Wikisource jawikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 MediaWiki 1.47.0-wmf.6 first-letter メディア 特別 トーク 利用者 利用者・トーク Wikisource Wikisource・トーク ファイル ファイル・トーク MediaWiki MediaWiki・トーク テンプレート テンプレート・トーク ヘルプ ヘルプ・トーク カテゴリ カテゴリ・トーク 作者 作者・トーク Page Page talk Index Index talk TimedText TimedText talk モジュール モジュール・トーク Event Event talk 埃及マカリイ全書 0 31877 243175 243158 2026-06-14T18:12:59Z 村田ラジオ 14210 カテゴリを加筆。 243175 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = 埃及マカリイ全書 | section = | year = 1906 | 年 = 明治三十九 | override_author = [[w:en:Macarius of Egypt|エジプトのマカリオス]] | override_translator = [[作者:堀江復|堀江 {{r|復|ふく}}]] ( -1914) | noauthor = | previous = | next = | notes = *底本: 堀江復 (薩瓦) 訳『克肖なる神父埃及マカリイ全書』,正教会編輯局,明39.1. {{NDLJP|824086}} }} == 目次 == ・ [[埃及マカリイ全書/埃及マカリイの伝|{{r|克肖|こくしょう}}なる{{r|埃及|エギペト}}マカリイの伝]] / 1p ・ [[埃及マカリイ全書/聖マカリイの著書|聖マカリイの著書]] / 26p ・ 講話 :[[埃及マカリイ全書/第一講話|第一講話]] 預言者イエゼキリが{{r|録|しる}}せる現象の{{r|譬|ひ}}{{r|解|かい}}。 / 31p :[[埃及マカリイ全書/第二講話|第二講話]] {{r|暗国|あんこく}}、{{r|即|すなはち}}罪の国の事、及び神は独り我等より罪を除きて、我等を{{r|悪王|あくおう}}の奴隷たるより{{r|救|すく}}ひ{{r|得|う}}る事。 / 44p :[[埃及マカリイ全書/第三講話|第三講話]] {{r|兄弟|けいてい}}は{{r|正直|せいちょく}}と{{r|和平|わへい}}とにより{{r|互|たがい}}に誠実を{{r|以|もつ}}て生存して内部の思念と戦ふべし。 / 49p :[[埃及マカリイ全書/第四講話|第四講話]] 「ハリステアニン」たる者は神と天使等より天の{{r|頌讃|しょうさん}}をうけんとせば{{r|謹慎|きんしん}}と{{r|勤勉|きんべん}}とを{{r|以|もつ}}て{{r|此|この}}{{r|世|よ}}を{{r|進行|しんこう}}せざるべからず。 / 54p :[[埃及マカリイ全書/第五講話|第五講話]] 「ハリステアニン」と{{r|此|この}}{{r|世|よ}}の人々との間の差異は{{r|大|おおい}}なり{{r|一|いつ}}は{{r|世|よ}}の{{r|神|しん}}を{{r|己|おの}}れに{{r|有|ゆう}}し、心に{{r|於|おい}}ても智に{{r|於|おい}}ても地上の{{r|械繋|かいけい}}に{{r|縛|しば}}らるれど、{{r|一|いつ}}は{{r|天|てん}}{{r|父|ふ}}の{{r|愛|あい}}を{{r|希|こいねが}}ひ、{{r|独|ひと}}り彼を{{r|以|もつ}}て{{r|其|その}}{{r|悉|ことごと}}くの願望の{{r|所帰|しょき}}と{{r|為|な}}す。 / 77p :[[埃及マカリイ全書/第六講話|第六講話]] 神に{{r|悦|よろこ}}ばれんと{{r|欲|ほつ}}する者は平安、沈黙、温柔及び{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}を{{r|以|もつ}}て祈祷を行ふべし、{{r|高声|こうせい}}に祈祷して衆人の誘惑とならざらん為なり。{{r|此|こ}}の講話には二問題を{{r|籠|こ}}む、{{r|即|すなはち}}{{r|宝|ほう}}{{r|座|ざ}}と{{r|栄冠|えいかん}}は物質的製造なるか、イズライリの十二位とは{{r|如何|いか}}なるものなるかとの二問題是なり。 / 101p :[[埃及マカリイ全書/第七講話|第七講話]] ハリストス人に寛容なる事。此講話にも{{r|若干|そこばく}}の問答を含む。 / 107p :[[埃及マカリイ全書/第八講話|第八講話]] 「ハリステアニン」は祈祷を行ふ時如何なるべきか、完全の程度、{{r|即|すなはち}}「ハリステアニン」は完全なる程度に達し得べきか。 / 112p :[[埃及マカリイ全書/第九講話|第九講話]] 神の約束と預言とは種々の試練と誘惑の時に応験する事及び独一の神に服従する者は悪者の誘惑より救はるる事。/117p :[[埃及マカリイ全書/第十講話|第十講話]] 神の恩籠の{{r|賜|たまもの}}は謙遜と熱心とを{{r|以|もつ}}て守られて増殖すべく、高慢と怠惰とにより{{r|失|うしな}}はるべし。 / 126p :[[埃及マカリイ全書/第十一講話|第十一講話]] {{r|聖神|せいしん}}の{{r|力|ちから}}は{{r|人心|じんしん}}に{{r|於|おい}}て火に似たる事、また心に生ずる思念を区別するが為に必要を有する者の事、モイセイが{{r|樹頭|じゅとう}}に{{r|釘|くぎ}}してハリストスの{{r|象|しょう}}となせる{{r|死蛇|しじゃ}}の事。此講話には{{r|二|ふたつ}}の問答を含む{{r|一|いつ}}はハリストスと悪なるサタナとの問答にして、{{r|一|いつ}}は罪人とサタナとの問答なり。 / 130p :[[埃及マカリイ全書/第十二講話|第十二講話]] アダムが{{r|神誡|しんかい}}を{{r|犯|おか}}しゝ以前の情況、及び{{r|其後|そののち}}彼は自己の{{r|形像|けいぞう}}をも天に属する{{r|形像|けいぞう}}をもうしなひし事。此講話には{{r|最|もっと}}も有益なる問答{{r|若干|そこばく}}を含有す。 / 142p :[[埃及マカリイ全書/第十三講話|第十三講話]] 神は「ハリステアニン」よりいかなる結果を要求するか。 / 156p :[[埃及マカリイ全書/第十四講話|第十四講話]] {{r|思|おもひ}}と{{r|智|ち}}とを神にささぐる者は心の目を{{r|照|てら}}されんとの{{r|望|のぞみ}}と、神が{{r|此|かく}}の{{r|如|ごと}}き者等を聖徳と大なる清潔とにより機密に進ましめて、これに{{r|其|その}}恩寵を分与し給はんことの望みにより{{r|此|これ}}を{{r|為|な}}す事、又或る天の幸福をうけんを願ふ所の我等は{{r|何|なに}}を{{r|為|な}}さんを要する事、{{r|終|つひ}}に使徒及び予言者等は窓に入る太陽の光線に似たる事。{{r|且|かつ}}此講話はサタナの地と天使の地の如何なるものなるかを教ふ、{{r|即|すなはち}}二者は{{r|触|ふ}}るる{{r|能|あた}}はざるもの、又見るべからざるものなることを教ふるなり。 / 157p :[[埃及マカリイ全書/第十五講話|第十五講話]] 此講話にはいかんせば霊魂が成聖と{{r|無&#x73B7;|むてん}}と清潔とを{{r|以|もつ}}て{{r|其|その}}新郎の前に{{r|即|すなはち}}イイススハリストスの前に居るべきかといふに関する詳細なる教旨を包含す、また或る{{r|最|もっとも}}教訓となるべき若干の問題を含有す、{{r|例|たと}}へば復活に{{r|於|おい}}て{{r|尽|ことごと}}くの肢体は{{r|起|おこ}}るかといふに関する問題、及び他の多くの問題、{{r|即|すなはち}}悪の事、恩寵の事、自由なる任意の事及び人間の価値に関する問題是なり。 / 163p :[[埃及マカリイ全書/第十六講話|第十六講話]] {{r|神|しん}}に属する人々も原罪より{{r|流|なが}}るる{{r|試|し}}{{r|惑|わく}}と{{r|患難|かんなん}}とに{{r|属|ぞく}}する事。 / 203p :[[埃及マカリイ全書/第十七講話|第十七講話]] 「ハリステアニン」の{{r|霊神的|れいしんてき}}{{r|傅膏|ふこう}}と光栄の事、ハリストスなくんば{{r|救|すく}}はれて{{r|永生|えいせい}}に{{r|与|あづ}}かる者となる{{r|能|あた}}はざる事。 / 214p :[[埃及マカリイ全書/第十八講話|第十八講話]] 「ハリステアニン」の宝の事、即種々なる方法をもて「ハリステアニン」を完全に達せしむるハリストスの事、及び聖神の事。 / 225p :[[埃及マカリイ全書/第十九講話|第十九講話]] {{r|大|おほい}}に進歩して成長せんと欲する「ハリステアニン」は己を{{r|凡|すべて}}の{{r|善|ぜん}}に{{r|強|し}}ふべし、その在るところの罪より救はれて{{r|聖神|せいしん}}に{{r|満|み}}てられんためなり。 / 233p :[[埃及マカリイ全書/第二十講話|第二十講話]] 内部の人の{{r|真|しん}}{{r|医|い}}たるハリストスは{{r|独|ひと}}り{{r|霊魂|たましひ}}を{{r|愈|いや}}し、恩寵の衣を{{r|以|もつ}}てこれを飾るを得るなり。 / 241p :[[埃及マカリイ全書/第二十一講話|第二十一講話]] 「ハリステアニン」には{{r|二|に}}{{r|様|よう}}の{{r|戦|たたかひ}}あり、{{r|即|すなはち}}内部と外部の{{r|戦|たたかひ}}ありて、外部なる者は世の{{r|欝散|うつさん}}より己を遠ざくるにあり、されど内部の{{r|戦|たたかひ}}は凶悪の諸神を{{r|以|もつ}}て{{r|暗|やみ}}に{{r|入|い}}れらるる{{r|意|い}}{{r|念|ねん}}と心中に{{r|於|おい}}て{{r|戦|たたか}}ふにあり。 / 246p :[[埃及マカリイ全書/第二十二講話|第二十二講話]] 此の生命を去る者の{{r|二|に}}{{r|様|よう}}の状態。 / 250p :[[埃及マカリイ全書/第二十三講話|第二十三講話]] 高価なる王の真珠は{{r|王種|おうしゅ}}より{{r|生|うま}}れたる者のみ{{r|戴|いただ}}くを{{r|得|う}}る如く、天の真珠も神の子にのみ{{r|戴|いただ}}かしむるを{{r|得|う}}べし。 / 251p :[[埃及マカリイ全書/第二十四講話|第二十四講話]] 「ハリステアニン」の状態は売買と{{r|醗酵|はっこう}}に似たるあり、{{r|商|しょう}}{{r|賈|こ}}は地上の利益を{{r|集|あつ}}むる如く、「ハリステアニン」も此世に散乱したる思念を集めん。また{{r|醗酵|はっこう}}はすべての混合物を{{r|酸|さん}}{{r|気|き}}あるものとする如く、罪なる醗酵もアダムの全族に{{r|透|とほ}}る、{{r|然|しか}}れどもハリストスは天に属する恩寵の醗酵を{{r|篤信|とくしん}}なる霊魂に入るるなり。 / 253p :[[埃及マカリイ全書/第二十五講話|第二十五講話]] 此講話はハリストスを{{r|以|もつ}}て固められんずんば{{r|一人|いちにん}}も{{r|悪者|あくしゃ}}の{{r|誘|いざなひ}}に{{r|勝|か}}ち{{r|得|う}}べからざるを教へ、神聖なる光栄を願ふ者の為すべき所を示す、またアダムの{{r|破|は}}{{r|誡|かい}}により肉慾の奴隷に陥りし我等は洗礼の機密を{{r|以|もつ}}て{{r|救|すく}}はるべきを教へ、{{r|終|つひ}}に涙と神聖なる火の力の{{r|大|だい}}なるを示す。 / 258p :[[埃及マカリイ全書/第二十六講話|第二十六講話]] 不死なる霊魂の価値、貴重、能力及び作用の事、彼がサタナに試みられ誘惑より救はるる事。此講話には{{r|最|もっとも}}教訓となるべき{{r|若干|そこばく}}の問答を添へたり。 / 267p :[[埃及マカリイ全書/第二十七講話|第二十七講話]] 此講話は「ハリステアニン」たる人の価値と位置とにつきて{{r|説始|ときはじ}}めたる詳細の論説を{{r|終|お}}ふるなり、此講話は自由なる望に関して多くの{{r|最|もっとも}}有益なることを教へてこれに神聖なる智慧をみちみてる{{r|若干|そこばく}}の問題を添ふ。 / 286p :[[埃及マカリイ全書/第二十八講話|第二十八講話]] 此講話に{{r|於|おい}}ては霊魂の不幸を説きあらはしてこれを{{r|哭|こく}}す、{{r|即|すなはち}}罪の故に主が霊魂に{{r|居|お}}らざること是なり、また{{r|婦|おんな}}の{{r|生|う}}む所の者の{{r|中|うち}}彼より{{r|大|だい}}なるものあらずといはれたる{{r|授洗|じゅせん}}{{ul|イオアン}}の事を言ふ。 / 305p :[[埃及マカリイ全書/第二十九講話|第二十九講話]] 神は人間に恩寵の分配を成すに{{r|二|に}}{{r|様|よう}}の方法を{{r|以|もつ}}てして、義なる審判において結果を促す。 / 310p :[[埃及マカリイ全書/第三十講話|第三十講話]] 霊魂は神の国に入らんには{{r|聖神|せいしん}}によりて{{r|生|うま}}れざるべからずして、其状態は如何なるか。 / 316p :[[埃及マカリイ全書/第三十一講話|第三十一講話]] 信者は己の智を変化し{{r|悉|ことごと}}くの{{r|思|おもい}}を神に集中せんを要す、神に対するすべての{{r|勤|つとめ}}は実にこれにあり。 / 324p :[[埃及マカリイ全書/第三十二講話|第三十二講話]] 「ハリステアニン」の光栄は今は{{r|其|その}}{{r|霊魂|たましひ}}にあり、されど復活の時には恩寵の量に準じ外にあらはれて身体を表揚せん。 / 329p :[[埃及マカリイ全書/第三十三講話|第三十三講話]] 不断熱心に神に祈るべし。 / 338p :[[埃及マカリイ全書/第三十四講話|第三十四講話]] 復活に於て「ハリステアニン」の身体が霊魂と共に照されて受くる所の光栄の事。 / 341p :[[埃及マカリイ全書/第三十五講話|第三十五講話]] 旧「スボタ」と新「スボタ」の事。 / 344p :[[埃及マカリイ全書/第三十六講話|第三十六講話]] 霊魂と身体と{{r|二|に}}{{r|様|よう}}の復活及び復活せし者の光栄の不同なる事。 / 346p :[[埃及マカリイ全書/第三十七講話|第三十七講話]] 楽園の事及び神的律法の事。 / 348p :[[埃及マカリイ全書/第三十八講話|第三十八講話]] 真の「ハリステアニン」と真の「ハリステアニン」の如何なるとを試み知らんには我等に多くの注意と{{r|瞭解|りょうかい}}とを要す。 / 357p :[[埃及マカリイ全書/第三十九講話|第三十九講話]] 神が我等に神聖なる書を与へたるは何の為か。 / 361p :[[埃及マカリイ全書/第四十講話|第四十講話]] すべての{{r|徳行|とくこう}}も又すべての{{r|悪行|あくこう}}も{{r|互|たがひ}}に関連すること{{r|環|たまき}}の{{r|鎖|くさり}}に{{r|於|お}}ける如くして、{{r|一|いつ}}は{{r|他|た}}に{{r|係|かか}}る事。 / 362p :[[埃及マカリイ全書/第四十一講話|第四十一講話]] 恩寵にも又悪習にも{{r|漸々|ぜんぜん}}生長する{{r|霊魂|たましひ}}の{{r|奥底|おくそこ}}は{{r|甚|はなは}}だ{{r|深|ふか}}し。 / 367p :[[埃及マカリイ全書/第四十二講話|第四十二講話]] 人を完全にみちびき{{r|或|あるひ}}はこれを{{r|害|そこな}}ふ者は外部に属するものにあらずして、内部に属するものなり、{{r|即|すなはち}}{{r|或|あるひ}}は恩寵の{{r|神|しん}}なり{{r|或|あるひ}}は凶悪の{{r|神|しん}}なり。 / 369p :[[埃及マカリイ全書/第四十三講話|第四十三講話]] 「ハリステアニン」たる人の進歩と{{r|其|その}}進歩のすべての力とは心に関係するを種々に描写す。 / 372p :[[埃及マカリイ全書/第四十四講話|第四十四講話]] 心の{{r|慾|よく}}と{{r|病|やまひ}}とを{{r|療|りょう}}するハリストスは「ハリステアニン」たる人に如何なる変化革新を成し給ふか。 / 379p :[[埃及マカリイ全書/第四十五講話|第四十五講話]] 人を{{r|医|いや}}すを{{r|得|う}}るは{{r|或|あ}}る芸術にあらず、又此世の富にも非ずして、ただハリストスの{{r|来|きた}}ること{{r|是|これ}}なり。此講話に{{r|於|おい}}ては人と神との最大関係を示す。 / 387p :[[埃及マカリイ全書/第四十六講話|第四十六講話]] {{r|神|かみ}}の{{r|言|ことば}}と{{r|世|よ}}の{{r|言|ことば}}と神の子と{{r|此|この}}{{r|世|よ}}の子との{{r|間|あひだ}}の差別。 / 393p :[[埃及マカリイ全書/第四十七講話|第四十七講話]] {{r|法|ほう}}{{r|下|か}}にありし事の{{r|譬|ひ}}{{r|解|かい}}。 / 398p :[[埃及マカリイ全書/第四十八講話|第四十八講話]] 神における完全なる信仰。 / 409p :[[埃及マカリイ全書/第四十九講話|第四十九講話]] 人もし他の世の福楽に{{r|与|あづ}}かるを得ずんば此世の快楽を辞する充分の理由あらず。 / 414p :[[埃及マカリイ全書/第五十講話|第五十講話]] 神はその諸聖人に{{r|於|おい}}て{{r|奇|き}}{{r|跡|せき}}を{{r|行|おこな}}ふ。 / 418p :[[埃及マカリイ全書/書簡|{{r|克肖|こくしょう}}なる我等が父{{r|埃及|エギペト}}マカリイの{{r|書翰|しょかん}}]] / 425p ‐ 457p ・ 説教 :[[埃及マカリイ全書/第一説教|第一説教]] 心を守る事。 / 459p :[[埃及マカリイ全書/第二説教|第二説教]] 霊神上の完全。 / 480p :[[埃及マカリイ全書/第三説教|第三説教]] 祈祷の事。 / 493p :[[埃及マカリイ全書/第四説教|第四説教]] 忍耐と細心。 / 507p :[[埃及マカリイ全書/第五説教|第五説教]] 智を高尚にする事。 / 533p :[[埃及マカリイ全書/第六説教|第六説教]] 愛の事。 / 553p :[[埃及マカリイ全書/第七説教|第七説教]] 智の自由の事。 / 585p - 619p == 出典 == : [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/824086/1 克肖なる神父埃及マカリイ全書] 国立国会図書館 デジタルコレクション ==関連項目== *[[エジプトのマカリオス50の霊的説教]] {{DEFAULTSORT:えしふとまかりいせんしよ}} [[Category:4世紀]] [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:マカリオス]] [[Category:埃及マカリイ全書|*]] {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{PD-old}} }} 056d01mq5gm33cgbak3jx1t8y2fpixp エジプトのマカリオス50の霊的説教 0 50374 243171 229738 2026-06-14T12:06:24Z 村田ラジオ 14210 ヘッダー:作者 243171 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = エジプトのマカリオス50の霊的説教 | section = | year = 1921 | 年 = | override_author = [[w:en:Macarius of Egypt|エジプトのマカリオス]] | override_translator = [[s:en:Author:Arthur James Mason|アーサー・ジェームズ・メイソン]] | noauthor = | notes = *底本: A. J. Mason, [[s:en:Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian|Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian]] *ウィキソースによる日本語訳 }} == エジプトのマカリオス50の霊的説教 == {{center/s}} エジプトの聖マカリオス の 50の霊的説教 A.J. メイソン、DD による ロンドン 推進協会 キリスト教の知識 ノーサンバーランドアベニュー、WC ニューヨーク、マクミラン社 1921 {{center/e}} ===目次=== [[/序文|序文]] :1. 著者 {{right|p.5}} :2. 彼の著作 {{right|p.16}} :3. 彼の教え {{right|p.20}} :4. 本文と翻訳 {{right|p.41}} [[/説教1|説教1]]  預言者エゼキエルによって記された幻の寓話的解釈。 {{right|p.1}} [[/説教2|説教2]]  暗黒の王国、すなわち罪の王国について、そして神だけが私たちから罪を取り除き、邪悪な君主の束縛から私たちを救い出すことができるということについて。 {{right|p.12}} [[/説教3|説教3]]  兄弟たちは互いに誠実、単純、愛、平和のうちに生きるべきであり、心の中では競争と戦いを続けるべきである。 {{right|p.16}} [[/説教4|説教4]]  キリスト教徒は、神と天使たちから天の賞賛を得るために、この世での競争を注意深く慎重に成し遂げるべきである。 {{right|p.20}} [[/説教5|説教5]]  キリスト教徒とこの世の人々の間には大きな違いがある。この世の精神を持つ人々は心と精神において地上の束縛に縛られているが、他の人々は天の父の愛を切望し、ただ目の前に父を待ち望んでいる。 {{right|p.38}} [[/説教6|説教6]]  神を喜ばせたいと願う者は、平穏と静寂、優しさと知恵をもって祈りを捧げるべきであり、大声で叫んで他人に迷惑をかけるべきではない。説教には、王座と冠が実際に創造されたものであるかどうか、そしてイスラエルの12の王座についてという2つの質問も含まれている。 {{right|p.56}} [[/説教7|説教7]]  キリストの人間に対する慈愛について。説教にはいくつかの質問と答えも含まれている。 {{right|p.61}} [[/説教8|説教8]]  祈りの中でキリスト教徒に起こること、そして完全さの尺度について、キリスト教徒が完全な尺度に達することは可能かどうか。 {{right|p.65}} [[/説教9|説教9]]  神の約束と預言は、さまざまな試練と誘惑を通して成就し、神のみに従う者は悪魔の誘惑から救われる。 {{right|p.69}} [[/説教10|説教10]]  謙虚な心と真摯さによって神の恵みの賜物は保存されるが、傲慢さと怠惰によってそれらは破壊される。 {{right|p.76}} [[/説教11|説教11]]  聖霊の力は人の心の中で火のようであること、心に湧き上がる考えを見分けるために何が必要か、そしてモーセが柱のてっぺんに立てた死んだ蛇がキリストの象徴であることなど。説教には二つの対話があり、一つはキリストと悪魔、サタンとの対話、もう一つは罪人と同じ罪人との対話である。 {{right|p.79}} [[/説教12|説教12]]  アダムが神の戒めを破る前、そして自分の姿と天の姿の両方を失った後のアダ​​ムの状態について。説教には、非常に有益な質問がいくつか含まれている。 {{right|p.89}} [[/説教13|説教13]]  神がキリスト信徒に期待する成果。 {{right|p.99}} [[/説教14|説教14]]  神に思いと心を捧げる人々は、心の目が開かれ、神が彼らに最も神聖で純粋な神秘を与え、神が恵みを授けてくれることを望みながらそうするのである。天国の善いものを手に入れたいと願う私たちがすべきこと。そして使徒と預言者は窓から差し込む太陽の光にたとえられる。説教ではまた、サタンの「地」と天使の「地」とは何か、そしてどちらも無形で目に見えないものであることを教えている。 {{right|p.101}} [[/説教15|説教15]]  この説教は、世界の救い主であるキリスト・イエスの配偶者に対して、魂がいかに聖潔と貞潔と純潔をもってふるまうべきかを広く教えている。また、復活のときにすべての部分がよみがえるかどうか、悪、恩寵、自由意志、人間の尊厳など、多くの重要な教えに満ちた議論も含まれている。 {{right|p.105}} [[/説教16|説教16]]  霊的な人は最初の罪から生じる誘惑や逆境にさらされる。 {{right|p.134}} [[/説教17|説教17]]  キリスト教徒の霊的塗油とその栄光について、そしてキリストなしには救われることも永遠の命にあずかることも不可能であることについて。 {{right|p.142}} [[/説教18|説教18]]  キリスト教徒の宝であるキリストと聖霊について、キリストと聖霊はそれを様々な方法で実践して完成に至る。 {{right|p.151}} [[/説教19|説教19]]  進歩し成長したいと願うキリスト教徒は、内在する罪から解放され、聖霊に満たされるために、あらゆる善いことに自らを駆り立てるべきである。 {{right|p.157}} [[/説教20|説教20]]  内なる人の真の医者であるキリストだけが、魂を癒し、恵みの衣でそれを飾ることができるのである。 {{right|p.163}} [[/説教21|説教21]]  キリスト教徒には、内なる戦いと外なる戦いという二つの戦いが待ち受けている。後者は、地上の煩いから身を引くためのものであり、前者は、心の中で、邪悪な霊の誘惑に対抗するためのものである。 {{right|p.168}} [[/説教22|説教22]]  この世を去る人々の二通りの状態について。 {{right|p.171}} [[/説教23|説教23]]  王家の血統から生まれた者だけが高価な王家の真珠を身につけることができるように、神の子だけが天国の真珠を身につけることが許されている。 {{right|p.172}} [[/説教24|説教24]]  キリスト教徒の状態は、商品やパン種のようなものである。商人が地上の利益を蓄えるように、キリスト教徒は世界中に散らばった思いを集める。パン種が塊全体をパン種に変えるように、罪のパン種はアダムの種族全体に浸透する。しかしキリストは、忠実な魂には天の善のパン種を入れる。 {{right|p.174}} [[/説教25|説教25]]  この説教は、キリストによって強められなければ、誰も悪魔の妨害を克服することはできないこと、そして神の栄光を望む者がしなければならないことを教えている。また、アダムの不従順によって私たちは肉欲の束縛に陥ったが、十字架の神秘によってそこから解放されたことも教えている。さらに、涙と神の火の力は偉大であることを教えてくれる。 {{right|p.178}} [[/説教26|説教26]]  不滅の魂の価値と大切さ、力と効力、そしてそれがいかにしてサタンに誘惑され、誘惑から解放されるかについて。また、非常に素晴らしい教えに満ちたいくつかの質問も含まれている。 {{right|p.185}} [[/説教27|説教27]]  この説教は、前述の説教と同様に、キリスト教徒の尊厳と地位について長々と説明している。そして、神の知恵に満ちたいくつかの質問を織り交ぜながら、自由意志に関する多くの有益なことを教えている。 {{right|p.200}} [[/説教28|説教28]]  この説教は、罪のせいで主が魂の中に住まわれないという魂の災難を描写し嘆き、また、洗礼者ヨハネに関して、女から生まれた者の中で彼より偉大な者はいないと述べている。 {{right|p.214}} [[/説教29|説教29]]  神は人類に恵みの分配を二通りの方法で行い、公正な裁きによってその成果を要求することを意図している。 {{right|p.218}} [[/説教30|説教30]]  人の魂が神の王国に入るには聖霊によって生まれなければならない。そして、それがどのように実現されるかについて。 {{right|p.223}} [[/説教31|説教31]]  信者は心を変え、すべての思いを神に集めるべきである。なぜなら、神への奉仕はすべてこれにかかっているからである。 {{right|p.229}} [[/説教32|説教32]]  キリスト教徒の栄光は今も彼らの魂の中に留まり、復活の時に現れ、彼らの敬虔さに応じて彼らの体を栄光に輝かせるであろう。 {{right|p.233}} [[/説教33|説教33]]  私たちは神に絶えず注意深く祈るべきである。 {{right|p.240}} [[/説教34|説教34]]  キリスト教徒の栄光については、復活の時に彼らの体に与えられ、彼らは魂と共に啓蒙されるであろう。 {{right|p.243}} [[/説教35|説教35]]  古い安息日と新しい安息日について。 {{right|p.246}} [[/説教36|説教36]]  魂と肉体の二重の復活と復活した者の様々な栄光について。 {{right|p.248}} [[/説教37|説教37]]  楽園と霊的法則について。 {{right|p.250}} [[/説教38|説教38]]  真のキリスト教徒を見分けるには、またそれが誰であるかを見分けるには、非常に正確な判断力と知性が求められる。 {{right|p.257}} [[/説教39|説教39]]  聖書が神から私たちに与えられた理由。 {{right|p.260}} [[/説教40|説教40]]  すべての美徳とすべての悪徳は互いに結びついており、鎖のように互いにつながっている。 {{right|p.261}} [[/説教41|説教41]]  魂の秘密の部屋は非常に深く、それは恩恵や邪悪さの成長に比例して成長する。 {{right|p.265}} [[/説教42|説教42]]  外的なものではなく、内的なものが人間を前進させたり傷つけたりする。つまり、恵みの霊か邪悪の霊かである。 {{right|p.267}} [[/説教43|説教43]]  キリスト教徒の進歩については、その力の全てが心次第であり、ここでは様々な方法で説明されている。 {{right|p.269}} [[/説教44|説教44]]  魂の苦しみと病を{{r|癒|いや}}したキリストによって、キリスト教徒の内にどのような変化と再生がもたらされるであろうか。 {{right|p.275}} [[/説教45|説教45]]  この世のいかなる芸術も富でもなく、ただキリストの臨在だけが人間を癒すことができる。この説教は人間と神との偉大な親族関係を説いている。 {{right|p.281}} [[/説教46|説教46]]  神の言葉とこの世の言葉、そして神の子らとこの世の子らの違いについて。 {{right|p.286}} [[/説教47|説教47]]  律法のもとで行われた事柄の寓話的解釈。 {{right|p.290}} [[/説教48|説教48]]  神への完全な信仰について。 {{right|p.300}} [[/説教49|説教49]]  この世の快楽を捨て去ったとしても、あの世の祝福を得なければ十分ではない。 {{right|p.304}} [[/説教50|説教50]]  神は聖徒たちを通して奇跡を起こす。 {{right|p.308}} 聖書参照索引 {{right|p.312}} ::目録/終わり {{DEFAULTSORT:えしふとのまかりおす50のれいてきせつきよう}} [[Category:1921年]] [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教の歴史]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:エジプトのマカリオス50の霊的説教|*]] {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} rm3l6u5i3eyy6l7l2f2blwoztnjk302 243174 243171 2026-06-14T18:09:58Z 村田ラジオ 14210 カテゴリを加筆。 243174 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = エジプトのマカリオス50の霊的説教 | section = | year = 1921 | 年 = | override_author = [[w:en:Macarius of Egypt|エジプトのマカリオス]] | override_translator = [[s:en:Author:Arthur James Mason|アーサー・ジェームズ・メイソン]] | noauthor = | notes = *底本: A. J. Mason, [[s:en:Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian|Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian]] *ウィキソースによる日本語訳 }} == エジプトのマカリオス50の霊的説教 == {{center/s}} エジプトの聖マカリオス の 50の霊的説教 A.J. メイソン、DD による ロンドン 推進協会 キリスト教の知識 ノーサンバーランドアベニュー、WC ニューヨーク、マクミラン社 1921 {{center/e}} ===目次=== [[/序文|序文]] :1. 著者 {{right|p.5}} :2. 彼の著作 {{right|p.16}} :3. 彼の教え {{right|p.20}} :4. 