければ、魂はそれ自体で喜びと平和のうちに生きることはできない。神の本質は命のパン、すなわち「わたしは命のパンである」(ヨハネ6章35節)と言われた方、また「生ける水」(ヨハネ4章10節)、「人の心を喜ばせるぶどう酒」(詩篇104篇15節)、「喜びの油」(詩篇45篇8節)であり、天の霊の多様な糧であり、神から授けられた輝く天の衣である。これこそが魂の天上の命である。肉体が自らの本性に安住するならば、それは災いである。なぜなら、肉体は衰え、死ぬからである。魂もまた、自らの本性に安住し、神の霊との交わりを持たずに自らの行いだけに頼るならば、それは災いである。なぜなら、魂は永遠の神の命に値しないとみなされることなく死ぬからである。病人がもはや食物を受け付けなくなった時、人々が絶望し、愛する人々、友人、親戚、そして家族全員が涙を流すように、神と聖なる天使たちは、霊の天の糧にあずからず、不朽の精神に生きることのできない魂を、涙に値する存在として認めます。そして、これは単なる言葉の問題ではなく、霊的な生活、真理の営みそのものが、ふさわしく忠実な魂の中で成し遂げられることなのです。
12. ですから、もしあなたが神の玉座となり、天のトナカイの持ち主があなたの内に座り、あなたの魂が完全に霊的な目となり、完全に光となったならば、もしあなたが霊の天の食物で養われ、生ける水を飲まされたならば、もしあなたが言い表せない光の衣を身にまとったならば、もしあなたの内なる人がこれらすべてを経験し、疑いなく知っているならば、見よ、あなたは真に永遠の命を生き、あなたの魂は今まさに主と共に安息している。見よ、あなたは真に主からこれを得て、真の命を生きることができる。しかし、もしあなたが自分の中にそのようなことを何も知らないならば、泣き、嘆き、悲しむ。なぜなら、あなたはまだ永遠の霊的な富を得ておらず、まだ真の命を受けていないからである。それゆえ、昼も夜も主に懇願して、あなたの貧しさを嘆きなさい。あなたは恐ろしい罪深い貧しさの中にいることに気づくからである。ああ、もし誰かが自分の貧しさに対してこの悲しみを得ることができたなら!ああ、満ち足りた者のように、無頓着に時間を浪費しなければいいのに!悲しんで、求め、しつこく主に祈る者は、主が不正な裁判官とやもめについての説教を締めくくる際に言われたように、より早く救いと天の富を受けるでしょう。「まして神は、昼も夜も神に叫び求める者たちに、どれほど報復されることでしょう。まことに、神は速やかに報復されるでしょう」(ルカ18章7-8節)。栄光と支配が永遠に神にありますように!アーメン。
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村田ラジオ
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50の霊的講話/講話2
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村田ラジオ
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*ウィキソースによる日本語訳
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マカリオス50の霊的講話
==講話2==
<< 闇の王国、すなわち罪について、そして神だけが私たちから罪を取り除き、私たちを悪の君主の奴隷状態から解放することができるという事実について >>
1. 邪悪な君主、すなわち闇の王国は、まず人間を捕らえ、魂を闇の力で包み込みました。それは、王にするために人に服を着せ、王の衣を着せ、頭からつま先まで王の装束を身にまとうようにするためです。このようにして、邪悪な君主は魂、その存在全体を罪で覆い、すべてを汚し、すべてを自分の王国に捕らえ、思考も、精神も、肉体も、その力から逃れる部分を一つも残さず、闇の紫で覆いました。肉体において、一部や手足だけが苦しむのではなく、全体が苦しむように、魂全体も悪徳と罪の弱さに苦しみました。邪悪な者は、人間のこの必要不可欠な部分、この本質的な部分を、自分の悪意、すなわち罪で覆いました。こうして肉体は苦しみ、腐敗するようになったのです。
2. 使徒が「古い人を脱ぎ捨てなさい」(コロサイ3章9節)と言うとき、それは、自分の目と自分の頭と自分の頭と自分の耳と自分の手と自分の手と自分の足と自分の足を持つ、完全な人のことを指しています。悪魔は、魂も体も含めた人全体を汚し、自分に引き寄せ、人を古い人、すなわち汚れた、不浄な、神に敵対する、神の律法に従わない者、罪そのもので覆ったのです。そのため、人はもはや自分の望むように見ず、悪を見て悪を聞き、足は悪を行うために急ぎ、手は不正を行い、心は悪を企てます。ですから、私たちも神に、私たちから古い人を脱ぎ捨ててくださるようにお願いしましょう。神だけが私たちから罪を取り除くことができるからです。私たちを捕らえて自分たちの王国に閉じ込めている者たちは、私たちよりも強いのです。しかし、神は私たちをこの奴隷状態から解放するという約束を与えてくださいました。太陽が輝き、風が吹くとき、太陽には太陽自身の性質があり、風にも風自身の性質と性質がある。神だけが風を止めない限り、誰も風と太陽を分離することはできない。このように、罪は魂と混じり合っている。しかし、罪と魂はそれぞれ固有の性質を持っている。
3. したがって、神が魂と体に宿るこの悪しき風を止め、抑制しない限り、魂を罪から切り離すことは不可能です。また、人が飛んでいる鳥を見て自分も飛びたいと願っても、翼がなければ飛べないのと同じです。同様に、人は清く、非難されることなく、汚れなく、傷のない者となり、常に神と共にありたいと願いますが、そのためには力がありません。人は神の空、聖霊の自由へと舞い上がりたいと願いますが、翼を与えられるまでは飛べません。ですから、神に懇願して、聖霊の「鳩の翼」を与えていただき、神のもとへ飛んで行き、安息を得られるように(詩篇54篇7節)、そして神が私たちを魂と体から切り離し、魂と体の各部に宿る悪しき風、すなわち罪そのものを止めてくださるようにお願いしましょう。なぜなら、これを成し遂げることができるのは神だけだからです。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(ヨハネ1章29節)とあります。神だけが、神を信じる者たちにこの慈悲を与え、彼らを罪から救い出す。神は常にそれを待ち望み、希望し、絶えずそれを求める者たちのために、この計り知れない救いを成し遂げます。