本文と翻訳 {{right|p.41}} [[/説教1|説教1]]  預言者エゼキエルによって記された幻の寓話的解釈。 {{right|p.1}} [[/説教2|説教2]]  暗黒の王国、すなわち罪の王国について、そして神だけが私たちから罪を取り除き、邪悪な君主の束縛から私たちを救い出すことができるということについて。 {{right|p.12}} [[/説教3|説教3]]  兄弟たちは互いに誠実、単純、愛、平和のうちに生きるべきであり、心の中では競争と戦いを続けるべきである。 {{right|p.16}} [[/説教4|説教4]]  キリスト教徒は、神と天使たちから天の賞賛を得るために、この世での競争を注意深く慎重に成し遂げるべきである。 {{right|p.20}} [[/説教5|説教5]]  キリスト教徒とこの世の人々の間には大きな違いがある。この世の精神を持つ人々は心と精神において地上の束縛に縛られているが、他の人々は天の父の愛を切望し、ただ目の前に父を待ち望んでいる。 {{right|p.38}} [[/説教6|説教6]]  神を喜ばせたいと願う者は、平穏と静寂、優しさと知恵をもって祈りを捧げるべきであり、大声で叫んで他人に迷惑をかけるべきではない。説教には、王座と冠が実際に創造されたものであるかどうか、そしてイスラエルの12の王座についてという2つの質問も含まれている。 {{right|p.56}} [[/説教7|説教7]]  キリストの人間に対する慈愛について。説教にはいくつかの質問と答えも含まれている。 {{right|p.61}} [[/説教8|説教8]]  祈りの中でキリスト教徒に起こること、そして完全さの尺度について、キリスト教徒が完全な尺度に達することは可能かどうか。 {{right|p.65}} [[/説教9|説教9]]  神の約束と預言は、さまざまな試練と誘惑を通して成就し、神のみに従う者は悪魔の誘惑から救われる。 {{right|p.69}} [[/説教10|説教10]]  謙虚な心と真摯さによって神の恵みの賜物は保存されるが、傲慢さと怠惰によってそれらは破壊される。 {{right|p.76}} [[/説教11|説教11]]  聖霊の力は人の心の中で火のようであること、心に湧き上がる考えを見分けるために何が必要か、そしてモーセが柱のてっぺんに立てた死んだ蛇がキリストの象徴であることなど。説教には二つの対話があり、一つはキリストと悪魔、サタンとの対話、もう一つは罪人と同じ罪人との対話である。 {{right|p.79}} [[/説教12|説教12]]  アダムが神の戒めを破る前、そして自分の姿と天の姿の両方を失った後のアダ​​ムの状態について。説教には、非常に有益な質問がいくつか含まれている。 {{right|p.89}} [[/説教13|説教13]]  神がキリスト信徒に期待する成果。 {{right|p.99}} [[/説教14|説教14]]  神に思いと心を捧げる人々は、心の目が開かれ、神が彼らに最も神聖で純粋な神秘を与え、神が恵みを授けてくれることを望みながらそうするのである。天国の善いものを手に入れたいと願う私たちがすべきこと。そして使徒と預言者は窓から差し込む太陽の光にたとえられる。説教ではまた、サタンの「地」と天使の「地」とは何か、そしてどちらも無形で目に見えないものであることを教えている。 {{right|p.101}} [[/説教15|説教15]]  この説教は、世界の救い主であるキリスト・イエスの配偶者に対して、魂がいかに聖潔と貞潔と純潔をもってふるまうべきかを広く教えている。また、復活のときにすべての部分がよみがえるかどうか、悪、恩寵、自由意志、人間の尊厳など、多くの重要な教えに満ちた議論も含まれている。 {{right|p.105}} [[/説教16|説教16]]  霊的な人は最初の罪から生じる誘惑や逆境にさらされる。 {{right|p.134}} [[/説教17|説教17]]  キリスト教徒の霊的塗油とその栄光について、そしてキリストなしには救われることも永遠の命にあずかることも不可能であることについて。 {{right|p.142}} [[/説教18|説教18]]  キリスト教徒の宝であるキリストと聖霊について、キリストと聖霊はそれを様々な方法で実践して完成に至る。 {{right|p.151}} [[/説教19|説教19]]  進歩し成長したいと願うキリスト教徒は、内在する罪から解放され、聖霊に満たされるために、あらゆる善いことに自らを駆り立てるべきである。 {{right|p.157}} [[/説教20|説教20]]  内なる人の真の医者であるキリストだけが、魂を癒し、恵みの衣でそれを飾ることができるのである。 {{right|p.163}} [[/説教21|説教21]]  キリスト教徒には、内なる戦いと外なる戦いという二つの戦いが待ち受けている。後者は、地上の煩いから身を引くためのものであり、前者は、心の中で、邪悪な霊の誘惑に対抗するためのものである。 {{right|p.168}} [[/説教22|説教22]]  この世を去る人々の二通りの状態について。 {{right|p.171}} [[/説教23|説教23]]  王家の血統から生まれた者だけが高価な王家の真珠を身につけることができるように、神の子だけが天国の真珠を身につけることが許されている。 {{right|p.172}} [[/説教24|説教24]]  キリスト教徒の状態は、商品やパン種のようなものである。商人が地上の利益を蓄えるように、キリスト教徒は世界中に散らばった思いを集める。パン種が塊全体をパン種に変えるように、罪のパン種はアダムの種族全体に浸透する。しかしキリストは、忠実な魂には天の善のパン種を入れる。 {{right|p.174}} [[/説教25|説教25]]  この説教は、キリストによって強められなければ、誰も悪魔の妨害を克服することはできないこと、そして神の栄光を望む者がしなければならないことを教えている。また、アダムの不従順によって私たちは肉欲の束縛に陥ったが、十字架の神秘によってそこから解放されたことも教えている。さらに、涙と神の火の力は偉大であることを教えてくれる。 {{right|p.178}} [[/説教26|説教26]]  不滅の魂の価値と大切さ、力と効力、そしてそれがいかにしてサタンに誘惑され、誘惑から解放されるかについて。また、非常に素晴らしい教えに満ちたいくつかの質問も含まれている。 {{right|p.185}} [[/説教27|説教27]]  この説教は、前述の説教と同様に、キリスト教徒の尊厳と地位について長々と説明している。そして、神の知恵に満ちたいくつかの質問を織り交ぜながら、自由意志に関する多くの有益なことを教えている。 {{right|p.200}} [[/説教28|説教28]]  この説教は、罪のせいで主が魂の中に住まわれないという魂の災難を描写し嘆き、また、洗礼者ヨハネに関して、女から生まれた者の中で彼より偉大な者はいないと述べている。 {{right|p.214}} [[/説教29|説教29]]  神は人類に恵みの分配を二通りの方法で行い、公正な裁きによってその成果を要求することを意図している。 {{right|p.218}} [[/説教30|説教30]]  人の魂が神の王国に入るには聖霊によって生まれなければならない。そして、それがどのように実現されるかについて。 {{right|p.223}} [[/説教31|説教31]]  信者は心を変え、すべての思いを神に集めるべきである。なぜなら、神への奉仕はすべてこれにかかっているからである。 {{right|p.229}} [[/説教32|説教32]]  キリスト教徒の栄光は今も彼らの魂の中に留まり、復活の時に現れ、彼らの敬虔さに応じて彼らの体を栄光に輝かせるであろう。 {{right|p.233}} [[/説教33|説教33]]  私たちは神に絶えず注意深く祈るべきである。 {{right|p.240}} [[/説教34|説教34]]  キリスト教徒の栄光については、復活の時に彼らの体に与えられ、彼らは魂と共に啓蒙されるであろう。 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この世の快楽を捨て去ったとしても、あの世の祝福を得なければ十分ではない。 {{right|p.304}} [[/説教50|説教50]]  神は聖徒たちを通して奇跡を起こす。 {{right|p.308}} 聖書参照索引 {{right|p.312}} ::目録/終わり {{DEFAULTSORT:えしふとのまかりおす50のれいてきせつきよう}} [[Category:1921年]] [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教の歴史]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:マカリオス]] [[Category:エジプトのマカリオス50の霊的説教|*]] {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} dzx878exx0eaa0bpt6ckpicjisp2y4b エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教1 0 50423 243183 237067 2026-06-15T07:48:06Z 村田ラジオ 14210 カテゴリを加筆。ヘッダー:作者。 243183 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = エジプトのマカリオス50の霊的説教 | section = 説教1 | year = 1921 | 年 = | previous = [[../序文|序文]] | next = [[../説教2|説教2]] | override_author = [[s:en:Author:St. Macarius the Egyptian|エジプトのマカリオス]] | override_translator = [[s:en:Author:Arthur James Mason|アーサー・ジェームズ・メイソン]] | noauthor = | notes = *底本: A. J. Mason, [[s:en:Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 1|Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 1]] *ウィキソースによる日本語訳 }} エジプトのマカリオス50の霊的説教 ———————————— ==説教1== << 預言者エゼキエルによって記された幻の寓話的解釈。>> 1. 祝福された預言者エゼキエルは、彼が見た壮麗で霊感に満ちた幻影について語っています。彼の描写は、言葉では言い表せない神秘に満ちた幻影です。彼は平原でケルビムの戦車、つまり 4つの霊的な生き物を見ました。それぞれの生き物には 4つの顔があり、1つはライオンの顔、もう 1つは鷲の顔、もう 1つは子牛の顔、そして 4つ目は人間の顔でした。すべての顔には翼があり、どの後部にもありませんでした。彼らの背中は目でいっぱいで、彼らの腹も同様に目でいっぱいで、目がいっぱいでない部分はありませんでした。また、すべての顔には車輪があり、車輪の中に車輪がありました。車輪の中には霊がありました。そしてエゼキエルは、まるで人の姿と、その足の下にサファイアの細工のようなものを見ました。ケルビムの戦車と生き物は、それに乗っている主を運んでいました。イエスがどこへ行こうとも、前を向いて進みました。ケルビムの下には、まるで人の手が支えて運んでいるように見えました。 2. 預言者が見たこのことは、本質的には真実で確かなものでしたが、それは神秘的で神聖な別のもの、つまり、確かに何世代にもわたって隠されていたが、終わりの時代にキリストの出現によって明らかにされた神秘を意味し、予兆していました。彼が見た神秘とは、主を受け入れ、主の栄光の玉座となる魂の神秘でした。なぜなら、主の光の霊と交わる特権を与えられ、主の座と住まいとなるように準備された主の言い表せない栄光の美しさに照らされた魂は、完全に光となり、完全に顔となり、完全に目となり、霊的な光の目で満たされていない部分はないからです。つまり、その体のどの部分も暗くはなく、その全体が光と霊に満たされ、全身が目に満ち、背中のようなものはなく、どの方向も正面を向いており、キリストの光の栄光の言い表せない美しさがその上にのしり、乗っているのです。太陽はどこまでも同じようなもので、どの部分も劣るところがなく、どこまでも光に輝いており、実際、すべての部分が光であり、各部分の間に違いはない。あるいは、火、その火の光そのものが、どこまでも同じようなもので、最初も最後もなく、大きいも小さいもない。それと同じように、キリストの顔の光の栄光の言い表せない美しさに完全に照らされ、聖霊と完全に交わり、神の住まいと王座となる特権を与えられた魂は、すべて目、すべて光、すべて顔、すべて栄光、すべて霊となり、キリストによってそのようになる。キリストは魂を駆り立て、導き、運び、携え、霊的な美しさで美しく飾る。なぜなら、ケルビムの下には人の手があったと書かれている。なぜなら、ケルビムの上を運ばれ、指示するのは彼だからである。 3. 戦車を運ぶ 4つの生き物は、魂の支配要素の象徴でした。鷲が鳥の王であり、ライオンが野獣の王であり、雄牛が飼いならされた動物の王であり、人間が生き物全般の王であるように、魂にも支配要素があります。それらは意志、良心、知性、愛の能力です。これらによって魂の戦車が制御され、神はこれらに頼ります。別の解釈によると、この象徴は天国の聖徒の教会に適用されます。ここで、生き物は非常に高く、目に満ちていたと言われていますが、目や高さの数を把握することは誰にもできませんでした。なぜなら、それらに関する知識が与えられていなかったからです。また、空の星についても、それらを見て驚くことはすべての人に与えられていましたが、その数を知って把握することは与えられていませんでした。地上の植物については、それを楽しむことはすべての人に与えられているが、その数を知ることは誰にも不可能である。同様に、天国の聖徒の教会についても、そこに入って楽しむことは、努力するすべての人に与えられているが、その数をどのように見て把握するかは、神だけが知っていることである。 乗り手は、すべて目である生き物たちの戦車または玉座、言い換えれば、彼の玉座と座席となり、今や目と光となっているすべての魂によって運ばれ、担われます。彼はその上に乗って、聖霊の手綱で彼女を支配し、彼の理解に従って彼女を導きます。霊的な生き物たちが、彼らが行こうと心に決めたところではなく、彼らの上に座って彼らを導いた彼が知っていて、望んだところに行ったように、ここでは彼が手綱を握り、彼の霊によって動かし、彼らは天国を通り抜けようと心に決めたとき、自分の意志ではなくそれに従って行きます。時には、彼は体を捨てて、考えの中で魂を天国に連れて行き、時には、彼がそう望むとき、彼は体とその事柄に入り、時には、そう思うと、地球の果てまで行き、魂に明らかにされた神秘を発見します。ああ、高貴で善良で唯一の真の戦車の御者よ!同じように、私たちの体も復活のときに特権を与えられ、魂はこのようにすでに栄光を与えられ、聖霊と混ざり合うのです。 4. 義人の魂が天の光となることを、主ご自身が使徒たちに告げて、こう言われました。「あなたがたは世の光である。」主はまず彼らを光に造り変え、彼らを通して世が照らされることを定められた。また、ともしびをともして枡の下に置くことはせず、燭台の上に置く。そうすれば家の中にいるすべてのものを照らす。このように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。言い換えれば、「わたしから受けた賜物を隠さず、受け取る心のあるすべての人に与えなさい。」また、「体の光は目である。あなたの目が明るいなら、あなたの全身が明るくなる。しかし、あなたの目が暗いなら、あなたの全身が暗い。だから、あなたの中にある光が暗ければ、その暗さはどんなにか深いことであろう。」目は体の光であり、目が健全であれば、体全体が明るく照らされているが、何かの事故で目が暗くなれば、体全体が暗くなるように、使徒たちは全世界の目となり光となるよう任命された。そこで主は彼らにこう命じられた。「もし体の光であるあなたがたが、しっかり立って、道をそれてはならない。見よ、全世界が明るく照らされている。しかし、光であるあなたがたが暗くなれば、その暗さはどれほど深いことであろう。その暗さは、この世にほかならない。」使徒たちは自ら光であったが、信じる者たちに光を与え、彼ら自身もその光によって明るく照らされたあの天の"霊"の光で彼らの心を明るくした。 5. そして、彼ら自身が塩であったので、信じるすべての魂を聖霊の塩で味付けし、塩漬けにした。主は彼らに言われた、「あなたがたは地の塩である。地とは人々の心のことである」。彼らは人々の魂に聖霊の天の塩を施し、彼らを味付けし、彼らが陥っていた不快な状態の代わりに、腐敗や悪から解放した。肉は、塩漬けにされていないと腐敗し、悪い匂いで満たされるので、すべての人は悪臭を避け、腐敗した肉に虫が入り込み、そこに住み着いて、餌を食べ、穴を掘ります。しかし、塩が来ると、そこに住む虫は死滅し、不快な匂いは消えます。塩には虫を殺し、悪臭を消す性質があるからです。同じように、聖霊で塩漬けにされず、神の力である天の塩を摂取しないすべての魂は腐敗し、悪い考えの悪臭で満たされます。そのため、神の顔は、暗黒のむなしい考えの恐ろしい臭いと、そのような魂に住む情熱から離れます。邪悪で恐ろしい虫、つまり邪悪な霊と暗黒の力は、魂の中を歩き回り、そこに住み、穴を掘り、這い回り、それを食い尽くし、それを腐らせます。「私の傷は悪臭を放ち、腐敗しています」と詩篇は言います。しかし、魂が助けを求めて神に飛び、信じ、人類を愛する善なる霊である生命の塩を求めると、天の塩がやって来て、あの恐ろしい虫を殺し、悪臭を消し去り、その力の有効な働きによって魂を清めます。こうして、魂はその真の塩によって健全になり、腐敗から解放され、天の主にとって有用で奉仕できる状態に戻ります。それが、律法の中で神が比喩を用いて、すべての犠牲に塩を塗るよう命じた理由です。 6. まず、犠牲は祭司によって屠られ、死なせられ、それから切り分けられ、塩漬けにされ、それから火にかけられなければなりません。祭司が最初に子羊を屠って死なせなければ、塩漬けにされることも、全焼の供え物として主のもとに捧げられることもありません。このように、私たちの魂も真の大祭司であるキリストのもとに来て、彼によって屠られ、自分自身の考え方と、以前の罪深い邪悪な生活に死ななければなりません。悪い情熱のその生活は、そこから消え去らなければなりません。肉体は、魂が抜けると死んでしまい、もはや以前の生命を持たず、聞くことも歩くこともなくなります。同様に、私たちの天の大祭司であるキリストが、その力の恵みによって、私たちの生命をこの世に対して殺し、死に至らしめると、肉体は、それまでの悪の生命に対して死に、もはや聞くことも話すことも、罪の闇の中での市民権を維持することもなくなります。なぜなら、魂であった邪悪な情熱が、恵みによってそこから抜け出たからです。使徒は、「世は私にとって十字架につけられ、私も世に対して十字架につけられた」と叫んでいます。世と罪の闇の中で生き、キリストによって死なれず、依然としてその中に邪悪な魂、すなわち、悪の情熱の闇の活動を持ち、それに支配されている魂は、キリストの体には属さず、光の体にも属さず、実際は闇の体であり、依然として闇の一部です。一方、光の魂、すなわち聖霊の力を持つ者は、光の一部を形成します。 7. しかし、ある人は言うかもしれない、「魂は闇の創造物ではないのに、どうしてそれを闇の体と呼ぶのか」。よく聞いて、私の言うことを正しく理解しなさい。あなたが着ている上着や衣服は他人によって作られたもので、あなたはそれを着ている。また、あなたの家は他人によって作られたもので、あなたはそこに住んでいる。それと同じように、アダムが神の戒めに背き、邪悪な蛇に聞き従ったとき、彼は悪魔に売られた、あるいは自分自身を売った。そして、悪魔は彼の魂を衣服のように着た。彼の魂は、神がご自身のイメージに似せて造られた美しい創造物である。使徒はこう言っている。「主は、支配と権力を剥ぎ取って、十字架で勝利を収めました。」主が来られたのは、主がそれらを追い出し、ご自分の家、神殿である人間を取り戻すためであった。このため、魂は、罪の闇がそこにある限り、悪の闇の体と呼ばれます。なぜなら、魂はそこで悪の闇の世界に生き、そこにしっかりと保持されるからです。それでパウロはそれを罪の体、死の体と呼んで、罪の体が滅ぼされるため、そして、「だれがこの死の体から私を救い出すことができるのか」と言っています。一方、神を信じ、罪から救い出され、闇の生活から死に至るまで生き、聖霊の光をその命として受け、それによって実際に生き返った魂は、神の光によってそこにしっかりと保持されているので、その後も永遠にその中で存在を続けます。魂自体は、神の性質でも、悪の闇の性質でもなく、知的で、美しく、偉大で、素晴らしい被造物であり、神の美しい似姿であり、神の像です。闇の情欲の悪がそこに入ったのは、違反行為を通してでした。 8. 魂がどちらと混ざり合おうとも、それ以降は意志の動きにおいて同じものと一体となる。魂はその中に神の光を持ち、すべての美徳において同じ中に生き、安息の光に属するか、罪の闇を持ち、断罪を受けるかのどちらかである。安息と永遠の光の中で神と共に生きることを望む魂は、前に述べたように、真の大祭司であるキリストのもとに来て、殺され、世と悪の闇の以前の生活に死に、別の生活と神聖な会話に移されなければならない。ある町で人が死ぬと、その町の人々の声も、彼らの話し声も、彼らの立てる騒音も聞こえず、永久に死んで、その町の声も叫び声もない別の地域に移されるのと同じように、魂も、それが住み着いて生きている邪悪な情熱の町で一度殺されて死ぬと、もはやその内部では暗闇の交わりの声は聞こえず、むなしい論争の話や叫び、あるいは暗闇の霊たちの喧騒は聞こえず、善と平和に満ちた町、神の光の町に移され、そこで生活し、聞き、そこで市民権を持ち、話し、交わり、そこで神にふさわしい霊的な働きをするのである。 9. ですから、私たち自身がキリストの力によって殺され、暗黒の悪の世に死に、私たちのうちにある罪の霊が滅ぼされ、天の"霊"のたましいを身にまとって受け、暗黒の悪からキリストの光に移され、世々にわたっていのちに安らぎを得られるよう、祈りましょう。競走路で戦車が走るとき、他の戦車より先にスタートする戦車は、他の戦車にとって足止めとなり、妨げとなり、先に進んで勝利を得ることができないように、魂の思いと罪の思いは、人間のうちに走るのと同じです。もし罪の思いがスタートしてしまうと、それは魂を妨げ、妨げ、妨げ、妨害するので、神に近づくことも、神から勝利を得ることもできなくなります。しかし、主が乗り、魂の手綱を自らの手に握るところでは、主は常に勝利し、魂の戦車を巧みに操り、永遠に天の啓示を受けた心へと導きます。主は悪と戦うことはなく、常に最高の力と権威を自らに持ち、自ら勝利を収めます。したがって、ケルビムは、自分で行きたい場所ではなく、乗り手または戦車の御者が指示する場所へと駆り立てられます。主が望む場所に彼らは行き、主が彼らを支えるのです。そこには、人の手が彼らの下にあったと書かれています。これらの聖なる魂は、キリストの霊によって駆り立てられ、導かれます。キリストの霊は、主が望むところへ手綱を握り、主が望むときには天の交わりの中で、主が望むときには肉体の中で、主が望むところに彼らは奉仕します。翼が鳥の足であるように、聖霊の天の光は価値ある魂の考えの翼を取り、主が最もよく知っている方法で導き、管理します。 10. それゆえ、これらのことを聞くとき、あなたは自分の魂の中で実際に、そして真実に、それらを所有しているかどうか、自分自身に問いかけなさい。それらは単に語られた言葉ではなく、あなたの魂の中で起こっている真理の働きなのです。もしあなたがそれを持たず、そのような霊的な良いものを欠いているなら、あなたは王国に対してまだ死んでいる者として、絶え間ない悲しみと悲しみと悩みを持つべきです。傷ついた者のように、常に主に叫び、この真の命があなたにも与えられるように、信仰をもって求めなさい。神が私たちのこの体を造ったとき、神は、神自身の性質や体自体から命を得ることを、また食べ物や飲み物、衣服や靴を与えることを、体に与えませんでした。神は、体自体を全く裸にして、生命の供給源をすべて外部から得るように定めました。そして、食べ物や飲み物、衣服がなければ、体は外部のものから離れて生きることはまったく不可能です。もし魂が、外部から何も取らずに、自分自身の性質だけで生きようとすれば、衰弱し、滅びる。魂も同じである。魂は神の似姿に創られているが、神の光を持っていない。そこで神は魂の条件を定め、魂が自分自身の性質で永遠の命を得ないようにした。しかし、魂は神の神性、神の精神、神の光によって、霊的な食物と飲み物、そして天の衣服を得る。それが魂の命であり、まさに命である。 11. それで、肉体の命は肉体自身からではなく、外部、すなわち大地から来るものであり、肉体の外にあるものから離れては肉体が生きることは不可能であることを私たちは見てきました。同様に、魂も、今、あの生ける者の地に生まれ、霊的にそこから栄養を得て成長し、主に向かって成長し、神から授かった言葉では言い表せない天上の美の衣をまとわない限り、その栄養なしには、肉体が喜びと安らぎのうちに、自ら生きることは不可能です。神の性質には、命のパンが含まれています。それは、「私は命のパン、生ける水、人の心を喜ばせるぶどう酒、喜びの油、天の"霊"の食物のすべて、神から来る光の天の衣である」と言っています。これらのものの中に、魂の永遠の命が成り立っています。肉体が自分の性質に頼るなら、それは衰え、死ぬので、悲惨です。魂が自分自身の本性以外には何も頼らず、自分自身の行い以外には何も頼らず、神の霊との交わりを持たず、神の永遠の命を与えられずに死ぬなら、魂にとって災いである。人が病気になると、体がもはや栄養を摂取できなくなると、彼らに対するすべての希望は諦められ、すべての真の友人、親族、恋人は涙を流す。同じように、神と聖なる天使たちは、聖霊の天の栄養で養われず、朽ちることなく生き返っていない魂のために涙を流す。もう一度言うが、これらのことは単に語られた言葉ではなく、霊的生命の働き、価値があり忠実な魂に対して成し遂げられた真理の働きである。 12. あなたが神の玉座となり、天の御者があなたに乗り、あなたの全魂が霊の目とな​​り、あなたの全魂が光となり、聖霊の栄養で養われ、生ける水を飲まされ、言い尽くせない光の衣をまとい、これらすべてのことを経験し、十分に確信してあなたの内なる人が堅く立てられるなら、見よ、あなたは生きている。あなたはまことに永遠の命を生きている。そして、あなたの魂は今から主とともに安らぎを得ている。見よ、あなたはこれらのものを主から受け、真実に所有している。それは、あなたが真の命を生きるためである。しかし、これらのものを何も持っていないことに気づいているなら、泣き、嘆き、嘆きなさい。なぜなら、あなたはまだ永遠の天の富を見いだしていないからである。それゆえ、あなたは自分の貧しさのために悩み、夜も昼も主に懇願しなさい。なぜなら、あなたは罪の恐るべき貧困の中で立ち止まっているからです。神が、人がその貧困のためにこの悩みと同じくらいのことを成し遂げたなら、つまり、私たちが満ち足りているかのように心配せずに過ごしていたならよかったのに! なぜなら、ひどく悩み、絶えず主を求め求める人は、すぐに贖いと天の富を見つけるからです。主が不正な裁判官とやもめについての説教の終わりに言われたように、「まして神は、夜も昼も神に叫び求める者には、どんなにか報いてくださることがありましょうか。まことに、私はあなた方に言います。神は速やかに報いてくださいます。」 神に栄光と力がとこしえにありますように。アーメン。 :::[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教1#説教1|トップに戻る]] {{DEFAULTSORT:えしふとのまかりおす50のれいてきせつきよう 01}} [[Category:1921年]] [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:マカリオス]] [[Category:エジプトのマカリオス50の霊的説教|01]] {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A.J. Mason, "Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 1" を翻訳。 --> 32wbwscw3j8225okonqmjvrom4y69k4 エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教2 0 50427 243185 229661 2026-06-15T08:01:09Z 村田ラジオ 14210 カテゴリを加筆。ヘッダー:作者。 243185 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = エジプトのマカリオス50の霊的説教 | section = 説教2 | year = 1921 | 年 = | previous = [[../説教1|説教1]] | next = [[../説教3|説教3]] | override_author = [[w:en:Macarius of Egypt|エジプトのマカリオス]] | override_translator = [[s:en:Author:Arthur James Mason|アーサー・ジェームズ・メイソン]] | noauthor = | notes = *底本: A. J. Mason, [[s:en:Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 2|Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 2]] *ウィキソースによる日本語訳 }} エジプトのマカリオス50の霊的説教 ———————————— ==説教2== << 暗黒の王国、すなわち罪の王国について、そして神だけが私たちから罪を取り除き、邪悪な君主の束縛から私たちを救い出すことができるということについて。>> 1. 闇の王国、邪悪な君主は、初めに人間を捕らえ、人が他の人を着せるように、闇の力で魂を包み、着せました。「そして、彼らは彼を王とし、王の衣装を着せ、頭から足まで王の装いを着せる。」このように、邪悪な君主は魂とそのすべての本質を罪で覆いました。彼はそれをすべて汚し、すべてを自分の王国の捕虜にし、その一つも彼から自由にはしませんでした。考えも、理解力も、体も。彼はすべてを闇の紫で覆いました。苦しむのは体であり、その一部や一部ではなく、全体が共に苦しむのと同じように、魂全体が不幸と罪の情欲に苦しみました。悪魔は、人間の不可欠な部分または部分である魂全体を、自分自身の不幸、つまり罪で覆い、こうして体は苦しみと腐敗に陥りやすくなりました。 2. 使徒が「古い人を脱ぎ捨てなさい」と言うとき、彼は目には目、耳には耳、手には手、足には足のある完全な人を意味しています。悪魔は人全体を、魂と体とを汚し、引きずり下ろし、「古い人」をその人に着せました。古い人、汚れた人、汚れた人、神に敵対する人、神の律法に従わない人、すべて罪と一体の人です。その結果、その人はもはや自分の望むようには見ることができず、誤って見、誤って聞き、悪を行うのに速い足、不法を行う手、悪事を企てる心を持つようになりました。ですから、私たちから古い人を脱ぎ捨ててくださるように神に願い求めましょう。私たちから罪を取り除くことができるのは神だけです。私たちを捕らえ、自分たちの王国に閉じ込めている者たちは、私たちよりも強力です。しかし神は、このつらい束縛から私たちを解放すると約束しておられます。熱い太陽と風が吹いているとき、太陽と風はそれぞれ独自の体と性質を持っていますが、唯一それができる神が風を止めない限り、誰も太陽と風を切り離すことはできません。同様に、罪は魂と混ざり合っていますが、それぞれ独自の性質を持っています。 3. 魂と体に住むこの邪悪な風を神が止めて抑制しない限り、魂と罪を切り離すことは不可能です。人は鳥が飛んでいるのを見て、自分も飛びたいと願うが、翼がないので飛べない。同じように、人は清く、非難されるところがなく、汚れがなく、心に邪悪がなく、いつも神とともにいたいという意志を持っているが、その力がない。神の空に飛び、聖霊の自由を得ることがその人の願いかもしれないが、翼が与えられなければ、それはできない。だから、鳩の翼、聖霊の翼を授けてくださるように神に懇願しよう。そうすれば、私たちは神のもとに飛んで行き、安らぎを得ることができる。そして、私たちの魂と体の一部に宿る罪である邪悪な風を、私たちの魂と体から切り離してやってくれる。神以外にそれができる者はいない。見よ、世の罪を取り除く神の小羊。信じる人々にこの慈悲を示し、彼らを罪から救い出したのは、神だけである。そして、常に主を待ち望み、希望し、絶え間なく求める人々のために、主はこの言い表せない救いを成し遂げます。 4. 暗い{{r|闇夜|やみよ}}に猛烈な風が吹き、すべての植物や種子を揺さぶり、探り、揺さぶるように、人間が悪魔の夜の闇の力に陥り、夜と闇の中にいるとき、その恐ろしい罪の風が吹き、揺さぶられ、揺さぶられ、その性質、魂、考え、理解力のすべてを揺さぶられ、探り、揺さぶられます。そして、その体のすべての手足が揺さぶられ、魂も体のどの部分も、私たちの中に住む罪から自由に逃れることはできません。同じように、光の日があり、聖霊の神聖な風が吹き、神の光の日にいる魂を吹き、元気づけます。それは、魂の本質とその考え、すべての存在と体のすべての部分を貫き、神聖な、言い表せない安らぎで彼らを元気づけ、休ませます。使徒が「私たちは夜の子でも闇の子でもありません。あなた方はみな光の子であり、昼の子なのです」と言ったとき、このことを宣言しました。そして向こう側では、誤りの状態にある古い人は完全な人間として着飾り、闇の王国の{{r|衣|ころも}}、冒涜、不信仰、無関心、虚栄、高慢、貪欲、情欲、そして闇の王国のその他のすべてのぼろぼろで汚れた忌まわしい装飾を身にまとっています。同じように、ここでは、地の下から来た古い人を脱ぎ捨てたすべての人、イエスが闇の王国の衣服を{{r|剥|は}}ぎ取ったすべての人は、新しい天の人、イエス・キリストを着て、目と目、耳と耳、頭と頭が再び一致し、完全に清くなり、天の姿を身にまとっているのです。 5. 主は彼らに、言い表せない光の王国の衣服、信仰、希望、慈愛、喜び、平和、善良さ、親切さ、そしてその他すべての神聖で生きた命の光、言い表せない安息の衣服を着せました。それは、神ご自身が愛であり、喜びであり、平和であり、親切であり、善良であるように、新しい人間も恵みによってそうなるためです。そして、{{r|暗闇|くらやみ}}と罪の王国が復活の日まで魂の中に隠されているように、そのときには、罪人の体も、今は魂の中に隠されている暗闇で覆われます。同様に、光の王国、天の{{r|像|ぞう}}であるイエス・キリストは、今、魂を神秘的に照らし、聖徒の魂の中で君臨していますが、人々の目からは隠されており、復活の日まで、魂の目によってのみ、キリストを真に見ることができるのです。しかし、その時、肉体もまた、今人の魂にある主の光で覆われ、栄光を与えられる。こうして、肉体もまた、今やキリストの王国を受け入れ、永遠の光で安らぎ、照らされている魂とともに支配するようになる。主の慈悲と優しい同情に栄光あれ。主は、その僕たちに深い憐れみを抱き、彼らを照らし、暗黒の王国から救い出し、主自身の光と王国を授けてくださる。主に栄光と力が永遠にありますように。アーメン。 :::[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教2#説教2|トップに戻る]] {{DEFAULTSORT:えしふとのまかりおす50のれいてきせつきよう 02}} [[Category:1921年]] [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:マカリオス]] [[Category:エジプトのマカリオス50の霊的説教|02]] {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A.J. Mason, "Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 2" を翻訳。--> bplelbktnj9xc77e0knghd95rgjiwtc エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教3 0 50933 243172 229662 2026-06-14T16:01:24Z 村田ラジオ 14210 校正 243172 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = エジプトのマカリオス50の霊的説教 | section = 説教3 | year = 1921 | 年 = | previous = [[../説教2|説教2]] | next = [[../説教4|説教4]] | override_author = [[s:en:Author:St. Macarius the Egyptian|擬マカリオス]] | override_translator = [[s:en:Author:Arthur James Mason|アーサー・ジェームズ・メイソン]] | noauthor = | notes = *底本: A. J. Mason, [[s:en:Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 3|Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 3]] *ウィキソースによる日本語訳 }} エジプトのマカリオス50の霊的説教 ———————————— ==説教3== << 兄弟たちは互いに誠実、単純、愛、平和のうちに生きるべきであり、心の中では競争と戦いを続けるべきである。>> 1. 兄弟たちは、祈るときも、聖書を読むときも、あるいは何らかの仕事をするときも、互いに愛し合う基盤を築くために、多くの愛をもって共に暮らすべきです。このようにして、さまざまな傾向が好意を得、祈る者、読む者、働く者は皆、互いに誠実に、そして単純に暮らし、利益を得ることができます。何と書いてあるでしょうか。あなたの御心が天でなされるように、地上でもなされますように。それは、天の天使たちが大いなる調和と平和と愛のうちに共に住み、そこにはプライドや嫉妬がなく、愛と誠実のうちに共に暮らすように、兄弟たちも共に暮らすべきであるからです。おそらく30人ほどが一つの組織の下にいますが、昼夜を問わず一つのことだけを続けることはできません。ある人は6時間祈りに身を捧げ、その後読書をしたいと思うでしょう。また、喜んで奉仕する人もいます。また、何らかの労働に従事する人もいます。 2. 兄弟たちは何をしている時でも、互いに愛し合い、明るくあるべきです。働いている人は、祈っている人について、「兄弟が得た宝は共有のものであり、したがって私のものです」と言いなさい。祈る人は、読書する人について、「彼が読むことによって得た利益は、私の利益です」と言いなさい。働いている人は、「私のしている奉仕は、すべての人の益になります」と言いなさい。体は多くの部分から成り、一つの体であり、互いに助け合い、それぞれが自分の働きをしていますが、目は体全体に代わって見、手はすべての部分のために働き、足は歩くときにすべての部分を運び、他の部分はすべての部分とともに苦しみます。それと同じように、兄弟たちも互いに愛し合いなさい。祈る人は、祈っていないからといって、働いている兄弟を裁いてはいけません。働いている人は、祈っている人を裁いて、「私が働いている間、彼は横になっている」と言ってはなりません。奉仕する者は、他の人を裁くのではなく、各自が行うことはすべて神の栄光のために行いなさい。聖書を読む者は、「彼は私のために祈っている」と思って、愛と喜びをもって祈る者を支えなさい。祈る者は、「彼のしていることは、私たち全員の利益のために行われている」と思って、働いている者のことを考えなさい。 3. このように、平和の絆による調和と平和と団結が、彼ら全員をしっかりと結びつけ、誠実さと単純さと神の恵みの中で共に生きることができるのです。これらの中で最も重要なことは、祈りを続けることであることは間違いありません。しかし、もう一つ必要なことは、人が自分の魂に宝を持ち、自分の心に主である命を持つことです。つまり、働いているとき、祈っているとき、読んでいるとき、消えることのない財産、つまり聖霊を持つことです。 主は人間に目に見える成果だけを求め、隠れたものを正すのは神の役割である、と言う人もいます。それは事実ではありません。人は外面に関して自分を守ろうとするのと同じように、自分の考えの中で争いや戦いを続けるべきです。主はあなたに、自分自身に怒り、自分の心と戦うこと、そして邪悪な考えに同意したり楽しんだりしないことを求めています。 4. それでも、罪と、私たちと共にある悪を根絶することは、神の力によってのみ成し遂げられます。自分の力で罪を根絶することは、不可能であり、また、人の能力の範囲外です。罪と格闘し、戦い、打撃を与え、受けることはあなたの仕事であり、根絶することは神の仕事です。もしあなたがそれをすることができたなら、主の来臨はなぜ必要だったでしょうか。目は光がなければ見ることができず、人は舌がなければ話せず、耳がなければ聞き、足がなければ歩かず、手がなければ働かないように、イエスがなければ救われることも、天国に入ることもできません。もしあなたが、「外面的な行いでは、私は淫行や姦淫をせず、貪欲ではない。だから私は正しい」と言うなら、あなたはこれで間違っています。あなたは、自分がすべてを満たしていると考えています。罪には、人が自分自身を守るべき3つの分野だけでなく、1万の分野があります。傲慢、思い上がり、不信、憎しみ、嫉妬、欺瞞、偽善、これらはどこから来るのか? あなたは心の奥底にあるこれらと格闘し、奮闘すべきではないのか? 家に強盗がいれば、あなたはすぐに困惑する。強盗はあなたを安心させない。あなたは反撃を始め、殴り合いが始まる。 だから、魂は反撃し、抵抗し、力で力をはね返すべきである。 5. その後どうなるでしょうか。抵抗し、苦労し、努力することで、意志が優位に立つようになります。意志は倒れ、そして回復します。罪は10回、20回の戦いで再び意志を挫きます。罪は魂を征服し、挫折させます。そしてしばらくして、魂は1回の戦いで罪を克服します。もし魂が粘り強く、どこにもひるまなければ、魂は優位に立ち、敵を見抜き、罪から勝利のトロフィーを持ち帰り始めます。しかし、この時点でも人を厳しく調べれば、罪は彼にとってまだ手ごわすぎます。彼は完全な人になり、彼の背丈の程度に達し、死を完全に克服します。なぜなら、「滅ぼされる最後の敵は死である」と書いてあるからです。こうして彼らは優位に立ち、悪魔の征服者となるのです。 しかし、前に述べたように、ある人が「私は淫行も姦淫も犯さない。私は金銭を愛する者でもない。それで十分だ」と言うなら、この計算において、その人は三つの力と戦ったが、罪が魂に及ぼす他の二十の力とは戦っていないので、負けている。その人はそれらすべてと戦い、奮闘すべきである。なぜなら、私が何度も言ったように、心はそれに匹敵し、罪の誘惑に抵抗し、撃退するのに十分な力を持っているからである。 6. 反対の力が強すぎる、悪が人間に対して完全な支配権を持っていると言うなら、神が人類がサタンに屈服したことを非難するとき、あなたは神を不義にすることになる。なぜなら、サタンは非常に強く、服従を強いる力を振るうからである。「あなたはサタンを魂よりも大きく強くしておきながら、『屈服するな』と命じる。それはまるで、若者が幼い子供と格闘し、子供が負けたからといって、負けたという罪をなすりつけられるようなものだ。これは甚だしい不正義である。」それで私はあなたに言います、人間の心は敵と互角であり、互角に渡り合える。そして、そのような魂は、助けと支援を求めれば、それを見出し、救済が与えられる。この競争と闘いは、決して不公平なものではない。父と子と聖霊を永遠に讃えよう。アーメン。 :::[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教3#説教3|トップに戻る]] {{DEFAULTSORT:えしふとのまかりおす50のれいてきせつきよう 03}} [[Category:1921年]] [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:エジプトのマカリオス50の霊的説教|03]] {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A.J. Mason, "Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 3" を翻訳。 --> mjiv9jsbh7woj8ld0zq54ncrhz8jop9 243186 243172 2026-06-15T08:03:49Z 村田ラジオ 14210 カテゴリを加筆。ヘッダー:作者。 243186 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = エジプトのマカリオス50の霊的説教 | section = 説教3 | year = 1921 | 年 = | previous = [[../説教2|説教2]] | next = [[../説教4|説教4]] | override_author = [[w:en:Macarius of Egypt|エジプトのマカリオス]] | override_translator = [[s:en:Author:Arthur James Mason|アーサー・ジェームズ・メイソン]] | noauthor = | notes = *底本: A. J. Mason, [[s:en:Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 3|Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 3]] *ウィキソースによる日本語訳 }} エジプトのマカリオス50の霊的説教 ———————————— ==説教3== << 兄弟たちは互いに誠実、単純、愛、平和のうちに生きるべきであり、心の中では競争と戦いを続けるべきである。>> 1. 兄弟たちは、祈るときも、聖書を読むときも、あるいは何らかの仕事をするときも、互いに愛し合う基盤を築くために、多くの愛をもって共に暮らすべきです。このようにして、さまざまな傾向が好意を得、祈る者、読む者、働く者は皆、互いに誠実に、そして単純に暮らし、利益を得ることができます。何と書いてあるでしょうか。あなたの御心が天でなされるように、地上でもなされますように。それは、天の天使たちが大いなる調和と平和と愛のうちに共に住み、そこにはプライドや嫉妬がなく、愛と誠実のうちに共に暮らすように、兄弟たちも共に暮らすべきであるからです。おそらく30人ほどが一つの組織の下にいますが、昼夜を問わず一つのことだけを続けることはできません。ある人は6時間祈りに身を捧げ、その後読書をしたいと思うでしょう。また、喜んで奉仕する人もいます。また、何らかの労働に従事する人もいます。 2. 兄弟たちは何をしている時でも、互いに愛し合い、明るくあるべきです。働いている人は、祈っている人について、「兄弟が得た宝は共有のものであり、したがって私のものです」と言いなさい。祈る人は、読書する人について、「彼が読むことによって得た利益は、私の利益です」と言いなさい。働いている人は、「私のしている奉仕は、すべての人の益になります」と言いなさい。体は多くの部分から成り、一つの体であり、互いに助け合い、それぞれが自分の働きをしていますが、目は体全体に代わって見、手はすべての部分のために働き、足は歩くときにすべての部分を運び、他の部分はすべての部分とともに苦しみます。それと同じように、兄弟たちも互いに愛し合いなさい。祈る人は、祈っていないからといって、働いている兄弟を裁いてはいけません。働いている人は、祈っている人を裁いて、「私が働いている間、彼は横になっている」と言ってはなりません。奉仕する者は、他の人を裁くのではなく、各自が行うことはすべて神の栄光のために行いなさい。聖書を読む者は、「彼は私のために祈っている」と思って、愛と喜びをもって祈る者を支えなさい。祈る者は、「彼のしていることは、私たち全員の利益のために行われている」と思って、働いている者のことを考えなさい。 3. このように、平和の絆による調和と平和と団結が、彼ら全員をしっかりと結びつけ、誠実さと単純さと神の恵みの中で共に生きることができるのです。これらの中で最も重要なことは、祈りを続けることであることは間違いありません。しかし、もう一つ必要なことは、人が自分の魂に宝を持ち、自分の心に主である命を持つことです。つまり、働いているとき、祈っているとき、読んでいるとき、消えることのない財産、つまり聖霊を持つことです。 主は人間に目に見える成果だけを求め、隠れたものを正すのは神の役割である、と言う人もいます。それは事実ではありません。人は外面に関して自分を守ろうとするのと同じように、自分の考えの中で争いや戦いを続けるべきです。主はあなたに、自分自身に怒り、自分の心と戦うこと、そして邪悪な考えに同意したり楽しんだりしないことを求めています。 4. それでも、罪と、私たちと共にある悪を根絶することは、神の力によってのみ成し遂げられます。自分の力で罪を根絶することは、不可能であり、また、人の能力の範囲外です。罪と格闘し、戦い、打撃を与え、受けることはあなたの仕事であり、根絶することは神の仕事です。もしあなたがそれをすることができたなら、主の来臨はなぜ必要だったでしょうか。目は光がなければ見ることができず、人は舌がなければ話せず、耳がなければ聞き、足がなければ歩かず、手がなければ働かないように、イエスがなければ救われることも、天国に入ることもできません。もしあなたが、「外面的な行いでは、私は淫行や姦淫をせず、貪欲ではない。だから私は正しい」と言うなら、あなたはこれで間違っています。あなたは、自分がすべてを満たしていると考えています。罪には、人が自分自身を守るべき3つの分野だけでなく、1万の分野があります。傲慢、思い上がり、不信、憎しみ、嫉妬、欺瞞、偽善、これらはどこから来るのか? あなたは心の奥底にあるこれらと格闘し、奮闘すべきではないのか? 家に強盗がいれば、あなたはすぐに困惑する。強盗はあなたを安心させない。あなたは反撃を始め、殴り合いが始まる。 だから、魂は反撃し、抵抗し、力で力をはね返すべきである。 5. その後どうなるでしょうか。抵抗し、苦労し、努力することで、意志が優位に立つようになります。意志は倒れ、そして回復します。罪は10回、20回の戦いで再び意志を挫きます。罪は魂を征服し、挫折させます。そしてしばらくして、魂は1回の戦いで罪を克服します。もし魂が粘り強く、どこにもひるまなければ、魂は優位に立ち、敵を見抜き、罪から勝利のトロフィーを持ち帰り始めます。しかし、この時点でも人を厳しく調べれば、罪は彼にとってまだ手ごわすぎます。彼は完全な人になり、彼の背丈の程度に達し、死を完全に克服します。なぜなら、「滅ぼされる最後の敵は死である」と書いてあるからです。こうして彼らは優位に立ち、悪魔の征服者となるのです。 しかし、前に述べたように、ある人が「私は淫行も姦淫も犯さない。私は金銭を愛する者でもない。それで十分だ」と言うなら、この計算において、その人は三つの力と戦ったが、罪が魂に及ぼす他の二十の力とは戦っていないので、負けている。その人はそれらすべてと戦い、奮闘すべきである。なぜなら、私が何度も言ったように、心はそれに匹敵し、罪の誘惑に抵抗し、撃退するのに十分な力を持っているからである。 6. 反対の力が強すぎる、悪が人間に対して完全な支配権を持っていると言うなら、神が人類がサタンに屈服したことを非難するとき、あなたは神を不義にすることになる。なぜなら、サタンは非常に強く、服従を強いる力を振るうからである。「あなたはサタンを魂よりも大きく強くしておきながら、『屈服するな』と命じる。それはまるで、若者が幼い子供と格闘し、子供が負けたからといって、負けたという罪をなすりつけられるようなものだ。これは甚だしい不正義である。」それで私はあなたに言います、人間の心は敵と互角であり、互角に渡り合える。そして、そのような魂は、助けと支援を求めれば、それを見出し、救済が与えられる。この競争と闘いは、決して不公平なものではない。父と子と聖霊を永遠に讃えよう。アーメン。 :::[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教3#説教3|トップに戻る]] {{DEFAULTSORT:えしふとのまかりおす50のれいてきせつきよう 03}} [[Category:1921年]] [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:マカリオス]] [[Category:エジプトのマカリオス50の霊的説教|03]] {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A.J. Mason, "Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 3" を翻訳。 --> 49vdwy6kg3y8s3i9u23q54514umysxg エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教4 0 50934 243187 229663 2026-06-15T08:06:34Z 村田ラジオ 14210 カテゴリを加筆。ヘッダー:作者。 243187 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = エジプトのマカリオス50の霊的説教 | section = 説教4 | year = 1921 | 年 = | previous = [[../説教3|説教3]] | next = [[../説教5|説教5]] | override_author = [[w:en:Macarius of Egypt|エジプトのマカリオス]] | override_translator = [[s:en:Author:Arthur James Mason|アーサー・ジェームズ・メイソン]] | noauthor = | notes = *底本: A. J. Mason, [[s:en:Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 4|Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 4]] *ウィキソースによる日本語訳 }} エジプトのマカリオス50の霊的説教 ———————————— ==説教4== << キリスト教徒は、神と天使たちから天の賞賛を得るために、この世での競争を注意深く慎重に成し遂げるべきである。>> 1. キリスト教の生活を徹底的に達成したいと願う私たちは、何よりもまず、魂の識別と判別の能力を全力で培わなければなりません。そうすることで、善と悪の微妙な違いを知り、純粋な自然が不自然に混ざったものを常に見分ける能力を身につけ、率直に、人を傷つけることなく行動できるようになります。この識別力を一種の目として使うことで、罪の誘惑との結びつきやつながりから自由になり、こうして天からの賜物が与えられ、私たちは主にふさわしい者となることができるのです。 目に見える世界から例を挙げてみましょう。肉体と魂、肉体のものと魂のものと、感覚の対象と隠れたものとの間には類似性があるからです。 2. 肉体には目が導き手です。目は、見ることで全身をまっすぐに導きます。ある人が、樹木が生い茂り、いばらや泥だらけの場所を通り抜けているところを想像してください。そこには火も噴き出し、地面に剣が突き刺さり、断崖や水場が頻繁に見られます。活動的で用心深く、機敏な旅行者は、目の導きを利用して、その困難な場所を細心の注意を払って通り抜け、手足であらゆる方向から衣服を集めます。茂みやいばらで衣服が引き裂かれたり、泥で台無しになったり、剣で切られたりしないようにするためです。彼の目は全身を導きます。それは、断崖から転げ落ちたり、水に溺れたり、その他の危険によって怪我をしたりしないように彼を救う光なのです。このように活動的で用心深く、自分の目で判断して、自分の服をしっかりと巻きつけ、用心深く出かける人は、怪我をしないし、着ている服が焼けたり裂けたりすることもありません。しかし、怠惰で、怠け者で、不注意で、不器用で、怠け者なら、そのような場所を通るときに、服があちこちに漂い、しっかりと身にまとっていないために、茂みやイバラで引き裂かれたり、火で焼かれたり、あるいは、道端に刺さった剣でぼろぼろになったり、泥で汚れたりして、いずれにしても、不注意、怠慢、怠惰によって、その新しい立派な服をすぐに台無しにしてしまうのです。そして、自分の目で判断することにきちんと注意を払わなければ、自分自身が峡谷に落ちたり、水に溺れたりするでしょう。 3. 同様に、魂は、その衣服として肉体という美しい衣を着ているので、肉体とともに魂全体を導く識別力を持っています。魂は、人生の茂みや茨、泥、火、断崖、つまりこの世の欲望や快楽、その他の悪いものの中を通り抜けるとき、その肉体とともにその魂全体を導く識別力を持っています。魂は、警戒と決意と真剣さと注意深さをもって、その衣をあらゆる面でしっかりと身にまとい、この世の茂みや茨、つまり心配事や仕事、この世の煩いに決して引き裂かれないように、また欲望の火で焼かれないようにしなければなりません。このように身を包むと、魂は目を悪い光景から背け、耳を中傷から背け、舌を虚偽のことを語ることから背け、手足を悪い営みから背けます。魂には意志があり、それによって、下品な見せ物、邪悪で恥ずべき音、みだらな言葉、世俗的で邪悪な追求から体の各部を遠ざけ、妨げます。 4. 魂はまた、悪い放浪からも自らを遠ざけ、心がその思考の各部を世俗に放浪させないようにします。このように、魂は努力し、真剣に努め、あらゆる面で体の各部を悪から遠ざけるよう細心の注意を払い、体のあの美しい衣服を破れず、焼けず、汚れないように維持します。そして魂自身も、知識と識別力と識別力のある意志によって、そしてすべて主の力によって維持されます。同時に、魂は全力を尽くして、すべての世俗的な欲望に身を寄せ、それらから離れ、こうして主の助けによって、これまで述べてきた災難から真に守られるのです。というのは、主は、誰かが勇敢にも人生の快楽や気晴らし、物質的な心配事、現世での束縛、そしてむなしい思いの彷徨いから背を向けているのを見ると、自らの恵みによる助けを与え、その魂が現在の邪悪な世界を気高く生き抜く間、堕落しないように守るからである。そして、魂は、その肉体の衣服と魂自身をしっかりと守り、できる限りこの世のあらゆる欲望から背を向け、主の助けを得てこの世のレースを気高く走ったので、神と天使たちから天上の賞賛を得るのである。 5. しかし、もし人がこの世で怠惰と無頓着に、何の注意もせずに自分の道を歩み、自分を満足させるために、この世のすべての欲望から離れず、すべての欲望をもって主だけを求めようとしないなら、その人はこの世の茨と茂みに刺され、肉体の衣服は欲望の火であちこち焼かれ、快楽の泥で汚されます。そしてこのように、魂は審判の日に大胆さを失い、衣服を汚さずにいられるどころか、この世の欺瞞でそれを汚したのが見つかります。このため、その魂は王国から拒絶されます。故意にこの世に身を委ね、その快楽に惑わされ、物質的な放浪に惑わされる人を神は何ができるでしょうか。主が助けを与える人とは、物質的な快楽や以前の習慣から離れ、望むと望まざるとに関わらず常に心を主に引き寄せ、自分を否定し、主だけを求める人です。これは主が保護する人であり、あらゆる面で物質世界の罠や束縛から身を守り、恐れと震えをもって自らの救いを成し遂げ、この世の罠や束縛や欲望の真っ只中を注意深く通り抜け、主の助けを求め、主の慈悲によって恩寵によって救われることを望む人です。 6. 考えてみてください。5人の賢い乙女は、用心深く油を心に取り入れていました。油は、自分の本性にはないものです。上からの聖霊の恵みを意味する油です。花婿とともに天の花嫁の部屋に入ることができました。しかし、自分の本性に満足していた他の 5 人の愚かな処女は、肉体にとどまっている間は、喜びの油を自分の器に取り入れようと油を注いだり、油を注いだりしようとはせず、不注意、怠慢、怠惰、無知、または想像上の正義によって眠りに落ちたのです。そのため、天の花婿に満足を与えることができず、王国の花嫁の部屋から締め出されてしまいました。世の絆と地上の愛情に縛られ、天の花婿に愛と情熱的な献身のすべてを捧げることができず、油を与えられなかったのです。自然の外側にある聖霊の聖化を求める魂は、すべての愛情を主に向け、そこで歩き、そこで祈り、そこで思いを働かせ、他のすべてから目をそらします。そのために、彼らは天の恵みの油を受ける特権に恵まれ、堕落することなく通り抜け、霊的な花婿に完全な満足を与えることができます。一方、自分の性質に属するものに満足している魂は、地上の考えに潜り込み、地上で考えを働かせ、その心は地上で完全に存在します。彼らは自分では、花婿に属し、肉の儀式で飾られているように見えますが、上からの聖霊によって生まれておらず、喜びの油を受けていません。 7. 魂の五つの理性的な感覚は、もし上からの恵みと聖霊の聖化を受けるなら、本当に賢い乙女であり、上からの恵みの知恵を受ける。しかし、もし彼らが自分にとって自然なものに満足するなら、彼らは愚か者とされ、世の子であることが示される。彼らは、見せかけの外観と外見上の形態のために、自分たちを花婿の花嫁と見なしているが、世の精神を捨て去っていない。完全に完全に主に執着する魂がそこで考え、そこで祈り、そこで歩き、そこで主の愛を長く追い求めるように、一方、世の愛に縛られ、縛られ、地上で存在を費やそうとする魂は、そこで歩き、そこで考え、そこで心の存在を過ごす。このため、彼らは聖霊の善い知恵に改心することができず、私たち自身の性質、つまり天の恵みとは無関係であり、もし私たちが主とともに天国の花嫁の部屋に入り、永遠の救いを見出すためには、私たちの性質と結合し、融合することが必要です。 8. わたしたちの本質に無関係なもの、すなわち激情の災難を、わたしたちは最初の人の不従順を通して受け入れ、長年の習慣と性癖によってそれがわたしたちの本質のほとんど一部となってしまった。そして、わたしたちの本質に無関係なもの、すなわち聖霊の天からの賜物によってこれを再び追い出し、本来の純粋さを回復しなければならない。そして、わたしたちが今、多くの懇願と嘆願と信仰と祈りとこの世からの離脱によって天から聖霊の愛を受けなければ、そして、邪悪さによって汚されたわたしたちの本質が主である愛に固執し、聖霊の愛によって聖化されなければ、そして、わたしたちが最後まで堕落することなく、主の戒めのすべてを厳格に守り続けなければ、わたしたちは天の王国に到達できない。 9. 私はできる限り深く微妙な言葉を述べたいと思います。ですから、賢明に私の言うことに耳を傾けてください。無限で、近づきがたい、創造されていない神は、その無限で考えられない慈悲によって、自らを具体化し、そう言ってよければ、その近づきがたい栄光から自らを小さくし、聖人や天使の魂などの目に見える被造物と結合できるようにし、彼らが神の命にあずかれるようにしました。天使であれ、魂であれ、悪魔であれ、これらはそれぞれその種類に従って体です。それらは微妙ではありますが、それぞれの本性の微妙さに従って、実体、性格、イメージにおいて微妙な体であり、私たちのこの体が実体としては粗大な体であるのと同じです。さらに、非常に微妙な魂は、見るための目と聞くための耳を自分自身に集めました。同様に、話すための舌、手、実際、魂は体全体とその部分をそこに集め、それと融合し、それによって人生のあらゆる任務を遂行するのです。 10. 同じように、無限で想像を絶する神は、その慈悲によって、ご自身を小さくし、この体の各部分をまとい、近づき難い栄光からご自身を集め、慈悲と人間への愛によって、ご自身を変容させて具体化し、聖なる、人に喜ばれる、忠実な魂と混ざり合って、彼らと一つの霊となり、パウロの言葉によれば、魂の中に魂、言い換えれば、実体の中に実体となり、魂が新しく生き、不滅の命を感じ、朽ちることのない栄光にあずかることができるようになるため、つまり、それがふさわしく、人に喜ばれるものであるならば、そうなるのです。もし神が、存在しなかったものから、このように豊かな多様性と変化に富んだ目に見える生き物を創造し、それが存在する前には存在していなかったのなら、もし神が、存在しなかったものから、土、山、木などの固くて硬い物質を意志し、容易に創造したのなら、自然の硬さがわかるでしょう。また、水は中間体であり、鳥がそこから生み出されるように命じました。さらに、より微細な物体、火、風、肉眼では見ることができないほど微細なものもです。 11. 神の多様な知恵の無限で言い表せない技量が、どのようにして、存在しなかったものから、より粗大で、より微細で、さらに微細な物体を、それぞれ自身の本質において、神の意志によって創造することができたのでしょうか。そして、御心のままに存在し、御心のままである神が、その言い表せない優しさと想像を絶する善良さによって、自らを変え、縮小し、同化し、神聖で価値ある忠実な魂の能力に応じて具体化し、目に見えない神が彼らに見られ、触れることのできない神が魂の微妙な性質に従って感じられるように、そして彼らが神の甘美さを感じ、その言い表せない喜びの光の善良さを実際に体験して楽しむことができるようにすることは、なおさらできないでしょうか。神は、御心のままに、魂にもたらされたあらゆる卑しい情熱を燃やし尽くす火となるのです。なぜなら、私たちの神は焼き尽くす火だからです。神は、御心のままに、言い表せない、言い表せない安息となり、魂が神自身の安息に安らぐようにするのです。神がお望みのときには、神は喜びと平和を与え、それを大切にし、さらに大切にします。 12. 実際、もし神が、彼らの中の知性に喜びと歓喜を与えるために、例えば光の都エルサレムや天のシオンの山のように、ご自身を被造物の一つに似せたいと望まれるなら、神はすべてを意のままに行うことができます。聖書に「あなたたちはシオンの山、生ける神の都、天のエルサレムに来た」と書かれているとおりです。すべてのことは神にとって容易で容易であり、神は神にふさわしい忠実な魂のために、ご自分が選ぶどんな姿にもご自身を変容させます。ただ、人は神の友となり、神に喜ばれるよう努めるべきです。そうすれば、実際の経験と感情の中で、天国の良いもの、神の言い表せない喜びと無限の富を真に見るでしょう。それは目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かんだこともないものです。主の霊さえも、ふさわしい魂のために、ご自身を彼らの休息、彼らの歓喜、彼らの楽しみ、そして彼らの永遠の命となさるのです。福音書に「このパンを食べる者は永遠に生き、魂に言葉に尽くせない安らぎを与え、霊的な喜びで満たす」と書かれているとおり、主は食べ物や飲み物の中にもご自身を具現化しています。「わたしは命のパンである」と主は言われ、天の泉の飲み物の中にもご自身を具現化しています。「わたしが与える水を飲む者は、その人のうちに泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と主は言われています。