4. 暗く深い夜に激しい風が吹き、あらゆる植物や種子を揺り動かし、混乱させ、震え上がらせるように、人間もまた、暗い夜、すなわち悪魔の力に屈し、夜と闇の中に住まうと、罪の恐ろしい風によって揺り動かされ、痙攣させられ、動揺させられます。その全人格、魂、思考、精神は混乱し、身体のすべての部分が揺さぶられます。魂や身体のどの部分も、私たちの中に宿る罪の苦しみから逃れることはできません。同様に、光の日と聖霊の神聖な風があり、神聖な光の日に生きる魂を吹き、活気づけ、魂、思考、そして存在全体に浸透し、身体のすべての部分を神聖で言い表せない平和で冷やし、落ち着かせます。使徒はこう述べています。「私たちは夜の子でも、闇の子でもありません。あなたがたは光の子、昼の子だからです」 (テサロニケ第一 5章5節)。そこでは、欺瞞によって古い人が完全な人を脱ぎ捨て、闇の王国の衣、すなわち冒涜、不信仰、恐れ知らず、虚栄、傲慢、貪欲、情欲、その他闇の王国の衣、汚れたぼろきれを身にまとっています。ここでもまた、古い地上の人を脱ぎ捨て、イエスが闇の王国の衣を脱ぎ捨てた人々は、新しい天上の人、すなわちイエス・キリストを身にまとっています。また、彼らは目に応じて目を持ち、耳に応じて耳を持ち、頭に応じて頭を持ち、こうして人全体が清く、天の姿を帯びるのです。
5. そして主は彼らに言い表せない光の王国の{{r|衣|ころも}}、すなわち信仰、希望、愛、喜び、平和、慈しみ、善の{{r|衣|ころも}}を着せ、また同様に、光、命、言い表せない平和という他のすべての神聖な命を与える{{r|衣|ころも}}を着せた。それは、神が愛、喜び、平和、善、慈しみであるように、新しい人が恵みによってこれらのようになるためである。そして、闇と罪の王国が復活の日まで魂の中に隠されているように、今魂の中に隠されている闇が罪人の体全体を覆うように、光の王国と天の{{r|像|ぞう}}であるイエス・キリストは神秘的に今、聖徒たちの魂を照らし、その魂の中で支配している。しかし、人間の目には隠されたまま、私たちは復活の日まで、魂の目を通してのみ真にキリストを見るのです。復活の日までは、肉体さえも、今なお人間の魂の中に存在する主の光によって覆われ、栄光に輝き、肉体は魂と共に統治するでしょう。その魂は、永遠の光によって安らぎ、照らされたキリストの王国を、今まさにその内に受け入れているのです。主の慈しみと憐れみに栄光あれ!主はしもべたちを憐れみ、彼らを闇の王国から照らし出し、救い出し、彼らに光と王国を与えてくださいます。主が永遠に栄光と支配権をお持ちになりますように!アーメン。
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停車場改稱
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特急いよのたみ
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○停車場改稱 伊豫鐵道󠄁會社線路松󠄁山停車場ヲ外側停車場三ツ口停車場ヲ古町停車場ト改稱セリ(鐵道󠄁局)
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HOPE SINCE 1957
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自己紹介
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昔のアカウントがログインできないので、暫定アカウント。たぶん、10年以上編集してません。細かいルール変更に気が付かなかった場合はご容赦を。
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トーク:民事訴訟法 (平成十三年法律第九十六号)
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国家犯罪、政治犯罪の重罪さ
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== 国家犯罪、政治犯罪の重罪さ ==
機械語での処理に後付け前倒し、テロだらけ
一方的で詐欺教育を受けた思想、妄想と明白な陰謀罪だらけ、詐欺教育、電子計算詐欺教育、内乱罪、生物兵器、科学兵器を用いて、捏造、偽装、計画的犯行だらけ。
国家犯罪の重要性をまるで理解していない。
やる事、なす事、間接的かつ話すら噛み合わない、虚栄心むき出しの粘着質な犯行は見苦しすぎる。--[[特別:投稿記録/~2026-35049-57|~2026-35049-57]] ([[利用者・トーク:~2026-35049-57|トーク]]) 2026年6月14日 (日) 11:07 (UTC)
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トーク:皇統譜令 (大正15年皇室令第16号)
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HOPE SINCE 1957
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/* 改名提案 */ 新しい節
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== 改名提案 ==
改名提案します。皇室令16号は誤りで、6号が正確です。
[https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Kobunsho/Detail/4000130600002?index=147&sort=CreateYear&searchtype=Category&archive=Kobunsho&category=%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E8%AA%B2%20-%20%E7%9A%87%E5%AE%A4%E4%BB%A4%E9%8C%B2 皇室令録2大正15年]
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トーク:皇統譜令/公布時 (大正15年皇室令第16号)
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HOPE SINCE 1957
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/* 改名提案 */ 新しい節
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== 改名提案 ==
16号から6号へ。[[:トーク:皇統譜令 (大正15年皇室令第16号)]]の議論に同じです。--[[利用者:HOPE SINCE 1957|HOPE SINCE 1957]] ([[利用者・トーク:HOPE SINCE 1957|トーク]]) 2026年6月14日 (日) 11:21 (UTC)
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