そして、私たちは皆、同じ飲み物を飲むように造られていると書かれています。 13. それぞれの聖なる父祖たちに、神は自らの喜びとなり、彼らにとって最善となる方法で現れた。ある方法ではアブラハムに、別の方法ではイサクに、別の方法ではヤコブに、別の方法ではノアに、ダニエルに、ダビデに、ソロモンに、イザヤに、そしてそれぞれの聖なる預言者たちに、ある方法ではエリアに、別の方法ではモーセに現れた。私の信念は、モーセは山の中で40日間の断食の間、毎時間その霊的な食卓に招かれ、それを食べて喜びを得たということである。それぞれの聖徒たちに神は望むままに現れ、彼らに休息と救いを与え、彼らを神の知識へと導いた。神が選ぶことはすべて神にとって容易である。神は望むままに、何らかの具現化によって自らを小さくし、神を愛する人々の目の前に現れるように自らを変身させ、神の偉大で言い表せない愛に従って、また神自身の力によって、近づくことのできない光の栄光の中でふさわしい人々に自らを現す。大きな願いと神への期待、信仰と愛をもって、天からの力、聖霊の天の愛を受け取る特権を与えられ、不滅の命という天の火を得た魂は、確かにあらゆる世俗的な愛情から解放され、あらゆる邪悪の束縛から解放されます。 14. 鉄、鉛、金、銀は火の中に投げ込まれると溶けて、その本来の硬さから柔らかい状態に変化します。そして、火の中にある限り、火の熱い力によってその硬い性質から溶けて変化し続けます。それと同じように、世を否定し、多くの探求と苦痛と魂の葛藤の中で主だけに憧れを抱き、希望と信仰をもって絶え間なく主を待ち望み、神の天の火と聖霊の愛を受けた魂は、そのとき、真に世のすべての愛情から解放され、情熱のすべての害から解放され、すべてを自分から追い出し、罪の自然な習慣と硬さから変えられ、自分が迎えた天の花婿と比べれば、すべてのものを無関係なものとみなし、その熱烈で言い表せない愛に安らぎを見出します。 15. 実のところ、そのような魂が注目する愛すべき兄弟たちでさえ、その愛を妨げられると、ある意味で魂は彼らから離れてしまいます。なぜなら、それが魂の命と安息であり、天の王との神秘的で言い表せない交わりだからです。もし地上の愛情の交わりが父、母、兄弟、そしてそのような夫婦の評価においてすべてのものから離れ、彼らは依然として彼らを愛しているが、より外側の愛で彼らを愛しており、一方、男性の全態度は配偶者との関係によって決定されるならば――聖書には「それゆえ、人は父母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一体となる」とある――肉の愛がこのように他のすべての愛から切り離されるならば、あの聖霊、あの天の愛すべき聖霊との交わりに真実に入ることを許された人々は、どれほど世俗的な愛から切り離され、他のすべてのものは無関心なものとなるであろうか。なぜなら、彼らは天への憧れに打ち負かされ、その気分と完全に一致しているからである。 16. さて、愛する兄弟たちよ、このような素晴らしいことが私たちの前に示され、このような素晴らしい約束が主によって私たちになされたとき、私たちはすべての障害を捨て去り、世俗への愛をすべて放棄し、その唯一の良いことに熱心に求めて身を捧げましょう。そうすれば、私たちは言葉では言い表せない聖霊の愛に到達できるでしょう。聖パウロは、愛を追い求めなさい、そうすれば、いと高き方の右の手によって私たちの頑固さ​​が変えられ、神の聖霊の情熱的な愛情に傷つけられて、精神的な優しさと安らぎに達することができる、と言って、その愛を追い求めるように勧めました。主は人間に対して非常に親切で、私たちが完全に主のもとへ回心し、反対するものすべてから解放されることを憐れみながら待っておられます。私たちは、無知と幼稚さと悪への性向のために、人生から背を向け、悔い改めることを本当に好まず、自分の道に多くの障害を置いていますが、それでも主は私たちを憐れんでくださり、私たちが悔い改めて主のもとに来て、内なる人が啓発され、審判の日に私たちの顔が恥じることがないようにするまで、長い間苦しんでくださるのです。 17. 徳を積むのが難しく、敵対者の陰険な計略のせいで、それが私たちにとって難しいように思えるとしても、見よ、神は憐れみ深く、忍耐強く、私たちの改心を待っておられる。私たちが罪を犯すと、神は私たちの悔い改めを期待して手を握ってくださり、私たちが倒れると、預言者が言うように、神は私たちを引き戻すことを恥じません。「倒れたら起き上がらないだろうか。背を向けたら戻ってこないだろうか。」ただ、私たちは目を覚まして、善意を確かめ、まっすぐに正しく改心し、神の助けを求めましょう。そうすれば、神はいつでも私たちを救ってくださっています。神は、私たちが全力を尽くして熱烈な衝動で神に立ち返る意志と、善い目的から湧き出る信仰と熱意を求めておられます。努力の成功はすべて、私たちの中での神自身の働きによるものです。愛する皆さん、それでは神の子として、すべての関心事、不注意、怠惰を捨てて、勇気を持って神に従う用意をするよう努めましょう。罪がいかに私たちを傷つけているかに気づかずに、一日一日を延ばさないようにしましょう。私たちはいつ肉から離れるべきか知りません。キリスト信徒に与えられた約束は偉大で言葉に尽くせないほど偉大であるため、天と地のすべての栄光と美しさ、その他のすべての装飾と変化、目に見えるものの富と美しさと喜びは、一人の魂の信仰と富とは比べものにならないほどです。 18. それでは、どうして私たちは、主のそのような説得と約束を心から受け入れること、そして福音書が言うように、他のすべてのもの、そして私たち自身の魂をも否定し、主だけを愛し、主以外の何ものも愛さないことを拒むことができるでしょうか。しかし、これらすべてのこと、与えられた偉大な栄光、族長や預言者の時代からの主のすべての摂理にもかかわらず、何という偉大な約束がなされ、何という説得が示され、主が初めから私たちに何という慈悲を示したことでしょう。そして最後に、主はご自身のこの世での滞在において、私たちを改心させ、生き返らせるために、十字架刑によって私たちに対する言い表せないほどの親切を示されたのです。私たちは、自分の意志、世への愛、悪い性向や習慣を手放すつもりはありません。このように、私たちは信仰の薄い人、あるいは全く信仰のない人であることを示しています。それでも、神は慈しみ続け、目に見えない形で私たちを守り、慈しみ、私たちの罪悪に応じて私たちを永遠に罪の力に引き渡すことも、この世の欺瞞によって滅ぼすこともせず、その大きな慈しみと忍耐力で、私たちが神に立ち返る瞬間をじっと見守っておられるのです。 19. いつの日か、私たちが軽蔑的な考えに固執し、自分の性向に従い続けるうちに、使徒の言葉が私たちの中で成就するのではないかと私は恐れています。「あるいは、神の慈悲があなたを悔い改めに導くことを知らずに、神の慈悲と寛容と忍耐の豊かさを軽蔑しているのですか。しかし、この寛容と慈悲と寛容に報いず、さらに罪を重ね、不注意と軽蔑によってさらに大きな裁きを自分に招くなら、次の言葉が成就するでしょう。「しかし、あなたの頑固で悔い改めない心は、怒りの日と神の正しい裁きの啓示に対して、怒りを蓄えているのです。」神は人類に関して偉大で言い表せないほどの善良さと、表現できないほどの忍耐を用いてくださいました。私たちが自分自身を取り戻し、完全に神に改心するよう努めさえすれば、私たちは救いを見出すことができるでしょう。 20. 神の寛容と偉大な慈愛を知りたいなら、霊感を受けた聖文から学ぼう。イスラエルを見よ。彼らの父祖たちは彼らにあり、約束は彼らに向けられ、キリストは肉においては彼らのものであり、礼拝と契約は彼らに関係していた。彼らはどれほど罪を犯し、どれほどしばしば道からそれたか。それでも神は彼らを完全に放っておかず、彼らの利益のために、時々彼らを懲罰に委ね、苦難を通して彼らの心の頑固さを和らげようと望まれた。神は彼らを改心させ、励まし、預言者を彼らのもとに遣わされた。彼らはどれほど何度も罪を犯し、神を怒らせたか。それでも神は彼らに対して寛容であり、改心したときは、喜んで彼らを受け入れ、再び道から外れたときは、彼らを見捨てず、預言者を通して改心へと呼び戻された。そして、彼らが何度も背を向けては戻って来た時、主は優しく彼らを堪え忍び、親切に迎え入れ、ついには、聖なる父祖や預言者たちの言い伝えが、彼らの救世主、救い主、王、預言者として期待するように教えていた彼ら自身の主に手を置いた時、彼らはすべての中で最大の罪を犯しているのに気付いた。主が来られた時、彼らは主を歓迎せず、逆に、主を侮辱に次ぐ侮辱を与えた後、ついには死の十字架で罰した。そして、この大きな違反、この並外れた違反において、彼らの罪は計り知れないほどに増え、満たされた。そして、神殿の幕が裂けたとき、聖霊はそこから去り、彼らは永久に放置された。そして、主の告発に従って、彼らの神殿は異教徒に引き渡され、破壊され、荒廃した。「ここには、倒されない石は一つも残らないであろう。」こうして彼らは最終的に異教徒に引き渡され、王たちによって全地に散らされ、捕虜にされ、二度と元の場所に戻ることを禁じられた。 21. このように、今も、神は私たち一人一人に対して、親切で善良な神のように、忍耐強く、それぞれが罪を犯すのを見て、黙って、その人が立ち直って罪を犯さなくなるまで待ち、改心した罪人を大きな愛と喜びで迎え入れます。それが、神が言われることです。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、喜びがある。」また、「これらの最も小さい者のうちのひとりが滅びることは、わたしの父の御心ではない。」しかし、もし人が、神のこの偉大な慈悲と寛容のもとで、秘密であろうと公然とであろうと、犯されるすべての罪に対して報復しようとはせず、罪人が悔い改めるのを待つものとして神の平静を見つめ、保つならば、つまり、もし人が罪に罪を加え、怠惰に怠惰を加え、罪に罪を重ねるほどに軽蔑するならば、その人は自分の罪の限界に達し、最後には二度とそこから立ち上がることができないほどの罪を犯し、粉々に打ち砕かれ、悪魔に引き渡されて完全に滅びることになる。 22. ソドムの場合も同様でした。何度も罪を犯し、改心することなく、ついには邪悪な計画で天使たちを怒らせ、天使たちに対して犯罪的な暴行を行おうとしたため、天使たちはもはや悔い改めることができず、ついには拒絶されました。彼らは罪の限度に達し、それを超過したため、神の復讐によって火で焼き尽くされました。ノアの時代も同様でした。彼らは悔い改めることなく何度も罪を犯し、非常に大きな罪を犯したため、地球全体が完全に腐敗しました。エジプト人の場合も同様でした。彼らは何度も罪を犯し、神の民に対して罪を犯しましたが、神は慈悲深く、彼らを完全に滅ぼすような災いを彼らに下すことはしませんでした。しかし、彼らの懲罰と改心と悔い改めのために、神はそれらの小さな災いの鞭を彼らに下し、長い間彼らに耐え、彼らが悔い改めるのを待ちました。しかし、彼らは神の民に対して罪を犯し、それを思い直し、その後、再び考えを変え、邪悪な意図に対する最初の不信仰に固執し、神の民を圧迫し、ついに、神がモーセを通して多くの奇跡をもって民をエジプトから連れ出した時、彼らは神の民を追跡するという大きな罪を犯しました。そのため、神の復讐は彼らを完全に滅ぼし、消滅させ、彼らを水の中に押し流し、この目に見える存在にさえ値しないと判断しました。 23. 同じように、前にも述べたように、イスラエルはしばしば罪を犯し、神の預言者を殺し、その他多くの邪悪なことをしましたが、神は黙って彼らが悔い改めるのを辛抱強く待っていましたが、結局、彼らは罪を犯し、二度と立ち上がれないほど打ちのめされました。彼らは主自身の尊厳に自らの手を置きました。このため、彼らは完全に見捨てられ、拒絶されました。預言、祭司職、奉仕は彼らから取り上げられ、信仰を持つ異邦人に与えられました。主がこう言われているとおりです。「王国はあなたたちから取り上げられ、その実を結ぶ国民に与えられる。」それまで、神は彼らを忍耐し、彼らを憐れんで彼らを見捨てませんでした。しかし、彼らが罪の限界に達し、それを越え、主の尊厳に手を置いたとき、彼らは完全に神から見捨てられました。 24. 愛する皆さん、私たちはこれらのことを長々と論じ、聖書の考えから、私たちは速やかに改心し、主のもとに急ぐべきであることを証明しました。主は、その慈悲によって、私たちがすべての邪悪と悪い性向から完全に離れるのを待っておられ、改心をした私たちを大いに喜んで迎え入れてくださり、私たちの軽蔑が日々増し加わったり、罪が私たちに加わったり、増えたりして、私たちが神の怒りを自ら招いたりしないようにしてくださるのです。救いを絶望することなく、真に改心した心で主のもとに来るよう、真剣に努めましょう。なぜなら、罪の記憶が人を絶望、怠惰、無謀、怠慢に導くほどにとらわれ、主の偉大な慈悲が人類全体にあるときに、改心して主のもとに来て救いを見いだすことができないのは、それ自体が間違ったことであり、不義だからです。 25. わたしたちが多くの罪にとりつかれているために、それらの罪から改心することが困難で不可能に思えるなら、それはわたしが言ったように、邪悪の策略であり、わたしたちの救いの妨げとなる考えですが、わたしたちの主が、その慈悲の心でここに滞在されたとき、盲人の視力を回復させ、麻痺した人を癒し、あらゆる種類の病気を治し、すでに腐敗し崩壊していた死者を蘇らせ、耳の聞こえない人に聴力を取り戻させ、一人の男から多数の悪魔を追い出し、狂気に陥っていた彼を正気に戻したことを、思い出し、考えましょう。まして、慈悲を求め、助けを求めて神のもとに戻る魂を神はどれほど改心させ、激情から幸福に解放し、あらゆる美徳の安定した状態と精神の再生に導き、盲目と聴覚の喪失と不信仰と無知と無関心の無知と無関心から健康と精神的な視力と平和の考えに変え、美徳の冷静さと心の純粋さに導いてくださるのではないでしょうか。肉体を創造した神は、魂も創造されました。そして、地上にいたとき、人々が助けと癒しを求めて神のもとに来たとき、神は彼らの必要に応じて惜しみなく親切に与えたように、唯一の真の医者である良い医者のように、霊的な事柄についても同様です。 26. もし主が、溶解し再び死ぬべき肉体に対してそのような憐れみを抱き、各希望者に対して熱心な親切をもってその求めることをなさったのであれば、まして、不滅で、朽ちることなく、腐敗しない魂が、無知、邪悪、不信仰、無関心、その他すべての罪の病に苦しみながらも、主のもとに来て助けを求め、その憐れみに目を留め、すべての邪悪とすべての情熱からの解放と救済と除去のために聖霊の恵みを受けることを望むなら、主はもっと速やかに、もっと容易に癒しの解放を与えてくださらないはずがあろうか。主は自らこう言われる。「まして、あなたがたの天の父は、昼も夜も主に呼び求める者には、どんなにかして復讐されないことがあるだろうか。」そして、こう付け加えておられる。「まことに、あなたがたに言います。神は速やかに復讐されるであろう。」また別の箇所では、「求めなさい。そうすれば、与えられるであろう。すべて求める者は受け、捜す者は見いだし、門をたたく者にはあけてもらえるからである」と勧めています。そして終わりに、「なおさら、天の父は求める者に聖霊を下さらないことがあろう」と付け加えています。よく言っておくが、たとえ友だからという理由では立ち上がって与えないとしても、しつこく頼むので、立ち上がって必要なものを与えるであろう。 27. ですから、これらすべての節で、イエスはしつこく、絶え間なく、弱気になることなく、私たちに、彼の恵みの助けを求めるように勧めておられます。イエスが来たのは、罪人たちのためであり、彼らを改心させ、彼を信じる者たちを癒すためでした。ただ、私たちは、できる限り邪悪な関心事から離れ、悪事やこの世の欺瞞を憎み、邪悪でむなしい考えに背を向け、全力でイエスに固執しましょう。そうすれば、イエスは喜んで助けを与えてくださいます。この目的のために、イエスは慈悲深く、活気づけ、不治の病を癒し、イエスを呼び求め、イエスに頼る者たちを救い、意志と意図においてできる限り世俗的な愛情から離れ、心を地上から引き離し、求めと切望をもって心をイエスに固く留める者たちを救い出してくださいます。そのような魂に、神の助けが与えられます。それは、他のすべてのものを不必要と考え、この世の何物にも頼らず、神の慈愛の安らぎに安らぎと喜びを見出そうとする魂です。こうして、そのような信仰を通して天からの賜物を得、恵みを通して完全な確信をもってその望みを満足させ、それ以降は聖霊に快く一貫して仕え、日々善いことに進み、正義の道を歩み続けます。そして、最後まで悪の側に屈することなく従わず、何事にも悲しむことなく耐え忍んだ魂は、彼らの仲間であり同志であるかのように、彼らに倣ってこの世で生きたのだから、すべての聖徒たちとともに永遠の救いを与えられるのです。アーメン。 :::[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教4#説教4|トップに戻る]] {{DEFAULTSORT:えしふとのまかりおす50のれいてきせつきよう 04}} [[Category:1921年]] [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:マカリオス]] [[Category:エジプトのマカリオス50の霊的説教|04]] {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A.J. Mason, "Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 4" を翻訳。 --> rgs7ltzm498ybegy8cwaaeaw34zheui エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教5 0 51517 243188 237068 2026-06-15T08:08:48Z 村田ラジオ 14210 カテゴリを加筆。ヘッダー:作者。 243188 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = エジプトのマカリオス50の霊的説教 | section = 説教5 | year = 1921 | 年 = | previous = [[../説教4|説教4]] | next = [[../説教6|説教6]] | override_author = [[w:en:Macarius of Egypt|エジプトのマカリオス]] | override_translator = [[s:en:Author:Arthur James Mason|アーサー・ジェームズ・メイソン]] | noauthor = | notes = *底本: A. J. Mason, [[s:en:Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 5|Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 5]] *ウィキソースによる日本語訳 }} エジプトのマカリオス50の霊的説教 ———————————— ==説教5== << キリスト教徒とこの世の人々の間には大きな違いがある。この世の精神を持つ人々は心と精神において地上の束縛に縛られているが、他の人々は天の父の愛を切望し、ただ目の前に父を待ち望んでいる。>> 1. キリスト教徒の世界は一つのものであり、彼らの生き方、思い、言葉、行動は一つである。そしてこの世の人々の生き方、思い、言葉、行動は別のものである。これらは一つのものであり、これらとそれらは別のものであり、両者の間には大きな違いがある。地上の住民、この世の子供たちは、この世の{{r|篩|ふるい}}にかけられた穀物のようであり、この世の落ち着きのない思い、そして地上の営みや欲望、そして絡み合った物質的観念の絶え間ない揺さぶりによって{{r|篩|ふるい}}にかけられている。一方、<u>サタン</u>は彼らの魂を振り回し、<u>アダム</u>が戒めを破って堕落し、邪悪の君主の支配下に入って以来、罪深い人類全体を地上の営みの{{r|篩|ふるい}}でふるいにかけ続けている。この権力を得たときから、彼はこの世のすべての息子たちを欺瞞と動揺の思いでふるいにかけ、地のふるいにかけて打ち砕くことしかしていません。 2. {{r|篩|ふるい}}の中の穀物がふるいにかける人によって叩かれ、絶えず揺すられ、回転するように、悪の君主は地上の事柄によってすべての人々を捕らえ、揺さぶり、かき乱し、投げ飛ばし、むなしい考え、卑劣な欲望、そしてこの世の地上の絆に突き落とし、罪深い<u>アダム</u>の子孫すべてを絶えず捕らえ、かき乱し、誘惑します。主が使徒たちに、邪悪な者が彼らに立ち向かうであろうことを予告されたように、「<u>サタン</u>はあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願っている。しかし、わたしはあなたがたの信仰がなくならないように、父に祈った。」創造主が<u>カイン</u>に語った言葉、つまり外的な意味をもって彼に下された判決、「あなたは地上でうめき、震え、投げ飛ばされるであろう」という言葉は、すべての罪人が密かに経験するであろうことの典型であり、似姿です。戒律から外れ、罪深い状態に入った後、<u>アダム</u>の子孫はひそかにその類似性を獲得し、恐れと恐怖とあらゆる種類の騒動の移り変わる考えに翻弄されています。この世の君主は、神によって生み出されたものでない限り、すべての魂をあらゆる種類の快楽と欲望の波に乗せ続けます。穀物がふるいの中で絶えず回転するように、君主は人々の考えをさまざまな方向に揺さぶり続け、世俗的な欲望と肉の快楽と恐れと騒動によって彼らを揺さぶり、誘惑するんです。 3. 主は、悪者の欺瞞と欲望に従う者たちが<u>カイン</u>の邪悪さに似ていることを示されました。主は彼らを叱責してこう言われました。「あなたたちは父の欲を満たすであろう。父は初めから人殺しであり、真理にとどまらなかった。」こうして、罪深い<u>アダム</u>の子孫全体がひそかにその断罪を受けました。「あなたたちはうめき、震え、地のふるいにかけられ、<u>サタン</u>にふるいにかけられるであろう。」一人の<u>アダム</u>から人類全体が地上に広がったように、一つの邪悪な情熱が罪深い人類の中に入り込み、悪の君主は移り気で物質的で、むなしく、煩わしい思いで彼らすべてをふるいにかけるのに十分です。一つの風がすべての植物や種子を揺さぶり、かき乱すのに十分であるように、あるいは夜の一つの暗闇が人の住む全地に広がるように、罪と死の霊的な暗闇であり、荒々しくも隠れた風である邪悪の君主は、地球上のすべての人類を動揺させ、彼らを落ち着かない考えで連れ回し、世の欲望で人々の心を誘惑し、上から生み出され、性質と精神において別の世界に移された人々を除いて、すべての魂を無知、盲目、忘却の暗闇で満たします。「しかし、私たちの国籍は天国にあります」と言われているとおりです。 4. これが真のキリスト教徒と他の人類との違いであり、前述のように両者の間には大きな隔たりがあります。キリスト教徒の精神と思考は常に天の枠組みの中にあります。彼らは聖霊にあずかり、聖霊を宿していること、上から神によって生まれ、真理と効力において神の子となる特権を得ていること、そして長年にわたる多くの葛藤と労苦を経て、もはや不安や空虚な思いに振り回され、揺さぶられることのない、揺るぎない安息の境地に到達していることによって、鏡のように永遠の善を見つめます。このことによって彼らは世よりも偉大で善良です。なぜなら、彼らの精神と魂の枠組みはキリストの平安と聖霊の愛の中にあるからです。主は、彼らが死から命に移ったと言われた時、まさにそのような人々について語られました。キリスト教徒を区別する特徴は、形や外見にあるのではありません。ほとんどの人は、自分たちを世間から区別する違いは形や外見にあると考えています。しかし、見よ、彼らは心と体においては世間と全く同じであり、他のすべての人々と同じように、動揺し、思考が不安定になり、不信仰になり、混乱し、混乱しています。外見上の形や容姿は世間と異なり、宗教的儀式のいくつかの点でも異なりますが、心と精神においては地上の束縛に縛られており、神からの安息も、心に天の"霊"の平安も得ることができません。なぜなら、彼らは神にそれらを求めず、神がそれらを与えてくださると信じなかったからです。 5. なぜなら、キリスト教徒の新しい創造は、心の更新、思考の平安、そして主への愛と天上の情熱において、彼らを世のすべての人々から区別するからです。主が来られたのは、真に主を信じる人々にこれらの霊的な祝福を与えるためでした。キリスト教徒は、言葉では言い表せないほどの栄光と美しさ、そして天上の富を持っています。それは、苦難と汗と試練と多くの闘いを通して、そしてすべて神の恵みによって勝ち取られるのです。地上の王を見ることはすべての人々の憧れであり、首都に滞在する者は皆、その美しさ、その豪華な衣装、その紫色の輝き、その様々な真珠の美しさ、その王冠の美しさ、その王に付き従う威厳ある随行員たちを一目でも見たいと願う。しかし、霊的な人々は、こうしたことすべてについて何も考えない。なぜなら、彼らは天上の、肉体を離れた別の栄光を経験し、言葉では言い表せない別の美しさに心を奪われ、別の富に興味を持ち、内なる人を感じ、別の霊にあずかっているからである。一方、この世の霊を持つこの世の人々は、地上の王の美しさと栄光のすべてを、少なくとも一目見たいと強く願う。なぜなら、王の目に見える利点が他の人々よりも優れている分だけ、王を一目見るということ自体が彼らにとって特別なことであり、憧れの的だからである。そして、各人は心の中で「誰かが私にその栄光と美しさと壮麗さを与えてくれることを願います」と言い、その人に幸福を帰します。その人は自分と同じように地上にいて、同じような情熱を持ち、死に支配されていますが、その一時的な美しさと栄光への欲望の対象です。 6. もし肉欲的な人間がこのように地上の王の栄光を欲するならば、神の命の霊の露を心に浴び、天の王キリストに対する神聖な情熱で心を打たれた人々は、どれほどその美しさ、言い表せない栄光、不滅の美しさ、想像を絶する富、真の永遠の王であるキリストにしっかりと結び付けられ、欲望と憧れで捕らわれ、全身全霊でキリストに向かい、聖霊によって鏡に見る、言い表せない祝福を得たいと願うのです。彼らはキリストのために、地上の王や君主の美しさ、美しさ、栄光、名誉、富をすべて気に留めません。なぜなら、彼らは神聖な美しさに打たれ、天の不滅の命が彼らの魂に滴り落ちているからです。それゆえ、彼らの切なる願いは天の王への愛であり、彼らはただ主を目の前にして大いなる望みを抱き、主のためにあらゆる世俗的な愛情から離れ、あらゆる地上の束縛から身を引く。そうすることで、常に心の中にその唯一の切なる願いを抱き、他の何物も混ぜないようにするためである。 しかしながら、良い始まりに良い終わりを添え、神のみへの唯一の愛のみを抱き、他のすべてから切り離されたまま、堕落することなく最後までやり遂げる人はごくわずかである。多くの人が心を刺され、天の恵みにあずかり、神の情熱に打たれる。しかし、その道中で耐えなければならない葛藤や闘争、労苦、そして悪魔の様々な誘惑のために、彼らは持ちこたえることはできず、むしろ様々な世俗的な欲望にとらわれてしまいます。なぜなら、誰もが自分が愛することを選び、その愛情を完全に切り離していないため、自らの意志の弱さ、怠惰、臆病さ、あるいは何らかの世俗的な愛情によって、途中で立ち止まり、世の深みに突き落とされてしまうからです。真に善良な生活で最後までやり遂げたいと願う者は、霊的な事柄から妨げられ、背を向け、ついには人生から追放されることを恐れて、他のいかなる愛や愛情も進んで受け入れたり、天の愛や愛情と混ぜ合わせたりしてはならないからです。神によってなされた約束は偉大で、言葉では言い表せないほど、計り知れないものであり、それに比例して、大いなる信仰と希望と労苦と葛藤、そして多くの試練が求められるのです。天の御国を求める者が望む祝福は、決して取るに足らないものではありません。あなたはキリストと共に永遠に統治することを望みます。この短い生涯、死に至るまでの葛藤や労苦、誘惑を喜んで受け入れるのではないでしょうか。主はこう叫んでおられます。「わたしについて来たいと思う者は、自分を捨て、日々喜びながら自分の十字架を負い、わたしに従いなさい。」また、「父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも憎まない者は、わたしの弟子となることはできない。」しかし、ほとんどの人は御国に到達したいと願い、永遠の命を受け継ぎたいと願っていますが、自分の意志に従って生き、それに従うことを拒みません。彼らは自分を否定することなく、永遠の命を受け継ぐことを望んでいますが、それは不可能なことです。 主の言葉は真実です。倒れることなく生き延びる人々とは、主の戒めに従って自分自身を完全に否定し、この世のあらゆる欲望、束縛、興奮、快楽、営みを忌み嫌い、常に主を念頭に置き、主の戒めを守り行おうと願う人々です。そのため、各人は自らの意志で王国からさえも背を向け、それを決して望んだり、この世の快楽や欲望に満足して、その愛に匹敵するものを愛することを望んだりはしません。むしろ、自分の意志と選択の限りを尽くして、主に全き愛を捧げるのです。 一つの例を挙げれば、私の言いたいことがすべてわかるでしょう。人は時折、他人を裁きます。自分のしようとしていることが間違っていると分かっていても、それを愛し、否定しないため、彼はそれに打ち負かされてしまいます。まず、内面的に、心の中では、争いと葛藤が起こり、秤にかけられ、バランスが取られます。神への愛と世への愛が天秤にかけられています。そして、その人は前に出て、兄弟を裁き、時には殴り合いや殴打にまで至ります。心の中では、「話させてくれ。言わせてくれ。いや、言わないでおこう」と言います。なぜなら、神を思い起こしながらも、彼は自分の栄光を手に入れようと努め、自分を否定しないからです。しかし、もし世への愛が一瞬でも他の愛を上回り、心の天秤を傾けたなら、たちまち悪口が口から出てしまうのです。すると、内側から、まるでミサイルを狙う者のように、舌を用いて隣人を撃ち、みだらな言葉を思いのままに浴びせ、自らの栄光を得たいという欲望に駆られます。そして、みだらな言葉によるこの撃ち合いは延々と続き、ついには罪は他の肢体にも広がり、時には殴打や傷、体と肢体とが互いにぶつかり合うことになり、時には悪い欲望が死や殺人にまで発展するのです。世俗的な栄光への愛が、心の{{r|秤|はかり}}を利己心へと傾けた時、その起源と結末を考察してください。人は自己を否定しようとせず、世俗的な物事に執着し、その結果、あらゆる悪行が生まれたのです。 どうか、あらゆる罪とあらゆる不道徳な行いについて、このように考えてください。それらは悪の策略から生じ、心の意志を世俗的な欲望と肉の欺瞞と快楽へと支配するのです。このようにして、あらゆる悪行、姦淫や盗み、貪欲や酩酊、金銭への愛や虚栄心、嫉妬や自己主張など、あなたが挙げることができるあらゆる悪い習慣が生じるのです。時には、善と見える行為が人々の栄光や称賛のために行われることもあります。そして神においては、これらは不正や盗み、その他の罪と同等とされます。神は、「人に媚びへつらおうとする者の骨を散らした」と言われています。このように、悪魔は善と見えるものに仕えられたいのです。悪魔は世の欲望の中で多才で狡猾です。人はその自然な意志によって縛られる、ある種の地上的、肉欲的な愛情によって、罪は人を誘惑し、ついには足かせ、鎖、重荷となって悪の世界に沈み込み、窒息させ、水面に浮かび上がって神のもとに辿り着くことを許さないのです。人がこの世で愛したものは、何であれ、その人の心を重くし、抑えつけ、浮かび上がらせない。 悪の天秤に偏ったこの天秤に、キリスト教徒も含め、すべての人類は、都市に住もうが、山に住もうが、修道院に住もうが、野に住もうが、砂漠に住もうが、すべて吊るされ、試される。なぜなら、人間の自然な意志は、人を何かに愛着を抱かせるように仕向けるからだ。そして、その愛着はどこかに結びついており、完全に神に向けられているわけではない。ある人は財産に愛着を抱き、ある人は金銀に愛着を抱き、ある人は人からの栄光を求めて世の雄弁の知恵に愛着を抱く。ある人は権力を愛し、ある人は人々の間の栄光と名誉を愛し、ある人は憤りと怒りに身を委ねる。なぜなら、それにすぐに屈することは、それを愛することだからである。ある人は時宜にかなわない会話を愛し、ある人は嫉妬を愛し、ある人は一日中遊興にふけり、ある人は空想にふけり、ある人は無益な考えに惑わされる。ある者は人々の栄光のために律法の教師となることを好み、ある者は怠惰と無頓着さを喜びとし、ある者は服装に没頭し、ある者は世俗的な心配事に身を委ね、ある者は眠りと冗談と下品な話を好む。人を縛るものが世の些細なことであれ、大きなことであれ、人はそれに縛られ、立ち上がることができない。人が勇敢に戦わない情熱は、どんなものであれ、その人の愛情の対象となり、その人を捕らえ、圧迫し、その人にとって障害となり、足かせとなる。そして、その人の心が神に昇って神を喜ばせること、神のみに仕えて神の御前にふさわしくあり、永遠の命を得ることを妨げてしまうのである。 真に主に向かう魂は、その愛情を完全に主に委ね、意志と意図において、その全力を尽くして主のみに結び付けます。そして、その方面から恵みの助けを得て、自らを否定し、自らの心の欲望に従うことを拒みます。なぜなら、心は私たちの中に存在し、私たちを誘惑する悪を通して、私たちを欺くからです。魂は主の言葉に完全に身を委ね、意志の力で可能な限り、あらゆる外的な束縛から自らを切り離し、完全に主に身を捧げます。こうして、苦悩や困難を難なく切り抜けることができるようになります。愛情が関わるところに、その方面から助けや妨害がもたらされます。人がこの世の何かを愛するなら、それは彼にとって重荷となり、彼を下方に引きずり下ろす束縛となり、彼を上方、神へと向かわせません。主とその戒めを愛するなら、そこから助けが与えられ、そこから彼は支えられ、主の教えはすべて彼にとって容易なものとなる。なぜなら、主への愛は彼を完全に救うからである。そして、その愛は彼の秤を善へと向かわせ、むしろ彼を支え、あらゆる戦いと苦難を軽くする。そして神の力によって、世と、この世で魂に罠を仕掛け、あらゆる欲望を用いて魂を世の深淵に縛り付ける悪の力を切り裂く。このようにして、人は自身の信仰と深い熱意、そして上から来る助けによって、それらの束縛から解き放たれ、愛を注いだ永遠の王国にふさわしい者とみなされる。そして、自らの意志をもってその王国を真に愛し、主の助けを受けたならば、永遠の命を失うことはない。 いかに多くの人が自らの意志によって破滅し、海に溺れ、囚われの身となるかを分かりやすく示すために、家が燃えているところを想像してみてほしい。一人の男が火事に気づくと、助かることを願い、すべてを運命に任せ、自分の命が助かることだけを気にしながら、裸で逃げ出す。もう一人は、家具やその他の持ち物を持ち出そうとして、家の中に入り、それを取りに行く。そして、まさにそれを持ち出した瞬間、火は家を焼き尽くし、男は中に巻き込まれて焼死する。自分の意志で何か現世的な物に執着すると、火の中で死んでしまうのが分かるだろう。あるいは、海上で、人々が荒波に巻き込まれ、難破する。ある人は裸になり、自分の命が助かることだけを気にしながら、海の深みへと飛び込む。そして、波に揉まれながらも、身にまとうものが何もないので、波の上に浮上し、苦い海を何とか切り抜け、自らの命を救います。別の男は、衣服を少しでも残しておこうと、潜って持ち物もろとも切り抜けられると妄想しますが、手に入れた物自体が彼を重くのしかかり、海の深みに沈んでしまいます。わずかな利益のために、彼は自らの命を守ることもできず、自らを失います。彼の個人的な意志がいかにして彼の死を招くか、お分かりでしょう。あるいは、蛮族の襲来の噂が広まったとしましょう。ある男は、それを耳にするや否や、時間を無駄にすることなく逃げ出し、裸の姿だけを残して逃げ去ります。敵が来ることを信じなかったり、所有物の一部に執着して持ち去ろうとしたりして、なかなか逃げられない人もいれば、敵に捕らえられ、敵国に連行され、そこで奴隷にされてしまう人もいます。あなたは、その人の個人的な意志が、怠惰、活力のなさ、そして何かへの執着の原因となり、それによって捕らわれの身となってしまうのが分かるでしょう。同じように、主の戒めに従わず、自らを否定して主だけに愛情を向けようとせず、地上の束縛に縛られることを選ぶ人たちも、永遠の火が来るとき、世の愛に縛られ、燃え尽き、悪の苦い海に沈み、悪の霊である残忍な捕虜たちに捕らわれ、失われてしまうでしょう。 主への完全な愛がどれほどまっすぐに進むかを、聖なる霊感による聖典から学びたいとお思いなら、<u>ヨブ</u>を見てください。<u>ヨブ</u>は、子供、財産、家畜、召使いなど、いわば自分の所有物のすべてを手放し、それらをすべて脱ぎ捨てて逃げ出し、自らを救い、自分の衣服さえも手放して<u>サタン</u>に引き渡しました。言葉でも心でも決して神を冒涜せず、主の前で口から何かを発することもありませんでした。それどころか、主を祝福して言いました。「主は与え、主は取られた。主の良しと見られるように、主は行われた。主の御名はほめたたえられますように。」<u>ヨブ</u>は多くの財産を持っていると評判でしたが、主から受けた試練は、彼が神以外に何も持っていないことをはっきりと示しました。同様に、<u>アブラハム</u>は主から祖国、親族、そして父の家を離れるよう命じられた時、直ちにいわばすべてを捨て去り、祖国、親族、両親といったものを捨て去り、主の言葉に従いました。その間、数々の試練と誘惑に遭い、妻を奪われ、異国の地で暮らし、不当な扱いを受けましたが、これらすべてを通して、彼は何よりも神を愛することを証明されました。ついに、約束によって何年もの歳月を経て、切望していた息子を授かった時、彼は自らの手でこの息子を犠牲に捧げるよう求められました。彼は喜んで身を捨て、自らを否定し、独り子を犠牲にすることで、神以外に愛するものは何もないことを証明しました。もし彼が息子を喜んで手放したのであれば、ましてや他のすべての財産を手放し、あるいは一度に貧しい人々に分配するよう命じられたなら、どれほど喜んで、そして即座にそうしたことでしょう。 主への心からの、そして完全な愛の真っ直ぐな性質を、あなたは見ています。そして、これらの人々の共同相続人となることを望む者は、神以外に何も愛してはなりません。そうすれば、試練が訪れたとき、主への愛を損なうことなく、役に立つ誠実な者と認められるでしょう。常に心から神だけを愛し、世への愛から自分を解き放った人々は、最後まで闘いを耐え抜くことができます。しかし、このような愛を選び、世のあらゆる快楽と欲望を捨て、悪魔の攻撃と誘惑に忍耐強く耐える人は、ごくわずかです。川を渡るときに多くの人が水に呑み込まれるのであれば、多様な欲望と邪悪な霊の様々な誘惑を伴う世の激しい流れを渡る人もいるのではないでしょうか。海では多くの船が波に飲み込まれて沈みますが、波間を渡り、航海して平和の港にたどり着く船もあるのではないでしょうか。それゆえ、多くの信仰、忍耐、闘争、忍耐、労苦、善への飢え渇き、熱意、執拗さ、思慮深さ、そして理解が常に必要です。なぜなら、ほとんどの人は苦労も苦労も汗水垂らすこともなく王国を得たいと願うからです。しかし、それは不可能なことです。 世の中では、人々は自分たちの生存に必要なものを得るために、収穫やその他の仕事のために金持ちのところへ行くが、彼らの中には怠惰で怠け者で、本来すべきことをせず、一生懸命働かない者もいる。そして、金持ちの家のために少しも苦労も努力もしていないこれらの者は、あたかも自分たちもその仕事をしたかのように、全力を尽くして勇敢に精力的に働いた人々と同等の報酬を望んだのである。ですから、聖書の中で、ある義人がどのように神を喜ばせたか、その人がどのようにして神の友、仲間となったか、すべての先祖がどのようにして神の友、相続人となったか、彼らがどのような苦難に耐えたか、神のためにどれほど苦しんだか、どのように人間らしく振る舞い、闘ったかを読むとき、私たちは彼らを幸いな人と呼び、彼らと同等の賜物や名誉を得たいと願い、彼らの心痛や苦労、心労や苦しみを見ることもなく、彼らが神から得ているような名誉や名誉を受けたいと熱心に願いますが、彼らの労苦や痛みや苦労は受け入れようとしません。しかし、私はあなた方に言います。すべての人がこれを欲しがり、求めます。遊女、取税人、不義の者、すべての人々も、労苦も努力もせずに、容易に王国を得ようとするのです。しかし、だからこそ、道には誘惑が待ち受けているのです。多くの試練や苦難、闘争、そして骨の折れる労働は、真に主だけを、意志のすべてを尽くし、力を尽くして、死に至るまでも愛し、主への愛のほかに何一つ望ましいものを抱かなかった者を、証明するためのものなのです。それゆえ、主の言葉に従って自分を否定し、主だけを自分の息よりも愛した者は、当然に天の御国に入るのです。そして、彼らの無上の愛は、天からの無上の賜物で報われるでしょう。それらの苦難と苦しみ、そして忍耐と信仰の内に、約束と栄光と天の良きものの回復が隠されているのです。それは、種を地に蒔いたとき、あるいは木に接ぎ木を挿して、下劣な腐った物質を塗りつけたとき、実がなるようなものです。こうして彼らは、彼らを包む麗しさと栄光と豊かな実を、内に秘めていることが証明されたのです。使徒が言うように、「多くの苦難を経て、私たちは天の御国に入ることができるのです。そして主は、『忍耐によってあなたがたの魂は保たれる』と言われています。また、『あなたがたはこの世にあっては苦難に遭うでしょう』とも言われています。地上の欲望の罠、快楽の罠、この世の落とし穴を通り抜け、悪霊の攻撃から逃れるためには、そして聖徒たちが信仰と愛の警戒と機敏さによって、まさにこの地上において、天の宝、すなわち"霊"の力を魂の中に得たことをよく知るためには、苦心と勤勉と用心深さと深い注意深さ、そして主への熱意と熱心に熱心な祈りが必要です。それは御国の保証です。」祝福された使徒<u>パウロ</u>は、聖霊の恵みという天の宝について論じ、その苦難の甚大さを宣言し、同時に私たち各人がこの人生で何を達成しようと努めるべきかを示して、こう言っています。「この幕屋という地上の家が崩れても、私たちは神の建物、人の手によらない、天にある永遠の家を持つことを知っています。ですから、私たちは皆、あらゆる徳によって努力し、この家、この世にあってもその家を手に入れると信じるべきです。なぜなら、もし私たちの肉体の家が崩れれば、魂の移るべき家は他にないからです。もし、着物を着ていれば、私たちは裸の姿ではなくなる、と書いてあります。つまり、聖霊との交わりと融合において裸の姿ではなくなるということです。聖霊との交わりと融合においてのみ、忠実な魂は安らぎを見出すことができるのです。」このような理由から、真実と効力においてキリスト教徒である者は、肉を離れることを確信し、喜びます。なぜなら、彼らには人の手によらないで造られた家があり、その家とは、彼らの内に宿る"霊"の力だからです。それゆえ、たとえ体の家が崩れても、彼らは恐れることはありません。なぜなら、彼らには"霊"の天の家と、朽ちることのない栄光があり、その栄光は復活の日に体の家をも建て上げ、栄光を輝かせるからです。使徒<u>パウロ</u>が言っているとおりです。「<u>キリスト</u>を死人の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに宿るその"霊"によって、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださいます。また、<u>イエス</u>の命が私たちの死ぬべき肉体に現れるため、そして、死ぬべきものが命に呑み込まれるためである」と書いてあります。 8. ですから、信仰と徳高い生活によって、この世でその着物を得るために努力しましょう。そうすれば、私たちは体を脱ぎ捨てた時に裸でいることがなくなり、その日に私たちの肉体を栄光に輝かせるものが何もなくなるでしょう。なぜなら、信仰と勤勉によって聖霊にあずかる者とされた人に応じて、その人の体もその日に栄光を受けるからです。魂が今内に蓄えているものは、その時、体において外に明らかにされ、表されるでしょう。冬を越した木々が、目に見えない太陽と風の影響によって暖められ、内側から芽を出し、葉の衣をまとって羽を伸ばすように、また、その季節に草の花が地の懐から芽吹き、地は覆われ、衣をまといます。そして、草はユリのようです。主は、栄光の極みの<u>ソロモン</u>でさえ、その一つほどにも着飾ることはできなかったと言われました。これらはすべて、復活におけるキリスト教徒のたとえ話であり、型であり、象徴なのです。 9. ですから、神を愛するすべての魂、真のキリスト教徒には、最初の月、クサンティコス(4月)が来ます。それは復活の日であり、義の太陽の力によって聖霊の栄光が内側から現れ、聖徒たちの体を飾り、覆います。それは彼らが以前持っていた栄光ですが、彼らの魂の内に秘められていました。人が今持っているものが、その時、体の外側に現れます。この月は一年の最初の月であり、すべての被造物に喜びをもたらし、裸の木々を飾り、地を開き、すべての生き物に喜びをもたらし、すべての人々に陽気さを示すと聖書は言っています。キリスト教徒にとって、これはクサンティコス(Xanthicus)、すなわち第一の月であり、復活の季節です。その月には、彼らの体は、今も彼らの中にある言い表せない光、すなわち聖霊の力によって栄光に輝き、その光は彼らにとって衣服、食べ物、飲み物、喜び、楽しみ、平和、外套、永遠の命となります。なぜなら、そのとき、彼らが今受ける特権を与えられている神の霊から、あらゆる輝きと天の輝きの美しさが彼らに与えられるからです。 10. では、私たちは皆、あらゆる徳高い生活において信じ、努力し、勤勉に励み、大きな希望と忍耐をもって、今、天からの力と、聖霊の栄光を魂の内に受ける特権を待ち望むべきではないでしょうか。そうすれば、私たちの体が朽ち果てるとき、私たちをまとい、生かしてくれるものを得ることができるのです。もしそうであれば、着物を着て裸になることはなく、神は私たちの内に宿る"霊"によって、私たちの死すべき体を生かしてくださいます。祝福されたモーセは、誰もじっと見つめることのできなかった、彼の顔に宿った"霊"の栄光を通して、義人の復活の際、ふさわしい者の体がいかに栄光に輝くかを、予型として示しました。その栄光は、今もなお、聖なる信仰深い人々の魂が内なる人として持つ特権です。私たちは皆、顔を開いて、つまり内なる人において、鏡のように主の栄光を映し出し、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていくと聖書は言っています。同じように、聖書に書いてあるように、彼は四十日四十夜、パンも食べず、水も飲まなかったのです。肉体の性質上、これほど長くパンなしで生きることは不可能でした。なぜなら、彼が何か他の霊的な食物を摂取しない限りは。聖徒たちの魂は今もなお、目に見えない形で聖霊の賜物によってその食物にあずかっているからです。 11. ですから、祝福された<u>モーセ</u>は二つの方法で、真のキリスト教徒が復活の時にどのような光の栄光と、聖霊の非物質的な恵みを受けるかを示しました。それらは今でさえ彼らに隠された形で与えられており、それゆえ復活の時には彼らの体にも現れるのです。聖徒たちが今魂の中に持っている栄光は、前に述べたように、彼らの裸の体を覆い、着せ、天へと引き上げるでしょう。そしてそれ以降、私たちは体と魂において、永遠に主と共に王国で安息するでしょう。神はアダムを創造した時、鳥のような肉体の翼を与えたのではなく、聖霊の翼を彼に与えました。神はその翼を復活の時に<u>アダム</u>に与え、彼を引き上げ、聖霊の御心にかなうところへ連れて行こうとされました。聖なる魂は今でさえ、その翼を持つ特権を与えられ、心の中で天の思考の枠組みへと舞い上がるのです。キリスト教徒は独自の世界、異なる食卓、異なる衣服、異なる楽しみ、異なる交わり、異なる心構えを持っている。だからこそ彼らは他の人々よりも優れているのだ。これらのものの力を、聖霊を通して今彼らの魂の中に持つことは彼らの特権である。それゆえ、復活の時、彼らの体もまた聖霊の永遠の祝福にあずかり、彼らの魂がこの世で経験を通して知っていた栄光と混ざり合うであろう。 12. ですから、私たち一人ひとりは、すべての徳において努力し、労苦を惜しまず、励み、主を信じ、主を求めなければなりません。そうすれば、内なる人は今ここでその栄光にあずかることができ、魂は"霊"の聖性にあずかることができるのです。そうして、私たちは悪の汚れから清められ、復活の時に、裸で目覚めた私たちの体を着せることができ、その醜さを脱ぎ捨て、生き返らせ、天の御国で永遠に元気づけることができるのです。<u>キリスト</u>は天から下って来て、<u>アダム</u>のすべての部族、すなわち聖書に書いてあるとおり、初めから眠りについている者たちをよみがえらせ、彼らをみな二つの組に分けられます。そして、"霊"の印であるご自身のしるしを持つ者たちを、ご自身のものとして呼び寄せ、ご自身の右に座らせられます。主は言われる。「わたしの羊はわたしの声を聞き、わたしはわたしの羊を知り、わたしの羊はわたしの羊を知っている。」その時、これらの人々の体は、彼らの善行により神の栄光に彩られ、彼らがこの世で既に魂の中に持っていた"霊"の栄光に満たされるであろう。こうして神の光の中で栄光を与えられ、天に引き上げられて空中で主と会うであろう。「私たちは永遠に主と共におり、永遠に主と共に喜び合うであろう」と書いてあるとおりである。アーメン。 :::[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教5#説教5|トップに戻る]] {{DEFAULTSORT:えしふとのまかりおす50のれいてきせつきよう 05}} [[Category:1921年]] [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:マカリオス]] [[Category:エジプトのマカリオス50の霊的説教|05]] {{translation license | original = {{PD-old-auto-1996}} | translation = {{新訳}} }} <!-- A.J. Mason, "Fifty spiritual homilies of St. Macarius the Egyptian/Homily 5" を翻訳。 --> 5yvvzsj405ifpzdeojpjzhl0l8eygav 50の霊的講話 0 56820 243173 243162 2026-06-14T18:07:40Z 村田ラジオ 14210 校正:タイトルの作成 243173 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = 50の霊的講話 | section = | previous = | next = [[/講話1|講話1]] | year = 1880 | 年 = | override_author = [[w:en:Macarius of Egypt|マカリオス]] | override_translator = モスクワ神学アカデミー | noauthor = | notes = *底本: [https://azbyka.ru/otechnik/Makarij_Velikij/duhovnye-besedy-1-50/ Духовные беседы (1–50)] *ウィキソースによる日本語訳 }} == マカリオス50の霊的講話 == *[[/講話1|講話1]] 預言者エゼキエルが描写した幻の寓話的解釈 *[[/講話2|講話2]] 闇の王国、すなわち罪について、そして神だけが私たちから罪を取り除き、私たちを悪の君主による奴隷状態から解放することができるという事実について *[[/講話3|講話3]] 兄弟は互いに誠実に、質素に、愛をもって、平和に暮らし、内なる思いと戦い、闘うべきである *[[/講話4|講話4]] キリスト教徒は、神と天使たちから天上の称賛を受けるにふさわしい者となるために、この世の舞台で自分の歩む道を注意深く、勤勉に全うしなければならない *[[/講話5|講話5]] キリスト教徒とこの世の人々の間には大きな違いがある。世俗的な精神を内に宿し、心と精神において地上の束縛に縛られている人々がいる一方で、天の父の愛を切望し、ただ父だけをすべての願いの対象とする人々もいる。 *[[/講話6|講話6]] 神を喜ばせようとする者は、平和のうちに、静かに、柔和に、そして知恵をもって祈らなければならない。さもないと、叫びながら祈ることで、すべての人にとってつまずきの石となってしまうからである。この対話では、次の2つの問いを取り上げる。王座や冠は物質的な創造物なのか?そして、イスラエルの12の王座とは何なのか? *[[/講話7|講話7]] キリストの人間に対する謙遜について。この対話には、いくつかの質疑応答も含まれている。 *[[/講話8|講話8]] キリスト教徒が祈っている間に何が起こるのか、そして完全性の尺度、つまりキリスト教徒は完全な尺度を達成できるのかどうかについて *[[/講話9|講話9]] 神の約束と預言は様々な試練と誘惑の中で成就し、唯一の神に献身する者は悪魔の誘惑から救われる *[[/講話10|講話10]] 神の恵みの賜物は謙遜と熱意によって保たれ、増し加えられるが、傲慢と怠慢によって失われる *[[/講話11|講話11]] 聖霊の力が人間の心の中でいかに火のようであるか、また、心に浮かぶ思いをいかに見分ける必要があるか、さらに、モーセが木のてっぺんに釘付けにした死んだ蛇がキリストの象徴として用いられたことについて。この講話は、キリストと悪魔サタンとの対話と、罪人とサタンとの対話の2つの対話から成る。 *[[/講話12|講話12]] アダムが神の戒めを破る前と、彼自身と天上の像の両方を失った後の状態について。この対話には、非常に有益な質問がいくつか含まれている。 *[[/講話13|講話13]] 神がキリスト教徒に求める実りとはどのようなものか *[[/講話14|講話14]] 神に思いを捧げる者は、心の目が開かれることを望み、神がそのような者に聖なる清らかさと最高の純粋さをもって聖餐に近づくことを許し、彼らに恵みを与えてくださること、また、天の祝福を受けたいと願う者は何をすべきか、そして最後に、使徒と預言者は窓から差し込む太陽の光のようなものであること。さらに、この対話では、サタンの地と天使の地がどのようなものか、すなわち、どちらも形がなく目に見えないものであることを教えている。 *[[/講話15|講話15]] この会話には、魂が花婿であるイエス・キリストの前で聖性、無垢、純粋さを保つべき方法についての長い教えと、例えば、すべての成員が復活の時に立ち上がるかどうか、その他多くの非常に有益な質問、悪、恩寵、自由意志、人類の尊厳についての質問が含まれている。 *[[/講話16|講話16]] 霊的な人々も最初の罪から生じる誘惑や悲しみにさらされるという事実について *[[/講話17|講話17]] キリスト教徒の霊的な油そそぎと栄光について、そしてキリストなしには救われることも永遠の命にあずかることも不可能であることについて *[[/講話18|講話18]] キリスト教徒の宝、すなわちキリストと聖霊について。聖霊は様々な方法で彼らを完全性の達成へと導く。 *[[/講話19|講話19]] 繁栄し成長したいと願うキリスト教徒は、自分の中に宿る罪から解放され、聖霊に満たされるために、あらゆる善行を行うよう自らを律しなければならない。 *[[/講話20|講話20]] 内なる人の真の医者であるキリストだけが、魂を癒し、恵みの衣で飾ることができる。 *[[/講話21|講話21]] キリスト教徒は、内的な戦いと外的な戦いという二重の戦いに直面する。後者は世俗的な娯楽から身を遠ざけることであり、前者は悪霊によって示唆される考えによって心の中で起こる。 *[[/講話22|講話22]] この世を去る者の二重の状態について *[[/講話23|講話23]] 王家の貴重な真珠は王家の血筋に生まれた者だけが身につけることができるように、天の真珠は神の子だけが身につけることができる。 *[[/講話24|講話24]] キリスト教徒の状態は、商売や酵母のようなものです。商人が地上の利益を集めるように、キリスト教徒はこの世に散らばった考えを集めます。そして、酵母が混合物全体を酸っぱくするように、罪の酵母はアダムの子孫全体に浸透するが、キリストは忠実な魂に善の天上の酵母を植え付ける。 *[[/講話25|講話25]] この講話は、キリストによって強められなければ、いかなる人も悪魔の誘惑に打ち勝つことはできないと教えている。また、神の栄光を求める者が何をすべきかを示している。さらに、アダムの不従順によって私たちは肉欲の奴隷となり、十字架の秘跡によってそこから解放されることも教えている。最後に、涙と神の炎の力がいかに偉大であるかを示している。 *[[/講話26|講話26]] 不滅の魂の尊厳、貴重さ、力、そして活動性について、また、それがサタンによってどのように誘惑され、誘惑からどのように解放されるかについて。非常に示唆に富む質問もいくつか加えられている。 *[[/講話27|講話27]] この会話は、前回の会話で始まったキリスト教徒の尊厳と状態に関する長い議論を締めくくるものであり、自己意志について多くの有益なことを教え、さらに神の知恵に満ちたいくつかの問いを付け加えている。 *[[/講話28|講話28]] この会話では、魂の不幸、すなわち罪のために主が魂に宿らないことが描写され、嘆かれている。また、洗礼者ヨハネについて、女から生まれた者の中で彼より偉大な者はいないと言われている。 *[[/講話29|講話29]] 神は人類に二つの方法で恵みを分配し、それによって正義の裁きにおいてその報いが求められるようにする。 *[[/講話30|講話30]] 魂が神の国に入るためには、聖霊によって生まれなければなりませんが、それはどのようにして起こるのでしょうか? *[[/講話31|講話31]] 信者は考え方を変え、すべての考えを神に向けなければなりません。これこそが、真に神への奉仕の本質です。 *[[/講話32|講話32]] キリスト教徒の栄光は今もなお彼らの魂の中に宿っているが、復活の時にはそれが明らかになり、彼らの敬虔さの度合いに応じて彼らの体を栄光で満たすだろう。 *[[/講話33|講話33]] 人は絶えず真剣に神に祈らなければならない。 *[[/講話34|講話34]] キリスト教徒の栄光について。彼らの肉体は復活の際に、魂と共に光に照らされ、栄光を与えられる。 *[[/講話35|講話35]] 旧安息日と新安息日について *[[/講話36|講話36]] 魂と肉体の二重の復活、そして復活した者たちの異なる栄光について *[[/講話37|講話37]] 楽園と霊的法則について *[[/講話38|講話38]] 真のキリスト教徒とそうでない人を見分けるには、多くの注意と理解が必要である。 *[[/講話39|講話39]] なぜ神は私たちに聖典を与えたのですか? *[[/講話40|講話40]] すべての美徳とすべての悪行は相互に関連しており、鎖の環のように互いに依存し合っている。 *[[/講話41|講話41]] 魂の秘密は非常に深く、恵みと悪徳が徐々に増していく *[[/講話42|講話42]] 人を完全へと導くもの、あるいは害を与えるものは、外的なものではなく、内的なものである。すなわち、恵みの霊か、悪の霊のどちらかである。 *[[/講話43|講話43]] キリスト教徒の人間の成功について。その力の全ては心にかかっているが、ここではその心が様々な特徴で説明されている。 *[[/講話44|講話44]] キリストが魂の情欲と病を癒されたことで、キリスト教徒にもたらされる変化と刷新について *[[/講話45|講話45]] この世の芸術や富も人を癒すことはできないが、キリストの到来だけが人を癒すことができる。この会話はまた、人間と神との間の非常に深い親和性を示している。 *[[/講話46|講話46]] 神の言葉と世の言葉、神の子とこの世の子の違いについて *[[/講話47|講話47]] 律法下にあるものの寓話的解釈 *[[/講話48|講話48]] 神への完全な信仰について *[[/講話49|講話49]] 人が来世の至福にあずからない限り、この世の快楽を放棄する十分な理由はない *[[/講話50|講話50]] 神は聖徒たちを通して奇跡を起こされる {{DEFAULTSORT:50のれいてきこうわ}} [[Category:1880年]] [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教の歴史]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:マカリオス]] [[Category:50の霊的講話|*]] {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- モスクワ神学アカデミー訳、Духовные беседы (1–50) を翻訳。 --> df1qun3lcidjagubvmch77nmic5ammr 243176 243173 2026-06-14T18:14:38Z 村田ラジオ 14210 カテゴリを加筆。 243176 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = 50の霊的講話 | section = | previous = | next = [[/講話1|講話1]] | year = 1880 | 年 = | override_author = [[w:en:Macarius of Egypt|マカリオス]] | override_translator = モスクワ神学アカデミー | noauthor = | notes = *底本: [https://azbyka.ru/otechnik/Makarij_Velikij/duhovnye-besedy-1-50/ Духовные беседы (1–50)] *ウィキソースによる日本語訳 }} == マカリオス50の霊的講話 == *[[/講話1|講話1]] 預言者エゼキエルが描写した幻の寓話的解釈 *[[/講話2|講話2]] 闇の王国、すなわち罪について、そして神だけが私たちから罪を取り除き、私たちを悪の君主による奴隷状態から解放することができるという事実について *[[/講話3|講話3]] 兄弟は互いに誠実に、質素に、愛をもって、平和に暮らし、内なる思いと戦い、闘うべきである *[[/講話4|講話4]] キリスト教徒は、神と天使たちから天上の称賛を受けるにふさわしい者となるために、この世の舞台で自分の歩む道を注意深く、勤勉に全うしなければならない *[[/講話5|講話5]] キリスト教徒とこの世の人々の間には大きな違いがある。世俗的な精神を内に宿し、心と精神において地上の束縛に縛られている人々がいる一方で、天の父の愛を切望し、ただ父だけをすべての願いの対象とする人々もいる。 *[[/講話6|講話6]] 神を喜ばせようとする者は、平和のうちに、静かに、柔和に、そして知恵をもって祈らなければならない。さもないと、叫びながら祈ることで、すべての人にとってつまずきの石となってしまうからである。この対話では、次の2つの問いを取り上げる。王座や冠は物質的な創造物なのか?そして、イスラエルの12の王座とは何なのか? *[[/講話7|講話7]] キリストの人間に対する謙遜について。この対話には、いくつかの質疑応答も含まれている。 *[[/講話8|講話8]] キリスト教徒が祈っている間に何が起こるのか、そして完全性の尺度、つまりキリスト教徒は完全な尺度を達成できるのかどうかについて *[[/講話9|講話9]] 神の約束と預言は様々な試練と誘惑の中で成就し、唯一の神に献身する者は悪魔の誘惑から救われる *[[/講話10|講話10]] 神の恵みの賜物は謙遜と熱意によって保たれ、増し加えられるが、傲慢と怠慢によって失われる *[[/講話11|講話11]] 聖霊の力が人間の心の中でいかに火のようであるか、また、心に浮かぶ思いをいかに見分ける必要があるか、さらに、モーセが木のてっぺんに釘付けにした死んだ蛇がキリストの象徴として用いられたことについて。この講話は、キリストと悪魔サタンとの対話と、罪人とサタンとの対話の2つの対話から成る。 *[[/講話12|講話12]] アダムが神の戒めを破る前と、彼自身と天上の像の両方を失った後の状態について。この対話には、非常に有益な質問がいくつか含まれている。 *[[/講話13|講話13]] 神がキリスト教徒に求める実りとはどのようなものか *[[/講話14|講話14]] 神に思いを捧げる者は、心の目が開かれることを望み、神がそのような者に聖なる清らかさと最高の純粋さをもって聖餐に近づくことを許し、彼らに恵みを与えてくださること、また、天の祝福を受けたいと願う者は何をすべきか、そして最後に、使徒と預言者は窓から差し込む太陽の光のようなものであること。さらに、この対話では、サタンの地と天使の地がどのようなものか、すなわち、どちらも形がなく目に見えないものであることを教えている。 *[[/講話15|講話15]] この会話には、魂が花婿であるイエス・キリストの前で聖性、無垢、純粋さを保つべき方法についての長い教えと、例えば、すべての成員が復活の時に立ち上がるかどうか、その他多くの非常に有益な質問、悪、恩寵、自由意志、人類の尊厳についての質問が含まれている。 *[[/講話16|講話16]] 霊的な人々も最初の罪から生じる誘惑や悲しみにさらされるという事実について *[[/講話17|講話17]] キリスト教徒の霊的な油そそぎと栄光について、そしてキリストなしには救われることも永遠の命にあずかることも不可能であることについて *[[/講話18|講話18]] キリスト教徒の宝、すなわちキリストと聖霊について。聖霊は様々な方法で彼らを完全性の達成へと導く。 *[[/講話19|講話19]] 繁栄し成長したいと願うキリスト教徒は、自分の中に宿る罪から解放され、聖霊に満たされるために、あらゆる善行を行うよう自らを律しなければならない。 *[[/講話20|講話20]] 内なる人の真の医者であるキリストだけが、魂を癒し、恵みの衣で飾ることができる。 *[[/講話21|講話21]] キリスト教徒は、内的な戦いと外的な戦いという二重の戦いに直面する。後者は世俗的な娯楽から身を遠ざけることであり、前者は悪霊によって示唆される考えによって心の中で起こる。 *[[/講話22|講話22]] この世を去る者の二重の状態について *[[/講話23|講話23]] 王家の貴重な真珠は王家の血筋に生まれた者だけが身につけることができるように、天の真珠は神の子だけが身につけることができる。 *[[/講話24|講話24]] キリスト教徒の状態は、商売や酵母のようなものです。商人が地上の利益を集めるように、キリスト教徒はこの世に散らばった考えを集めます。そして、酵母が混合物全体を酸っぱくするように、罪の酵母はアダムの子孫全体に浸透するが、キリストは忠実な魂に善の天上の酵母を植え付ける。 *[[/講話25|講話25]] この講話は、キリストによって強められなければ、いかなる人も悪魔の誘惑に打ち勝つことはできないと教えている。また、神の栄光を求める者が何をすべきかを示している。さらに、アダムの不従順によって私たちは肉欲の奴隷となり、十字架の秘跡によってそこから解放されることも教えている。最後に、涙と神の炎の力がいかに偉大であるかを示している。 *[[/講話26|講話26]] 不滅の魂の尊厳、貴重さ、力、そして活動性について、また、それがサタンによってどのように誘惑され、誘惑からどのように解放されるかについて。非常に示唆に富む質問もいくつか加えられている。 *[[/講話27|講話27]] 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預言者エゼキエルは、彼が見た神聖で栄光に満ちた幻と幻影について語り、それを言葉では言い表せない神秘に満ちた幻と表現した。彼は野原でケルビムの戦車と四つの霊的な生き物を見た。それぞれの生き物には四つの顔があり、一つは獅子、一つは{{r|鷲|わし}}、一つは子牛、そして一つは人間のようであった。それぞれの顔には翼があり、どれが前でどれが後ろかを見分けることは不可能であった。 「彼らの肩は目」で満ちており、胸も目で満ちており、目のない場所はなかった。それぞれの顔には、いわば車輪の中に車輪があるように三つの車輪があり、その車輪の中に霊があった。預言者はまた、人の姿に似たものを見たが、その足台はサファイアのようであった。この戦車(すなわちケルビムと生き物)には、玉座に座る主が乗っていた。彼がどこへ行こうとも、動物たちはいつも背を向けていた。そして預言者はケルビムの下に、動物たちを支え、運ぶ「人間の手」のようなものを見た(エゼキエル書1章5-28節)。 2. 預言者が恍惚の中で見たものは真実で確かなものでしたが、それは何か別のものを指し示していました。それは神秘的で神聖な何か、世代から世代へと真に隠されてきた神秘であり、終わりの時、キリストの到来の時に明らかにされる神秘です。預言者は、主を受け入れ、その栄光の玉座となる運命にある魂の神秘を深く考えました。聖霊がそれを御自身の座と住まいとして備え、その光にあずかるにふさわしいとみなし、言い表せない栄光の美しさで照らした魂は、光、顔、目すべてとなります。霊的な光の目で満たされていない部分は一つもなく、つまり、暗いところは何もありません。魂は完全に光と霊でできており、目に満ち溢れ、後ろ側も後ろ側もなく、あらゆる方向から顔を合わせて現れます。なぜなら、キリストの光の栄光の言い表せない美しさが魂の上に降り注ぎ、魂の上に座っているからです。太陽はどこにあってもそれ自身に似ており、最後の部分や不十分な部分はなく、等しい部分から成り、全体が光で輝き、すべてが光である。あるいは、火、すなわち火の光そのもののように、完全にそれ自身に似ており、それ自体の中に最初も最後もなく、大きいものも小さいものもない。同様に、キリストの顔から発せられる光の栄光の言い表せない美しさによって完全に照らされ、聖霊と完全に交わり、神の住まいと玉座となるにふさわしいとみなされた魂は、キリストがそれを支え、導き、支え、持ち上げ、霊的な美しさで準備し、整え、飾ったように、すべての目、すべての光、すべての顔、すべての栄光、すべての霊となる。なぜなら、「人の手」がケルビムの下にあったと言われているからである(エゼキエル書1章7節)。キリストご自身が魂に運ばれ、また魂を導いているのである。 3. 戦車を{{r|担|かつ}}ぐ四つの生き物は、理性的な魂の支配的な力を象徴している。{{r|鷲|わし}}が鳥を支配し、獅子が野獣を支配し、牛がおとなしい動物を支配し、人間がすべての生き物を支配するように、理性的な魂にも意志、良心、知性、愛の力という、より高貴な力がある。魂の戦車はそれらによって導かれ、神はそれらに宿る。別の解釈によれば、これは聖徒たちの天上の教会を指している。預言者はそれら生き物について、その高さが非常に高く、目が満ち溢れており、その目の数や高さを理解することは誰にも不可能であったと述べている。なぜなら、その知識は与えられていなかったからである。 「天の星々は、すべての人が見て驚嘆するために与えられているが、その数を知ることは誰にも不可能である。同様に、聖徒たちの天の教会に入り、それを享受することは、努力を望むすべての人に与えられているが、聖徒の数を知り理解することは、神のみに属する。すべてを見通す生き物の戦車と玉座に座る方、すなわち、御自身の玉座と座所となった各魂の中に、目と光となった方が、その上に歩み、運ばれ、座り、霊の手綱を支配し、御自身が知っているようにそれを導く。霊的な生き物が、自ら行きたいところではなく、その上に座って導く方が知っていて望んだところへ歩いたように、御自身も魂を支配し、"霊"によって道を示して導く。このように、魂は自らの自由意志で、望むときに天に昇るのではなく、神が魂を導き、肉体を捨てて天に昇るのである。」魂は心で天を目指して努力し、また、神の御心にかなうときには肉体と思考の中で歩み、そして神の意志によって地の果てまで行き、神は魂に神秘の啓示を啓示される。おお、真に優れた、善なる、唯一にして真実の{{r|御者|ぎょしゃ}}よ!このように、魂がすでに栄光を受け、霊と合一しているならば、肉体もまた復活にあずかるにふさわしいものとみなされるであろう。 4. そして、義人の魂が天の光となること――これについて主ご自身が使徒たちにこう言われました。「あなたがたは世の光である」(マタイ5章14節)。主は彼らを光とした後、彼らを通して世が照らされるようにと命じ、こう言われました。「人はともしびをともして升の下に置くのではなく、燭台の上に置く。そうすれば、家の中にいるすべての人を照らす。あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」(マタイ5章15-16節)。これはつまり、わたしから受けた賜物を隠さず、それを求めるすべての人に伝えなさいということです。また、「体のともしびは目である。もしあなたの目が明ければ、あなたの体全体が明るくなる。しかし、もしあなたの目が悪ければ、あなたの体全体が暗くなる。もしあなたの中にある光が暗ければ、その暗さはなおさらだ」(マタイ6章22-23節)。目は体の光であり、目が健康であれば体全体が照らされますが、目に何かが入り目が暗くなると、体全体が暗くなります。このように、使徒たちは全世界の目、光として任命されました。そこで主は彼らに命じて言われました。「あなたがたは世の光であるから、耐え忍び、背を向けなければ、世全体が照らされるでしょう。しかし、あなたがた、世の光が暗くなるなら、闇、すなわち世は、なおさら暗くなるでしょう。」このように、使徒たちは光となり、信じる者たちの光として仕え、彼ら自身が照らされた聖霊の天の光で彼らの心を照らしました。 5. そして、彼らもまた塩であったので、聖霊の塩で信じるすべての魂を溶かし、塩味をつけた。主は彼らに「あなたがたは地の塩である」(マタイ5章13節)と言われた。これは、人の魂を地と呼んだからである。彼らは聖霊という天の塩で人の魂に仕え、それを溶かし、腐敗させず、ひどい悪臭に汚染されないようにした。塩のない肉は腐り、ひどい悪臭を放ち、その耐え難い悪臭のために誰もが顔を背ける。腐った肉には虫が這い回り、そこで餌を見つけて食べ、巣を作る。しかし、塩を振りかけるとすぐに、肉を食べていた虫は死に、悪臭は消える。塩はその性質上、虫を殺し、悪臭を取り除くので、聖霊によって塩味を与えられていない魂、すなわち天の塩、すなわち神の力にあずからない魂は、腐敗し、悪しき思いのひどい悪臭に満たされます。それゆえ、神は、そのような魂に宿る闇の空しい思いや情欲の恐ろしい悪臭から顔を背けられます。邪悪で恐ろしい虫、すなわち悪霊や闇の力が、その魂に忍び込み、養分を吸い、巣を作り、這い回り、食い尽くし、腐敗させます。「私の傷は悪臭を放ち、腐敗している」(詩篇38篇6節)とあるように。しかし、魂が神に立ち返り、信じ、命の塩、善き博愛の霊を求めると、降りてくる天の塩が、その魂の中にいる卑劣な虫を殺し、有害な悪臭を取り除き、その力強い働きによって魂を清めます。こうして、真の塩がそれを完全なものにするとき、それは天の主の御用に再び用いられるようになる。したがって、律法において、神はこれを象徴するために、すべてのいけにえに塩を加えるよう命じられた(レビ記2章13節)。 6. それゆえ、祭司はまずそれを{{r|屠|ほふ}}り、死なせ、それから切り分けて塩をまぶし、最後に火にかける必要がある。祭司がまず子羊を屠り、死なせなければ、それは塩をまぶされず、主の益のために捧げられることもない。同様に、私たちの魂も、真の祭司であるキリストに近づくためには、キリストによって屠られ、自らの知恵と、これまで生きてきた悪しき生活、すなわち罪に対して死ななければならない。そして、命が犠牲を捨てるように、魂もまた情欲の悪を捨てなければならない。肉体が魂から離れると、魂は死んで、もはや生きていた生活を送ることはなく、聞くことも歩くこともなくなります。同様に、天の大祭司キリストが、その力の恵みによって、魂の中で世の生活を滅ぼし、死に至らせると、魂はかつて生きていた悪しき生活のために死に、もはや聞くことも話すことも、罪深い闇の中で生きることもなくなります。なぜなら、情欲の悪は、魂と同様に、恵みによってそこから出てくるからです。そして使徒は叫んで言います。「世は私にとって十字架につけられ、私も世にとって十字架につけられたのです」(ガラテヤ6章14節)。魂は、この世に生き、罪深い闇の中にあり、キリストによって滅ぼされず、なおも悪徳の魂、すなわち罪深い情欲の闇の働きを内に持ち、それによって養われている限り、キリストの体にも、光の体にも属さず、闇の体であり、今日に至るまで闇の側に立っている。逆に、光の魂、すなわち聖霊の力を内に持つ者は、光の側に立っている。 7. しかし、ある人は言うでしょう。「魂は闇の働きではないのに、なぜ闇の体と呼ぶのですか?」―これに注意を払い、正しく理解しなさい。あなたが毎日着る衣服は他の人が用意し、あなたがそれを着るように、家も他の人が建て、あなたがそこに住むように、アダムは神の戒めを破り、邪悪な蛇の言葉に耳を傾け、自分自身を悪魔に売り渡し、神がご自身の姿に似せて創造されたこの美しい被造物である魂は、悪魔によって覆われてしまいました。使徒が言うように、「彼は支配者と権威を剥ぎ取り、十字架の上で彼らに打ち勝ったのです」(コロサイ2章15節)。主が来られた目的は、彼らを追い出し、ご自身の家であり神殿である人間を回復することでした。ですから、罪深い闇が魂の中に宿っている限り、魂は邪悪な闇の体と呼ばれるのです。なぜなら、魂は暗黒の悪の時代にそこに住み、維持されているからです。使徒が罪の体と死の体について語る際に、「罪の体が滅ぼされるように」(ローマ6章6節)と言い、また「だれがわたしをこの死の体から救い出してくれるだろうか」(ローマ7章24節)と言っているようにです。同様に、逆に、神を信じ、罪から解放され、暗黒の生活に対して死に、聖霊の光を命として受け入れ、その中で生き生きとした魂は、すでにそこで生活しています。なぜなら、魂は神性の光によってそこに維持されているからです。魂は神の性質でも、悪の闇の性質でもなく、美に満ち、偉大で驚くべき理性的な被造物であり、神の美しい似姿であり、罪の結果として暗黒の情欲の悪が魂に入り込んだのです。 8. 最後に、魂は、その欲望と交わり、結びついている存在に属する。したがって、魂は、自らの内に神の光を宿し、その中で生き、あらゆる徳で身を飾るならば、安息の光にあずかる。あるいは、自らの内に罪深い闇を宿すならば、断罪される。先に述べたように、永遠の安息と光の中で神と共に生きたいと願う魂は、真の至高の祭司であるキリストに近づき、屠殺に耐え、この世と、かつての邪悪な闇の生活に対して死に、神の教育を受けるための別の人生へと旅立たなければならない。人が都市で死んだ場合、そこに住む人々の声も、話し声も、騒音も聞こえません。死んだ途端、その都市の声も叫び声もない別の場所に移されます。同様に、魂も、かつて住み、時間を過ごした有害な情欲の都市で殺戮に身を委ね、死んだ途端、もはや闇の会話の声を聞くことはなく、無益な会話や闇の霊の反逆の叫びも聞こえなくなります。そして、善と平和に満ちた都市、神の光に満ちた都市へと移り、そこで生き、聞き、市民となり、話し、会話をし、神にふさわしい霊的な行いをするのです。 9. ですから、主の力によって、私たちが屠殺を受け入れ、暗黒の悪しき時代に死に、罪の霊が私たちの内に滅ぼされ、魂が天の"霊"を受け、"霊"に覆われ、罪の闇からキリストの光へと移され、世々限りなく安らかな命を得られるように祈りましょう。競馬場で戦車が競走し、先行する戦車が後続の戦車を遅らせ、その進行と勝利を妨げ、阻害するように、霊的で罪深い思いが人の中を駆け巡り、もし罪深い思いがそれを先取りすれば、魂は遅れ、神に近づき、罪に勝利することを妨げられ、阻害されます。しかし、主ご自身が座って魂を支配されるところでは、主は常に勝利を収め、巧みに絶えず手綱を導き、魂の戦車を天上的で神聖な考え方へと導いてくださいます。主は罪と戦うのではなく、権威と主権を持つ者として、常に自ら勝利を決定されます。したがって、ケルビムは自ら行きたい場所ではなく、彼らの上に座り、彼らを統治する方が指示する場所へと運ばれます。神がお望みになるところへ彼らは進み、神ご自身が彼らを運ばれます。なぜなら、「人の手」が彼らの下にあったと記されているからです。聖なる魂は、キリストの"霊"によって運ばれ、導かれます。"霊"は、お望みになるところへと導いてくださいます。そして、"霊"がお望みになるときには、彼らは天上の思いの中で運ばれ、また、お望みになるときには、肉体においても運ばれます。"霊"がお望みになるところへ行き、彼らはそこで主にお仕えします。鳥の翼が足の役割を果たすように、聖霊の天上の光は、ふさわしい魂の思いの翼を受け入れ、聖霊が最もよく知るところへと彼らを導き、指示します。 10. ですから、これを聞いたらすぐに、自分の魂がこれを真に、そして心から獲得したかどうか、自分自身に注意を払いなさい。これらは単に口にした言葉ではなく、魂の中で真に成し遂げられた行いだからです。もしあなたがこのような霊的な祝福を獲得しておらず、なお貧しいままであるならば、あなたは絶えず嘆き、泣き、苦しまなければなりません。王国に対して死んだ者、傷ついた者として、常に主に叫び求め、あなたもこの真の命にふさわしい者と認められるよう、信仰をもって祈りなさい。神はこの体を創造されたとき、生命、食物、飲み物、衣服、履物を、その本性から、あるいは体そのものから得るのではなく、むしろ裸の体として創造し、生命に必要なすべてを外から得るように定められました。そして、体は外にあるもの、すなわち食物、飲み物、衣服なしには生きることができません。しかし、もし体が自分の本性に内在するものだけに頼り、外から何も借りないならば、滅びて死んでしまいます。同様に、魂は、神の形に創造されたにもかかわらず(神は魂が永遠の命を得ることを計画し、喜ばれた)、それ自体の中に神の光を欠いているため、魂自身の本性からではなく、神の神性、神自身の霊、神自身の光から霊的な食物、霊的な飲み物、天上の衣を受け取ります。これこそが魂の真の生命を構成するものです。 11. 先に述べたように、肉体において生命はそれ自体からではなく、その外にあるもの、すなわち大地から生じるのと同様に、外にあるものがなければ、肉体は生きることができない。同様に、魂がまだ生者の地に生まれ変わっておらず、そこで霊的に養われて霊的に成長し、主の御前で前進しておらず、その神性が天上の美しさという言い表せない衣をまとっていないならば、その糧がなければ、魂はそれ自体で喜びと平和のうちに生きることはできない。神の本質は命のパン、すなわち「わたしは命のパンである」(ヨハネ6章35節)と言われた方、また「生ける水」(ヨハネ4章10節)、「人の心を喜ばせるぶどう酒」(詩篇104篇15節)、「喜びの油」(詩篇45篇8節)であり、天の霊の多様な糧であり、神から授けられた輝く天の衣である。これこそが魂の天上の命である。肉体が自らの本性に安住するならば、それは災いである。なぜなら、肉体は衰え、死ぬからである。魂もまた、自らの本性に安住し、神の霊との交わりを持たずに自らの行いだけに頼るならば、それは災いである。なぜなら、魂は永遠の神の命に値しないとみなされることなく死ぬからである。病人がもはや食物を受け付けなくなった時、人々が絶望し、愛する人々、友人、親戚、そして家族全員が涙を流すように、神と聖なる天使たちは、霊の天の糧にあずからず、不朽の精神に生きることのできない魂を、涙に値する存在として認めます。そして、これは単なる言葉の問題ではなく、霊的な生活、真理の営みそのものが、ふさわしく忠実な魂の中で成し遂げられることなのです。 12. ですから、もしあなたが神の玉座となり、天のトナカイの持ち主があなたの内に座り、あなたの魂が完全に霊的な目となり、完全に光となったならば、もしあなたが霊の天の食物で養われ、生ける水を飲まされたならば、もしあなたが言い表せない光の衣を身にまとったならば、もしあなたの内なる人がこれらすべてを経験し、疑いなく知っているならば、見よ、あなたは真に永遠の命を生き、あなたの魂は今まさに主と共に安息している。見よ、あなたは真に主からこれを得て、真の命を生きることができる。しかし、もしあなたが自分の中にそのようなことを何も知らないならば、泣き、嘆き、悲しむ。なぜなら、あなたはまだ永遠の霊的な富を得ておらず、まだ真の命を受けていないからである。それゆえ、昼も夜も主に懇願して、あなたの貧しさを嘆きなさい。あなたは恐ろしい罪深い貧しさの中にいることに気づくからである。ああ、もし誰かが自分の貧しさに対してこの悲しみを得ることができたなら!ああ、満ち足りた者のように、無頓着に時間を浪費しなければいいのに!悲しんで、求め、しつこく主に祈る者は、主が不正な裁判官とやもめについての説教を締めくくる際に言われたように、より早く救いと天の富を受けるでしょう。「まして神は、昼も夜も神に叫び求める者たちに、どれほど報復されることでしょう。まことに、神は速やかに報復されるでしょう」(ルカ18章7-8節)。栄光と支配が永遠に神にありますように!アーメン。 {{DEFAULTSORT:50のれいてきこうわ01}} <!--[[Category:1880年]] [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教の歴史]]--> [[Category:キリスト教神学]] [[Category:マカリオス]] [[Category:50の霊的講話|01]] {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- モスクワ神学アカデミー訳、Духовные беседы (1–50) の講話1を翻訳。 --> p7uqcd0e3swoie4cuis939klbd00m0u 50の霊的講話/講話2 0 56825 243181 243160 2026-06-15T07:38:19Z 村田ラジオ 14210 カテゴリを加筆。 243181 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = 50の霊的講話 | section = 講話2 | previous = [[../講話1|講話1]] | next = [[../講話3|講話3]] | year = 1880 | 年 = | override_author = [[w:en:Macarius of Egypt|エジプトのマカリオス]] | override_translator = モスクワ神学アカデミー | noauthor = | notes = *底本: [https://azbyka.ru/otechnik/Makarij_Velikij/duhovnye-besedy-1-50/ Духовные беседы (1–50)] *ウィキソースによる日本語訳 }} マカリオス50の霊的講話 ==講話2== << 闇の王国、すなわち罪について、そして神だけが私たちから罪を取り除き、私たちを悪の君主の奴隷状態から解放することができるという事実について >> 1. 邪悪な君主、すなわち闇の王国は、まず人間を捕らえ、魂を闇の力で包み込みました。それは、王にするために人に服を着せ、王の衣を着せ、頭からつま先まで王の装束を身にまとうようにするためです。このようにして、邪悪な君主は魂、その存在全体を罪で覆い、すべてを汚し、すべてを自分の王国に捕らえ、思考も、精神も、肉体も、その力から逃れる部分を一つも残さず、闇の紫で覆いました。肉体において、一部や手足だけが苦しむのではなく、全体が苦しむように、魂全体も悪徳と罪の弱さに苦しみました。邪悪な者は、人間のこの必要不可欠な部分、この本質的な部分を、自分の悪意、すなわち罪で覆いました。こうして肉体は苦しみ、腐敗するようになったのです。 2. 使徒が「古い人を脱ぎ捨てなさい」(コロサイ3章9節)と言うとき、それは、自分の目と自分の頭と自分の頭と自分の耳と自分の手と自分の手と自分の足と自分の足を持つ、完全な人のことを指しています。悪魔は、魂も体も含めた人全体を汚し、自分に引き寄せ、人を古い人、すなわち汚れた、不浄な、神に敵対する、神の律法に従わない者、罪そのもので覆ったのです。そのため、人はもはや自分の望むように見ず、悪を見て悪を聞き、足は悪を行うために急ぎ、手は不正を行い、心は悪を企てます。ですから、私たちも神に、私たちから古い人を脱ぎ捨ててくださるようにお願いしましょう。神だけが私たちから罪を取り除くことができるからです。私たちを捕らえて自分たちの王国に閉じ込めている者たちは、私たちよりも強いのです。しかし、神は私たちをこの奴隷状態から解放するという約束を与えてくださいました。太陽が輝き、風が吹くとき、太陽には太陽自身の性質があり、風にも風自身の性質と性質がある。神だけが風を止めない限り、誰も風と太陽を分離することはできない。このように、罪は魂と混じり合っている。しかし、罪と魂はそれぞれ固有の性質を持っている。 3. したがって、神が魂と体に宿るこの悪しき風を止め、抑制しない限り、魂を罪から切り離すことは不可能です。また、人が飛んでいる鳥を見て自分も飛びたいと願っても、翼がなければ飛べないのと同じです。同様に、人は清く、非難されることなく、汚れなく、傷のない者となり、常に神と共にありたいと願いますが、そのためには力がありません。人は神の空、聖霊の自由へと舞い上がりたいと願いますが、翼を与えられるまでは飛べません。ですから、神に懇願して、聖霊の「鳩の翼」を与えていただき、神のもとへ飛んで行き、安息を得られるように(詩篇54篇7節)、そして神が私たちを魂と体から切り離し、魂と体の各部に宿る悪しき風、すなわち罪そのものを止めてくださるようにお願いしましょう。なぜなら、これを成し遂げることができるのは神だけだからです。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(ヨハネ1章29節)とあります。神だけが、神を信じる者たちにこの慈悲を与え、彼らを罪から救い出す。神は常にそれを待ち望み、希望し、絶えずそれを求める者たちのために、この計り知れない救いを成し遂げます。 4. 暗く深い夜に激しい風が吹き、あらゆる植物や種子を揺り動かし、混乱させ、震え上がらせるように、人間もまた、暗い夜、すなわち悪魔の力に屈し、夜と闇の中に住まうと、罪の恐ろしい風によって揺り動かされ、痙攣させられ、動揺させられます。その全人格、魂、思考、精神は混乱し、身体のすべての部分が揺さぶられます。魂や身体のどの部分も、私たちの中に宿る罪の苦しみから逃れることはできません。同様に、光の日と聖霊の神聖な風があり、神聖な光の日に生きる魂を吹き、活気づけ、魂、思考、そして存在全体に浸透し、身体のすべての部分を神聖で言い表せない平和で冷やし、落ち着かせます。使徒はこう述べています。「私たちは夜の子でも、闇の子でもありません。あなたがたは光の子、昼の子だからです」 (テサロニケ第一 5章5節)。そこでは、欺瞞によって古い人が完全な人を脱ぎ捨て、闇の王国の衣、すなわち冒涜、不信仰、恐れ知らず、虚栄、傲慢、貪欲、情欲、その他闇の王国の衣、汚れたぼろきれを身にまとっています。ここでもまた、古い地上の人を脱ぎ捨て、イエスが闇の王国の衣を脱ぎ捨てた人々は、新しい天上の人、すなわちイエス・キリストを身にまとっています。また、彼らは目に応じて目を持ち、耳に応じて耳を持ち、頭に応じて頭を持ち、こうして人全体が清く、天の姿を帯びるのです。 5. そして主は彼らに言い表せない光の王国の{{r|衣|ころも}}、すなわち信仰、希望、愛、喜び、平和、慈しみ、善の{{r|衣|ころも}}を着せ、また同様に、光、命、言い表せない平和という他のすべての神聖な命を与える{{r|衣|ころも}}を着せた。それは、神が愛、喜び、平和、善、慈しみであるように、新しい人が恵みによってこれらのようになるためである。そして、闇と罪の王国が復活の日まで魂の中に隠されているように、今魂の中に隠されている闇が罪人の体全体を覆うように、光の王国と天の{{r|像|ぞう}}であるイエス・キリストは神秘的に今、聖徒たちの魂を照らし、その魂の中で支配している。しかし、人間の目には隠されたまま、私たちは復活の日まで、魂の目を通してのみ真にキリストを見るのです。復活の日までは、肉体さえも、今なお人間の魂の中に存在する主の光によって覆われ、栄光に輝き、肉体は魂と共に統治するでしょう。その魂は、永遠の光によって安らぎ、照らされたキリストの王国を、今まさにその内に受け入れているのです。主の慈しみと憐れみに栄光あれ!主はしもべたちを憐れみ、彼らを闇の王国から照らし出し、救い出し、彼らに光と王国を与えてくださいます。主が永遠に栄光と支配権をお持ちになりますように!アーメン。 {{DEFAULTSORT:50のれいてきこうわ02}} <!--[[Category:1880年]] [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教の歴史]]--> [[Category:キリスト教神学]] [[Category:マカリオス]] [[Category:50の霊的講話|02]] {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- モスクワ神学アカデミー訳、Духовные беседы (1–50) の講話2を翻訳。 --> 4tzio55seya7mtlfjl4xfvgajobamsc カテゴリ:マカリオス 14 56831 243178 2026-06-14T22:43:54Z 村田ラジオ 14210 カテゴリ「マカリオス」 243178 wikitext text/x-wiki {{カテゴリ検索}} {{DEFAULTSORT:まかりおす}} [[Category:キリスト教]] t6ragmw4qdem41ljkhx1i0qpnhsocto 50の霊的講話/講話3 0 56832 243179 2026-06-14T22:45:05Z 村田ラジオ 14210 モスクワ神学アカデミー訳、Духовные беседы (1–50) の講話3を翻訳。 243179 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = 50の霊的講話 | section = 講話3 | previous = [[../講話2|講話2]] | next = [[../講話4|講話4]] | year = 1880 | 年 = | override_author = [[w:en:Macarius of Egypt|マカリオス]] | override_translator = モスクワ神学アカデミー | noauthor = | notes = *底本: [https://azbyka.ru/otechnik/Makarij_Velikij/duhovnye-besedy-1-50/ Духовные беседы (1–50)] *ウィキソースによる日本語訳 }} マカリオス50の霊的講話 ==講話3== << 兄弟は互いに誠実に、質素に、愛をもって、平和に暮らし、内なる思いと戦い、闘争すべきである >> 1. 兄弟たちは互いに大きな愛をもって生活しなければなりません。祈るときも、聖書を読むときも、どんな仕事に従事するときも、互いへの愛を土台とすべきです。そうすれば、彼らの意志は神の恵みにふさわしいものとなるでしょう。祈る者、読む者、働く者は、互いに正直かつ誠実に生活するならば、すべてのことを益をもって行うことができます。聖書に何と書いてあるでしょうか。「御心が天で行われるように、地でも行われますように」(マタイ6章10節)。ですから、天の天使たちが互いに大きな一致をもって平和と愛のうちに生活し、そこには傲慢さも嫉妬もなく、ただ互いの愛と誠実さがあるように、兄弟たちも互いにそうあるべきです。もし30人の人が一つの仕事に従事しているとしても、彼らはそれを一日中、夜通し続けることはできません。むしろ、ある者は6時間祈り、聖書を読みたいと願い、またある者は熱心に奉仕し、またある者は何らかの仕事に従事するでしょう。 2. ですから、兄弟たちよ、何をするにしても、互いに愛し合い、喜びなさい。働く者は祈る者についてこう言いなさい。「兄弟が持っている宝は共有の宝である。だから、私もそれを持っている。」祈る者は読む者についてこう言いなさい。「彼が読むことによって得るものはすべて、私にも益となる。」働く者はまたこう言いなさい。「私がする奉仕は、皆の益となる。」体の各部分は多くても、それらが一つとなって一つの体を形作り、互いに助け合い、それぞれの部分が自分の働きをするように。また、目は体全体を見守り、手は体のすべての部分を支え、足は体のすべての部分を支えて歩き、他の部分が他の部分に共感するように、兄弟たちも互いに一つになりなさい。祈る者は、祈らない働く者を裁いてはならない。働く者は、祈る者を「彼は祈り続けているが、私は働いている」と言って裁いてはならない。奉仕する者は、互いに裁いてはならない。それどころか、各自が何をするにしても、神の栄光のために行いなさい。読者は、祈っている人を愛と喜びの眼差しで見つめ、「彼は私のためにも祈ってくれている」と考えるべきです。そして、祈っている人は、働いている人について、「彼は何をするにしても、皆の益のために行っている」と考えるべきです。 3. こうして、大きな一致、平和、そして心を一つにすることで、皆が平和の絆で結ばれ、互いに正直かつ素朴に生き、神の恵みを受けることができるようになるでしょう。言うまでもなく、最も重要なことは、適切な時に祈りに専念することです。さらに、一つのことを求めなさい。それは、魂に宝と命を得ること、すなわち、主を心に留めることです。働くにせよ、祈るにせよ、読むにせよ、聖霊という永続的な恵みを得なさい。ある人々は、主は人々に目に見える実だけを求め、神ご自身が秘められたことを成し遂げられると言います。しかし、実際はそうではありません。むしろ、外見を守るのと同じくらい、自分の思いとも戦い、戦わなければなりません。主は、あなたが自分自身に怒り、自分の心と戦い、邪悪な思いに同意せず、それにふけらないことを求めておられるからです。 4. しかし、罪と、私たちの内に宿る悪を根絶することは、神の力によってのみ成し遂げられます。なぜなら、人が自分の力で罪を根絶することは、与えられておらず、不可能だからです。罪と戦い、それに抵抗し、罪の傷を与え、また罪の傷を受けることは、あなたがたの力でできますが、罪を根絶することは神の業です。もしあなたがた自身がこれを成し遂げることができたなら、主の来臨は必要でしょうか。光がなければ目が見えず、舌がなければ話せず、耳がなければ聞き、足がなければ歩き、手がなければ働くことができないように、イエスなしには救われることも、天の御国に入ることも不可能です。もしあなたが、「私は外見上は淫行者でも姦淫者でもなく、金銭を愛する者でもない。だから私は正しい」と言うなら、あなたは自分を欺いており、すでにすべてを成し遂げたと考えているのです。人が身を守らなければならない罪は、三種類だけではなく、何千種類もあるのです。傲慢、無謀、不信、憎しみ、嫉妬、裏切り、偽善はどこから来るのか? 密かに、心の中で、それらと戦い、闘うべきではないのか? 家に泥棒が入ったら、それだけで心が打ち​​砕かれ、気楽に過ごすことはできなくなる。あなたは泥棒を攻撃し、傷つけ、また傷つけられる。魂もまた、同じように抵抗し、反対し、撃退しなければならないのだ。 5. あなたの意志は、苦闘し、労苦と悲しみの中に留まり、ついに優勢になり始めます。それは倒れ、立ち上がり、罪は再びそれを打ち倒します。十回か二十回の闘争の末、罪は魂を征服し、打ち倒します。しかし、魂もいずれは、何らかの点で罪に打ち勝ちます。そしてまた、魂が堅固に立ち、何事においても弱まらないならば、優位に立ち、問題を解決し、罪に勝利を収め始めます。しかし、この点においても注意深く見てみると、人が「その身長の尺度に従って完全な人」に「達する」 (エペソ4章13節)まで、そして死を完全に征服するまでは、罪は依然として人を支配します。なぜなら、「最後に滅ぼされる敵は死である」(コリント第一15章26節)と書かれているからです。このようにして、人々は罪に打ち勝ち、その勝利者となるのです。そして、先に述べたように、「私は淫行者でもなく、姦通者でもなく、金銭欲の強い者でもない。これで十分だ」と言う人がいるなら、その人は三つの部分とは戦ったものの、残りの二十の部分とは戦っておらず、罪が魂と戦う他の二十の部分とは戦っていない。むしろ、それらに打ち負かされているのだ。したがって、人はあらゆることにおいて戦い、努力しなければならない。なぜなら、繰り返し述べてきたように、心は戦士であり、罪と戦い、思いに抵抗する力を持っているからである。 6. もしあなたが、敵対勢力の方が強く、悪徳が人間を完全に支配していると言うなら、あなたは神を不当だと非難していることになります。神は、サタンの言うことを聞いた人間たちを非難しているのです。サタンが強く、何らかの強制力で他者を服従させる時、あなたによれば、サタンは魂よりも高く、強いということになります。では、私の話を聞いてください。もし若者が小さな子供とレスリングをして、子供が負け、子供が負けたことを理由に非難されるなら、そこには大きな不正義があります。ですから、私たちは、心はレスラーであり、同等の力を持つレスラーであると断言します。そして、苦闘する魂は、助けと保護を求め、それらを受け取り、救済に値するとみなされます。なぜなら、苦闘と達成は同等の力によって可能だからです。父と子と聖霊を永遠に讃えましょう。アーメン。 {{DEFAULTSORT:50のれいてきこうわ03}} <!--[[Category:1880年]] [[Category:キリスト教]] 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極めて正確かつ完璧にキリスト教的生活を送ろうとする者は、まず何よりも、魂の感覚と理性を全力で養わなければならない。そうすれば、善悪を正確に区別する能力を身につけ、あらゆる場合において、純粋な本性に不自然なものが入り込んでいることを認識できるようになり、正しく、つまずくことなく生きることができる。このように、理性を目として用いることで、悪徳の誘惑に屈したり、それに同意したりすることなく、神の賜物によって主にふさわしい者となることができる。目に見えるものから例を挙げてみよう。なぜなら、肉体と魂、物質的なものと霊的なもの、目に見えるものと隠されたものの間には類似性があるからである。 2. {{r|身体|からだ}}は目を道しるべとし、目は{{r|身体|からだ}}全体を正しい道へと導きます。火が道を塞ぎ、剣が突き刺さるような、木々が生い茂り、{{r|棘|とげ}}が生い茂り、日陰の多い場所を歩いている人を想像してみてください。そこには急流や多くの水もあります。もし旅人が機転が利き、用心深く、恐れを知らない人であれば、目を道しるべとして、木々や{{r|棘|とげ}}に引っかかって服が裂けたり、泥で汚れたり、剣で切り裂かれたりしないよう、手足で服をしっかりと押さえながら、これらの困難な場所を細心の注意を払って進みます。そして、身体全体を照らす目は、急流に押しつぶされたり、水に溺れたり、困難な場所で傷ついたりしないよう、道を示します。このように、機転が利き、賢明な旅人は、注意深く服を整え、視線の方向を追うことで、無傷でいられ、服も燃えたり破れたりすることなく済む。しかし、不注意で怠惰で、不注意で、不器用で、あるいは無気力な人がそのような場所を通ると、服を整えるという堅実さに欠けるため、服はひらひらと揺れ、小枝や棘で破れたり、火がついたり、突き刺さる剣で切り裂かれたり、泥で汚れたりする。つまり、彼の美しく新しい服は、不注意、無気力、怠惰によってすぐに台無しになってしまうのだ。そして、旅人が視線の方向に十分かつ適切に注意を払わなければ、彼自身が溝に落ちたり、水に溺れたりするだろう。 3. 同様に、魂は、いわば美しいチュニック(衣服)、すなわち肉体の衣を身にまとい、魂と肉体全体に方向を与える理解力を備えているので、人生の森や茨の道を、泥沼や火、急流、すなわち欲望や快楽、その他この世の不調和の中を進むときには、至る所で節度、勇気、勤勉、注意深さをもって自らを抑制し、守らなければならない。そして、この世の森や茨の場所で、肉体のチュニックが心配事や怠惰、世俗的な気晴らしによってどこかで破れ、欲望の火に焼かれないように、そのチュニックを身にまとった魂は、悪を見ないように目をそらし、噂話を聞かないように耳をそらし、舌を無駄話から遠ざけ、手足を悪行から遠ざける。なぜなら、魂には、肉体を遠ざけ、悪いものを見たり、邪悪で恥ずべきことを聞いたり、卑猥な言葉を話したり、世俗的で邪悪な活動に従事したりしないようにする意志が与えられているからである。 4. 魂は自ら邪悪な旋風から身を遠ざけ、心を守り、その思いがこの世をさまようことがないようにする。このように努力し、あらゆる勤勉さを尽くし、あらゆる機会に細心の注意を払って身体の各部分を悪から遠ざけることによって、身体の美しい衣は破れることなく、焦げることもなく、汚れることもなく保たれる。そして魂は、好奇心、知性、意志の識別力、そして何よりも主の力によって守られる。なぜなら、魂はできる限りの力で自らを抑制し、あらゆる世俗的な欲望から身を遠ざけるからであり、そのために主から助けを受け、上述の悪から効果的に守られるからである。主は、人が勇気をもって世俗的な快楽、物質的な気晴らしや心配事、地上の束縛、そして虚しい思いの渦から背を向けるのを見ると、すぐにその人に恵み深い助けを与え、この悪しき時代において魂が美しく歩み終えるまで、つまずくことなく魂を守ってくださいます。こうして、魂は、あらゆる世俗的な欲望から背を向け、神の助けによってこの世の道を美しく歩み終え、自らと肉体をできる限り守り抜いたことで、神と天使たちから天上の称賛を受けるに値するとみなされるのです。 5. もし誰かが、怠惰と不注意によって、この世を不注意に歩み、あらゆる世俗的な欲望から自発的に離れず、唯一の主を心から求めないならば、その人の体の衣はこの世の{{r|茨|いばら}}と木々によって引き裂かれ、欲望の火によって焼かれ、快楽の汚れによって汚される。それゆえ、審判の日には、魂は大胆さを欠いていると見なされる。なぜなら、その衣を汚さずに保てず、この世の欺瞞の中でそれを汚してしまったからである。このため、その魂は王国から追放される。自らの自由意志で世に身を{{r|委|ゆだ}}ね、その快楽に誘惑され、物質の世界でさまよい、回転する者に対して、神は何をなさるだろうか。神は、物質的な快楽と以前の習慣から離れ、努力して絶えず思いを主に向け、自己を捨て、ただ主だけを求める者たちに助けを与える。神はまた、この世の深みにおいて、あらゆる機会に誘惑やわなを避け、「恐れおののきながら自分の救いを達成し」(フィリピ2章12節)、この世の{{r|罠|わな}}や{{r|網|あみ}}、欲望をあらゆる努力をもって避け、主の助けを求め、主の憐れみによって恵みによって救われることを望む人々をも守ってくださる。 6. 見よ、五人の賢い乙女たちは、慎み深く、自らの性質にそぐわないことを急いで行い、心の器に油、すなわち上から授けられた聖霊の恵みを取り込んで、花婿と共に天の婚礼の部屋に入ることができた。しかし、他の愚かな乙女たちは、自らの性質にとどまり、慎み深くなく、肉体の中にいる間は「喜びの油」(詩篇45章8節)を器に取り込もうと努めず、怠慢、無気力、不注意、無知、あるいは自らの正しさに対する傲慢さによって、まるで眠っているかのように身を{{r|委|ゆだ}}ねた。そのため、天の花婿を喜ばせることができず、王国の婚礼の部屋に入ることを許されなかった。世俗的な束縛と地上の愛に縛られ、天の花婿にすべての愛と献身を捧げず、油を{{r|携|たずさ}}えて行かなかったのである。しかし、自然界ではあり得ないこと、すなわち聖霊の聖性を求めた魂は、愛のすべてをもって主に結びつき、主と共に歩み、あらゆるものから離れ、祈りと想いを主に向けます。そのため、彼らは天の恵みの油を受けるにふさわしいと認められ、その後はつまずくことなく歩み続け、あらゆることにおいて霊的な花婿を完全に喜ばせることができます。しかし、自然界にとどまる魂は、地上の思いを{{r|這|は}}いずり回り、地上に住み、その心も地上に留まります。彼らは自分を花婿に属していると考え、肉的な正当化で飾られていますが、喜びの油を受けていないため、天からの聖霊によって新しく生まれ変わっていません。 7. 五つの霊的感覚は、天からの恵みと聖霊の聖性を受けるならば、天からの恵みに満ちた知恵を受け、真に賢い乙女となる。しかし、五つの感覚が自然のままの状態にあるならば、愚かになり、世の子であることが明らかになる。なぜなら、彼らは世の精神を捨てていないからである。もっとも、彼ら自身は、ある程度はもっともらしく、外見上は、花婿の花嫁であると考えている。ちょうど、完全に主と結びついている魂が、思いの中で主にとどまり、主に祈りを捧げ、主と共に歩み、主の愛を切望するように、逆に、世の愛に身を委ね、地上に住まいを構えたいと願う魂は、地上を{{r|歩|あゆ}}み、思いの中で地上にとどまり、彼らの心は地上に宿るのである。したがって、彼らは霊的な良き知恵、すなわち私たちの本性には異例なことには傾倒しない。ここで私が言う「良き知恵」とは、私たちの本性と調和し、一体となるために必要な天の恵みのことである。それによって私たちは主と共に天の御国の宮殿に入り、永遠の救いを得ることができるのである。 8. 最初の人間が不従順であったために、私たちは本性にそぐわないもの、すなわち有害な情欲を受け入れ、習慣と長期にわたる同化によって、それらを本性に変えてしまいました。そしてまた、本性には異例の、天からの賜物である聖霊によって、私たちはこの異質なものを追放し、本来の純粋さを取り戻さなければなりません。ですから、今、私たちが多くの祈り、嘆願、信仰、そして実践的祈りをもって、世を嫌悪し、この天からの聖霊の愛を心に受け入れ、悪徳によって汚された本性が愛、すなわち主への愛に固く結びつき、この聖霊の愛によって聖化されず、最後まで非難されることなく、主の戒めに忠実に生きなければ、天の御国に到達することはできないでしょう。 9. 私は、自分の能力の限りを尽くして、繊細で深遠な講話をしようと思っています。ですから、賢明に聞いてください。無限で近づきがたく、創造されていない神は、その限りなく想像を絶する善性において、自らを受肉させ、いわば近づきがたい栄光の中で自らを小さくし、目に見える被造物、すなわち聖人や天使の魂と一体となり、彼らが神性の生命にあずかることができるようにされました。しかし、すべての被造物、すなわち天使、魂、悪魔は、その本質上、肉体です。なぜなら、それらは精錬されているとはいえ、その本質において、その特徴において、そしてその形態において、その性質の精錬に対応して、それらは微細な肉体であり、私たちの肉体は本質的に厚いからです。このように精錬された魂は、見るための目、聞くための耳、同様に話すための舌、そして手を備えています。つまり、魂は全身とその構成要素を身にまとい、肉体と融合することで、すべての生命機能が達成されるのである。 10. 同様に、無限にして想像を絶する神は、その善意において、自らを低くし、この体の肢体を身にまとい、近づきがたい栄光から身を隠されました。人類への謙遜と愛によって変容された神は、肉体を取り、聖なる、喜ばしい、忠実な魂と一体となり、パウロの言葉にあるように、彼らと一つの霊(コリント第一 6章17節)となられました。いわば、魂と魂、位格と位格が一つとなり、神にふさわしく、神に喜ばれる魂が、新たに生き、不滅の命を経験し、朽ちることのない栄光にあずかることができるようにされたのです。神はまた、この目に見える創造物を、無から多様かつ無数の差異をもって存在へと導き、創造されるまでは存在しなかったのです。彼は意志によって、何の苦労もなく、無から荒々しく硬い生き物、例えば山や木々(その性質がいかに硬いか分かるだろう!)を創造し、次に中程度のもの、つまり水を作り出し、水から鳥が生まれるように命じ、さらに繊細なもの、つまり火や風、そしてその繊細さゆえに肉眼では見えないものまでも創造した。 11. そして、神の多様な知恵の限りなく奥深い芸術性が、神の意志によって、粗いもの、繊細なもの、柔らかいものといった肉体を無から創造したように、存在するお方は、その言い表せないほどの善と想像を絶する慈しみによって、ご自身の意志のままに、またご自身の意志のままに、聖なる、ふさわしい忠実な魂にご自身を変容させ、縮小させ、同化させ、彼らの受容性に応じてご自身を肉体とし、目に見えないものが彼らに見えるように、また触れることのできないものが彼らの魂の繊細さに応じて触れることができるように、そして魂が神の善と甘美さを感じ、実際の経験によって言い表せない喜びの光の中で喜びを感じることができるようにされるのです。神が望まれるとき、神は火となり、私たちの中にあるあらゆる価値のない、上昇する霊的な弱さを焼き尽くします。なぜなら、「私たちの神は焼き尽くす火である」(ヘブライ12章29節)とあるからです。そして、神がお望みになるとき、神は言い表せないほどの安息となり、魂は神性の平和の中で安らぎを見いだすことができる。また、神がお望みになるとき、神は喜びと平和となり、魂を温め、守ってくださる。 12. しかし、もし神が霊的な被造物の喜びと歓喜のために、ご自身を被造物の一つ、例えば光の都エルサレムや山、天のシオンにたとえようと望まれるならば、聖書に「しかし、あなたがたはシオンの山、生ける神の都、天のエルサレムに来たのです」(ヘブライ12章22節)とあるように、神はご自身の望むままに何でもなさることができます。神は、ご自身のふさわしい忠実な魂のために、ご自身を変容させることによって、すべてを容易に、都合よく成し遂げられるのです。人がただ神に喜ばれ、神に喜ばれる者となるよう努めるならば、自らの経験を通して、天の祝福、言い表せない喜び、真の意味での神性の限りない豊かさを、具体的に見ることができるでしょう。「目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かんだこともない」(コリント第一 2章9節)とあるように、人は、ふさわしい魂の安息、喜び、歓喜、そして永遠の命となった主の御霊を見るでしょう。福音書に「このパンを食べる者は永遠に生きる」(ヨハネ 6章51節)とあるように、主は食物と飲み物の両方において自らを肉体とし、言い表せないほどの安息を与え、霊的な喜びで満たしてくださいます。主は「わたしは命のパンである」(ヨハネ 6章35節)と言われます。そして同様に、イエスは天の水を飲むことによってご自身を体現しておられます。イエスはこう言われます。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、その人のうちに永遠の命に至る泉となるであろう」(ヨハネ4章14節)。また、「すべての人が霊的な飲み物を飲む」とも言われています(コリント第一10章4節)。 13. こうして、主は御自身の御心のままに、また益となるように、聖なる父祖たち、すなわちアブラハム、イサク、ヤコブ、ノア、ダニエル、ダビデ、ソロモン、イザヤ、そして聖なる預言者たち、すなわちエリヤ、モーセに現れた。そして私は、モーセが山での40日間の断食の間、この霊的な糧によって慰められ、喜んだと信じている。それゆえ、主は御自身の御心のままに、聖徒たち一人ひとりに現れ、彼らを慰め、救い、神の知識へと導いた。主が望むことは何でも主にとって都合が良く、主は御自身の御心のままに謙遜になり、ご自身を肉とし、変容して、主を愛する者たちに姿を現し、その偉大で言い表せない愛によって、それぞれの力に見合った、近づきがたい光の栄光の中でふさわしい姿で現れたのである。そして、大きな願望と希望、信仰と愛をもって、天からの力、すなわち聖霊の天上の愛を自らに受け入れる能力を与えられ、既にその内に不滅の生命の天上の炎を宿している魂は、真に世俗的な愛をすべて放棄し、あらゆる悪徳の束縛から解放される。 14. 鉄や鉛、金や銀が火に入れられると硬さを失い、柔らかい物質に変化し、火の中に留まる間、燃え盛る熱の力によって溶けて本来の硬さが変わるように、魂もまた、世俗を捨て、唯一の主を心からの切なる願いと努力と闘争によって愛し、希望と信仰をもって絶えず主を待ち望み、神性の天の火と聖霊の愛を自らに受け入れたとき、真に世俗の愛をすべて捨て、情欲の害から解放され、すべてを自らから捨て去り、その本来の性質と罪深い硬さを変え、すべてを余剰とみなし、自らに受け入れた唯一の天の花婿に対して、熱烈で言い表せない愛に安らぎを見いだすのである。 15. わたしはあなたがたに言います。たとえ最も愛する兄弟であっても、その愛に囚われているなら、魂はいわば背を向けます。なぜなら、魂の命と平安は、天の王との神秘的で言い表せない交わりにあるからです。肉の交わりへの愛は、父、母、兄弟から人を遠ざけ、彼らに関するすべてのことが心の中で異質なものとなります。そして、人が彼らを愛するなら、異邦人のように愛するのです。それでも、彼はパートナーに対してすべての愛情を抱いています。なぜなら、「それゆえ、人は父と母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」(エフェソ5章31節)とあるからです。ですから、肉の愛がすべての愛をこのように放棄するならば、天の、そして切望される聖霊との交わりに入ることを真に許された人々は、どれほど世に対するすべての愛を放棄し、すべてが彼らにとって余計なものに思えるでしょうか。なぜなら、彼らは天の欲望に征服され、それに深く依存しているからです。そこには彼らの欲望があり、彼らの思考があり、彼らはそこに住み、彼らの思考はそこに歩み、そこには常に心が宿り、神聖で天上の愛と霊的な欲望に征服される。 16. 愛する兄弟たちよ、このように多くの祝福が私たちの前に示され、主によって多くの約束が告げられた今、私たちはあらゆる困難を自分たちから取り除き、世のあらゆる愛から離れ、この一つの善を探し求め、切望することに専念しましょう。そうすれば、祝福されたパウロが「愛を追い求めなさい」(コリント第一 3章1節)と言って私たちに急ぐように勧めた、言い表せない聖霊の愛を得る状態に到達し、私たちの残酷さの後、至高者の右手の転換を授けられ、神の霊の愛によって傷つけられ、柔和と霊的な安息に至ることができるでしょう。なぜなら、私たちがあらゆる反対から自分自身を解放し、完全に主に向き直るとすぐに、主は大きな憐れみをもって私たちを憐れんでくださるからです。たとえ、大きな無知ゆえに、幼稚さゆえに、あるいは私たちの中に根付いた悪徳のために、私たちが人生から背を向け、自ら多くの障害を作り出し、真に悔い改めようとしないとしても、私たちに忍耐強い神は、私たちが神に立ち返り、内なる人を啓発するやいなや、大きな慈悲を示し、審判の日に私たちの顔が恥じないようにしてくださる。 17. たとえこれが、徳の行いの厳しさ、あるいはむしろ敵対者の誘惑や助言のために、私たちにとって困難に思えたとしても、主は慈悲深く忍耐強く、私たちの回心を待っておられます。私たちが罪を犯しても、悔い改めを期待して耐え忍ばれ、私たちが倒れても、預言者が言ったように、「倒れた者は立ち上がらないだろうか。背を向けた者は戻ってこないだろうか」(エレミヤ書8章4節)とあるように、主は私たちを再び受け入れることを恥じられません。私たちは、良い考えを得て初めて冷静になれるのです。主の助けを求め、より速やかに、より正しく主のもとに立ち返りましょう。主は私たちを救う準備ができています。なぜなら、主は私たちの力、善意、信仰と熱意の意志に応じて、私たちが主に向かって熱心に努力するのを待っておられ、主ご自身が私たちの中にすべての進歩をもたらしてくださるからです。ですから、愛する皆さん、私たちはあらゆる偏見、怠慢、怠惰を捨て去り、神の子として、勇気をもって神に従う準備を整えるよう努めましょう。悪徳に誘惑されて、これを日々先延ばしにしてはなりません。なぜなら、私たちが肉体から離れる時がいつ来るかは誰にもわからないからです。キリスト者への約束は偉大で、言葉では言い表せないほどです。天と地のあらゆる栄光と美しさ、そして目に見えるもののあらゆる装飾、多様性、豊かさ、美しさ、そして喜びをもってしても、一人の魂の信仰と豊かさには到底及ばないほどです。 18. 主からこれほど多くの励ましと約束をいただいているのに、どうして私たちは、福音に従って、何よりもまず主に完全に引き寄せられ、自らを主に捧げ、魂さえも捨て、主だけを愛し、他の何ものも愛さないことを望まないでしょうか。見よ、これらすべてが私たちに与えられ、なんと栄光に満ちたことでしょう。父祖や預言者の時代から、主はどれほど多くの配慮を私たちに示してくださったことでしょう。どれほど多くの約束が宣言され、どれほど多くの励ましが与えられ、主は初めからどれほどの慈しみを示してくださったことでしょう。そしてついに、主は来臨の際に、十字架を通して私たちに言い表せないほどの善意を示し、私たちを回心させて命へと導いてくださいました。それなのに、私たちはなおも自分の欲望、世への愛、悪しき偏見や習慣にしがみつき、それによって信仰が乏しい、いや、信仰がないことを証明しているのです。しかし、こうしたことすべてにもかかわらず、主は私たちに慈悲深く、目に見えない形で私たちを守り慰め、私たちの罪や悪徳、世の誘惑に応じて私たちを完全に裏切ることはなく、その偉大な善意と忍耐によって、私たちがいつか主のもとに立ち返ることを心に留めて、私たちを滅びさせないのです。 19. しかし、軽蔑的に生き、偏見に導かれている私たちの中に、使徒の言葉が成就するのではないかと私は恐れています。「それとも、あなたがたは神の恵みと寛容と忍耐の豊かさを軽んじているのですか。神の恵みがあなたがたを悔い改めに導くことを知らないのですか」(ローマ2章4節)。もし、神の忍耐と恵みと寛容にもかかわらず、私たちが罪を増やし、怠慢と無関心によって最も厳しい裁きを自ら招くならば、使徒の言葉が私たちの中に成就するでしょう。「しかし、あなたがたは頑なで悔い改めない心のために、怒りの日、すなわち神の正しい裁きが明らかにされる日に、自分のために怒りを積み重ねているのです」(ローマ2章5節)。神の慈しみは偉大で計り知れないものであり、人類に対する神の忍耐は言い表せないほどである。ただ私たちが冷静になり、完全に神に立ち返ろうと努めるならば、救いを得ることが可能になるだろう。 20. 神の忍耐と大きな善意を知りたいなら、霊感を受けた聖書から学ぶことができます。約束が与えられた「先祖」であるイスラエル人を見てください。 「肉によれば、キリストも彼らから出た。キリストの働きと契約である」(ローマ9章4-5節)。彼らはどれほど罪を犯したでしょうか。どれほど何度も背き去ったでしょうか。しかし、神は最後には彼らを見捨てませんでした。しかし、しばらくの間、彼らの益のために、彼らを罰に委ね、悲しみによって彼らの心の頑なさを和らげようとし、彼らを回心させ、彼らを励まし、預言者を彼らに送りました。彼らが罪を犯し、神を怒らせたとき、神はどれほど長く彼らに対して忍耐されたでしょうか。神は、回心した人々を喜んで受け入れました。そして彼らが再び背を向けたとき、イエスは彼らを見捨てず、預言者を通して彼らを回心へと招き、彼らはしばしばイエスから背を向けたり、イエスに向き直ったりしたが、イエスは彼らに好意的に出会い、人間的に彼らを受け入れた。しかし、ついに彼らは大きな罪に陥り、自分たちの主であるイエスに手をかけてしまった。彼らはイエスを、父祖たちと聖なる預言者たちの伝承によれば、自分たちの贖い主、救い主、王、預言者として期待していたのである。イエスが来られたとき、彼らはイエスを受け入れず、大いに嘲弄し、ついには十字架上での死刑を宣告した。そして、この大きな侮辱と極悪非道な罪によって、彼らの罪は幾重にも重なり、極限に達した。そのため、最終的に彼らは、聖霊が彼らから離れ、教会の幕が裂けた後、見捨てられたのである。そのため、彼らの神殿は異教徒に引き渡され、主の「ここには石一つ残らず破壊されるであろう」(マタイ24章2節)という御言葉に従って破壊され、荒廃した。こうして彼らは異教徒に決定的に引き渡され、捕虜として捕らえられた王たちによって世界中に散らされ、二度と故郷に帰ることを禁じられた。 21. こうして今もなお、神は私たち一人ひとりに慈しみ深く親切であり、その忍耐を示しておられます。神は一人ひとりの多くの罪を見ておられますが、時が経てばその人が正気に戻り、改心して、もはや神を怒らせなくなるかどうかを見守っておられます。そして、罪から立ち返る人々を大きな愛と喜びをもって受け入れてくださいます。なぜなら、神はこう言われているからです。「悔い改める罪人は幸いである」(ルカ15章10節)。また、「わたしの父は、これらの小さな者の一人でも滅びることを望まれない」(マタイ18章14節)。しかし、もし誰かが、神の大きな慈しみと忍耐にもかかわらず、隠れた罪であれ公然の罪であれ、あらゆるつまずきの石に対して罰を受けず、それを見ても悔い改めを待つかのように沈黙し、自ら大きな軽蔑の境地に達して、罪に罪を重ね、不注意に不注意を重ね、一つの罪の上に別の罪を重ね、罪の量を満たしてしまうならば、その人はついに逃れることのできない罪に陥り、打ち砕かれ、悪魔に身を委ねて、最後には滅びるのです。 22. ソドムの民も同様でした。彼らは多くの罪を犯し、悔い改めず、ついには天使たちに対して悪意をもって同性愛行為をしようとしました。彼らは悔い改める余地もないほどの罪に陥り、最終的には追放されました。なぜなら、彼らは罪を犯し、その罪の限界を超えていたからです。そのため、神の裁きによって、彼らは火で焼き尽くされました。ノアも同様でした。彼らは繰り返し神を怒らせ、悔い改めず、罪の極みに達し、ついには全地を堕落させました。同様に、エジプト人も神を大いに怒らせ、神の民に対して罪を犯しましたが、神はなおも慈悲深く、彼らを完全に滅ぼすような災いを下すのではなく、教訓として、彼らを回心と悔い改めに促すために、軽い打撃を与え、神の忍耐と彼らの悔い改めを待つことを示されました。しかし彼らは、神の民に対して甚だしい罪を犯し、悔い改めようとしたものの、結局は昔からの不信仰と悪意に固執し、神の民に重荷を負わせた。そしてついに、神がモーセを通して多くの奇跡によって民をエジプトから導き出した時、彼らは神の民を追及するという大罪を犯した。それゆえ、神の裁きはついに彼らを滅ぼし、水の中に沈め、目に見える命に値しない者とみなしたのである。 23. 同様に、イスラエル人も前述のとおり、しばしばつまずき罪を犯し、神の預言者を殺し、その他多くの悪事を働いていましたが、神は黙って忍耐し、彼らの悔い改めを待っておられました。ついに彼らはつまずき、打ち砕かれ、二度と立ち上がることができませんでした。それは、彼らが主の威厳に手をかけたからです。こうして、彼らはついに神に見捨てられ、拒絶されました。預言、祭司職、神への奉仕は彼らから取り上げられました。これらすべては、信じる異邦人に与えられました。主はこう言われます。「王国はあなたがたから取り上げられ、その実を結ぶ民に与えられる」(マタイ21章43節)。この時まで、神は彼らを耐え忍び、忍耐を絶やさず、彼らに憐れみをかけることを止めませんでした。しかし、彼らは主の威厳に手をかけたことで、罪の量を満たし、それを超えてしまったので、最終的に神に見捨てられたのです。 24. 愛する皆さん、私たちはこのことについて、聖書から得た考えを交えながら詳しく述べてきました。それは、私たちに憐れみ深く、私たちがすべての悪と邪悪な偏見から完全に離れるのを待っておられ、立ち返る者を大いに喜んで受け入れてくださる主のもとへ、できるだけ早く立ち返らなければならないということです。私たちが詳しく述べたのは、私たちの怠慢が日ごとに増し加わらず、罪が私たちのうちに増えず、それによって神の怒りを招くことがないようにするためです。ですから、誠実な心で立ち返り、神に近づこうと努めましょう。絶望は悪意と欺瞞の誘惑ですから、過去の罪を思い出して救いを絶望してはなりません。まさにこの理由で、人は絶望、無気力、怠慢、不注意に陥り、主のもとに立ち返って来たにもかかわらず、人類に対する主の大きな憐れみによって救いを受けられないのです。 25. もし、私たちを圧倒する無数の罪から立ち返ることが不可能で困難であるように思えるならば(そして、すでに述べたように、そのような考えは悪意の注入であり、私たちの救いの妨げとなる)、主がその善意をもって私たちのもとに来られ、盲人の視力を与え、麻痺した人を癒し、あらゆる病を治し、すでに腐敗と破壊に触れていた死者をよみがえらせ、耳の聞こえない人の聴力を開かせ、一人の人から悪霊の大群を追い出し、狂気に陥っていた人を正気に戻されたことを思い起こし、見過ごしてはならない。ましてや、主のもとに立ち返り、主の慈悲を求め、主の助けを叫び求める魂は、主によって改心させられ、無情の純潔へと導かれ、あらゆる徳を培い、心を新たにすることができるのである。神は、魂に健康、洞察力、心の平安を与え、不信仰、無知、無畏による盲目、{{r|聾唖|ろうあ}}、死の状態から、徳による貞潔と心の清らかさへと導いてくださる。肉体を創造された方は、魂も創造されたからである。地上におられた時、善き唯一の医者のように、神は慈しみ深く、誰にでも必要なものを惜しみなく与えてくださった。それと同じように、霊的な事柄においても、神は寛大であられる。 26. もし主が、再び朽ち果て死にゆく肉体に対してこれほど慈悲深く、求める者すべてに快く親切にそうしてくださったのであれば、無知、悪徳、不信仰、恐れ知らず、その他の罪深い情欲の病に陥りながらも、主のもとに来て助けを求め、主の憐れみを仰ぎ、あらゆる悪徳と情欲からの解放と自由のために主から聖霊の恵みを受けたいと切望する不滅で朽ちることのない魂に対しては、なおさら主はどれほどそうしてくださることでしょう。主は、この御言葉にあるように、速やかに癒しと解放を与えてくださいます。「昼も夜も主に叫び求める者たちに、天の父はどれほど報復されることでしょう。」主はこれに加えてこう言っておられます。「わたしはあなたがたに言います。父は速やかに彼らに報復されるでしょう。」(ルカ18章7-8節)また別の箇所では、「求めなさい。そうすれば与えられます。求める者はみな受け、探す者は見つけ、たたく者には開かれるからです」(マタイ7章7-8節)と教えています。さらに、 「あなたがたの天の父は、求める者に聖霊をどれほど与えてくださることでしょう」 (ルカ11章13節)とも述べています。「まことに、あなたがたに言います。たとえ友だちだからといって与えなくても、その悪行のゆえに、立ち上がって必要なだけ与えてくださるでしょう」(ルカ11章8節)。 27. そして、これらすべてを通して、主は私たちに、主の恵み深い執り成しを絶えず、疲れを知らずに求めるようにと促されました。主は罪人のために来られ、彼らが主に立ち返り、主が主を信じる人々を癒すためです。私たちは、できる限り悪しき偏見を捨て、悪しき追求や世俗的な欺瞞を憎み、邪悪で虚しい考えから離れ、常にできる限り主にしがみつくようにしましょう。そうすれば、主は私たちに助けを与えてくださいます。主は非常に慈悲深く、命を与え、治らない情欲を癒し、主を呼び求め、自らの自由意志で主に立ち返り、できる限り世俗的な愛から自由に離れ、心を地上から離し、願いと探求を主に向ける人々に救いをもたらしてくださいます。魂は、あらゆるものを不必要なものと考え、この世の何物にも頼らず、ただ一つのこと、すなわち神の恵みによって慰められ、喜ばれることを安息として待ち望むとき、神の助けを受けるにふさわしい者となる。それゆえ、そのような信仰のために天の賜物を受け、恵みによって確かに欲望を鎮め、聖霊にふさわしく適切な方法で仕え、日々善行を重ね、義の道から逸れることなく、最後まで悪に屈せず、悪と交わらず、いかなる点においても恵みを害することなく、この世に生きていた間に模範としたすべての聖人たちと共に、彼らと分かち合い、共に永遠の救いを受けるにふさわしい者とみなされる。アーメン。 :::[[50の霊的講話/講話4#講話4|先頭に戻る↑]] {{DEFAULTSORT:50のれいてきこうわ04}} <!--[[Category:1880年]] [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教の歴史]]--> [[Category:キリスト教神学]] [[Category:マカリオス]] [[Category:50の霊的講話|04]] {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- モスクワ神学アカデミー訳、Духовные беседы (1–50) の講話4を翻訳。 --> 45o43fe7o8ztvtuluvklwymiu14b5kt 経済産業大臣が独立行政法人情報処理推進機構の保有するRapidus株式会社の株式に係る議決権等の行使に関する同機構からの協議において同意をするかどうかを判断するための基準 0 56834 243184 2026-06-15T07:59:39Z HTDFPC 45275 ページの作成:「{{Header |title={{PAGENAME}} |year=2026 |notes= {{現行法令掲載}} * 令和8年経済産業省告示第8号 * 告示日:令和8年2月17日 * 底本:[https://www.kanpo.go.jp/old/20260217/20260217h01648/20260217h016480003f.html 令和8年2月27日付官報第1648号] {{デフォルトソート:けいさいさんきようたいしんかとくりつきようせいほうしんしようほうしよりすいしんきこうのほゆうするRapidusか…」 243184 wikitext text/x-wiki {{Header |title={{PAGENAME}} |year=2026 |notes= {{現行法令掲載}} * 令和8年経済産業省告示第8号 * 告示日:令和8年2月17日 * 底本:[https://www.kanpo.go.jp/old/20260217/20260217h01648/20260217h016480003f.html 令和8年2月27日付官報第1648号] {{デフォルトソート:けいさいさんきようたいしんかとくりつきようせいほうしんしようほうしよりすいしんきこうのほゆうするRapidusかふしきかいしやのかぶしきにかかるきけつけんとうのこうしにかんするとうきこうからのきようきにおいてとういをするかとうかをはんたんするためのきしゆん}} [[Category:令和8年の経済産業省告示]] }} ;〇経済産業省告示第八号  [[情報処理の促進に関する法律]](昭和四十五年法律第九十号)第四十九条第一項の規定を実施するため、経済産業大臣が独立行政法人情報処理推進機構の保有するRapidus株式会社の株式に係る議決権等の行使に関する同機構からの協議において同意をするかどうかを判断するための基準を次のように定め、令和八年二月十七日から施行する。 ::令和八年二月十七日 {{Right|経済産業大臣  [[w:赤澤亮正|赤澤 亮正]]|2em}} '''第一条''' 経済産業大臣は、独立行政法人情報処理推進機構(以下単に「機構」という。) から、機構が 保有するRapidus株式会社のC―1種種類株式([[会社法]](平成十七年法律第八十六号)第百八条第二項に基づきRapidus株式会社定款(以下単に「定款」という。) に定められたC―1種種類株式をいう。第三条において同じ。) の株主を構成員とする株主総会又はRapidus株式会社の株主総会において議決権を行使しようとする旨の協議があった場合において、その議決権の行使が半導体に関する政策目的の達成に資するものであると認めるときは、 同意をするものとする。 '''第二条''' 経済産業大臣は、機構から、機構が保有するRapidus株式会社の拒否権付株式(会社法第百八条第二項に基づき定款に定められた拒否権付株式をいう。) の株主を構成員とする株主総会(以下この条において「拒否権付株式種類株主総会」という。) において当該拒否権付株式種類株主総会の決議事項を否決又は当該拒否権付株式種類株主総会を欠席若しくは棄権しようとする旨の協議があった場合において、当該決議事項が次の各号に掲げる基準のいずれかに適合すると認めるときは、同意をするものとする。 :一 当該決議事項を可決することにより、経済安全保障上の懸念が生じると認められること。 :二 前号に該当しない場合であって、当該決議事項を可決することにより、半導体に関する政策目的の達成が困難になる懸念が生じると認められること。 '''第三条''' 経済産業大臣は、機構から、 機構が保有するRapidus株式会社のC―2種種類株式 (会社法第百八条第二項に基づき定款に定められたC―2種種類株式をいう。以下この条において同じ。) をC―1種種類株式に転換しようとする旨の協議があった場合において、次の各号に掲げる基準のいずれにも適合すると認めるときは、同意をするものとする。ただし、当該協議が、Rapidus株式会社の株主のうちその有する議決権の数が最も多い者となるためのものである場合には、この限りでない。 :一 Rapidus株式会社において、 次のいずれかに掲げる経営上重大な懸念が生じていること。 ::イ 経営改善を講じた上でなお、今後の事業展開に深刻な問題が発生することにより短中期的に支払不能又は債務超過が発生する見通しが高いと認められること。 ::ロ 主要経営者が長期間にわたり職務遂行不能(病気による長期療養や不慮の事故等をいう。) であると認められること。 ::ハ Rapidus株式会社による粉飾決算、法令違反、重大な契約違反又は政府に対する虚偽報告の発覚 :二 前号の経営上重大な懸念の改善について、機構とRapidus株式会社との間で協議を実施してもなお具体的な改善が見込まれないと認められること。 {{PD-JapanGov}} 35f28gygy05r0xm77zp2sn66fflc9y1 50の霊的講話/講話5 0 56835 243189 2026-06-15T10:45:10Z 村田ラジオ 14210 モスクワ神学アカデミー訳、Духовные беседы (1–50) の講話5を翻訳。 243189 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = 50の霊的講話 | section = 講話5 | previous = [[../講話4|講話4]] | next = [[../講話6|講話6]] | year = 1880 | 年 = | override_author = [[w:en:Macarius of Egypt|エジプトのマカリオス]] | override_translator = モスクワ神学アカデミー | noauthor = | notes = *底本: [https://azbyka.ru/otechnik/Makarij_Velikij/duhovnye-besedy-1-50/ Духовные беседы (1–50)] *ウィキソースによる日本語訳 }} マカリオス50の霊的講話 ==講話5== << キリスト教徒とこの世の人々の間には大きな違いがある。世俗的な精神を内に宿し、心と精神において地上の束縛に縛られている人々がいる一方で、天の父の愛を切望し、ただ父だけをすべての願いの対象とする人々もいる。 >> 1. キリスト教徒には独自の生き方、独自の考え方、独自の言葉、独自の行動があります。しかし、この世の人々の間では、生き方、考え方、言葉、行動は異なります。キリスト教徒と平和を愛する人々は全く別物であり、両者の間には大きな隔たりがあります。地上の住人、この時代の子供たちは、この世のふるいを通してふるいにかけられた小麦のようなものです。この世の移ろいやすい思い、絶え間なく続く地上の事柄、欲望、そして絡み合った物質的な概念の動揺の中でふるいにかけられているのです。サタンは魂を動揺させ、ふるい、すなわち地上の行いによって、罪深い全人類をふるいにかけるのです。アダムが戒律を破り、彼を支配する邪悪な君主に服従した堕落以来、彼は絶え間なく誘惑的で落ち着きのない思考でこの時代のすべての子らをふるいにかけ、地上のふるいの中で彼らを争いに巻き込んできた。 2. 小麦がふるいの中で叩かれ、ふるいにかけられるたびにひっくり返されるように、悪の君主はすべての人々を地上の事柄で占め、揺さぶり、混乱と不安に陥れ、空しい考え、卑しい欲望、地上的で世俗的なつながりに固執させ、アダムの罪深い全人類を絶えず魅了し、動揺させ、罠にかけます。主は使徒たちに、悪魔が彼らに対して将来反逆することを預言されました。 「サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけるように懇願している。しかし、わたしは父に祈った。あなたがたの信仰が失われないようにと」(ルカ22章31-32節)。創造主がカインに明確に語ったこの言葉と定義、「あなたは地上でうめき、震え、不安に苛まれるであろう」(創世記4章12節)は、すべての罪人のイメージと類似点として密かに機能しています。アダムの子孫は戒めを破り罪を犯したため、密かにこの姿に似た者となった。人々は、移ろいやすい恐怖、不安、あらゆる種類の混乱、欲望、そして様々な快楽の思いによってためらうようになる。この世の支配者は、神から生まれていないすべての魂をかき立て、ふるいの中で絶えず回転する小麦のように、様々な方法で人間の思いをかき混ぜ、すべての人を動揺させ、世俗的な誘惑、肉欲的な快楽、恐怖、混乱で彼らを罠にかける。 3. 主は、悪魔の欺きと欲望に従う者たちがカインの悪に似ていることを示し、彼らを叱責して言われた。「あなたがたは、初めから人殺しであり、真理に立っていない、あなたがたの父の欲望を行おうとしている」(ヨハネ8章44節)。それゆえ、アダムの子孫である罪深い人類全体が、密かに同じ裁きを受けている。あなたがたは、うめき、震えながら、あなたがたを蒔くサタンによって、地のふるいの中で苦しめられるであろう。ちょうど一人のアダムから全人類が地上に広がったように、ある特定の情欲的な堕落が罪深い全人類に浸透し、悪の君だけが、移り気で、物質的で、虚栄心に満ちた、反抗的な思いをすべての人に蒔くことができるのである。そして、一つの風がすべての植物と種を揺らし、渦巻かせることができるように、そして、夜の闇が全宇宙に広がるように、悪の君主は、ある種の心の闇である罪と死、隠れた残酷な風として、地上の全人類を圧倒し、渦巻き、移ろいやすい思いと世俗的な欲望で人々の心を捉え、上から生まれず、思いと精神が別の時代に移されていないすべての魂を、無知、盲目、忘却の闇で満たします。それは、「私たちの命は天にある」(フィリピ3章20節)と言われているとおりです。 4. このように真のキリスト教徒は全人類と区別され、先に述べたように、キリスト教徒と他の人々との間には大きな隔たりがあります。なぜなら、キリスト教徒の心と理解は常に天上の事柄について哲学することに費やされ、聖霊の交わりと参与を通して永遠の祝福を観想するからです。彼らは神から天から生まれたので、その実在と力において神の子となるにふさわしいとみなされ、多くの長く続く苦闘と努力を通して、もはや移ろいやすく無益な考えに惑わされたり動揺したりすることなく、不動性、堅固さ、平静、平和を達成しました。したがって、まさにこの事実によって、彼らは世の人々よりも高く、優れているのです。なぜなら、彼らの心と霊的な知恵はキリストの平和と聖霊の愛の中に留まっているからです。主がそのような人々について語られたとき、彼らは「死から命へ移った」(ヨハネ5章24節)と言われたように。したがって、多くの人が信じているように、キリスト教徒の区別は外見や外見の形式にあるのではなく、キリスト教徒同士が外見や形式において異なっているわけでもありません。実際、彼らは心と理解の両面において世の人々と似ています。他のすべての人と同様に、彼らも同じように、思考の揺れ動きや混乱、不信仰、動揺、そして恐れを経験します。彼らは外見や意見、そしてある種の外的な美徳において世の人々とは異なりますが、それでもなお、彼らの心と精神は地上の束縛に縛られており、神の平安と天上の霊的な平安を心に得ていません。なぜなら、彼らは神からこれらが与えられることを求め、信じていないからです。 5. 新しい創造物、すなわちキリスト教徒は、心の刷新、心の平安、愛、そして主への天上の献身によって、この世のすべての人々から区別されます。主の到来はまさにこの目的のためであり、真に主を信じる人々がこれらの霊的な祝福を受けるにふさわしいと認められるためでした。キリスト教徒には栄光、美、そして天上の言い表せないほどの富が属しており、それは労働、汗、試練、そして多くの苦闘を通して獲得されますが、それは神の恵みによってのみ得られるものです。そして、地上の王の姿はすべての人が望むものです。王都に来る者は誰でも、少なくともその美しさ、あるいはその衣服の豪華さ、紫の輝き、様々な真珠の美しさ、王冠の輝き、そして王家の紋章の貴重さを垣間見たいと願います。霊的に生きる人々は、おそらくこのことをそれほど重んじないだろう。彼らは、天上の栄光と肉体の栄光をすでに経験し、言葉では言い表せない美しさに触れ、別の豊かさを分かち合い、内なる人に従って生き、別の霊にあずかっているからだ。しかし、この世の霊を内に宿すこの世の人々は、地上の王、特にそのあらゆる輝きと栄光を目にすることを切望する。王の目に見える壮麗さは他の誰をもはるかに凌駕するからこそ、誰もが王を見るだけでも栄光に満ち、望ましいことなのである。そして、誰もが心の中でこう思う。「ああ、誰かが私にこの栄光、この輝き、この装飾を与えてくれたら!」こうして王は、自分と同じような地上の、しもべのような、死すべき人間を祝福する。その人間は、一時的な輝きと栄光で、人々の欲望を掻き立てるのだから。 6. しかし、肉的な人間が地上の王の栄光をこれほどまでに切望するならば、神の命の霊の露が降り注ぎ、天の王キリストへの神の愛によって心が傷ついた人々は、真実にして永遠の王キリストの美しさ、言い表せない栄光、不滅の輝き、想像を絶する富に、なおさら深く心を奪われる。彼らは欲望と愛に身を委ね、キリストのためにひたすら努力し、霊の中で思い描く言い表せない祝福を得ようと切望する。そのため、彼らは地上のあらゆる美しさ、栄光、輝き、名誉、そして王や君主の富を何とも思わない。なぜなら、彼らは神の美しさによって傷つけられ、天の不滅の命が彼らの魂に宿っているからである。それゆえ、彼らは天の王の唯一の愛を切望し、ただ主だけを目の前に望むことを強く望み、主のために世俗の愛をすべて捨て、地上のあらゆる束縛から遠ざかり、常にこの唯一の願いを心に抱き、他の何ものも混ぜないようにするのです。 7. しかし、良い始まりから良い終わりまでを成し遂げ、つまずくことなく目標に到達し、唯一の神への愛を貫き、すべてを捨て去った人はごくわずかです。多くの人が悔い改め、天の恵みにあずかり、天の愛に心を打たれます。しかし、道中で遭遇する悪魔からの様々な苦闘、葛藤、労苦、誘惑に耐えきれず――誰もがこの世の何かを愛し、その愛を完全に捨て去ることを望まないからです――弱さや怠惰、あるいは自分の意志への恐れ、あるいは地上の何かへの愛ゆえに、様々な世俗的な欲望に逆戻りし、この世にとどまり、その深みに沈んでしまいます。そして、最後まで善き人生を送ろうと真に決意する者は、この天の愛と共に、他のいかなる愛や信仰も自ら受け入れたり、混ぜ合わせたりしてはなりません。さもなければ、霊的な道への障害を作り出し、道を誤り、最終的には命を失うことになるからです。神の約束が偉大で、言葉では言い表せないほど不可解であるように、私たちにも信仰と希望と努力と偉業と長期にわたる試練が必要です。天の御国を望む人が受けようと願う祝福は、決して小さなものではありません。キリストと共に永遠に統治することを願うなら、この世の短い人生、すなわち死に至るまでの間、熱心に苦闘や努力、誘惑に耐える決意をしないでしょうか。主はこう叫ばれます。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、日々喜びながらわたしに従いなさい」(マタイ16章24節)。また、「だれでも父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まなければ、わたしの弟子になることはできない」(ルカ14章26節)。しかし、多くの人々は、神の国を受け継ぎ、永遠の命を相続したいと願いながらも、自分の欲望に従って生きることを拒まず、むしろ、自分の欲望の中に虚しさを蒔く者に従ってしまう。そして、自己を否定することなく、不可能な永遠の命を相続しようとするのである。 8. 主の言葉は真実です。主の戒めに従って、完全に自己を捨て、世俗的な欲望、繋がり、気晴らし、快楽、追求を全て嫌悪し、主だけを目の前に置き、主の戒めを成就することを願う者は、つまずくことなく歩みます。したがって、真に王国を受け継ぎ、自己を捨てることを望まない限り、誰もが自分の意志によって迷いに陥ります。彼らはこの愛と共に、他の何かを愛し、この世の快楽や欲望にふけり、意志と欲望の及ぶ限り、主に対する完全な愛を持っていません。この一つの例から、この全てが理解できるでしょう。人は時として、理性によって、自分がしようとしている行為が何とも相容れないものであると結論づけることがあります。しかし、その行為を愛し、それを捨てないために、自己に打ち勝つことを諦めてしまうのです。最初は、心の中で葛藤、対立、均衡、傾き、優勢があり、ある時は神への愛、ある時は世への愛がある。そして人は兄弟と口論や論争をするべきかどうか考え始める。心の中でこう言う。「彼に話しかけよう。いや、話しかけない。彼に話しかけよう。いや、話しかけない。」彼は神を覚えているが、自分の栄光も守ろうとし、自分を捨てない。しかし、愛と世への傾きが心の天秤を上回れば、たちまち邪悪な考えが唇を動かす準備ができる。すると心は、張り詰めた矢のように、内側から舌で隣人を射、自分の栄光を守るために、意志の強制もなく、卑猥な言葉の矢を放つ。そして彼は卑猥な言葉で隣人を刺し続け、罪が体の各所にまで及ぶ。そして時として、これらの人々は口論を交わし、邪悪​​な欲望に駆り立てられて殴り合いや傷を負わせ、ついには殺人にまで至り、死に至ることもある。この問題がどのように始まり、人間の意志によって心の天秤を凌駕した世俗的な栄光への愛がどのような結末を迎えたかを考えてみよう。人間が自己を捨てず、この世の何かを愛するがゆえに、こうした矛盾はすべてそこから生じるのである。 9. すべての罪と悪事を同じように考えなさい。悪徳は、世俗的な欲望、誘惑、肉欲的な快楽によって、心の意志を惑わし、傾けます。姦淫や盗み、貪欲や酩酊、強欲や虚栄心、嫉妬や権力欲、その他あらゆる悪事は、このようにして準備されます。時には、栄光や人からの称賛のために、一見善行に見えることが行われます。しかし、これは神の前では、不正、盗み、その他の罪に等しいのです。なぜなら、「神は人を喜ばせる者の骨を散らす」(詩篇52篇6節)とあるからです。一見善行に見えるものでさえ、悪人は自分の利益になると考えます。悪人は世俗的な欲望において、実に多様で欺瞞に満ちています。人が自らの自由意志で縛り付けるあらゆる地上的で肉欲的な愛は、罪によって捕らえられ、彼にとって束縛、束縛、重荷となり、悪の時代に彼を溺れさせ、苦しめ、力を蓄えて神に立ち返ることを許さない。人がこの世で愛したものは何でも、彼の心を重くし、支配し、力を蓄えることを許さない。これこそが、悪の均衡、傾向、優勢を左右する。これによって、全人類が試され、都市に住んでいようと、山に住んでいようと、修道院に住んでいようと、野原に住んでいようと、砂漠に住んでいようと、すべてのキリスト教徒が試される。なぜなら、人は自らの意志で捕らえられ、何かを愛し始めるからである。彼の愛は何かに縛られ、もはや完全に神に向けられていない。例えば、ある人は財産を愛し、ある人は金銀を愛し、ある人は人間の栄光のために世俗的な知恵を学んだ。ある人は権力を愛し、ある人は栄光と人間の名誉を愛し、ある人は怒りと苛立ちを愛した。そして、人がこれらのものを愛するのは、まさにその情欲にすぐに屈してしまうからである。ある者は時期尚早な集まりを好み、またある者は嫉妬を好む。ある者は一日中気晴らしと快楽にふけり、またある者は怠惰な考えに惑わされ、またある者は人間の栄光のために律法学者のようになりたがり、またある者は無為と怠惰を喜び、またある者は衣服やぼろ切れに執着し、またある者は世俗的な心配事に身を委ね、またある者は睡眠や冗談、あるいは下品な言葉を愛する。人がこの世に執着するものが何であれ、それが小さいものであれ大きいものであれ、その人を阻み、力を蓄えることを妨げているのである。人がどんな情欲にも勇敢に戦わなければ、その人はそれを愛し、それがその人を支配し、重荷となり、その人の心が神に向かい、神を喜ばせ、ただ神に仕えることによって神の国に役立ち、永遠の命を得ることを妨げる鎖と障害となるのである。 10. しかし、真に主を求める魂は、その愛を主だけに向け、力の及ぶ限り、自らの意志で主だけにしがみつき、それによって恵みの助けを得て、自己を否定し、心の欲望に従わない。なぜなら、常に私たちと共にあり、私たちを欺く悪のために、魂は欺瞞的に歩むからである。それとは逆に、魂は主の言葉に完全に身を委ね、意志の及ぶ限り、目に見えるすべての束縛を放棄し、完全に主に身を委ねる。そうすれば、魂は苦闘や労苦、悲しみに耐えることができる。魂が愛するものは、助けにも重荷にもなるからである。もし魂がこの世の何かを愛するならば、まさにそのものが人にとって重荷となり、束縛となり、人を下に引きずり下ろし、神へと昇ることを妨げてしまうのである。しかし、もし魂が主とその戒めを愛するならば、苦難や労苦、悲しみに耐えることができるでしょう。このことによって、魂は助けと安らぎを見出します。主への愛を完全に保っているという事実そのものによって、主のすべての戒めが彼にとって容易になるのです。これは人を善に浸らせ、あるいはむしろ、彼を軽くし、あらゆる苦難と悲しみを容易にします。神の力によって、彼は世と悪の力を打ち倒します。それらは魂を世に{{r|囚|とら}}え、世の深淵であらゆる種類の欲望の網に絡め取っているのです。このように、魂が主を愛するやいなや、自らの信仰と大きな努力によってこれらの網から引き抜かれ、同時に、天からの助けによって永遠の王国にふさわしい者とみなされ、真にそれを愛したゆえに、自らの意志と主の助けによって、もはや永遠の命を奪われることはないのです。 11. しかし、実際にどれだけの人が自らの自由意志で命を落とし、海で溺れ、あるいは捕虜として連れ去られるのかをより明確に証明するために、家が燃えていると想像してみましょう。ある人は、火事を知るとすぐに、自分の命を救おうとして、すべてを捨てて逃げ出し、自分の魂だけを気遣うことに決め、助かります。別の人は、家財道具か何かを持って行こうとして、それらを取りに家に入り、それらを取っている間に火が家に燃え移り、家の中に閉じ込められて焼かれてしまいます。この人は、自分の自由意志で、つまり、一時的に自分以外の何かを愛したために、火の中で命を落としたことが分かりますか?同様に、海を航海している人が激しい嵐に遭い、一人は裸になり、自分だけを救おうとして水に飛び込んだ。すると、波に流され、魂の心配以外に何も縛られず、波の上に浮かび、苦い海から逃れる機会を見つけた。もう一人は、服を少しでも残しておけば泳いで海から出られると考えた。しかし、持っていった服が重くて海の底に沈んでしまい、魂を顧みず、わずかな利益のために命を落とした。自分の意志で死の犠牲者になったことに気付くだろうか。また、外国人についての噂が広まったと想像してみよう。一人はこれを聞くとすぐに逃げ出し、少しもためらわずに手ぶらで出発した。もう一人は敵が来ることを信じず、あるいは自分の持ち物を奪おうと決心して、逃げるのを遅らせた。こうして敵がやって来て彼を捕らえ、異国の地へ捕虜として連れ去り、そこで奴隷として暮らすことを強いた。この男もまた、自らの自由意志で、行動を起こさなかったこと、勇気がなかったこと、そして特定の物事への愛着のために捕虜となったことが分かるだろうか? 12. 同様に、主の戒めに従わず、自分を否定せず、主だけを愛さず、自ら進んで地上の束縛に縛られた者たちは、永遠の火が来るとき、善行に関して捕虜、いやむしろ囚人となった者たちのように、世の愛に溺れ、悪の苦い海に沈み、異国の捕虜、すなわち悪霊に捕らわれて滅びるのです。もしあなたがたが、聖なる、神に霊感を受けた聖書から主への完全な愛の真理を学びたいと願うなら、ヨブが、いわば自分の持っていたすべて、すなわち子供、財産、家畜、奴隷、その他の所有物をすべて捨てた様子を見てください。そして、ヨブは自分のすべてを捨てて逃げ、身を守り、上着さえも捨ててサタンに投げ捨て、神を冒涜する言葉を口にすることもなく、心でも口でも主の前で不平を言うこともなく、それどころか主を賛美してこう言った。「主は与え、主は取られた。主の御心にかなうとおりになった。主の御名はほむべきかな」(ヨブ記1章21節)。ヨブは多くのものを得たと思われていたが、主が彼を試されたとき、ヨブは神以外には何も得ていなかったことがわかった。同様に、アブラハムも主から「その地、その親族、その父の家から出て行け」(創世記12章1節)と命じられたとき、いわばすぐに自分のすべてを捨てて、つまり祖国、土地、親族、両親を捨てて、主の言葉に従った。そして、妻を奪われ、異国の地で暮らし侮辱を受けた時など、数々の試練と誘惑に遭った時も、アブラハムはあらゆる状況において、何よりも神だけを愛していることを証明しました。そしてついに、約束どおり、長年の時を経て、待ち望んでいた一人息子が生まれた時、神がこの息子を自ら進んでいけにえとしてささげるようにと命じた時、アブラハムは身の回りのものを全て捨て、真に自己を否定しました。一人息子をささげることによって、彼は神以外には何も愛していないことを証明したのです。息子をこれほど喜んでささげたのですから、残りの財産を全て捨てて貧しい人々に分け与えるように命じられたなら、なおさら喜んで、熱心にそうしたことでしょう。主に対する完全で自発的な愛の義が、今、あなたに分かりますか。 13. 同様に、これらの義人たちと共に相続人となることを望む者は、神以外に何も愛してはなりません。そうすれば、試練に遭った時に、主への愛を完全に保ち、役に立ち、巧みに行動することができるでしょう。常に自発的に唯一の神を愛し、世俗的な愛をすべて捨て去った者だけが、この戦いを最後まで耐え忍ぶことができるのです。しかし、そのような愛を受け入れ、世俗的な快楽や欲望をすべて捨て、悪魔の反逆と誘惑に寛大に耐えた者はごくわずかです。多くの人が川を渡る際に水に流されてしまうので、あらゆる種類の世俗的な欲望と悪霊の様々な誘惑という濁った川をうまく渡れる者がいないのではないでしょうか。海に隠れた多くの船が波に沈められてしまうので、誰もこの深淵を渡り、波の上を歩いて、平和な港にたどり着くことができないのではないでしょうか。このため、常に大きな信仰、寛大さ、努力、忍耐、勤勉、あらゆる善きものへの渇望、速さ、粘り強さ、慎重さ、そして思慮深さが求められる。多くの人は、努力も苦労も汗も流さずに天国に到達したいと願うが、それは不可能である。 14. 世の中には、収穫期やその他の時期に、金持ちのところへ働きに来て、自分たちの食糧に必要なものをもらおうとする人々がいます。しかし、中には怠惰で無為な者もいて、他の人のように働かず、働くべき働きをせず、金持ちの家で苦労して働くこともなく、すでにすべての仕事を終えたかのように、忍耐強く、迅速に、そして全力を尽くして働く人々と同等の賃金を得ようとします。同様に、私たちも聖書を読んで、ある義人がいかに神を喜ばせ、いかに神の友となり、神の対話者となったか、あるいはすべての先祖がいかに神の友となり、神の相続人となったか、彼らがいかに多くの悲しみに耐え、神のためにどれほど苦しみ、いかに多くの勇敢な行いと偉業を成し遂げたかを知ると、彼らを祝福し、彼らと同等の賜物と尊厳を与えられることを願います。私たちは、彼らの労苦、苦闘、悲しみ、苦しみだけを捨てて、それらの栄光ある賜物を切望し、彼らが神から受けた栄誉と尊厳を熱心に得ようとしますが、彼らの労苦、苦闘、苦闘を自分自身に負おうとはしません。しかし、私はあなた方に言います。すべての人がこれらすべてを望み、切望しています。淫行者、徴税人、不正な者でさえ、労苦や苦闘なしに、このように容易に王国を得たいと願っています。このため、道には誘惑、多くの試練、悲しみ、苦闘、汗が流れています。それは、真に、全意志と全力を尽くして、死に至るまで唯一の主を愛し、そのように主を愛するゆえに、自分自身のために他に何も望まない人々が明らかになるためです。それゆえ、彼らは主の言葉に従って自分を捨て、息よりも主を愛したので、真に天の王国に入るのです。したがって、彼らの崇高な愛に対して、彼らは天からの素晴らしい贈り物で報われるでしょう。 15. 悲しみ、苦しみ、忍耐、信仰の中に、約束と栄光と天の祝福の計画が隠されています。それは、地に投げ込まれた麦の粒の中に、あるいは傷や屈辱を経て接ぎ木された木の中に、実が隠されているのと同じです。そして、衣の美しさと栄光と幾倍もの実を持つ人々が見いだされるのです。使徒が言うように、「私たちは多くの苦難を経て天の御国に入らなければならない」(使徒言行録14章22節)のです。主は言われます。「あなたがたは忍耐によって自分の魂を保つであろう」(ルカ21章19節)また、「この世ではあなたがたは苦難がある」(ヨハネ16章33節)のです。地上のあらゆるものへの欲望から解放され、快楽の罠や網、世の苦難、悪霊の反逆から逃れ、聖徒たちがこの世でどのような節制と信仰と愛の速さで天の宝、すなわち彼らの魂の中に王国の保証となる霊的な力を得たのかを正確に知ることができるように、主への祈りには勤勉、熱心、節制、細心の注意、速さ、そして粘り強さが求められます。祝福された使徒パウロは、この天の宝、すなわち聖霊の恵みについて語り、悲しみの多さを描写し、同時に各人がこの世で何を求め、何を得る義務があるかを示して、こう言っています。「わたしたちは、もしこの地上の家が壊されても、神の建物、人の手によらず天にある永遠の家を持っていることを知っています」(コリント第二 5章1節)。 16. それゆえ、すべての人はあらゆる徳において成功することによってこの神殿を獲得するために努力し、それがここで獲得されると信じなければなりません。なぜなら、もし私たちの肉体の神殿が破壊されたなら、私たちの魂が繁栄できる他の神殿はないからです。「着物を着せられて裸で見いだされない限り」(コリント第二 5章3節)、つまり、忠実な魂が安息を見いだせる唯一の存在である聖霊との交わりと一致を奪われない限りは。それゆえ、真に力強いキリスト教徒は、この肉体を離れ、この「手で造られたものではない神殿」を持っていることを固く希望し、喜びます。そして、この神殿は彼らの内に宿る聖霊の力です。そして、肉体の神殿が破壊されたとしても、彼らはそれを恐れません。なぜなら、彼らは天の霊的な神殿と朽ちることのない栄光を持っており、復活の日にそれが肉体の神殿を建てて栄光を与えるからです。使徒が言うように、「キリストを死者の中からよみがえらせた方は、私たちのうちに宿る御霊によって、私たちの死ぬべき体をも生かしてくださいます」(ローマ8章11節)。また、「イエスの命が私たちの死ぬべき肉体に現れるため」(2コリント4章11節)、「死んだものが、命によって飲み込まれるために」(2コリント5章4節)とも言われています。 17. ですから、信仰と徳のある生活によって、この衣を身にまとうよう努めましょう。そうしないと、肉体を身にまとっていても、裸でいるところを見いだされ、その日には私たちの肉体は何の栄光ももたらさないでしょう。信仰と勤勉によって、聖霊にあずかるにふさわしいと認められる人ほど、その日にはその人の肉体も栄光を受けるからです。魂が今、その内なる宝庫に蓄えているものは、その時、肉体の外にも明らかにされ、顕現されるでしょう。ちょうど木々が、冬の後、太陽と風の目に見えない力によって、衣服のように温められ、葉や花や実を出し、同時に、野の花も地の奥深くから咲き、地と草はそれらで覆われ、覆われます。それは、主が「ソロモンでさえ、その栄華のすべてにおいて、これらの花の一つであったため、それらを身にまとってはいなかった」(マタイ6章29節)と言われた百合の花のようです。これらすべては、復活の日におけるキリスト教徒の模範、姿、そして似姿となるものである。 18. ですから、神を愛するすべての魂、すなわち真のキリスト教徒にとって、クサンティコス(Xanthicus)の第一の月、すなわち4月があり、これは復活の日です。この日には、義の太陽の力によって、聖霊の栄光が内側から現れ、聖徒たちの体を覆い、彼らが魂の中に隠していた栄光をまとうでしょう。魂が今その内に持っているものが、その時、体の中に現れるのです。この月は、「一年の最初の月」(出エジプト記12章2節)であり、すべての生き物に喜びをもたらし、大地を開いて裸の木々に衣をまとわせ、すべての動物に喜びをもたらし、すべての人の間に喜びを広げます。キリスト教徒にとって、クサンティコス月の最初の月、すなわち復活の時が訪れます。この時、彼らの体は、まだ内に秘められている言い表せない光、すなわち聖霊の力によって栄光に輝き、その光こそが彼らの衣服、食物、飲み物、喜び、歓喜、平和、装束、そして永遠の命となるのです。彼らが今授けられた神性の霊は、天上の輝きと美しさそのものとなるでしょう。 19. それゆえ、私たちはそれぞれどの程度まで信じ、努力し、あらゆる面で徳のある生活を送るよう努め、天からの力と聖霊の栄光を魂の中に受け入れるにふさわしいと認められる日を、確信と大きな忍耐をもって待つべきでしょうか。そうすれば、肉体が滅びた後、私たちを覆い、活力を与えるものを持つことができるのです。「ただ身を覆っていれば、裸で見つかることはない」と言われているように、「私たちの内に宿る御霊によって、私たちの死すべき肉体を生き返らせてくださる」のです。祝福されたモーセは、誰も見ることのできないほど顔を覆った聖霊の栄光の中で、義人の復活の時に、聖人の肉体が、聖人や信者の魂が今なお内なる人の中に持つにふさわしいと認められている栄光でどのように栄光を受けるかというイメージを私たちに示しました。なぜなら、「私たちは皆、覆いのない顔、すなわち内なる人によって主の栄光を仰ぎ見て、栄光から栄光へと、同じ姿に変えられていくのです」(コリント第二 3章18節)とあるからです。モーセは、「四十日四十夜、パンも食べず、水も飲まなかった」(出エジプト記 34章28節)と記されていますが、肉体がパンなしでこれほど長く生き延びることは不可能でした。それは、他の霊的な食物を摂取していたからに他なりません。そして、聖徒たちの魂は今もなお、目に見えない形で御霊からこの食物を摂取しているのです。 20. それゆえ、祝福されたモーセは、真のキリスト教徒が復活の時にどのような光の栄光と聖霊の知的な喜びを得るかを、二つの方法で私たちに示しました。これらの奥義は今すでに与えられており、その時、彼らの肉体にも明らかにされるでしょう。なぜなら、すでに述べたように、聖徒たちが今魂に持っている栄光は、彼らの裸の肉体を覆い、着物としてまとわせ、天に引き上げられるものと同じだからです。そしてその時、私たちは肉体と魂の両方において、王国で主と共に永遠に安息を得るのです。神はアダムを創造されたとき、鳥のような肉体の翼を彼に与えず、聖霊の翼、すなわち復活の時に彼に与え、聖霊が望むところへ彼を持ち上げ、運ぶ翼を用意されました。これらは、聖徒たちの魂が、その心の中で天の知恵へと舞い上がるために、今すでに与えられている翼なのです。キリスト教徒は、異なる世界、異なる食卓、異なる衣服、異なる喜び、異なる交わり、異なる考え方を持っています。それゆえ、彼らはすべての人よりも優れているのです。そして、これらすべての力は、聖霊を通して彼らの魂の奥底に今すでに与えられています。ですから、復活の時、彼らの肉体もまた、永遠の霊的な祝福を与えられ、彼らの魂がすでに経験した栄光にあずかるでしょう。 21. それゆえ、私たち一人ひとりは努力し、勤勉にすべての徳を実践し、主を信じて祈り求めなければなりません。そうすれば、内なる人が今この瞬間にもその栄光にあずかり、魂が聖霊の聖さにあずかり、悪徳の汚れから清められて、復活の時にも、復活した裸の体を覆い、その恥を覆い、天の御国で永遠に生き返らせて安息を与えることができるからです。聖書によれば、キリストは天から来て、アダムのすべての部族、すなわち世々眠りについたすべての人々を復活させ、彼らを二つに分け、ご自身のしるし、すなわち聖霊の印を持つ者たちを、ご自身の 右の手に置き、ご自身のものとして召されるからです。主はこう言われます。「わたしの羊はわたしの声を聞く」(ヨハネ10章27節)。「わたしは自分を知り、またわたし自身もわたしを知っている」(ヨハネ10章14節)。そして、彼らの善行のゆえに、彼らの体は神の栄光に覆われ、彼ら自身も、今彼らの魂に宿っていたのと同じ霊的な栄光に満たされるでしょう。こうして、神の光によって栄光を与えられ、天に引き上げられ、「空中で主にお会いする」のです。聖書に記されているように、「私たちはいつまでも主と共にいる」(テサロニケ第一4章17節)のです。そして、主と共に永遠に統治するのです。アーメン。 :::[[50の霊的講話/講話5#講話5|先頭に戻る↑]] {{DEFAULTSORT:50のれいてきこうわ05}} <!--[[Category:1880年]] [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教の歴史]]--> [[Category:キリスト教神学]] [[Category:マカリオス]] [[Category:50の霊的講話|05]] {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- モスクワ神学アカデミー訳、Духовные беседы (1–50) の講話5を翻訳。 --> qm0l0l6c5ntl6wet8bwfxstbv1r22d4